「言いたいことがあるなら言ってくれよ。黙ってたらわからない……」

 ギイは困ったように眉を寄せて、唇を噛んだ。

 言いたいことはたくさんある。伝えたい気持ちもたくさんある。

 けれど、どこから話したらいいのかわからなくて、ぼくは何も言えなくなる──。


三日の通ひ路



 人里離れた山奥の中腹に建つ祠堂学院高等学校に身を置いていると、麓の街に下りるたびに、結構栄えているなあと感慨を覚えるものだ。

 世間の感覚と多少(?)ずれているとぼくは他人からよく言われるけれど、駅から直接行けるデパートや、駅周辺にひしめくように並んでいるたくさんの店を目にしたら、誰だって『繁華街』という言葉を頭に描くと思う。

 駅前通りに交差して線路に平行に走っているアーケイドには、駅前通りの商店街に比べ比較的新しい若者向けの店が並んでいる。
楽器店や本屋、映画館などの大型店も揃っているので、土日や祝日になると通行人で溢れかえり、まさに人を避(よ)けて歩かなくてはならなくなるから、人込みが苦手なぼくにとっては苦痛でしかない。

 商業地として栄えているその一等地にかつて大きな農機工場があったのだと言われてもすぐにはピンとこないほど、現在、駅周辺一帯は目まぐるしい発展を遂げていた。

 昔の駅周辺のことをぼくに教えてくれたのはギイだった。
工場が街外れに移転したお陰でたくさんの利点を生み出したなと、彼が付け加えるように口にしたのをぼくは今でもよく覚えている。

 街の活性化のために駅周辺のこの土地を買い上げた市は、代わりに高速道路が近くに通る市郊外により広い工場地を用意した。
土地の売却による利益で潤った工場側は最新機器を設備投資して生産を上げ、一方、市側は駅近郊商業地の区画化を計り、結果、駅前商店街とアーケイドはそれぞれ需要の異なる客で、現在、こうして賑わっている。

「大円満に終わった改革だな」

 駅前商店街とアーケイドが交差する「駅入口」の看板を掲げた交差点で信号待ちをしていた時、その現状を目にしながら、感心したようにギイが、「いい事例だ」と呟いた。

 そう、あれは一年前のことだった。

 ギイに誘われるまま外出届を出し、ふたりで山を下りて、当てもなく街をぶらついた日曜日。
どこに行くわけでもなく、何か買うわけでもなく。ただふたりで歩くのを楽しんだ。
ぼくはそんなふうに誰かとこの街を歩いたことがなかったら、その日の街の景色はぼくの目にとても新鮮なものに映った。

 とある店先で突然足を止めて、アレがカッコイイだの、コレはニューモデルだの。
ガラスの向こう側に飾られた靴を指差して、ぼくへと顔を寄せてきてはギイが楽しげに笑う。
そのショーウインドーには、笑顔のギイの隣りに当然のように並んで立つぼくの姿が映っていた。
その日一番の新鮮な情景だったそれ。

 見慣れないそのふたつの影に、戸惑いとくすぐったさをぼくが感じていると、ギイが通り向かいの人で賑わう店を指差して、「もし逸(はぐ)れたら、あそこのハンバーガーショップで待ち合わせしよう」と提案してきた。

「目立つ場所だからわかりやすし。いい案だろ?」
「うん、わかった」

 規則で持ち込み禁止になっているため、祠堂の生徒は携帯電話を持っていない。
一部の生徒が保持していることを、それからしばらくしてぼくは知ることになるのだけれど、その時はそんな裏技など知るわけもなく、携帯電話で連絡し合うという考えがぼくの中にはまったくなかった。
だから、待ち合わせ場所を決めることはとても自然なことで、ぼくは当然のようにギイと口約束した。

「駅入り口」交差点角のハンバーガーショップは、わかりやすい立地条件と冷暖房がよく効いたその居心地よさで、その後も章三たちと街に下りた時など待ち合わせ場所や休憩所としてすごく重宝することになったのだが──。

「ま、オレたちが逸れるなんて、そんなことはまずないだろうけどさ」

 その時のぼくは、ギイと待ち合わせなんてしたことがなかったから、待ち合わせの場所を決める、そんなささいな約束にさえ胸が躍ってやまなかった。

 そんなぼくの胸のドキドキに、その時ギイが気づいていたのかどうかはわからない。
おどけながら、「ふたり一緒にいなきゃデートにならないだろ?」とぼくとの距離を縮めようとするギイ。
対して、「ギイ、くっつきすぎ」と世間の目を気にして、ギイとできるだけ自然な距離をとろうと足掻くぼく。
第三者の目には、男友達の間柄にしてはギイが必要以上にぼくに纏わりついているように見えたかもしれない。

「託生、友人と恋人とじゃ距離が違って当然なんだぞ。いい加減、無駄な抵抗は諦めろ」

 口ではそう言いながらも、ぼくに無理に近寄ろうとしないのがギイの優しさで。
まだ人間接触嫌悪症が治っていなかったその頃のぼくは、恋人の距離を主張しつつも口先だけに留まってくれてたギイに申し訳なさと感謝の念を抱いたものだった。

 ギイはよく気がつく人だと思う。
それは人と人との付き合いに必要なきめ細やかな気配りだけとは限らない。
街並みひとつをとっても、彼にかかっては経済、市政の物差しとなる。

 ギイが店々を見渡しながら話してくれた街の商業地区画計画。
ぼくはそれを耳にして、街の歴史を垣間見たような気持ちになった。
と同時に、正直言って、ギイとの距離に今までにない違和感をも感じていた。

 少し前を歩くギイ。少し遅れて歩くぼく。
ふたりとも同じ方向に向かって歩いているのだから、同じ景色を見ているはずなのに。
ギイが見ている世界はぼくが見ているそれよりもぼくが想像する以上に違うのかも、と疑問が浮かんで。
そんなことない、ギイはギイだって自分でも頑張って雑念を消そうとしたのだけど、その日、ぼくの頭の隅にはふたりの相違がどうしても残ってしまった。

 歩幅にして二歩の距離。だけど、実際の差はそれ以上であろう歴然たる距離。
ぼくがそんなふうに改めてギイという人を見たのは、たぶんその時が初めてだったんじゃないだろうか。

 同じ年の彼はあまりにもぼくとは違う人で、ものの見方も感じ方も、意識の向け方も、どれひとつとってもぼくに重なるものはない。
同年代のほかの人の普通の感覚というものを、その頃のぼくがよく知っていたら、それほどいたたまれずにすんだのだろうけど。
当時はただ、ぼくとは違うギイとの差ばかりが頭の中を占めてしまって、他人とギイとの差など、ぼくはそれほど重要視していなかった。

 確かにギイは、一年の時からすでにクラスの中でもリーダータイプで目立っていたから、しっかり者の部類の人間なのだろうとは思っていた。
クラスの級長である彼は周囲の機微を感じ取り、常にうまく調整していたのだろう。
その余力をぼくに向けられるくらいだから、彼の包容力はたいしたものに違いない。

 ギイだってぼくと同じ年の高校生なのだから、ふざけもすれば怒る時もある。
なのにみんな、ギイに必要以上に期待して。
ギイはギイでその期待を決して裏切らないから、ますますみんなが増長する。

 聖人君子などどこにもいないことなど誰もが知っているだろうに。
それでもみんな、それをギイに重ねて見ているのが、鈍いと言われるぼくにさえひしひしと伝わってきていた。

──ギイへの期待って相当だけど。あれってどうなんだろう。ギイ、疲れないのかなあ。

 そんなふうにぼくはギイにすごく同情したくなってしまうのだけど、周りの人間からすればぼくのその感覚はとてもヘンらしく。
ギイがギイである限り、そんなことは大したことではない。
むしろそれこそが彼の日常で普通であるいうのが大体の意見なのだ。
でも、ぼくにはみんなの感覚のほうがヘンにしか思えないから、どこまでもみんなとは平行線で交わらない。
だから、それはもうお互い様で終わらすしかないのだろう。

 確かにギイはぼくとは違い、器用で機敏で何事においてもそつなくこなす。
それでもギイはぼくの前で子供っぽい執着を見せたり、我がままを言ったりするから、ギイのことは出来すぎの恋人だとは思うけど、ギイはまん丸い人でも真四角の人でもないのだと今のぼくならはっきり言える。

 一年の時の一年間、クラスメイトとして外側から見てきたギイと。
二年に進級して、ルームメイトとして一日べったりと一緒にいて初めて見ることができたギイと。
同級生と恋人、それら両方のギイを見知って思うのは、ギイという人は深く人をみすらえ、人の考えを読み、心得て、その先の物事を想像して行動している、ということだ。
それは実際、ぼくに対する態度にもとても謙虚に表れていると言える。

