カノンの主旋律を弾くサードバイオリンの演奏が終るまで、延々と同じ四小節を繰り返すビオラやチェロのように、最初から最後まで、ただひたすら同じ気持ちを貫けたらどんなに幸せだろう。

 いつまでも繰り返される時間の中に、いつまでも最初の気持ちを抱き続けられたら……。

 もしも、そんな幸せを見つけることができたなら、ずっと大事に抱き締めていたい──。


きみの胸に弾む面影



 先日、街に出かけた時のことだった。
一度は誰もが聞いたことがあると言っても過言ではないバイオリンの旋律が、タクシーのクラクションに負けじと響いていた。

 ふと電気屋のショーウインドーに飾られていた大型テレビを見ると、多様な奏法を駆使するバイオリニストが映し出されている。

「さすがに『ツィゴイネルワイゼン』。聴かせてくれるよなあ」

 それは急ぎ足のぼくを立ち止まらせてしまうほど魅力的な、とても素晴らしい演奏だった。

「託生、楽器屋に行くんだろう?」
「あ、うん」

 あまりにも有名なその旋律がいつまでも頭の中に残ってしまって、そのあと訪れた楽譜売り場でも、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」をつい探してしまう。

「ツィゴイネルワイゼン」はドイツ語でジプシーの歌の意だ。
その名の通り、このとても有名な曲はハンガリー舞曲やジプシー民謡の影響をとても濃く受けている。

 ハンガリー・ジプシー音楽には技巧を駆使した聴かせる曲が多く、この「ツィゴイネルワイゼン」も例に漏れず、技のデパートと言ってもいい。

 難度高い曲である「ツィゴイネルワイゼン」、今のぼくの実力で弾けるかな、と自分に問いかけながら、手に取った楽譜を目で追いかけるのがすごく楽しくて仕方がなかった。

 小曲だが弾き応えたっぷりのなので音符を追いかけるのは大変だ。
でも、その分、様々な奏法が飛び出てきて胸をわくわく踊らせる。

 ぼくはずっとこの「ツィゴイネルワイゼン」をいつか弾いてみたいと思っていた。

「託生、そろそろ行くか?」

 ギイの存在を忘れるほど、どうやら楽譜にのめり込んでしまっていたらしい。

 店内だったので時間の感覚がずれていたのかもしれない。
久しぶりの外出だったからか、一日が経つのがとても早く感じられた。

「ギイ、今何時?」
「五時ってとこだ。
まだ外は明るいだろうが、章三と合流してバスに乗ることを考えたら、そろそろここも出ないとマズイよな」

 今は夏至直前なので、午後五時ではまだまだ日没にはほど遠い。
だが、ぼくたちの祠堂学院高等学校は山の中腹にあり、学生の身で使える交通手段は必然的に限られることもあって、ここから帰るとなると一時間は余裕にかかってしまうのが現状だ。

 時は金なり、とはよくぞ言ったもの。
タクシーで帰れば確かに早いが、膨大な金額になることは目に見えている。
やはりバスで地道に帰るのが、たとえ時間が多少かかったとしても一番妥当な手段と言えた。

「それじゃあ、帰ろうか」

 ふたりだけではないけれど、恋人と一緒にバスに揺られて山を登るのもなかなかオツなもの。
普段はゆっくり話をするのもままならないぼくたちなので、何てことないその乗車時間さえもが今はとても愛しいひとときとなる。

 いつも温室でバイオリンの練習をしている時、楽譜が見づらくなってはじめて空が薄暗くなっていることに気付くぼくは、もともと時間をそれほど気にしないタチだ。

 ギイが声を掛けてくれなかったら、まだ当分ここで楽譜とにらめっこをしていただろう。

「買うのか、それ」
「うーん、どうしようかなあ。買ってもいいけど、今は弾けないかも」

「そんなに難しい曲なのか?」
「結構ね。でも、難しいことは難しいけど、弾けないってのはぼくの都合もあるんだよ」

 先日、井上佐智から「今度はこれね」と渡されたサン・サースの「序奏とロンド・カプリチオーソ」で、今のぼくは本当にいっぱいいっぱいなのだ。

 ここ最近は夕暮れまで三時間くらい弾きっ放しなのはザラなほうで、だから、こうして街に下りてきたのは、本当に久しぶりのことだった。

 今日はギイが午前中、用事があって、下界への外出と言ってもお昼前に学生寮を出たため半日しか一緒にいられなかった。
だから余計、時間があっという間に過ぎてしまった感じが強い。

 実は章三も下山していて、街に着いて昼食を済ますまでは三人一緒にいたのだが、そのあと章三はそそくさとひとりで映画館に行ってしまったため、途中からふた手に分かれて行動していた。

 考えてみれば、あれから二時間半が経つ。
そろそろ章三のほうも映画を見終わっていることだろう。

「今から帰って六時半ってとこかな?」
「ま、七時には余裕だな」

 空が暗くなり出したら一気に日が暮れてしまうのはいずれの季節も関係ない。

 特にこの時期は夏至近くだけあって、調子に乗って暗くなるまで帰らないでいたら夕食を食べ損ねてしまう可能性すらあった。

「今度さ、また、おまえのバイオリン聴きたいな」

 帰る時間を少しでも延ばすように、ギイがぼくから楽譜を受け取ってぺらぺらと捲る。

「いつでも弾いてあげるよ、って言いたいところだけど。今の調子じゃ曲になってないからなあ。
もうちょっと弾けるようになってからのお楽しみにしておいて」
「オレは託生が弾いてくれるなら、どんなんでもいいんだけど」

「それじゃ、ぼくが嫌なのっ!」

 あのストラディバリウスの正当な持ち主であるギイとはいえ、まるで音が鳴ってさえいればいいみたいなこの言い方はやはり聞き捨てならなかった。
いや、ギイだからこそ、聞き逃せなかったのかもしれない。

