*** ご注意 ***

この「最後の砦」は未来編です。

全体的に、世の中のあり方をはじめ、現実には到底ありえないホラ吹き設定になってます。
また、未来編ということで、原作との相違点が多いと思われます。

そのようなお話が苦手な方、または、ご理解していただけない方は、申し訳ありませんがご遠慮ください。
「どんなんでもOK! ドンと来い! 笑って許してあげよう!」という心の広い方のみ、どうぞ〜♪




最後の砦



 青を基調とした薄暗い空間に、間接照明に照らされた章三の輪郭がぼんやりと浮かんだ。

「今更だけど、どうして葉山だったんだ? ギイならほかにいくらでもいただろう?」

 カラン、とグラスの中の氷が溶けて、琥珀の液体の中に崩れ落ちる。

 今までにも、章三はこの手の質問を何度かオレにしたことがあった。
それに何もこれは章三ひとりに限った話ではなく。
どうしてだろう。不思議なことに、託生を知ってる人間は、誰でも一度はこの問いをオレにぶつけたくなるらしい。

「ホントに今更の話だな」

 ただし、ただの好奇心で訊いてくる輩と違って、なおのこと、章三の場合は性質(たち)が悪い。
何しろ、オレの初恋の相手が託生だと知った上でこんなふうに確認してくるのだ。
このふてぶてしい心根(こころね)には心底恐れ入る。
こいつはホントに侮れないと、こんな時、オレはつくづく思い知るのだ。

「淡い初恋の思い出が本気の恋になるきっかけってのは一体全体何だったんだ?
確か、ギイが葉山を口説きまくってたのは二年の春だったか。
そこから考えるとおまえの気持ちは、少なくても一年時にはすでに決まってたってことだろう?」

 山の麓に建つ祠堂学院高等学校。
オレはそこで、めまぐるしい三年間を過ごした。

 章三ともそこで出会ったわけだが。
祠堂というところはオレにとって思い出深い特別な場所で、オレを惹きつけてやまないただひとりの存在が在籍していた高校だった。

「僕が思うに、一年の葉山に注目すべき要素などなかった……。
ああ、でも、やつは別の意味では充分目立ってたか。
だとしたら、あの頃の葉山の何がギイを惹きつけたのか。
おまえの心を鷲掴みするほどの魅力があの時の葉山にあるとは……正直、いまだに信じられん。
祠堂の七不思議に勝るとも劣らないんじゃないか?」

 人間嫌いの葉山託生。
他人と馴れ合うのも、ついでに他人と触れ合うのも大嫌い。

 確かに一年の時は、ある意味、託生は充分人目を惹く存在だった。

「まったくエライ言われようだなあ。そこまで言われたら、さすがに託生がかわいそうだろうが」

 本来のオレは、最愛の恋人をけなされて黙っているような性質ではない。
その場で行動に出られるものなら出ているだろうし、仮にそれが無理なら、いかにして誰にも知られず、それ相当の報復を与えられるか、逐一、脳裏に描いているような男だ。

 沸いてしまった負のエネルギーはどうにもならない。
どうにも消せない思考は、水面下で画策する楽しみに変じるしかない。
そうでもしないと自分のような人間は、あの伏魔殿のごとき財界などでは生き残れないことを、オレは経験上、よく知っていた。

 無意識のうちに計算してしまう自分を止められないし、そもそもオレ自身、止める気もない。

 実行するかどうかは別として、最善の方法をその都度瞬時に思い描く癖があるオレは、だからこの時も、無意識に章三に重ねて奈美ちゃんの顔を脳裏に浮かべてしまったのだが、さすがに今夜だけはこの自分の悪癖に舌打ちをしたくなった。

 奈美ちゃんは章三の幼馴染みで、今では章三の最大の弱点になっている(とオレは信じてる)。
彼女をどうこうするつもりなど一ミリグラムたりとも持ち合わせてないのに、こんなふうに章三に対してさえ、敵を排除しようと本能的に意識が働いてしまう容赦ない自分が情けない。

──章三は違うのに……。アメリカから帰ったばかりで気が立っているのだろうか。

 修行が足りないな、と自嘲の笑みが苦笑いになってしまった。

「おい章三、言ってるのがおまえじゃなかったらぶん殴ってるぞ」

 章三相手なら、この程度の応酬で充分なんだ。

 章三のコレは純粋なる疑問から発している言葉であって、託生をおとしめるつもりなど毛頭ないことはわかっている。
だから、この程度の言葉の掛け合いで丁度いい。

 案の定、章三のほうもオレの出方を承知してて。

「恋は盲目。痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)とは言ったもんだからな。
それでも、疑問に思ってしまったものは仕方ないだろう?
気になるじゃないか。ましてや、ちゃんとした答えも持ってる人間が目の前にいるんだ。
訊きたくなるのが人情だろ?」

 そんなふうに軽く返してくださるから、こっちも「そんなんじゃ馬に蹴られるぞ」と笑って返してやれる。

 だが、オレの言葉など聞く耳持つ気もないのか、綺麗に無視して、「ここまで来ていながら」と章三はおのれの喉を指差した。

「もう少しで出そうで出ない言葉っては、いつもながらいらいらするな。
わかりそうでわからないもどかしさってのは僕は性(しょう)に合わないんだ」

 頭をわずかにふらつかせ、オレを見返してきたその表情は、まさに苦虫を潰したようなそれで、白黒つけなきゃ気がすまない、としっかり顔一面に書いてあった。

 純粋に疑問を投げてくる姿勢は昔とまったく変わらないな、と思う。
思慮深いくせにどこか純真な章三。

「そんなものか? オレは特に気にならないけどな」

 子供のような澄んだ目を向けられ、それが何となく眩しく感じられて。
惚けて逃げようとしたら、突然、腕を掴まれた。

──こいつ、力の加減ができてない。

 今夜の章三はやつにしてはいつになく執拗だった。

「嘘つけ。疑問に思ったら速攻で動くヤツがどの口で言ってるんだ。鏡見てからモノ言えよ」

 どうにもオレの腕を放さない。

「章三。もしかしておまえ、相当酔ってるだろう?」

 やんわりと章三の手を放しながら、指折り数えてお互い飲んだ酒の量を思い返してみれば、章三の許容範囲を軽く超えていたのに今更ながら気がついた。

──こいつがここまで酔うとはなあ。

 章三がこれだけハイペースで飲むなんて滅多にないことだ。
章三は酔いつぶれてみっともない姿を見せるのをすごく毛嫌いしていて、自分の限界が近付くと、いつもそれなりに自重していた。

 その章三が、今夜は箍(たが)を外して、杯を重ねている。

──確かに「今夜は飲むぞー」とは言ってたけど。……って、おいおい、こいつ、まだ飲む気かよ。

 酔っ払いの戯言に付き合うのはせいぜい三割程度がいいとこだな、と思っていたところに、章三のトロンとした目がオレの顔を映した途端、ぼんやりと腑抜けていた視線が、瞬間、わずかに鋭くなった。

「……葉山が言ってた。ギイは時々無茶するから目が離せないってな。
あれは三年の時だったか。
自分の周りのすべてを切り捨てて、自分ひとりを境地に追いやってでも何かを成し得ようとするから怖いって、あいつ言ってたよ」

 章三の口から最愛の人の名が出た途端、一瞬でオレの気持ちは引き締まった。
章三の声音や口調はしっかりしていて、赤い顔をしていなければ酔っているとはわからない。

「オレが怖い? 託生がそう言ったのか?」
「誤解するなよ?
葉山が恐れてるのはおまえじゃなくて……、強いて言えば、ギイの殉教者みたいな性質っていうのかな。
おまえはひとりで何するかわからないから、いつかギイを失いそうで怖いんだとさ。
おまえってさ、ときたま周りを振り切って突っ走るところがあるだろう?
堕ちてゆくのをものともしないで、まるで焦がれているかのようなところがあるの、自分でも気づいてるんだろが?
葉山が怖がるのなんてそんなの当然なんだよ。
おまえはこの世にひとりしかいないんだから、絶対失えないんだ。
わかるか? おまえの代わりはどこにもいないんだ」