 口下手なぼくが何て言っていいのか惑っていると、ギイは何気にぼくの想いをすくい上げて、「仕方ないなあ」と笑ってくれる。
それは小春日和のあたたかさによく似ていて、真綿に包(くる)まれたように心がほわっとしてとても気持ちがいい。

 ぼくが困ったような顔すれば、ギイは必ず、「どうした?」と気にしてくれて。
それだけでちょっとした悩み事など吹っ飛んでしまって、いつの間にか心が軽くなっている。
彼が味方でいてくれる。それだけで、ほぅっと息が漏れてしまう安堵感が生まれるから、ギイの存在は本当に威力があるなあと思う。

 ギイが甘やかしてくれるのはとても心地よくて。
それに味をしめてしまうともっともっとって欲が出て、ぼくはますます甘えたい気分になってしまう。

 ギイに優しくされると、ぼく自身も何となく優しくなれるような気がするから不思議で。
でも、そんな自分がぼくは嫌ではなくて。

 何もかもギイ任せだった去年のことを思うといたたまれなくなるけれど。
それでも、最上級生になって、ギイと寮の部屋が別れて、ふたりが一緒に過ごせる時間が少なくなると、ギイだけに一方的に荷物を持たせたままではいけないのだと、さすがにぼくも反省するようになった。
そうなると、今までギイがどれほどぼくのために心を砕いてくれていたのかがよく知れて。
以前にも増して、ギイがとても大切な人なのだとぼくは身に染みて感じ入るのだった。

 ギイのそばにいられるこの僥倖に感謝したい。

 ギイがぼくの恋人であるということがとても嬉しくて。
ギイの瞳に映っているぼくを認めるのがちょっぴり恥ずかしくて。

「託生」とぼくを呼ぶギイの声が、普段の彼のそれと比べて、少し掠(かす)れて艶を帯びているように聞こえるから、「ギイ」と呼ぶぼくの声も同じように掠れてしまうのが止められない。

 この恋はふたつとない恋だから、精一杯大切にしたい。

 おそらく、この恋以外にぼくはもう恋をすることはないと思う。
ぼくがギイ以外の誰かを好きになることはたぶんないだろうし、ギイ以上に誰かを好きになるなんてそれこそきっとないだろう。

 ぼくの麗しき恋人、ギイ。

 彼のことを想うと、いつだってぼくの胸はドキドキが止まらない……。





 世界にはたくさんの単位があり、中には「ヘレネ」という美しさを表すものもあるのだと言う。
一ヘレネは、船千隻を動かすほどの美しさということで、トロイア戦争の時にヘレネを奪い返すために攻め込んだ軍艦の数がその基準になっているらしい。

 日本では三大美女と言えば、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町の三人を指すが、世界では、クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネが通常のようだ。
そもそも「傾国の美女」が世界三大美女の条件だとしたら、小野小町は当てはまらない。

 小野小町が美女として名高いのは、ひとつに、彼女に恋焦がれ百夜通いを試みた深草少将に心打たれるところがあるからだと思う。
小野小町に求婚した彼は、百日間通い続けられたら結婚すると言われ、約束を守ろうと毎晩通い、けれど思い叶わないまま、最後の夜、雪が降る中、深草少将は息絶えてしまう。

 貫き通そうとした深草少将の想いが、悲しくも美しく小野小町を稀代の美女として惹き立てる。
百夜目の夜、訪れなかった彼を小野小町がどんな想いで待っていたのか、誰も知らないまま、彼女の名は後世に広く知れ渡ってきた。

「通うのが大変なのは今も昔も同じかもしれないなあ」

 そう。誰だって恋をすれば、好きな人に会いたくなる。
いつでも、何度でも、会いたくなる。

 もちろん、ぼくだって例外ではない。

 二年の頃はそれこそべったりとふたり一緒にいられたものだから、三年に進級してギイが三階ゼロ番の階段長になってからの生活は、正直言ってぼくには辛い日々だ。

 章三たちが気を利かせてギイの部屋に行く時ぼくを誘ってくれれば話は別だが、二階の住人であるぼくが三階に行く機会などほとんどなくて。
調子よくギイに空きの時間ができて、「おいで」と誘わればラッキーってなもので。
でも、それだって滅多にない。

 ぼくが彼の恋人だからこそ、ギイの部屋に気軽に行けない。
そのことについては、ぼくだってちゃんと理解しているし納得もしているからいい。
ギイのところへ頻繁に行けなくても、ふたりきりで会うのすらままならないのだとしても、ぼくがギイのトクベツだからこそ、この現実に悩まされているわけなのだから、ぼくはきっと耐え抜いてみせるだろう。
それでもしも戸惑いや寂しさを感じたとしても、それらはすべて、ギイの共犯者の証しなのだろうから。

「共犯者」──ギイがぼくへ示した彼の真摯な気持ちのあらわれ。

 ギイが好きだという気持ちが第一にあるからこそ、ぼくは共犯者として自分を律する。
だけど、ゼロ番のドアを気安くノックできる友人たちが羨ましいとも思う気持ちも確かにあって、時々、ぼくの中の箍(たが)が外れそうになってしまう。
そんな時は自分でも、まずいなと思うのだった。

 ぼくたちのままならない状態はまだまだ続く。

 だからこそ、こんな状況だからこそ、ぼくはひとつの決心をしようと考えた。

 素直に自分の気持ちを認め、見つめあい、正直になることで、この想いをより強くしたくて。

 何よりも。生涯、ギイを好きでいるという誓いを強く心に刻むために──。





 ぼくがそれを思いついたのは本当に突然で。
ひとつの決まり事を自分にあえて強いたのは、ぼくにとって願掛けをするようなものだった。

 そして、その心づもりをして以来、ギイの部屋へ訪問する機会に恵まれると、ギイと一緒に食べようと、ぼくは時折、和菓子を用意するようになった。

 だけど。

──はぁ……、これがなかなかうまくいかないんだよね……。

 はじめは草餅。
売店で見つけて、ギイと分け合って食べれたらと願って、個別包装されたそれをひとつだけ買い求めた。
結局、ギイに突然予定が入ってしまって、その夜のぼくのゼロ番訪問は露と消えてしまったのだけど、自分の中に手ごたえを感じられたから、まずはよしとした。

 二度目は柏餅だった。
その日は章三と一緒にギイの部屋に遊びに行った。
予定では、途中で章三は帰ることになっていた。
数時間後の久しぶりのふたりきりの逢瀬に期待が膨らんで、章三がいるにもかかわらず、ぼくは始終落ち着かなくて。
三階ゼロ番に入ってからずっと、ギイはもちろんのこと、部屋のどこを見ていいのかわからなくて、きょろきょろと目を泳がせていた。
たぶん、浮ついていたのだと思う。
ギイや章三に何がしか話をふられても、内容がどうにも頭に入らなくて、苦笑いしながら生返事を返すしかなかった。

 だが、そのぼくの浮かれようも消灯時間十五分前までしか続かなかった。
章三が部屋を出ようとドアを開けた時、入れ替わるように一年生たちがやってきたからだ。
ぼくもギイも唖然としてしまって、ふたりとも言葉が出なくて。
章三が同情するような視線をこちらに投げてくるのがすごくいたたまれなかった。

 ギイに纏わりつく一年生のあまりのしつこさに、溜息混じりに白旗を揚げたぼくは、仕方なく、「じゃあ、ぼくも帰るね」と章三のあとを追ったのだけど。
ふとうしろを振り返ると、そこにいかにも不機嫌そうなギイの顔を見つけて。
ぼくは自分でも悪趣味だとは思ったけれど、思わずほっと胸を撫で下ろした。

 一年生たちはどうやら気づいてなかったようだけど、ギイは笑顔を浮かべつつも目は決して笑っていなかった。
ギイのその様子から、ふたりで過ごす時間を楽しみにしていたのはぼくだけではなかったのだとわかって、ぼくはその日、どうにか自分の気持ちを鎮めることができたのだった。

 しばらくの間、あの時の一年生たちの顔を食堂で見かけるたび、楽しみしていた気持ちと期待を裏切られたあの時のショックが逐一思い出されて、何度溜息を漏らしたことか。
「幸せが逃げていくぞ」と章三に諭されなければ、ずっと溜息をつきっぱなしだったかもしれない。

