忍び寄る春



 祠堂学院高等学校に冬本番が訪れた。

 山の日暮れは麓よりも少しだけ早いような気がする。
この季節、祠堂の夜が長く感じられるのは、ただの気のせいではないと思う。

 それでも学寮の食堂の雰囲気は外の寒さとは打って変わって、どこを見渡しても冬を感じられない。
誰も彼もが顔を輝かせ、熱気ムンムン、熱意をあたり一面に振りまいていた。
季節で表せば、まさに夏。

 だが、それも当然、とばかりにぼくは頷いた。

 何しろ、今日のメニューはサイコロステーキ。
ぼくの好きなメニューだから嬉しくて、頬がつい緩んでしまう。

「ひとつ三個ずつなんて非情だな。せめて六個は食べたいところだ」
「ホントホント」

 サイコロステーキに喜んでいるのはぼくだけではない。それがまた嬉しい。

 寮の学食で生徒から絶大な支持を誇るサイコロステーキは大人気メニューの三本指に入る。
ただし、豪華な分だけ量が少ないのが欠点だ。
周りのテーブルを見渡せば、顔をほころばせて食べている生徒に交じって、案の定、「もっと食べたい」と不満げな生徒の顔もそこかしこに点在している。

 その他にも、納得がいかないといった神妙な顔をしている生徒もちらほらと見受けられて。

「一昨日のカツカレー、昨日の牛丼に引き続いて、こうも人気メニューが並ぶとその反動が急に来そうであとが怖いな」

 彼らの言葉を、向かいに座る章三が的確に代弁した。

「確かにね」

 ぼくにも重なる想いがあったので、つられるように即座に頷く。

 三大好物メニューと言われてるそれが、この三日間、連続して夕食に出たのだ。
これでは明日からは何を楽しみにしたらいいのだろう。

「あ。でもコロッケとかだったら、ぼく嬉しいかも」

 サイコロステーキも捨てがたいが、揚げたてサクサクのコロッケはこれまた絶品で評判が高い。
事実、ぼくをはじめ、ぼくの周囲にはコロッケファンが結構多かったりする。

「コロッケねえ。ここのは確かにうまいよな」

 接待で舌が肥えているであろうギイが太鼓判を押せば、そのおいしさの真偽はいかほどのものかが伺えると言うもので。

「とはいえ、これで明日がコロッケとなると、明後日何が出てくるかだよな」
「でも、赤池くんもギイも別に好き嫌いがあるわけじゃないんだから、どんなメニューになったところで困らないじゃないか。
その点、ぼくは切実だよ」
「確かに託生は毎日、一喜一憂してるよな。
日替わり定食のメニュー次第で表情コロコロ変わるから、すごくわかりやすくて見てて楽しいよ」

──悪うございましたね。どうせぼくは好き嫌いが激しいですよ。

「これでも結構食べられるようになったんだけどな」
「はいはい、わかってるよ。だから付け合せのコレもしっかり食べような、託生」

──うっ、そう来たか。

 隣りからあたたかく注がれる、食欲旺盛な恋人の眼差しが、今だけちょっと恨めしかった。

 木製の古びた宝箱のような色合いのサイコロステーキの向こうにちょこんと添えてある人参のグラッセは丁寧に面取りがされていて、一見、宝石のように綺麗なオレンジ色をしている。

 ほうれん草のバターソテーの緑色と対色なので、余計、その明るい色が鮮やかに見える。
バターの油分なのか、表面がテカテカ光ってて、「おいしいよー、早く食べてー」とすごく自己主張しているのはわかるのだけど。

──だいたい、このオレンジ色がクセモノなんだよ。

 甘いようでほろ苦い。どこか泥臭いのがこれまたいただけない。
見た目の綺麗さに騙されてはいけないのだ。

「あのさ、人間誰しも苦手なものってあるよね」
「そりゃあるだろうな」

「人間誰もが苦手なものを克服できるわけじゃないよね」
「ま、そうだろうな」

 だったらぼくだって、苦手なものから逃げたっていいよね。そう言おうとしたら、
「それでも人間、常に試練がつきものなんだよ。だから、葉山も諦めてさっさと食え」
そんなふうに章三に先手を打たれてしまって、結局、ぐうの音も出なくなった。

──もお! あとちょっとでギイがオチそうだったのに……。

 ここで、「赤池くんのドケチ」なんて文句タラタラ言おうものなら、即座に、
「何だと? もう一度言ってみろ。よく聞こえなかったな」
鋭いビーム光線がこっちに向かってまっしぐらに飛んでくるのはわかっている。

 言うに言えないこのもどかしさ。

──ああ、何て口惜しい……。

「誰か、人参とサイコロステーキ、取り替えてくれないかなあ」

 そんな夢のような交換条件を飲む輩などいるはずもないとは思いつつも、思わずボヤキが出てしまうのだった。

 しかし。

 天はぼくを見放さなかった。

「だったら、葉山。ぼくが取り替えてあげるよ」
「え?」

 まさかまさかの交換条件を受けてくれたのが、まさかまさかの人物で。
声がした方向、つまり、うしろを振り返れば、ぼくと同様、もしくはぼく以上の好き嫌いがあると噂の美少年が、花も恥らうかのような極上の微笑みを浮かべてぼくの背後に立っていた。

 祠堂広しと言えど、美少年といえば、誰もが真っ先に彼の顔を思い浮かべるに違いない。
ちなみに入学当時、共に美少年と謳われたギイはその後ぐんぐん背が伸びて、少年というよりは今では青年の域に入っているので、現在、除外することにする。

「高林くん……?」

 高林泉は、小鳥が啄ばむ程度にしか食べてないんじゃないだろうかと想像したくなるくらいの華奢な身体つきをしている。
女の子みたいに細い首筋。今にも折れそうな細い腕。
おそらくそこら辺の女の子じゃ太刀打ちできないかもしれない──恐ろしいことに。