 章三は一気にグラスをあおると、突如、ふにゃらと笑った。

 信じられないことに、あのお堅い鉄鋼仮面のような章三が、顔面を崩してだらしなく笑ったのである。
オレは話の中身なんかより、どっちかっていうとこっちのほうが心配になった。

「なあ、おまえ今日、飲みすぎだぞ。もうこの辺でやめとけよ」

 こんな腑抜けた章三なんぞ、見たことがない。

「これが飲まずにいられるかぁ! もう一杯おかわりっ! 今夜は僕のおごりなんだ。
おまえも飲めよ、ギイ。さあ、はよ次、頼め!」

 章三に呼ばれたバーテンダーがお代わりのグラスを置いてゆく。

「野暮だぞ、おまえ……。自分の金で飲む酒くらい好きなだけ飲ませろってんだ……、う、うっぷ……」
「おいおいおい……、ホントに大丈夫かよ」

 章三は新しいグラスに手を伸ばすと、またもや、ふにゃらと頬を緩め、ふふんと顎をしゃくっては、楽しそうに笑いながら、ゆらゆらと肩を揺らしはじめる。

「気持ちいいな。こんな酒も悪くない……」
「そりゃ、そんだけベロンベロンになればご機嫌だろうよ。マジに無茶するなよ、章三」

「うるさいな、おまえは葉山の心配だけしておけ……っと。ん? ほ、お……、こりゃ懐かしい。
おいギイ、コレ見てみろよ。なあ、似てると思わないか? この氷。
あの窓から見えた山の形にそっくりだ……」

 章三のグラスに浮かぶ大きな氷はまるで氷山のように一角を天に向けて琥珀の液体に浮かんでいた。
青い光を受けてキラキラと輝く透きとおったそれが見知った山の稜線と重なって、懐かしい風景を思い出させる。

「ああ、確かに似てるな。祠堂の寮から見えたあの山に」
「一年の時は四階だったから、窓から見える景色が格別綺麗に見えたよな。
おまえはちょくちょく窓開けてさ、寒いっていう僕の抗議を無視して、よくこの山を見てたっけ。
なあ、あの時、おまえ。本当は何を見てたんだ?
あの頃の僕は、ギイがただ単に山を見ているようにはどうしても思えなかった」

 さすがに相棒だな、もう十年も昔のことをよく覚えてるもんだ、とオレはことさら感心した。
ましてや、オレが山そのものを見ていたわけじゃないと気づきながら、あの時、何も訊かなかったなんて。

──章三、おまえ。伊達にオレの親友やってないなあ。

 確かに章三のバランス感覚は、昔から天下一品の優れものだった。

 章三の気遣いに微塵も気づかなかったオレ。

 自分の情けなさへの詫びを含んだ返礼のつもりだったのか。

「……あそこに、見えたんだ」

 一生、誰にも話すつもりなどなかった話を、オレは章三相手に切り出していた。

 あの時分に今と同じ問いをされていたらどうだろう。真面目に向き合う気になったかどうか……。
おそらく、何かと話を誤魔化して逃げ出したんじゃなかろうか。

 でも、今だったら。章三にだったら。
あの昔話をしてもいいと、今夜のオレは素直に自分を許していた。

 氷の山の尾根を人差し指でたどり、とある一点でピタリと止める。

「なあ、おまえさ。このあたりにあったもの、覚えてるか?」
「あン? ここにか? あー、確かアンテナみたいなのがあったような。それとも建物だったかな。
白っぽい何かが見えた気がするなあ」

「よく覚えてるじゃないか、上等だよ。
寮の窓から見るとさ、まるでココに要塞が建ってるかのように見えたんだ。
あの時、オレが見てたのはそれだよ。無線中継塔、さ」
「無線中継塔? それって見てて面白いものか?」

「どうだろう。ただあの時は、とにかく祠堂を守ってくれてる砦(とりで)のように見えたんだよな。
何となく、あれがあれば大丈夫だって思ってたんだ。
だから、オレが見てたのは……、つまりは安心したくて、かな」
「へえ、それはただの気休めじゃなく? おまえは意味ないことはしない完璧合理主義者だからな。
ギイのやることなすこと、どこかに理由があるのを僕は知ってるから。
だから、ただの気休めとはどうしても思えないんだよな」

 相変わらず鋭いヤツ。恐れ入る。

「意味、ね……。あるにはあるかな。あれはさ、オレの最後の砦だったんだ。
あれが崩れたらオレも堕ちる。あれはそんな存在だったのさ──」

 祠堂学院高等学校に入学した年、オレはオレの最後の砦を見つけた。

 もしもその砦が存在しなかったら、オレはきっと生きることに希望を見いだせなかったろう。

 朝から晩まで息を吸って吐いて。ただそれだけの毎日をおくり、享楽と誘惑に身を流しながら与えられた役目をきちんと果たす。
そうして、一生、崎義一という人間を演じきる。
スポットライトの中で輝く役者のように、ただひたすら演目をこなし続けるような、そんな一生をきっと送っていただろう。

「もし、アレが最後の砦でなかったら……、オレは二度と日本に足を向けてなかったろうよ」

 だが、オレの砦は確かに存在した。

 そのお陰でオレは堕ちずにすんで、こうして今も笑って生きてられる。

 すべては、あの存在があったからこそ。

 今現在、オレがここでこうしていられるのも、すべてはあそこに基づいている──。





 十数年前、日本の高校に入学したいと両親に相談した時、母は難色を示したが、父はすんなり了承してくれた。

 出来のいい息子と評判のオレの行動をどこまで把握してたのか。

 随時まとわりついているSPから逐一連絡がいっているのだとしたら、図太い心臓を持つあの父でさえ呆れてものが言えないほどの、そんな無意味な時間に当時のオレは身を任せていた。

 生まれた時からオレに用意されていたFグループ次期総裁の椅子というものは、他人にとって素晴らしく魅力的なものらしく、その椅子に価値を見出す者は数知れなかった。
欲にまみれた羽虫の心は崎家の財力に誘惑され、ブンブン羽音を高鳴らせて、ひたすらオレの周りを飛び回る。
オレはオレでまるでそれが義務かのように、煩いおべんちゃらに付き合わされ、作り笑いを得意としていた。

 母方の血を濃く受け継いだのか、四分の一しか入ってないはずのフランス人の血は、オレの見てくれを日系人とは到底見られないものに作り上げ、それは人種の坩堝(るつぼ)のアメリカでさえ人目を惹くほど悪目立ちするほどだった。
確かに醜悪なそれよりも端整なほうが、他人からの受けはいいだろう。
小さい頃はしばしば、天使のようにかわいいとよく褒められたものだが、しかしそれは残念なことに、オレにとっては無用の長物にしかならなかった。

 オレはただのかわいらしい子供でいてはいけなかった。
元来、崎家の長男にかわいらしさなど必要ない。

 オレはこの外見のせいで幾度となく見知らぬ連中に懸想され、迷惑な感情を押しつけられた。
無理矢理連れ去られそうになったことは一度や二度ではない
それでなくても、裕福な家に生まれたというだけで常に犯罪の標的になりやすいのに。
ただでさえ注目される立場に加え、この人目を惹く外見は、新たな危険を招く原因にしかならなかった。
両親が顔をほころばせる一方で、難色を示したのも当然だろう。
一時期、オレの身を案じて、一切の外出を禁じた両親の決断は正しかったと言える。

