人を好きになる。それはどういうことなのか。

 それを教えてくれる人がいる。そんな幸せがここにある──。


きみが教えてくれる「好き」



「映画を見に行かないか?」

 試験休みを利用して、一日映画館を梯子しようと、先日、赤池章三は八津宏美に誘われた。

 映画好きの仲間との鑑賞は、意見や感想を交わせるので楽しみが倍増するし、以前、八津と一緒に見に行った時もあれこれ映画についてコメントし合っておもしろかった。
あの有意義な時間を思い出して、その魅力的な誘いに章三はふたつ返事で了承した。

 そして、今に至り、ふたりは麓の街に向かうバスに揺られている。

「インディーズものでさ、雑誌の紹介記事読んだら、ちょっと気になったのがあったんだ。
だから赤池が良かったら、それも候補に入れてほしいな。赤池の趣味に合うかはわからないんだけど」
「まあ、たまにはいいんじゃないか?
大作の派手さはないだろうが、本当の映画好きにしかわからないおもしろみを見つけるのも楽しそうじゃないか」

 そう言ってくれると助かるよ、とホッとした表情を向けてくる八津の映画の趣味範囲はとても広い。
この友人の目の付け所は興味深く、章三は勉強させられることが多かった。

 ところが、そんな自分の殊勝な心を踏みにじるように、
「オカルトとかホラーならオレはパスする。ふたりで見て来いよ」
金髪紛いの明るい頭髪を風になびかせながら、うしろの席から口を挟んでくる派手な風貌の男がいる。

「おまえの好みは訊いてない」

 祠堂一のサラブレッドとして名高い、無二の親友、崎義一。通称、ギイ。
この男がいなければ、もっと楽しい一日になったかもしれない。

──いや、別にギイが一緒に来るのは構わないんだ。ただし、ギイひとりだけならば。

「託生、おまえ大丈夫そうか?」
「うん、えっと……」

 ギイの隣席には、当然のように葉山託生が座っていた。

「おい、僕の話をちゃんと聞けよ」
「とにかく、託生が苦手そうなら、オレは託生と別のヤツ見てるからさ」
「確かSFだったよね? だったらぼくでも大丈夫かも……」

「おまえがいいならオレはいいけどさ」
「そんなことなら最初から別行動すればいいじゃないか。
誘ったわけでもないのに勝手についてきたのはそっちだろう」

「冷たいな、章三。固いこと言うなよ」

 どうどう、とギイが肩を叩いてくるから、「僕は馬じゃないぞ」と言ってやった。

「ギイがよくてもこっちはよくない。デートはほかでやってくれ」と文句のひとつでも言ってみたところで、これまた、「四人でデートってのもたまにはいいだろ」とギイは軽く流してくださるし、もう勝手にしてくれ、と結局はこうなってしまうのが関の山。

 片(かた)や、託生と八津のふたりは、楽しそうにおしゃべりに花を咲かせている。
聞けば、今日の映画の話題だ。これならばバスの中でもとても有意義な時間が過ごせるだろう。
ぜひとも自分もそちらの話に入りたい、と章三は心底願った。

「SFっていうか、超能力の話らしいんだ。人の寿命をオーラの色で見分けるんだって」
「へえ。寿命がわかっちゃうんだ……。何だか怖いね」
「そうなると、サスペンスっぽい要素もあるのか?」

「かもね。でも興味深いのは、そのオーラを見わけるのが犬だってとこだよ」
「え? 犬? それは意表を突いた話だね」

 託生もどうやら今日見る予定の映画に興味を抱いたらしい。

「ま、怖くなったらオレがいるから。いつでも抱きついてくれていいからな、託生」

 そのギイの言葉に肩を竦めるようにして託生は微笑むと、心なしか身体を小さくして深く座りなおした。

「おい、ギイ。いい加減にしろ」

 託生は世間一般の羞恥心を持っていて、一応、しおらしい態度を見せてくれる。
章三の溜飲も下がるというものだ。

 だからあとは、この浮かれ男を何とかすればいい。

「何が抱きついてくれていいから、だ。ここをどこだと思ってるっ!
葉山も葉山だ。ギイのしつけはちゃんとしてけよ」

 一から十まで世話を焼く義理など自分にはない。
そっちはそっちで何とかしてくれ、と当事者に振るのが妥当な線だろう。

 だが、本来、頼りにすべき託生のはずなのに、
「そんなのぼくに言われても……。だってギイはぼくの言うことなんて聞かないし」
そんな心もとないことを言って来て、それこそ、そんなこと言われてもこっちが困る、と愚痴りたくなってしまう。

──何でもいいから、とにかく僕を頼ってくれるなよ。

 ギイの尻拭いくらいおまえがしとけ、と章三は内心吐き捨てながら、ここはやはりこいつに頑張ってもらわないと、と章三にしては最大限の笑顔で返して、
「そんなことはないだろう? おまえが本気で抗えば何とかなる」
少しだけ託生の虚栄心をくすぐってやった。

 案の定、「そんなものかな」と託生が食いついてくる。

──ちょろいな。まあ、精々頑張ってくれ。

 暴走するギイをどうにかできるものならば、この際、どんな藁にでも縋ってみせよう。

 章三は満足げに笑った。

 だが、そんな章三の気苦労はいつまでも報わることはなかった。
その原因は、すべてこの男にある。

「まあ、抗ってる託生もかわいいけどな」
「……おまえは少し黙ってろ、ギイ」

 どうしてこのふたりが気が合うのか。
たまに今でも、章三は不思議に思う時がある。

 ギイが「最愛の恋人」と言って憚らない葉山託生は、ギイとは正反対の人間と言っても過言ではない。
派手なギイに対し、地味な託生。
人の輪の中心にいるギイに対し、ひっそり離れたところから様子を伺う託生。
祠堂の七不思議に加えてもいいのではないかと章三が思うくらいには、誰もがこの組み合わせを異色と見るだろう。

 その上、これまた不思議なことにこのふたり、どちらかといえば、ギイのほうが託生にご執心なのだ。

 あからさまに恋人の権限を行使して、堂々とところ構わずイチャイチャしまくってくださった昨年の苦い記憶を思い出すたびに、章三のこめかみはピクピクと疼く。
何度、章三がギイを諌めても、始終、馬耳東風の姿勢を貫かれて、あの一年間は風紀委員長の威厳も形無しだった。
本当に口惜しい思い出だ。

 だが、この春、三年に進級してからはギイも態度を改めることにしたようで、ギイは一応、暑苦しいまでの愛情表現を極力控えるようにしている。
ただし、「表面上、他人の前では」の限定付きで。

 ふたりの関係を周囲に隠す──。

 春先にギイが考えたその案に、章三は当初、賛同した。
が、しかし、正直なところ、今は少し後悔している。

 ギイが託生と大手を広げて仲良くできなくなるとしても、ふたりは付き合いをやめるわけではない。
その連絡係として、ある程度は自分に余波が向かってくることを、ギイの話を聞いた時、章三はさすがに覚悟した。
だが、まさかこれほどとは思わなかった。

 毎日、いや、へたすりゃ休み時間ごとに何かと伝書鳩のような役目をさせられるわ、幼稚園児のお受験じゃあるまいし、どこに行くにも付き添いを頼まれるわ。
はっきり言って、やってられない。

「おまえら、いちいち僕らの周りをうろつくな。
映画を見に行きたいのなら、ふたりで勝手に行けばいいだろう。
そのくらい、同級生同士、誰でもしてることだぞ」
「そうはいくか。今日は街に下りる生徒が多いんだぞ。
仲良く手を繋いでるとこなんぞ無駄に見られてたまるか」

 おい、手を繋ぐのかよ、と章三は溜息をついた。
隠したいのなら、手など繋ぐな。

「ヤマシイことをしなければいいだけだろう?」

 そう諭してみたところで。

「託生とふたりっきりになってオレが我慢できると思うのか?
おまえ、オレの相棒だろう? 協力してくれてもいいじゃないか」

 ギイはモテるくせに愛情を分散する気はないようで、託生一筋を貫いている。
相手が同性ということを除けば、純愛一直線のギイの姿勢は羨ましさすら覚える。

 普段は冷静沈着なくせに、託生が関係すると一変するギイ。
ギイが年中発情期になるほど託生にのめりこむとは、ギイの想いを知った頃は想像だにしなかった。

 それが今では慣らされてしまって、さすがの章三も心持ち、いや、すでに半分以上諦めている。
慣れとは本当に恐ろしい。

 本来ならば始終ベタベタしていたいのに、事情によりそうもいかないから、ギイの鬱憤は溜まる一方だ。
だが、それを章三にぶつけられても困るというものだった。

 こんな時、章三は、つくづく自分はこの相棒に甘いと感じ入る。

『頼む、章三。オレ、もう限界だ』

 そんな嘘泣き紛いの泣き落としをされて、結局今回も何だかんだと言って一緒に街に下りることを認めてしまった。

 託生とのふたりきりでの行動は、いかにもなデートになってしまうからそれはまずい。
けれど、面子を増やせば、託生と一緒にいようが、当然それはグループ行動になるので、ふたりが一緒にいても余裕で許される。
そんなギイの都合で塗り固まった言い訳つきで、「託生とデートがしたい」と相棒に悲愴な顔で泣きつかれるのは今更のことで。

