ぼくの麗しの恋人を表現するとしたら、四文字熟語のオンパレードになる。

 眉目秀麗、頭脳明晰、飛耳長目、不撓不屈、勇猛果敢……。
溜息が出てしまうほどあまりにも出来すぎで、これだけ出来すぎだと妬ましさを通り過ぎて、羨ましさを覚えるのさえ冒涜に思えてしまうから本当に不思議だ。

 誰もが期待を込めてギイを見る。誰もがギイの一挙一動を見守ってしまう。

 そして、ギイを見つめる人の中には、羨望から好意に飛躍する者がいる一方で、自分とは次元も世界も違うと思慮を巡らしては見えない壁を作ってゆく者もいる。

 ギイ自身、自分を取り巻く現状や、相手に与える影響の大きさを身に染みて知っているから、彼のすることにはいろんな意味合いがこめられているのだろう。
ぼくはそんな彼の行動を見ているだけしかできないのが時々やるせなくなるのだが、ぼくという第三者的立場ではどうすることもできないから致し方ない。

 ギイはきっと、いろんな面で自分自身を自制しているのだと思う。
だから、せめて恋人のぼくくらいは、ギイがぼくと同じ年頃の、時には悩みも抱けば困惑に陥る普通の感情を持ち合わせている人間なのだと忘れないようにしたいのだけど、ぼくはちゃんとギイのことを理解しているのかどうかと問われると自信がない。

 ギイの出来すぎは、ギイ自身の感情が無視されてしまう要因にもなっているようで。
遠目に見たギイはストイックで、綺麗なマネキン人形のように見えてしまうと誰かが言っていた。

 もしかしたら、肌を傷つければ赤い血が流れ、心を痛めれば涙も流す、ギイが温かい血のかよう人間なのだと、そんな当然なことを頭では理解しつつも実際には忘れてしまっている人が意外と多いのではないだろうか。

 ギイは確かに、ぼくら同様、単なる(と言っていいかわらないが)高校生には違いないのに。

 ぼくは物覚えのいいギイとは違って物忘れが激しく、
あまり物事を気にする性質ではないのが高じて時々大事なことをつい忘れてしまうから、ほとんど頼りにならないかもしれない。

 図太いとか鈍感などと言われてしまうと身も蓋もないのだが、「そういう託生だからいいんだよ」などとギイが言うものだから、それほど強い危機感を感じた記憶がない。
欠点かもしれない一面をこれまで深刻に直そうとは思ったことがないこと自体がこれまたいけないのかもしれないが、今のところ急激に変わる予定もないので、たぶん当分は現状維持のままだと思う。

 いつもあとになって「ああ、あの時がそうだったのか」と胸を痛める羽目に陥ってもそれは自業自得で。

 ぼくは優秀ではないから、忘れてはいけないことをその都度思い出して、失敗や経験を繰り返しながら、ひとつずつギイという人間を知ってゆくしかないのだろう。

 好きな人を理解するのはドキドキして、ちょっとだけ怖くて、せつない。

 ぼくの「好き」の分だけ、ギイの深い部分をどこまで知っていいのかわからなくなる時もあるから余計に難しい。

 けれど、ギイにまつわることは、やっぱりとても気になって。

 その繰り返しが、ギイを知る一歩となる──。


感謝の明言



 放課後、バイオリンの練習をしようと一度学生寮に戻って部屋までバイオリンを取りに戻ったぼくは、玄関先でギイに会った。

 会ったと言っても目を合わせたぐらいで言葉を交わしたわけではないのだが、それでもその偶然は幸せなひとときとなってぼくの胸をほんのり温かくしてくれた。

 ギイはぼくに気がつかなくて、彼宛の郵便物を確認するのに忙しそうだった。

 とある一枚のポストカードで彼の視線がしばらく留まって、ギイの表情が何かを考えている時のものに変わった。

 ちらりと遠目に見えたそれにはアルファベットで宛名が書かれていた。
ぼくは視力には自信があるのだ。
ギイ宛の郵便物はエアメールも珍しくない。
彼はアメリカ国籍だし、彼の友人は世界中にいるのだろうから。

 そんなふうにぼくが自分の考えに納得の相槌を打っていると、ぼくの視線を感じたのか、顔をあげたギイがぼくを見つけた。

 一瞬、ギイは何か言いたげに唇をかすかに開きかけた。
けれど、すぐに仕方なさそうに肩を竦めて黙り込んでしまう。

 こんなことはこれが初めてではない。
ナイショの関係なのはぼくも納得していることだから、ギイがそういう態度をとってもぼくもまた仕方ないんだと思うようにしているが、それでもホールで擦れ違う際、ギイがわざとぼくの手にそっと指先を触れてきたので、少しだけホッとできた。

 だって、その一瞬だけはギイも心の中で、きっと頬を緩めて微笑んでくれたのだろうと想像できたからだ。 
とはいえ、そう想像できるだけで嬉しくなる自分がお安く思えて、何だかなあ、と割り切れない想いも抱いてしまう。

 一方で、物言いたげなさっきのギイのせつなそうな顔が、そのあとも頭から離れなくて。

──ギイ……?

 バイオリンケースを持った手がなぜだかじわっと汗ばんだ。

 そんな時、ふと目線をおろした際に、玄関の端の端に一枚の写真が落ちているのが目に留まった。
拾ってみるとそれは写真ではなくポストカードで、たくさんの赤い瓦屋根はまさに異国情緒に溢れていて、そこが日本の風景でないことは一目でわかった。

 その異国の風景に、申し訳なさそうに小さく添えられたメッセージ。

『ありがとう。婚約しました。大奈良和美』

 その短い言葉を目にした瞬間、全然関係のないぼくまでもがちょっぴり幸せな気分になってしまうほど、それはステキなポストカードだった。

 日本のそれよりやや紙質の劣る切手は何かの花のイラストが描かれていて、通貨はもちろん円でない。
宛名には見知った同級生の名があり、それはヘボン式ローマ綴りで書かれていた。