 そんなオレが、余程不憫に見えたのか。
同情するかのように天が与えてくれたのが、他人よりも優れた記憶力だった。

 人よりも危険の多い日常の中で暮らすオレにとって、救いとなったそれにいち早く気づいたのは母だった。
母は息子の知能が高いことに単純に喜んだようだが、一方、父は、オレの将来を見通して、その天性に心から安堵したのだと思う。

 オレを甘やかすようにかわいがってくれた母。生き抜くことの厳しさを教えてくれた父。
父は絵利子とオレを別(わ)け隔(へだ)てなく愛してくれたが、母と一緒にいることを好んだ絵利子よりも、オレのほうが、おそらく父との時間を多く持ったのだろう。

 オレの父は幼いオレを頻繁に会社まで呼びつけるような人で、仕事の合間によく相手をしてくれたものだが、そんな時は決まって父付きの秘書たちが困った顔をしていたのを記憶している。
奔放な父よりもオレのほうが余程あの頃、周りへの気配りができていたんじゃないだろうか。

 だが、そんな身勝手な父でも、やはり偉大な人には違いない。
他人の心の動きを読み、次にどう行動するかを予測する──そんな遊びを、のちに崎義一として生き残るために必須な能力であるとは気づかないまま、オレは父相手によく興じていた。

 父がオレに教えたかったのはただひとつ。
観察すること、だったと思う。オレはそう推測している。

「何事にも大切なことだから、よく覚えておきなさい」

 あの時の、同じ目線で語ってくれた父の真剣な顔を、オレはおぼろげだが今も覚えてる。

 オレの将来に有益をもたらした父との遊び。
だが、その遊びは、反面、弊害をもまた生み出した。
オレはこの世には多種多様な人間が存在することを父から学び、結果、子供心に厳しい現実にさらされて、他人に何かを期待したり、安易に夢見たりすることができなくなった。

 大人も子供も人それぞれだ。
笑顔の裏側で何を考えているか知れたものではない。
人はいつまでも純粋なままでは生きられないし、傷ついた分だけ優しくなれる人もいれば、他人に同じ傷を与えようとする人もいる。
人は人を欺き、利益を求めて行動し、純粋なものが汚濁してゆくさまを喜び、誰かが利得をするならば、おのれもまた、と願い請い出て、欲を募らせる。

 言葉の応酬は突きの連続であり、饒舌の剣を携えての攻防となれば心身共に疲労し、正当な手段をこうじる手間を省き、強引にことを進めようとする者から身を守るためには金剛不壊(こんごうふえ)の姿勢を余儀なくされる。

 オレが立っている場所は、そんな荊棘(けいきょく)の道の真っ只中で、大勢の大人に取り囲まれる生活は、オレの心をゆっくりと穏やかに育ててはくれなかった。

 父はオレが生き残れるよう、早く大人になることを願っていた。
我が子が将来困らないように、この先必要になるであろう知識や経験を早く託したがっていた。

 オレ自身、オレに用意された道の行き着く先が世知辛い世界である以上、ゆったりと心を緩める余裕も、ゆっくりと身体を休める暇も、そんなものなど望むなんて許されないことと元から諦めていた節もあった。
時間がなくて、時間が足りなくて。知らねばならないことが多すぎて。
「少しお休みなさい」と母から言われたところで、崎義一として生きるためには、自ら進んで心身共に早熟させなければ、と常にオレは肝に銘じていた……。

 もしかしたら、オレは生き急いでいたのかもしれない。

 誰もにかわいがられたが、集まる人間によっては思惑もさまざまだったから、一時でも気を抜くことはできなかった。
オレの出自を羨む輩たちと対等に対峙するには、子供のままでいるのは危険すぎた。

 身の回りの危険から自身を守るには、何が危険か、モノの是非を問う力が本人に備わっていることが最小限の条件となる。

 笑顔で近付く危険も多い。
純粋であればあるだけ不利になる。うしろをとられて弱みをつかれる。
狡猾に、小賢(こざか)しくならなければ足元をすくわれる。

 こちらも真剣ならあちらも真剣で。
子供相手にあの手この手で懐柔策を練り、甘い言葉で籠絡(ろうらく)しようと躍起になる大人たちの滑稽さは、笑いたくなるほど凄(すさ)まじい。

 誰を信じて誰を信じてはいけないのか。
自分に問い続ける毎日で、その繰り返しの虚しさと言ったら言葉にならないほどだった。

 まさに空虚──。

 そんなこんなで、十五の頃には世間の明暗をそれなりに身に染みて知っていたから、高校入試時、面接官に、明るい未来や子供らしい夢を問われても、うわべばかりの言葉を連ねるのが精一杯。
種を知っている手品と同じで、夢や希望を心から抱くなどオレには到底無理な話だった。

 世情に通じてる分だけ、自分が薄汚れているのもわかっていた。
オレの頭を割って中身を調べた者がいたとしたら、十五の身空で精神はすでに老獪な政治家に相当すると証明していたかもしれない。

 甘い香水の香りに包まれ、柔肌をさらして十五に満たない子供を誘う女たちは常に千枚張りの面の皮を持ち、オレから一セントでも多く享受しようと努力するそのさまはまさに強欲で、とても清純とは言いがたい。

 ふたりの祖父たちや特に父が、並び称されるものがないほど羽振りがよく、オレは幼い頃から事業を牛耳る大人たちの姿を見て育ったせいか、いずれ自分も同じ土俵にあがるのだと物心つく頃には当然のように考えていたから、笑顔で和気藹々とおしゃべりに興じながらも、常時、周囲の動向に目を走らせて、何事にも観察を怠らず、人間関係の繋がりからはじまって、周りの人間たちの好みや考え方、趣味や娯楽、弱みや苦手とするものといったものまで、さまざまな情報を集めては、いつか将来どこかで役立てようと考えているような、そんな隙のない食えない子供だった。

 分別(ふんべつ)のある大人にしてみれば、あの頃のオレは、自分に不可能なことはないのだと、一つ覚えの足し算を暗算してみせるかのように意気がって見えただろう。

 だが、現実は──。
目の前に開けていた意気揚々とした未来と、人生の在りように価値を見出せず、どこまでも暗澹(あんたん)と続く将来。
そのふたつの狭間に揺れに揺れて。

 いつまで続くかわからない茶番な人生。
あと何年、あと何十年、生きなければならないのか。
五十年か? それとも七十年? どれだけ生きれば終わりがあるのか。
感情を封印し、ただの人形となれたならどれほど楽か。

 多大な期待と羨望を向けられた子供が恵まれた環境や資質と共に併せ持っていたのは、死を身近に感じた人間が持つような老廃した精神だった。

 十五の子供が、そんな状態でいつまでも正気でいられるだろうか。いられるわけがない。

 案の定、いつ崖から落ちるかわからない、そんな恐怖感がさらにオレを蝕んでいった。

 Fグループの次期総帥の座が重たかったのか、利潤ばかりを追いかけて近付いてくる欲の塊たちの対応に疲れたのか。
本当のところの原因は何だったのか、それは今でもわからない。
でもあの時、このままでは近々いずれ堕ちる──とオレは確かに悟っていた。

 日本に行くことを決めたのは、そこでなら純粋な精神を取り戻せると思ったからだ。
純真な心を持つあいつに会えさえすれば、堕ちてゆく速度を少しは食い止められるんじゃないか。
あいつに会えば、きっと自分の中の何かが変わるんじゃないか──。
そんな藁をも掴む思いで、オレは日本に渡ったのだった。