 その美少年の代名詞である高林泉が、身体を擦り寄せるほどにぼくに近づいて、無体なことを言ってきた。

「その代わり、交換条件があるんだ。葉山さ、今夜、ぼくと部屋を替わってくれない?」
「……え? だって……いくらなんでも、そんなの……」

 泉には吉沢道雄という恋人がいる。
だから、慌てる必要などないのだとわかっている。

 それでも、心はざわめいた。

──だって、高林くんは……。

 そう。かつて、泉はギイを好きだった。
今はそうではないからといって、そんな相手と一晩だけとはいえ、ギイと同じ部屋にしたくない。
ギイを信じてないわけではないけれど……。

──でも、これとそれは別なんだ。

 サイコロステーキと人参という普通はありえない好条件の物々交換とはいえ、それには代えられないものがある。
だから、ぼくは、「無理だよ……」としか言えなかった。

 だが、そこに。

「そうだ、無理に決まってる」

 まさにぼくの気持ちに追い風を送るかのように、隣りの席から力強い声が割り込んだ。

「よくぞ僕の前でたわけたことが言えたものだな、高林。
そんな規律乱すような確約を僕が認めるわけにいかんだろうが」

 章三である。

「赤池には関係ないだろ!」
「それでも風紀委員長としては見過ごせないのでね」

「ぼくは葉山に言ってるんだから!」
「確かに、その件については僕は無関係だ。
しかしな、その当の葉山がしっかり僕の視界に入ってる以上、僕の立場上、口出ししないわけにはいかないのさ」

 ついでに高林、おまえもしっかり視界内だから、と念を押す現風紀委員長サマに逆らえる生徒はそうはいない。
さすがに言葉の重みがほかの人間とは一桁二桁違うのだ。

 だが、敵もさる者。

「それなら目を瞑ればいいじゃないか。それで片がつくじゃん」

 高林泉は、まさに敵なしだった。

「知らないでいたのならともかく、しっかり聞いてしまったからな。そんなわけにいくか」

 あーいえばこーいう。どちらも引かないふたりなので、こうなってしまうとふたりの応酬が終わるのを待つしかない。

 そうなると、この収拾つかないふたりを止められるのは──。

「突然、部屋を替わりたいなんて。吉沢とケンカでもしたのか? ん?」
「ギイ……」

 やっぱり、いざとなったらギイ頼み。
どうしたってギイさまさまとなってしまうのだ。

「別にケンカなんか……」
「へえ。でも一緒の部屋に戻りたくないんだろ?」

「そうじゃない。ただ……、今夜だけでもギイの部屋に行きたかったんだ」

 恋人とケンカをしているわけではない。
ただ、かつて好きだった人の部屋に行きたい。

──それってどういうことなんだろう?

 ぼくには理解できない難問のような気がした。

「じゃ、そういうことだから。ぼくは確かに伝えたからな」

 高林泉がさっさと去ってしまうと、ぼくとギイ、そして章三の三人の間に一瞬、沈黙が訪れた。

 そのうち、お互いがお互い、顔を見合わせて、
「高林くん、ホントに来るのかな?」
「ま、あの調子じゃ来る気満々だろうな」
「どうなってんだ、あれは。焼けのやんぱちか」
祠堂一であろう美少年のわけのわからない行動について検討しようにも、いかんせん内容が内容である。
決して、大きな声で話せる話ではない。

 とはいえ、高林泉、崎義一といえば、目に眩しいツーショット。
食堂内に居合わせたほかの生徒たちが今の泉の話を耳にして、おとなしく黙っているはずがなかった。
あちこちで、「すわ、世紀の華麗なるビッグカップル誕生か」と騒ぎだしたのだ。

 適当に噂話に興じる生徒たち。
そんな彼らを、章三がジロリと睨みつけながらも、ふん、と鼻息荒く腕を組む。
その顔はまさに苦渋、そのもので。

「まったく、この騒ぎを何とする。いい迷惑だ」
「高林も馬鹿じゃないんだ。ヤツの中にはちゃんとした理由があるんだろ」
「ケンカしたならしたで仲直りするなら早いほうがいいのにね」

──でも、ケンカしたわけじゃないって言ってたんだよなあ。

「それにしたって、あの吉沢が相手じゃケンカにもならないんじゃないか?」
「まあな。何しろベタ惚れだからなあ」
「そっか、ケンカにならないってこともあるんだ」

──なるほど。だから、ケンカしたわけじゃない、のかな。

「とにかく、今夜、高林がおまえたちの部屋に行ったとしても絶対無視しろよ。
そして、どんな手を使ってでも追い返せ。
僕が知ってしまった限り、どちらにしても寮則を守らない輩なんぞ見逃すわけにはいかないんだからな」

「わかってるって、章三。大丈夫に決まってるだろ。
第一、オレが自分の不利になるようなこと、ノコノコすると思うか?
仮に託生と高林が入れ替わってみろ。
実際、ふたりの間に何もなかったにしろ、一晩一緒にいて、託生が絶対疑わないって保障はどこにもないんだぜ。
そんな浮気を疑われるような行動、わざわざオレがするかよ。そうだろ?」

 確かに、もしもそんなことになったら、たぶん、ぼくは心穏やかではいられないだろう。
ギイはよくぼくをわかっている。

「信じてるから、ギイ」
「大丈夫。託生はオレを信じてなさい」

 ギイがぼくを優しく見つめる。
一方、ぼくといえば、章三がまるでこの世の終わりのような嫌そうな顔を向けてくるので、素直に微笑み返せないでいた。

「そこのふたり。いい加減にしろよ。おまえたちのそれだって、寮則どころか校則に触れてるんだからな!
いくら僕だって見ないふりするのにも限度があるぞっ」

 風紀委員長の肩書きは彼の矜持そのもので。章三の場合、まさに天職と言えた。

 しかしながら、ギイも伊達に章三の相棒をやっていない。

「はいはい。それもわかってるって」

 章三の苦言など完全にスルーして、青筋浮かべた鬼面に対し、余裕綽々の態度で流す。

「おまえのその『わかってる』は信用ならんわ」
「そうか? オレは信用第一の男なんだけどな」

「勝手にほざいとけ。おまえの場合、時と場合によりけりだ。とにかくしっかり肝に銘じとけよ、ギイ」
「はいはい、わかってますって。」

「……あのな。そう言いながら、承知の上で動くから始末に負(お)えんのだろうが?」

 そうして、世紀のビジュアルカップル誕生の噂は、あっという間に寮中に広まって、派手すぎるくらいに一世風靡したのち、風のごとく吹き荒れて、風のように過ぎ去っていった。