──こういう吉報なら、やっぱり早く知りたいよね。

 そう考えて、このまま郵便受けに入れるより部屋に届けてあげるべきかと一瞬迷う。

──親しい友達なら喜びも一塩だろうし。

 だから、そのポストカードから顔をあげた時、ガラス窓の向こう側にちょうど宛名主を見つけて、思わず「ラッキー!」と心が躍った。

「矢倉くん……!ってさすがにここから呼んでも聞こえないか」

 本人がいるのなら直接渡したほうがいいだろう。
そう思って、慌てて矢倉柾木のあとを追ってみたのだが、如何(いかん)せん、彼の歩く速度がものすごく早いのか、彼の背中はすごく遠くにあって、その姿がこれまたどんどん小さくなってゆく。

「矢倉くーん! おーい、待ってよー。矢倉くーん、落し物だってばぁー」

 それほどぼくは歩くのが遅いほうじゃないと思っていたのに、彼の速さはダントツだ。
ぼくの声が聞こえないのか、全然振り向きもしないで先を急いでいる。

「これってまさかコンパスの差?……って、ははは、自分で言ってて落ち込んでたら世話ないか」

 こんなことなら今手渡しちゃえとか思わなかったらよかった、などと今更後悔したところで遅すぎる。
それにここまで追ってきて諦めるのも何だか癪だ。すでに校舎近くまで足を伸ばしているのだ。
寮まで引きかえすにしてもこのポストカードが気になって仕方ないし、今まで追ってきた努力が無になってしまうのはやっぱり悔しい。

 結局、さっさと追いついてパパッと渡すのが最善と改めて思い直して、早速ぼくは歩きを駆け足に変えて彼を追うことにした。

 渡り廊下の先を曲がったところで一度彼の姿を見失った。
うろうろしていたら目的の人物の背中を簡単に見つけられたが、彼の移動速度は思いのほか速く、またすぐ見失ってしまう。

 梅雨が明けた途端、夏が一気にやって来たと言わんばかりの陽気が一時続いた。
今日はそれほど厳しい日差しではないのがまだ救いだ。
日中は曇ってはいたが、授業が終る頃から薄雲の切れ目から陽が差し出していた。

 日没間近の夕暮れとなると建物や樹木の長い影が長く伸びて、もうすぐ一日が終ってしまうんだと何だか急に物悲しく感じる。
厳密にいうと、時間的には一日の終わりである夜中の十二時までにはまだ時間はあるのだが、朱色に染まった校舎や校庭、まるで紅葉のように色付く樹木を見ていると、いくつもの長くて黒い影とその暖かい朱色の陽射しが目にとても優しくて、あと何時間、という数字の問題ではなく、気持ち的に一日の終わりが感じられた。

「はあ……」

 さっきのギイ、何だかいつもと違ってたなあ。
そう、つい言葉にしてしまいそうになるのを思わず溜息で誤魔化した。
夕暮れのこういう時間帯は情緒的なものが一層深まって、ほんのりとせつない気持ちになってしまうから本当に始末が悪い。

「まずいまずい、今はそれどころじゃないんだった」

 想いふけるのも時と場所を考えなければ、と自分を叱咤して、ここまで来た最初の目的を思い出す。
夕暮れの涼しさが、再度、矢倉の姿を見失った焦りに拍車をかけるのが小賢(こざか)しい。

 だから、日陰という条件でさらに涼しくなっている建物の影から出たところに、八津宏美の姿を見つけた時は内心、ホッと安堵した。
八津の影に平行に、長い影がもうひとつ別に伸びていたからだ。

──ああ、これでやっと渡せるよ。

 八津宏美のそばにいるのはきっと彼だろう。
逢引きの邪魔しちゃ悪いかななどと一瞬思ったが、寮までの道程を考えるとこのまま手ぶらで帰るのも気がひける。
渡すだけだから許してよね、とふたつの影に向けて、馬に蹴れませんようにとどこかで拝んでしまうぼくだった。

 ポストカードを握り締めて、「矢倉くん」と呼びながら一歩踏み出す。
しかし、ぼくの声は「矢倉」の「や」さえ出なかった。

 突然、背後から口を塞がれて、ぼくの声はくぐもったうめき声になったからだ。
腹に回された腕ががっしりとぼくの動きを抑えこんで、前に傾いた身体がびくとも動かない。
何が起こったのか、頭の中が真っ白になって、とにかく自由を取り戻したくて力任せに手足を動かそうとした。

「しっ。葉山、落ち着け。静かにしろよ。いいか、声を出さないって約束するなら手を放すから」

 耳元からささやくように聞こえる声はとても渋くて落ち着いた男の声だ。
それはどこかで聞いたことがある声だった。

 条件反射のように、うんうんと何度も頷くぼく。
すると、背後から抱きつくように回された腕がわずかに緩んだ。

 恐る恐るうしろを振り返ると右肩後方に、さっきまで追い求めたその人の真剣な顔がある。

──え? 矢倉くん?

 矢倉は「放すぞ? いいか?」と声を落として再度ぼくに確認を取ると、ゆっくりと手を外しにかかった。
止めていた息が吐き出て、次の瞬間、肺がいっぱいになるまで息を吸う。

 怖かった。すごく怖かった。

 何が何だかわからないまま、矢倉が相手だとわかった途端、 突然の緊張感から解放されて、カクンと膝が折れそうになった。
全身の力が抜けた。安堵したのだ。

「おい、大丈夫か」と矢倉は肘を支えてくれたが、「驚かさないでよ……」と返すのが精一杯だった。

 しかし、ここに矢倉がいるとなると、あそこで八津と一緒にいるのはいったい誰だろう。
ここからでは八津しか見えない。相手の手掛かりは長く伸びた影だけだった。

 矢倉は、唇に人差し指を立てると、そのまま八津から見えない物陰までぼくを引き摺ってゆき、それからぼくの身体を完全に放した。

 矢倉は静かに壁に寄りかかると腕を組んで目を閉じた。
ぼくはこの先どうしたらいいのかわからないまま、しばらくそのまま、彼を見ていたのだが、彼はじっと何かを待っているかのように動かずしゃべらずの姿勢を崩さない。

──さて、どうしよう。

 普段は陽気な矢倉柾木だが、こんなふうに黙ってじっとしているとその面差しはとても大人っぽく見える。
一階の階段長をしているほどだから、同級生の中でも精神的に大人なほうだとは思う。
普段の彼は冗談を言ったり誰構わずからかってふざけた行動で笑いの渦を撒き散らしていることが多く、こんな静かな彼は滅多に見られないから、とても迫力があるというか。
今の彼からは少し怖い印象を受けた。

──ふたりっきりで。それもこんな人寂しい場所のせいで。だから余計、そう感じちゃうのかも?