「何で僕がこんな目に……」

 知らず知らずぼやきが零れてしまっても、章三を咎める人はいないはずだ。
いや、いてたまるものか。

──ギイの厚顔には恐れ入るよ。よくもまあ、僕の前で平然としてられるものだな。

 普段なら、このふたりが一緒にいることにこれほど目くじらを立てたり呆れたりする章三ではない。
特に今日に限って、やってられるかと吐きたくなるのは、昨夜、ほんの目と鼻の先で、ふたりの仲を見せ付けられたからだ。

 それは、ギイからの「託生に会いたい」という伝言をたずさえて、託生とふたりで三階ゼロ番に赴いた矢先のことだった。
部屋に一歩足を踏み入れた途端、あろうことか、この相棒は、章三の目の前で託生にディープキスをかましてくださった。

 まさか突然そんなことになるとは思わなかった章三は唖然として、同級生ふたりの濡れ場をまともに目にする羽目になってしまった。
びっくりしたのは託生も同様だろう。
突然、虎に襲われたネズミの気分だったに違いない。

 ギイの余裕なさに託生も最初はどうしたらいいのかわからなかったのか、最初のうち、素直に流されてしまっていた。
しかし、横から突き刺すような殺気を感じたのだろう。
章三のほうを見た途端、正気を取り戻して、途中からは本気で手足をバタつかせていた。

 託生のその慌てざまを見れば、どれだけ自分が鬼の形相をしていたのかが想像できるというものだ。

 その恋人の本気の抵抗に、「オレを拒絶するなよ」と寂しそうに表情を歪めるギイは、文句なしに確信犯だ。
章三が、「おい、僕がいるんだぞ。少しは羞恥心を持てよ」と諌めたところで、託生欠乏症に患っていたギイは、臆面もなく、「恋人に手を出して何が悪い」と見事に言い切ってくださった。

 ギイはいつも、章三のことを空気か何かと間違えている。
本当に迷惑極まりない。
この件に関しては、ぜひとも無二の親友に改善してほしいところである。

 そんなこんなの昨日の今日で、ギイに甘い顔などできるわけがない。

 男同士の恋愛はやっぱり間違っていると章三は思っているし、本来ならば理解も協力も口出しもしたくはない。
ギイに甘い自分を認めたくない章三であるが、相棒と友人のアヤシイ関係を結局は応援してしまっている事実は歪められない。

 哀しいかな、章三の憂いは増えるばかりで、尽きる予定は生憎なかった。

 窓の景色に変化が訪れた。
急に樹木が切り開いて、視界が開けた。

「街が見えるぞ」

 バスからの車窓をギイは始終楽しげに見やる。

 そんなギイに託生は、しょうがないなあとでも言いたげな、でもそれは呆れているというよりは愛しくて仕方ないとでも言わんばかりの、そんなあたたかな視線を向けて、「こら、ギイ。ぼくらはおまけなんだからね。おまけはおまけらしくてないと」と形ばかりの叱咤を落とした。

「赤池くん、ごめんね。八津くんも。でもぼく、インディーズものって初めてだから、今日は楽しみなんだ」

 そう言って、はにかまれてもこっちが困る。

 本当ならば、ここでどうしてはにかむ?と章三は思わず突っ込みを入れるところだが、ギイのじっとこちらを見つめてくるその意味深な視線を感じて、今は何も言うまいと心に決めた。

「もういい。葉山。とりあえず、おまえはギイを抑えとけ」
「え? ……あ、うん」

 章三の言葉に俄然機嫌を良くしたギイが、にっこりと極上の笑みを浮かべて、「さすがオレの相棒」と合いの手を入れてきたが、それを章三はしれっと無視を決める。

「託生、映画見ながら、ポップコーン食べような」
「うん」

「早く着いたら珈琲でも飲もうか」
「あ、いいね」

 ギイが話しかけてくると、託生は無邪気とも単純とも言いがたい表情を浮かべて、微笑み返した。
それを見て、ギイが内心、じーんと感動しているであろうことが安易に想像できてしまって、章三はそれをまたまた苦々しく思いながら、「もう勘弁してくれ」とこめかみを指で押さえた。

──久しぶりの葉山との外出だからって、浮かれるのもいい加減にしてほしい。

 そのギイの一心の愛を捧げられる側も大変だろう。
幸運(?)と同時に根性と忍耐も降りかかっていると思うのは自分だけだろうか。

 この相棒は、今は隠しているとはいえ、普段、託生への愛情をみなぎらせることに意義を感じている節がある。
自分の心を周囲に見せ付けるような明確な表現でもって、まるでアメリカ映画の一場面のように愛とは何かを示すのである。

 ここは日本だ、とこれまで何度口を酸っぱくして注意したことか。
わかってるさ、と言われても、わかってないから言い続けているのだと、ギイは本当にわかっているのだろうか。

 そんなギイの公正明大な「愛してるぞー、託生」的態度に対して、託生の反応は、照れるか、恥じるか、怒るか、困るか、そのあたりになる。
まあ、この反応は章三の理解範囲内なので許されるものだ。
それがまだ章三の救いでもある。

 たまにギイと一緒に歩くのを嫌がるような素振りを見せたりもして、託生なりにその心境は複雑なのかもしれない。

 だが、それは当然だろう、と章三は思う。

 ギイの外見の威力はたいしたもので、ギイを初めて見た者は、男女の性別関係なしに大抵、一瞬ギョッとした目をギイに向ける。
どんぐり眼で顔の筋肉をカチンと固める者もいるし、お化けでも見たような怪訝さで、じっと目を凝らす者もいる。

 とにかく、ギイに付随する派手なバックグラウンドと並べても遜色ないほどの抜群のその容貌とスタイルの良さは、そこにいるだけで華があって、異彩を放っている。
天はよくもこの男に二物も三物も与えたものだと思う。

 良くも悪くも、あれだけのトクベツな存在感だ。
ギイの一挙手一挙足に目が離せなくなる輩の気持ちもわからないわけではない。

 けれど章三は、たまに周囲の人間に同情を感じてしまう時がある。

──ギイはギイで、その外見が引き起こす効果を十分に知り尽くしているから始末に終えないんだよな。

 そうなのだ。
眼福と言っても過言ではないその華美な容姿に無頓着なわりに、ギイに自覚がないわけではない。
そこら辺中に影響力を振りまいていることも、四方八方から見られていることも、ギイはすべてわかっている。
その見栄えの良さを凶器にして、相手を寄せ付けない非情さもギイは合わせ持っているし、使えるものは自分の外見すら有効に使う。
だから、手に負えない。

 スポットライトを浴びたような、そこだけ光が当たっている印象を周囲に与えるギイの外見。
外見だけでも周囲に与える威力は相当なのに、ギイという人間が動いて、表情を作った時には破壊力は無限大となってしまうから、これまた扱うのに困ってしまう。

 その存在感ありまくりのギイと一緒に行動するということは、我が身も必然的に誰かの視線に晒されるわけで、ある意味、本当に迷惑な千万な相棒だと思う。

 その相棒が、今はやけに静かにしている。
と、思ったら、後方で何か話し声がするのが聞こえた。
ギイの声がこちらまで漏れ聞こえてくる。

 また自分の悪口でも言っているのだろうと、章三が耳を澄ませてみれば……。

「ほら、託生。新緑が綺麗だぞ。きらきら輝いて、まるで今日を祝福してくれてるみたいだ。
オレとおまえの久しぶりのデートだもんな。お日さまだってこの通り、行く先々を見守ってくれてる。
緑のトンネルを抜けたら、きっと楽しい時間が待ってるぞ。
映画館で手を繋ごうか? 何だよ、嫌なのか? 大丈夫だって。誰にもわかりゃしないって。
みんな、映画に夢中でオレたちなんか目に入らないさ。
キスもしような。え? ヤダ? そんなに恥ずかしがるなよ。な、いいだろう?」

──アホか。いいわけないだろう。

 章三は眉間に青筋が出てしまうのが止められなかった。

「……ゴホン」

 わざとらしい咳に、こそこそ話がぴたりと止まった。

──くだらないことを僕に聞かせるな。ギイのやつ、ホントに調子に乗りすぎだ。

 重ねて言うが、ここは公衆の場である。
朝からバスの中でイチャイチャするな、と本当ならば思いっきり怒鳴りたいところをこれでもぐっと我慢しているのだ。

 なのに、漏れ聞こえてくるのは……。

「駄目だよ。ギイったら、こんなとこでよしてよ。みんなに聞こえるよ?」
「大丈夫。オレ、ナイショ話得意なんだ」

 こんな会話ばかりである。

「でも、駄目だって」

──そうだ、葉山、もっと抵抗しろ。ギイを諌めろ。この際、ガツンと言ってやれ。

 そんなふうに章三の心の中で大型台風並みの嵐が吹き抜けている中、八津が後部座席を少しだけ振り返るようにして、「ねえ、ギイって結構、お茶目だったんだね」とくすくすと笑った。

