「『仕事と家庭、どっちが大事?』なんて訊かれても答えようがねえよなあ。
仕事しなきゃ生活費だってままならない。愛情だけじゃ生活できないからな」
「そりゃそうだ。でもな、かと言ってだ。仕事ばかりで家庭をないがしろにしすぎるのもナンだよなあ」

「まさにそうなんだよ。まったく、そのふたつを同じ土俵で比べるところからしておかしいのにさ」
「そういや、比べようがないって言えばさ。
よくオンナって、『男友達とあたし、どっちが大事?』って訊くじゃん。まさにアレも究極の選択だよな」

「ホントホント。そんなこと言われても困るつーの!」



 もう一年前のことになる。
それは街に出かけた帰りのバスの中で聞こえてきた何てことはない世間話で、バスの中の時間潰しにと、ギイは聞こえてくるままに任せて耳を傾けていた。

 話をしていたのは顔見知りというわけでもなく、ましてや名前などまったく知らない、もしかしたら祠堂の学生ですらないかもしれない学生らしきふたりで、ギイとはまったく接点のない、偶然一緒のバスに居合わせただけの赤の他人だった。

 彼らの話の内容も、トクベツ変わったものではなかった。
そこらへんにゴロゴロ転がっているような普通の会話だ。
耳に挟んだ誰もがきっとそう思ったろう。

 なのに、そのありふれた見知らぬ他人の言葉がいつまでも耳に残って、当時、ギイは少しだけ胸を痛めた。

 ギイの場合、比べようにもその対象そのものがいなかった。
いや、想いを寄せる相手がいるからこそ、見知らぬ学生たちの会話のような状況に自分が陥ることこそが夢のまた夢なことで、現実を見つめれば冷たい風が心に吹き荒れるだけだった。

 自分ばかりが想っていても、それでは所詮片想い。
かの存在はギイにとって、恋しい人ではあっても恋人ではない。

──「どっちが大事?」なんて逆に言われてみたいくらいさ。

 深く、そして重い、そんな投げやりな溜息がギイの口から自然と漏れてしまうのが止められない。

 そう。

 あの頃は、「好きだ」なんて、到底言えないと思っていた。
一日中ふたりきりでいられる、そんな日常を思い浮かべることすら幻を見るようなもので、わずかな夢を描くのさえ辛かった。
叶わない望みを抱くことの虚しさとやるせなさに、孤軍奮闘するその姿を見るたび、ギイはいつも拳を握り締めていた。

 絶望的な恋だとわかっていたから諦めようとさえ思ったこともあった。

 恋人どころか友人のひとりにすら見てもらえそうにない。
一縷の望みさえ抱くのすら勇気を必要とした、ギイはかつてそんな恋をしていた。

 だが、季節は巡り、春が来た。
あれから一年が過ぎて、思いがけない転機を迎え、ギイは長年の無謀な夢をとうとう叶えた。

 けれど、人間というものは夢が叶うと更なる欲に恋焦がれて、もっともっとと我がままになる。
ギイも例に漏れず、夢の先にまた夢を抱いた。

 あの片想いの頃の辛い時期さえ、今はとても愛しく思える。
最近では、そう考えられるようになった余裕をようやくもてるようになってきたということなのだろう。

 だからだろうか。
あの時の学生ふたりの会話が、最近、ふいに思い出されて、何とも言えない奇妙な気持ちになった。

「オレの我がままだってのはわかっちゃいるんだけどな」

 恋は隠し切れない素直な気持ちを膨張させる。

 他人から愚考と見下されるようなことに図らずも真剣になる。

 更なる欲に捕りつかれて、他人の普通がギイのトクベツに変わる──。


二兎を追う者



「気を利かせろよ!」

 耳に飛び込んできた高林泉の苛立ちを含んだ突然の声に、思わずギイは身を竦ませた。

 振り返れば、取り巻きの山下清彦を邪険に扱う泉の勇ましい姿があった。

 凛と背筋を伸ばした小さな身体から放たれるオーラが一瞬見えたかと思った。
それほど気迫がこもっている。

「僕が誰と食事しようがそんなのこっちの勝手だろう!
誰と一緒にいたいかは僕の自由だ。もうほっとけよっ!」

 椅子を蹴り倒す勢いで、泉は同じテーブルで食事をしていた同級生の手首を咄嗟に掴むと、その上背のある身体をずずずと引き摺るように食堂を出て行った。

 引き摺られる男のほうが泉よりもずっと体格がよく、背も高いくせに、泉のなせるままになっている。
まさにその様子はふたりの性格と立場をよく表していた。

 一方、ふたりに去られ、ひとりポツンと取り残された山下は今にも泣きそうな顔をしていた。

「だってよぉ。あんなの反則じゃんか。絶対ミスマッチもいいとこなのに……」

 呟くように愚痴を零して、口をへの字に曲げている。
ずっと崇め奉っていた女神(♂)を突然横からかっさらわれた気分だったのだろう。
悔し紛れに、床をドンと踏みしめた。

 ところがイノシシのように出口に向かう高林泉のほうは、そんな山下の心情などそっちのけだ。
今年度同室となった吉沢道雄をことのほか気に入ったようで、最近では他の取り巻きたちを蹴散らして自分の周りに寄せ付けない有り様だった。

 何がどうしてこうなってしまったのか。山下清彦には全然理解できなかった。

 どうして吉沢道雄なのか。どうして自分ではダメなのか。
一緒にいたいと言ってくれればそれだけで嬉しいのに。

 ギイはそんなクラスメイトの心情が手に取るようにわかってしまって、思わず一連の面々から身を隠すように小さく溜息を漏らした。

──そうさ、アレが普通なんだ。

 お気に入りの友人が自分よりも他人を優先したら、親しい仲だと信じていただけ寂しく思うものだ。
ヤキモチに似た気持ちだって抱くかもしれない。
癪に障ってイラついて、自分と一緒にいてくれるようにあの手この手で引き止めるのもアリだろう。

 だけど、恋人とふたりきりでいたいという泉のそれは人間として素直な気持ちであり、当然の心情だと思う。

 どちらに非があるわけでもなく、どちらも自分に素直だけだ。

 だから、彼らの言動は理解できる。
自分にも理解可能な範疇(はんちゅう)だからだ。

 だが、自分の取り巻く環境を振り返った場合、ギイは疑問符をいくつも浮かべたくなってしまう。

 まさに今も目の前で最愛の恋人と無二の親友が仲良く夕飯を囲んでいる。
大切なそのふたりの食事風景たるや、何と微笑ましい光景だろうか。

「おい、葉山。知ってるか? 人参っていうのはな、元々は大根だったんだそうだ」
「大根? まさか。そんな話、聞いたことないよ」

 ふたりの世界はまさにほのぼのとしていた。

「まあ聞け。人参は昔、大根みたいに白かったらしいのさ。
けれど、温泉の熱湯で長い時間洗われたせいで逆上(のぼ)せてに赤くなったんだと。
そんいうわけだから、つまりコレは大根なわけだ。おまえ、大根は食べられるんだろう?
だからこれも安心して食べていいぞ」