 その話題の切り替えの素早さは感心するほど見事なもので、執心する様子などない。
綺麗なほど淡白な反応だった。

 激震の噂になり損ねた理由などいくらでもある、とギイは言う。

「みんな、この手の話に慣れてるのさ」とか。
「噂話に飢えていたところに一種のオイシイ話が舞い転んで、わずかながら楽しい時間を過ごせて満足したんだろ」とか。
「オレと高林なんて普段の様子知ってりゃ現実的に無理な組み合わせだって、みんなわかってんだよ」とか。
確かに、そうギイに言われてしまうと、そんなものかなとは思うのだけど。

 ぼくがこんなことを考えるのも何なのだろうが。

「あっけないというか、そっけないというか。ちょっと肩透かしされた気がしちゃうな」

 一気に盛り上がって、瞬く間に微塵と消えた噂話。
それは、雨粒ほどの惜しげもなく転々と別の話題に花を咲かせるさまはうわべばかりの薄い関係を思わせて、モノ悲しさのような、燻ったあとのわがかまりみたいなのがちょっぴり残って落ち着かなかった。

「眼福の組み合わせは妄想と幻想で終わるべき」なんて言って興じて、楽しければそれでいい、で満足してしまえるそんな軽さに安堵する反面、結局は他人事、で済ませてしまう脆い関係に、ぼくはわずかながらにも寂しさを感じていたのかもしれない。

「そんなに気にするなよ。結局、中身はその程度ってことなんだからさ。
真実味がない、信憑性がない、現実的じゃない。どこまでも噂でしかないから安心して話せる。
それだけ軽い話題だから、その分、無責任にもいい加減にも適当にもなれてお気軽でラクチン。
噂が回るのも早けりゃ消えるのも早い。まさに『楽しい話題をありがとう』だな」

 確かに、同じ顔ぶれで、同じ話題、同じ生活を毎日繰り返していれば、目新しさに惹かれてしまう気持ちもわかる。

 それでもぼくの心には何かが引っかかって、どうにもすっきり割り切れなかった。

 噂の相手がギイだから?

 かつて、とはいえ、泉はギイを好きだったから?

 ぼくにはぼくの気持ちさえ、自分でもよくわからないでいた。





 点呼が終わって、三○五号室にぼくとギイ、ふたりだけになった時。

「入るよ」

 約束どおり、というべきか。高林泉がドアの隙間から部屋の中に滑り込んできた。

「あのな、高林。何があったかわからないが、点呼時間すぎてから来るのはやめとけよ」
「その言葉、普段消灯時間すぎても平気でうろついてるギイに言われたくないね。
言っただろ。今日はぼく、ここに泊まるって。
そんなわけだから、葉山。悪いけど、ぼくの部屋に行ってくれる?」

 泉のそれは、まるで的を射るような視線だった。
見つけた獲物は逃さない。そんな目で、泉はぼくとギイを見ていた。
そこからは確固たる意思が伝わってくる。その視線から逃げようにも逃げられない。

──本気の本気で高林くんはこの三○五に泊まる気なんだ……。

「何度も繰り返して言うのは好きじゃないんだ。とにかく、ぼくは今日ここに止まるから。いいよね、ギイ?」

 まさにそれは、決定事項を事後報告するかのような言いようだった。

「参ったな」

 そんな泉を前に、ギイは頭をガシガシと掻く。

「本当に、どうしても、どうやっても、ここに泊まるつもりか?」

 再度、念を押すように尋ねたが、唇をギュッと閉じて見返してくる泉の答えなどギイには聞かずともわかっていたのだろう。
もう一度、「参るよな」を溜息滲りに吐き出した。

「おまえの意気込みはわかったけど、吉沢がいい顔しないんじゃないか?」

「吉沢道雄」の名は泉にとってトクベツである。
案の定、恋人の名を耳にして、泉の瞳がわずかにピクンと反応した。

 ふとギイを見やれば、ギイは泉の心中を探るかのように、彼の一挙一動、見逃さないよう注意深く見ている。

──ああ、ギイはわざと口にしたんだ。

 泉の動揺を買って、様子を見る。確かに得られる情報は多いにこしたことはない。

 けれど、その後も泉の意思は恋人の名を聞いても揺らがなかった。

 動揺どころか、瞬時にすうっと目を細めて、
「吉沢なんて関係ないね。むしろ、ぼくはここにいたほうがいいんだ。
いつまで経っても疑心暗鬼になってる吉沢には、これくらいのことしなきゃダメなんだよっ!」
悔しそうに悲しそうに、今にも泣き出しそうな顔で、泉はギイを睨みつけたのだった。

「何だ、痴話喧嘩か?」
「違う! 喧嘩なんかしてないって言っただろっ」

 ぼくは咄嗟に首をすくめた。
くわっと開いた泉の口から、火の粉が飛んでくるのかと思った。
それほどの剣幕だった。

「ギイはさ、前にぼくに言ったよねっ!
ぼくがギイのこと好きだったのは憧れで、ぼくの初恋は吉沢だって!」

 どうしてだろう。押し付けるような言いようなのに、どこか悲しみを含んでいるように聞こえる。
そのせいだろうか。泉のその気概は途中から、だんだんと鳴りを潜めていた。

「でもねギイ、吉沢はそうは思ってないんだ。ぼくだって、自分のことなのにわからない。
だって、どこまでが憧れでどこから恋なんて、そんなのすごく難しいよ……」

 泉は希望という名の星の瞬きを探すかのように、真っ暗な窓の外に視線を泳がせた。

「好きだっていう気持ちのどこに線引きすればいいかなんて、そんなのぼくにはわからないよ。
だから、ギイがどうしてあんなこと言ったのか。
ぼく自身にわからないことがどうしてギイにはわかるのかがわからない。
だから、ギイみたいにぼくはうまく吉沢に伝えることなんてできないんだ。
憧れだったらさ。一緒の部屋で寝るなんて、男同士なんだもの、別にどってことないはずだろ?
だから、確かめたかったんだ。
ぼくがここにいることではっきりするなら、それで吉沢が納得するなら、それが一番いいんだって。
そんなわけだから、ぼく、ここに泊まるよ。いいよね?」