「お茶目なんてそんなかわいいもんじゃない。あれはただの節操なしだ」
「でも、赤池とギイっていいコンビだよ。お笑いコントしてるみたいで最高だ」

「どこがだ。笑えない冗談はよせよ」

──まったくみんな、僕を何だと思ってるんだ。冗談じゃない。

 章三はこめかみに血管をピクピク浮かべながら、「葉山、頑張れ。おまえだけが頼りだ」と何度も舌を転がすように、道中ずっと念じ続けた。

 目指す街は、もうすぐ目の前まで迫っていた。





 映画を見終わり、食事をしに外に出た。

 インディーズというから、章三は正直、あまり期待していなかったのだが、期待していなかった分、意外とよかった。

 現代物の設定は、コストを抑える点で充分有効だが、単調になりやすい。
だが、この作品は、カメラワークに工夫をしていて、観客は登場人物の立場になって見ることができた。
脚本もよく考えられていた。何しろ出だしから観客に、「さあ、当ててみろ」と問いかけてくるのだ。
今回の映画は、最後まで観客を飽きさせない。まさに、そんな一品だった。

 歩きながら、ああだこうだとお互い映画の感想を言い合って、四人して余韻を充分味わう。

 託生が、「あの占い師はどこまでわかってたんだろう」と口にすれば、すぐさま、「占い師が言ったあの言葉がどこで活きて来るのかが映画の争点なんだよね」と八津が返した。

 章三は、映画のストーリーを改めて振り返ってみた。

 その物語は数十年にわたるひとりの男の人生の軌跡を辿っていた──。





 映画は、テレビ番組のスタジオに占い師が登場するところから始まった。

 ひとりの占い師を囲んで、タレントたちが和気藹々とおしゃべりしている。
そんな生放送の本番中に、アイドルグループ『比叡』の一員であるイツキは、
「あなたはこれから運命の出会いをします。その出会いはあなたを幸せに導くでしょう。
ですが、何を幸せとするかはあなた次第。
私が言えるのは、その出会いがなされたら、あなたは幸せを選ばなくてはならなくなるということだけです」
占い師に突然、そう言われた。

 周りの出演者たちの反応はまずまずだった。
幸せな出会いが待っているなんて、と羨ましがられながら、イツキはその日の番組収録を終えた。
だが、イツキにはすでに若手女優の恋人がいたので、これから運命の出会いをすると言われても困るだけだった。
恋人と並んで立てば、美男美女として目立ったし、恋人はイツキにゾッコンだったから、イツキは恋人との付き合いに不満はなかった。

 その放映後、しばらくしてから、イツキたちが交際を発表すると、「人気沸騰中のふたりの純愛」ともてはやされ、お似合いですね、とみんなから声をかけられた。
順風満帆な生活にイツキはとても満足していた。

 そしてその三年後、アイドルの人気とは一過性のつむじ風みたいなものだとイツキは気付いた。
その頃になると、『比叡』の人気は衰え、仕事もあまり入らなくなっていた。
デパートの屋上でのイベントが一週間ぶりの歌の仕事という現状の中、今後の身の振り方をどうするか、メンバーたちは口論する。そんな日が耐えなかった。
売れなくなった元アイドルの価値は、床の隅に転がっている空き缶のようなものだ。
続々と自分たちよりずっと年下の少年たちがデビューしてゆくのを尻眼に、「どうせおまえたちもいつかはこうなるのさ」と負け惜しみを吐くくらいしか、イツキたちにはできなかった。

 仕事のない元アイドルの生活は貧しい。
プロダクションの事務仕事も手伝ったが、デビューを目指す少年たちが事務所に顔を出しに来て、「イツキさんですね。僕、ファンだったんです」と笑顔で挨拶を受けるたび、屈辱と回顧の念にイツキは囚われた。

 好きな人ができたからと言って、恋人も去っていった。
噂で、新しい彼氏は売れっ子プロデューサーらしいと聞いた。
別れ間際に、「元アイドルでしかないイツキになんて魅力も価値もなくなったわ」とまで言われたイツキは、あれだけ好きだ好きだと言っていたくせに、と元恋人の調子良さに唾を吐いた。
あの別れの日、「だったら俺のどこを好きになったんだ」とイツキは訊いてみたが、彼女は訊かれたその意味すらわからなかったようだった。
「みすぼらしい男とは歩きたくないの」と、ただ嫣然(えんぜん)と笑った元恋人の顔だけは相変わらず綺麗だったことがイツキの癪に障った。

 だが、世間に忘れかけられていたイツキの存在が、再び注目される日がやって来た。
それは、『元アイドルグループ「比叡」のイツキ、脳腫瘍で緊急入院。失明の危機』のタイトルで、週刊誌の表紙を飾り、世間の同情と興味を引いたためだ。
最初のうちこそ、昼のワイドショーや雑誌の取材が舞い込んできて、イツキは励ましの言葉をたくさんもらったが、一週間後、大物タレント同士の結婚に世間が沸くと、元アイドルの闘病生活は人々の関心からそれてしまった。
世間の話題は変動が激しく、政治家の汚職や海外での災害、話題の新作映画などをニュースが報じるたびに、人々の頭からはイツキの歌声が忘れられていった。
時々、「ああ、そういえばそんな人もいたわね」と思い出す人もいたが、その後のイツキの消息を知ろうとする者はほとんどいなくなっていた。

 芸能界という煌びやかな世界では、イツキはすでに過去の人と成り果てていた。

 そして、一年間の入院生活を経た時には、イツキはすでに目が見えなくなっていた。
脳腫瘍が視神経を圧迫したためだ。
退院後は実家に身を寄せることになったが、イツキの外見は別人に成り果てていた。
アイドル時代にもてはやされた整った顔はその面影もなく、すっかり肉が逸れて、目がくぼんだように見えた。
その暗い面持ちは陰気臭く、目が見えないために動作もゆっくりとなり、初対面でイツキのことを、「比叡のイツキ」とわかるものはいなくなった。

 それでもイツキは何事にも前向きで、口を開けば、元来の陽気なイツキのままだった。
なのに、第一印象が悪いからか、イツキに話しかける人は極端に減ってしまった。

 外出する時、誰か付き添いを必要とするイツキは、当然のように家族の負担となった。
アイドル時代に稼いだ貯金はすでに底をついていたし、イツキの実家は裕福な家庭ではなかったから、手術を希望したくてもその費用が捻出できなかった。

 イツキの顔から、笑顔がだんだんと消えてゆく。

 役に立ったのは、昔、友人の顔を立てるつもりで入った生命保険だった。頼みの綱はそれだけだった。
保険会社から来た担当者は、声からすれば若い女性で、どれだけ保険で入院治療費や手術代がまかなえられるか、親身になって、必要な医療費の計算を手伝ってくれた。

 イツキの担当の保険外交員は、掠れた低い声でしゃべる女性だった。
だが、柔らかな彼女の話し方はゆったりとしてて、彼女との会話はイツキの気持ちを和ませてくれた。

まだ仕事に就いてから半年だから、不慣れな点があって申し訳ないと、彼女は会うたびによく謝っていた。
何気ない世間話をはさみながら、イツキの生活設計にたくさんのアドバイスを与えてくれる彼女には、仕事に取り組む責任感と義務感が確かにあったのだろう。
だが彼女は、優しさといたわりを織り交ぜて、時にはイツキを励まし、叱咤し、笑わせてくれた。
暗闇の中で一日中過ごすイツキにとって、彼女の口から聞ける世界の彩りはとても美しく、鮮やかで、イツキは「いつか彼女の顔を見てみたい」と惹かれずにいられなかった。

 自然とイツキと保険外交員の彼女は想い合うようになり、彼女は、「必ずイツキの病気を治してみせるわ」と言い、自分の貯金さえもイツキの治療費に当ててくれた。
だが、イツキの手術代は高額で、到底追いつけるものではなかった。

 そんな時だった。イツキと彼女は散歩の途中で、首輪をしていない犬と出会った。

「白い犬がしっぽを振ってるわ。すごくかわいいの。ふさふさしてて、やわらかそう」

 触ってみたいとイツキが頼んで、彼女は犬を呼び寄せた。
そして、イツキの手を導いて、犬の背中を撫でさせた。

 その時だった。イツキは暗闇の中に浮かぶ色を見た。ひさしぶりの光だった。
淡い青、暗い緑、ほのかに朱がかった桃色、はっきりをした白。
人を象るその光がなんなのか、最初はわからなかった。
だが、その犬を触っている時だけ暗闇から開放され、光が見られるのだ。
イツキはその犬を連れ帰り、飼うことにした。

 それからは、イツキは常にその犬をかたわらに置き、犬の目を通して、いろいろなものを見るようになった。
見えるのは空に浮かぶように光る色の塊だけだったが、それが生き物を覆うオーラのようなものだと早い段階で知ることができた。
色の濃淡や色彩が、どうやらその人の本質や寿命に関係あるようだ。

 暗く濃い色をした者は、ほとんどが高齢者だった。淡くて明るい色は子供が多い。
十代や二十代前半だと、眩しいくらいの光となる。
加えて、具合が悪そうな場所は暗く穴が空いたようなように見えた。

 散歩途中に公園のベンチに座って、犬の目と彼女の声から、目の前を通り過ぎてゆく他人の人生を思い浮かべる。
それがイツキの唯一の楽しみとなった。

 彼女の色は、生成り色の白で、落ち着いたやわらかな色をしていた。
イツキが見た色の中で、彼女の色が一番素敵に思えた。
彼女の髪が肩より長いことも、犬の目を通して、イツキは初めて知った。
彼女が笑い声を上げると、秋の日差しを浴びて、すすきの穂が透けるような白金の光を揺らすように、彼女の色もほわほわ揺らいだ。