 さあ食え、残さず食べろ、と向かいに座る自他ともに認める相棒、赤池章三が託生の人参嫌いを治そうと懸命に努力している。
が、その親切極まりない行動に反して思いっきり嫌そうな顔をしているから、ギイは内心微笑ましく思っていられるのだが……。
日によっては、託生の健康を忙しなく気遣っているその相棒の言動を見とめて、感謝を通り越して嫉妬すら抱く時もままあった。

 実際仲がいいようにギイには見えるふたりは、かと言って決してべったりくっついているわけではない。

「ギイ、おまえは葉山の偏食が気にならないのか? 甘やせばいいってもんじゃないだろう?」

 あとはギイに任せた、ふたりで勝手にやってくれ、と自分の食事が終れば章三はさっさと席を立とうとするし、託生は託生で、「助かった〜」と言わんばかりに、章三のうしろ姿を見送りながら一層笑みを深くする。

──仲が良すぎるわけでもなく悪いわけじゃない、と。ま、そんなとこだよな。

 こんなことでヤキモチを焼くほうがオカシイとは自分でもわかってはいるのだが……。
けれど、焼いてしまうのは止められない。

 そんな複雑な想いを抱きながら、ギイは誰もが見惚れるような笑顔で、「またあとでな」と遠ざかる章三に手を振って送り出した。

 隣では最愛の恋人が皿の上の人参をじっと見つめながら考え込んだままだ。

「ねえ、ギイ。人参って本当に大根の親戚みたいなものなのかな?」

 託生はどうやら章三がいなくなったことを大して気にしていないらしい。
最近、託生はギイとふたりきりになるよりも章三を交えた三人でいるのを好んでいたとばかり思っていたギイは、何となく肩透かしを食らわった気分になった。

「人参嫌いも大根だと思えば何とかなるかも?」

 自分の小鉢を覗き込みながら託生が真剣に尋ねてきたことも、ギイにはこれまた意外だった。

「おいおい、託生くん。まさか、カブを熱湯で茹でたら赤カブになると思ってないよな?」

 ギイが味噌汁の具を箸で摘み上げながら応えるのを見て、託生は一瞬考え、首を横に大きく振った。

「だろ? タコじゃあるまいし。そんなに簡単に色なんて変わらないさ」
「あ、でも、赤いオクラは茹でたら緑になるんだよ。
どっかから頂いた物だと思うんだけど、前に実家で食べたんだ」

「へえ。でもな、赤いオクラが緑になるからって大根も茹でたら赤くなるとは限らないだろ?」
「まあね。だって、煮物や味噌汁の大根って赤くないし」

「ご名答。わかってるじゃないか」
「あ、やっぱり? じゃあ、あれってく赤池くんのホラ話だったんだ。
そうだよねえ、絶対あの話って無理があると思ったんだよ。
だいたい大根と人参じゃ大きさが違いすぎるもん」

「……大きさ、ねえ」

──確信する理由はそこなのか。

 無理があると言いながらも実は本気で悩んでたんだよな、とは賢いギイは決して言わない。
突っ込みを入れた途端、睨まれるのは目に見えているからだ。
愛しい人のそんな顔も捨てがたいが、やっぱり笑っているほうが数段いい。

「ま、大根だと思い込むことで人参嫌いが治るんならそれはそれでいいのかもな。
何事もモノは考えようだよ、託生」
「それはそうだけど、食べたら結局は人参の味しかしないんだから、そんなの無駄だと思うけどね」

「ま、せめてキャログラくらいは食べられるようになったらどうだ?
そうすれば章三もそんなに煩く言わないだろ」
「そうは言うけどねえ。赤池くんの場合、チェックしてくるのは食べ物の好き嫌いだけじゃないからなあ。
ひとつクリアしたところで、今度はこっちってどんどん難題が増えていきそうな気がする。
何しろ、風紀委員長の鏡だし、ね。赤池くん、チェックはお手のモンじゃない」

「ははは。章三の愛が感じられていいじゃないか。あいつは献身的なとこあるからな」

 特に大掃除の時は愛のバーゲンセールだ、と声を出して笑うギイに、「確かにそんな感じだけどね」と自分もその愛の叱咤を受けたひとりだと白状しながら、
「でもギイ。赤池くんが博愛主義みたいな言い方するのはやめときなよ。
でないといつかギイだって痛い目見ちゃうかもよ」
そう珍しく鋭く恋人に釘刺して、託生はずずず、とお茶を啜った。

「いや、でも実際、あいつの場合、実家じゃここ以上だから。
ご近所さんでもしっかり者の息子さんで知られてるようだしな」
「確かに、赤池くんだったらそうかもしれないなあ。
あのチェックの厳しさと言ったら祠堂内一と言ってもいいくらいだろうしね。
何しろ、ギイのお目付け役としては天下一品じゃないかなあ。きっと誰も敵わないよ」

「何だそりゃ。章三はオレのお目付け役なんかじゃないぞ」
「そうかなあ。じゃあ、子守役でどう? ギイって結構我がままだし、意外と寂しがりやだもんね」

「そこまで言うなら、託生くん。キミにオレの子守を任せて進ぜよう。愛してるよ、託生。
今夜はちゃんとオレを寝かしつけてくれよ」
「う……、ギイ、こんなとこでそんなこと言うかいっ!
赤池くんじゃないけど、ギイはもう少し羞恥心を持つべきだよ!」

 こんなふうに託生と一緒に過ごせる日がくるなんて、一年前には考えられなかった。
こんな言葉遊びのような会話すら見果てぬ夢でしかなかったのだ。
毎日が幸せすぎて、まるで現実じゃないみたいだ。

 この春、あれほど望んだ恋が叶い、決して向けれることはないと思っていた託生の視線が、気がつけば真っ直ぐ自分へと向けられている。
毎日、同じテーブルで食事をし、並んで歩いて、こうしてふざけあって毎日笑い合う。