「ちゃんとした音を聴かせたいし、聴いてほしいんだよ」

 ぼくの腕ではまだまだストラディバリウスを充分に鳴らせてあげられてないのはわかっているけれど、それでもやっぱり今のぼくが出せる精一杯のいい音を聴いてもらいたい。

 好きな人に聴いてもらうのだからこそ、すこしでもいい音を届けたいのだ。

「わかってるよ。オレだって託生が気持ちよく弾いているのが一番だと思うから。
でもな、どんな音でも託生が奏でてくれる音なら、オレは今この瞬間にだって聴きたいんだ。
オレ、ホントは毎日だっておまえと一緒にいたいし、託生のバイオリンを聴いていたいんだぜ。
けど、すべての願望が叶うわけじゃないしな……。
ああ、かわいそうなギイくん。
オレが聴けないってのに、真行寺や章三は託生のバイオリンをちょくちょく聴きに行ってるってんだから、まったくやるせないったらありゃしねー。
それなのに、ひたすら我慢しているそんなオレに託生くんってば冷たいし。
託生。おまえ、オレの恋人だろう?
そのオレに向かって、愛しい恋人の演奏を聴く絶好の機会をみすみす逃せ、なんてのは非情な仕打ちだと思わないのか?」

「非情だなんて……。ギイ、そんな大げさな……」
「おまえの言い分はオレだってわかるし、当然だとも思う。託生にしてみりゃ納得いかないことかもしれない。
けど、このオレの気持ちもわかってくれよ。な、託生」

 確かに、曲が完成するまで聴かないでくれ、というのはギイにしてみれば酷かもしれない。

──今の曲が完成するかどうかはともかく、あのストラディバリウスを鳴らせるようになるまで我慢して、とはさすがに言えないよねえ。

 だから、ギイの気持ちもわからないわけでもないな、と、気持ちがぐらりとギイよりに傾いた途端、
「それに練習している託生ってすごくそそられる」
このコイビトはそんなことを言ってくるものだから。

「ギイ! ちょっとそれっ、不謹慎だよ!」

 せっかく一緒にいるのに、睨みつける羽目になってしまった。

「ごめんごめん」

 謝ってもらったところで嬉しくない。

──何が、そそられる、だ。まったく、ぼくはマジメに考えていたのに……。

「ここがふたりきりの温室だったら殴ってるとこだよ?」
「託生、それこそふたりっきりの温室だったら殴られる筋合いはないぞ。口説き放題、いちゃつき放題だ」

 頭の回転が早い人はコレだから始末に終えない。

「もう、ギイったら。ホント、人の揚げ足取るの天下一品だよね」

 とはいえ、ぼくだって本気で怒っているわけでもないし呆れているわけでもない。

 今のぼくらにとって、ふたりでいられるというだけで、この一瞬一瞬がとても貴重な時間となる。
ギイと一緒にただ並んで立っているこの瞬間さえも大切な時間。
その大切さをぼくもギイも骨身に染みて知っているから……。

 だから、ぼく自身、一緒にいられるこのひとときをすこしでも有意義に過ごしたいと思ってるし、こんな言葉の掛け合いでさえ結構嬉しかったりする。

 いくらデート中(ギイ談)とはいえ、第一、ここは公衆の場である。
殴るのはともかく、一分一秒さえ愛しい人との逢瀬を惜しむかのような、そんな甘い雰囲気を作るには到底無理があった。

 さすがにギイもこんなところでラブシーンを披露するような非常識な行動は慎んでいる。
ここでできるのは、せいぜい言葉遊びくらいしかないのだ。

──ギイといると、すぐ時間が過ぎていっちゃうなあ。

 すこしでも一緒にいたい気持ちはギイもぼくと同様らしく、そろそろ待ち合わせの時間が迫っているというのに、ここを動く気配がまったくない。

「へえ、この記号を楽譜で見るとは思わなかったな」

 ギイが時間の流れを誤魔化すように、ぼくが熱心に見ていた楽譜に改めて視線を向けた。
ぱらぱらと楽譜を捲っていた指が止まって、目を見開いて一点に注目する。

 そのギイの訝しげな様子を不思議に思って、
「何見てるの?」
隣りから楽譜を覗き込むと、そこには「+」の記号が書かれていた。

「ああ、コレのこと?」

 ぼくにとっては特に不自然なものではないのだが、どうやらギイには目新しいようだ。

 いくつかの音符の上に「+」記号が書かれているをじっと見て、
「音符で足し算でもするのか?」
ギイがとても怪訝そうに首を傾げた。

「ははは……、いいね、それ。座布団一枚!」

 ギイにも知らないことがある。

 そんな新たな発見が楽しくて、バイオリンを弾かないギイの発想がとてもおもしろくて、
「でも、ギイ、何を足すつもりなの?」
答えのない問いをつい求めたくなってしまう。

「おい、笑うなよ。コレ、足し算するんじゃないのか? だったら、これは何の印なんだ?」

 教えるのはいつもギイで、教わるのがぼくの専売特許だった。でも、今日はいつもと逆だ。

「こんな日もたまにはいいよね」
「何がいいんだ。託生、さっさと教えろよ」

 ギイがぼくの肩を揺さぶって催促するのが楽しくて、あっという間に時間が過ぎた。

「あ、赤池くんとの待ち合わせは大丈夫?」
「お、もうこんな時間か。こりゃさすがにまずいな」

 腕時計を見たギイが慌てて楽譜を戻すのを、早く早く、とぼくが催促する。

 そして、エスカレーターで前後に並びながら下っている間、
「あの『+』はね、左手ピチカートで弾くって意味なんだよ」
「左手ピチカート?」
うん、とひとつ大きく頷いて、バイオリン奏法のひとつをギイに説明した。