 かわいい彼女。くすくすっと笑う彼女の声が、イツキの耳に心地よく聞こえる。
笑うたびに綺麗な色を放って、イツキは彼女の色を見るのが大好きだった。

 それに、彼女の色は彼女の寿命がまだまだ長いことをイツキに知らせてくれたから、イツキは安心して彼女のそばにいられた。

 彼女が健康なことに、イツキはほっとしながら、
「今、通り過ぎた人は全体的に薄かったけど?」
瞼の裏に浮かんだ色を思い出しながら口にする。

 すると、彼女はイツキの背中を抱き締めてきた。

 すぐ近くから彼女の声がする。

「とても高齢の方だったわ。きっと九十すぎてるかもしれない。でも、感じのいいおじいさんよ」

 彼女が声を出すたびに空気と肌が震えるのが、イツキにはわかった。
そして、その彼女の声に導かれるように、「そっか、だからかな」とひとりごちて、イツキは、だんだんと小さくなってゆくそのかすかな光を見えない目で追いかけた。

 去ってゆく老人のうしろ姿を犬もじっと見続ける。

「かわいそうだけど、あの人、近いうちに寿命が尽きるよ。
でも、死ぬ直前までしっかり自分の足で歩けるなんて、俺はすごいと思うな……」

 月日が経って、平穏な日々の終わりが来た。
イツキの主治医が早く腫瘍を取り除かなければ、このままではイツキの命にかかわると告知したためだ。
悠長に構えている時間はなかった。だが、手術を希望したくてもお金がない。
イツキは途方にくれた。

 そんなイツキに彼女は言った。

「私はあなたに生きていてほしいし、目も見えるようになってほしい。
お金はどんなことしてでも私が作るから。お願い、希望を捨てないで」

 そして彼女は、これまで以上にイツキに光の区別を求めてきた。
どの人がどんな色を纏っているか。どんな場所が黒い色をしているのか。
彼女は根掘り葉掘り訊いてきた。

 そうしてしばらくして、彼女は大金をイツキに渡して、手術を受けてほしいと頼んできた。

「こんな大金、どうしたんだ?」
「そんなことどうでもいいじゃない。あなたはこれで元気になれるのよ。
だからこれからは手術が成功することだけを考えて」

 お金の出所を、彼女は最後まで口にしなかった。
けれど、イツキには何となく想像がついていた。

 保険会社に勤める彼女だ。
犬の目を通してイツキが他人の寿命の情報を元に、彼女は不正に保険金を受け取ったのかもしれない。
でも、彼女を咎めることはイツキにはできなかった。
それよりも、生きながらえて、目も見えるようになって、彼女を幸せにしてあげたいとイツキは思うようになっていた。

 手術の日が決まってイツキは再び、入院生活を送ることになった。
毎日のように彼女が見舞いに来てくれたが、その日は特別に病院の許可を貰って、彼女はイツキの犬も連れてきてくれた。

 病院の中庭で彼女とひとときの散歩を楽しんでいた時、イツキは久しぶりに犬の背を撫でていたら、
「あの子、この間も見かけたわ。あなたと同じ、見えないみたい」
目が見えない子供が母親らしき女性に連れられてやってきたことを彼女が教えてくれた。

 病院で犬に出会うのは珍しい。
「触っていい?」と子供に訊かれて、「いいよ」とイツキは答えた。

 そして、子供が犬に触ると、ハッとしたように目を見開いて、「光が見える。明るい光が……」と呟いた。
途端、横で控えていた彼女が慌てて、「ごめんなさいね。連れて帰るわ」と言って、犬とともに帰っていった。

 手術の前日も、彼女は見舞いに来てくれた。
だが、部屋に入ってきた当初から彼女の声音は沈んでいて、幾分、躊躇したあと、「犬が死んだの。黙っていようか迷ったんだけど、やっぱり話しておこうと思って」と言って、イツキの手の甲に涙を落した。

 犬の目を通してしか寿命が見えないイツキは、犬の寿命がどれほどだったのかはわからなかった。
イツキに再び光を与えてくれた犬は、イツキにとって感謝しきれないくらいの大切な存在だった。
けれど、死んでしまったものは仕方がない。

「そっか、寂しくなるな」
「大丈夫よ、手術すれば目も見えるようになるし。きっと寂しいなんて言っていられなくなるわ」

 彼女が手を握って、イツキを勇気付ける。
そばにいた看護師に、「優しい恋人ね、お似合いよ」と褒められて、イツキは嬉しくなって、「彼女、とってもかわいいでしょ?」とのろけた。
彼女がどれだけかわいいか、どんなに優しいか、イツキが語ると、看護師はそののろけ話に呆れたように、「そうね」と言って、明日に備えて早く寝るようイツキを促して部屋を出て行った。

 だが、その夜、当直の看護師が立ち話をしているのをイツキは偶然、耳にしてしまう。

「あの患者さん、見えるようになったら驚くんじゃないの?
彼女のあの顔を見てもまだかわいいって言えるのかしらね?」

 そして翌日、手術は成功し、イツキが目を覚ますと、イツキの目には光が戻っていた。

 自分を取り巻く家族や担当医師、看護師たち。いろんな顔がイツキの視界に入ってくる。

 彼女にすごく会いたかった。
あの優しくてかわいい彼女はどんな顔をしているだろう。
元気になった自分を見て、どんなに喜んでくれるだろう。

 だが、視力を取り戻しても、彼女の姿をイツキは見ることができなかった。

「どうしてそばにいない? 彼女はどこにいるんだ?」

 イツキは家族に尋ねたが、みんな困ったような顔をするばかりだった。
そして、みんな口を揃えて、「彼女は確かにそこにいるじゃないか」とみんなが言うのだ。
最初はからかわれているのかとイツキは思った。

 けれど、家族の怪訝な視線が、イツキと、そして、人ひとり分の空間に注がれるのを見て、イツキはみんなが嘘を言っているわけではないことを知った。

 どうしてイツキにだけ彼女の姿が見えない? 声も聞こえない?
信じたくなくて、「どこにもそんな人、いないじゃないか」とイツキが叫ぶように言うと、ガタン、と物音がした。
遠ざかってゆく足音が、それに続いてゆく。
そして、たくさんの白い視線がイツキに注がられた。

 数日後、「もう会いに来ないって彼女は言ってたよ」と家族がイツキに伝えた。

「そう。なら仕方ないな」

 イツキの返事はそっけなかった。
その態度に、家族は難色を示して、どれだけ彼女がイツキのことを大切にしていたか、愛してくれていたか、懇々と話して聞かせたが、イツキは黙って聞いているだけだった。

「とてもいい子だったのに。彼女はおまえをとても好いてくれてたのに」

 家族が不憫に思っているのは、彼女のことなのか、イツキのことなのか。
イツキにはわからなかった。

 実際、イツキは彼女を嫌いになったわけでもない。どちらかというとまだ好きだ。
けれど、彼女の存在を感じられないのだから仕方がないじゃないか。

 その後、イツキはみるみるうちに健康を取り戻し、以前の美男子に戻っていった。
同時にモテぶりを発揮し出した。
病気を克服したことで自信を取り戻したイツキは、アイドル時代以上に、そこにいるだけで華がある存在感を醸し出した。
『比叡』のイツキの完全復活だった。

 誰もがイツキをもてはやし、イツキは多く視線を惹きつけた。
闘病生活を綴った本も売れ、俳優にも挑戦して、イツキは再び脚光を浴びる生活を過ごすようになった。

 そして、仕事が軌道に乗った頃、ワイドショーにゲストで呼ばれた。
おのおのがコメントを言い合うコーナーで、犬を虐待する飼い主の話題となった。
こんな事例もあるんです、と紹介された中には、河原で犬を殺していた髪の長い女の話もあった。
番組はイツキの心情を無視して、殺人未遂や保険金詐欺の話題に移っていく。
容疑者の写真をカメラが映し、事件の全容をそれぞれのコメンテーターが説明する、その繰り返し。
容疑者の写真が映し出されるたびに、イツキは、もしも捕まったのが彼女だったら、と想像してやめた。

 もう自分と彼女は関係ない。接点もない。彼女はもうそばにいない。

 イツキの生活は彼の活躍に比例して派手になり、何人もの女性たちと噂にもなった。
女優の元恋人が、またやり直したいと言って来たので、一度寄りを戻したこともあった。
ただし、イツキの人気にあやかりたいと思っての復縁だったと知ってすぐ、今度はイツキのほうから別れを告げた。

 その後も結婚と離婚を繰り返すイツキの人生を週刊誌はおもしろおかしく書きたてて、笑い種(ぐさ)にしたが、その騒がれようが、逆にイツキの存在を世間に認知させるのに役立ち、イツキは芸能界で生き残れた。

 イツキはふと思う。
今、あの犬の目で自分を取り巻く人たちを見たら、どんなふうに見えるだろうか、と。
もしも、あの犬が生きていたら、目が見えるようになったイツキであっても彼女の姿を見せてくれただろうか、と。