 託生と恋人同士になった今、不満などあるわけがない。

 けれど、どこかで物足りなさを感じているのも事実だった。
それでも、それはギイの我がままで、欲に欲を重ねたものだとわかっていから、ギイはわずかに抱くソレを異分子と判断して完全に無視してしまうつもりでいた。

 消滅できないのはわかっていた。それもギイの望みのひとつに違いなかったからだ。

 それに、そんな我がままでしかない欲を切り捨てることなどたいしたことじゃないと思っていた。
ただ単に少し、一般的と言われるコトが気になっているだけだ、と。

 中途半端にうだうだと悩むのは本来ギイの趣味ではなかった。
悩むくらいならさっさと問題を蹴散らすのがギイの流儀だ。

「なあ、託生」
「ん?」

 気になることは訊いてしまえ。

 だから、思い切って口火を切ったのだが……・

「世間一般の見解として、だけどさ。
よく、恋人と仕事どっちが大事とか、友情と愛情どっちが優先とか、そんなことで揉めるカップルっているだろ?
おまえ、あれってどう思う?」
「あ? 何なのさ急に。どうって、別に特にないけど?
正しいと思うコトって人それぞれなんだから、いろんな考えがあっていいんじゃないの?」

「確かに十人十色の意見があってしかるべきなのかもしれないけどな」
「だって、あんなの正しい答えなんてないんだから、考え出したら眠れなくなっちゃうよ」

 恋人よりも親友と会うのを優先したところで、恋人を蔑(ないがし)ろにしているとは限らない。
強い心の絆で結ばれていると信じているから、安心して親友のところで友情を深められるということもある。

 逆もまた然りだった。
固い友情があるからこそ、親友を二の次に後回しにしても許されることもある。
会う時間の長さが繋がりの深さを比例するとは限らないのだ。

 深く信じる気持ちがあるから、あえて離れていられる関係もある。

「優先された方がより大事にされてるとは思えないしね。
まあ、そう思わなきゃやってられないのかもしれないけど」

 託生は自分に対してもそう思ってくれているのだろうか。
ギイは恋人の心中を推し量るように、託生の表情を見極めようとした。

 けれど、託生はどこ吹く風で、
「もしかしてギイ、これって仕事優先に対する根回しなわけ?」 
くすくすと笑いながら、「だって今更じゃないか」と口をすぼめた。

「いや、そういうわけじゃない。ただ……訊いてみたかったんだ」
「ふうん」

 それから、夕食後には片倉利久と将棋をする約束をしているんだ、と託生は付け加えると、
「ギイは? 今夜は用事があるの?」
人参を皿の上にしっかり残したまま食器を片付け始めた。

「今夜は特にないな。たまには託生と片倉の真剣勝負でも覗きに行ってみるか」
「え? ギイ来るの? 見てるのは構わないけど口出しはご法度だからね」

 託生はギイに固く釘を刺ながら、「ギイが見てると緊張しちゃいそうだ」と微笑んだ。



 昨年度の託生のルームメイトである片倉利久は、誰に対しても当たりがいい。
どこか憎めないところがあって、少し抜けてるように見える。
その実、うまく人の和を結ぶ才があった。

 だが、利久自身、意識してしているわけではないのだろう。
それでも見ている者はちゃんと見ていて、その天性というべき才能は密かに信頼を集め、欠席選出とは言え、クラスの級長に選ばれるほど人気を集めていた。

 託生の元ルームメイトがそんな人間で本当によかったと、今はギイも本心からそう思っている。
少なくても、片倉利久は託生を普通の友人として扱い、託生も彼に慣れていたからだ。

 人間嫌いの人間接触嫌悪症。去年、託生をそう呼んだ生徒はとても多かった。
片倉利久はそんな託生とほどよい距離をおいて付き合い、一年間同じ部屋で笑顔で過ごした奇特な同級生だった。

 かつて、片倉利久の存在はギイにとっては妬(ねた)ましいものでもあった。

 環境が変われば、心境も変化する。
ギイの片倉利久に対する気持ちは、身勝手にも、今は嫉妬よりも感謝の気持ちがより強くなっていた。

「げ、そこはちょい待って。託生ィ、ご慈悲を〜」

 ギイ、助けてくれよ、と縋るように託生の親友というべき利久に見つめられても、ギイとしては口を挟むわけにいかなかった。
何しろここに来るまでも愛しい恋人から、「ヒントもなしだからね」と幾度となくしっかり釘を刺されているのだ。
約束を違(たが)えて託生に叱られる勇気はギイにはなかった。

 三二二号室では、託生の「王手飛車取り」が将棋盤の上で優勢を誇っていた。

 王将を詰めたのは成香(なりきょう)である。
真っ直ぐ前進しかできない香車も、相手陣地の三段以内に入れば裏返して成香になり、金と同じ動きが可能となる。
成香のフォローをしているのが歩兵だった。
一歩ずつ前ににしか進めない歩兵もこれまた「と兵」になれば、金と同様、後方斜め左右以外の六方向に動ける優れものとなる。
攻防ともに優秀な兵士として勝負の行方を担うに充分な存在と成りえた。

 将棋は双方それそれ駒二十個で勝負するゲームだが、将棋の面白さはそのルールにある。
チェスとは異なり、取った相手の駒を自分の駒として打ち込むことができるので、味方の駒の数はその棋士の腕次第。
更に、チェスと同じような動きをする駒たちが相手陣地に入ると金将と同価値となるの動きの複雑さが、将棋を局面の行方をより盛り立て面白くしていた。

「ギイ、抜け道教えたらペナルティだからね」

 託生が再度確認するかのようにジロリと横目でひと睨みしてきた。

「わかってるって。片倉、将棋はチェスより難しいんだ。負けたところで不名誉じゃないぞ」

 チェスでは人間に勝てるコンピュータも将棋となるといまだに勝てないでいる。
そんな気休めの足しになるかどうかわからない話で利久に同情を示したギイだったが、これが結構功を奏したようで、「なら俺が負けても当然じゃん」と、世界水準の棋士の栄誉をまるで自分の手柄のように利久は勝ち誇った微笑みを浮かべた。

「相手は託生であって、コンピュータじゃないんだけどなあ」

 その力の抜けるような利久の言葉にギイは苦笑しつつ、
「託生、兵を横に並べるのは反則だからな。詰めるのミスるなよ」
真剣な眼差しで将棋盤を見つめる恋人に意識を向けた。