「左指で弦を弾(はじ)いて音を鳴らすんだよ」
「へえ、弓を使わないのか」

「何て説明したらいいのかなあ。
ピチカートって言うのはね、一音ずつ出す場合、弓を中指、薬指、小指の三本で握りこんで、右の人差し指で弦を弾(はじ)くのが普通なんだけど。
でも、弓で弾(ひ)く音と指で弾(はじ)く音が忙しく交互になる場合はとてもじゃないけど弓を持ったり握ったりってそんなに早くできないだろ?
その点、左手ピチカートを使えば指と弓、両方で音が鳴らせるからね。早弾きが可能になるんだ。
だから、左手ピチカートで弾く音符の上に印をつけて、弓で弾く音と区別するんだよ」

 ついでに、左手ピチカートの印は、楽譜によっては「x」の記号の場合もあるのだと、一応、補足しておいた。

「なるほど。まさか左を使うとはね……。
右指で弦を弾(はじ)いてるところは前に見たことあったけど、左指はさすがになぁ」

 右手のピチカートに比べて左手ピチカートの出番はそれほど多くはない。

 それに、ギイが知らず知らずのうちに聞き逃したとしても不思議ではないのだ。
せっかくの素敵な演奏中、弦楽器に縁がある人ならともかく、演奏技法を気にしながら旋律を追いかける人は少ないだろうから。

「ちなみにピチカートの場合は、始まりの部分に『pizz.』、弓で弾くところからは『arco』が書かれてるよ」
「なるほど。『arco』までは指でずっと弾(はじ)きっぱなしになるわけか。
もし、『arco』のミスプリがあったら大変だな」

「確かにね。『arco』が出てくる前にスラーとか書かれてたら完全なミスプリだってわかっちゃうし」
「は? どうしてスラーでわかるんだ?」

 さすがにこの手の話は弦楽器をやってないと通じないらしい。
バイオリンのスラーは、本来の「滑らかにしてなるべく音をつながるように弾く」の意味に加えて、ボーイング、つまり弓使いを指定しているのである。

「バイオリンの場合はね、スラーは一弓で弾くんだよ。だから弓を使うのが前提なわけ」

 スラーを間違えると弓の動きがずれてしまい、オーケストラなどまとまった弦楽器が集まって弾いているところでのこの失敗はとても目立つので恥ずかしい。

「ただ弓で弦を鳴らせばいいってんじゃないんだな」
「当たり前じゃないか」

 そうして、ギイが「託生、おまえってすごいな」と感心したようにぼくを見てきたので、
「あのね、ギイ。ぼくなんてひよっこ子同然なんだってこと忘れないでね?」
ギイに尊敬の眼差しを向けられるほどの腕前ではないのだと、きつく念を押しておいた。

「左手ピチカートか。おもしろそうだな。今度、託生が弾いているところ見てみたいよ」
「そう?」

 確かに注意して見なければ、普通気付かない弾き方だろう。

 それに。

「おもしろそう、ねえ。そういや、ぼくもそう思った時もあったなあ」

 ギイの言葉で、昔、須田先生に習っていた頃のことをふいに思い出した。

 初めて左手ピチカートを習った時、難しかったけどすごく楽しかった記憶がある。
音がぽろぽろと繋がって雨が降り注ぐように聴こえて。
まるで、自分がとてもうまくなったように聴こえて、それがとても嬉しくて、もっともっとうまく弾けるようになりたいと強く思った。

 高揚あふれるあの感覚──。

 確か、左手ピチカートは、「アイネク」の愛称で親しまれているモーツアルトの「アイネクライネナハトムジーク」やブラームスの「ハンガリア舞曲第五番」など、誰でも知っている超有名な曲を練習していた頃、初めて教えていただいたのだった。

 だから、ぼくもつい懐かしくなって、
「教本に載ってたドイツ民謡でよければさらっておくよ?」
主題が綺麗な思い出の曲を久しぶりに弾いてみたいと思った。

「主題(テーマ)も耳に入りやすくて、バリエーションもとってもカッコイイ曲なんだよ」

 そして、ギイが、「へえ、そりゃ楽しみだ」と微笑み返したところで、ちょうど一階に到着。

「赤池くん、待ってるかな」
「あいつのことだから、託生と違って迷子になってることはないさ」

 などと、その後もギイにからかわれながら、ぼくらは楽器屋をあとにした。

 夕方とはとても思えないほど、空はまだ青く明るかった。





 祠堂学院高等学校には個性豊かな人材がとても多いと思う。
それは常日頃から思っていたことで、階段長、生徒会、評議委員会のメンバーは当然のことながら、特別な肩書きがなくても独特な持ち味を出している生徒が多種多様にいることは疑いの余地がない。
よくも悪くもみんな個性的なのだ。

「ぼくも例に漏れずってとこなのかなあ」

 自分ではそれほど他人と違わないと思っているのだが、ぼくはこれまでも「変わっている」と言われたことがたびたびあった。
特に「周囲を気にしない人間」に括られているようで、章三を筆頭に複数の友人たちから、事実、「おまえは世間に疎い」と厳しい指摘を頻繁に受けている。

 確かに噂に敏感でないことは自分でもよくわかっている。
けれど、「個」を持つことはそれほど悪いこととは思っていないので、ぼくはぼく、と今までは貫き通していたのだが……。

「ねえ、赤池くん。最近、何かいいことあったの?」

 ぼく以外の生徒たちの、いかにも浮かれていると言わんばかりのその様子はさすがにぼくも気になった。
自分ひとり、時代に取り残されたような気分になって、まるで浦島太郎にでもなったようだ。