 だが、その心強い味方であるはずの章三が、今度は不意打ちの自爆をしてくださったから、ぼくも思わずキレてしまった。

 三度目の正直で、苺大福を持参して訪れたギイの部屋。
その日も章三がいたけれど、ぼくとギイが相当煮詰まっていたのが充分伝わっていたらしく、彼は今度こそ早々に退散する、と最初から豪語していた。

 それほど間をおかないで、ギイの部屋を訪れる機会を作ったくれた章三は、大恩人にほかならない。
例え、苺牛乳を請求されたとしても、ぼくの弱い立場では決して文句など言えないのだった。

 ところが、その大恩人のはずの章三が、ぼくがちょっと席を外している間に、ギイと一緒に食べようと持参した苺大福を勝手に食べてしまったものだから、ぼくは茫然自失に陥った。

「ぼくが持ってきたのに! どうして食べちゃったんだよ! ギイもどうして止めなかったの!」
「そんなに怒るなよ、託生。食べてしまったものは仕方ないだろ?」
「そうだそうだ。葉山、了見が狭いぞ。何度僕がおまえをここに連れてきてやったと思ってるんだ。
礼のひとつもあってしかるべきだろが」

 確かに章三には恩があった。
「三度目の正直」とは言うけれど、それはお泊りのレベルの訪問であって、おしゃべりタイムを満喫する程度なら、ぼくは章三の手引きで、それこそ昨日も一昨日もゼロ番を訪れていたのだ。

 ぼくはこの決心をした当初、章三に頼らないで自力でギイの部屋に辿(たど)りついてみせると無謀にも意気込んでいた。
三年のぼくが同級生のギイのところへ遊びに行ってもおかしくないんじゃないか。
普通の、ほかの同級生みたいに振る舞えば、そんなに目立たないんじゃないか。
三日くらいなら何とか大丈夫なんじゃないか。
そんな安易な期待を抱きながら、ぼくは三階を目指したのだった。

 けれど、三階の廊下をゆく一年生たちの大半が、ゼロ番の前を通り過ぎるその去り際にちらりとそのドアに目を向けていることに、ぼくは気がついてしまった。
そんな中、もしもぼくがあのドアの前に立ったらどれだけ注目されることか。
安易に想像ができてしまって、ぼくは思わず気後れした。

 それでも、どうしても諦められなくて。

 出直しして再び三階に踏み入ったのだけど、今度はゼロ部屋の前に数人の一年生たちが陣取るようにたむろしていて。
結局、ぼくの意気込みは風船が萎むように鳴りを潜め、足先は当然階下へと反転してしまった。

 二階へと階段をひとつ下るごとに、ひとつ溜息が小さく漏れた。
それでも、どうにかしてでもギイの部屋に行きたいというぼくの気持ちは揺るぐことはなくて。
結局、ほかに方法がなかったぼくは、章三に縋(すが)りついたのだった。

 章三の手を煩わせたことについては本当に申し訳ないと思っている。
口では何と言おうとちゃんと機会を作ってくれた章三には、とても感謝をしている。
でも、ぼくは彼に苺牛乳という代価をしっかり払っていたのだ。
彼にどれほど恩があろうとお世話になりっぱなしであろうと、勝手にぼくの苺大福を食べていいことには繋がらないと思う。

 あの苺大福はぼくにとって、とてもトクベツなものだった。
そんなに簡単に諦めてはいけないものだったのだ。

 それなのに。

「実(げ)に恐ろしきは食べ物の恨みだな」

 そんなふうに、章三は笑いながらぼくを茶化してきた。

 それがぼくにはどうしても許せなくて。

「苺大福、返して!」
「託生、落ち着けよ。苺大福くらいでそんなに騒がなくてもいいじゃないか」

「うるさいっ! どれだけぼくが苦労して苺大福持ってきたか知らないくせに。
ギイと一緒に食べようってずっと思ってて。それをやっと叶えられると思っていたのに!」

 トクベツなその苺大福の意味さえもわかってないでよく言うよ、とギイにさえ八つ当たりしたぼくは、キッとふたりを睨むと、さっさと背を向けて部屋を飛び出したのだった。

 背後から、ぼくを呼び止める声が重なったが、そんなものでぼくの怒りと哀しみを鎮められると思ってるのか、と失笑する。

「ひとりでホント馬鹿みたい……」

 確かにそれは、ひとりではじめたひとりよがりのママゴトだった。

 けれど、それはぼくにとって、一生もののママゴトだったのだ──。





 通い婚を知ったのは古典で源氏物語を習った時だった。

 平安時代、貴族社会の婚姻は、男が女の家に通う「通い婚」で、男は三日間通い、三日目の夜にふたりで餅を食べる慣習があった。
その慣わしは、「三日夜(みかよ)の餅(もち)」とか、「三日(みか)の餅(もちい)」と呼ばれていたらしい。

 今年の春にギイと部屋が別れて、別々の部屋で眠ることになった時、ぼくは最初なかなか眠れなくて、しばらく睡眠不足が続いていた。
同室の三洲新の存在が気になったわけではない。
ただ、いつも一緒にいた人がいない寂しさと不自然さになかなか感覚が慣れなかったのだと思う。

 会いたいのに会えない。
そばにいてほしいのにいてもらえない。
好きな人に自由に会えない日々が続くと、さすがにぼくも夢見がちになった。

 小野小町のところへ通い続けた深草少将を見習って、もしも三日連続してギイの部屋に行けたなら、三日目の夜はぜひ泊まって、一緒に三日夜の餅をギイと食べたい。
そんな女の子が夢見そうな夢を描いて、それを叶えることで、ぼくはギイに会えない寂しさを紛らわそうとしたのかもしれない。
神頼みをするように何かに縋(すが)りつきたかったのか、それとも明日への活力を欲するほど、ぼくは何かに飢えていたのか。
それは自分でもよくわからない。
でも、動機はどうであれ、ぼくは真摯な気持ちで、毎回、お餅を用意していたのだ。

 好きな人と、三日目の夜に食べる餅。
頑張れば今のぼくだって、何とか三日通えると思ってた。

──願掛けするような気持ちで絵空事を夢見た結果がコレかぁ……。

 三日夜の餅のことはぼくだけの秘密だ。今後もギイに話すつもりはない。
これはぼくの気持ちの在り方であって、ぼくの決心みたいなものだったから、ぼくだけが知っていればいいことなんだ。

 ここ最近、誰かがギイの部屋に行く時は、できるだけぼくも誘ってもらうようにしていた。
今のぼくとギイの現状下で三晩も続けて一緒に夜を過ごすなんて、いくらなんでもぼくにだって無謀だとわかっていたから。
だから、朝でも昼でも夕方でも、一歩でも三階ゼロ番に足を踏み入れられたなら、通った数に入れていた。
それが今のぼくにできる精一杯の通い方だったからだ。

「せめて今夜くらいは、ギイと一緒にお餅を食べたかったな……」

 一緒に夜を過ごすわけでもない。ましてや、泊まるわけでもない。
それでも三日連続で通える機会はなかなか訪れなくて。
およそ一ヶ月挑戦して、今夜はやっと巡ってきた三日目になるはずだった。

──でも、もういいや。やるだけのことはやったんだから……。

 無駄に終わった三度のお餅。草餅、柏餅、苺大福。
それほど甘いものが得意ではないぼくが、どうしてギイの部屋に和菓子など持っていこうとしたのか。
そこに至る理由なんて誰も想像したりしないだろう。

 そうして、ぼくが通った道跡は、日々の忙しさに紛れて、みんなの記憶から少しずつ消えてゆくのだ。

──それでいい……。それでいいんだ。

 所詮、ひとりママゴトだったのだから。

 ぼくが通った日々など、あってなかったようなものなのだ……。





 二七○号室に戻ると、早速、「どうしたんだ、いやに早いお帰りじゃないか」と三洲新からいつもの当てこすりを頂いた。

 最近はこんなことが続くものだから、三洲も毎度の挨拶のつもりで言ったのだろう。
だけど今夜は、三洲の相手をする気力がぼくにはない。

「疲れたから、もう寝るね」

 普段なら、「別に喧嘩したわけじゃないよ」とか、「急にギイに用事ができたんだ」とか、弁解やら言い訳やらをあたふた連ねて、しきりに痴話喧嘩の疑いを晴らそうとするぼくであるのに。
その夜のぼくはほとんど三洲を無視するように早々に床に就いたものだから、勘のいい三洲は何かを察したかもしれない。

 その後、特に話しかけられるわけでもなく、「おやすみ」とだけ言われて、そのままぼくは眠りについた。

 翌朝もぼくは普段と同じように起きて、学食に行って朝食をとった。
そして、せっかくの日曜なのに何をするでもなく、部屋で読みかけの本を読んで半日過ごした。
午後からは温室に行ってバイオリンを弾き、夕方、薄暗くなる前に部屋に戻った。