 泉の恋しい人は、かつて泉が誰を見ていたかを知っている。
その分、泉の瞳に映っている自分に自信が持てないでいても当然だ。
ましてや、その相手がギイならば──。

「好きだよ」と。
泉がいくら素直な気持ちを伝えても。その言葉が信じられるものだとわかってはいても。
それでも過去は消せないから不安になる。

 泉の過去にちらつくギイという大きな存在に萎縮して、自分を卑下してしまう泉の恋人、吉沢道雄。

「過去のあれが憧れだとしたら、少しは吉沢の不安も取り除けるのかな……」

 泉が小さく呟いた。

「高林くん……?」

 それでも過ぎ去った日々は取り戻せないし、消すことなどできやしない。

「でも、何にしても大事なのは『今』だよ。ね、ギイ?」
「その通りだ。高林、おまえだって本当はわかってるんだろ?」

 泉は力強く頷いた。

 心を引き締めるかのように水仙の花のごとく真っ直ぐに背筋を伸ばすと、真剣な目を向けて、
「ぼく、吉沢が好きなんだよ」
そう、ぼくらに告げる。

 とてもシンプルな泉の告白。
直球だからこそ、深くぼくの胸に響いて聞こえた。

「ああ、おまえの気持ちはわかってるよ」
「だろうね。だってギイだもん。だからぼくはここに来たんだし、さ。
逆に、もしもギイにわかってもえなかったとしたら、この先どうしていいかわかんなくなってたよ。
にっちもさっちも行かなくなって、そっちのほうがきっと困ってただろうな」

 笑える余裕は残っていたのか、それともギイが理解を示してくれたことに安堵したのか。
本来の彼の魅力を充分に醸(かも)した、とても柔らかな可憐な微笑みを、泉は今日、この部屋に来て初めて見せた。

「仕方ないな。そこまで言われちゃ、オレも動くしかないか」

 それからのギイの行動は素早かった。

「高林としては託生と部屋を交換するつもりのようだが、その前にオレは確かめたいことがあるんだ。
だから、今夜はオレがおまえの部屋に行くよ。いいだろ?」
「でもそれじゃ、ぼくがここに来た意味がないじゃないか」

「そんなことはないさ。いいからオレに任せとけ。ただし、ひとつだけ高林に訊きたいことがあるんだ。
高林はさ、過去今までに一度でもオレになってみたいって思ったこと、ある?」

 容姿端麗、頭脳明晰、有言実行。誰もが一度は憧れるギイ。
もしも自分がギイだったら……?
そんな願いは叶わないだろうけど、夢見ることは誰しも自由だ。

「そりゃ、ギイみたいな人間に一度はなってみたいかと訊かれれば、ほとんどの人がなってみたいって答えるに決まってるじゃん。
一日でいいからギイのような人間になったらどんなだろうって思ったところで別に不思議じゃないだろ?」

「へえ、そういうもんかな」
「そういうもんなんだよっ! ぼくだって、世間一般同様、ギイみたいだったらと思ったことくらいあるよ。
だいたい、大富豪の息子で、出来ないこと何にもないって感じでさ。とにかくギイってカッコイイじゃない。
人望もあって誰からも信用されてて誰よりも光ってるなんて、ギイくらいなもんだよ」

「なるほどね。ま、褒め言葉として受け取っとくよ」

 そう言うと、ギイは、吉沢道雄が待っているであろう三二四号室に行くべく、ドアのノブに手をかけた。

 が、突然、思い出したように振り返って、
「託生。そういうわけだから。オレは一晩留守にする。いいか、このことは章三にはナイショだからな」
念を押すように唇に人差し指を立てるとウインクをひとつ投げてよこした。

 慣れたように消灯時間間際の人の気配のない廊下にするりと身を忍ばせ、音を立てないようにゆっくりとドアを閉める。

 途端、泉が胸に溜め込んだ息を、はあ、と吐き出した。

──そっか、高林くん、緊張してたんだ……。 

 恋人の気持ちが揺れていれば、誰だって不安に思って当然だ。

「ギイが確かめたいことって何だろうね。
吉沢くんのところに行ったってことは、きっと吉沢くんにしかわからないってことだよね」
「今さら何を確かめるってのさ。第一、確かめられるべき相手はぼくのはずだろ?
ぼくがギイを好きだったことを吉沢が気にしてるのがいけないんだから。
そんなの、確かめるも何もないじゃん」

 ギイの優秀な頭脳が何を考えているかなんて、凡人のぼくにはわからない。
けれど、ギイが言うには、泉のギイに対する気持ちは憧れであって、恋じゃないということだから、それが本当だとしたら、もしかしたら少しは吉沢の不安も拭われるかもしれない。

 でも、それなら泉の言うとおり、確かめる相手は泉となる。

 それでもギイは吉沢のところに向かっていった。

──ギイのことだから、何か理由があるんだろうけど。

「……憧れと恋の違いって何だろう」

 今さらだけど、不思議に思った。

「どっちも『好き』には違いないのに。そんなふうに分けなくちゃならなくなると困っちゃうよね」
「あ、じゃあさ。ちなみにさっきのギイの質問、葉山にしてやるよ。
葉山はギイになりたかった? 実際、そう思ったことある?」

──ぼくがギイに?

