「まったく、おまえには参るよ」

 ギイがそう言って苦笑したその瞬間、ざわりと周囲が波立った。

「おい、すげーな」
「ああ、あの崎先輩相手にさ」

 寄せて返すさざ波のようにいくつもの声が聞こえてくる。

 事情を知らない者にすれば、奇怪でしかない予測不可能な行動は大胆不敵以外になかった。
羨望と嫉妬と尊敬が混じった視線がこちらに集中して、突き刺すように肌が痛い。

「何だか複雑な気分……」

 遠目にぼくを見たギイが、くすりと忍び笑うのがこれまた小憎らしい。

 その絡み合った視線はわずかに甘みを帯びて、このままずっと見つめていたいのはやまやまだけど。

「葉山サン、そろそろ続きしましょうか……」

 戦況は一進一退。強いて言えば、ギイが苦笑した時点でこちらが幾分不利となった。

 協定仲間である真行寺たち二年生が「崎義一」の名に尻込みして投了したため、頼るべき援軍はすでに壊滅状態。
ぼくは孤軍奮闘を余儀なくされていた。

「敵はなかなか手強いですぅ」

 そうして、再び二階のゼロ番に戻って、
「さてと。次はぼくの番か」
勝負の世界の厳しさと私情が絡みまくった熱い友情に板ばさみされながら、今まさにぼくらは最終局面を迎えようとしていた。

「もう、勝利はすぐそこッス! こうなったら、葉山サン、俺の分まで頑張ってくださいよっ」

 サイコロをころりと転がし、コマを進める。

「一、二、三、四っ、と。うわっ、こんな時にドクロかあ。参ったなあ……」
「何の。まだまだ勝負の行方はわかりませんって!」

 真行寺の声援をBGMにさっそく二枚のカードを引く。

 すると、二階ゼロ番の住人である野沢政貴が二枚のカードを手にしながら、唇に鮮やかな笑みを浮かべた。

「ああ、これなら楽勝だね。それこそこっちのこれ、ギイがここにいたらよかったのにねえ」

 指名カードは「葉山託生」。対なる指令カードの内容は友人相手にするには際どい恋人仕様。

 その際どさにあてられて、つい政貴もぽとりと口から零してしまったのだろうか。
いや、違うだろう、アレは絶対確信犯だ!と叫びたいのを一心に我慢しているのは、おそらくぼくばかりではないと思う。

 隣りの真行寺などは「ギイ」の名に眉を潜めて、何かを振り払うようにぶるぶるっと首を振った。

「もしかして、祠堂の影の実力者がいるとしたら、実はどっこいこの人だったりして?」
「ぼくに同意を求められても困るんだけど」

 呆れたような諦めたような何とも言えない目を向けて、脱力感を漂わせながらぼくの肩をポンと叩く。

「葉山サン、こうなったらあなただけが頼りかも」


駒沢瑛二救済活動



 食券四枚と現金八百二十円、そして次の仕送りまでの残り一週間。

 ちゃっかり屋の友人を持ったぼくの前にキビシイ現実が立ちはだかる──。

 シャンプーの特売を見つけて、あまりの安さにストック分まで買ってしまったのがいけなかったのかもしれない。
サン・サースの「序奏とロンド・カプリチオーソ」の聞き比べをしたくなって、CDを三枚衝動買いしたのが原因かもしれない。
久しぶりに下山したからと、バイオリンの予備の弦も買った。これも突発的な出費だった。

 とはいえ、これでも祠堂学院高等学校に入学して以来、二年以上も寮生活を送っているぼくだ。
仕送り日までの必要出費をちゃんと考慮して買い物をするのは当然のこと。
ギリギリだけどあと一週間なら何とかいけると判断した結果の支出だった。

 だが、ぼくが今後の予定と照らし合わて仕送りの使い道をいくら調節したところで、回避できない状況が降ってわいてしまったら元の木阿弥というものだ。

「託生ぃ〜、頼むよ。この通りっ! お願いしますっ! 千円貸してくださいっ! 今度の仕送りで必ず返すから!」

 突然、二七○号室まで押し掛けてきて、ぼくを仏のように拝みながら、
「俺たち親友だよな!?」
そう力強く口にして、友情の尊さをしきりに訴えてくる片倉利久という存在がぼくの予定をがらがらと狂わしてくださるから、ほとほと困る。

「あのさ、利久。貸してあげたいのは山々なんだけど。ぼくだって今月はもうコレしかないんだよ」

 紙幣一枚すらない財布を覗き込めば、五百円玉一枚と百円玉三枚、十円玉が申し訳なさそうにちょこんと収まっているだけ。

「え? これだけ? 堅実家の託生にしちゃ珍しいじゃん。大丈夫なのかい?」
「あと一週間の辛抱だからね。でも、食券十枚綴りが手付かずであるから。ま、何とか」

 そう、この時までぼくの手許には、現金八百二十円のほかに後生大事にとっておいた最後の切り札の食券十枚があったのだった。

 ぼくの命綱の食券十枚綴り。
それさえあれば一週間など楽勝のはずだった。

 そして、その十枚綴り手付かずは、利久にとってもたいした魅力だったらしい。

 友情とはこうも目先の利益に霞むものなのか、と疑いたくなるほどの早業で、
「神さま、仏さま、託生サマ! お願いします、食券前借りさせてくださいっ!」
ぼくは即席教祖に崇め奉られたてしまったのである。

「ほらっ。俺もうおにぎり一個しか買えないんだよぉ……」

 そう言って利久が財布を開いて見せてくれたところ、恐ろしいことに百円玉と五円玉がひとつずつしか入っていない。

 その微々たる所持金を手のひらにのせて見せ付けるようにぼくに突き出し、
「これで一週間過ごせなんて、託生ィ、そんな酷いこと冗談でも言わないよな?」
現状の厳しさと悲惨さを涙ながらに訴えたくなる利久の気持ちも同じ寮生の身、わからないでもないのだが。

 いかんせんぼくもさすがに今月は余裕がない。
だが、利久の場合は、すでに崖っぷちから身体半分落ちかけているようなもので……。

「う……、ホントにこれが全財産?」
「悲しいことにウソまじりっけなしの全財産」

 財布を逆さにしてもホコリしか出て来そうにないこのキビシイ状況をどうすればいいのだろう。

 まさに厳冬の寒さの雪山に放り出された登山家の心中に通じる寂しさが伺えた。

「これはちょっと……っていうか、マジにきついね」
「だろっ?」

 さすがに所持金百五円は悲惨すぎた。
仕送り前の厳しさを知る同じ親元離れた寮生として胸が締め付けられるように痛くなる。

「どうしてここまで考えなしに使えるんだよ!」
「しょうがないじゃん。借りてた千円、さっき返せって弓道部のヤツに持っていかれちゃったんだから。
俺だってちゃんと昼飯代、残しといたんだぞ」

「だーかーらー。もとはと言えば利久が前借りするからそういうことになっちゃうんだろ?
自業自得じゃないか」
「だって今更そんなこと言っても困るよォ」

 確かにここで利久のドンブリ勘定を口うるさく指摘したところで、百五円の所持金がざっくざっくと増えるわけではない。

──結局、ぼくが折れるしかないのか……?