 月曜もいつもどおりに授業を受けて、火曜も水曜も変わらない日々を過ごした。

 その間、「苺大福はちゃんと買って返すからそんなに怒るなよ」と章三が再度謝ってきたけれど、
「あれはもういいんだ。あの日じゃなきゃ意味がなかったんだから」
別にもう怒ってないよ、とぼくは笑顔で言い返した。

 嘯(うそぶ)いたわけでもない。不貞腐れているわけでもなかった。
ただ、気が削がれたというか。
一気に力が抜けたような、だるいような疲れを感じていただけだった。

「あれからギイに会ったのか? 葉山のこと探してたぞ」

 ギイがぼくを探そうが、そんなことは知ったことではなかった。

「ぼくは逃げも隠れもしてないよ。ただいつもどおりの生活をしているだけだもの。
ギイがぼくを見つけられなかったと言って、ぼくのせいにしないでほしいな」
「おまえ、しっかり怒ってるじゃないか」

「これは地顔だよ、悪かったね」
「そういう言い方がすでに怒ってるんだよ」

 ギイに会ってしまったら、何を言ってしまうかわからなかった。

 でも、一方で、ぼくは何も話したくなかった。

 話せない。話したくない。

 ぼくの決心はぼくだけのもの。
誰かに話すべきことではないし、それが例え相手がギイであろうと同じだった。

 ぼくの秘密の決意はぼくだけが知っていればいいことなのだ。

 だから、ぼくは本気で墓場まで持っていくつもりでいた。





 ギイが二七○号室まで足を運んだと知ったのはその翌日だった。
部屋に戻ると、「ちょっと前に珍客が来たぞ」と三洲が教えてくれた。

「珍客?」
「そう、上の住人」

 人差し指を天井に指して応える三洲は、おもしろそうにぼくを見た。

「あれからずっと喧嘩してるのか?」
「別に。喧嘩なんかしてないよ」

「葉山に部屋に来てほしいって言ってたぞ」
「ぼくはこれからバイオリン弾きに行くから。そんな暇はないな」

 人当たりのいいギイではあるが、彼は意外と三洲を苦手としているので、滅多にこの部屋に来ることはない。
三洲に借りを増やすのを極力さけているギイの様子を、これまた三洲が楽しげに見下ろしているのをギイ自身、知っているから、余計二七○号室から足が遠のくのだろう。

 悪循環だな、と思う。

 でも、そのギイがここに来たということは、それこそ、三洲に借りを作ってまで彼を動かすに値する大事な理由がギイにあったってことなのだろうか。

──もし、何かがあったとしても、ぼくにギイの心なんて読めるはずないんだ。

 考えを振り切るように二、三度頭を振ってから、バイオリンのケースを手にする。

「夕方まで温室にいるね。三洲くんはこれから生徒会?」
「ああ。たぶん遅くなると思う」

「わかった。じゃ」

 けれど、ギイが二七○号室に来たのはその日だけではなかった。
翌日もギイが部屋に来たらしいのだ。
らしい、というのは、ぼくはちょうど入浴中で、バスルームから出たら三洲がそう言っていたからだ。

 ぼくはただ、「そう」とだけ返事をして、その日も早々に床に就いた。

「最近、葉山は寝るのが早いな。
夜中、何度も起きるくらいなら、思い切って睡魔が襲うくらい起きてたらどうだ?」

 三洲はもともと眠りが浅いのだろう。
もしかすると、ぼくの身じろぎに目が覚めたのかもしれない。

「ごめん、起こしちゃってた?」
「いや」

「眠いんだ、すごく。でも、眠ってもすぐ目が覚めるんだ。でもまたすぐ眠れるんだけど」
「へえ。気になることでもあるんじゃないのか?」

「別に、今はないかなあ」
「ふうん。今は、ねえ」

 三洲はそこで会話を打ち切ると、参考書に目を通しはじめた。

 薄暗闇の中に煌々と三洲の机の照明が明るく灯る。
部屋の四隅の薄暗いところをじっと見つめていたら、あくびが出た。

「おやすみ」

 三洲の声が、遠く離れたところから聴こえた。





 翌日の土曜も、ぼくはいつもどおり過ごすつもりでした。

 朝起きて、食堂に向かう。
すると、途中、例の下級生たちと談笑しているギイを遠くに見かけた。

 そばには章三もいて、すぐにぼくに気づいた。
「おい、葉山」と呼び止められたけど、ぼくは気付かないふりをして通り過ぎた。

 そうして、その日の授業が終わると、ぼくは速攻で外出届を出して、祠堂から逃げ出すように、来たバスに乗り込んだのだった──。





 春には遅く、夏には早いこの季節。

 新緑の山の息吹に慣れた身に街中の空気は、熱気の籠った暑苦しさを感じさせる。

 適当に麓の街をぶらつきながら、途中、楽器店と本屋で買い物をして、「駅入口」の交差点角の行き慣れたハンバーガーショップで身体を休めた。

 土曜の午後だからか、いつものことなのか。店内は客で溢れていた。
けれど、珈琲ひとつを買い求めて、テーブル席がある二階に行くと、思っていたよりも席はいくつか空いていた。
その幸運を目にして、思わず口にしようとした「ラッキー」を慌てて飲み込んで、ぼくは席を陣取った。

 ふたり用のテーブル席に荷物を置いて一息つくと、足の裏がジンジンと疲労感を訴えてくる。
ぼけっと歩いていたから気づかなかったけれど、もしかしたら歩いた距離は相当なものだったのかもしれない。
そんなふうに、この二時間ばかりを振り返ってみた。

 途端。あ、と気づいたその現実に。

──そういえば、昼も食べてないんだった……。

 空腹ではなかったから飲物しか注文しなかったけれど、もしかしたらセットメニューを頼んだほうがよかっただろうか。
まわりのテープルから揚げたてのポテトの匂いが鼻をくすぐり、その時点でやっと、小腹が空いてたのだと実感した。

 けれど、カラカラだった喉を潤して、今やっとホッとできたところなのだ。
席を立って、あの喧騒の中、もう一度、列の最後尾に並んでまで何かを注文する気にはなれない。

 街路樹の影がゆらゆらと窓に映っている。
それが何気なしに目の端に入ってきて、自然と視線が窓の外の景色に向いた。

 桜並木の葉が綺麗に鮮やかな緑色に生い茂って、緑の直線がふたつ、真っ直ぐ遠くまで平行に続いている。

 つむじ風が突然、吹いたのだろう。店の真下の街路樹の日陰に立っていた女性の帽子が飛ばされて。
彼女の連れだろうか。そばの男が咄嗟に帽子を掴み取った。
それを見ていた彼女の唖然とした表情が、次の瞬間、柔らかな微笑みに変わる。
その心情の変化が手に取るようにわかって、かわいいなって素直に思った。

「言いたいことがあるなら言えってのよ。
超能力者じゃないんだから、あんたが何を考えてるのかなんて、私にわかりっこないってーの!」
「そりゃそうよねー」

「私はダメもとでも一応トライしてるんだからさー」
「でも男なんて、いくらこっちが懇切丁寧に説明したところでどうせ一生かかったって女心なんかわかりっこないって。
頭悪いんじゃないのって言いたくなるくらい、言葉が通じない生き物なんだから。
だから、私は逆にあんたがエライって思うのよね。
何だかんだと言っても、あんたってばちゃんと相手にぶつかっていくじゃない。
あたしなんてもう諦め状態よ。あいつ相手じゃどうせぶつかったところでどうにもならないんだもん。
あいつ、ムカつくと黙り込むのよ。完全無視状態っていうの?」

「それも困るわね。打つ手なしって感じ」
「でしょ? それなら、あえてお互いギスギスすることないじゃない?
こっちが喧嘩吹っかけなければそれで済むんだもん。向こうもたぶん、そう思ってるんじゃないかなあ」

 背中越しから、女性ふたりの会話が耳に届く。

 よくよく周りに意識を向けてみれば、前の席からもカップルの甲高い声が聴こえてきた……と言っても、見事なくらい女性の声しか聴こえてこなかったけど。

「足が痛い〜。もう歩きたくなーい」
「もういいじゃん、今日はサイテー」
「あのオバサン、何様よ! バーゲン品に目の色変えちゃってさ。ぶつかって来ても謝りもしないのよ!」
「タカ、あんたさっきポニーテールの子、見とれてたでしょ!
何さ、ちょっとばかり可愛い子がいると目移りして。やってられないわよ!」
「あー、もうこれ甘すぎ。そっちのと取り替えて」
「ねえ、夜はパスタにしよ。カルボ食べたい」