「あー、どうだろう。ギイのことすごいなとは思うけど、そう言えばそう思ったことってない……かな。
出来のいい人って一見、すごく羨ましく思えるんだけど、その分、やっぱり苦労があると思うんだ。
だからぼくは遠慮しときます」
「でも憧れるだろ?」

「うーん。でも、きっと性(しょう)に合わないと思うな。だって疲れそうだしね。
きっと人には向き不向きがあるんだよ。つまりぼくには不向きってことだね」
「なるほどね。だとしたら、何となくだけど、憧れと恋の境界線が何なのかがわかった気がするな……」

「え? わかったの?」

 本当にそれを泉が理解できたなら、それはそれでいいのかもしれない。

 泉たちにしてみれば、過去、ギイへ抱いた気持ちが憧れであるほうが幸せなのかもしれないだろうし、吉沢がそれを望んでも不思議はない。

 でも、仮にギイへの想いが泉の初恋だったのだとしても、吉沢が望むなら、過ぎ去った時間に振り回されて雁字搦めになっている恋人のために、泉自身、初恋を憧れに片付けてしまう可能性だってある。

 どんな結果が出たとしても、今の泉が吉沢に恋してることには違いないのだから。

 泉は真実に気づいたところで、結局は自分の気持ちを貫き通すだろう。

 高林泉が吉沢道雄を好きである限り、本来、泉はどちらでも構わないのかもしれない。
それでも気にとめてしまうのは、それはつまり、吉沢が気になるからだろう。

──結局は、高林くんは吉沢くんの気持ちを固めたいだけなんだろうな。

 とはいえ、泉は知ってしまった。

 かつての自分の気持ちに。憧れと恋の境界線に。

「ギイの言うとおりだったよ。ぼくのはやっぱり憧れだった。
確かにぼくは、ギイにはなりたくないけど、ギイみたいにはなりたいと思ったし」
「へ? えっと、ごめん、ちょっと待って。ギイにはなりたくないけど、ギイみたいにはなりたい?
それってどう違うわけ? 高林くんの言ってることってぼくには違いがわからないよ」

「簡単だよ、葉山の頭でも理解できるよ」

 ナニゲに失礼なこと言ってませんか。
そう突っ込みたいところだが、ここはじっと我慢する。

 泉は教師にでもなったつもりなのか、さも得意げに自分の理解度を披露した。

「誰だってギイっていう人間にはどうしたってなれない。
だけど、ギイみたいな人になれたらいいなあって思うのは誰でもできるんだ。
だって、思うだけは簡単じゃんか。努力もいらないもん」

「そりゃそうだけど」

 ぼくも確かにそう思った。夢見ることは誰しも自由だ、と。

「そこで、だよ。だって葉山はギイになろうとは思わないんだろ?」
「まあね」

「疲れるからってのが葉山らしいっていうか、気が抜けるような答えだとは思うけど。
事実、葉山はそう思ってるわけだし。しょうがないよね」
「だってそれがぼくの正直な気持ちだからね。……って、ねえ、高林くん。
それと境界線が何か関係あるわけ?」

「あるに決まってんじゃん。
つまり、憧れと恋情の境界線はさ、その人みたいになりたいか、その人と共にありたいかの違いだよ。
ぼくはギイと一緒にいたかった。
けど、それはもとをただせば、ギイという人間性に惹かれて、ギイのような男になりたかったのかもしれない。
ギイのいいところを盗んで、いつかあんなふうになれたらって少しでも近付きたいって。
そうじゃないとは完全には言い切れないし、それだけじゃないとも思ってる部分があるからはっきりとは言い切れないけど……。
でも、もしも恋してたんだとしても、ぼくの場合、憧れが強い恋だったんじゃないかなって思うんだ……」
「でも、それでも恋は恋だよね?」

「そうだけど。葉山にはわっかんないかなぁ。ぼくはね、吉沢になりたいとは絶対思わない。
吉沢みたいになりたいとも思わない。
わかったんだ。相手がギイだからあいまいになるんだ。わかりづらくなっちゃうんだよ。
だって、それは『ギイ』だから。
でも、吉沢なら、ぼくははっきり言えるもんね。だって、ぼくが吉沢になってどうなるのさ。
ぼくはぼくで、吉沢は吉沢だからこそ、ふたり一緒にいることができるんだよ?
それなのに、ぼくが吉沢になりたいなんて思うわけないじゃないか。
これは葉山が言ったんだよ。ギイにはなれないって。それって、そうことなんじゃないの?
葉山はギイのコピーになろうとは思ってない。
ギイのいいところを吸収しようとは思うかもしれないけど、ギイそのものになりたいわけじゃない。
ほら、そう考えれば、おのずと答えは見えてくる。……ぼくはきっとああいうのに憧れてたんだ」
「憧れてた? つまりギイにってこと?」

「違う。恋にだよ。葉山、頭悪すぎ。よくこんなんでギイと一緒にいられるよなあ。
ギイもホント物好きだよね」

 きみ、喧嘩売りに来たのかい、とぼくは思わず尋ねたくなった。

──うー、ここは我慢。とにかく我慢。

「ぼくのことより、今は高林くんのことだろっ」
「そうでした。確かにぼくはギイのこと好きだったし、ギイと一緒にいる自分を思い浮かべて楽しかったよ。
ぼくだったら、ギイにお似合いだと思ってたしさ。
でも、ふたりの性格とか、そういうの全部無視してた感じがあって。
吉沢といるみたいにギイといられるかというと、たぶん無理だと思う」

「もしかして、それわかってて、ギイのこと好きだった?」
「あの時のぼくにそんな余裕あるわけないじゃん。
ただギイに振り向いてほしいって気持ちでいっぱいいっぱいだったしさ。
けど……今だから言えるけど、先のことはわざと考えないようしてたような気もする」

「つまり考えないようにしてたってことは……」
「うん。だって。本気で考え込んだら、いつかたどり着いちゃう予感がしてたから。たぶん逃げてたんだ」

 好きなのに付き合えないって気づくのはやっぱり辛いじゃん、と泉は笑った。

「絶対、あの頃は認めたくなかった。そんなの認めるわけにはいかなかった。
だってぼくはギイが本当に好きだったから。
こんな話を葉山相手にしてるってのはちょっとヘンな気分だけよね。
でも正直、こうしてしゃべれるの、ちょっとだけ嬉しいかも」
「ぼくも。何だか複雑だけど」