 ところが世間の雰囲気は、珍しく焦る気持ちでいるぼくとは違って、どうやらみんな晴れやからしい。

「別にいつもと変わりないが?」
「あ、いや……、赤池くん限定のことじゃなくてさ。
ほら、何だかみんな、ふわふら浮いているような感じしない?」

 特に一年生の歩き方にスキップ交じりのリズミカルなものが目立って、それもひとりふたりではないからとても目に付いた。

「ああ、あれか。ほっとけほっとけ、そのうち落ち着くさ」
「やっぱり何かあったんだ?」

 不思議に思っているのはどうやらぼくだけのようだった。
見渡しても誰一人として、キョロキョロしている生徒はいない。

「葉山が噂に興味ないのはいつものことだからな。
耳が悪いわけでもないのにこれだけ騒がれてて今日になってやっと気付くんだから、ホント今更だ」

 章三の言葉からして、どうやらこの騒ぎは昨日今日のことではないらしい。

「でも、みんな楽しそうだし。別に悪いことじゃないようならぼくも知りたいなー、と思ってるんだけど?」
「おまえの場合、聞かないほうが身のためだと思うぞ?」

 章三はそう言うけれど、ぼくにはよくないことで、ほかの人にはいいことって聞いてしまったら余計気になってしまう。

「まさか、ギイ絡みなの?」

 ぼく自身のことよりも何より心配なのはギイのことだ。

 だから、ぼくは一番当たってほしくないところを口にしてみた。

 すると、
「こういう時だけはたまに鋭くなるからわけわかんないんだよ、おまえは!」
本当に嫌そうに、章三は、あの馬鹿には付き合ってられん、と、ぷいっと明後日の方向に視線を飛ばした。

 とはいえ、ギイのことを「あの馬鹿」と連呼しつつも、必要な情報をぼくに与えてくれるところなどはあくまでも章三らしい。

「この一連の騒動は、だ。ギイが余計な一言を口走ったことから始まったのさ」

 章三が言うには、新聞部と放送部が共同戦線を組んで、数人の三年生にしたインタビューがそもそもの原因らしい。
矢倉柾木や高林泉などの三年生たちもその場にいて、ギイと同様、同じ質問に答えていたというから、ギイだけを狙ってのものではないとのことだけど。

「あの馬鹿もあんな質問、軽く受け流せばいいのに。
何も好きこのんで余計なことを言わなくても、と僕は思うんだがね」

 章三も同じような質問をされたらしく、苦々しい表情はそのままだった。

「それでどんな質問だったの? 赤池くんもされたんでしょ?」

 すると、あんな質問、と言うから、どんなものが出てくるかと思いきや。

「初恋の印象を訊かれたのさ。いつ頃だった、だの、どんな人だった、だの。
誰だって思い出があるもんだろう、ちょっとでもいいから協力してくれって縋られて、スッポンのように離してくれんわで、あのしつこさにはほとほと参ったね」
「へえ。じゃあ、赤池くんは奈美子ちゃんのことを話したんだ?」」

「葉山、下世話だぞ。僕と奈美は関係ない!」

 調子にのって章三をからかったら、お返しにとばかりにこう言い返された。

「ギイのヤツ、余程、いい思い出を持ってるらしいからな。
どうやら、あいつのもともとの趣味は今よりずっとマシだったようだぞ?」
「はあ?」

 そんなふうに章三がギイのことで、これまたぼくにはわけがわからないことを言ってくださったので、何だかますます気になってしまった。

 これまでのギイの言動からして、ギイの初恋の相手とは、何と世界の七不思議に入れてもいいくらい摩訶不思議なことに、実はこのぼく、らしいのだ。

 ギイが初恋のことを語ると言うことは、ぼくの小さい頃のことを語ると言うことで、
「ギイは何て言ってたの?」
普段はそれほど噂話に興味を示さないぼくも、さすがに興味津々にならざるを得ない。

 でも、それは当然のことだと思う。
ぼくの何があのギイの気を引いたのか、本当にわからなかったからだ。

 だが、章三の口から出てきたのは、「弾(はず)んでいた」とか「飛び跳ねていた」とか、ぼくとは全然関係がないような言葉だけ。

「それ、ほんとにギイの初恋の話?」
「僕が冗談を言っているように見えるか?」

 それにしても、弾んでいた? 飛び跳ねていた?

「みんな、ギイの言葉から推理するに、きっと元気のいい明るい性格の金髪碧眼のかわいこちゃんだったんだろうってさ」
「元気のいい? 明るい? 金髪……?」

 何がどうしてこうなるのだろう。

 とにかく、それらが第三者の創造だとしても、ギイ本人が言った初恋の印象とぼくとではどう考えても共通点がないように思える。

 ギイが言うには、ぼくが出ていた発表会に偶然ギイが見に来ていた、と言うことだから、会場のどこかでもしかしたら幼いぼくが元気に飛び跳ねてて、それをギイが見かけたのかもしれない。

──そしたらやっぱり……ぼく、なのかな?

 だが、そう期待した途端、即座に、いくら小さな子供でも発表会の時の緊張した雰囲気の中でそんなコトするわけないだろう、と自分で自分に突っ込みを入れることになってしまった。

 仮にそんな子供がいたら、周りの大人たちが黙っていない。
静かにしていなさい、ときつく注意するに決まっている。

──ってことは、ぼくではない?

 結局、ギイの「弾んでいる」とか「飛び跳ねていた」という言葉とぼくとを結びつけるまでには考えが至らなかった。

「まさか、ギイの初恋の人ってふたりいるとか?」
「葉山、おまえな……。初恋は一度限りって決まってるんだよっ!
おまえはそんなことも知らないのか! 情けないっ」

 もしかして、の思い付きで言ってみただけだったのに、章三から侮蔑の眼差しを向けられてしまった。

「とにかく、ギイがそんなことを言うものだから、ギイの好みは元気な明るいタイプだって噂が広まってもう大騒ぎさ。
『弾む』とか『飛び跳ねる』とか、そこらへんからみんな考えたんだろうが。
迷惑なことに、近頃、廊下をスキップするヤツでごった返しだ」