 あの時のオレは、きっと誰かにすがりたかったのかもしれない。
その誰かは誰でもいいわけではなく、つまりは、ただひとりの人だったのだけれど……。



 昔、幼馴染みの佐智が出演するからと言って、連れて行かれたバイオリンの発表会で、オレはある子供に心を奪われた。

 純粋に音楽を楽しむその健やかな精神を透して、その頃からすでに失いつつあった明るく輝く未来が一際オレの中で瞬いた気がして、オレはその子から目が離せなかった。

 ワクワクして、ドキドキして。

 自分が普通の子供になれた気がした。

 こんなふうでいたかったと人並みに憧れもした。

 その時分、もちろん自分だって当然、子供だったくせに。
オレは子供であるにもかかわらず、子供らしさに憧れたのだった。

 あたりまえのそのことがなぜか情けなくて、悲しくて。また一方で嬉しくて。
思わず涙が目尻に浮かぶほど、胸がギュッと押しつぶされそうなくらい熱くなって、息苦しくなった。

 自分よりも少しだけ年齢が下だと思っていたあいつが同じ歳だと知った時も、オレは心の中で「I'm sorry」と素直に謝った。

 子供というものは何かと小さく見られるのを厭(いと)うものだ。
背が小さいからという理由だけで年下に扱われる。そんなささいなことに反感を持つ子供はとても多い。

 オレの「I'm sorry」は、初めてあいつを自分と同等の位置に置いた瞬間の証しだった。
上でも下でもなく、横に並び立つ者へ贈る深謝の言葉は、オレの胸の奥底で生まれ、誰にも聞かれないまますぐに消えてしまったが、それでも確かにその瞬間は存在した。
そして、その存在の事実こそが、まさしく感動すべきことだった。

 当時のオレにとって、誰かを無意識に信じ、憧れるなんてことは奇跡に近かった。
それくらいオレは疑心暗鬼になっていたのだ。

 だから最初は、わからなかった。
何かに憧れたり感動したりするそのこと自体がしばらくぶりの経験だったから、その出会いも感動的な出来事としてオレの中に深く心に残っただけなのだと安易に思っていた。

 ゆえに。
あの出会いが強烈な印象となっていつまでも消えずいたのは恋したからだ、と。
光を求めて足掻く時、いつでもあいつの面影がちらついて、この想いこそが恋なのだ、と気づいた瞬間、正直言って最初は愕然とした。

 まさかこのオレが恋するなんて。他人に対し、そういう感情を持つなんて。
それまでオレは夢にも思わなかった。

 他人に干渉することを好まないオレが誰かを好きになる?
他人の感情に対して、年々、鈍感になってゆくオレが恋?
第一、相手はオレと同じ男だぞ? どうしてせめて女の子じゃなかったんだ?

 とはいえ、何を言ってもあとの祭り。
思い切りのいいところもオレの得意とするところだったから、惚れてしまったものは仕方ない、とオレはすぐさま観念した。

 だが、認めたら認めたで、そこでまた大きな問題にぶち当たった。
惚れた相手が住んでるのは地球半周分ほど離れた日本だった。
この現実に行き着いて、「アメリカにいるオレにどうしろってんだ」とオレは思わず頭を抱える羽目に陥った。

 打つ手もなし、とはこういうことを言うのだと、オレは生まれて初めて身に染みて知った。
何を考え、何をすべきなのか。何をしたらいいのか。自分自身がどうしたいのかがわからない。

 オレは身動きができなくなっていた。

 そんな折、父が世界有数の名器であるストラディバリウスを落札した。
佐智の親父さんとライバル関係にある父は、佐智のアマティに対抗して買い求めたらしいが、理由なんて関係なかった。
まさしくオレにとって、それは幸運以外の何ものでもなかったからだ。

 バイオリンから連想するのはただひとつ、あいつのことだった。
あいつに繋がる思い出の品を何ひとつ持っていなかったオレにとって、そのバイオリンはオレとあいつを繋ぐ唯一のかすがいとなった。

 オレの手元にやってきたストラディバリウスはニスの具合が綺麗に色輝いていて、このバイオリンをあいつが弾いたらどんなだろうと想像するのは楽しかった。
バイオリンの持ち主はあいつこそが相応しい。
そんな想いがオレの内から自然と湧き出て、いつかきっと……、と夢見ないオレが夢を見るようになった。



 人知れず、オレは想う。

 想いを、遥か彼方(かなた)の日本に馳せる。

 心を鎮めたい時。自分の冷酷さを思い知る時。これではいけない、とおのれの有りさまを振り返る時。
そんな時は、しばしばバイオリンを見つめ、まだ見(まみ)えぬ相手にひとり語り、微笑みかけて。
そうすることで、オレは少しでも希望を見出そうとした。

──いつかおまえに、必ずこのバイオリンを託すから。だからもう少し待っててくれ。

 バイオリンはオレを裏切らない。オレの想いを踏みにじらない。
この恋はオレの一縷の希望……。

 だから、大切にしたかった。

「内緒だぞ。おまえだけに打ち明けるんだからな。
おまえはオレの最後の純真を繋ぐもの。
いずれあいつがおまえを奏でる時……。その時が来たら、おまえの音色でオレの想いを伝えてくれ。
オレの身のうちに残る最後の光をどうか灯し続けてくれ──」

 オレの秘密の恋はあの古いバイオリンだけが知っていればいい。
ずっとそう思っていた。

 なのに。

 そう思っていたのに──。

 このままではいずれ堕ちると悟った時、オレは一番最初に、日本にいるあいつを想った。

──どうしているだろう。オレの光の拠り所であるあいつは今も元気でいるだろうか。
あの笑顔にもう一度会いたい……。

 だから、祠堂に入学して、あいつに会った時、驚いた。
あいつは光の中にいるべき人間なのに、オレのあいつは光を失いかけていた。

 オレは光を求めてこの恋にすがろうとしたのに、これは一体どういうことだ?

──ヤバイ!

 危険信号がオレの頭の中で炸裂した。

 この恋を続けていたらオレそのものが駄目になる、と判断した自分自身に、オレは愕然とするのだった……。





「お待たせ! 遅れてごめんっ!
……って、あ、れぇ? もしかして赤池くん、寝ちゃったの? ひええ、珍しいねえ」
「託生、やっと来たか。随分遅かったな」

「帰り間際にちょっと事務局に捕まっちゃって。ごめんね、ご飯一緒に食べれなくて」
「いや、いいよ。託生は? おまえはもう済ませたのか?」

「何言ってるのさ、まだに決まってるだろ。これでも一目散でここに来たんだから。もう、お腹ぺこぺこだよ」
「なら、場所を移すか? どこかちゃんとした食事でもしに……」

「何言ってるの。無理だろ、こんな状態じゃあ。だって赤池くんはどうするのさ。
いいよ、ぼくここで何か軽く食べるから。
あ、すみませーん、メニューください。あと、とりあえず生ビールひとつ」

 そうして、託生はさっさと、ベーコンとほうれん草のサラダ、ガーリックトースト、フルーツの盛り合わせを追加注文すると、ふふふ、と人の悪い笑みを向け、「赤池くんの酔っ払い現場激写っ!」と手持ちの携帯電話を取り出して、章三の写真を数枚撮りだした。

「うわー、うわー、赤池くんの寝顔だよー。せっかくだから奈美子ちゃんに送っておこうかな。
今日はこのままうちに泊めればいいよね。ねえ、ギイ。そうしよ」
「オレは構わないけど……。こいつ、明後日から大阪に出張って言ってたぞ?」

「んー、じゃあ、出張の用意は奥さんにお任せと言うことで。
そういうことならさっそく奈美子ちゃんに、ご主人はうちで預かりますってメールしとこうっと」
「ついでに画像添付してか?」

「当然!」 

 仕事帰りのスーツ姿の客が多い中、託生は社会人には到底見えないラフな服装をしていた。
鼻歌交じりにメールを打つ姿などは学生と言っても充分通じるだろう。
服装もそうなら、笑顔も口調も昔のままで。
もう十年も経つのにあの頃とそれほど変わらない託生がここにいた。