「うん。葉山がそう言ってくれると助かるかな」

 嬉しいと言ってくれた泉の気持ちが嬉しかった。

 それは泉の気持ちはすでにギイの上にないという紛れもない証しだったから。
泉にとってあの頃の想いは過去の中のことでしかないというのが伝わって、どこかでホッとしているぼくがいた。

「吉沢にはね、我がまま言えちゃう時と言えない時といろいろあってさ。
うまく言えないけど……。自分じゃないみたいな、それでいて一番自分らしくいられるんだ。
けど、相手がギイだと、どんどん我がまま言えちゃって。
どうなってもギイだったらきっと何とかしてくれるっていう確信みたいのがあるっていうか。
勢いが強くて、後先考えないでいられてさ。それって甘えてるってことかもしれないけど。
嫌われてもどうにでもなるってどこかで確信みたいのがあって。……だから、わかったんだ」

 泉は、ぼくの目を見て言った。

「好きなら怖くなる。嫌われてもどうにかなる、なんて思えない。
絶対失くしなくない恋なら余計に、無謀なままにぶつかるなんて怖くてできない。
ぶつかるには勇気がいるんだ。時にはそういう勢いも必要かもしれないけど。
でも、何でもかんでもっていうもんじゃないと思う。
だから、ギイに対してのは今でもはっきりとは言い切れないけど、でも吉沢のことだったらはっきり言えるんだ。
これは恋に恋してるわけじゃない。吉沢のは正真正銘の恋なんだ」
「恋に恋してる、か……。何だか綺麗な響きだけど、ちょっとせつないな」

 わずかにだが、哀しみさえも滲んで聞こえる。

 立ったままのも疲れるので、ぼくはギイのベッドに腰掛けた。
泉はぼくと相対するように、ぼくのベットに腰を下ろす。

「ぼく、ひとりっ子なんだ。あ、今葉山、いかにもそんな感じだって顔したな。
そりゃ自分でもわかってるよ、ぼくが典型的なひとりっ子ってことはさ。
そんなわけで、今までね、両親の愛情はぼくだけにあるのが当然で、愛情を向けられる先に自分がいるのが当然だったんだ。
相手が自分のことを一番に考えてくれないと嫌で、だから、ギイがぼくを見てくれなかった時はすごく恨んだ。
中心にいるべきはぼく。誰もがぼくをちやほやしてくれて、それが普通なんだってずっとそう思ってた。
吉沢はね、そんなぼくと正反対なんだ。
そのものズバリ長男気質で世話好きで、相手を甘やかすのがうまいんだ。
だからぼくもつい甘えちゃうんだけど。
でもさ、いけないことはピシッと言うんだ。甘やかされてたばかりのぼくにはそれが新鮮でさ。
ぼくと全然違う人間で、ぼくの周りにはいなかったタイプだから、ぼくの意のままにならないことも時たまあって。
時々鬱憤だって溜まっちゃうけど。でも、だからと言って、吉沢がぼくの言うことばかり聞くのも嫌なんだ」
「高林くんは吉沢くんに、吉沢くんのままでいてほしいんだね」

「つまりはそういうことになるかな。意外だな。葉山、ぼくの気持ちわかるんだ?
葉山ももしかしてひとりっ子? まあ、どうみてもお兄ちゃんってふうには見えないし。
ギイはその点、長男ってカンジだけど」

 確かにぼくは正確には長男ではないし、ひとりっ子でもない。
けれど、兄がいない今は、実質的には長男であり、ひとりっ子のようなものだ。

 だから、本当のことを言うとなると、
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな」
こんな言い方しかできなくなる。

「何それ。ヘンなの」

 兄という存在を久しぶりに思い出して、すこしだけ胸が軋んだ。
それでも、こうして少しでも穏やかな気持ちで振り返れるようになったのは、すべてギイのお陰だ。

 ぼくのすべてを受け入れてくれたギイだから、ぼくはギイを信じられる。
誰かを信じられるというだけでほんわかと胸があたたかくなって、ギイのそばにいられる一瞬一瞬がとても愛しいものになる。

 今は兄の死がすごく遠くに思えた。

 そして、その兄のことで思い出したことと言えば……。

──ああ、そうだった。

「いつも同じ時間が過ぎてくわけじゃないんだった……」

 兄の死が知らされたのは突然のことだった。
遠く離れた場所にいて、どこかで生きているのが当然と思っていた人が急に亡くなる。
人というものはいつかは死に、いつかはこの世から消える。
そんなことはわかりきっていたはずなのに、ぼくはあの時、突然の訃報に空虚となった。

 自然の摂理からはどうしたって逃れることはできない。
いつかは誰しもが死を迎え、身近な人たちと別れて旅立つ日が来る。
別れはいずれ必ず訪れるものだからこそ、誰かとともにいられる時間を大切に過ごさないと後悔する。

──どうして忘れていられたんだろう……。

「そういえば、もうすぐ自由登校だっけ……」

 この時期、三年生たちは受験の忙しい時期にあり、学校に来る日も残り少なくなっていた。
中には、受験の最中に卒業を向かえる人もいる。
そうして誰しもがこの祠堂からそれぞれの道へと旅立ってゆく。

「あ、そっか。だから、サイコロステーキだったのかな」

 思い返せば去年の今頃も、今みたいに人気メニューが続かなかっただろうか。

「何がサイコロステーキだって? 葉山、さっきから独り言ばっかり!
勝手にひとりで自己完結しないの!」
「あ、ごめんごめん。最近のさ、食堂の日替わり定食。
人気メニューが続いてるからすごく不思議だったんだ。
でもあれって、もしかしたら食堂のおばちゃんたちからのエールだったのかなって思ってさ。
もうすぐ卒業して行ってしまう三年生へ、のね。
それこそ自由登校になっちゃったら帰省する人も多いだろうし。
そうなると学食食べる機会も少なくなるだろ?
だから今のうちにって、ああいう人気メニューを並べてくれてたのかなって思ったんだ」