 子どもっぽい行動と人懐っこい笑顔。そして、目の前の真顔の渋くて男らしい容貌。
それらのギャップはとても激しく、だからこそ彼が楽しそうに笑っていると彼の親しい友人たちにはとても魅力的に見えるのだろう。
ぼくとしてもできるなら彼には笑っていてほしい。

──真面目な顔してる矢倉くんって、何考えているかわからないっていうか、迫力があるというか……。

 それに、何だか今の彼は機嫌が悪そうだ。

 ぼくらのいるところからは、八津たちが何を話しているのかはほとんど聞こえない。
時たま、話し声が大きくなった時に会話が漏れてくるくらいで、はっきりとした内容はわからない。

 でも、矢倉がじっと耳を澄ましているのはぼくの思い過ごしなどではなく、まるですべての会話が聞こえているかのように、ぼそぼそと聴こえてくるたび、ぴくりぴくりと瞼を動かしている。
腕を組みながら、手持ち無沙汰なのか、時々、手のひらを握ってはわずかに開いたり、意味のなさそうな動作を繰り返していた。

 そうなると気になるのは八津のほうで、何をしてるんだろうとぼくが向こうを覗こうと物陰から顔を出そうとしたら、途端、矢倉がぼくの腕を引き戻した。

 と、同時に雷みたいな声が聞こえてきて、思わずビクッとぼくの身体は縮(ちぢ)こまる。

「だから! 何度も言ってるけど! 俺はその気がないヤツとは付き合えないって言ってるだろう!
受験だからとか、男同士だからとか、そんな理由で逃げるつもりはないっ。
はっきり言うけど、付き合う付き合わないはそういう対象に見れるか見れないかだろう?
だから俺はそういう意味で、付き合えないって言ってるんだ!
受験が終ったらとか、いつかそのうちとか、そういうのはないと思う。
あ、いや、悪いけど……、そんな機会ははっきり言って来ない、よ。
ごめん。言い方きつくなって悪いと思うけど。でも、うやむやにするより、はっきりしたほうがいいだろう?」

 さすがにここまで大声で言い切られては、赤池章三たちに疎いと言われているぼくでさえも、この状況がどんなものかが理解できてしまうというものだ。
うわああ、と声にならない声が出そうになって、慌てて自分の口を手で押さえる。
ものすごくバツが悪かった。

 八津宏美とその相手がどういう用事でここにいるのか。
矢倉柾木がどうして不機嫌そうにしているのか。

 黙って隠れて盗み聞きすることは褒められたことではないけれど、自分の大事な恋人が誰かから告白されるって時に、平然と気にしないでいられる人はそうはいないだろう。

 信じていないわけではないのだ。
信じていても、それでも誰かの想いを踏みにじって自分の想いを貫くのだから、胸の中では嵐が吹き荒れる。

 告白を断わったのち、そのまま相手が素直に退いてくれればよし。
もしかしたら彼がここにいるのは、万が一、相手が無謀にも狼藉等を働いてこようものなら身を呈しても恋人を守るつもりで、なのかもしれない。

 突然、足音が遠ざかる音がした。
小さくなってゆくその音と引き換えに、ぼくの回りは再び静寂に包まれた。

 空白の間。どうにも身体が動けない緊張感に満ちた時間が流れる。
それは数分なのか数秒なのかはわからなかったが、その静寂を打ち破ったのは矢倉柾木で、口端だけ少し上げてると、ぼくを見つめ、「付き合わせて悪かったな」とわずかに頭を下げて謝った。

「いや、いいけど。かえってぼくのほうが悪かったかなと思って」
「葉山、俺に用だったんだろう? おまえが追ってくるの途中で気付いてたよ」

「あ、うん。これ拾ったんだ。
部屋まで持って行くつもりだったんだけど、ちょうど矢倉くんがこっちに来るの見かけたもんだから。
ははは、つい追ってきちゃった」

 おめでたい知らせだったから、と言い訳がましく言葉を添えながら、落し物のポストカードを矢倉に渡す。

 すると、受け取ったポストカードを、矢倉は訝しそうに見た。

──え? 知り合いからのじゃなかったのかな?

 まさしく彼のそれは、もらう言われもないものだと言っているかのような表情で、矢倉は何度も宛名を裏返して送り主の名をしげしげと見つめていた。

 矢倉のそんな様子を目にしてしまったら、どうにも落ち着かなくなって、余計なことしたかなとか、また早とちりしたのかなとか、あやふやな揺れる気持ちがぼくの中に生れてゆく。

「もしかして、知らない人?」

 彼に落し物を届けたのはもしかしたら迷惑だったのかもしれないと、ぼくは後悔すらしはじめていた。

 矢倉はわずかに目を細めて空を仰ぎ、何かを考えるような仕種を見せた。
そして、突然、「あ! なるほど!」とポンと手のひらを叩いて、彼はなかなか思い出せなかった記憶が明らかになって気分がすっきりしたみたいな笑顔を向けてくれたので、ぼくはすこしだけホッとした。

 あらためてその赤い屋根の異国の風景に目を留める矢倉のその眼差しはとても優しく、ああ、大事な人からの知らせだったんだ、と彼の気持ちが伝わってきて、ぼくまでもが嬉しくなる。

 だが、そんなほのぼのとした雰囲気を打ち破ったのは、
「どうしてこんなところに矢倉がいるんだ」
地獄の底から響いてきたかのような、突如沸いた低い声だった。

 ぼくは心臓が飛び出るくらい驚いて、声のしたほうを振り向くと、そこには矢倉を睨みつけた八津宏美が憤怒の面持ちで立っていた。

「矢倉、悪趣味だぞ! 葉山くんまでつれてくるなんて!」と怒鳴りながら、ずんずんこちらに詰め寄って来るその迫力がものすごい。

「あー、だからそのー、えっと、ちょっと気になったからさ。
あ、葉山は違うぞ、こいつは俺に用があったんだから。
な、そうだろ? 葉山、ありがとサンな、コレ。しっかし、おまえも相変わらず失礼なヤツだな。
俺もすぐ思いつかなかったから他人のことは言えないけど、この人、ここの二年上の先輩だぜ?
ま、おまえは一年の時は人間嫌いで通ってたから、どうせ覚えちゃいないんだろうけどな」
「ええっ! だってそれ、女の人からじゃないの? 祠堂の先輩って、え? え? それ男ぉっ?!」
「いったい何の話だ。矢倉、最初から説明しろ!」