 歩兵を握り締めた託生が「あ」と小さく声を上げて、かすかに目を細めてギイに感謝する。

「うっ、託生が優勢なのわかってるのにギイはあっちを応援するのかあ?」
「応援じゃない。忠告さ」

 結局、それからすぐに終局となって、その後、託生と利久は更に二局打ってその夜はお開きとなった。

「ギイはしなくてよかったのかい?」
「オレは見学専門に徹する約束だったからね」
「ふふふ、連勝連勝。もちっと腕を磨きたまえよ、利久クン」

 託生と以前チェスをして勝ち逃げした思い出があるギイは、鼻歌交じりで駒を片付ける恋人の機嫌を損ねることは極力さけようと、かつて誓ったことがある。
ギイにチェスでボロ負けした託生の悔しそうに唇を噛んだあの表情は今も心臓に悪い。

「ま、利久クン、いつでも相手してあげるから。それまで精進しておくことだね」

 そうして。

「くそ、次は覚えてろよぉ。おやすみッ!」
「それじゃあ負け犬の遠吠えだよ、利久。おやすみ」

 ギイを連れ立って三二二号室を辞した託生は始終ご機嫌なまま、三○五号室へと戻って行った。

「こんなにゆっくりしているギイって珍しいよね」
「そうか?」

「いつもだったらこの時間、どっかに飛んで行っちゃってるじゃないか」

 そう文句を言いつつも、「たまにはこんな日もいいよね」と弾けるように託生が笑う。
その笑顔が眩しすぎて、ギイは思わず言葉に詰まった。

 この泣きたくなるほどの幸せをどう表現したらいいだろう。

 去年とは天と地の差がある今の幸運ともいうべき境遇を、世界中の神に感謝したい。
この幸福は天からの贈り物なのだと本当に思う。
自分の強運にこれほど感謝したことはない。

 まさに暗闇の中、手探りで掴んだような恋だった。
本当に存在するのかわからない未来を求めて足掻いていた頃だってあったのだ。

 目の前で託生が笑う。時には口を尖らせて文句も言う。
朝起きて、カーテンを開けてふたりの部屋に光を入れる。
柔らかい日光に目を萎めながら、託生が身をよじる。

 そんな何気ない毎日のすべてひとつひとつが本当はトクベツなものだったのだと、片想いのあの頃を思い出すたび、ギイは平穏な日常という奇跡の未来を改めてしみじみと噛み締めるように感慨にひたった。

「幸せなんだよな、オレ」

 そんな幸せの絶頂にあるからこそ、すでに生み出されてしまった我がままでしかない欲が、むくりと起き上がろうとするのかもしれない。

 ギイの心の隅をだんだんと大きく占めてゆくその欲の塊の存在を、ギイはわずかながらにだがはっきりと感じとっていた。
気にしてはいけないと思うほど、ギイの気持ちはそちらに向いてゆく。

 ギイ自身、欲にとりつかれた自分の心をどうすることもできないのだった。



 そうしてその日から、ギイの行動に変化が訪れた。
託生が行くところ行くところ、ギイがうしろから着いて行くといった姿が至るところで頻繁に目撃されるようになった。

 だが、「愛してるよ」の託生限定のバーゲンセールだった五月のそれとはまた違う。
満面の笑みのギイの右隣りには、なぜか章三のむっつりと不機嫌そのものの顔があり、それはいかにも爆発寸前の憤怒の仁王面のごとき表情だと誰もが思った。

 肩に回されたギイの腕を咎めるような章三の視線が常にギイに注がれている。
だが、その迷惑千万だと語っている相棒の鋭い視線に、ギイはまったく動じない。
誰もがとばっちりを受けてたまるかと章三と視線を合わせないようにそそくさと道を譲っているというのに、反してギイはとにかく笑顔絶やさずで、やや浮かれ気味ともいえる風情だった。

「なあ、三人で挟み将棋でもしないか?」

 章三を連れ立ってギイと託生は、三人一緒に行動する時間がだんだんと増えていった。
ギイが託生と章三のふたりを離さないのだ。

 一日、二日なら章三も託生もまだ気にしないでいられた。
それが一週間、十日と続けばストレスに変わる。

「なあ、今度三人で温泉を探索しないか?」
「温泉? ギイ、どこか当てでもあるのか?」

「いや、そうじゃなくて。この辺なら温泉くらい見つけるのも難しくないんじゃないかなって思ってさ。
秘境の温泉、探すのも楽しそうだろう? 章三、おまえの背中はオレが洗ってやるから。
託生はオレと洗いっこしような」

「アホ。温泉探索だなんて、そんなヒマがあるか。
これから文化祭の準備で忙しくなるんって時に何を寝ぼけたこと言ってる!
そんなに温泉は入りたけりゃ一日中、風呂に籠ってろ!
あつらえ向きにここの寮はおまえが望む温泉だ」

 無体な計画を提案するなど、ギイには珍しい失態だった。

 とにかくギイは三人でいることにこだわった。

 そうしてギイのおかしな行動に付き合わされるようになって二週間、とうとう業を煮やしたふたりは、ギイの隙を狙って作戦会議をすることにした。

 三人でいることが嫌なのではない。
わざとらしくギイがそれを強要するのがいただけないのだ。

「ったく。何だってんだ、あいつわ」
「ホント、最近おかしいよね。全然ギイらしくないよ」

 やっとギイから離れたふたりがやってきたのは人気のない校舎の裏だった。
ギイが評議委員会の呼び出しを食らった時を狙って、ふたりは逃げるようにここに来た。

 周囲に人の気配がないのを確かめた上で、章三と託生は相棒と恋人のそれぞれの立場から、最近特に気になる最大の違和感をお互いぶつけ合って解決策を模索した。

「いい加減、もうウンザリだ。迷惑千万ったらありゃしない。葉山、おまえ、何かやったんじゃないのか?
ギイの不安を呼ぶようなこととかさ。よく思い出してみろよ」
「そう言われてもねえ。思い当たることないんだけどなあ」

「浮気の気配とかは?」
「そんなもんあるかい」

「そっか。そうだよなあ。浮気発覚なんてことになったら悠長なことしているヤツじゃないだろうしな。
べったりするどころか、ギイなら即座に相手のところに乗り込んで、半殺しの目に合わせてるに決まってるか」

 誰かが怪我した、なんて報告は今のところ来ていないし、と言う章三の声は笑い混じりだったが目はしっかり真剣みを帯びていた。

「ちょっと! それっていったい誰が浮気する前提の話なのさ」
「ギイがしない限り、するとしたら該当者はひとりしかいないじゃないか」

「ぼくがするってのかい?」
「まあ、するのは自由だからね。とにかく僕には関係ない。
あ、でもギイが荒れ狂うとこっちにもとばっちりが来るか。
葉山、するなら……わかってるな? うまくしろよ」