「ふうん。それはわかったけど。
話が突然、食堂のメニューに飛んでも、ぼくはギイじゃないんだから、葉山が何を考えてそういうこと言うのかがわかんないよ。
結局、何が言いたいのさ」
「えっと、つまりね。今はもう一月だろ?」

「それが?」
「だからっ。もうすぐ三年生がここを出てゆくってことはぼくらの進級も近いわけで。
そうなると、寮の部屋割りもまたあって。
同じ人とは二度と同室にはなれないって規則がある限り、今のようにはいかないから、ぼくも高林くんも、お互いギイや吉沢くんとは一緒の部屋じゃなくなるんだ」

 泉は、「あ」と小さく息を呑んだ。

「三月の退寮日まで、思えばもう三ヶ月もないんだよ」

 いつまでも続くと思っていた時間は、一秒たりとも止まってはくれない。
誰しもの上に等しく、時は流れ、進み、過ぎてゆく。

 一日一日とその日は近付いて。そして、ぼくたちは来年同じ部屋では眠れない。

「もしかしたら、吉沢くんは来年の部屋割りを心配してる、とか?
憧れとか恋とか、そういう過去のことじゃなくて。これからのこと思ってるのかもしれない。
ギイは階段長になる可能性が大きいけれど、それだって絶対とは決まってないし。
もしかしたら可能性として、高林くんとギイが一緒の部屋になることもあるんだよね……」
「そんなの老婆心じゃん」

「まあそうだけど。
でも、ギイのことはともかく、誰かが高林くんと同室になって、もし今までのようにいかなくなるかもしれないって不安に思ってたら?」
「だって、ぼくはギイよりも吉沢を選んだんだよ? ほかの誰がギイに勝てるって言うのさ。
吉沢はもっと自信を持っていいんだよ!」

「でも吉沢くん自身、そのギイに一目おいてるだろう?
もともとそれがもとで高林くんはここに来たんだろうし」

 憧れとか恋とか、高林くんがギイに抱いた気持ちがどんなものか気になってるかもしれないけれど。

「それよりも吉沢くんが気になるのは、高林くんがどうして吉沢くんを選んだか、じゃないのかなあ。
だから、ギイのことが気になるんだと思う」

 誰かを好きになることは悪いことじゃない。
かつて誰かを好きだったからといって、誰も責めたりはできない。

 だけど、かつて恋人が好きだった人が素敵すぎると、その分、余計に不安になる。
自分に自信がもてなくなったら、何を拠りどころに信じていいんだろう。

 泉が自分から離れて行かないと、吉沢はどうやって信じ続けたらいいのだろう。

 おりしも泉はギイの部屋に泊まりに行くと言って、部屋を出てきてしまってる。

 もし、自分よりもギイのそばにいたがる恋人を、どうやって引き止めたらいいのかわからないのだとしたら?

「ぼく、帰る」

 すっく、と立った泉は一目散に部屋を飛び出していった。

 消灯時間だとわかっているのかいないのか。
再び、廊下の向こうでドアが開閉する音が、遠く響いて聞こえてくる。

 そして、それから五分もしないうちに、ギイが、「ただいま」と部屋に戻ってきた。

「託生。どんな魔法を使ったんだ?
高林のヤツ、血相変えて飛び込んできて、オレに部屋に帰れって怒鳴ってたぞ」

 ギイの顔が締まりなく緩んでいる。

「オレが吉沢のベットで寝てたら突然ダイブしてきてさ。
吉沢じゃないってわかった途端、高林のヤツ、すごく焦ってたよ。
吉沢なんか、サーって血の気が引いちゃって。顔色失くして、もうかわいそうなくらいだった。
高林がそれ見て、これまた慌ててさ……」



『吉沢ごめん! だってギイがまさか吉沢のベッドで寝てるとは思わなかったんだ!』
『だって、高林くんのベットに寝てほしくなかったから。いくらギイでもやっぱり嫌だったんだ』

『吉沢。ぼく、わかったんだ。ギイのことは本当に憧れだった。葉山がね、ヒントをくれたよ。
ぼくは恋に恋をしてた。でも、今はそうじゃない。吉沢のことは、ホントの恋なんだ』
『あ、でも……。あのね、高林くん。憧れだとかそうじゃないとか、そういうのは別にいいんだ。
だって誰にでも過去はあるだろうし、その過去があるからこそ今のきみがここにいるんだろうから』

『吉沢……。ありがと……』
『ううん。ごめん、自信なかったのも本当だから、こちらこそこそ「ありがとう」だよ』



 それからは当然のように、ふたりの世界に入ってしまって、いつの間にやら吉沢の泉への呼び方も、「高林くん」から「泉」に変化していたので、ギイは、
『あー。オレ、お邪魔みたいだから。あとはふたりでどうにでもしてくれ』
そんなふうに一声かけて帰ろうとしたら、「まだいたの、ギイ」と冷たく泉に言われて、苦笑いするしかなかったと、ギイは楽しそうに話してくれた。

「そんなわけで、ふたりでアタフタしながら熱々ムードになっちまったもんだから、『お邪魔サマ』って言ってオレも帰ってきた」

 今、ぼくとギイは、ギイのベッドにふたり並んで座っている。

「吉沢さ、結局オレを高林のベッドに近寄らせなかったんだぜ」
「そうだったんだ。でも、ぼくも高林くんにギイのベット、使ってほしくなかったよ? 一緒だね。
あ、そういえば、結局ギイが確かめたかったことって何だったの?」

「ああ、まさにそのベッドだよ」
「へ?」

 まるで、よくできました、と褒めるかのように、ギイがぼくの頬にキスしてきた。

「えっと、それって……」
「オレだって、誰であろうと託生のベッドでなんか寝かせない。
それだったらまだ自分のベッドを提供するさ。
託生もオレと同じ気持ちだったからこそ、高林にオレのを使ってほしくなかったんだろ?」