『大奈良和美』と書いてあったから、てっきり女性だとばかり思っていた。

 ぼくの驚き方はたいそう矢倉を満足させたのだろう。

 頬を崩すように矢倉は笑いだして、
「正真正銘の立派な日本男児だって。コレはカズヨシって読むんだよ。
まあ、俺たちはわざと『カズミ先輩』って呼んでたけどな」
そんなイジワルを言ってきた。

「ふうん、わざと……ねえ」

 やっぱり矢倉は人が悪いと思う。

「カズミ先輩? あの弓削先輩のことか?」
「まあ、そういうわけかな」

 どうやら八津も知っている先輩らしい。
知らないのはぼくだけか、と思うと、自業自得とはいえ何となく釈然としなかった。

「弓削先輩がどうして、大奈良和美になってるんだ?」
「あー、そいつは多分、養子に行ったからかなあ。この大奈良ってのはおそらく養子先の名字なんだろう」

「養子?」
「ああ、そういう約束だったらしい。祠堂を卒業したら伯母さんちに養子に行くってな。
そういう事情がもともとあったからなんだろうけど、先輩はカズヨシって名前で呼んでくれって出会った時から言っててさ。
まあそれでも、実際、カズミ先輩って呼んでたのは俺とギイくらいなもんだったけど。
だって、いかにもコレの読みは『カズミ』だろ?」

 俺とギイくらい……って、なぜそこでわざわざギイの名を出すんだと思わず睨みたくなった。
ふい打ちはホントやめてほしいと思う。

 ナイショの関係のぼくとギイは、一応知り合いの間でも付き合ってないことになっている。
覚悟を持って誰かと接している時はいい。けれど、こんなふうに突然ギイの名を出されたら……。
ぼくは奇襲攻撃には弱いんだ。

 ぼくの気持ちを知ってか知らずか、矢倉は雑木林の入り口の、草が生えていない白っぽい土が盛り上がっている場所を指差しながら、「ここでよく団子を作ったっけ」と切り出したのだが、まさかそれがポストカードの例の先輩との思い出に繋がるものとはぼくも八津も夢にも思わず、気付くのに幾ばくか時間がかかってしまった。

「え? 団子作り?」
「団子ってもしかして泥団子かい?」

 幼稚園児ではあるまいし、まさかね、と思ったのだが。

「そうそう泥団子。懐かしいよなあ。
最初は、カズミ先輩もよくやるよって、ギイも俺もこっちに座って先輩の団子作りを眺めてたんだ。
でもそのうち競争心に火がついてさ。
参加するのに意義ありみたいなノリで、一時は誰が一番硬い団子が作れるか、よく三人して競争したっけなあ」

 今では一目も二目もおかれる一階階段長の矢倉柾木と三階階段長のギイ。
そのふたりがちまちま泥遊びに興じている姿があまり想像できない。

「土いじりなんてガキのやることって馬鹿にしちゃアカンよ。コレが結構工夫が必要なんだ。
いろんな土で泥団子を磨いては皮むいての繰り返しで。すごいの作ろうとしたら意外と難しいんだぞ」

 高校生にもなって泥団子作りはどうかとも思ったが、それはここでは言わないでおく。
だって、あのギイまでもが泥団子の魅力に嵌って、というのがすごく興味深かったから。
ぼくの知らないギイの一面をまたひとつ知ることが出来て、それも思わぬ情報を得たのが嬉して、つい顔がニヤけてしまうのが止められない。
同時に、ぼくの知らないギイとの楽しい思い出を持っている矢倉がとても羨ましく、ちょっぴり妬ましくもあり……。

──ぼくってホント、我がままだ。

 ぼくは二律背反の気持ちを胸に渦巻きながら、懐かしそうに話す矢倉の声にそっと耳を傾けた。

 そうして。
「ホント、あの頃は俺、ガキだったからな……」
そんな呟きから、そのあと、矢倉の追憶がゆるゆると引き出されてゆくのだが……。
ぼくの胸に、その台詞が特に印象深く残った。

 矢倉の「あの頃はガキだった」は、「まだまだ泥団子を作って楽しむお子様だった」と昔を懐かしむの意だと受け取ったぼくは、精神的に幼かったと自分を振り返る彼の言葉の真意をその時はまるで理解できずにいた。

 二年前の彼も、今の彼も、誰かを一途に想う矢倉柾木に違いなく。
誰かを想うことは幸せな気持ちばかりを抱いていられるわけではなく。
多くを知った矢倉はそうして二年前とは異なった。

 矢倉から聞くカズミ先輩の話はとても甘酸っぱくてせつないもので、そのせつなさが、ぼくの心に大切な一石を投じる。

 そうして、ぼくはより深くギイを想うようになるのだった──。





「葉山はギイがもてるの知ってるだろう? 俺もそれなりにモテちゃってさ。
これでもコクられるのなんて珍しくもなくてね、イロイロなパターンを経験しちゃってるわけよ」

 コクられる、ねえ。そりゃあるでしょうとも。
一度はぼく自身、偶然にも矢倉が告白される場面に立ち会ってしまったこともあるのだからよく存じてますよ、と言いたい。
おそらく矢倉はぼくがその場にいたなどとは知らないだろうから、面と向かっては言わないけれどね。

 その後も矢倉は調子にのって、明日の天気は曇りだろうけど雨ふるほどじゃないらしいと言うのと同じノリで、こんなことを言い出した。

「そんでさ、カズミ先輩からも俺たち、コクられたんだぜ」

──え? 