 祠堂学院高等学校で餓死者発見などという事態は極力さけたいし。
まさかと思うけど、もしも仮にそういう事態になった場合、このままでは利久の貧困の現状を知ってるぼくが、それこそその第一発見者になりかねない。

──仕方ないなあ、もう。今回ばかりは助けてやるか。

 そう腹を括って利久と向き合うと、「ぼくの都合を踏まえた範囲の手助けでよければ」と条件をつけたにもかかわらず、この利久という人間は自分の立場が真実わかっているのかいないのか、
「食券七枚、お願いします!」
どこから七枚などという途方もない数字が出てくるんだ、と首を傾げたくなるほどの厚顔ぶりをさっそく披露してくださるから呆れてモノが言えなくなる。

「利久さあ。遠慮って言葉知らないの?」

 親しき仲にも礼儀あり。無理難題をほざくにも限度がある。

「だって、七日分ほしいじゃん」
「なるほどね。それは確かにその利久の気持ちもわからないわけじゃない。
けどね、それじゃあ、ぼくが困るの。ぼくが七枚で利久が三枚ならいいよ」

「え〜。俺、百均行ってもたったの一個しか買い物できないくらいビンボーなんだぞ。
よし、こうなったら食券六枚で手を打つからさ。な? いいだろ、託生ぃ」
「なら、ぼくが六枚で利久が四枚」

「託生はあと八百円あるじゃないか。それだけあれば三日はイケルよ。だから、お願いします!
託生が四枚、俺が六枚! 託生は俺が餓死してもいいのか? 俺、運動部なんだぜ。
ちゃんと栄養とらないとぶっ倒れちゃうよ」
「あのねえ、利久。もとはといえば、こうなったのも自業自得……」

「何度もそう言わんと、お願いします! 託生サマ、この通りっ!」

 そんなふうに粘りに粘られ拝み倒されて、結局、ぼくは六枚の食券を利久に渡す羽目になってしまった。

「来週、必ず返すから! 利子分で食券一枚つけてやるからなっ」

 ぼくとの交渉が功をなすと、残り一日の昼代を求めて逃げるように二七○号室を去って行く利久。

──そんな調子のいいことばっかり言ってるからビンボーになっちゃうんだぞ。

 小さくなってゆくその背中に老舗の蒲鉾屋の将来が見えた気がして、少しの不安を覚えながら、
「まったく。お陰でこの一週間、ジュースも珈琲も飲めないじゃないか」
手許に残った食券四枚と現金八百二十円をぎゅっと握り締めたぼくだった──のだが。

 ちょうどそこに、同室の三洲新によると「カラダだけの付き合い」の関係にある真行寺兼満がやって来て、
「あれ? 三洲くんだったらまだ帰ってないよ?」
「知ってます、さっき下で会いましたもん」
これ返しておいてください、と雑誌をすっと差し出してきた。

 これまでにも何度か真行寺は三洲を訪れる口実にこうして雑誌を持って来たことがあった。

 その貴重な名目になる雑誌をこうも簡単に返しに来るところがいつもの真行寺らしくなくて、
「何かあったの?」と何気なく訊いてみたところ、
「ああ、葉山サンてば心配してくれるんスねえ。やっぱり優しいなあ」
いつでもこの胸の中にドンと来てください、葉山サンなら喜んでぎゅっと抱き締めちゃいます、と相変わらずの調子よさで真行寺が大きく手を広げてみせた。

 ぼくがマイペースを崩さずに、
「冗談はさておき、いったい何事?」
近寄るわけでもなくあとずさるわけでもなく、ドアを腕で押さえたままじっと動かないでいると、
「ノリが悪いすぎッス、葉山サン」
真行寺は大げさにガクリと頭を下げ、ここは抱擁するべき場面でしょ、とブツブツ愚痴っては形のいい唇をすぼめた。

「あいにくぼくは生粋の日本人なもんで。軽々しくそういうことするのってすごく抵抗あるんだよ」

 真行寺のペースになどハマってたまるか、と内心、心を強く持とうと意気込んだその時。

「あ、いけね。悠長に葉山サンと楽しい語らいをしている場合じゃないんだった」

 ハッと何かを思い出したように真行寺が少し慌てた。

「実はこれからちょっと用事あって。だから、今回は約束してた返却を単に済ませに来ただけなんです。
それに雑誌ならもう一冊、まだ部屋にあるし。
へへへ、そっちは今度またゆっくりアラタさんがいる時にでも持って来ようかな、と。
あ、それでですね。この雑誌なんですが、急ぎで返さなきゃまずいんで葉山サンに頼んでいいスか?
アラタさんに懸賞に応募するから早く返すようにって言われちゃってて。
それじゃ、俺、これからコレがあるんで」

 そう言って、左手に持っていた紙袋を高々と上げる。

「コレ……って何?」
「ああ、剣道部に代々引き継がれるすごろくッス。意外とこいつ面白いんですよ。
やり出すと結構燃えちゃったりして。
あ、葉山サンのその顔、すごろくごときに何言ってって思ってるでしょ?
みんなね、最初はそう言いながらも意外とマジになっちゃったりするんだよなーこれが」

 なんたって世界にひとつしかないレアモノだからね、と紙袋から折りたたんだ模造紙をちらりと見せては、
「実はこれからコイツで駒沢のヤツを救済してやろうかと考えてるんだ」
などと秘密の計画を明かすように幾分声を潜ませた。

「ああ。たしか、駒沢くんは真行寺くんと同じ剣道部だったっけ」

 いかにも猛者らしいの迫力ある外見に反して繊細な心を抱く現二年生の駒沢瑛二は、去年は一年でありながら一学年上の野沢政貴と同室だった。
今年の春の部屋割りでもふたりは隣り同士で、ぼくからすれば羨ましい話なのだが。
彼と同級の真行寺から見れば、二階の階段長である野沢政貴にいいように振り回されている気の毒なヤツ、になるらしい。