「誰がするかい。まったく、浮気の斡旋するのはやめてよね。
赤池くんって唆すのがうまそうだけど、そういう唆しは心臓に悪いよ。
第一、ぼくが……す、好き、なのは、ギイ、なんだから……、って、あ、立ったまま寝るな、こら!」
「あー、ちょっとうとうとしてしまったなあ、悪い悪い。葉山が何を言ってたのかまったく聞こえなかったよ。
それとも疲れで耳が遠くなったかな」

 あー言えばこー言う。
ギイとの関係を黙認してくれるわりに素直に認めてくれない章三は、あの手この手で託生を惑わしてからかうのを楽しんでいた。

 その偉そうな章三が、実は同学年でもっとも遅い生まれだと知っている生徒は祠堂内にどれほどいるだろうか。

「赤池くんってぼくより誕生日が遅いクセに」

 耳が遠いなんて年寄りじみてるよ、の託生の呟きは、ギロリと睨んできたその視線の迫力に押されてすぐさま喉の奥に引っ込んだ。

「だいたい、ギイに振り回されるのはいつものことだが、こういうバカらしい目に合うのはだいたい葉山絡みと決まってるんだよ。
おまえらバカップルにいちいちつき合わせられるこっちの身にもなってほしいね。
そういうわけで詫びの言葉ならいつでも受け付けるから。ギイにもしっかり伝えておけ」

 ギイを挟んだ友人関係のふたりは、ギイがいなくてもいいコンビになったのだろうが、けれど、やっぱりふたりの共通の話題となるとギイ関連のことがおおよそを占めているのが現状だった。





 託生と章三の間には若干の言い分の食い違いがあったが、最終的には、この状況が長く続くのはお互い勘弁という同じ意見に達した。

 三○五号室に移動したふたりは、世間話に興じながらギイを帰りを部屋で待つことにしたのだが、これがなかなか帰って来ない。

「どこほっつき歩いてるんだ、ギイのヤツ」
「そろそろ食堂も混み出しちゃうね」

 ブラックホールの異名と掲げた胃袋を持つギイのことである。
あちこち走り回っていたとしても、滅多に夕飯を逃すギイではない。
ただし、ギイが夕飯を諦めるに値する大問題が発生しない限りは、だが。

「まさか、何かあったのかな?」
「それこそヤツに何かあったら、こんな平穏無事な雰囲気であるわけないさ」

 心配なのか、託生は何度か部屋の外を伺いに行ったが、廊下の喧騒を見聞きした限りではいつも通り、剣呑な雰囲気も不安げな様子も何も掴めなかった。

「そう言えばさ、ギイってこの頃三人一緒にいることにこだわってるけど、赤池くんがいないとだいたい部屋にいないよね。
ぼくひとりにしてさ、どこ吹く風なんだ。いっつも三人でいたがるくせに、それってヘンだと思わない?」

 食堂に行く時は必ずと言っていいほど誘ってくれるけど基本的には放っておかれてる、とやや拗ねるように託生は語り出した。

「それに、思い当たるってふしがあるってわけじゃないんだけど。
ずっと前に、恋人と仕事とか、愛情と友情とか比べてどっちが大事とかなんとかって訊かれたんだよね。
ギイのことだから、忙しくても許せよってこと言いたかったのかなあってその時は思ったんだけど。
赤池くんとばかり一緒にいて、こそこそ動き回ってることへの後ろめたさからそういう質問してきたのかな、なんてさ」

 だが、この頃はギイと章三のふたりきりでいる機会はほとんどない。
ギイが単独で行動しているか、もしくは託生を交えた三人でいるか、だった。

「仕事ねえ。
どうしても抜けられない仕事だったら、僕や葉山の約束を二の次にしてでもギイは飛んでいくだろうさ」
「うん。ギイはきっとそうするよね。……悔しいけど」

「でも、それでいいんじゃないか? それが本来当然なんだよ。誰でもそうすると思う。
僕だって、多分、葉山だって。そういう時が来たらみんな同じことするさ。
それでも、だ。後回しにできるってことは、ギイにしろ僕らにしろ、もう片方を選んでもこっちは大丈夫だと思えるからそうできるんだ。
こっちの用事がより重大だって判断したら、ヤツだって自分の意思を押し通してでも残ろうとするだろうよ。
まあ、その場合、島岡さんあたりにギイは仕事を押し付けるんだろうけど」

 何がより重要か、何を優先すべきか。瞬時に状況を見極めるギイ。
すばやく的確に判断しなければ命取りになる。多くの部下、多くの社員の生活が、彼が指し示す事業方向によって左右される。
ギイはそういう世界に生きている。

 その責務がギイひとりの両肩にのしかかるであろう日もそう遠くはないのだろう。

 ギイのおかれている立場はそういうもので、ギイの取り巻く世界はとても厳しい。
そんな世界で生まれ育ち、生きていかなければならないギイにとって、彼が一番に身につけなければならない必須能力、それこそが的確な状況判断能力なのかもしれない。

「それにしても、それってそこらへんの夫婦ケンカのネタになりそうな内容だな。
家庭と仕事どっちが大事なんてのはいかにも『ニワトリと卵』みたいな問題じゃないか」

「ニワトリと卵?」
「どっちが先かってヤツ。ニワトリが先か、卵が先か。どっちもアリな気がしないか?」

 ニワトリから生まれた卵は普通ニワトリになる。そして、ニワトリは卵から生まれてくる。
それぞれに真実があるので、それに関する科学者の見解はとても多い。
決定打のない論争はまるでメビウスの輪のように続いていた。

「つまり、家庭と仕事。どっちも選べないってことさ」

 好きなことだけをしていればいい。この世の中、そういう人ばかりではない。
家族を守るために働いている人はとても多い。
そして、仕事をするために家庭を犠牲にしている人も中にはいる。

 それでも、ひとり立ちした一人前の大人ならば誰もが思う。
働かなければとにかく生活していけないのだと。

 家庭と仕事、どちらも捨てることなどできない。
どちらかに比重が偏りすぎたらバランスが崩れて、二者とも手の指の隙間から落ちてゆく。

 霞を食べては生きてはいけない。
資本主義国家では生きてゆくためには少なくてもお金がいるのだ。

「まあ、葉山あたりがそんな難題をギイにぶつけなければ、ギイのヤツはひたすら的確に優先順位をつけて行動するだろうよ」

 恋人の我がままという反則技がどれほど有効なのかはギイのみが知ることだ。

 だが、歴史を紐解けば、寵姫に溺れた王たちが国を滅ぼすなど珍しくない。

「目の中に入れても痛くないほど葉山のこと大事にしているんだとしたら、もしかしてマズイかもな。
葉山、おまえ、あまり無体なこと言ってFグループの社員を泣かせるなよ」