 男のほうは、ぼそぼそっと返事を返しているみたいだけど、基本的には、うんうんと頷いているだけのようだ。
ぼくからは丸めた背中しか見えないので、何を言っているのかはほとんどわからない。
あちらを向いているので、余計こちらには声が届きにくいのだろうとぼくは推測した。

 ちょうど四時を回って、喉を潤しに来る客も多いのだろうか。
階段がある方向から、いかにも今買い物して来ましたと言わんばかりの紙袋を両手に持った男女がやってきた。

「あ、あそこ空いてるっ。って、もお! 汗臭いから近付かないで」
「ウルセッ! おまえだって汗くらいかくだろう!」

「あたしはデオドラントスプレーしてるもん。あんたとは違うわよ」
「おまえ、一時間も遅れてきてその態度か? 少しは待たせてゴメンくらい言えってんだ」

「だいたい、私は今日は忙しいって言ったじゃない。遅れてもいいって言ったのはどこの誰よ」
「あー、すみませんでしたねー、俺が悪ぅございましたよ。けど、気になってたんだから仕方ねえだろ?
で? 例のレポートうまくいったンか?」

「ああ、あれね。もうバッチシよ! ホントにあの時はありがとう。
もしかしたら間に合わないかと思っちゃった」
「おーおー、精々俺に感謝しろよ。だけど次はないからな。おまえ、これに懲りて余裕持って書くこった」

「持つべきものは理系の彼氏ねっ」
「アホか。おだてても無駄。次はねえって言ってんだろ」

 他人の会話を盗み聞きするのはいけないことだと思うけど、聞こえてしまうものは仕方がない。

 それにしても、と感慨に思う。

──みんな、意外と言いたい放題なんだなあ。

 自分の言いたいことをズバズバ連ねて。
例え、会話として成り立たなくても、ちょっとくらい失礼な言い方でも、それがなぜか許されている。
それでもちゃんと相手に返されて、最後にはまともな会話になっているのだから、とても不思議だ。

 脈略もない話の展開でも、相手が許せばそれがふたりの空気となる。

 それはすごく意外な発見だった。

 ぼくとギイの場合はぼくが全部を言わなくても、ある程度ギイの中でぼくが説明しきれない部分を補ってくれるから、そうそうそれが言いたかったんだって最終的にまとまるってカンジで。
ぼくがあれがいい、こうしたいって機関銃のようにぽんぽん言う機会など今までなかった気がする。

 ギイが、「託生、コレはどうだ? こっちは?」って先に聞いてくれるから、ぼくが自分から言わなくても済んでるってことなのかもしれないけど。
ぼくに尋ねてくるということは、ぼくが何を考えてるか、彼なりにぼくを理解しようとしてくれているということなのだろう。
そう考えると、ぼくの黙りこくるという態度はギイにとっては最悪であって、情報源をひとつ失くすことになってしまう。

「情報収集は確実に」をモットーにしているあのギイである。
ぼくのことに限って言えば、ぼくの言葉が一番有力で確かな情報であるはずだから、それが途絶えてしまうとなれば……。

──さすがのギイだって打つ手がなくなるかもしれない……?

 今更だけど、気がついた。

──そうだよ。ギイだって超能力者じゃないんだ。

 ぼくとギイは同じものを見ているようで、違う見方をしていることが多い。
確かに能力の差や趣向の違いがあるのかもしれないけれど、でもそれは個人差となってそれぞれの持ち味にもなりうるのだ。

 ぼくが持っていないものをギイがたくさん持っているとするならば、ギイが持っていないものをぼくが持っているのかもしれない。

 感じたり、思ったり、考えたりすることも同様だ。
何を考えているかなんて、ぼくが自分の気持ちを言葉にしなければ、ぼくの真の気持ちなどギイには伝わらない。

──ギイが知らなくてもいいことまで言うつもりはないけれど。
ぼくがどんな気持ちでいるかとか、ギイにしてもらいたいこととかは、ぼくが口にしないと本当の意味でギイにはわからない……?

 店内の喧騒から遠く離れて、意識を飛ばす。
窓ガラスの向こう側、街外れの先の先に拡がる、祠堂が建っているであろう山の景色がわずかに青みを帯びてそびえて見えた。

 時計を見れば、短針は五時を少し回っている。
その山の色も、もうすぐ夕焼け色に染まるに違いない。

 初夏には少しだけ早いこの季節、これから夏至に近付くごとにますます日が伸びていくのだろう。
なのに最近、毎日めまぐるしく早く過ぎてゆくような感覚に襲われてるくせに、ぼくには夜がすごく長く感じていた。
自分でも時間の感覚がおかしくなってしまったような気がしていたのだけど、ホントにおかしかったのかもしれない。

 ふぅ、と胸に溜まっていた空気を押し出した。

──ギイ、今日も部屋に来てくれたのかな……。

 もしかしたら今頃、三洲に、「まだ喧嘩してるのか。恋人の扱いもままならないようじゃ崎の恋愛スキルもたいしたことないな」あたりの嫌みのひとつでも言われているかもしれない。
あの三洲のことだから、しっしっと野良犬を相手にする時みたいにギイを扱って、ギイはすでに追い払われているかもしれない。

──でも、ぼくがギイだったら……。

 ぼくの頭の中にもうひとつの考えが浮かびあがる。
ここ数日の自分の行いを振り返ると、ぼくがギイの立場だったら相手が頭を冷やすのを待つかもしれないと漠然とそう思った。

 果たしてギイは、しばらくぼくと距離をおこうとするだろうか。

 それとも──。





 アーケイドから買い物袋を持った人々が波打つように駅の方向へ向かって歩いている。
逆に、数にしてその半分くらいの人々が「駅入り口」の交差点を曲がってアーケイドに入ってゆく。

 家に帰る人。これから誰かと待ち合わせをする人。急いで買い物をしようとする人。
人の数だけ、今日という日の過ごし方がある。

 店内の喧騒が小波(さざなみ)のように聴こえてくる。
どうしてか、突然、人の会話が気にならなくなった。

 小さく、人の波を逆らうように早足で歩く人を見つけた瞬間、ビクッと一瞬、身体が震えた。
ひとりだけ、歩く早さが飛びぬけて速い。

──まさか……?

 ぼくの恋人には、普段は姿勢がいいくせに、早歩きになると少しだけ前かがみになってわずかに肩を揺らす癖がある。
気が急いている時は顕著にその癖が出て、足の歩幅もぐんと拡がるのをぼくは知っている。

 ぼくも歩くのは早いほうだけど、そのレベルになると彼に追いつくのはすごく大変で。
でも、ぼくは「待ってよ」なんて、たぶん言ったことがないかもしれない。
きっと彼のほうが先に気がついて、ぼくに合わせて歩いてくれていたからだろう。

 明るい髪の頭を左右に振りながら、キョロキョロと何かを探してるのがわかる。

 スクランブル交差点で信号に捕まると、彼は足をピタリと停めて、拳を顎に持っていった。
アーケイドに向かおうか、駅前の商店街に向かおうか。考えているのだろうか。

 そうこうしているうちに赤信号が青に変わって、横断歩道に人が溢れかえった。

 彼が目指したのはアーケイドだった。
横断歩道を渡って、一直線にこちら側に向かってきた。

 各店舗を覗くつもりなのか、彼がまたあたりを見渡す。
だが、彼はハンバーガーショップの店先の街路樹の下で足を止めると、ふいに空を仰ぐように顔をあげた。

 びっくりした。一瞬、目が合ったのかと思った。
ぼくは身体を起こした反動で、思わず椅子を引いてしまっていた。

──ぼくに気づくなんて、そんなことあるわけないよね……。

 二階から見下ろすぼくからは外の様子がすごくよく見えるけれど、外にいる人が店内の、それも二階の様子などわかるはずがない。
気になって、もう一度窓ガラスの向こう側を見たのだが、街路樹のところにはすでに彼の姿はなかった。

──どこかに移動したのかな。

 詰めていた胸の空気をぼくはゆっくりと吐き出した。

 だが、ざわざわと波立つ声に誘われて、二階入り口近くに視線を泳がすと、そこにはギイがいて、まっすぐこちらを見ていた。

──あ……。

 心臓が止まるかと思った。たぶん、ぼくの寿命はこの一瞬で何年分か縮んだと思う。

 ギイはすぐさまこちらに来ようとはしなかった。
彼がしばらく動かないでいると、ギイの姿を見とめた女性のひとりが徐(おもむろ)に、「こちらの席にどうぞ。空いてますよ」と自分のテーブルに誘った。
たぶん、十人中七人は彼女のことを「綺麗」と評するに違いないだろう。
彼女の緩やかにパーマをかけた髪が優しい感じを思わせた。