 スキップならまだいい、ジャンプするヤツは周りにぶつかりながら移動するからそれこそ迷惑千万だ、と校内の乱れを憂い案ずる章三はさすがに風紀委員長らしい。

「それでみんな楽しそうだったんだ。なるほど……」
「どこが楽しそうだっ! こんな馬鹿らしいこと、いい加減にしてもらいたいね」

 憤然あまりあるらしい章三は、
「葉山、少しはあの馬鹿を何とかしろ。
僕がいい加減なことを言うなと注意しても、『本当のことだ』とぬかしおったんだぞ、あいつはっ!」
どうやら今度は怒りの矛先をぼくへとむけることにしたようで。

「でも、ぼくだって頭の中、今、ぐるぐる状態なんだけど……?」

 ギイの初恋の人のイメージがぼくとはあまりにもかけ離れていて、ぼくはぼくで考えがまとまらない。

 すると、章三が、動揺かくせないぼくをちらりと不憫そうに見ながら。

「葉山。ギイの本来の好みがおまえとは正反対だったからと言って悲観的になるなよ。
あまり言いたくないが、男というものはたまに変り種にも目を向けたくなる時があるもんだ」

 赤池くんもそうなの?と思わず突っ込みたくなるようなことを突然、言ってきた。

「いつも豪勢な料理ばかり食べていたら、時には素朴なお茶漬けがほしくなるもんだ」

 それはまさに、この件に関してはあとで奈美子ちゃんに報告しておこう、と深く心に刻んでおきたくなるほどの言い草で、世間一般において、いかに男という存在がだらしない生き物かを子供に諭すような台詞だった。

「ぼくはお茶漬けかいっ」
「ほら、アメリカでは肉ばかりだろう。
やっぱり白いご飯にお味噌汁、アジの干物や焼き海苔、おまけの生卵、の典型的な和食がたまには恋しくなっても仕方がないさ」

 あいつのその気持ちはわからないではない、と章三が言うので、ぼくのいらいらはますます募っていった。

「その気持ちってのは和食が恋しくなるってこと? それともたまには趣向を変えてみようってこと?」
「海外で一ヶ月生活してたら、僕ならやっぱり白い米粒が食べたくなると思うがね。
熱々のご飯に明太子。ほら、うまそうだろう?」

 つらつらと並べてゆく日本の典型的家庭の味に、アメリカ育ちのギイとの日常生活の相違点がますます浮き彫りになってゆく。

 その浮き出た相違点を第三者にはっきり言われると、やっぱりきつい。
ぐさりぐさりとぼくの胸に突き刺さるように聞こえて、悔しいやら口惜しいやら。
さすがに章三である。悔しいことに的確に急所を突いてくるのだ。

 それがこれまた、あまりにも図星だったから、こちらとしても言い返したくても言い返せなくて……。

 だが、擬人化された日本の味を聞かされる身としては、我慢にも限界というものがある。

「赤池くんが言いたいことはわかった。でもそんなの赤池くんに言われたくない」

 とうとうぼくのイラつきも最高潮に達してしまったのだった。

「和食だろうが、お茶漬けだろうが、明太子だろうが。
そんなの赤池くんが食べるわけじゃないんだから、赤池くんには関係ないだろっ!
ギイがもし、たまには違うものを摘んでみたいって言うんなら、ぼくはちゃんと本人に好みを訊いて来るよっ!」
「おい、葉山……。何も怒ることないだろう? これはたとえばの話であってさ、本気にするなよ」

「懇切丁寧なたとえ話をありがとうございましたっ。
一般的な男の心情を理解したところで、ぼくはこれにて失礼させていただきます!」
「おい、ちょっと待てって……」



 どうしてくれよう。

 章三としてみれば冗談交じりだったとしても、ぼくにはすごいショックだ。

 ぼくが初恋の相手じゃない、とか、そういうことがショックなのではなくて、ぬか喜びのあとのショックというか。

 ギイの好みがぼくとは正反対の人だとしてもそれはギイが決めることだから仕方がないことだし、好みじゃなくても好きになることだってあるだろうから、それがショックだったわけではない。

 ギイが今、ぼくを好きでいてくれるのは自慢でも自信でもなく、事実として身に染みて知っているから、ギイの気持ちを疑うつもりもぼくはない。

 ただ、ギイの初恋がぼくだって知った時、すごく驚いて、信じられないくらい嬉しかったから……。
喜んだ分、その膨らんだ嬉しい気持ちが、空気の抜けた風船のように小さくしわしわに萎んだだけだ。

──ぼくに憧れた、だなんて。ギイ、誰もそんなこと信じやしないよ……。

 ともかく、章三のあの様子だと、初恋の人とのギイの思い出がとても楽しいものであることだけは確からしい。

──それがまだ救い、なのか?

 ぼくがその相手ではないとしても、ギイに素敵な思い出が残っているのならそれでいい。
そう思わなければ、とぼくは何度も自分に言い聞かせた。
でも、そう思わないとやってやってられないというのが正直な気持ちだった。

 ギイの好みに近付きたくて、努力する人たちがいる。
たくさんの人がギイに憧れて、少しでも彼に近付こうとしている。

 彼らはウキウキ気分でとても楽しそうに歩いていた。

 でも、今までもっとも浮かれ気分でいたのはどうやらぼくだったようだ。

「弾(はず)んでいる、かあ……」

 心なしかちょこっとだけ飛び跳ねてみた。

 知らず知らずのうちに、みんなと同じようなことを試している自分自身が情けないやらおかしいやら。

「こういうの、ひとり相撲って言うんだっけ……」

 ぼくがギイの初恋の人だんて、そんな夢のような話こそが不相応だったのだ。

 弾んでいた足取りが次第に引き摺るようになってゆく。

 まるで重石をぶら下げたように足が重く感じられて、心が重くて──。

 歩くのさえしんどかった。





「やあ、葉山。ご機嫌麗しそうで何よりだ」

 少し早い夕食時、食堂でひとり食事をしていると、三洲新がぼくの前にトレイをすかさず置いた。

「三洲くんも、何かいいニュースでもあるなら教えてほしいな」

 しかめっ面でいるのはどうやらぼくだけではないらしい。三洲はとても不機嫌そうだった。

 こういう場合、いつもなら軽く流して穏便に済ますところなのだが──。
今日はこの「高嶺の花」と遠巻きされているやり手の生徒会長相手に、無謀にも正面からぼくは笑顔で立ち向かっていた。