 最初は矢倉が言い間違えたのかと思った。

「え? 俺たち?」
「それってギイと矢倉くん、ふたりともってこと?」

 矢倉が不敵に微笑んで、突然の矢倉の爆弾発言に身を乗り出したぼくと八津を、「ほら、俺たちモテるから」と当然のようにからかってくる。

「何がモテるから、だ。いい加減なこと言うんじゃない!」
「矢倉くん、どうせ冗談言うなら、もうちょっとマシな冗談にしようよ」

 ぼくも八津もてっきりコレはエイプリールフールと同様レベルの話だとばかり思っていたのだが、矢倉が、「いや、マジで」と続けたものだから、三人の間にわずかに沈黙が走った。

「嘘コケ」とあくまで責める八津宏美。
「え、冗談じゃないの?」とあくまで信じたくないぼく。
そして、「うん。大マジ」と腕を組んで、わざとらしく、うんうん頷く矢倉柾木。

 いやはや、本当にびっくりだ。

 八津はぱくぱく口を動かしたまま、「だって」とか「そんな馬鹿な」とか繰り返して、そのうち、「それじゃあ何か? ギイに振られた先輩が矢倉に乗り換えたってことか!」と矢倉にずりずりっと迫力のある顔で突進して、キスでもしかねない距離まで近寄っていった。

 おそらく、その時の八津本人はあまりにも興奮していたため、矢倉との距離感を掴めてなかったのだろうと思う。

「だーかーら、ふたり同時にってことだよ。俺とギイ、ここに呼び出されてさ、好きだって言われたんだ」

 でも、動転していたのは八津だけではなく。

「そんなことがあっていいの? ふたりに同時に告白したって?」

 二年前の矢倉柾木とギイ、そして弓削和美の三人の姿が頭の中でぐるぐる回って、ぼくも我知れず、「嘘だろう?」と呟いていた。

「だって……、だって、それって仮にどっちかがオーケーしたらどうなるの?
それに、もしもふたりが、それこそふたりともがその先輩のこと好きだったら?
ねえ、それってアリなわけ?」

 ぼくは自分で自分が何を言っているのか把握しきれないまま、口からすらすら無責任な言葉を吐き出してしまっていた。

 どうやら自分で思ってる以上に動揺していたのだと、やっとそこで気がついたのだが。
正気に戻っても、自分がいったい何を知りたいのか、聞きたいのかわからなかったくらいだから、そのショックの大きさはぼくにとって計り知れないものだったのだろう。

「あー、でもアレはやっぱりそうならないってわかってての告白だったからなあ。
俺はむしろカズミ先輩に感謝しているくらいだな。それに、先輩には本命が別にいたしさ」

──え? 本命?

 この追加発言には、さすがにぼくも八津も言葉が出なかった。

「それって、弓削先輩……三人同時に好きになっちゃったってこと?」
「えっと、それも同時進行なんだよね……?」

 信じられないことだがすべて真実だというのだから、現実とはそらオソロシイ。

 けれど、矢倉が語る大奈良和美──当時、弓削和美と名乗っていた──というふたつ上の先輩の人柄を知るにつれ、ぼくも八津も、かの人の人間像が変わっていった。

 糾弾する気持ちなど微塵もわかずにすんだのは、ひとえに、弓削和美という人がすごく真面目に人を好きになる人なのだと聞き知ったからだ。

「カズミ先輩の両親は小学校に上がる前に離婚してて……」

 矢倉柾木の口から語られる弓削和美という人となりはとても穏やかで誠実で、好きな人を一途に愛する人だった──。





 和美の姓はもともと「安西」で、離婚により母が旧姓に戻ったため、以降は母方の姓の「弓削」を名乗ることになったらしい。

 和美の母には年離れた姉がいて、和美には伯母にあたるその女性には子どもがなかった。
和美には下に弟ふたりと妹ひとりがいたから、伯母夫婦はひとり子どもを養子にほしいと和美の母に前々から願っていたそうだ。

 和美の母の実家は古くから続く窯元で、内弟子をおくほど高名な陶芸家の祖父は、その話にことのほか乗り気だったと言う。

 伯母の夫である人は「大奈良」という姓の人で、大奈良家は昔から陶磁器を扱う会社を営んでいた。
祖父の仕事関係でふたりは知り合い結婚し、夫婦仲はとてもよかった。だが、ふたりには、望んでも結局子どもが授からなかった。
そのうち伯母が女性特有の病によって、子どもが生めない身体になってしまい、実子がダメなら養子をと夫婦間で何度も話しあったらしい。

 大奈良の会社はとても大きなもので、大奈良家は一人っ子だったその伯父以外に跡継ぎはなく、伯母に子が望めないと知ると途端に会社の将来を危ぶんだ。

 養子の話が本格的になった時、そこに一番に挙がったのが和美の名だった。

「だけどな、カズミ先輩はホントは土いじりをしたかったんだ。
お祖父さんのような陶芸家になりたかったんだよ」

 和美は幼少の頃から土遊びが好きだった。
粘土や泥遊びからはじまって、大人たちが気がつくと祖父の仕事場でロクロを回して遊んでいた。
最初のうちは子どもの仕事場を荒らされることを嫌う祖父に、「ここは遊び場じゃない」とよく叱られていたようだが、そのうち、祖父は和美のロクロ遊びに口を挟まなくかった。
それどころか、孫に釉掛(くすりが)けを指導し、あーでもないこーでもないとふたりで釉薬(ゆうやく)作りに精を出す日もあったと言う。

「でも、カズミ先輩は養子に出て、伯父さんの会社を継ぐことを選んだんだ。
伯父さんの会社の取引先の商社のお偉いさんとこの娘さんを好きになっちゃったんだよ。
カズミ先輩ってすごく惚れっぽいのが玉の傷なんだけど、それは本当の恋だったから。
まあ、先輩らしいかな」

「惚れっぽいのにそれが本当の恋かどうかなんてよくわかるもんだな」

 ナイス突っ込み、と八津の鋭さに思わず拍手しそうになってしまうのをここはぐっと堪える。

「陶芸家には嫁がせない。だが、未来の社長にならやってもいいって言われたら?
もし自分がカズミ先輩の立場だったらどうする?」

 矢倉からの応えは思いのほか誠実さに溢れていた。
ぼくはつくづく茶化さないでよかったと思った。

 和美と彼女が出会ったのは幼稚舎から大学までエスカレータ式の有名私立学校。ふたりは同級生だった。
とはいえ、同じ学校とは言っても初等部はともかく、中等部となると校舎は男女で異なり、男子と女子は滅多に同じ教室で机を並べることはなくなる。
それでも、文化祭や体育祭などの学校行事は男女共同作業だったらしいから、きっとそういう機会に和美は頑張ったんだろうと矢倉は言った。