 そして今日も、イツキのもとにはファンレターがたくさん届く。

「いつも応援しています」と書かれた文字が、よく知った人のものとはイツキにはわからないまま、イツキはダンボールの中にそのまま捨て置いている。

 雑誌のインタビューで、「今、幸せですか?」と訊かれ、「幸せです」と答えるイツキ。

 そして、占い師は、
『幸せとは人によって異なります。何を幸せとするかはあなた次第です』
今日も誰かに未来を語っている──。





 物事の受け取り方は人それぞれだ。この映画についても然り。四人の観点はそれぞれ違った。

「問いかけるようなラストがとても印象的だったな」
「主人公の元アイドルが失明してからは、保険外交員の女性の目を通して、カメラは映像を撮っていただろ。
でも、手術が成功して、イツキが目を開けた時からはカメラはイツキの視点で撮っていた。
手術成功直後のイツキを見守っていたたくさんの人影の中に、例の彼女は絶対いたはずなんだ。
そしてイツキは彼女の顔を確かに見たんだ。
その証拠に、イツキが視線を一度落としたあと、また目線をあげたら、ひとり分の空間が出来てただろう?
彼女がどんな姿をしているのか想像させるってのは観客を引き込むにはいい効果出してるよな」
「もしも、あの場でイツキが彼女を言い当てられてたら、イツキの人生はきっと変わっていたよね?」
「その後のイツキの生活ぶりを、人生の成功者と見るべきか、転落者と見るべきか。
それは観客の見方に左右されるってことか……。なるほどね」

 見て損はなかった。そんな映画だった、と章三は思う。

 イツキは結局、平凡な幸せではなく、名声を手に入れた。
それをイツキが故意に選んだのかは不明だが、確かに、それもひとつの幸せの形なのだろう。

 だが、イツキが病魔に苦しんでいる時、イツキに優しかったのは保険外交員の彼女だけだった。
浮浪者みたいに痩せ細ったみすぼらしい姿になったイツキを、彼女だけが変わらず愛した。
その彼女の優しさをイツキは大事にしていたはずなのに、どうして彼女の存在をイツキが感じられなくなったのか。
それに彼女はどうしてイツキを諦めてしまったのか。

「罪が露見された時、彼女はひとりで被ろうと思ったんじゃないか?」
「イツキは彼女に期待しすぎてたんだよ。
すっごく可愛い子だって想像してて、でもそこにそういう子はいなくて」
「一理あるな。見えているはずなのに見ていないってことってあるだろう?
想像と違っているのが怖かったから、イツキは彼女を見えなくしたのかもしれない。
イツキのがっかりを過敏に感じ取った彼女も彼女で自分を卑下して、イツキの前から去った。
この場合、イツキの裏切りともとれるのか」
「でも、目が見えないイツキが好きになったのは、彼女の内面なのに。イツキは後悔しなかったのかな。
彼女はどんなイツキだろうと好きでいてくれたのにね」





 昼を挟んで、もう一本見ようということになった。

 アーケイドは時々、歩行者天国になるが、今日は違った。
人を避けるように車が走っていた。それも結構、速度を出している。

 抵当にぶらついていた章三たちは、いくつか店を通り過ぎながら、店前にレモンの木を植えた鉢が置いてあるイタリアンレストランの前で足を止めた。
木製の椅子にランチメニューがびっしり書き込まれた黒板が立てかけてある。
白いチョークだけでなく、赤や黄色や緑の色も使われていた。

「なあ、ここのランチセット、いいんじゃないか? デザートもついてるし」
「どれどれ。ふうん、パスタをこの中から選ぶのか。スープ、パン、ドリンク、デザート……、まあまあだな」
「じゃあ、ここにする?」

 ランチメニューが書かれた黒板を覗き込みながら、
「温泉卵の豆乳のカルボナーラ、和野菜のたらこスパゲッティ、真鯛と水菜のスパゲッティ。
どれもおいしそうだよ。それともピザを頼もうか?」
あれこれメニューを指差しながら、四人で話していると、通り過ぎてゆく通行人の視線がギイに集まるのが章三にはわかった。

 ギイのほうは気にしていないようだったが、じろじろ見られるのは章三としてもいい気持ちはしない。
こんな時は、さっさと店の中に入るに限る。

「決まりだな。だったら入ろうか」

 そう言って、ドアのノブを掴んだところで、突然、近くで、キキーッと甲高いブレーキ音がした。
と同時に、女性の喚声が少し離れたところから聴こえてくる。

「何だ?」
「何かあったのかな」
「行ってみよう」
「うん」

 先を進むと、まばらに人がざわついていた。

「まだ生きてるのか?」
「もう駄目だろ」
「嫌ねえ」

 歩道から遠目に現場を見やる人々をすり抜けてゆくと、人々の視線の先に、犬が血だらけになって倒れている。

「ギイ、犬が……」
「ああ。見ろ、後ろ足が滅茶苦茶だ」
「外傷は足だけか?」
「どうだろう。でも出血は多そうだよ」

 近寄って、ギイが、「素人判断だが、どうやら外傷は後ろ足だけのようだな」と言う。

「内蔵に損傷は?」

 章三はギイを見た。

「どうだろう。もしかしたら外傷はなくても内部出血はあるかもしれない。
内蔵破裂の可能性がないとは言えないな」

 そうこうしている間にも、犬の息継ぎはますます弱々しくなっていった。
虫の息だ、助かるまい、と判断した章三がギイに視線を向けると、ギイも同様に頷いている。
「かわいそうだけど」と呟いて、八津も俯いた。

 だが、残りの一名の見解は違った。

「病院っ! 連れて行こうっ、早くっ!」

 ほかの三人とは違い、託生はまだ諦めてはいなかった。

「この近くの動物病院ってどこ? 何してるの、みんな。急がなくちゃ!」

 犬を抱き上げて、服が汚れるのも構わずに抱え込み、早く急ごう、とギイを見上げる。

 だが、ギイはそんな恋人の頭の上に、ぽん、と手のひらを置いた。

「託生、その犬はもう駄目だ。後ろ足、見ただろう。それじゃ助かっても歩けやしない。
そいつは野良犬なんだ。首輪だってしてないだろ?
良かれと思って無理に助けたところで、この犬にとってはそうじゃないんだ。
このまま死なせてやるほうがいいのかもしれない」

 ギイの意見に、章三も八津も頷いていた。
無情と受け取られても仕方がないが、冷静になって考えれば、誰もがたどり着く当然の考えだったからだ。

 だが、その説明に託生は納得しなかった。

「それは違うよっ!」と叫んで、
「まだ生きてるんだよ? そんなのぼくらが決めることじゃない。生きようとしてるんなら助けるべきだよ」
ギイに食いかかるように言い放ち、その後、ギイが何を言っても託生は退かなかった。

 結局、ギイが、「それならとりあえず病院に連れて行こう」と折れて、そのまま四人で動物病院に飛び込んだ。

「お願いしますっ! 犬が車に轢かれたんですっ!」

 動物病院の受付ロビーには、黒いシェパードや白のチワワがいて、章三たちが入ってくると呻いた。
即座に白衣の女性がやってきて、「出血が酷いわね」と怪我の様子を伺いながら言った。

「この犬はあなたの犬なの?」
「違います。でも……」

 託生の言葉を引き継ぐように、「治療費はちゃんと払います。どうか診てやって下さい」とギイが続けた。
その助け舟に、パッと託生は顔を明るくさせて、お願いします、と頭を下げる。

 白衣の女性はその真剣な表情に少しだけ笑顔を浮かべると、「こっちに来て」と四人を治療室に案内した。

「この犬には首輪の跡があるわ。おそらく捨てられたのね」

 かわいそうに、と呟きながら、犬の怪我の状態を確認して、
「この様子だと助かるかどうかはわからないわ。診てあげるのは……それはいいのよ。
でもね、治療費のこともそうだけど、もしも助かったとしても、あなたたち、この犬をこれからどうするつもりなの?
家で責任を持って飼ってくれるのかしら? だったらいいのだけど。
もし、助けた犬をまた野放しにするつもりなら、きつい言い方になって申し訳ないけど、私は安易に助けたくないわ」
よく考えて、と獣医は四人を見渡した。

 途端、「だってそんなことしてたら死んじゃうよ」と託生が呟く。

「そう、このままだとこの犬は死ぬでしょうね。でもこの犬は野良犬なのよ。
狂犬病の予防接種もきっとしていないわ。このまま野放しにはできないのよ」

 誰かに見つかったら、きっと保健所に報告されてしまうかもしれない。
その場合、二日のうちに殺されてしまう可能性だってある。
章三は以前、飼い主に捨てられた犬の中から聴導犬になりそうな犬を探して訓練させるという報道番組を見たことがあった。
雑種や血統書に関係なく、気性が穏やかで、大きな音に動じない子犬が選ばれていた。
そして、選ばれなかった犬は期間内に引取り手が出なければ殺されてしまうのだ。

 怪我をした犬はシベリアンハスキーだった。人気が高い犬種だ。
なのに捨てられてしまうこの現状はどうだろう。
飼い主の良識を章三は問いたくなった。

 託生が思いついたように、「校内で飼えないかな」と提案してきた。
それに対して、ギイが、「一生徒が無断で飼うわけにいかないだろう」と答える。
「じゃあ、大橋先生に頼むってのは?」と託生が再び問うと、「温室で猫を飼っているんだから、犬も飼ってくれるかもしれないって? 手術が成功しても、この犬は介護がいるんだぞ。その世話は誰がするんだ? それも先生に頼むっていうのか?」とギイはまたもや言い返した。