「駒沢ってイベント好きって言うか、ロマンを求めるっつーか。
バレンタインとかそういうの大切にするほうじゃないッスかぁ。でも、野沢先輩はこれまた全然反対みたいで。
『あ、そう言えばそんなのもあったね』って笑顔でばっさり切り捨てるタイプのようなんですよねえ。
ま、男なら細かいことなんか気にするな、これからガンバレばいいじゃんかって、俺としてはね、駒沢に言いたいとこなんですけど。
どうやら野沢先輩のニブイのって日常茶飯事らしくてねえ。
どうも駒沢をどれだけ振り回しているか全然気付てないみたいなんスよ。
だから駒沢がすっげー不憫で、もう気の毒っつーか、恋する鏡っつーか。
あ、自分でも何を言ってるんだかわからなくなってきたぁ。
例えばです。デートの前日〜!
駒沢の場合、部活が終った途端、一目散に部屋にこもってデートコースの予習に余念がなくて、付き合いが悪くなるからもうバレバレなんス。
そんな時に駒沢の部屋に行った日にゃ、そりゃあもうすごいのなんのって。
洋服をひっかえとっかえでまるでファッションショー!
あの図体デカイのがそわそわ落ち着きがなくなるわで、ありゃあもう熊の発情期って感じ?」

 野沢政貴と駒沢瑛二。ふたりの姿を思い浮かべてみると……。
たしかに、美女と野獣のイメージが即座に浮かんだ。

 あの二階ゼロ番の階段長の優しげな面立ちにはロマンチックな雰囲気がとても似合う。
だが、野沢政貴の中身を知る者なら誰ひとり彼にそんなものなど期待しないだろう。
彼の本質は、大柄な迫力あるあの外見からは想像困難な駒沢瑛二の絹糸のような繊細さとはまさに両極端。
思わず、「その顔でそれは反則だろう」と叫びたくなるほどのワイヤー並にず太い神経を持つ政貴だった。

「何かさ……、あのふたりってまるで割れ鍋に綴(と)じ蓋……?」
「うう〜。葉山サン。まさにそれ、言い得て妙!
……とはいえねえ、それも第三者の立場だからこんなふうに気楽に言えるわけで、当事者の駒沢にしてみれば野沢先輩の一挙一動にアタフタものなんだわ。
仮にも相手は階段長を務めるほどのツワモノじゃん。それでなくても、駒沢はあの性格だしさ。
さすがに駒沢ひとりじゃ難儀するって。
だから、ここはひとつ同じ剣道部のよしみで俺が一肌脱いでやろうかと思っちゃったりするわけで。
いい加減、駒沢にもいい夢見さえてやりたくなるってもんよ、ってさ」

 いやあ、俺って優しいなあ、アラタさんも惚れ直してくれるかも?と照れ笑いしつつ、真行寺はガシガシと頭を掻いた。

 そうして。

「これぞ男の友情ってヤツですよね!」

 両の拳に力をこめて同意を求めてくる。

「男の友情、ねえ」
「そうそう。男同士ならではの美しくも熱き友情ッス」

 言ってることは確かにご立派。
が、しかし、真行寺の場合、結局は熱き友情よりも三洲を意識した点数稼ぎが目的な部分もちゃっかりあるから、この件に関しては気軽に頷いてはいけないような気になった。

 それにやっぱりと言うべきか、真行寺の真意は更にほかにもあったのだ。

「ここだけの話だけど、食券を賭けてるんです。あ、でも、そんな大げさなモンじゃないッスよ。
一勝負につきひとり一枚の食券を出し合って一番アガリが総取りだから三人でやっても動く食券はせいぜい三枚!
ほら、かわいいモンでしょ?」

 本来、ぼくは賭け事はしない。
負けるのはシャクだし、勝ったところで恨めしく見られるのも嫌だからだ。

 その賭け事嫌いなぼくが、この際すごろくもたまにはいいかも、と珍しく思ってしまったのは、その優勝者への賞品が目下ぼくがもっともほしいシナモノだったからかもしれない。

「コレの面白いところは、指名カードと指令カードを自由に変えられるとこなんスよ。
あ、でも、野沢先輩にも剣道部ご用達ってことで誘ってるから、今回は部で使ってる指令カードをそのまま使うつもりなんですけど。
でもさすがに指名カードのほうは剣道部員用のじゃ使えないから、ちょっとだけ細工させてもらいますけどね……」

 あくまで賭け事が主体というより駒沢瑛二と野沢政貴のスキンシップを高めるのが目的なのだと力説されてしまうと、余計やってもいいかな、にこれまた気持ちが傾いた。

「無体な指令はパスすればいいし。ただし、パスしたら棄権になっちゃうけど」

──無理難題を強要するようなことはなさそうだもんね。

 ただし負けた場合、食券が一枚減るのは今のぼくのお財布事情としてはとてもキビシイ。

 けど、うまくすれば三枚増えるとなれば、ここは男として勝負するところだろう。

──あ、いや、勝負じゃない。救済活動に協力、だった。

「うわっ、もしかしなくても俺ってば急いでるんだったっ! こうしちゃいらんない。
ホント葉山サン相手だと離れがたくなっちゃうから困るよ。それじゃあいい加減俺、行きますねっ。
葉山サン、雑誌の件どうぞよろしく〜っ!」

 そうして先を急ごうと、くるりと背を向けた真行寺だったが。

「あのさ、ぼくもやっちゃ駄目かな?」

 突然のぼくの申し出にギョッと驚いて瞬時に振り返った。

「え、葉山サン? まじッスか? 度胸も要りますが、コレ、体力もそうとう要りますよ?」

 ぼくの参加がことのほか意外だったのか、真行寺が慌てたように早口で、運動部手作りのすごろくだけあって、「校庭一周」などと書かれた体力増強目的のマス目もあるのだと現実的な説明をしだす。

「ヤバイ系もあるし。まあ、みんな冗談でやってる程度のだけど……」
「だって、万が一の場合は棄権できるんだろ? なら、全然問題ないよ」

「ま、そりゃそうッスけどねえ……。大丈夫かなあ。俺、まだギイ先輩には殺されたくないですぅ」

 ぼくとギイとは何の関係もない、と口を酸っぱく言ったところで、どうせ真行寺の耳には馬耳東風なのはわかっていた。

 だから、ぼくもあえて冗談めかして、
「その折には祠堂の片隅にでもきみの骨を埋めてあげるよ」
ここは笑って軽く受け流しておく。

 そうして、ぼくは真行寺と一緒に二階ゼロ番を訪問することになった。

 祠堂学院高等学校剣道部ご用達「世界にひとつしかない手作りすごろく」による駒沢瑛二救済活動の幕が、今まさに開かれようとしていた。





 ひとりにつき三枚用意する指名カードには、冗談の通じそうな相手ならば誰の名前を書いてもいいことになっている。

 駒沢瑛二救済活動の一環として真行寺の提案により、あらかじめ政貴にナイショでぼくと真行寺と駒沢の指名カードには、「駒沢瑛二」と「野沢政貴」のふたりの名前をそれぞれ必ず入れておいた。