「ねえ、赤池くんと何の話してたの?」
「んー、祠堂の寮から見えた山の話とか、かな。
グランドに面した側の窓から見て、一番高い山の稜線に無線中継塔が建ってるのが見えたって話をしてた。
一年の時、オレがよく見てたのを章三のやつが覚えてて。
それで、あの時、何見てたんだって訊かれたんだ」

「へ? 無線中継塔見てたんだろ? さっきギイがそう言ったじゃないか」
「まあ、そうなんだけど。託生はそれ、信じるんだ?」

「え? 違うの? なら、ほかに見てたものがあったわけ?」
「いや、確かに無線中継塔だったんだけど。
それがまるで砦のように見えたんだって言ったら、こいつが……。
ああ、託生。お待ちかねのが来たようだぞ」

 話の途中で料理が運ばれてきた。

 早くてよかった、と託生が嬉々として、「あ、ここです、お願いしまーす」と手を上げた。

「そういや、グランド側の窓ってぼく、一年の時の部屋がそうだったけど。二年と三年の時は違ったなあ。
えっと、ぼくがそうだったとすると、ギイもそうなるよね?」
「まあな」

 オレの一年の時のルームメイトは章三で、部屋は四○九号室だった。
四階の同じ並びの六つ先の四二一号室が託生と片倉利久部屋で、高校三年間の寮生活の中であの一年間だけ、オレも託生もグランド側に面した部屋だった。

 二年になって託生と同室となった部屋も、階段長の三階ゼロ番の部屋も、グランドとは反対側だったのもあって、オレは自然とあの砦を見ることはなくなった。

──いや、見なくて済んだのは、見る必要がなくなったからだ……。

「このサラダおいしい。ほうれん草ってナマでもイケるんだね」
「あのな、託生……、これはもともとサラダ用なんじゃないか?」

「んー、炒めるのはベーコンだけでいいなんて簡単そう。
うちで作るんならドレッシングは市販のもいいし、これだったらぼくにも作れるかも」
「おまえなー、オレの話を聞いてないな。これはナマで食すように改良されたほうれん草なんだよ」

「わかったわかった。今度、ギイにも作ってあげるからね。
んー、こっちのガーリックトーストもすごくおいっしい!
こっちも捨てがたいなあ。両方今度やってみようかな」
「こいつ……、全っ然、聞いちゃいねー」





 葉山託生という人間は、オレにとっての最後の砦だった。

 十五の春、再会した託生は、以前とはまったく雰囲気が違っていた。

 誰とも目を合わせない。誰とも協調する気もない。構われるのも大嫌い。
何よりも、身体を触られるのをとにかく嫌がった。

 そんな相手に昔の姿を重ねて、「好きだ」と言えるほどオレは夢見がちではない。
初恋相手のあいつに会えれば、幸せになれるなんて馬鹿な夢を見たオレが甘かった。
少しでもそんな甘っちょろい考えにすがった自分が愚かしく、情けなかった。

 当然、自分の中で、あいつにかかわるな、といつものストッパーが働いた。
実際、オレはそうしようとも思った。
こんなのにかかわっていたら、好きになるだけオレは更に堕ちるとオレの本能がそう即座に察した以上、本気で逃げなければ、と覚悟した。

 けれど、そんな覚悟も無駄に終った。結局、かかわらずにいるなんて無理だった。
なぜかというと、オレは二度目の恋をしてしまったからだ。それも、同じ相手に──。

 恋は理性でするものではないと知っていたはずなのに、オレはすっかり忘れてしまっていた。
オレはアホか、と最初は本気で落ち込んだ。けれど、そんな愚かな自分が少しだけ愛しかった。
マジに笑えた。第一、はじめてだった。自分の失敗がこんなにも嬉しくて、好ましく思えたのは……。

 何よりも、オレは今を楽しんでいる、と心から実感できたのが驚きだった。

 生きる希望や未来への望み。この恋の行く末。今後、オレがとるべき行動。
そういったいろんなことが頭の中でぐるぐる回って、明るい行き先を照らしていた。

 オレは普通の男が恋するように恋をして。
いつか想い想われたら……、と映画の中の主人公のように一喜一憂して過ごした。

 オレがオレでなくなる瞬間。オレが普通の男に成り下がる瞬間。
そんな瞬間が連続となってオレを生かす。
それだけで、この恋には何ものにも負けない価値があった。

 そう、この恋にはトクベツな価値があった──。





 祠堂に入学してすぐの頃、誰もが周りの様子を伺っていた。

 オレみたいにアメリカから来た生徒は特に珍しかったのだろうが、地方からやってくる生徒は多かったし、みんながみんな、全然知り合いなんかいないところに来ているものだから、どんな人間がいるのか、気の合うヤツはいるだろうか、誰もが他人の出方を伺って、アンテナびんびんに張っているのが見えて、何だかとてもおかしかった。

 同じ年でもいろんなタイプのやつがいて、積極性に富んだ者もいれば、あまり自分を表面に出すのを好まない者もいた。
気弱そうな大人しい人間は、だいたいにして弱者にまわり、意思を曲げようとしない強情者が強者となって、リーダーシップを発揮しだす。

 そういうのはどこの世界でも同じもので、珍しくも何ともなかった。

 ただ、中学を卒業して初めての寮生活で、不安に思っているところに同じ年の連中からそういう扱いだ。
人によっては受けた衝撃も大きく、戸惑いもあったのだろう。
中には退学寸前まで精神的に追いやられた生徒も何人かいた。

 人間嫌いの託生もハタからみれば弱者側に分類され、何度か標的になっていたようだった。

 いつだったか、昇降口で託生が上履きをゴミ箱のほうに持っていく、そんな場面にオレは出くわしたことがある。
何をしてるんだろうと不思議に思って見ていたら、託生は上履きの中から何かを出して捨てていた。

 その「何か」も気になったのだが、託生の次の行動のほうがもっと意外で、そっちのほうが気になった。
託生は他人の上履きをみっつ、よっつ覗いて、その中のいくつかを同じようにゴミ箱まで運んでは、そうしてやっぱり同じように何かを捨てて、上履きをもとの場所に返していた。

 託生が去ったあと、オレは即座にゴミ箱を覗き込んだ。そこにあったのは十数個の画鋲だった。

 託生が覗き込んでいた靴箱には精神的に弱まった生徒の名があり、託生は何も知らないようでいてそうじゃないんだとオレは考えを改めた。

 だが、それは後日、オレの勘違いだと知れたのだけど。

 結局、託生は別に彼らの精神状態に気がついていたわけではなく、いつもそういう状態にあった上履きの存在にだけ気がついていたのだった。
自分がやられて、たまたま同じような状況を見つけて。
そのままにしておけばどうなるか、が想像できたから取り除いた。ただそれだけだったらしい。

 次の一手を想像する。そんなことはほとんど者ができることだ。
だが、その想像から痛みを感じ取り、手間をかけて勇気ある行動をとれる者はそうはいない。

 託生は自分がいじめられていたとは自覚していなかったのかもしれない。
悪い冗談か、もしくはおふざけ程度としか、たぶん思っていなかったのかもしれない。

 けれど、事実、託生は被害にあっていたのだ。
いじめが二転三転しても、それでも託生は変わらないまま。
結局、被害にあっていたのにかかわらず、何をされても騒ぐでもなし、暗く落ち込むでもない託生だったから、その反応の薄さに相手のほうがやる気をなくして自然と諦めていったのだった。

 始終平気な顔をしていた託生に対して、平気じゃなかったのはオレのほうだ。
託生が標的にされるたび、オレの心は傷ついた。

──どうして何も言わない? どうして誰にも助けを求めない?