 特に島岡さんを、とからかい混じりの微笑みで章三は囁いてきた。

「だーかーらー、普段はギイはぼくなんか放ってどっかに行っちゃってるんだから。
もう、さっきからそう言ってるのに」

 章三が本気で言っているわけではないとわかってはいても、託生は頬をぷうと大きく膨らまして必死になって抗議した。

「へいへい。よくできた奥サマですこと」

 託生の百面相を目の当たりにして、章三の口元にはしばらく笑みが残った。

 だが、託生の言葉になぞっているとハタとあることを思いつき、
「まさかとは思うが。あいつ、ヘンなところでグルグルしてるんじゃあるまいな?」
途端にその唇がへの字に曲がる。

 去年一年間、そしてこの春からのギイをまぢかで見てきた章三は、ふと嫌な予感に襲われた。
長年の片想いを叶えた男はこれまでも突拍子のない行動をする時がままあった。

 一日中、「愛している」などと恥ずかしい言葉をひたすら吐いて、ところ構わず託生を口説き続けた五月。
美男子の締まらない顔ほど殴りたくなるものはない。
貴重なバイオリンを島岡に空輸させて祠堂まで運ばせたり、ピンクのカリフラワーという馬鹿げた土産を日本に持ち込んだりなどはいまだ記憶に新しい。
葉山を中心に世界が回っていると言っても過言でないギイの愛情表現にはそれこそ際限がなかった。

「僕もまだまだ未熟だな。……もっとスマートに持ってゆくヤツだと思ってたんだがなあ」
「スマートが何だって?」

「いや、こっちの話」

 その時、ノックの音が聞こえて、自然とそちらに目が行った。
託生は確認するかのようにちらりと章三を振り返る。

 同室のギイであるならわざわざノックをすることなく、「ただいま」と部屋に入ってくるはずだった。
案の定、ドアを開けた向こうにはクラスメイトの当惑した姿があった。

 訊けば、明日クラスのホームルームで必要なプリントのコピーを頼まれたのだと言う。

「俺、これから用事があってさ、コピーする暇ないんだよ。悪いけど頼むよ、副級長」
「え? もしかして今から?」

 相手の困惑しきりの顔に切羽詰った事情を察して、
「仕方ないね。えっと、わかったよ。それでコピーって何部?」
断わりきれなかった託生は留守番を章三に頼むと、、「結構時間かかるかもよ」と恐縮しきりのクラスメートを連れ立ってそのまま部屋をあとにした。

 託生がいなくなってから、章三はもう一度自分の考えを振り返り、
「僕の考え通りだとしたら、まったく正気の沙汰じゃないぞ。ギイのアホ、手に負えんわ」
ひとつ溜息を大きくついた。

 いくつか浮かんだ考えに嫌気が差すのが止まらない。

「馬鹿らしくてやってられん」

 章三は頭をぽりぽりとかくと、
「さてと。つまり、問題はギイなんだよな」
やはりここは自分が恋にトチ狂った相棒を諭すしかないか、と意を決した。

「人の恋路には口を出したくないんだがなあ」

 あくまで「何で僕がこんな目に」と納得がいかない章三だった──。





 日本では、「ただいま」と「お帰り」は基本の挨拶となっている。

 ギイ曰く「託生とのスイートルーム」である三○五号室でも、ギイの「ただいま」に対し、託生の「お帰り」が返されるのが常だった。

 だが、今夜はギイの「ただいまー」に託生の「お帰り」はなかった。
代わりに、「よ。どこほっつき歩いてたんだ」と章三の冷たい視線がギイを出迎えた。

「おい。どうして章三がここにいるんだ? 託生はどうした?」
「葉山なら今頃コピーに勤しんでるさ。それより少し話がある」

 そう切り出した章三が、
「ギイ。おまえ、何を心配してるんだ? 言ってみろ」
突如、直球で突っ込んできたものだから、ギイも目を見開いて相手を出方を伺った。

「おまえ、自分で自分の矛盾した行動が全然わかってないだろう?
今更だが、そんなに葉山のことがが好きなのか? 葉山と僕にそれほど争ってほしくないのか?
だとしても、こんなこといつまでも続けられるわけないだろうが?
自分のやってること、本当にわかってるのか?」

 ギイが三人でいたがるのは、恋人と親友のどちらだけひとりを優先しなくてすむからだろう、と章三は考えた。

 恋人と仕事、愛情と友情など、比較などできそうもないそれを託生に尋ねたギイである。
章三は、三人でいるギイの理由がそこにあるのだろうと推測した。

「そんなの、葉山を選んで僕を放っておけばいいことだろう」

 葉山と張り合うつもりはないし、たかが友人にそこまで固執するな、と章三は言いたかった。

「金魚の糞じゃあるまいし、べったりくっついてなければ成り立たない友情などクソ食らえってもんだぞ?」

 ギイは黙っていたが、章三の言葉をしっかり届いているのは固く結ばれた唇の動きでわかった。

 更なる証拠に、「三人一緒にいれば、どっちかを手放さずにすむとでも思っているなら大間違いだ」と章三が言った途端、
「違う。そうじゃない。あ、いや、それもあったかもしれないけど。それだけじゃないんだ」
ギイは何かを必死に訴えようとでもしているかのように、普段はっきりものを言うギイには珍しく、口をパクパクしながら指先を小刻みに忙しなく動かした。

「章三、どこから説明したらいいんだろうな。
あー、おまえに話せばオレ自身も落ち着くってんなら話すけど。
あのな……。いいか、何を聞いても飽きれるなよ?」
「今更だろう? さあ、さっさと言え。無駄口などいらん」

「冷たいぞ、章三。相棒なのに」
「何が相棒だ。僕はギイの所有物じゃないんだぞ? いいか、よく聞け。
葉山とギイがどんな付き合いをしようがそんなこと僕には関係ない。
だが、僕に関することは僕の問題だ。
いいからここ最近の迷惑を詫びる気持ちがあるならとっとと話してしまえよ」