 このナイショの協定により、指名カード全十二枚中にふたりの名前が各三枚ずつ入るため、瑛二と政貴が選ばれる確率は二分の一と高くなる。

 こうして、ふたりが絡む機会をできるだけ多く用意して、日頃のコミュニケーション不足をこの際改善していただこう、というのが、この救済活動の全容だった。

 ちなみに、ぼくは残り一枚の白紙の指名カードに「片倉利久」と書いた。

 今回、このすごろくに参加することになったのも、すべて利久が原因だ。
それとこれも利久が無駄遣いや前借りさえしなければ、ぼくは食券欲しさに二階ゼロ番にやって来なかっただろうし。

──とはいえ、コレはあくまで救済活動! だけど、利久にも少しは責任を背負ってもらわないと!

「じゃあ、指名カードがみんな揃ったところで始めるとするよ」

 じゃんけんでサイコロを振る順番を決める。結果、ぼく、真行寺、瑛二、政貴の順番となった。

 ルールは簡単だ。
サイコロを振ってそれぞれのコマを進めて、すごろくの目に書かれた「指令」を遂行するだけだ。
早く「あがり」まで進めば勝ち。
誰もが知っているすごろくのルールとそれほど変わらない単純なものだった。

 とはいえ、ルール自体が単純でも指令によっては単純とは言い切れなくなる。

 マス目には指令が書いてあるマスと空白のマス、そしてドクロマークの三種がある。
特にドクロマークにコマが止まった場合は要注意だ。
コマの主は指名カードと指令カードを一枚ずつ引き、その非道な指令を実行しなければならないのだから。

 ぼくの第一投目。サイコロを転がすと三が出た。

 コマを進めると、
「え? 腹筋三十回?」
さすがに運動部、基礎体力作りに余念がない。

 ぼくが二階ゼロ番の部屋の片隅で腹筋に勤しんでいる横で、
「じゃ、今度は俺ね」
次の番の真行寺がサイコロを振った。

 真行寺が止まったマスには……。

「えっと……六っと。何なに……あン? 『英語のセンセに英語で挨拶』?
しゃあない、じゃ行ってきますっ」

 このすごろくはプレイヤーの移動が激しいのが特徴らしく、その後も「校庭一周してくる」とか、「野球部で玉拾いをしてくる」とか、「素振り三十回」とか。
マス目にはいろんな指令が書かれていた。

 サイコロを振る順番になっても指令遂行中で不在の場合、順番が流れてしまうのもこのすごろくならではのルールだろう。

 瑛二、政貴、ぼくと順番が回っても、真行寺がまだ英語のセンセのところに行ったきり帰ってこなかったため、慈悲もなく彼の順番は抜かされてしまった。

 そうこうしているうちに、
「参った参った。英語のセンセったら職員室にも英語準備室にもいなくて探しちゃったよ」
真行寺が帰ってきて、その時サイコロを振っていた瑛二が、本日初めてドクロマークに止まった。

「指名カードと指令カード、はい、一枚ずつ引いて」

 指名カードは指令を行う対象者を決めるカードである。

 瑛二が引いた指名カードは「野沢政貴」。

「やった!」と真行寺が隠れて親指を立てて歓喜したが、指令カードのほうに「握手」が出ると、
「チッ、そうくるか」
最初はこんなものさ、と今後の展開に期待して頷いた。

 その当の駒沢瑛二は野沢政貴の手を握り締める前から躊躇していて、
「はい、どうぞ」
政貴から手を差し出されてやっと握る始末だった。

 それもリンゴのように真っ赤な顔で握手をしているのだから彼の純情はホンモノである。

「この先、思いやられるわ」

 そんなふうに突き放すような言い方をわざとして、ちょっとだけ呆れながらも、着々と進んでいる救済活動の運び具合に真行寺は満足そうに微笑んでいた。

 そうして、腕立て伏せ三十回、腹筋三十回、三回まわって「ワン」と吠える、逆立ち三十秒、校門を触ってくる……などなど。
マス目に書かれた指令を四人とも順調にこなしていきながら、ドクロマークのほうもそれなりに努力しつつ、全員が無事すべての「指令」をクリアしていった。

 ちなみにドクロマークの指令カードを実行する場合は基本的にはその他のメンバーも一緒について行き、見学することになっている。

 なんと、ぼくは今のところまだドクロマークに止まったことがなく助かっているが、すでに真行寺の場合は二度、「野沢政貴」と「握手」、「駒沢瑛二」に「キスマーク」を経験済みだった。

 さすがにゲームだけあって、それとも剣道部ご用達だけあって慣れている(?)のか、キスマークをつける時など、あの純情可憐(あくまで中身)の瑛二が素直に腕を差し出して、真行寺が手首を吸うのを抗うわけでもなく、じっと我慢しているのが意外だった。

 政貴相手に握手をするのにリンゴのように真っ赤になった彼ならば、もっと照れるとか、嫌がるとか、そういう純な反応を見せてくれるものだとばかりぼくは思っていたのだった。

──もしかして、勝手にイメージを作りすぎていた? 彼に悪かったかなあ。

 ところが、期待を裏切らないのがやっぱり駒沢瑛二だった。

「へえ、結構綺麗につくもんだねえ」

 相思相愛の仲である野沢政貴からそんなお褒めの言葉を頂いた瞬間だけはさすがに彼も眉を潜めつつも目尻を赤く染めたので、やっぱりこうでなくっちゃね、とぼくもついほくそ笑んでしまった。

 その瑛二も次の順番でドクロマークに止まって、「野沢政貴」に「キスマーク」を引き当てた。

「おお、やったじゃん!」

 拍手を贈る真行寺を瑛二が困ったように睨み返す。

 それでもこんなチャンスは滅多にないとでも言いたげに、
「し、失礼しますっ」
ガチガチになりながら、野沢政貴の手首に唇を寄せた。

 手首をいう場所ですら興奮冷めやらずの真っ赤な顔をしている瑛二なのに、
「あれ、そこでいいの? こっちでもよかったのに」
襟元を引っ張って首筋を晒す野沢政貴の発言には、かわいそうなくらいおたおた慌てふためいて、
「野沢先輩って時々悪魔に見えますよね?」
真行寺が小声でそう言ってきたのには、ぼくも思わず強く頷いてしまった。