 だって、好きな人のベッドに他人が寝るなんて平気ではいられない。

「つまり、吉沢もオレや託生と同じ気持ちだったってことだよ」
「そっか……。そうだよね」

 ちゃんと吉沢は泉を想ってる。おそらく、泉が考えている以上に独占欲だってあるのだろう。

「それで、今回のあのふたりって、結局はどういうことだったの?」

 あれだけ台風のように一陣の風を起こしてくれたのだから、ぼくにも詳細を聞く権利があるはずだ。

「つまりは、吉沢くんは、高林くんがギイのこと憧れていたとか好きだったとかを気にしてて、
それが原因で高林くんがキレちゃったってわけ?」
「違うだろうな」

「じゃあ、吉沢くんは高林くんのこと信じてたけど、高林くんのほうはそんな吉沢くんがわかってなくて、ただの一人相撲だったとか?」
「んー、何て言えばいいのかな。
吉沢にしてみれば、やっぱり何であれ、高林の口からオレの名前が出るのがおもしろくなかったんだろうな。
高林のこと、信じてないわけじゃないんだ。
大切なのは今現在。今、誰を好きかが重要であって、過去に誰を好きだったかなんて関係ない。
それは吉沢だってわかってるんだ。
はっきり言えば、吉沢は高林に『吉沢はトクベツだ』ってもっと言ってほしかったってことなんだろうけど。
棚から牡丹餅みたいに高林をモノにしたって思いが強くある吉沢だから、どさくさ紛れに幸運にも高林に好意を持ってもらえてラッキーに思ったそれが、ここにきて、春が来たらその幸運な魔法の効力が切れてしまいそうで怖かったって、ま、そんなとこだな」

 一度(ひとたび)、弓を握らせれば、凛と冴えた空気を纏い、背筋を伸ばして、自分の意思を通すように、的の中心に目掛けて真っ直ぐに矢を放つ吉沢道雄。

 普段の彼は、一見、恋人のいいなりになっている優柔不断男のように見えるが、恋人に関する事となれば、柔和な雰囲気は一変して、的を狙い打つ迫力さながらの凛々しい表情を惜しまず放つ。

 とはいえ、強豪で知られた名手を差し置き、二年生ながらも全国大会で名を馳せた吉沢道雄の魅力はそれだけでは括れない。
時には、弱気になり自信を失くし恋人の前でアタフタする、そんなかわいらしさを持つ吉沢道雄だからこそ、高林泉は共にいることを望むのだろう。

「恋人が自分以外の誰かを気にしてたらやっぱり嫉妬するし、自分のことだけ見ていてほしいと独占欲も抱く。
吉沢もさ、オレと同じただの男なんだよ」
「ただの男、ねえ……」

 ギイを「ただの男」の枠に括ってしまっていいのかは疑問に思うところだけど。

 ただの恋する男に成り下がることができるからこそ、吉沢道雄は高林泉の心を鷲掴みすることができるのかもしれない。

「そういうわけで、高林はオレから完全に卒業してるってこと、これでわかってくれたかな、託生くん」
「え?」

「安心したか、託生。おまえ、ちょっと不安だったんだろ?」
「あー、っていうか。不安が全然なかったとは言えないけど、それほど不安ってわけじゃなかったかな」

 それに、ぼくはギイから卒業する予定はないしね、と自分の気持ちを素直にギイに伝えたら、ギイはすかさず、「当然だ。卒業されたらオレが困る。オレは託生から卒業なんて絶対しない」と突然、耳元で喚くものだから、ぼくは咄嗟に両手で耳を塞いだ。

──前触れもなく耳元でしゃべるのはやめてくれ〜。ギイの声は心臓に悪いっ!

 そんなぼくの様子を目にして、
「……何だか、オレ、自信なくなってきた」
幾分、ギイが神妙な顔をする。

 肩をガクリと滑らせるギイなど、普段のギイしか知らない人が見たら、きっと驚くに違いない。

「どうしてそうなるのさ?」
「だって、普通、ここは託生が嫉妬すべきとこだろう?」

「どうして? だって、信じてなさいって言ったのはギイじゃないか」
「そりゃそうだけどな……」

「だったら、自分の言葉に責任持ってよね。それこそ不安になるじゃないか」
「お、託生くん。今頃、不安になってきちゃったんだ。よしよし。一晩中こうして抱き締めてやるからな」

 そしたら不安にならずにすむだろ、とちゃっかり腕を回して擦り寄ってくる恋人を、恥ずかしくも嬉しく思っているこのぼくが振り払えるだろうか。
いや、振り払えるわけがない。

「ギイって確信犯」
「今さら、だろ?」

 ひとつのベットにふたりの体温。

「くすぐったいよ」

 ひとつの毛布に包(くる)まれて、ふたりの吐息を確かめ合う。

「ギイってあったかいね」
「託生がいるから、余計、身体が火照るんだ」

 冬本番の寒い夜なら、恋人にぬくもりを求めたところでおかしくない。

 すべて寒さのせいにして、羞恥を飛ばし、今はただひたすらこのひとときの春を享受しよう。

 そして、いつかは来るべきその日に心を馳せては、今から覚悟を心に刻む。

「春かあ。できれば来ないといいな……」

 つい、零れてしまった願望に、ギイは、「大丈夫だよ」と微笑んだ。





 冬が終われば、春が来る。

 いずれ、ぼくらにも平等に春が訪れる。

 春が来れば、ぼくもギイも、この部屋から卒業しなければならない。

「ずっと、こうしていたいよ……」





 春。

 それは出会いの季節であり、くしくも別れの季節でもある──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの77777hits記念作品「忍び寄る春」はいかがでしたでしょうか?
今回は高林泉の登場となりました。

このお話のおまけとしては……。
泉が三○五号室に乱入予告した翌日、章三がギイを問いただしたところ、
「さしずめ、昨日は台風一過で春爛漫」とギイは答えたそうな。
それに対しての章三の返答が、
「今は真冬なのに春? それっておまえの頭がか?」
浮かれ気分のギイを的確に表現する章三だった。……なんちゃって。

最後に、この作品は77777hitsをゲットしてくださったshinさまに捧げます。
shinさま、「忍び寄る春」を気に入って頂けると嬉しいです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


この作品の著作権は、文・moroにあります。
なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
当サイトのあらゆる内容及び画像を無断転載・転用・引用することは固く禁じます。