 その美人な彼女に対し、
「いや、連れがいるので」
ギイが即座に断りを入れる。

 一瞬、彼女は顔を引きつらせつつも、それでも再度、「だったらお連れさんもどうぞ」と朗らかに微笑んだ。

「もうあっちに座ってるから」

 ギイがそこから歩き出すと、彼女は「そう残念だわ」と、本当に残念そうな表情を浮かべた。

 満席ならともかく、ほかに空いている席もあるのだ。普通は相席を望まないだろう。
それにギイは、「連れがいる」とはっきり断わったのだ。彼女にはギイを誘う術(すべ)はすでにない。

 だが、きっと彼女に誘われて喜ぶ男はたくさんいるのかもしれない。
彼女は素早く身支度を整えると、テーブルの上を手際よく片付けて席を立った。

 目立つ恋人を持つのは考えものだ。
ギイが移動するごとに、ほかの客の視線も動く。

 それでも、ギイがぼくの向かいの椅子を指して、「ここいいか?」と言うと、連れが同年代の男ということで興味がわずかに薄れたのだろう。
ありがたいことにこちらに向ける視線の半分が減った。

「オレから逃げてるわけじゃなさそうだな」
「何のこと?」

「もしかしたら、託生はオレから逃げたかったのかなと思って。
でも、さっき逃げる時間を与えても、おまえ逃げなかったから。だからホッとした。よかったよ」

 ギイがぼくの前にある紙コップを見て、「もう飲み終わった?」と尋ねてくる。

「うん。空っぽ」
「そっか。じゃあ、ここ出よう。外野がうるさい」

 ぼくが返事をする前に、ギイはテーブルの上のトレイをさっさと片付けてしまった。

「強引だね」
「悪いな。今日はそんなに余裕がないんだ」

 そうして、「行こう」と早口で言うと、ギイはぼくの手首を掴んで歩き出した。

「放して」
「放さない」

「ぼく、逃げたりしないよ」
「信用できない」

 何度不毛な会話を繰り返しただろうか。

 握られた手首がすごく熱かった。
じんじんと熱を持って、波打つ脈がギイ伝わってしまったらどうしようと思った。

 ギイはぼくを誘導しながらアーケイドを突き進むと、途中、脇道を曲がり、「小川アメニティ」に入っていった。

 山からの水が小川となって流れる小川アメニティは、その小川に沿うように煉瓦作りの散歩道が整備されている。
道々には花壇があり、パンジーなどの色鮮やかな花が咲き乱れ、一定の間隔で植えられた木々とともに季節ごとに散歩道をゆく人の目を楽しめてくれる。

 新緑の季節になると木々が影を作ってくれ、その下にはうまい具合にベンチがあり、そのほかにも三箇所ほど円形の屋根付きのベンチが市民の憩いの場として設置されているのをぼくは知っている。
そういう工夫のひとつひとつを見ても、この小川アメニティの設計者の心尽くしが感じられて、商業地区画計画は利用者の立場になっての街改革なのだと、ぼくはしみじみ感じることができた。

 ここは、以前、ギイと街を探索していて偶然見つけた場所のひとつだ。

 ギイは小川アメニティに入る前に、自動販売機でお茶のペットボトルを二本買っていた。
その時ですら、ギイはぼくの手首を放そうとしないから、コイン一枚取り出すのもすごく大変で。

「右ポケットの中に財布あるから取ってくれ」
「自分で出せばいいじゃない」

「いいから頼む」

 ぼくが財布を取り出すと、「こんなことなら手錠でも用意しとくんだった」とぼやきながら、器用にもギイは小銭入れを片手で開けてコインを出した。

「手錠っ? 冗談じゃないよ」
「そう、冗談じゃない」

 ギイのそれはぼくのとは意味が違うだろう、と文句を言おうとしたが止めておいた。 
代わりに、「手錠なんて鎖をペンチとかで切ったらそれで終わりだよ」と憎まれ口を叩く。

「簡単に切れない鎖にすればいい」
「……手錠なんかしてたら、お風呂に入るのだって大変だよ。第一、服が脱げないじゃないか」

「服なんて。そんなの切り裂けばいいだろ?」
「……じゃあ、どうやって服を着るの?」

「そんなの別に着なきゃいいだろが。オレと託生の仲だ。特に困らないだろ?
そういう生活、一度くらいしてもいいし。今度うちの別荘で試してみるか?」

 ギイは万事、この調子だ。

「……ギイ、いい加減にしなよ。ぼくは逃げも隠れもしないよ?」
「祠堂から逃げ出したくせに?」

 バレてたか、とぼくは小さく唸った。

「でも、ギイからは逃げないよ。それはホント。だからコレ、放して」
「ヤダ。別にこのままでもいいじゃないか。それとも不都合があるのか?」

 オレ相手に? そう、いかにも語っているその不遜な視線が小憎らしい。

 空いているベンチに促されて、ふたりで座る。

 ギイはどうにも放すつもりがないらしいので、仕方なく、ギイと協力してペットボトルのキャップを開けることにした。

「すごく大変なんですケド?」
「でも不可能じゃないだろ?」

 だけど、わざわざすることじゃないと思う。

「なあ、託生」
「何?」

「オレ何かヘマしたか?」
「……ううん。ぼくが空回りしてるだけだと思う」

「なら、何に空回りしてるのか、訊いていいか?」

 ギイは優しい。今もぼくの気持ちを汲もうとしてくれる。

 でもぼくは、ぼくのホントの気持ちを言いたくない。
だけど、何か言いたい気持ちも確かにあって。
喉まで出かかってるのに、言えないのがとてももどかしかった。

「言いたいことがあるなら言ってくれよ。黙ってたらわからない……」

 最初から順序だてて話し出したら、結局はギイに知られたくないことにまで触れてしまう気がする。

 だから、言えない。何て言っていいのかわからない。
口を開くのだけど、声が出ない。
まるで夏祭りの、掬われるのを待つ金魚みたいに口をパクパクするだけで、何も言えないまま。

 そんなぼくをギイはじっと黙って待ってくれていた。

 せつなさでいっぱいのギイの顔。
ギイを見るのが何だか辛くなって、ぼくはつい俯いてしまった。

「……託生」

 その逡巡するようなギイの声に、はっと顔をあげると、それこそ何を言っていいのかわからないまま唇を噛むギイの顔が間近にあった。

 思わず、何か言わなくちゃって気が急いた。

 手首からギイの汗ばんだ熱が伝わる。

 ギイのドキドキが、ぼくに伝わってくる──。

「……何でもいい?」
「ああ、どんなことでもいい。託生の言葉なら」

 言いたいことはたくさんある。
伝えたい気持ちもたくさんある。

 だから少しだけ、脈絡もなく勝手ばかり言ってた彼女たちを真似してみようと思った。

 順序なんて関係ない。
自分の気持ちのまま、素直に思ったことを口にして、溜まっている鬱散を晴らしてみようと思った。

 相手はギイなのだ。
彼に言えないことをほかの誰にも言えるわけがないのだから。

「……がよかった」
「ん? 託生、聞こえない。もっとはっきり言ってくれ」

「……緑茶よりも健康茶のほうがよかったって言ったの!」
「そっか。それは悪かった。ほかには?」

「……女の人には優しくすべきだとは思うけど。でも、できるだけ優しくしないで」
「わかった。あとは?」

「赤池くんに食べられちゃった苺大福、返してほしい」
「苺大福なら──」

「あの苺大福じゃなきゃ嫌だ」
「あー、そりゃちょっと無理だなあ。
もう消化されてるだろうし、たぶんカスはもうトイレに流されてるだろうしな」

 一瞬、ふたりの視線が複雑に絡んだ。
途端、ぷっ、とお互い噴き出した。
その言葉が意味するものをまともに想像してしまったら、あの苺大福に固執するのが馬鹿らしくなった。

 でも、これだけは言いたい。

「だってすごく悔しかったんだ。ぼくがせっかく用意したのに」
「うん」

「ギイと一緒に食べようって楽しみにしてたんだよ」
「うん」

「ギイが赤池くん、止めなかったのがいけなかったんだ」
「ごめんな」

「……昨日の豚汁もぼくのだけ人参と牛蒡ばかりで、肉なんて入ってなかった」
「話飛ぶなあ。それで?」

「朝の卵焼きに殼が入ってて、じゃりじゃりしてた。食べるの嫌だった」
「そりゃ災難だったな」

「ギイが交差点にいるの見つけた時、びっくりした。まさか下山してくるなんて思わなかった。
それもあのハンバーガーショップに来るなんて。……どうしてわかった?」
「前に約束しただろ? 待ち合わせはあそこにしようって。
迷ったらウロチョロしないであそこで待ってろってさ」