 二階ゼロ番から脱出して指令を遂行する機会も多々あった。

 そして、その内容もさまざまで。

「ええ〜! アラタさんとこに行くんですかっ! マジ?」

 野沢政貴という人間はすごくドクロマークに愛されているらしい。

「三洲新」の「おしりを触る」には真行寺が慌てに慌てて、
「絶対殺されますぅ。止めておいたほうがいいですって!」
本気で引き止めたのだが、当の野沢政貴は「平気平気」と笑顔で部屋を出ると、
「あ、三洲くん」
ロビーでターゲットである三洲新をさっそく捕まえて、
「危ないよ、ほら、棘がついてる。とってあげるからじっとしてて」
これまた笑顔で高嶺の花で知られる生徒会長の臀部にやすやすと触れていた。

「痛くなかった? 刺さる前でよかったね」

 指令完了後のフォローも完璧。
ありがとう、とあの三洲に言わしめる手腕はさすがと言えた。

「矢倉柾木」に「『ス』『キ』『ヤ』を言わせる」のもお手のものだった。

「牛肉だったら、すき焼きとしゃぶしゃぶどっちが好き?」

 何気なく訊いて、「スキヤき」をゲットしていた。

「実は『素焼き』とか『やすきよ』とかも考えてたんだけど」

 これを考えたのは関西人かい、と突っ込みを入れたくなるほどのこの三文字の言葉も、お調子者の一階階段長の口から難なくするりと引き出して、笑ってクリアし続ける政貴だった。

 コマが進み終局に近付くと、瑛二が「吉沢道雄」と「握手」を引いた。

「握手、お願いします」

 四階のゼロ番に行って、単刀直入に握手を求める瑛二を遠目に見ながら、真行寺がぽつりと呟く。

「あのぉ、つかぬこと訊きますけど。葉山サンって残り一枚の指名カード、誰にしました?」
「ああ、利久だよ。無難なところで」

 ぼくは先程止まったドクロマークで、「片倉利久」の「ほっぺを引っ張る」を引き当てていた。

「託生ィ、積年の恨みでも晴らすつもりかよぉ」

 涙目でぼくを見た利久の両頬がとても赤い。
ぼくが思いっきり左右に引っ張ると、利久の頬はゴムのようにビヨーンと伸びた。
それを見た時、人間の皮はここまで伸びるのかと新たな発見の驚きさえあった。

「真行寺くんはもしかして三洲くんの名前を書いたの?」
「当然ッス。駒沢ばかり救済されるのはズルイし、できれば一石二鳥を狙いたかったし」

 だが、「三洲新」の指名カードはすでに政貴が引き当ててしまっている。

 このすごろくのルールでは、指名カードは一度引いたら取り除き、次はその残りのカードから引くことになっている。
一方、指令カードは引いた先から再び戻してカードを切りなおしている。

 ちなみに指名カードがなくなったら、もう一度全指名カードを切りなおして用意する。

 もともとこの手作りすごろくは剣道部の仲間うちで遊ぶすごろくである。
指名される部員の平等化を計るため、ルール決めの際、結局この方法に落ち着いたらしい。

「じゃあさ、矢倉先輩とか吉沢先輩とかの名前を書いたのは野沢先輩か駒沢ってこと?
あ、でも、あの駒沢が階段長をわざわざ指名するわけないから……」

 消去法から察するにそれらの名前はすべて政貴が書き込んだことになる。

「葉山サン。もしかしてッスよ?
まさか野沢先輩って自分以外の階段長の名前を全員書いちゃったり……なぁんてこと、まさかしてないですよねえ?」

 階段長は総勢四人。
そのうち一階の「矢倉柾木」、四階の「吉沢道雄」はすでに指名済みだった。
二階の野沢政貴はプレイヤーだから論外。

「残りひとりって……」

 案の定、次にドクロマークに止まった真行寺がまさかの「崎義一」を引き当てた。

 問題の指令カードのほうは「ほっぺを引っ張る」。

「ガガーン、嘘でしょう? 誰か嘘だと言ってくれぇ〜」

 そして、唸り続けて悩みに悩んだあと、項垂れた真行寺が結局選んだのは棄権だった。

「そんな大それたことできっこないじゃん、俺には荷が重すぎだって!」

 棄権を承知でプレイヤーが指令をパスすると、自動的に次のプレイヤーがその指令を実行しなければならなくなるのがこのすごろくの特別ルールらしい。

 つまり、この手作りすごろくは、早く「あがり」に到着して勝ち抜くゲームなのではなく、棄権者を多数出して、誰が最後に生き残るかを競うゲームなのだった。

 順番では、真行寺の次は瑛二である。

 みんなの視線が瑛二に集まった途端、彼はぶるんぶるんと首を振って、
「身の程をわきまえるっとことも生き残るのに必要なことだ」
早々に棄権の意を表明した。

「じゃ、次は野沢先輩?」

 真行寺と瑛二の不安げな表情が野沢政貴の性格を見事に掴んでいると言っていいだろう。

「はい。では行ってきます」

 この場合、「行くのはやっぱり三階ゼロ番ですか?」などと確認するのも怖い、と呟きながら、真行寺は、はあ、と溜息をついて、駒沢瑛二の肩をぽんと叩いた。

「覚悟しとけよ?」

 何の覚悟がいるのかがわからないまま、ぼくも三人のあとについていく。

──ぼくだけじゃないんだし。これは罰ゲームみたいなもんなんだから。

 そんな言い訳を思い浮かべながら、成り行きとはいえギイのところに堂々と行けるのが嬉しくて、つい頬がゆるんでしまうぼくだったのだが……。
足取り軽く三階ゼロ番に向かっているのはどうやらぼくと野沢政貴だけのようで、前をゆく二年生ふたりは疲れきったように背中を丸めて床をずっと睨んでいる。

 そのうち、真行寺が歩く速度を落として、すっとぼくの隣りに並んだと同時に、
「葉山サン、野沢先輩を止めたほうがいいんじゃ……」
そんなことを悲愴な面持ちで言ってくるものだから、「そんな大げさな」と思わず慰め言葉のひとつでもかけたくなってしまった。