 何も感じてないわけじゃないだろうに、細々とした仕打ちに動じることなく、陰湿ないじめを受けながらも、平然と授業を受け続けていた託生。
休み時間になると、楽しく興じてるクラスメイトたちから離れ、ひとり静かにぼーっと窓の外を眺めている。
託生はそんな生徒だった。

 そんな託生を見るたび、オレはせつなくなって、せめてオレだけにでも心を開いてくれればと幾度となく願った。

 世間に疎いところがあった託生は、しかし一方で、悪意や嫌み、傲慢さにはものすごく敏感で、普段の鈍感さが嘘のように鳴りを潜めた。
普通に話しかければそれなりに返すくせに、傲慢な心や敵意のある相手が近付くと機敏に反応し、相手が誰あろうと一歩も退(ひ)かずに毛を逆立てた猫のように全身で睨み返す。

 すごい、と思った。

 傷つけられてもものともしない。
その鈍感とも言える強靭な精神は、誰もが持ち得るものではなかった。

 正直、憧れた。こいつは強い、と感心した。

 そして、いつの間にか、ほかの輩とはどこか違うと託生のことを認めているオレがいて。
オレは二度目の恋に落ちていた。

 最初はその純真さに。次はその強さに。
オレはただひとりの人間に惹かれてやまなかった。

 日本に来たのは託生に会うためだった。
最初は期待が外れたと思ったが、実はそうじゃなかった。

 託生の中に、あの硬い殼の内側に、優しく澄んだ思いやりの心が隠れてるのを知って、どれほどオレが喜び勇んだか。
何より人間接触嫌悪症を治したいと思っている託生の本意を察してからは、自分にできることは何かないか、オレは気になって仕方がなかった。

 他人に無用な施(ほどこ)しはしない。他人に安易にかかわらない。
それらをモットーにしていたオレが、「おせっかいなヤツ」と章三に言わしめるほど、託生がそばにいるだけで鮮やかに変わってしまう。
唯一、変わらなかった信条は、他人に無責任にかかわらない、くらいだろうか。

 それに、変わったのはオレだけじゃない。
まるで蛹(さなぎ)から羽化した蝶のように。まるで卵から孵ったばかりの雛のように。
オレがそばにいるようになった二年の時以降、つまり、託生がオレの想いを受け入れた頃から、託生は周りに対しての頑(かたく)なな態度を改め、容赦なく周りの人間関係に首を突っ込むようになり、オレのほうが何かと振り回されるようになった。

 おそらく、一年の時の託生は他人に興味を持てなかったというよりも、むしろ自分を守るのに精一杯で、故意に他人を見ないようにしていたのだろう。
今までの反動が一気に来たように感受性が高くなった託生は、一年の時とはまるで別人のように穏やかな笑顔を振りまくようになり、人間嫌いで名を馳せたのが嘘のように劇的に変化した。

 みんなが目を丸くして驚いたのも頷ける。オレでさえ、この託生の変化には驚きを隠せなかった。
ただし、オレにとってこの託生の変化は嬉しい驚きでしかなかったのだが。

 我がままを言ってオレを困らせる託生は、自分のことよりも他人を気遣うところがあって、オレは託生が困った顔をするたびに、他人に干渉しない自分の信念すら曲げて動く羽目に陥った。

 何度、他人の恋路にかかわるな、と託生に忠告したかわからない。
オレまでも巻き込んで、すったもんだを繰り返して。
幾度となく傷ついては、何度も他人のために託生は心を砕き、悔し涙を流しては、嬉し涙に咽(むせ)びいた。
せつないくらい哀しい微笑みを浮かべては、馬鹿みたいにはしゃいだこともある。

 そうして、そんな状況に陥るごとに、ずっとオレに張り付いて離れなかった世情の汚れたカケラが、難なくぽろぽろと剥がれ落ちてゆき、オレは人が人として抱く感情に安心してこの身を沈められた。

 アメリカでのオレを知る人間が見たら、託生のそばにいるオレは別人以外の何者でもなく、開いた口が閉まらないほどの変異に見えただろう。

 いろんな託生がオレの瞳に目覚しく映り、ひとつひとつ、違った託生を見つけるたびに苦しいくらいに嬉しくなって。
共にいられる幸せに酔いしれて。知らず知らずのうちにオレは諸手(もろて)を揚げて完敗していた。

 そして──深く愛したほうが負け──、そんなありふれた言葉そのままに観念の臍(ほぞ)を固めたオレは、いつかこの恋に殉じる、そんな誓いを立てていた。

 あの無線中継塔に見向きもしなくなったのは、すでに無用となったからだ。
それよりも何よりも、常に眺めていたい笑顔がそばにあったから、ほかに目を向けるゆとりや必要性がなかった。

 オレのそばで微笑む託生は昔のあいつの面影が濃く残っていて、見ているだけで懐かしくて恋しくて。
恋とはこういうものなのか、と改めて思い知らされて、苦しいくらい胸が軋んだ。

 佐智が言うには、バイオリニストとしての託生の音は情緒豊かな、感受性ふくよかな音色をしているとのことだから、葉山託生という人間の本性はむしろ激情家なのかもしれない。

 それはそれで願ったり叶ったり、とオレは思っているのだが。
普段の託生は公衆の面前ではキスするのすら嫌がるようなところがあって、アメリカ人の愛情表現にはついていけないとはっきり言ってくださるつれなさと、長年の付き合いにもかかわらず依然として恥らい続ける奥ゆかしさを持ち合わせているような人間だから、常にこちらも手の内をいろいろと考えないといけない。

 羞恥に我を忘れた託生が、オレの腹部に鉄拳を沈めたり、頬に張り手が飛んできたことは数しれなく、本人にほとんど自覚がないのが困りモノだが、調子に乗って痛い目に合うのはオレの自業自得だ。
そんなわけだから、託生との日常はスリルと興奮に満ちていて、飽きるヒマなどありやない。

 十五の頃のオレが抱いた危機感は切実なものだった。
でも、託生という他人を受け入れて、オレは誰かを信じることをもう一度はじめることができたから、他人の気持ちを理解しようと努力し、他人を蔑(ないがしろ)ろにすることがないよう気持ちを改め、再び、人の存在価値を見渡せる余裕を持てるようになった。

 正常な友人関係を築くことは、崎義一という人間にとって簡単なようでいて、実はとても難しい。

 けれど、託生がいるだけで、世界は広がり、友情の絆が広く強く結ばれてゆく。

 オレの心を護ってくれた最後の砦、葉山託生。

 そして、もうひとり。

 この友人もまた、オレを救ってくれた砦の一部に違いないのだろう──。





「う、ん……葉、山……? 何だ、おまえ、やっと来たのか。まったく遅いぞ!
僕がどれほど待ったと思うんだ……、うっぷ!」
「あ、赤池くん、大丈夫? こりゃ参ったなあ。ギイ、どんだけ飲ませたのさ」
「オレが飲ませたわけじゃないぞ。勝手に章三が飲んだんだ!」

「そこのふたり! 何、喚(わめ)いてるんだ! いいか、この期(ご)に及んで痴話喧嘩するんじゃなーい!
まったくおまえたちときたら、昔っからつまらないことで僕を巻き込んで、どれだけ僕が迷惑被ってきたか……。
おい、おまえら。僕の言ってることちゃんと聞いてるのか、え!」

 酔っ払いの言うことをいちいち聞いていたらキリがない。そんなの世間の常識だろうが。

「託生、わかってるな。聞くのは三割ほどにしとけよ。あとは適当に受け流せ」
「わかった。じゃあ残り七割はおとなしくお説教されてればいいんだね?」

 託生のやつ、わかってるんだかわかってないんだか。

「ギイ! 何をグチグチくだらないこと言ってるんだ。
ふたりとも、僕の言うことを耳穴かっぽじってよく聞けよ、いいか!」
「はいはい、ちゃんと聞いてますって。赤池くんったら、そんな大きな声出さないでよ。
ギイもほら、ちゃんと聞いてるよ。ね、ギイ?」
「……まあ、一応、な」