「なあ、託生。たとえ、この犬が純血種のハスキー犬だとしても、一生懸命里親を探したところで、こんな状態じゃ新しい飼い主が見つかるとは思えない。
この犬にとってこんな状態で生かしたっていいことなんてないかもしれないんだぞ?」

 託生とギイが学校に連絡するかどうかを言い合っている間、獣医は犬の応急手当をしていた。

「しないよりはマシ程度だけど。どちらにしても手術が必要よ。でも体力が持つか、それはわからないわ。
たぶん、助からない可能性のほうが高いかもしれない。それで、どうするの? 手術する?
それともこのまま静かに眠らせてあげる?」

 尋ねられて、一瞬、四人の誰もが息を呑んだ。
助けてあげたくても本当の意味では助けられないかもしれない。
これは治療費どころの問題ではない。それとは論点が異なった。

 結局、ギイが、「助からない可能性が高いのなら、これ以上痛い思いをさせたくありません」と決断を下した。

「そうね。私もそれがいいと思う。このまま安らかに眠らせてあげましょう。この子はよく頑張ったわ。
最後にあなたたちに会えたことは、この子にとって幸運だったわね」

 そして、そのあと十分もしないうちに、犬の容態が急変した。
キュン、と一声鳴いたあと、どんどん息がか細くなって、そのうち二度と目は開かなくなった。

「そんな……。急すぎるよ」

 搾り出したような声に、章三がふと託生を見ると、託生は唇を噛みながら、両の拳をきつく握り締めていた。

「この犬種は一時期人気だったけど、そのあと、捨てる人が続出したの。
社交的な犬だけど、かなり運動量を必要とするから、散歩をたくさんしなくてはならなくて。
子犬の頃のかわいいイメージだけで飼った人が多かったから、大きくなって困り果てた人も多かったようよ」

 そう言って、犬の亡骸をじっと獣医は見ていた。

「それじゃ、この子はうちで預かるわね。連れてきてくれてありがとう」

 獣医のやりきれない笑顔が、その後しばらく、章三の頭から離れなかった。





 託生の服が犬の血で汚れていることもあって、レストランなどの飲食店に入るのは諦めた。
近くのコンビニで弁当やパンやおにぎりを買って、結局、アメニティの休憩所のベンチで食べたのだが、まるでピクニックのような出で立ちなのに、気分はすっかりお通夜で、特に託生の口数の少なさが、章三は気になった。

 託生は悲しんでいた。
けれど、もしかしたら、いや、おそらく、悲しいという感情よりも怒りのほうが大きかったのかもしれない。

「ギイの言い分が間違っているとは思わない。けど、正しいとも思わない。
あの時、すぐ助けていたら、もしかしたらあの犬は助かったのかもしれないんだ。
ギイが助けたくなかったわけじゃないこともわかってる。
でも、ぼくはあの時、ああいうふうに判断したギイを認めたくないんだ。
犬の気持ちがわかるわけじゃないから何とも言えないけど。
あの犬さ、ちゃんと歩けなくても、それでも生きたいって思っていたかもしれないだろ?
最初から諦めるのはおかしいよ」

 やっと口を開いたと思ったら、託生はそんなことを言ってきた。

「葉山、そんなの今更だろ。あの傷だ。あの犬は助からなかった可能性がもともと高かったんだ。
ギイにあたるのはよせよ」
「いいんだ、章三。でもな、託生。オレは自分で間違ったことはしてないと思ってる。
価値観の相違かもしれないけど、たぶん、今日みたいなことがあったら、オレはまた同じことをすると思う。
感情に任せて行動するのは楽だ。気も晴れる。けど、それが最善とは限らない。それはわかってくれ」

「そんなのわかってるよ。でも……」
「そうだよな。託生はわかりたくないんだよな」

 四人が四人とも、すでに映画をもう一本見る気分ではなくなっていた。
だから、その日はもう祠堂に帰ることにして、四人揃ってバスに乗り込んだ。

 ギイと託生のだんまりはそのあともずっと続いて、バスから降りても、交わした言葉は、「それじゃあ」と「ああ」の別れの挨拶くらいだった。

 そのふたりのうしろ姿を見送りながら、「参るよね」と、八津が困ったように息を吐き出して、「何だか、どっちの言い分も正しいから。どっちについていいのかわからないよ」と言った。

「まあな。でもひとつだけ言えることは、あの犬は死んでしまってもういないってことだ。
それをうじうじ引き摺ってる葉山が少し気にしすぎなのさ。この場合、ギイにあたるのはお門違いなんだよ」
「へえ、赤池はやっぱりギイ寄りなわけか」

「そういうわけじゃないさ。今更何を言ったところで、あの犬は生き返るわけじゃないって言いたいだけさ」
「今更、ね……。うーん、でも本当にそうなのかな。少なくても、葉山くんはそうは思ってないよね。
彼には彼の言い分もあって、だからギイに突っかかってるんだろうから。
俺からすれば、あのギイにあれだけ言い返せるっていうか、ギイに意見できるってとこがすごいと思うけど。
だって、葉山くんだって、ギイが間違ってないってわかってるんだよ? なのに納得してなくて。
さすがに葉山くんだなって思うよ」

「まあな。それがあいつの取り柄なんだろうしな」

 一年の頃の葉山託生は、「売られた喧嘩は買う」みたいなところがあった。
その真っ直ぐな心意気は今も健在なのだろう。

 ギイの論理に理解と納得をしていながら、あれだけ楯突けるのは、本来の気質もあるだろうが、ギイとのトクベツな間柄を持つ託生ならではだと章三も思う。
八津もそこのところの、あのふたりの間だけに存在する微妙な甘さを感じたのだろう。

「それにしても、あれも痴話喧嘩っていうのかな」
「とりあえず、不毛な喧嘩には違いないな」

 託生が相手だからギイも許しているところがある。
その事実に至って、「まったく、不毛に尽きるな」と、章三は地面に向かって溜息を落とした。

 ふと見上げれば、曇天の厚い雲の隙間から、わずかに青空が見えた。
なのに、ポツンと一粒、雨が顔に当たって、章三の頬を濡らす。

「雨だ……」

 この日、ひとつの命が失われた。それを、自分たちは確かに知っている。

 誰しもの心に流れる涙のように、その日の午後の雨は降り急いでいた。





 託生がおかしい。
そう気付いたのは章三が一番初めだった。

 ぼんやりと何かを考える素振りが続いて、じっと遠くを見ているような、でも見ていると言っても実際それを見ているわけではないような、そんな様子を目の前であからさまに見せつけられては気付かないわけにいかない。

 ギイは始終、託生のそばにいられるわけでもないから、気付かないとしてもそれは致し方ない。
とは言っても、どうして気付くのが僕なんだ、ほかの奴らはなぜ気付かない、と文句のひとつでも言いたくなるのだが。

 だからだろうか。
「葉山、おまえヘンだぞ? まだあの犬のこと、引き摺っているのか?」と託生にかける章三の声は素っ気ないものになってしまった。

 だが、託生のほうは気にする様子もなく、
「あ、うん。あの犬のことっていうか、あれはただのきっかけというか。
何だか、昔の同級生のことを急に思い出しちゃって」
そんなふうに、淡々と、素直に答えてくる。

「昔って、中学? それとも小学校?」
「小学校の時のクラスメイト。ある男の子がね、小さい頃、肘に怪我をして。
関節が外れちゃったのか、骨折だったのか、詳しい原因はわからないんだけど、治療がうまくいかなくて、こう曲げた時ヘンな曲がり方してたんだ。
すごく痩せてた子だったから、その曲がり方がすごく目立っちゃって。
でも、その子、鉄棒とか普通に体育の授業を受けてたんだよ。
すごく頑張ってたんだなって今だったらわかるんだけど、昔は遠目で見てるしかなかったんだ。
子供って平気で口にしちゃうじゃない?
当時はみんな、気持ち悪がって、その子に近付かないようにしてたっていうか。
ぼくもさ、何だかその子だけ違うってのがどこかで引っかかっていたのかな。
あまり一緒に遊ぼうとはしなかったんだ」

「肘は治らなかったのか?」
「あ、うん。何度も手術してたみたいで、傷跡もものすごかった。
大人になったら、また手術するって言ってたけど、小学校卒業してからは会ってないからその後のことはわからない……。
それにね、もうひとりいたんだよ。女の子だったんだけど。
もともと髪の毛が薄い子だったんだけど、その子、体質か何かのせいで髪の毛がどんどん抜けていって。
四年生くらいになると眉毛とか睫もなくなってた。
そしたらある日、その子がふさふさの髪で登校してきて。
みんな、カツラだってわかってたんだけど、何も言えなかった。
逆にその子のほうが、似合う?って笑って訊いて来てさ。みんな、すごくいいよって褒めてた。
でも、親たちの間では、かわいそうにとか、結婚するのも大変だとか話してたんだよね。
肘が悪い子のほうは、自分から誰かを誘うっていう性格じゃなかったけど、悪い子でもなかった。
女の子のほうは、運動が得意で結構活発な子だったから友達も多かった。
でもぼくは、どっちの子にも一線引いてた。
それって、今、思い出すとすごく恥ずかしくて、何であの時、一緒に遊ぼうって誘えなかったのかなって思うんだ」