「だって野沢くんはやる気満々みたいだよ?」
「そうは言っても相手が悪すぎますって!」

「悪すぎって……。ギイはマフィアのドンじゃないんだから」

 四人してぞろぞろと三階ゼロ番を訪れたのだったが、あの忙しいギイのことである。
今日も今日とてひとりのんびりと、じっと部屋にこもっているような暇など到底ないのだろう。

「留守みたいだね」
「じゃ、コレは無効ってことにしましょうよ」
「いや、談話室とかも覗いてみよう」

 野沢政貴のド根性ぶりにがくりと肩を落とした真行寺が、
「このままギイ先輩が見つからないことを祈るだけですぅ」
情けない声でぼくに縋ってきたので、
「ギイも忙しそうだもんね。そう簡単には見つからないかも?」
一応、希望を繋いでおいたのだが。

 談話室のあとに訪れた学生ホールに相変わらず一年に囲まれたギイの長身を見つけた真行寺は、
「ああ、万事休す〜」
情けない声を出しながら額に手を当てて天を仰いだ。

 真行寺も瑛二もギイのところには近付けずにいた。

 ぼくも彼らと同様、学生ホールの入り口から奥に進めずにいたのだが、ぼくの場合、相手がギイだから、ではなく、ギイを取り囲むねっとりした視線に足がすくんでしまった、とでも言うべきか。

 だが、当の政貴はすたすたと歩いて行って、あっという間にギイとの距離を縮めると、
「やあ、ギイ。こんなところにいたんだ。探したよ。
あのさ、モノは相談なんだけど。
キーンって固まったようなその顔も綺麗だけど、たまには表情豊かにしなきゃお肌によくないと思うよ?
ほら、笑うと健康にいいって言うじゃない。
ストレスから病気になるのと反対に、こうして顔の筋肉をよーくほぐせばいつだって健康でいられるから」
せいぜい長生きして幸せを満喫してね、とにこにこと笑いながら、野沢政貴はギイの頬を横に伸ばしたり上下に動かしたりして、丁寧にマッサージをし続けた。

 呆気にとられたのはすごろくメンバーのぼくら三人だけではなかった。
ギイを取り囲んでいた一年生たちも、天下のFグループの御曹司に何てことするんだとまん丸に目を見開いて、驚きの表情のまま、カチーンと彫刻のように固まっている。

「政貴、おまえなあ」

 溜息と一緒に漏れたギイの声は、いかにも呆れたと言わんばかり響きを含んでいた。
が、それに反して、ギイの口元はおかしくてたまらないとばかりに緩んでいる。

「まったく、おまえには参るよ」

 ギイがそう言って苦笑したその瞬間、一年生たちは自分たちの目の前にいるのはまさしく二階の階段長その人と再認識したようで、階段長の座に就任するような人間とはこういうものかとその度胸に感服している様子だった。

「じゃあ、ギイ、あとでね」

 気安くギイに声を掛けることを許された存在に、周囲のざわめきが大きくなる。

 こちらに近付きながら政貴が一年生たちに見えないように胸元で小さく、「楽勝!」のVサインを作った。
羨望と嫉妬と尊敬が入り混じった多くの視線が自分の背に向けられていることなど、この二階ゼロ番の主は当然知っているのだろう。

 政貴の背を追う視線の余波がぼくらのほうまでビシバシ突き刺ってくるのがどうにもいたたまれない。

「何だか複雑な気分……」

 ぼくがぽつりと零した途端、その台詞をまるでしっかり聞きとめたかのように、こちらを遠目に見ていたギイがクスリと忍び笑った。

「葉山サン、そろそろ続きしましょうか……。敵はなかなか手強いですぅ」

 そうして、ぼくらは二階のゼロ番に戻ってすごろくを再開した。

 すでにプレイヤーはぼくと野沢政貴のふたりだけ。

 最終局面でサイコロを転がすと、まずいことにドクロマークに止まってしまった。

 野沢政貴は予想以上に手強い相手だった。
どんな指令でもここまで難なくクリアしてきた彼だ。きっとこのまま最後まで棄権することなくゴールを目指せるに違いない。

 ぼくにだって、とにかく難題にぶつからなければ勝率はあるのだ。
基本的にこれはすごろくなのだから、サイコロを転がしてコマを進めてゆけばいつかはあがる。

 そんなことを思っていた矢先のドクロマーク。それも指令カードは「キスマーク」。

「うわっ。ちょっとコレ、やばくないッスか?」

 指名カードは残る一枚。
野沢政貴は階段長三人の名を書いた。
ぼくと真行寺と瑛二は、政貴と瑛二のふたりの名に加えて、「三洲新」と「片倉利久」を付け足している。

──つまり、最後の一枚は駒沢瑛二が書いたものってことだよね。

 彼が書く名が想像できない。

──まさか、ギイじゃないと思うけど。

 そんなことを考えながら最後の指名カードを「えいっ!」と裏返すと、
「え? ぼく?」
そこには「葉山託生」と書かれてあった。

 ぼくがぼくにキスマークをつける。
そんなのは簡単だった。自分の腕に吸い付くなど楽勝だ。

「それこそ、ギイがここにいたらよかったのにね」

 野沢政貴が楽しそうに笑みを浮かべて、「惜しかったねえ」とそんなオソロシイコトを言ってくださるから、この階段長には到底叶わないとつくづく思う。

──こんな危ないゲーム、とんでもないよ。
ギイの参加を許したら、それこそ何をされるかわかったもんじゃない!

「ギイ」の名に過敏に反応したのは真行寺も然りだった。
彼は、突然、水戸黄門の印籠を目の前に突きつけられたかのごとく身体をビクつかせ、それから恐る恐る視線を投げた。

 ちらちらと向けたその視線の先には、祠堂一のサラブレッドにも臆さない二階ゼロ番の階段長の和やかな笑顔がある。

「誰もがあのギイ先輩のほっぺを引っ張れるわけじゃないっスよねえ。
もしかして、祠堂の影の実力者がいるとしたら、実はこの人だったりして?」
 
 言葉にしてみて初めて確信を得ることもある。

 まさに真行寺がそれだったようで、途端にうるうると目を潤すと、ありったけの同情を詰め込んだ眼差しで剣道部の猛者の困惑顔を見つめ、
「くぅ、これはもう他人事じゃない……。マジに身に染みるぜ。とにかく、これからもお互い頑張ろうな」
などとわけのわからないことを口走りつつ、「同志よ〜」とひしっと駒沢瑛二の首に抱きついたのだった。