「それじゃ、言うぞ。一度だけしか言わないからな、ちゃんと聞けよ」
「はいはい。わかりました。こっちは準備オーケーです」
「聞いてるから、もったいぶらないで早く言えよ、章三」

「よし。では言うぞ。これは僕からの一生に一度の祝いの言葉だ。
……ふたりとも、結婚決まってよかったな。おめでとう。いいか、今以上に幸せになるんだぞ!」

 章三とは十年来の付き合いになるが、こいつはもともと同性愛には眉間にしわを寄せるようなところがあって、何かと言うと、「思い直せ」とか「やめておけ」とか。
オレたちの関係を目の上のたんこぶのように扱ってくださった思い出のほうが断然多い。
オレと託生が恋人同士になった時……、いや違うな、オレが託生に惚れているのがバレた時だ。
あの時の歪んだ章三の顔と言ったらまるで鬼面。
今思い出しても一目散に逃げ出したくなるほどの恐ろしさで、こめかみの血管が今にもブチ切れんほど浮き立ったあの迫力満ちた顔は、一生忘れられそうにない。

 だが、章三という人間は、男同士の恋愛関係を「認めない」と豪語しながらも見ないふりをしてくれて、おのれの矜持を曲げつつも、ずっとオレたちを応援し続けてくれた。

 そうなのだ。
託生もオレも一番に相談する相手は決まってこいつ、章三で、「アホか」とか「くだらない」とか、きついことを言いながらも、それでも何かとオレたちのことを気にかけてくれるのが章三だった。

 その章三からの最大限の祝福の言葉。

「一番に知らせてくれて嬉しかった。だから、一番最初に直接言いたかったんだ……」

 思わずオレは言葉が詰まった。

 なのに、章三は、この感動的な場面の最中(さなか)、言うだけ言って満足したのか、その後、ふらふらと椅子に沈み込み、「すまない、限界だ……」と呟いて、テーブルに突っ伏してひとり勝手に寝ちまいやがった。

──おいおい、取り残されたこっちの身にもなってくれよ。

 ゆるゆると沸いて出てきた感謝してもしきれない気持ちをぐっと抑えて、オレの口からやっと出た台詞といえば、
「……馬鹿野郎。まったく酒に飲まれてんじゃねえよ。酒は飲むもんなんだぞ」 
情けないことに、そんな負け惜しみと気恥ずかしさが入り交じった、いかにもお小言じみたものにしかならなくて。

「さすがに章三だけあるな。こんなの……、酔わなきゃ言えないほどの言葉かよ……?」

 それでも、たとえ、酔っ払いの戯言(たわごと)だったとしても、そんなの関係なかった。

 章三がくれた言葉は、オレたちがずっと誰かに言ってほしかった言葉だから、祝福の言葉なら、どんなものであれ、素直に受け取って喜びたい。

──何しろ、ここに至るまでの道程といったら、一言で語り尽くせるほど薄っぺらなもんじゃないからな。

 ましてや、この友人からの祝詞なら。

 思いの丈(たけ)だけ、この幸せを。ゆっくりと深く感じていたい。

「赤池くん。喜んでくれてるんだね」
「ああ、こんなに酔いつぶれるくらいにな」

 託生とお互い顔を見合わせ、ふたり揃ってくすりと笑う。

「このまま酔っ払いをほおっておく……わけにもいかないか。仕方ない。託生、コレ頼むな」
「うん。わかった」

 オレは章三の身体を抱えると、会計を託生に頼み、そのままひと足先に店を出た。

 店内の暖まった空気から一転しての、冬本番の冷たい夜風が身に染みる。

 目端に薄明るい色を見つけて振り返ると、少し離れた料理屋の暖簾の脇に、夜目に薄い桃色の早咲きの梅の花がぽつぽつと咲きほころんでいるのが見えた。

「ギイ、お待たせ」
「じゃ、帰るとするか。大通りでタクシー拾おう」

 よいしょ、と掛け声ひとつ呟いて、託生と変わらない身長のくせに体格だけはがっちりとした図体を背に担ぐ。

「ギイが支払い済ませたって知ったら、また赤池くん怒っちゃうかも」
「いいさ、こいつにはまた今度奢ってもらうから。次はもっとうまい酒を飲んでやるさ」

 背中に親友。隣りに恋人。

 幸せな時間を独り占めして、オレは託生と並んで夜道を歩きだす。

「あ、そうそう。さっきね、奈美子ちゃんからメール来てたよ。章三くんのことよろしくお願いします、だって」
「まあ、何だかんだと言って、こいつんとこは新婚さんだからな。
そりゃ、旦那が飲みに行って帰って来なけりゃ心配するだろ。
でもまあ、飲み相手がオレたちならさ、奈美ちゃんもまだ安心だよな。
なあ、知ってるか? 彼女、滅茶苦茶鋭いんだぜ。
章三さ、浮気しても長続きしないと見たね。すぐバレちまうから絶対無理。賭けてもいい」

「ひどいな、ギイ。仮にも赤池くんだよ? 浮気なんてするわけないだろ。
それを言うなら赤池くんよりギイのほうがよっぽど危なさそうだよ」
「言ってくれるじゃんか。そっちこそ、どうなんだよ」

「ぼく? ははは、そんな心配するのギイくらいだよ。大丈夫、それに関しては太鼓判押しちゃうから。
えっと、蓼(たで)食う虫も好き好き、だっけ?
ぼくを好きになるモノ好きなんて、それこそおいそれとはいないよ」
「あっそ。モノ好きで悪ぅござんしたね、オレは虫かよ」

 え?と目を丸くして。オレを見た託生は、次の瞬間、吹きだした。

「ごめんごめんって。奇特なギイに感謝してますって」
「全っ然、反省の色が見えてねーけど? ま、そういうことにしておいてやるよ」

 拝むように手を合わされるより、キスひとつのほうが断然いい。それで充分、お釣りがくるのに。

──まったくなあ。

 この恋人がオレの心情を汲み取ってくれないのは昔からで。

「なら……、好きだよギイ。これでいい?」

 そんな口先だけの言葉で、するりと逃げようとするから困りモノなんだ。

──誤魔化すのだけは憎たらしいくらいうまくなりやがって。

「ギイくん、グレちゃうぞ」

 それでも、託生じゃないと駄目なのは昔から。それだけは変わらない。

「もうギイったら何言ってるの」

 そんなふうに口では呆れつつも託生が笑ってくれるから、おどけたくなるんだと、託生は知っているのだろうか。

 託生が笑ってくれるなら、いくらでもオレは道化師になろう。
冗談を言って、喜んでくれるなら、いくらでもオレはおどけてみせよう。

 そんなオレの気持ちを、託生はわかっているのだろうか。

──きっとわかっちゃいないんだろうな。

 それならそれで一生の目標が出来てよかったじゃないかと喜ぶしかない。

──ああ、なんて前向きなオレ……。偉いなー。

 なのに、この恋人は、こんなにも頑張ってる二十七にもなる男を捕まえて、こんなことを言ってくださるのだ。

「ギイってたまにかわいくなるよね?」

 何だそりゃ、と言いたくなる。

「オレのどこがかわいいって?」

 自慢ではないが、昔はともかく、今は誰にもそんなことなど言わせない。
仮に、オレ相手にそんな嘗めた言いようができる人間がいたとしても、数など知れてる。
両親含めて、おそらく五指と存在しないだろう。