「うん、だからかな。ぼくもあそこにいたかったのかも」
「託生がちゃんと覚えてくれてて助かったよ。街中、走り回るところだった」

「迷わずまっすぐ来たクセに」
「そんなことないぜ。結構悩んだんだぜ。楽器屋か本屋か、そこらへんも候補に入ってたし」

 やっぱりぼくの行動は読まれてるなあ、とつくづく感心してしまう。
ちょっとだけ悔しく思った。

「ギイはぼくのことよくわかってるようだけど、ぼくはギイのことわかってないのかもしれない……」
「そんなことないさ。おまえ、ちゃんとオレをわかってるよ。だからこうして会えたじゃんか」

──ああ、そうか。ぼくはギイに探してほしかったのか。

 ギイが来るのがどこかでわかってたから、あの待ち合わせ場所で待っていたかったんだ。

「それでも、ギイのほうがぼくのことよくわかってるよ。それ、ちょっと悔しいな」
「じゃあさ、これは? おまえは知ってるんだろ? オレの背中のどこに黒子があるのか」

「な、何を急に! ギイ、ここ公衆──」
「ちなみにオレは自分の背中なんて見れないから。ほら、託生のほうがオレのこと知ってるじゃないか」

 そういう切り返しって、すごくズルイと思う。

 でも、ギイと話していると、知らないってことと知ってるってことの良し悪しなんてほんとはないのかなって思えてしまうから、ホント不思議だ。

「ま、別にオレ、自分の身体なんて興味ないし。
そんなもんは託生だけが知っていればいいことだもんな。そうだろ?」
「え? あ……、でも……」

「オレのことなんて、これからだって知る機会はいくらでもあるだろ?
オレだって託生のこと、もっと知ってゆくつもりだしな。
昨日の託生と今日の託生ではやっぱり一日分違ってるはずだから、オレの知らない託生がここにいるんだ。
だからさ。お互い、これからもきっと知らないことばかりなんだぜ。だけどそれってすごくわくわくしないか。
その時その時の相手のことを少しずつ知っていく、その過程を楽しむのも恋愛の醍醐味なわけだもんな」

 相手がいてこその恋愛。

「……そうか、そうだね。きっとそうなのかも」

 恋愛は相手を無視して、自分ひとりでどうこうしても仕方ない。

 ひとりママゴトが失敗に終わったのは、ひとりよがりのぼくへの戒めだったのかもしれない。

「おっと、いけね。忘れるところだった。託生、左ポケット漁ってみろよ」
「は? 左ポケット?」

「そ」

 まさか手錠とか出てこないだろうな、と少しだけ訝しみながら、言われたとおりギイのポケットに手を入れる。
何かに触れて、そのまま取り出したら。それは地味な包装紙の包みだった。
よくこんな大きさのものがポケットに入っていたものだ。

「開けてごらん」
「あ、うん」

 何だろう、と中身を想像する前に、ぼくはセロテープを剥がしていた。

 出てきたのは──。

「え……、これ、どうし……」

 どうしてわかったの、とは最後まで言えなかった。

 こんなの反則だ。どうしたって言葉が詰まる。

「託生が購買でそれ買ってるの見かけたって聞いたからさ。
苺大福は弁償分、草餅と柏餅は詫びの分、安倍川餅はオレの気持ち」

 そう言って、柏餅は探すの大変だったと笑いながらギイは口を窄(すぼ)めると、すかさず「褒めてくれ」と言って頭を下げた。
どうやら撫でろということらしい。
そのギイの仕種があまりにもかわいかったから、ぼくもついノッて、エライエライと撫でてしまった。

「ま、行事食みたいなモンだもんな」
「うん。よく見つけたね」

「デパ地下メチャ漁った。でも、託生が最近、和菓子に凝ってるのは知らなかったな。ちょっと意外だった」

「まあ、そうだろうね。ぼく、餡子って特に好きなわけじゃないし」
「そうだよなぁ。託生がそう言うのは何となくわかるよ」

「うん。甘いのはちょっとね。でも甘すぎなければ平気だけど」
「なのに和菓子がマイブーム?」

「あー、うん。コレはね、トクベツ」
「それってオレにも言えないコト?」

「……今は無理。いつか、話せたら話すよ」
「今じゃ駄目なのか?」

「うん」
「どうして?」

「……えっと、恥ずかしいから?」
「餡子入りの餅が恥ずかしいのか? あー、もしかしてそれってヤキモチ?」

「ギイ、調子に乗りすぎ!」

 ギイの肩を押したら、手首を握られたままのぼくまでヨタついてしまった。
それがツボに入ったらしく、ははは、とギイがますます笑う。

「せっかくだから食べようか」
「うん」

 それから、いかにも上品そうな小ぶりの草餅、柏餅、苺大福をそれぞれ半分づつに分け合ってふたりで食べた。
苺大福は苺を半分に千切るのは無理だったので、ボクが先にかじって、あとからギイが「うまそう」と言いながら、ぼくの歯型付きの残りを一気に口の中に放りこんだ。
安倍川餅は三個入りだったので、ぼくがひとつ食べて、残りふたつをギイに渡した。
黒蜜をたっぷりと絡めたきな粉をまぶした餅はすごく弾力性に富んでいた。

 それぞれの和菓子をふたりして片方の手を使って食べたあと、これまたふたりでペットボトルのキャップを開けて、流し込むようにお茶を飲んだ。

 お茶っておいしい。
そんな感動すら覚えた。
つくづく、餡子は喉が渇く食べ物だな、と実感する。

「何だかふたりして無理して食べてるみたい」
「そんなことないぞ。この店のは結構うまい。甘さ控えめで食べやすいよ。
でもまあ、続けてはちょっと辛いけどな」

「続けて?」
「ああ。昨日、一昨日っておまえのとこ持っていったんだけど、託生に渡せなくて自分で食べたから」

 昨日も一昨日もってことは、つまり……。

──そっかギイ、三日連続でぼくのとこに来てくれたんだ。

 ギイの横顔をちらりと見やってから、手の中の、今にも零れそうなほどしっかりと粒餡が詰まった半分に千切れた草餅を見る。

──まさか……。偶然だよね。

「ん? どうした?」
「あ……、いや、別に」

 でも、本当に気のせいだろうか?

 もしかしたらギイのことだから……。

──どうしよう。 

 期待に胸が膨らんでしまう。

「託生、顔が赤い」

 ギイがそう指摘してくるから、照れ隠しに握られた手首を持ち上げて、「もう、放してよ」とギイに訴えてみたのだけど、「いいじゃないか」と、ギイは笑って受け流して頑として放してくれなかった。

 ずっとギイがぼくの手首を握ったままなので、和菓子を半分こするのも、お茶を飲むのも、ふたりで共同作業しなければならなくて。
いつも何気なくしていることが片手が使えないだけでこんなに不自由になるものなのかと、両手が使えるありがたみを改めてぼくは噛み締めるのだった。

 ギイのほうはこの不自由さをすごく楽しんでいるようで、「まだダメだ。祠堂まではこのまま、な」とのたまう始末。

「え? それ本気で言ってる?」
「正確にはバスを降りるまで、かな。託生はそれまでしっかりオレに連行されてなさい」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せるギイの上に、オレンジ色した木漏れ日がゆらゆら揺れて、幻想的な世界を作り出した。

 もうすぐ陽が暮れるのだとわずかに赤らむ陽の光がぼくらに教える。

「そろそろ帰らないとな」
「……うん」

 ふたりだけで過ごす時間を名残惜しそうに、ふたり同時にベンチから腰を上げた。

 その時、足元の煉瓦の先をふと見ると、小さな靴が見えて。
目線を少し上げると、ぼくとギイの前に、恥ずかしそうにもじもじと身体を捻りながら、小さな女の子が立ちはだかっているのに気がついた。

「お兄ちゃん、カッコいいね。これあげるっ」

 女の子は早口に言うと、黄色い花を一輪、ギイに向かって差し出してくる。
少し離れたところに女の人が立っていて、見守るようにこちらをじっと伺っていた。
女の子の母親だろうか。

 握り締めた黄色いタンポポの花は、少しだけ首が下を向いていた。
摘んでからしばらく時間が経っているのだろう。
ギイにあげようかどうしようか、長い間迷っていたのかもしれない。