「女の子のほうもそれっきりなのか? 中学とかは?」
「あ、うん。一緒だったけど一度も同じクラスにならなかったんだ。
それにあの頃はぼくも自分のことで精一杯だったから……。
でも、この間、実家に帰った時、お母さんが言ってたんだけど。
彼女、今付き合っている人と婚約してるらしくて、高校卒業したら結婚するんだって。
その時も、そっかこんなに早く結婚しちゃうんだって、ぼく思ってさ。
下世話な話なんだけど、若いうちに結婚決めた彼女の心情をつい想像しちゃったんだ」

 いつか彼女の体質が、結婚などの障害になるのではないか。
彼女が誰かを好きになっても、ちゃんと報われるのだろうか。
小学生の頃、託生はちらりとそんな想像をしたこともあったのだと言った。

 それは、彼女に対しての侮辱だったのかもしれない。
実際、彼女はあと一年もしないで、高校卒業後と同時に結婚するという。

 けれど、やっぱり、結婚を急いだ彼女と、それを許した彼女の両親の心のうちには、この縁談を逃したら、彼女との結婚を望む男がこの先出て来るかわからないという不安があったんじゃないか。
そんな邪推をしてしまう自分は、例えそれが故意ではないのだとしても、そんな計算をしてしまっている時点で情けないと思う。
彼女にとっての幸せは、彼女が決めるものなのに、他人の託生が枠に嵌めて考えてしまってる。

「何だか、自分がいかにも打算的な人間なんだって思えちゃって、すごく嫌だな」

 そう言って、葉山は窓の外に目をやった。

「ひとりだけ、みんなと違う。
それってどこか自分だけが取り残されたみたいに思えるものなんだって、わからなかったんだ……。
もっとあの子たちといっぱい話せばよかったとかさ。今、そんなことを思っても遅いのかもしれないけど。
でも、あの子たちに対してはもう無理だとしても、これから同じようなことがあったら二度と間違いたくないって思ってさ。
だから、もしもぼくだけが信じたいって思う道があったら、ちゃんとその道を堂々と歩いて行けたらいいなって……。
偉そうなこと言ってるかもしれないけど、あの犬のことについては、ぼくはぼくなりに頑張れたから、納得はしてるんだよ」
「だったら、どうして今もギイを避けてるんだ?」

 最近、章三のところには取り次ぎの依頼は来ていない。
ここしばらく、ご無沙汰していた。
ギイと託生が直接連絡を取っているようにも見えなかった。
とすれば、かれこれ二週間近く、このふたりは擦れ違いの生活をしていることになる。

「避けてるつもりはないよ。ただ……」
「ただ?」

「うん、何となく会いづらいっていうのかな。ごめん、自分でもよくわからないんだけど……」

 この場合、章三から誘うことではないかもしれない。
けれど、ぼけっといつも何かに気をとられている託生と、託生を意識しながらも平常を装っている親友を思えば、口を挟みたくなるというものだ。

「葉山、明日の夜、空けとけよ」
「え? 夜?」

「そう。散歩するから。約束したぞ」

 とりあえず明晩の約束を取り付けると、章三はその足で三階ゼロ番に向かうことにした。

 ギイはギイで理解はしてくれても心から受け入れてくれているわけではない恋人に、どんな態度で接していいのか、迷っているように章三には見える。

 まるで腫れ物に触るようなあんな態度ではまとまるものもまとまらないだろう。

──まったく、ギイらしくない。

 何をそんなに恐れているのだか。現実主義なのは何もギイだけの専売特許ではない。
少なくても、あのハスキー犬の件に関しては、章三も八津も同じ見解を示していた。

 三階の階段長はヒマなしだ。
約束もなしにそのドアを叩いて、部屋の住人がいればめっけもの。
「留守が当前」がいつものことなのだ。

 だが、その日、章三の訪問を知っていたかのように、そのドアはゆっくりと開いた。

「いたのか。てっきり、いないと思ってた」
「その言い草だと、いないほうがよかったともとられるぞ」

「そんなことあるわけないだろう。卑屈になってないで中に入れろ」

 部屋に入ると、見れば珍しくベッドが乱れていた。

「寝てたのか?」
「ああ、少しだけ」

 ギイは滅多に風邪をひかない。それでも一応ということもある。
「風邪か?」と訊けば、案の定、「いや、そうじゃない」と返事が返ってきた。

「もしかして、不貞腐れて寝てたのか?」
「オレが? まさかだろ」

「だったらいいけど。あ、そうそう、明日の夜、葉山を誘ったから」
「散歩にか? 託生が頷いたのか?」

「ああ。意外そうだな」
「託生はあの日のことにこだわっているようだから。
正直言って、まだオレと面と向かって会いたくないのかなってさ」

「こだわってるって言っちゃこだわってるな。ただし、それはあのハスキーのことじゃないようだけど」
「それはどういう意味だ?」

「知りたければ、本人に訊くんだな。
とりあえず、あの日の関しては特に引き摺っているわけでもなさそうだぞ」

 章三は伝えるべきことは伝えたと言わんばかりに席を立った。

「葉山は葉山なりに思うところがあって、もう二度と間違いたくないって言っていた。
少なくとも、あいつはちゃんと自分で考えて、正しいって思うことを貫いてる。
葉山はさ、そんな自分のこともちゃんとギイにわかってほしいんじゃないか?」

 去り際に章三はそう言い置いた。

 章三が三階ゼロ番をあとにしようとした時、ギイは考え込むようにじっと一点を見つめていた。

──あとはふたりの問題だ。

 章三のすべきことはこれ以上なかった。





 四人の階段長と風紀委員長は、時々、夜の散歩としゃれ込んで情報交換をしている。

 託生が飛び入りをするのはこれが初めてではないからか。
「今日は葉山が一緒か。じゃあ、行こうか」と託生の臨時参加はほかの階段長たちにすんなりと受け入れられた。

 先頭と最後尾にギイと託生が離れて歩く。
前とうしろを交互に見ながら、「何やってんだ、あいつらは」と章三は小さくぼやいた。

──いい加減、今夜でケリをつけろよ、ギイ。何のために僕が葉山を誘ったと思ってるんだ?

 何ら動きのないふたりに業を煮やした章三は、ここまで世話を焼かせるのかと苦虫を潰したような顔を浮かべながらも、起爆剤になればと、「おまえらふたりで行って来い」と散歩途中の飲み物の買出しに、ギイと託生を強引に送り出した。

 気兼ねしながら背を向けたふたりを章三は見送りながら、これで少しは進展するだろう、と我ながら馬鹿なことをしていると自分の人の良さに本気で呆れた。

 はあ、と出てしまう溜息すら疲れが滲んでいる。

 そんな章三に、「葉山、反抗期なんだって?」と一階階段長の矢倉柾木が尋ねてきた。

「八津から聞いたのか?」
「まあな。何だかおもしろそうな展開になってるそうじゃないか」

 確かに無関係の第三者にしてみれば、あのギイが振り回されているこの状況はどれだけ興味深いことか。
章三自身、自分が無関係でいられるならば、矢倉同様、楽しんで終わりにしたいところだった。

 ところが、元来、調子のいいこの矢倉という男は、興味を持ったらとことん探りを入れる性質らしい。

「なあ、ちょっくら様子を見に行かないか?」

 そんな怖いことを言い出して、そのままどんどん先に行ってしまう。

「おい、待てよ!」

 章三は止めようとしたのだが、「赤池だって心配なんだろ? ほら、行こうぜ」と、まったく意に介さない。
その上、残りふたりの階段長が、「いってらっしゃい」とにこやかに手を振るものだから、仕方なく、章三は矢倉のあとをついて行くことにした。

 しばらくとぼとぼ歩いてゆくと、ギイと託生の話し声が聴こえてきた。

「おっ。ギイと葉山、発見っ」

 嬉しそうに矢倉が声を忍ばせる。

 どうやら、ヤバイ場面にぶち当たらずに済んだようだ。
それだけでも、章三にとっては御の字だった。
ここまで来てしまったからには仕方がない。とりあえず物陰から様子を伺うことにした。

「……ごめんな、託生」
「謝らないでよ。ギイは悪いことや間違ったことしたと思ってるの? 違うだろ?」

「そうだけどさ……」
「だったら謝るのなんておかしいよ。慰めなんかもいらない。そんなもの必要ないよ。
あの時、ギイが判断したことは、ある意味正しかったんだろうし。
ぼくとは違う考えだったとしても、あの犬のことを思ってギイが判断したんだって、ぼくにだってわかるもの。
けど、思ってしまうんだ。あの犬がもしも生きたいって願っていたのだとしたらって。
それでもギイは同じことしたのかなって」

 あの状況じゃ犬の気持ちなんてわかりっこないんだけどね、の言葉はくぐもっていて、託生は俯いているのだろうなと章三に想像させた。

 章三の位置からは託生の表情は伺えなかった。
かろうじて、ギイの横顔が街灯の明かりを浴びて、陰影を浮かばせているのが見える。

「もしもだよ? もしも仮に、将来、ぼくがバイオリンで身を立てられるようになって、それで、ある日突然、事故に合って、左手が動かなくなったら……。
未来なんか真っ暗でどうにならなくて、それでギイに、死にたいって心から縋(すが)ったら?
ギイはぼくを死なしてくれる?」
「馬鹿なこと言うなっ! そんなこと無理に決まってるだろっ!」