 関係ない、の件(くだり)でギイは心の痛みを感じていた。
わずかに目が泳いで、物言いたそうな憂いの視線が章三から一瞬反れる。

「最初、ギイがポカやって葉山を怒らせたがために僕を盾にふたりっきりになりたくないんだとばかり思った。
だがそうじゃないことはすぐにわかったし、葉山のほうもギイの行動に違和感を感じていたようだった。
次に葉山を巡って何が問題が生じて、葉山の守りを固めるために僕の協力を欲しているのかとも考えた。
だが、その場合、ギイならちゃんと僕に一言申し出があるだろう。だからそれも理由にはならないとわかった。
わからないのは三人一緒にいるのを強要してきたくせに、僕がいなければ以前と何ら変わらず葉山をひとりおいて、おまえはおまえで用事を済ませにすんなりここを留守にしてるってことだ。
葉山をひとりにしたくないというわけでもない。ふたりっきりになりたくないというのとも違う。
三人でいる意義だけがギイの中に強くあって、ひとりだのふたりだのは関係ないんだ。そうなんだろう?
そこでだ、なぜに三人でなければならないのか。ヒントは葉山がくれた。
いや、ギイ、おまえこそが葉山にちゃんと与えてたんだ」

 章三は一息にそこまで言うと、一拍おいて、ギイに向き直った。

「おまえは僕と葉山が、『どっちが大事?』って言い出すのを恐れたんだ。
だから三人ひと括りに行動して、どっちも優先しない手段にでた。
だが、そんなのいつまで続くわけがない。そんな簡単なこと、わからないおまえじゃないだろう?
ギイ、いい加減逃げるのはよせよ」

 恋人も親友もどちらも大事だった。ふたりを比べるなど、ましてや選ぶなどギイにはできなかった。

 そのくせ、ふたりには自分だけを見ていてほしかった。
特に託生には、時にはヤキモチを焼いてほしいし、誰よりも自分を一番に想ってほしい。

 託生と章三がふたりでいるのが落ちつかなかくて、少し焼いたこともある。
自分ひとりがのけ者にされたようで、そんな事実などありやしないのに寂しくて、理不尽な不安がギイの焦りを掻き立てた。

 託生が好いてくれることも、章三が互いに助け合う相棒だということも重々わかっていても、楽しそうにしゃべっているふたりの笑顔が視界に飛び込んだ瞬間、頭の中が真っ白になって、卑屈な気持ちがむくりを浮かび上がってしまう。

 ふたりきりにしたくない。
そう思ってしまうのは、自分勝手なことだとわかっていてもどうしようもなかった。

「ギイはもっとスマートに恋をするのかと思ってたよ」

 ギイの机をトントンと人差し指でリズムを刻みながら、章三は肺の底から大きく溜め息を吐いた。

「こんなオレで幻滅したか?」
「いや、ギイも人の子だったんだなって思った」

 本気の恋でスマートに愛するなど難しい。

 望みばかりがいくつも沸いて、限りがなかった。
足掻いてもがいて、毎日がそれで精一杯だ。
これほど誰かを好きになって、手放したくないと思ったことなどない。

 だけどそれは託生に限ったことではないのだ。

 ほかの誰よりも自分を見てほしいを思うのは恋人相手だけではなかった。

 友情や愛情に関係なく、気に入った相手なら、誰でもそばにおきたいと思ってしまう。
自分を好きでいてくれれば尚更だ。

 ギイは、自分をまっすぐ見てくれる人がそばにいてほしかった。
小さな子供のようにそんなことをずっと願い、期待してはその都度裏切られてきた。

 ギイの出自は彼に付加と負荷を与えた。
彼自身の個性に薄いベールとなって、いつも彼に纏わりついている。

 知り合いだけは途方もなく多いギイ。
だが、相手がギイを親しい友人と思っているほど、ギイの中で認識された友人の数はそれほど多くないのが現実だった。

 誰でもない、「崎義一」というひとりの人間として自分自身を見てくれれば、ギイはそれだけで嬉しかったのに……。

 そんな殺伐したギイを取り巻く世界の中で、章三と託生は貴重な存在とも言えた。

 それ以上でもそれ以下でもなく、ギイをギイとして直面してくれるふたりだったから、どうしても手放しなくなかった。
馬鹿みたいに一緒にいることを強要して、安心をこの手にしたかったのだ。

 そばにおけば少しは心が落ち着いたから。
一度でも、その安堵感に溺れてしまうともう抜け出せなくなった。

 ゆるりゆるりとギイの背景が暴かれ、獲物を前にした肉食獣のように目を細める物欲まみれた輩が増えてゆく中、ふたりから離れていても自分たちの関係は大丈夫だと、そんなふうに安易に思えるほど、ギイにとってふたりは軽い存在ではなかった。

 余裕など、そんなものなどない。

 恋も愛も友情も信頼も、すべて手にして生きていたい。

 ギイの願いは、そこらの普通の男にしてみればありふれたものだ。
けれど実際、本当の意味でそれらすべてを叶えるのは、ギイには一縷の望みを叶えることに等しかった。

「その分じゃ、ギイ、全然気付いてないんだな」

 葉山と一緒のギイはまるで誰にでも吠えまくる番犬のようだぞ、と章三は言った。

 大事なものを守るようにぴたりと張り付き、周りの人間を威嚇して近寄らせない。
所要で一時留守にしても、さっさと用事を済ませて戻ってこようとする。

「僕といる時は何だかんだと言って肩を組んだりして、妙に絡んで来ては三人でいることに意固地になってさ。
それでいざ三人でいたらいたで、おまえ、葉山を独占しようと足掻くし。
近くにいないと不安。離さないでいるのが一番。
それって自分の気持ちばかりを押し付けて、相手の気持ちを考えない、まるで融通が利かないガキの行動そのものじゃないか」

 そこまで言ってから、章三はふと思いついた。
実はギイが思っているほどギイは自分のことを理解していないのかもしれない。
ギイよりも、周りの人間──例えば、託生や自分のほうが、余程ギイを客観的に見れるのかもしれない……、と。

「今回ばかりはつくづく呆れたよ」

 ギイはほんとに葉山のこと好きなんだな、の言葉は章三の下の上で転がって、声にはならなかった。
風紀委員長の身では認めるわけにはいかない。
黙認するのが精一杯、これ以上甘やかせてなるものか、が本音だった。

 けれど、今回の件で、ギイは章三が想像していた以上に相棒というトクベツ席を大事にしてくれていたのだとも知れた。

「何にしてもだ。ギイ、おまえの行動は僕たちにとって、すごく無礼なものだったと思うぞ。
始終くっついていなくちゃ信用できないってのはな」
「章三……?」

「信頼しているからこそ離れられることもあるんだ。ギイは僕らを侮ってるよ。それに関しては許せないな。
ただし、ヤキモチを焼くのは許してやるさ。せいぜい、悶えて苦しめ。それはおまえだけの特権だろう?
僕としては、葉山はあれはあれでそれほどふらふらしている男じゃないと思うが、ギイが信用できないってんならしょうがないからな。
だが、信用されてないって知ったら……。さて、葉山はどう思うかね」
「信用してないわけじゃない」