「いいニュースねえ。あるにはあるぞ、たんまりとな」

 同室者同志の笑顔の会話。ところが、ぼくらの周囲には氷点下の風が吹いていた。
それが感じられるのか、やや混み出した食堂だというのに、誰もぼくらのテーブルには近寄って来ない。

 ブリザードが吹き抜ける中に入ってくる物好きは限定されるようで、
「うわっ、葉山サンとアラタさんだ!」
葉っ山サーン、と飛び跳ねるようにトレイを片手に元気にやってくる真行寺兼満のほかに勇気ある者などいそうになかった。

「隣りいいですかァ?」

 どうぞ、と言うぼくの声が、
「ほかをあたれよ、真行寺。ここは全部埋ってる」
三洲新の冷ややかな笑顔に消されてしまう。

「あれ? でも、ほら、ここ四席も空いてますけど……?」
「俺が埋ってるって言ったら埋ってるんだよ。なあ、葉山?」

 にっこりと極上の微笑みを浮かべるのだが、三洲のその目は決して笑ってなどいない。

「わかりましたよ……。もう、アラタさんのドケチ」
「何がドケチだ。さっさと行けっ」

 しっ、しっ、と犬を追い払うように手で払うと、真行寺はクゥ〜ンと鳴いて、まるで尻尾を垂れ下げるかのように肩を落として少し離れた席に移っていった。

「かわいそうに」

 ぼくは真行寺のことを言ったのに、三洲新はすかさず、
「誰が、だ? 俺か? 葉山か?」
するりと核心を突いてくる。

「誰もかわいそうなヤツなんていないさ。こういうのはな、アホらしくてやってられないって言うんだよ」

 三洲が夕食のコロッケにソースをとろりとかけながら、
「さっきな、崎を見かけたぞ」
明日の天気の話でもするように何気に言って、箸を手にした。

 いただきます、のいかなる時でも礼儀を忘れない三洲の几帳面さがとても凛として見える。
見ていて気持ちがいいというか、自分の前に座る三洲の存在がとても自然で、お互い不機嫌な顔して向かい合っているくせに、どこかでホッとしているぼくがいた。

「崎のヤツ、『キメ細やかな気配りができるコがいい』とでも言えばよかったのに。
『生徒会の仕事を手伝ってくれるとますます好みだ』とかさ。せめて『理想は大和撫子だ』くらい言えないのかね。
こうもどこ行っても落ち着きないのはマジに勘弁してほしいもんだ」

 三洲にしてみれば、すぐにでもギイの好みを撤回させたいところなのだろう。

 頭の上に花を咲かせているような集団をこれ以上増やされてたまるか、とぞんざいな口をきいて、
「情報と人材はうまく使え、とでも伝えとけ」
味噌汁の御椀を置くと、上目遣いに確認するようにぼくを見つめてきた。

 今夜の夕飯がアジの干物でなかっただけありがたかった。
章三の言葉を信じているわけではないけれど、このもやもやと波立つ気持ちはすぐにはおさまりそうにない。

「でも実際、ギイは『本当のことだ』って言ったらしいよ。それをぼくがどうこうできるわけないじゃないか」

 ヤツが引き起こす面倒なことはすべておまえの責任下にあると、毎度ギイ絡みになると途端に無責任になる三洲は、
「そこを何とかするのがおまえの役目だろう? 甘やかすから付け上がるんだ」
この件に関しても今までと同様手厳しい。

「祠堂の生徒のノリの良さにはまったく感心しきりだ。生徒会長として泣けてくるね」

 三洲新が流す涙は嬉し涙でないことだけは確かだった。

「どうやら崎はいい趣味しているらしいじゃないか? 葉山、せいぜい頑張れよ」

 さっさと食べ終わって席を立つ三洲の背中が、どこまでも「他人事」と決め付けていた。

 目の前にある皿に視線を戻して、
「せいぜい頑張れよったって、何を頑張れって言うんだよ!」
ぐさり、とコロッケに箸を突き刺せば、
「もう、ぼくだってこの件については関係ないんだからな!」
気が済んだ頃には、今夜のコロッケは穴だらけになっていた。

──赤池くんも三洲くんも、何かというとぼくにすべて押し付けて!

「もう、何が『飛び跳ねる』だ!」

 ぼくは奥歯に力を入れるように噛み締めて、しばらく気持ちが鎮まるのを待ったけれど、待てど暮らせど、どうにもこうにも気分を落ち着けさせることなどできそうになかった。

 ぼくだけ置いてきぼりされているような、のけ者にされてしまっているようなそんな感じをひしひしと感じる。
気になってしまうと、それがだんだん悪い予感のようなものに思えてしまうからたまらない。

 とはいえ、仮にギイの初恋の相手がぼくでなかったからといって、今のところ実害はないし、今までと何ら代わりなどないはずなのだから、別にこの噂が悪いってわけでもないのだろう。

──ぼくだって小学生のころ、ハタチになったらケッコンしようね、と思っていた子がいたんだから。

 恋人が初恋の相手ではなかったとしても、どうせそれはお互い様になるだけだ。

──それとも、ギイの場合は違うのだろうか。ギイは初恋の相手を追ってこの祠堂にやってきたらしいから……。

 もしかして、初恋の相手ではないぼくは用なしで、今までのことも簡単にリセットされてしまうのだろうか?