「もともとは一目ぼれだったんだって言ってたよ。
初等部の三年の時に知り合って、中等部入ってからもアタックし続けたってんだからすごいだろ?」

 中等部卒業までは手を繋ぐのも精一杯のお付き合いが続き、大学まで進学できる女子と違い、男子は中等部までしかない学校だったから、和美はその後、祠堂を受験した。

「祠堂を卒業したら伯母さんとこと養子縁組して。
伯父さんの会社をいずれ継ぐために、陶磁器を勉強しにドイツに留学するのが決まっていたんだ。
彼女は一人娘だから自分はマスオさんでもいいんだけどって言って、カズミ先輩、伯父さんたちを泣かしちゃったって笑ってた。
弟や妹はまだ小さいからまだお母さんのそばを離れるのは忍びない、なぁんて、もっともな理由を大人たちに披露して、養子に出ることを承諾したんだって言ってたけど、ホントは彼女とのことがあったから決めたんだって。
カズミ先輩、すっごく照れながら教えてくれたな」

 矢倉とギイが和美と話すようになったのは、
偶然にもギイが告白されているところにばったり顔を合わせたのがきっかけだったと言う。

「ギイって一年の時、まだ幼い感じが残っててかわいかっただろ?
いかにも美少年って感じで、まだ高校生になったばかりで初々しくて。
そういうところに参っちゃった輩が結構いてさ。
ギイのヤツ、コクられるたびに一刀両断に断わってたわけ。
その告白シーンに偶然ばったりあっちゃった俺ってホントかわいそうなヤツだと思うだろ?
だって、俺はギイが断わるの知ってたからね」

 相手に同情しちゃったぜ、と矢倉はすうっとぼくを垣間見(かいまみ)る。
そして、「葉山、昔っからギイに愛されてるからなあ」と言って、それから八津に視線を向け直した。

「俺も昔っからおまえ好きだったし。だから、ほかのは断わるしかないだろ?
俺たちはずっと同志だったんだ。二年前からずっと……」

 ギイが誰かから告白されていた場所。
そこから少し離れたところで、ギイより少しだけ早い時間に別の人間から呼び出され、いらない想いを告げられていた矢倉。
お断りを申し下したあとの帰り間際、ギイが断わっているところにばったり会って、出るに出られず、木の影から終るのをずっと待つこと半刻。
その時、矢倉よりもふたつ先の木の陰で、もうひとり、和美が矢倉同様、これまた出るに出られず、じっと小さくなってコトの終りを待っていた。

 ギイが呼び出されたのは校舎の物陰だった。
だがそこは、雑木林から学生寮への続く通り道で、いつ誰かが通ってもおかしくない場所だった。
告白するならもう少し場所を選んでくれよ、とその時、木の陰から矢倉と和美は懸命に思念波を出していたらしい。

 それが縁で、三人はこのあたりで暇つぶしをするようになり、そしてある日、ふたりは和美に告白された。

「好きです」と。

「俺はね、これでも優しい人間らしいんだよな。でも一方で憎たらしい人間らしい。
片想いの辛さを知ってたからかな。断わるにしても相手の気持ちをできるだけ傷つけたくなかったんだ。
けど、ギイは違った。あいつはね、こうバッサリ切るんだよ。
相手の恋心を粉々にして未練も残せなくほどにぶった切ろうとするんだ。冷酷って言うかさ。
一年の時はまだそうでもなかったけど、今じゃ告白すらもさせないように仕向けてるもんな。
マジ徹底してる」

 和美が矢倉とギイに告白した時、和美には本命の彼女がいるのを知っていた彼らはとても驚いたらしい。

「俺もギイも片想いは経験済みだったから、誰かを好きになる気持ちはわかってたんだよ」

 矢倉柾木は断わる際、相手をいかに傷つけないかを考える人だった。
ありがとう、とまず言って、でもすみません、俺はあなたの想いには応えられませんと自分の気持ちを伝えてきた。

 けれど、ギイは──。

「まあ、『申し訳ないけど』くらいは言ってたみたいだけど。
でも、あいつ、『ありがとう』なんて絶対言わないんだぜ。葉山は知ってたか?」

 矢倉は当時を振り返って、「ギイは一縷の望みを絶つ方法を躊躇なく選ぶから。こいつは怖いと心底思ったね」と言った。

『オレはこの先も、あなたを好きになる予定はありません』
『先のことはわからないだろう』

『わかりますよ。そんなの簡単です。オレが好きにならないと言ったらならないんですから。
第一、こういうのは他人にどうこうされて抱く想いじゃないでしょう?』

 そういうギイだったから、和美からの告白への返事も明確だった。

 矢倉はそれはあまりにも言い過ぎじゃないかと口をだそうとしたが、当の和美が笑ってこう言ったらしい。

『ギイのはね、ただ冷たく突き放すわけじゃないんだよ。
滅多メタに相手をフッとけば、こっちとしても未練だって残らないからね。
だからその分、思い残すことはなくなるんだ。これはギイの優しさなんだよ。
別の恋にいきやすくしてくれてるんだから』

 そして、和美はこうも矢倉に伝えた。

『でもね、矢倉。ギイと同じことをするには覚悟がいるよ。
憎まれてしまうだろうし、妬まれてもしまうだろう。
別の誰かを好きになるまで、そういう迷惑な感情を押し付けられるし。
仮に別の誰かを好きになったところで、その恋がうまくいくまで何度もかつての苦い思い出を振り返るだろうからね。
それに、覚えておいて。一度抱いた恨み辛みはいずれ薄くなろうとも、一生完全には消えはしないんだ。
そこまでの覚悟あるなら、ギイの手段は最善だと言えるだろうよ』

 相手を思いやる方法はいくらでもあって、矢倉が選んだのは傷口をできるだけ開かないようにする方法だった。
ギイの場合は、傷口に塩を塗りつけるようなものだ。
傷には必ず跡が残り、それが記憶から思い出になるまで時間がかかる。