 それからしばらくの間、ぼくと政貴とでサイコロを転がし合って、すごろくゲームは無事、幕を閉じた。

「よくわからないけど。ぼくたち、ちゃんと駒沢くんを救済できたのかな?」
「うーん、俺もよくわかりませんが、確実にはっきりしたコトもあったわけですから、コレはコレでいいんじゃないッスか?」





 それからぼくと真行寺は二階のゼロ番を早々に退室した。

 ふたり部屋が原則の学生寮において、階段長の部屋が個室というのは、
「何ていうか、うまくできすぎ?」
ふたりっきりの二階ゼロ番を振り返りながら、ふとそんな摩訶不思議な感覚にさいなまれる。

 それをより強く感じたのは、三階ゼロ番にお邪魔した時だった。

 真行寺と別れたあと、ぼくは偶然にも廊下でギイに出くわした。

「託生、おまえ副級長だったよな? 級長の蓑巌を探していたんだけど。ま、いいか。
おまえからあとで蓑巌に伝えておいてくれないか?」

 長い話になりそうだから、とわざと大きな声でギイが言って、公明な理由のもと、まさに引き摺られるようにして、ぼくは三階ゼロ番に連れ込まれたのだった。

「どうした、託生? キョロキョロして」
「ギイもさ、ここって個室だよね?」

 やっぱり便利すぎだと思う。

「何、当たり前なこと言ってんだ、今更だろう。それより、さっきのアレ、どういうことだ?
それにおまえ……その腕のキスマーク。ちゃんと説明してくれるよな?」
「ああ、あれはすごろくの罰ゲームっていうか、これも似たようなもんっていうか」

 ギイのところにやってきたぼくは、まずギイに腕のキスマークを問いただされ、すごろくの件を逐一話す羽目に陥った。

 すると、ぼくが賭け事をすること自体からして何やらオカシイと当然のようにギイは訝しんで、結局、コトの原因となった利久へ渡した食券のことからぼくの現在の財政問題まで、こと細かく監査が入ってしまったのだった。

 昼食代くらい出してやる、何でオレを頼らなかったんだ、と責めてくるギイに、
「そういうことでギイを当てにするのは嫌なんだよ。いかにも恵んでもらうみたいじゃないか」
ぼくは断固として抗った。

「受け取るのが気に食わないのなら、一時的に借りればいい話だろう?」
「それでも、ギイとの間にお金が絡むのは嫌なんだよ」

「あとで返してくれればいいんだ」
「そういう問題じゃないんだよ、ギイ」

 ストラディバリウスの件は仕方がないとして、恋愛に金銭問題は極力絡めたくないのだと、ぼくははっきりと言い放った。

「相手がギイだから、じゃないんだ。でもギイ相手だから余計そう思うのかもしれないけどね。
もしそういうことをずるずるしてしまうと、ぼくもだけど、ギイだっていずれ不安になっちゃうような気がするんだよ。
だから、一方的に負ぶさるのは嫌なんだ。さ、この話はこれでおしまい。それでいいよね」

 ぼくの剣幕にしぶしぶと引き下がったギイだったが、まだ完全には納得していないのだろう。

 だが、すごろくの勝負の行方に話が戻り、
「託生と政貴の一騎打ちになったとこまではわかった。それで結局、どっちが勝ったんだ?」
「それがさ。何とぼく、なんだよね」
結果、ぼくが所持する食券が七枚になったと知ると、途端にギイはホッと安心したような表情を浮かべた。

「へえ、あいつが負けたのか」
「安心した?」

 意地悪く訊きながら、くすり、とお互い見詰め合って笑い合う。

 こうしてぼくのことが一段落すると、
「やっぱりギイもぼくが勝ったのは意外だった?」
話の矛先は自然と、野沢政貴のまさかの敗北に移った。

「ギイもってことはほかにも誰かがそう言ってたのか?」
「うん、真行寺くんが言ってたんだ。でも多分、駒沢くんもそう思っていたんじゃないかなあ。
口には出さなかったけど」

 ぼくだって、まさかぼくが勝つとは思わなかったのだ。

「託生のほうが早くあがったってことか?」
「ううん。それがさ、野沢くん、棄権して負けたんだよ」

 あの時、すごろくゲームは最終局面を向かえ、一度すべて使い切ってしまった指名カードは再び全部切りなおされ、十二枚の山となって置かれていた。
十二枚の中に三枚ずつ「野沢政貴」と「駒沢瑛二」が入っているから、「駒沢瑛二」が出るのは四分の一の確率だった。

 その新たに積みあがる指名カードの中、政貴がドクロマークに止まって引いたカードは「駒沢瑛二」。
それなりに出やすい確率であることは疑う余地がなかったので、やっぱり出たかとぼくは思った。

 そして、それまで無理難題すら難なくクリアしていた野沢政貴が、ぼくならささいな指令で終らす指令カードを引いた途端──。
彼は呆気なく棄権をしたのだ。

「駒沢が相手ならどんな指令が来てもクリアできそうだけどなあ」
「ギイもやっぱりそう思う?」

「まあな。で? いったい、どんな指令が出たんだ?」
「それがさ、簡単なんだよ。ただの『後頭部をはたく』なんだよね」

 軽くはたくくらいなら、ボケとツッコミじゃないが、誰だってノリでしそうなものなのに、政貴は、駒沢瑛二の頭をはたくなんてとんでもないと断固として断わったのだった。

「へえ、野沢のやつ、駒沢を大事にしてんだな。それに比べて、託生くん。思いっきりオレの頭をはたくし」
「失礼なっ! そういう言い方っていかにもぼくがギイを大事にしてないように聞こえるじゃないか」

「ま、オレの頭を痛い目に合わす人間っていったら託生くらいだもんな。
やっぱりひとりくらいそういうのを平気でやってくれる存在がいないと人生楽しくないだろう?」
「ぼくひとりってことはないと思うけどなあ。だってほら、やっぱりほかにもちゃんといるじゃない。
例えば、赤池くんとか」

「ああ、章三か。あいつの場合ははたくんじゃなくて小突くだよな」
「そっか」

「それに、あいつはいざとなったら頭より鳩尾(みぞおち)を狙ってくる。
それこそ慈悲のカケラもなく容赦なしでさ」
「なるほど。でも、ギイ、よかったじゃないか。
ってことは、少なくてもぼくと赤池くんのふたりには愛されてるわけだし」