 ただし、面と向かって、ましてや、オレが笑って許せる相手となると、その数すらも激減する。
つまりは、「そんなことぬかすの託生くらいだぞ」となる。

 そんなことさえもこの恋人は、きっとわかってないんだろう。

「だって、そう思うんだもん。しょうがないじゃない」

 天真爛漫な笑顔を向けられると、「あー、さいですか」としか言えなくなってしまうのだ。

──惚れた弱みというのはこういうことを言うんだろうな。

「赤池くんの寝顔も意外とかわいいし。ふたりともかわいい同士でいいんじゃないの?
そういうとこも気が合いそうでさ」
「託生も言うようになったなあ」

 託生といると、力が抜ける。それがまた堪らない。

「これでしっかり新婚さんしてるんだもんねえ。意外なような、そうでないような……。
不思議な感じがするなあ」
「へえ、そういうもんか?」

「何となくね、だって赤池くんだから。
祠堂の時の赤池くんって奈美子ちゃんのこと話題に出されるのさえ嫌がってたじゃない?
素直じゃないっていうかさ。それでもちゃんと結婚までこぎつけたんだから、ホント奈美子ちゃんエライよ」
「偉いのは奈美ちゃん、ね。章三じゃないってとこがミソだよな。完璧、ふたりの力関係が知れるだろ」

 刹那(せつな)、ぷつりと会話が途切れた。
五秒ほどの空白が生まれ、その間、オレと同じことを託生も想像したに違いない。

 その証拠にふたりの視線が再び絡まった瞬間、自然と笑みが漏れていた。

「でもさ、赤池くんもきっと頑張ったんだよ」
「きっと?」

「えっと、たぶん?」
「……託生。それ墓穴。章三には黙っといてやるけどさ」

──こんなの聞かれたらあとがウルサイ。

 さすがに、託生はオレと同じくらい章三の人となりを知っていて、「それはアリガトウゴザイマス」と神妙な口調で言ってきたが。とはいえ、顔はしっかり笑ってた。

「新婚さんの赤池くんかあ。笑っちゃうけど笑っちゃマズイよね」
「笑いながら言ってても全然説得力なんかないけどな。章三はしっかり旦那してるみたいだぞ。
ただし、本人の自己申告通りだとしたらだけど」

「結婚、かあ。
……そういや赤池くんが結婚式の招待状送ってくれた時、突然だったからすごく驚いたけど、嬉しかったなあ。
教会式だったからぼくらも参列できたし。あれがまたよかったのかも」

 章三の結婚式に出席した時、託生は始終、すごく嬉しそうな顔をしていた。
大勢の人たちが新郎新婦のために集まり、新しい門出を祝う吉日。
高々に祝杯を挙げる、その一場面だけを切り取って見ても、幸せがそこかしこに滲み出ていて。
その華やかな祝宴の最中(さなか)、託生は高砂席に座る綺麗に着飾ったふたりを見ては幾度となく頬を染めていた。

「目の前で幸せになってゆくふたりを見るのっていいよね。何か、こっちまでジーンってきちゃう。
ぼく、結婚式って好きだな。だって、みんなが笑ってるし喜んでるし、とにかく誰もが幸せそうじゃない?
奈美子ちゃんの花嫁姿もすごく綺麗だったし」
「章三の鼻の下伸ばしてる顔も見物(みもの)だったし?」

「こらこら、そういうことは本人の前で言わないの!」
「寝てるヤツなんかほっとけよ。それに、他人を羨む前に自分たち、だろ?」

 幸せになるのに、挙式するかどうかなんてのは関係ないとオレは思っている。
今でこそ、オレたちみたいな同性同士のカップルも珍しくないが、ひと昔前だとふたりの仲など認めてもらえないのは当たり前、結婚式どころか、一緒に暮らすのさえ難しかったご時世だった。

 それを思えば、今の世の中、暮らしやすくなったと言えるだろう。

「そういや託生、アレ、章三でいいよな?」
「ん? アレって……ああ、あれね。もちろん!」

 オレが夢見た未来が今ここにあると、そう信じていいのだろう。

「あとのひとりは……島岡あたりでいいか?
今度アメリカ行った時、書いてもらうから。それでいいよな?」
「うん、島岡さんにもよろしく伝えておいて」

「それじゃ今度、役所に行ってもらってこようか、婚姻届」

 仏頂面で、「これ頼む」と章三がオレに差し出したように。オレも一言、「お互い様だろ」で済ませるとしよう。
そう思うだけで心がときめく。

──ひやかした分だけひかやされるだろうが、こいつのことだから、きっと嫌そうにペンを握るんだろうな。

 そんな想像をするだけで、明日がすごく楽しみになる。

「何、ニヤついてるのさ」
「別にー。託生こそ、顔が赤いぞ」

「ギイの嘘つき。暗くて見えないくせに」
「街灯の明かりでも充分わかるさ」

 高鳴る心臓の音を隠すことを覚えたのは、祠堂に入学してからだった。

 託生を想う時、いつもドキドキしたり、ワクワクしたりした。
そんなことが託生といると日常になって、オレの大切な年百年中となる。

 明日を夢見て、希望を持つ。
そんな簡単なことが大層なことに思えた昔の自分に、今のオレを見せてやりたい。
世界はとても優しいのだと、捨てたもんじゃないのだと、昔のオレに教えてやりたい。

 託生の耳元に小さなキスをひとつ落として、愛してるよ、と囁けば、「くすぐったいよ」と首をすくめ、恥じらいつつも託生は、うん、とかすかに頷いて、オレの腕にそっと手を添えてくるから、幸せな瞬間がまたひとつ増える。

 こんな愛しい瞬間が存在するのだと、出来得るなら、「絶対、諦めるなよ」とあの頃のオレに伝えてやりたい──。



 暗くてどうせ見えないさ、などとさっきとは全然違う調子のいいことを言っては、押し付けるように唇を合わせた。

「駄目だって、ギイ……」

 唇から漏れた息に、んん……、と背中の住人が見じろぎして、オレは咄嗟に章三の尻をぽんぽんと叩いて適当にあやす。

 章三がいるとキスさえ不自由するのは今も同じ。

 いつもなら、「公道で何してる! 恥を知れ!」あたりの説教が、オレの後頭部目掛けてガツンと飛んでくるところなのだが。
寝た子を起こすほどオレは間抜けではないし、親切でもない。
今日のところはオレに分があるな、と満足したり顔で、オレはひとりほくそ笑んだ。

「章三、ぐっすり寝てるな……」
「ホントだね。ふふふ、赤池くんの寝顔って本当にあどけないや」

 確かに、こんな酔いどれ姿の章三なんぞ、滅多に見られない貴重品だ。

──こんなに酔うまで飲むなんてな。わかりやすいくらいいじらしいヤツ。

 章三らしくないのに、それでいて、すごく章三らしい。

 この背にかかる重みに、ことさらに愛しさが募った。

「今夜は最高だ」
「うん。最高に嬉しいね」

 一途に、ただひたすらに幸せをなりたいと願う。

 そうして、愛すべき相棒に、ありがとう、の声をふたつ重ね。

──幸せになるから。約束するよ。

 まだ春には早い澄んだ空気に染み入るように。

 誓いの言葉は章三の寝息に紛れて、月夜の空に溶けていった──。



                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
「最後の砦」はいかがでしたでしょうか?
このお話は、「はじまりは元日の朝」の続編となってます。
(そちらがまだの方はぜひとも合わせてお読みくださいませ♪)

ちなみに、「はじまりは元日の朝」の「はじまり」に対して、こちらは「最後」(笑)。
一人称の語りも、「はじまり」の託生に対し、この「最後」はギイ。
一応、対になってます♪

また、「はじまり」は託生が高校二年からのことを語るのに対して、
この「最後」のギイは、高校二年までのことを語ってます。
そんなところにも楽しみを見出してくださると嬉しいです。

最後に、このお話は、
原作「タクミくん」シリーズの文庫本「恋のカケラ」までの設定での未来編となっていることを明記しておきます。

by moro



moro*on presents


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なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
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