「あの時、和美先輩はオレに、ありがとうは言ってくれるなと言ったんだ。
ありがとうは気持ちを受け入れて感謝をする言葉だからって教えてくれて、だから、迷惑にしかならないいらない気持ちに対してそういう言葉を言うんじゃないって言ってくれた。
その言葉で俺は目が覚めたんだ。
誰だって片想いは辛いんだからってそんなのを理由にして、その場の同情だけで済ますのはすごい楽な方法なんだってことに。
自分の辛さを盾にして、相手の辛さから目を背けてた自身に気がついたんだ。
だからその時から、未来に目を向けさすギイのやり方も捨てたモンじゃないなって思うようになったさ」

 絶対その気にはならないという姿勢を明確に相手に示す。
告白さえもさせてあげない。
それは、想いが通じる可能性がまったくないという完璧な拒絶となる。

「誰だって、誰かを好きになったら、いつかは自分の気持ちを相手に知ってほしいし、受け入れてほしいと思うんだ。
けど、誰もが受け入れてもらえるわけじゃないし、時には邪魔にもなるだろう。
カズミ先輩は徹底的にフッてくれって俺たちに頼んだきた。
自分には好きな子がいて、その子をこの先もずっと大事にしたいからって言って。
他に目が行く自分が悪いんだけど、それでもその子には誠実でありたいから、これ以上好きになる前にこっ酷くフッて自分を止めてくれって。
脇目も振らずその子のことだけ好きでいたいから。
だからいらない可能性の枝はばっさり切ってほしいって言って。
それでも失恋に違いないんだけど、恋は恋でも本命のとは『違う』のはわかってるから大丈夫だからって……」

 そうして、矢倉は手にしたポストカードに書かれた文字をじっと見つめた。

「今は、やっぱりあの時はアレでよかったんだと思う。
八津も葉山も、こういう『ありがとう』のほうが数段いいだろ?」

『好きになってごめんなさい』

 当時の和美は心から詫びてくれたのだと矢倉は笑って言った。

 矢倉の手の中にあるポストカード。
心からの感謝の言葉が、今、ここに息衝いている。

『ありがとう。婚約しました』

 道を外れないようにしてくれてありがとう。
幸せな未来に導いてくれてありがとう。
絶対、彼女と幸せになります。

 異国からのポストカードには、たくさんの思い出と想いが詰まっていた。
過去から現実に戻った矢倉は、「嬉しかった。ありがとう」と頬を緩めて、ポストカードを八津に手渡した。

「さっき八津は、『ありがとう』って一度も言わなかった。だからすごく嬉しかった。
おまえがそう言うのは俺だけだって思っていいんだって改めて思った。
片想いが長かったせいかな。今も時々あの頃を思い出してはチビッとだけど不安になっちまう。
だから、さっきはすごくホッとした」

 カズミ先輩のことを思い出すということは、矢倉にとって片想いの辛い時期を思い出すのも同じだったのだろう。

「マジで嬉しかった。すごく安心した」

 矢倉は彼には珍しく照れたように何度も頭をかいて、「よかったよ」と安堵していた。

 それから真摯な態度で矢倉は八津に相対すると、
「頼みがある。俺が好きだと言ったら、ありがとうと言ってくれ。そしたら俺はこれからも安心できるから。
第一、今更思い出したくもないね。もう片想いなんてクソ食らえだっ!」

 ぼくはふたりから足を遠ざけた。

「馬鹿だなあ。もう片想いじゃないくせに」

 八津の声が背後から聞こえてきたけれど、ぼくは無視して、歩きを速めた。

 八津は矢倉に反抗するくせに、実のところは甘えられるのが好きだったりする。

「ありがとう、か……」

 矢倉はいまだに片想いの辛さを覚えていて、それは癒えない傷となってまだ残っているのかもしれない。
けれど今頃は、心からの告白に対する最高の応えを八津から受け取っているだろうから、きっと大丈夫。

「だって、矢倉くんの傷を癒せるのは彼だけだもんね。それにしても、片想いだった頃の傷か……」

 その時、何かが、ぼくの心の琴線に引っかかった。

 大奈良和美は、「ありがとう」のポストカードを矢倉柾木宛に送っていた。
けれど、彼が送ったのは果たして一枚だけだろうか?

『片想いは辛いんだぜ』

 かつて、ギイはそうぼくに伝えてきた。

 ギイの中で、もしもまだ完全に記憶が思い出に風化してなかったらどうだろう。

 出来すぎのギイが完璧でないのをぼくはちゃんと知っている。
それに、ギイは現実主義者であるが、結構ロマンチストでもあるのだ。

──ねえギイ。ぼく今すごく、メチャクチャ甘い口説き文句を聞きたいなあ。





 そして、後日。

 頼んだら、ギイは簡単に了承してくれた。

「好きだよ、託生。託生が好きだ。託生じゃなきゃダメなんだ。おまえがいいんだ。
こうしていつまでもオレのそばにいてくれ。オレだけ見て、オレだけのものでいてくれ」

 あまりにもスラスラとギイが恥ずかしい言葉を舌に乗せるものだから、「またまたギイったらホント調子いいんだから」とか、「そういう台詞、そんなに軽く言わないでよね」とか、照れ隠しの文句を何度か言おうとしたのだけれど、結局、何ひとつ言い返せないまま。
ぼくはただ俯いて、ぎゅっと唇を噛んで黙り込んでいた。

 何も言わないぼくを不審に思ったのか、ギイがぼくの顔を覗いてくる。

「託生?」

 そんな心配性なギイがすごく好きだなあ、とつくづく感じ入ってしまって。

 ああ、まずいなと思った時にはもう遅くて。

 泣き笑いの「ありがとう」になってしまったら、ギイがすこし困ったように顔を歪めた。

 ぼくからの「ありがとう」をずっとほしがっていたギイなのだとしたら、簡単に微笑むなんてできなくても当然だ、なんて自分に好都合な解釈をしてしまう。

 ギイの手が、ぼくの頬を包むと、その手の温かさがぼくの胸まで温めてくれる。
こんな時こそギイの笑った顔がみたいと思うのに、こんなふうに笑わないギイだからこそいいんだなんて思ってしまう。

 ギイと一緒にいるとぼくの胸はギュッと締め付けれたまま、いつまでも楽にならない。
けれど、そんな苦しみさえも、今ではぼくの喜びになってしまっている。

「好きになってくれてありがとう」は、好きになるのを許してくれてありがとうに聞こえて。
「そばにいてくれてありがとう」は、そばにいることを認めてくれてありがとうに聞こえる。