──まさか、ね……。

 穴ぼこだらけのコロッケがぼくの心を映し出す。

 それは見るも無残な、哀れな姿。同情さえしたくなるほどだった。

「……ギイ。信じていたいよ……」

 いつの間にか食欲など完全に失せてしまっていた。





 それから二日間、ぼくは「序奏とロンド・カプリチオーソ」の練習のあと、ギイに聴かせるための曲をさらった。

 バイオリンに限らず楽器というものは、弾き手の心が出てしまうものだ。
どんなに素晴らしい楽器を使っていようが、ほかのことを気にしてここに心がないまま弾いたら、それ相応の音しか出せやしない。

 いくら嫌なことや気に喰わないことがあっても、荒れた心のまま楽器を手にしては大した演奏など期待できない。
乱暴に弾くくらいならば、弾かないほうがまだいい。
指が邪魔な音を覚えてしまうから、それなら練習しないほうがまだマシだと言えた。

 だから最近、ぼくは温室に訪れても、すぐさまバイオリンの練習をはじめようとはしなかった。

 あえてバイオリンをさけて、まずは目を閉じて深く深呼吸を繰り返す。
心に温かい笑顔をイメージしてからバイオリンを構える。
それが、ここ数日、ぼくが心がけていることだった。

──ぼくの胸を温める大好きなギイの笑顔……。

 そして、今日、その笑顔が今、目の前にある。

──聴いてほしい人がここにいて、どうして刺々しい心を抱き続けることができるだろう。

 大好きなその人のために練習を重ねて、その人のためだけに弾こうと思っていたぼくだから……。

「ギイ、いい? はじめるよ?」

 気になることがあるのならギイに直接訊けばいい。

 ギイは忙しい合間を縫って、ちゃんとぼくのところに来てくれた。
こうしてぼくの演奏をわざわざ聴きに来てくれたのだ。

──ギイを信じないでどうする。ギイを信じ切れないで、ぼくは何を信じようって言うんだ?

 小学生の頃、ぼくはバイオリンのレッスンをとても楽しみにしていた。

 特に、モーツァルト父の「おもちゃのシンフォニー」あたりのレッスンになると、街中やテレビで流れているような聞き慣れた旋律の曲を次々と習うようになってそのおもしろさは倍増した。

 そして今日、ギイのために綺麗な主旋律のこのドイツ民謡をぼくは弾く。
この曲は、左手ピチカートという新しい技法を教えてもらった思い出が強く、数ある練習曲の中で特に印象深かった。

 弓の先で弦を弾(ひ)く合間合間に左指で爪弾く。

 左手ピチカートは普段は音程を作ることしかなかった左手に、音を奏でるという驚きを吹き込んだ技法だ。
ただ音を出すだけでも楽しくて、ぼくは昔、遊ぶように何度も左手で弦を弾(はじ)いたものだった。

 dolce(ドルチェ)ではじまる主旋律を弾き終えて、スラーにスタカートがある一弓連続スタカート中心のバリエーションTを弾く。

「ギイ、ここから左手ピチカートが出てくるから」

 そして、問題のバリエーションU。
pp(ピアニッシモ)での下げ弓の次には、ギイが聴いてみたい(見てみたい?)と言っていた開放減の左手ピチカートが出てくる。

 左手ピチカートの合間には弓の先のほうを使って弓を弾ませ、弓先で弾む音と左手ピチカートでのその旋律は、rit.(リトルダンド)までずっと続いた。

 rit.あたりは滑らかに繋げるように音を切らないように弓をゆっくりと動かして、そしてまた、a tempoで元の速さに戻り、弓先と左手ピチカートの楽しそうな弾む旋律に入る。

 初めて習った左ピチカートはさすがに開放弦の音だけだったけれど、テンポよく弾むこの雰囲気はまさにこの曲名の「楽しい人生」にふさわしいものだった。

「どうだった? ちゃんと左指で音を鳴らしてるのが見えた?」

 温室でのギイとの久しぶりの逢瀬。

 ぼくはギイと約束したドイツ民謡「楽しき人生」を、バイオリンを習っていた頃を思い出しながら弾いてみた。

──ギイの初恋の人がもしも別にいたとしても、それでも、今、ギイとここで一緒にいるのはぼくなんだから。

 ぼくは弾いている間、精一杯、気持ちを落ち着かせようとした。

 廊下を飛び跳ねる生徒はまだしばらく減りそうもないけれど、ぼくが飛び跳ねる必要はきっとないのだと信じよう。

 ギイとぼくの、相手を想い続けるという「人の心」を信じたい。
想いを抱き続けることの大切さを噛み締めながら、心が揺れないよう気持ちを強く持ちたかった。

──ギイ。信じてても、ぼく、いいんだよね?

 今朝、章三経由で「バイオリンを弾いてくれ」とギイからの伝言を受け取った時、
「この際、短い時間でもいいからふたりきりで会いたい」
そう願っていた矢先だったから、今日の約束は本当に嬉しかった。

 久しぶりのふたりきりの温室で、もしかしたらギイは、「たったの五分で悪いな」とそう告げてくるかもしれない。
それでも、たとえタイムリミットを宣告されようと、ギイと一緒にいられる、ギイとふたりで会えると思うだけで、ぼくの心はほんわかと火照った。