 そんなことをぼくが想像していると、横のギイがその女の子から視線を外して、いかにもわざとらしく、ちらりと横目でぼくを見るのが見えた。

──あー、そういうことですか。

 期待をこめてギイを見上げる無垢な瞳。
こんな目で見つめられてしまったら、断わるのはやはり忍びない。

「……十歳以下はいいよ、特別に」
「了解」

 ぼくの応えに、ギイはくすりと目を細めて微笑み返す。
その彼の頬の緩み具合がすごくぼくの癪に触って、ギイばかり喜ばせてどうするんだよ、と自分で自分に突っ込みたくなった。

 はあ、と溜息が出てしまう。
モテる恋人を持つと、いつだって苦労するのである。

 ギイが女の子の目線に並ぶように腰を曲げると、つられてぼくの腕まで引っ張られた。
もう放してくれって本気で言いたい。

 でも一方で、このままずっと放さないでって思っているぼくもいて。
ギイがこうして繋いでくれてるのがすごく嬉しくて。
自分でもどうしようもないくらい、ぼくの中はグチャグチャになっていた。

「お花、ありがとう。じゃあ、今度はオレから。はい、どうぞ。
実はさ、オレたちこれからお家に帰るんだけど、結構帰るのに時間がかかるんだ。
だからこの花をここでもらっても、持って帰るまでにはたぶん萎れてしまうと思うんだよ。
それだとせっかく綺麗に咲いているのに花がかわいそうだろう?
だからそれはキミがおうちに持って帰ってお水をあげてくれるかな。
それに、コレ。ほら、オレの手は塞がってるんだ。悪いけど、タンポポ持てないんだよ。
こっちの手はバス乗る時に必要だしな」
「……ん、わかった。でも、どうしてオテテもってるの?」

「あー、それはこのお兄ちゃんがオレから逃げ出さないように、かな。
このお兄ちゃんがいなくなるの、オレ嫌なんだ。すごく困るんだよ。
だからさ、こうしてしっかり捕まえてるんだ。
誰だってさ、大事なものはちゃんとこの手で握っておきたいもんだろ?」

 女の子は自分の手の中のタンポポを見て、うんと頷いた。

 何てことを小さな子に言ってるんだ、とぼくは内心ハラハラしながらふたりの会話を聞いていたのだけれど、女の子のほうはギイの言葉に共感するところがあったのか、満足そうに笑顔を返してきて、バイバイと大きく手を振ってくれた。
同じようにバイバイをふたりで返して、去ってゆく女の子のうしろ姿をしばらく見送る。

「ちゃんと納得してくれてよかったな。託生のお願いもちゃんとクリアできたし? 円満解決だったろ」
「……まったく策士なんだから」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 えっへん、と明るい口調で偉そうにふんぞり返るギイなんて、きっと誰もが見られるものではないだろう。
すかさずぼくの頬にキスしてくるのを、「こんなとこで!」と諫(いさ)めながら、ぼくの前で繰り広げられる『気を許すギイ』という極上の笑顔を噛み締めた。

「オレは約束は守るよ。だから、託生も浮気するなよ?」
「ぼくはギイじゃないからね、女の子から花なんてもらったことなんかないんだよ」

「いいよ、託生はそれで。花がほしけりゃオレがやるから」
「結構です。別にいりません」

「遠慮しなくても」
「全然してない!」

 こんなふうにギイ相手にぽんぽん言うのも、何だか久しぶりな気がした。

 最近はゆっくりおしゃべりする機会もないから、当然と言えば当然なのだけど。

「ね、ギイ。こんなふうにさ、ぼくが言いたい放題言うのってギイは嫌じゃないの?」
「託生は人の足元みるような理不尽な要求とか無理難題とか言わないだろ。かわいいもんだよ」

──かわいいもんって何だそれは。それに、理不尽な要求って……?

「ギイ、そんなこと誰かに言われたことあるの?」
「取引先……とか?」

──ああ、なるほど。それはアリかもしれない。

「第一、託生の場合、言いたい放題は入学当時からじゃないか。今更だろ?」
「は? えっと……、ぼくが言いたい放題?」

「嫌なことには絶対首を縦に振らない。託生は一年の時からそうだったろ?
相手の態度が問題だとしても、納得できないことには安易に頷かない。それが託生の良さで。
周りに喧嘩吹っかけようが、最後まで自分の意思を通してたじゃないか」

 確かにそれは言い方を代えると言いたい放題になるかもしれない。

「もしかして、自分のことわかってなかったのか?」
「あー、そうかもしれない」

 託生はそういう奴だよな、とギイは繋いでいないほうの手を腰に当てて、大げさに溜息をついて見せた。

 でも、ぼくを見つめなおすその目は今までの茶化すそれから一変して、真剣な光を宿っていて。

「三年になって、おまえ、オレのせいで我慢することが多いだろう?
ここ最近、情緒不安定だったのはそれもあるのかなって思ってたんだ。
そうなると原因はやっぱりオレなわけだからさ」

 だから自分が動かないといけなかったのだ、とギイは口にした。

「オレに付き合わせてしまって悪いなって思ってる。
それでも、オレはおまえをこの土俵からおろしてやれない。
これはオレの我がままだ。でも、この我がままだけは譲れない。
託生が会いに来てくれるとすごく嬉しい。
オレが託生に会いに行く時、小躍りしちまうのと同じくらい、おまえもそう思ってくれるてるといいなって思う。
忙しいの相変わらずだけど。でも、わずかでも会える時はこれからも会おう」

 時間は作るものだから、とギイがぼくに肩を抱きこんだ。

 ナイショの関係だって努力すればどうにか会える。ぼくはそれをすでに知っている。

「オレも会いに行くから。託生もオレのところに来てくれよ」

 ギイの声が彼の身体を震わしてぼくに伝わる。
その振動と共に伝わってくる彼の気持ちがとても嬉しくて。
うん、と応えるぼくの声も、彼に震えて伝わるといいなと思う。

──そうだよ……。恋人同士なんだから。
互いに会いたい気持ちがあるのなら、どちらが会いに行ってもいいんだよ、ね。

 今は平安時代じゃない。
ましてや、ぼくもギイもどちらも深窓の姫君ではないのだから。

「さあ、帰るぞ」
「うん、帰ろう」





 昨日より今日。今日よりも明日。

「好き」という気持ちを幾重にも重ねて、大好きな人に会いに行こう。



 今はダメ。今日は忙しい。そう言われたっていいじゃないか。

 会いたい。ただ会いたい。ひたすら会いたい。

 その気持ちを伝えることがきっと大事なのだから。





 ギイがぼくの腕を引くように前を歩く。

 新緑の葉が夕陽に染まって金色に輝いていた。

 眩しいな、って目を細めた時。

「今度、後朝の歌でもおくるよ」

 夏を運ぶ風が一陣、ぼくの背を押すように吹き抜けた──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの90,000hits記念作品「三日の通ひ路」はいかがでしたでしょうか?

三年生になって、ギイに会うのも一苦労の託生。
会えないことで溜まる鬱憤を彼はどうやって晴らすのか。
三年の晩春のふたりを、 「三日夜の餅」の慣わしを織り交ぜながら書いてみました。
なので、このタイトルは、「みかのかよいぢ」と読みます♪



おまけのその後のお話。

その夜、三階ゼロ番にお泊りした託生は、翌日昼前、二七○号室に帰ってきた。
しばらくして、昼食を食べに部屋を出ようとしたところに章三の来訪があった。

「葉山、これ」
差し出された彼の手の上にティッシュが山を作って盛り上がっている。

「早く受け取れ」と囁く章三。
「うちはゴミ捨て場じゃないんだから、わざわざゴミを持って来ないでよ」とつれなく返す託生。

託生は知らなかった。
そのゴミの山こそ、実はティッシュで作った花であり、それにはしっかり文が結ばれていたことを。
哀れ、ギイの後朝の歌。

「この御時世に、いったいこいつら何やってんだか」
そう章三が呟いたとか、呟かなかったとか……(笑)?

……お粗末でした♪



千年もの昔、文(歌)をおくる時は季節の花や枝をそえていたようです。
託生がコレを知っていたら、きっとギイが花をおくるって言った時、断わらなかったんじゃないかなあ(笑)。

託生、詰めが甘いぞー。
でも、それが彼の良さかもしれませんね♪

最後に、この作品は90,000hitsをゲットしてくださったさぁりさまに捧げます。
さぁりさま、「三日の通ひ路」を気に入って頂けると嬉しいです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



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