 好きな人が、嫉妬を抱くのも馬鹿らしくなるくらいの出来すぎの人だとすごく困るのだと知ったのは、ギイを好きになってからだ。
本人に責任はなくても羨望や好意の視線が幾多も集まるので、そうなると注目されるのが苦手なぼくはギイに近づけなくなってしまう。
すでに諦めの境地に陥っているとはいえ、ギイからの「ありがとう」を待っている人はたくさんいるんだという現実に、ぼくはどうしても落ち着かなくなる。

 自分の気持ちを受け入れてもらえる幸せの裏に誰かが悲しんでいるのだとしても、この温かな手はもう手放せないから、ギイを好きな分だけぼくは冷たい人間になってゆくのがわかるから困る。
それでもギイを独り占めしようともがくのをやめられないのだから、今以上にぼくはますます嫌な人間になっていくのだろう。

──ごめんなさい。ギイの手を離せないぼくを許してください。

「好きだよ」と言って、「ありがとう」と返してもらえる幸せはとても嬉しくてせつない。

 誰もがそういう「ありがとう」をもらえるとは限らないから、その分、ちょっとだけ苦味交じりの「ありがとう」になってしまうのかもしれない。

 ぼくは本来、小心者でそのくせ我がままで、ある程度のことは無視してしまえる傲慢さも冷酷さも持っていて、だから、どうしてギイがそんなぼくを好きになったのかよくわからない。

 ギイに、「ぼくはすごく冷たい人間かもしれないよ」と伝えたら、ギイはとてつもなく喜んで、「いいよ、もっと冷たくなってくれて。だってそれはオレを束縛したいってことだろう?」とのたまった。

 さらに。

「託生がそういう褒められない人間になっていくのはオレのためだけなんだから。
どんどん卑屈で嫌な人間になってくれよな。
そしたら託生を好きになるのは世界中でオレだけになるだろう。
オレにしてみれば言うことないじゃないか」

 これ以上もないってほどの満願の笑顔で、ぼくが嫌な人間になってゆくのを「ありがとう」などと言えるのはギイくらいで、こういうギイの一面に触れる時、みんなが見ているギイの明るい一面に隠された暗い穴を見たような気になる。

 欠陥だらけのぼくより、実はギイのほうが余程皮肉れてるのかもしれない。
それでも、ぼくは、ギイがそうであっても仕方がないと思う。

 ギイは四文字熟語だけでは到底語りきれないし、生きている人間なんだから完璧ではいられない。
ギイが完璧じゃないからと言って、ぼくがギイからの「ありがとう」をいらないというわけではないし、愛情表現からくる「ありがとう」なんて、ぼくはギイからしかほしくない。

「好きだよ、ギイ。だから、ありがとうを百回言ってくれる?」
「託生くん、ありがとうは口説き文句にならないんですけど?」

「いいの。今はありがとうが聞きたいんだから」
「はいはい。託生は我がままだなあ」

 でもそういう我がままっていいな、とギイが微笑む。

「そんなささいなお願いでギイをちょっぴりでも幸せにできるのなら、いくらでも我がままなんか言ってあげるよ」
「オレ、託生の我がまま好きだよ。どんな我がままでも叶えてやるよ。今度さ、ガルネリ狙ってやろうか?」

 近いうちにオークションに出るらしいんだ、なんて言って。
そうやってヘンに調子に乗ってくるから、まったくギイは始末に終えないのだけど。

──ふうん。そうくるかい。いいよ、それならそれで。

「ギイってば、そんなにぼくに我がまま言ってほしいんだ?」
「だって おまえの我がままってかわいいから。それに普段、言わないし」

 そっか、かわいい我がままなら許されるのか、とほくそ笑んだぼくは、「へえ。だったら、ねだってあげるね」と首をちょこっと傾いでギイを仰いだ。

「ねえ、さっきのだけど。やっぱり百回といわず、一万回にしてくれる?」

 だってぼくの我がまま好きなんだろ、と思いっきり幸せそうに笑って見せたら。

「げっ?! 託生くん、それマジですか?」

 ギイは苦笑いしながらぼくを抱き締めると、「ありがとう」を律儀にも一から唱えはじめた。

 時折、笑い声が混じるのだけど、それがまたぼくの胸をほんわりとあたたかくする。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」

 ギイが呪文のように唱える「ありがとう」は、まるでぼくを眠りの深海へと導いてゆく子守唄のようで、しばらくすると、それはすごく遠くから、かすかにしか聞こえなくなった。

 いつしかギイの鼓動の音に重なって、「ありがとう」が聞こえなくなってゆく。

 ギイの腕の中は恍惚の吐息が漏れてしまうほどとても温かくてすごく気持ちがいい。

 ああ、もう意識が保てない……。





 誰にも言えない「ありがとう」を、ギイはずっと胸に抱いていた。

 誰かに言ってほしい「ありがとう」は、愛しさが詰まっていてすごくせつない。

 だから、ぼくはギイに「ありがとう」を何度でも言いたいし、ギイにも「ありがとう」と言える幸せをどこまでも感じ入ってもらいたい。

 だって、それは、誰にでも言える「ありがとう」じゃないから。

 きっと、ギイのトクベツな「ありがとう」はぼくだけのものだろうから。





「ん? 託生? 寝たのか? ……ありがとうな」

 そして、またひとつ「ありがとう」が降り積もって、夢の中まで「ありがとう」で満たされてゆく──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの開設四周年記念作品「感謝の明言」はいかがでしたでしょうか?
今回は矢倉と八津と託生の三人にギイを絡ませたお話となりました。

「ありがとう」という言葉にこめられた想いと、
もしも両思いになっても片想いの頃の気持ちを引き摺っていたら、と、
うまくいく恋ばかりではない、という三つの思いつきから考えたお話です。

誰かを好きになって、告白することになって。
うまくいくかなあと期待を込めての告白もあれば、気持ちに踏ん切りつけるためにわざわざフラレにいく告白もあって。
うまくいけば万々歳。けど、もちろんうまくいくばかりではなく。
辛い記憶というのはやっぱりずっと残るものだろうけど、
でも、それもいつか、いい思い出となってくれるいいなあ。
……そんなことを思いながら、このお話を書きました♪

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


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