「そりゃそうだろう。だが、理性と感情は別物だ」
「章三の言うとおり、どっちが大事なんてのは考えたくなかった。
だけど、それと信用してるかどうかは無関係だ」

 好きだから、選びたくなかった。好きだから、一緒にいたかった。

──ただ、比べたくなかったんだ。

 そんなこと考えていたなんて言ったら、「馬鹿にするな」と怒るだろうか。
それとも、「そんなの考える必要などない」と笑うだろうか。

 大切なものを比べて選ぶなんて、考えたくなかった。

 それでも、無意識のうちに選ぼうとするギイの癖。
生き抜くために身につけたそれが、今更ながらにギイの理性の邪魔をする。

 異なるふたつを比べるなんて──土俵が違う。想いが違う。付き合いが違う。

 すべてが大事で手離せない。

 どちらかなんて選べない。

 けれど、そのくせ、ふたりには……。

──何よりもオレを選んでほしい。

 そうギイは願っていた。

「オレってホント、身勝手だよな」
「ほう、わかってるじゃないか」





 誰かを好きになると人は欲深くなる。

 もっともっとと多くを求めて足掻きたくなるのは、それだけ望む心が強いからだ。

 好きだ、と言ってくれ。

 そばにいてほしい、と縋(すが)ってほしい。

 ありのままの自分を求めてくれたらこれ以上の幸せはない──。





「あれ? 赤池くんは?」

「ただいまー」と三○五号室に勢いよく飛び込んで来た託生は、ギイひとりが部屋にいることを訝しんだ。

「章三なら帰った。託生に伝言があるぞ」

 そうして、「コピーご苦労様」と顔を寄せただけで赤くなる託生の頬にキスをしながら、ギイはメモ用紙を手渡した。

 実はそのメモ用紙とは別に、章三はギイにも残していったものがあった。

『僕たちの信用を得たいなら堂々としてろ。普段のギイとなら今まで通りの付き合いをしてやるさ。
だけど、今度こんな馬鹿な真似をしてみろ。ガキのお守りは金輪際ゴメンだからな。わかったな!』

 言いたいことはすべて言ったとばかりに部屋を出て行こうとした章三が、去り間際、ギイに吐き捨てた言葉。

 章三は口をへの字に曲げながらも、激しい口調には似つかわしくない優しい視線をギイに投げていた。
馬鹿な子ほどかわいい、とでも言いたそうなその複雑な表情が、ギイの脳裏にとても印象的に残っている。

 章三が託生に何を伝えたのか。ギイはメモの内容についてまったく知らされていない。

 だから、章三からのメモを目にした託生が顎に拳を当てて、考え込むような仕種でいるのがすごく気になって、
「そんなに難しいことが書いてあるのか?」
託生の手の中のメモを覗き込もうとすると、途端、託生が珍しく、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべてひた隠す。

「見ちゃダメ。コレは赤池くんとぼくだけの秘密だよ」
「何だよ、託生。ふたりの間で隠し事はなしだぞ!」

「いくら恋人でもこればかりは教えられない。友達との約束は破れないよ。それが赤池くんなら尚更ね。
だって、彼はギイの相棒だろう? ぼくは彼の信用を失いたくないもん」

 それでも、ギイに甘い恋人は、「ぼくからは言えない。知りたかったらほかの人に訊いて」とあくまでギイを甘やかそうとする。

「直接章三に訊くのはいいんだな?」
「まあね。教えてくれるかどうかは彼次第だけど」

 これまでの罰だよ、と肩を竦めて微笑む託生が、
「せいぜい悶々としていなさい」
ギイの目には、この時ばかりは小悪魔に見えた。





 理性で誰かを好きになどなれない。

 恋に目が眩めば誰もが恋の迷宮に迷い込んで、愚考と愚行を繰り返しながら歩き続ける。

 けれど、本気の恋に出口は必要ない。

 その道程こそが幸せの瞬間の連続なのだから──。





 ふたり残された三○五号室で、託生が章三からのメモを細かく切り刻んだ。

「そこまでして隠すのか?」
「ギイには関係ないだろ。ぼく宛のものなんだからぼくの自由したっていいじゃないか」

「なあ、ちょっとだけヒントくれたっていいだろう?」
「んー、もお、しょうがないなあ。なら……そうだなあ。『歳月人を待たず』でどう?」

「……それだけじゃわからん」
「じゃあ、『時は金なり』」

「何だそりゃ」
「え? だってギイにぴったりな言葉じゃない?」

「どこが! こうなったら明日の朝一番に章三に訊いてやる!」
「ひどいな、ギイ。今度の日曜は朝から下山しようって約束してたじゃないか。
ギイ、ぼくとのデートそっぽかす気? ぼくと行くの? 行かないの? どっち?」

「あー、うー。……行く」





 恋人たちの蜜月は終らない。

 蜜月中は相手しか見えない。

 だから、見えている者が正しい道を指し示す必要がたまに生じる。

 その存在をもまた、ギイはすでに手にしている。

『問題解決。思いのほか、ギイは駄々をこねる強欲なガキだったというのが原因だ。
ギイの奇行はおそらく時間が解決してくれるさ。
P.S.このメモはギイに見せるな。せいぜい気を揉ませて困らせろ。わざとらしく焦らせよ。
今までのお返しだ。』

 選びたくないと言いながら、すでに多くの中からふたりを選んでいることに、ギイはまだ気付いていないだけ。



 恋も仕事も友情も、得がたいものすべてをその手に抱く未来。

 ギイはこれからもますます我がままになってゆくのだろう。

「幸せ」の本当の意味をこれからもっと知るために。

 望み描いた夢を追い求めて──。

                                                         おしまい


material * a day in life



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの開設三周年記念作品「二兎を追う者」はいかがでしたでしょうか?
今回はギイと託生と章三の三人のお話となりました。

このお話、「身勝手なギイ」を書きたくて書き出したところ、なかなかまとまらなくて困りました。
比べても仕方ないものを比べる機会というのはままあります。
だけど何が一番その時に大切か、判断を見誤らないようにできたら……。
そう思ってこのお話を書き始めましたのですが、
私にはちょっと荷が重かった(笑)。

とにかく、少しでも気に入ってくださったら嬉しいです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


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