「うん、そうだよね。ぼくだって、ギイが死にたいって言っても、きっと死なせてなんかあげられない。
どんなギイだって生きててほしい。死んでほしくない。かっこよくなくったっていい。
足がなくったって、手がなくったっていい。
みっともないとか、そんなの関係ないんだ。ギイが生きてるだけで、ぼくは感謝するよ。
誰もがギイを振り向かなくなったとしても、ぼくはちゃんとそばにいる。
ギイは? ギイもそう思ってくれてる?」
「ああ。もちろんだとも」

 そっか、よかった、と託生は安堵の息を吐いた。

「ぼくはすごくずるいんだ。
だって、あの犬が生きたいのなら生かしてあげたいって思うくせに、ギイが死にたいって望んでも絶対叶えたくない……。
それってつまりは、自分の好き嫌いで物事を判断してるってことで、行き当たりばったりってことだろ?
理屈じゃないんだけどさ、でもそういうずるさもそれはそれでいいと思っちゃてるんだ。
ぼくはギイみたいには理路整然とは考えられない。
でも、ギイみたいになれないそんな自分を許しちゃってるんだよ。
ギイのやり方とか考え方が好きじゃないとか、そういうことじゃなくて。
ギイがいてくれたら、いつだってきっと最善な道を示してくれるって、それがわかってるから、ぼくは安心して脇道を歩けるんだ。
だからぼくがギイみたいになる必要ないんだって思えるんだよ」

 託生が選ぶ脇道は、きっとギイが選ばない道で、この先もどの道を行こうか、分かれ道に出会うたびにふたりは衝突するのだろう。

 脇道には落し穴が待っているかもしれない。行き止まりになっているかもしれない。
でも、託生は間違いに気付いたら、もう一度来た道を戻る勇気を持っているし、正しい道を選びなおす苦労もいとわない。

──でも、葉山。おまえは気付いてないだろう?
ギイに関しては去年の段階で、おまえは間違っちゃいなかったぞ。

 そう、その片鱗に章三が気付かされたのは、一年前の五月のことだった。
託生は今気がついたと言わんばかりに、あの日屋上で、「ギイってかっこいいんだね」と感心したようにギイの容姿を褒めていた。

 面と向かって言われたのは初めてだ、とギイが喜んだのは、それまで託生はギイの外見ではなく、ギイの本質しか目に入れてなかったのだと、そう知れたからだ。

 外見の良さはおまけのようなもの。
そう思ってくれる恋しい人が褒めてくれた自分の容姿を、あの時、ギイがどれだけ誇りに思ったことか。
見知らぬ人たちの視線を集めてしまうそれを煩(わずら)わしいだけだと豪語していたあのギイが、託生の褒め言葉に嬉しそうに笑っていたのを章三は鮮やかに思い出す。

──そう。誰もが惑わされるギイが纏う華やかさに、葉山は無意識のまま、惑わなかった。
それがどれだけ奇異なことか、これもやっぱりあいつは気付いてないんだろうな。

 そこにいるだけで光が当たっている。そこにいるだけで憧れる。
そんな華やかなギイの容姿に焦がれ惹かれる輩はとても多い。

 けれど、託生はそういうギイを求めているわけではないから。
だから、簡単に、「かっこよくなくったっていい」なんてギイに言えたりするのだ。

 先日、見た映画の中の人たちは、それぞれ幸せを求めてもがいていた。
みんな、自分の正義と信念を信じていて、もしかしたら自分は間違っているかもしれないなんて、そんなこと微塵も考えようとしなかった。
だから彼らは何の不安も抱かないまま、自分の意思を突き通せていたのだろうけれど、イツキも保険外交員の彼女も女優の元恋人も、みんなどこかで大切なものを置いてきてしまっていた。

 イツキを見限った女優の元恋人の好きになる人の基準。
彼女に期待しながらそれが重荷となって自分を信じ切れなかったイツキの逃げた心。
恩義ある犬の命を犠牲にしてまで好きな人を守ろうとした彼女の手段を選ばない愛し方。
それらすべて、ちゃんと正さないまま、目に見えるものに縋(すが)り続けて、彼らは先を急ぐように未来に足を向けていた。

 二度と間違いたくないと言ったあの時の託生。
あれこそが、彼らが求めるべき理想の未来に違いないだろうに。

 かつて間違いを犯したその事実を素直に認め、反省を活かして、先々の道を改めようと決意する。
それは簡単なようで、とても難しい。

 だが、託生は迷いながらも考えることで、本質を見抜く力を育んできた。

「オレ、死にたいって言っても死なせてもらえないんだな……」
「そうだよ。そう言ったじゃないか。かっこ悪くてもギイがギイなら、ぼくは充分なんだよ」

「じゃあ、託生も、死なせてなんて絶対言うなよ?」
「そんなこと、ぼくが言うわけないだろ。だって前に約束したよね。ギイ、もう忘れたの?
ぼくはギイより先には死なない。だから、死なせてなんて口が裂けてもギイには言わない。
意地と根性で何としてでもギイより一秒でも長く生きて、ギイをひとりぼっちになんて絶対しないよ」





「あんな表情(かお)であんなふうに言われたら、ギイ、もう手放せないよな」

 そんな駄目押しの台詞を矢倉が囁くのを、章三は溜息とともに聞き流した。

 託生がどんな表情をして、あんな台詞を言ったのか、直接見たわけではないから章三にはわからない。
けれど、きっと、ぎゅっと口を結んで。
自分の気持ちをわかってほしい。そんな訴えるような目でギイを見ていたのだろう。

 信じて。わかって。好きなんだよ──。

 さっきの託生の声は、そんな想いがこめられていた。
だから簡単に想像できる。

 一方、ギイの表情ならば、章三の位置からよく見えた。

 顔が整っている男の締りのない顔ほど、どつきたくなるものはない。

 口説き文句や褒め言葉に慣れているあのギイが嬉しさに戸惑って、見開いた目でじっと託生を見ていた。
花が綻ぶような笑顔を浮かべて、嬉しくてどうしようって顔をしていた。
世界中の幸せを集めたかのような、まるでそんな感じの、嬉しさが滲み出てしまうのが止められないって顔をしていた。

 この光景を前にして、風紀委員長である自分に、いったい何と答えろと言うのか。

「ま、今回ばかりは葉山のほうが一歩も二歩も上手だ。さすがのギイも完敗だろう」

 いいところ、自分の立場で口にできるのはこの程度。

「だよなあ。でもあれは、ギイにしちゃ嬉しい負けなんだよな、きっと」

 確かに葉山託生という存在は、ギイにとって僥倖以外の何ものでもないのかもしれない。
異色の組み合わせも、不思議なことに見慣れれば、しっくり見えるもので案外悪くはない。

 とはいえ、男同士のこんな恋情がまかり通るこの祠堂は、まったくもって世も末だ──。





 人を好きになる。それはどういうことなのか。

 それを教えてくれる人がいる。それを教える幸せがここにある。



 いつか自分も誰かに伝える日が来るのだろうか。

 そう、あのふたりのように──。





 ギイと託生が両手に飲物を持って戻ってきた。

「遅かったな」

 しれっと矢倉が笑いかける。
さすがクセモノ。先ほどまで盗み聞きをしていたとは思えない自然さだ。

「悪い、待たせた」
「笑顔で謝れてもなあ。赤池もそう思うだろ?」
「僕にふるな」

 こちらに向ける矢倉のにやにや笑いが、やけに章三の気に障った。

 そんな矢倉と章三の思惑織り成す蚊帳の外で、ギイが、「ほらよ」と缶ジュースを放り投げてくる。

 放物線が綺麗な弧を描いて、すとんと章三の手の中に固い感触が納まった。

「おい、これぬるいぞ」
「そうか?」

 すっとぼけた物言いに、わずかに照れを滲(にじ)ますギイ。
普段なら、当然問い詰めるタイミングなのだが、今日ばかりは気付かない振りをしてやろう。

 自分という人間を見てくれて、好きだと言ってくれる人がいる。
その有難みと幸せを、今はじっくり噛み締めていたいだろうから。

──特別だ。今夜だけは貸しにしてやるさ。

 見つめ合うその瞳に映るのは、愛しきものにほかならなくて。

「ほら、託生の分」
「ありがとう」

 それがどんな姿に見えるかは、当人にしかわからない──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの99,999hits記念作品『きみが教えてくれる「好き」』はいかがでしたでしょうか?

章三の視点から見る託生とギイ。
ふたりを通して、章三は、「好き」という気持ちを考えます。

好きな人が「好きのあり方」を教えてくれる。
どれだけ好きか、どんなふうに好きか。自分への気持ちを綴ってくれる。
ずっとほしかった言葉を言ってもらえる、そんな幸せがあることを、章三は目にします。

映画というもうひとつのお話とリンクさせながら、幸せの意義を考える章三。
選ぶ道によって異なる幸せがあり、道は選びなおせることを感じ入ります♪

認めたくない友人同士の恋愛に、章三の理性と感情は振り回されっぱなしですが、
さてさて、章三の苦労はどこまで続くのか……(笑)?

最後に、この作品は99,999hitsをゲットしてくださったなたねさまに捧げます。
なたねさま、『きみが教えてくれる「好き」』を気に入って頂けると嬉しいです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



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