 ぼくの麗しの恋人はすごく忙しい人だからそれも仕方ないんだ、と自分に言い聞かせるように、短い逢瀬を覚悟しながら、ドキドキしながらぼくは放課後を待った。

 今日もきっと、たったの五分。そう覚悟して、温室に向かったのだ。

 なのに……。

 ギイは忙しいのは相変わらずなはずなのに、時間をやりくりしてぼくのバイオリンを聴きに来てくれた。

「放課後まるまる時間を作ってくれるなんて。もう、びっくりだよ。これってすっごく嬉しい誤算かも」

 ギイは、じっくり聴きたいからと今日の放課後全部をぼくのために空けてくれたのだった。

「それは当然でしょう。コレを聴くのはオレだって楽しみにしてたんだから、さ」

 例の初恋うんぬんの噂について、ぼくはまだ直接ギイ本人から話を聞いていない。

 もやもやと心の中で燻り続けるのが嫌ならば、はっきりギイに訊いてしまえばいい、とも思ったけど……。

──ギイの初恋はギイだけの思い出であって、他人が土足で踏み込んでいいものじゃない……。

 気になることは気になる。でも……。

 こうしてのんびりとリラックスしてぼくのバイオリンを聴きに来てくれるギイの姿を見ていると、もう、初恋の人が別にいようが構いやしないと思えるからとても不思議だ。

──ギイがぼくのそばですこしでも安らぎを得られるのなら、それでよしとしよう。

 今、信じなければならないものは何かを履き違えないように、ぼくは小さく頭(かぶり)を振った。

「ギイ、そんなにこの曲を気に入ったの? それとも左手ピチカートが気に入ったの?」
「どっちもさ。ここんとこの飛び跳ねてる感じ、すごく楽しそうで聴いててうきうきするだろ?」

 楽譜の左下のフレーズをとんとん、とギイが指で叩く。

「ほら、ここさ」

 ギイが指差した場所は、左手ピチカートが出てくるバリエーションUだった。

「音も弾(はじ)けた感じがするけどさ、とにかく、弓がポンポンって飛び跳ねてるみたいだろ?」
「ああ、うん。そうだね」

「オレの記憶力も満更じゃないな、と思ったね」

 懐かしいな、と目を細めてぼくを見るギイのその表情が、温室の木漏れ日に照らされてキラキラと揺れた。

「おまえ、コレ、すごく楽しそうに弾いてたよな。さっきも。そして……あの時も」

 弾(はじ)ける弓。弾(はず)む音──。

「え……? あ、ギイ、もしかして……。まさか──?」

 この「楽しき人生」は、かつて、ぼくが須田先生に習っていた頃、発表会で弾いた曲でもある。

 発表会の曲はどちらかというと技巧を凝らした曲が選ばれやすく、幼い日、ぼくは先生からこのドイツ民謡を勧められた。

「笑ってる顔もいいけど、おまえ、緊張している顔もたまらないよ」

「弾んでいた」のも「飛び跳ねていた」のも、もしかして──。

「どんな顔してたって託生は託生だから、見てるだけでここがドキドキする」

 自分の胸を親指で指しながら、
「ほら、今日だってあの時みたいにバクバクしてるだろ?」
ギイが種明かしをして、いつもみたいにぼくを驚かす。

「まるで『楽しき人生』そのものだと思わないか──?」

 胸に沈む面影はいつでも「楽しき人生」の中で弾んでいる、とギイが笑う。

 そして、移し世の果てまでこの想いを抱き続けてみせる、とギイが誓ったその瞬間。

 ぼくは改めて「葉山託生」という存在価値に気付き、それはぼくとってとても尊いものになった。

──ギイ。ねえ、知ってた? きみに想われるモノすべてがぼくの誇りになるんだよ……。



 誰だって大切な気持ちや大切な思い出を持っている。

 とても大事なものならなおさらのこと、宝箱の中にそっとしまって鍵をかけて、誰にも見せずに隠しておきたい。

「ねえ、ギイ」

 だけど、少しだけでも、きみがその片鱗を見せてくれるのなら。

「ん?」

 その大切なものごと、きみをぎゅっと──。

「ちょっと抱き締めてもいい?」

 そして、いつまでもそのままで、と優しく壊さないように、そっと包んで一緒に幸せを感じてみたい。

「今日の託生は大サービスだな。でも、『ちょっと』じゃなくて『いっぱい』にしてくれ」

 夏の青空のように空高く舞い上がるように微笑んだギイが、
「楽しそうな顔も拗ねてる顔も緊張している顔もいいけれど、オレを見てくれる時の笑顔が一番いいな」
いつだってぼくの心から豊かな表情を引き出すから……。

「ギイ、今度は百面相でも流行らせるつもり?」

 途端、ギイが破顔した。





 最初から最後まで、ただひたすら同じ気持ちを抱(いだ)く。

 時間(とき)の流れに逆らうように、そこだけ時間を止めて、大切に想いを抱き締める。

 みんな、誰にも渡したくないものを誰にも見つからないどこかに隠している。

 だから、誰もが微笑みを零して、この移り世を振り返りたくなるのかもしれない。

                                                          おしまい


illustration * えみこ



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの33333hits記念作品「きみの胸に弾む面影」はいかがでしたでしょうか?
今回は三年生六月終わり、夏至近くのお話となりました。

「バイオリンをネタにしてみよう」と考えた時、まず最初に思いついたのが左手ピチカートでした。
(「ピチカート」は「ピッチカート」とも呼ばれます)
頻繁に出てくるような奏法ではないので、「印象深い」という点で使えるかなあ、と思いまして(笑)。
とにかく、そこからネタを考えたのですが……。
さて、うまく活かすことができたでしょうか?

ちなみにサン・サースの「序奏とロンド・カプリチオーソ」には左手ピチカートは出てこないようです。
「ツィゴイネルワイゼン」を作ったサラサーテはバイオリンを弾く方だそうで、
バイオリンを弾ける人が作曲すると、そういう技巧的な曲も作れるってことみたいです。
時代的にも、左手ピチカートは新しい奏法だと聞いてます。

「楽しき人生」、これは開放弦の左手ピチカートが出てくる曲です。
託生と出会ったギイの人生こそが「楽しき人生」なのかも……と思ってこの曲を出してみたのですが、いかがでしたか?
これってタイトルからしてオイシイですよね♪

また機会があったら、バイオリンのネタで書いてみたいです……(笑)。

最後に、この「きみの胸に弾む面影」が、バイオリンの音色をすこしでも聴きたくなるような、
そんなお話になっていたら嬉しいです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



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