「ん? どうしてそうなる?」
「赤池くんが本気でギイの頭を叩けるのは、そうすればギイは悟ってくれるって信じてるからだろ?
ぼくはぼくでギイがもし道を外れてもパシッってはたき倒してさ、こっちは駄目あっち行ってって、きっちり軌道修正してあげられるってことじゃないか。
だから、ギイがもし将来オエライ社長さんになってオカシイ方向に進んじゃいそうになっても、ぼくらはいつだってギイをはたいて正してあげるから。
せいぜい大船に乗って安心しててよ」

 だってちゃんと愛があるからね、と照れながらぼくが言うと、
「ふうん。オレ、託生にはたかれちゃうのか」
ギイが目を細めて木漏れ日の光のような穏やかな優しい微笑みを浮かべた。

「なあ、今度はオレとすごろくしようか」
「赤池くんとか、みんな誘って?」

「それもいいけど。とりあえずはふたりだけで。今度、オレが作っとくからさ。
ハートマークで埋め尽くしたオレたち専用の愛のすごろくを。そしたらはたくのもキスもし放題。
な? 楽しそうだろ?」
「げっ! そんなオソロシイすごろく、冗談じゃないっ! ギイ、絶対作らなくていいからね!」

「いいじゃないか、今度はオレに付き合えよ。『ギイくん救済活動』にさ」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑って、ギイが「いいじゃんか、託生。ギイくん、心からのお願い」などと甘えてくる。

 とろけるようなこんな笑みを浮かべる男を捕まえて、いったい誰があの氷の美貌で知られた三階ゼロ番の崎義一だと思うだろう。

「悪いけど。ぼく、先約あるんだよ」

 ちょっとでもぼくが自分以外の人間に気をとられた途端、
「誰とだよ」
拗ねた子供のようにムッと唇を突き出すギイ。

「野沢くんだよ。今度は野沢政貴救済活動をやる予定なんだ。
だから、それでよければギイも誘ってあげるよ」

 ぼくだけにしか見せない恋人の素の表情を見つけて、楽しさと嬉しさが胸の奥底で入り混じる。

「このオレが先を越されるとはなあ」
「ギイってそんなにすごろく好きだったっけ?」

「だって託生が一緒なんだろ? それなら何をするにも楽しいに決まってる」

 そんなことを恥ずかしげもなく言わないでほしい。

 だけど、一緒の時間をできるだけ多く過ごしたいのはぼくも同じ気持ちだから。

「ギイ、そんなにぼくとすごろくやりたい?」

 手を握るのさえ躊躇するほどの恥ずかしがり屋の恋人を持つ野沢政貴を救済するために、今度はギイも巻き込んで手作りすごろくを楽しんでみようか。

「やりたい」

 そんなふうにはっきりと意思表示したギイがきれいなウインクを決めて、
「どうせやるなら徹底的に根性入れてやろうな」
策士の顔を具間(かいま)見せるから、ぼくのドキドキが止まらなくなる。

──根性、ねえ。すごくコワイすごろくになりそう……。

 だけど、想いが溢れすぎて気持ちに行動が追いつかないあの駒沢瑛二とっては、もしかしたらいい機会になるかもしれない。
何しろ、お手本になりそうなギイがこうもヤル気満々なのだ。

──駒沢くん……。照れ死にしなきゃいいけど。

 だから、その時だけはちょっとだけナイショの関係はお休みしよう。

「なあ、託生。
どうせなら、やっぱり野沢政貴救済活動をする前にギイくん救済活動で予行練習しとかないか?」
「絶対やらない。ルールに慣れてないのはギイだけでしょ? ぼくはこれでも一応経験者なの。
やるならギイひとりで勝手にどうぞ」

 野沢政貴と駒沢瑛二のあのふたりなら、ぼくらが一緒に参加してもきっと大丈夫だろうから。

「おまえ、野沢に付き合えてどうしてオレに付き合えないんだ? 託生くんの意地悪。
ギイくんってば拗ねちゃうぞ」

 こんなふうにギイが唇を尖らしてイジケてきても。

「しつこいよ、ギイ」

 ぼくがギイを冷たくあしらって、ギイの後頭部をパコーンと叩いたとしても。

「イテ! 痛いぞ、託生。……でもまあ、これも託生の愛だもんな。オレは我慢して受け入れるから」

 戯れ言(ざれごと)には付き合え切れない、とギイを無視してぼくが身体をよじったところで、きっと大丈夫なはずなんだ。

 だって。

『ギイと葉山くんってさ、自然体じゃない?』

 あの学生ホールで苦笑していたギイが羨ましい、とぼくにそっと耳打ちしてきた野沢政貴の夢が──。

『いつか思いっきり駒沢の頭をはたきたいんだ。
今はまだ、きっとお駒沢のほうが気にしちゃうだろうからできないけど。でもいつか、僕らもね』

──まさか、恋人の頭をはたくことだなんて。

「ギイ、ぼくってそんなにしょっちゅうギイの頭をはたいてるかなあ。
野沢くんはぼくがギイの頭をはたいているってこと、どうやら知っているようなんだよね」
「そりゃあ、託生は手が早いからなあ。口下手だからか先に手が出るし。
……お、この台詞ってハタから聞けば妖しいよな。
いかにもオレが託生に手を出されちゃってるみたいじゃんか」

──まったく、このオトコは。

「ギイ、そんな減らず口ばかりたたいていると百叩きの刑にするよっ!」

 その後、ギイの後頭部に愛の鉄拳をお見舞いしたことは言うまでもない。

 それでも「イタイイタイ」と言いながら、笑って頭を防御する恋人がどことなくはしゃいで見えるから、これもまた幸せのひとつの形なんだろう。

                                                         おしまい


illustration * えみこ



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの44444hits記念作品「駒沢瑛二救済活動」はいかがでしたでしょうか?
今回は野沢政貴と駒沢瑛二のカップルを中心に話を進めてみました。

「ノリのいい話」を目指して書いたのですが、すごろくネタ、気に入っていただけましたでしょうか?

「手作りすごろく」は実際、私が高校の時、文芸部の部室でやっていたもので、
「校門まで走って門にタッチしてくる」
「野球部の玉拾いをする」
「落研(落語研究j会)で笑いをとってくる」
「英研(英語研究会)で英語で自己紹介をしてくる」
「校庭一周」
などなど、この「駒沢瑛二救済活動」で使ったような罰ゲームがマス目に書かれてました。
結構、盛り上がって、男女問わず、学年問わずで遊んでました〜♪
今ではいい思い出です。

ちなみに、この「剣道部代々受け継がれるすごろく」は真行寺・作のつもりで書いてました(笑)。

最後に、この「駒沢瑛二救済活動」を楽しく読んでいただけたら嬉しいです♪

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


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なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
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