「リンリンってさ、ほとんど毎日温室来ているぼくのとこにだって滅多に寄って来ないんだよ」

 いつも穏やかに笑っている葉山託生。

「大橋先生以外だと、多分、きみにしか懐いてないよね」

 託生は津森清恭にとって掴み所のないふたつ年上の上級生だった。

 そんな彼と一緒にいる時、清恭はほっと肩の力が抜けている自分に気付いて不可思議に思う。

「電話とかだと母親には乱暴な口をきいちゃうんだけど、でも実際は逆らったことなんてないんだ」

 最近では誰にも言えない情けない自分の姿すら、託生にならぽつぽつと話せるようになった。

「まあねえ。『ママと呼んでちょうだい』はこの年齢になったら、やっぱり厳しいよねぇ」

 ぼくなら即座に受話器をフックに置いてるだろうな、と託生は馬鹿にするわけでもなく笑って、
「でも、ちゃんと呼んであげるだけ、きみは偉いよ。
だって、それってお母さんを喜ばせてあげようとしてのことじゃないか」
怒鳴るように受話器に向かって、『じゃあねっ、ママ!』と叫んだ清恭に、
「きみはとても優しい人なんだと思うな。だから、リンリンもきみには懐いてるんだよ」
穏やかな声で、リンリンはきっときみのことわかっているんだね、とこんなふうに素敵な言葉をいつもくれる。

 誰も自分のことなどわかってくれない、どうせわかってもらえない、それならわかってもらえなくてもいい──。

 そんなふうに諦めていた清恭にとって、ふたつ年上には全然見えない、いかにも頼りなさそうなこの三年生は、いつも探るでもなく、自然に清恭が語るのを聞いてくれた。

 そして、この「葉山託生」は、津森清恭にとってどこまでも掴み所のない最上級生だった──。


世界最強のトクベツ手形



 出会った最初は、この上級生のことを胡散臭いヤツだと思った。
それが「掴み所がない」印象に変わったのはいつだったろう。

 拾った黒猫の様子が知りたくて温室をうろつくようになって初めて、清恭はバイオリンを弾きに通っている三年生の存在を知った。
この近くでばったり会ったのはそのせいか、と漏れ聴こえてくるバイオリンの音色に思わず納得したものだ。

 託生はバイオリンの練習の合間に園芸部の手伝いをしているらしい。
託生の行動パターンにうすうすながらも感づいた清恭は極力、バイオリンの音がしている時を狙って温室に近付いた。

 それは何も託生のバイオリンが聴きたいからではない。

 放課後のほとんどを温室で過ごしている託生をさけて温室に入るのは至極困難なことだったが、バイオリンを奏でている間だけは別だった。
バイオリンを弾いている時の託生は音を追いかけるのに夢中で、ほかのことなど目にも耳にも入らない。
だから、見つからないように温室の様子を伺うのにちょうどよかった。

 清恭がこのふたつ上の上級生に出会ったのは偶然である。
その偶然知り合った三年生の名が「葉山託生」だということは、温室の主である園芸部顧問の大橋が教えてくれた。

 大橋は、清恭が温室の近くをうろついていると目聡く見つけては、
「暇なら草取りを手伝ってもらってもいいかな? お礼にお茶でもご馳走するから」
おいでおいで、と手を振りながら柔らかい口調でしばしば清恭を誘ってくるような、一風変わった教師だった。

 大橋の誘いに、はっきりと「結構です」とも断われず。
かと言ってほいほいと誘いに乗ることもできず。
最初のうち、清恭はその場から逃げるようにいつも黙って去るしかなかった。

 呼ばれて近付いたところで何を話せばいいのかもわからない。
それに話をすると言っても、どうせまた説教やお小言を聞かされるのだ。
甘い誘いになどのるものか、と意固地になって完癖に無視していたのだったが──。

 何度目の誘いの時だったろう。清恭の中で変化がおきた。
それは大橋が腕に黒猫を抱いたまま、性懲りもなく、おいでおいで、と誘ってきた日のことだった。

 しばらく黒猫を見かけてなかった清恭は、黒猫の柔らかそうな毛皮に惹かれてついふらふらと温室の中に足を踏み入れてしまった。

 引き返したほうがいいかもしれないと後悔をし始めた時、ガラス戸を抜けるとひとりの生徒が、「あれ?」と目を見開いて清恭を見止めて、途端、清恭の顔に納得したように、
「いらっしゃい。耳障りになっちゃったらごめんね」
顎に当てていたバイオリンを脇に挟みなおして穏やかに笑った。

「ぼくも彼も津森くんがリンリンに会いに来てくれるの楽しみにしていたんだよ」

 温室の住人その一である大橋はいつもの笑顔で、
「三年の葉山託生くん、だよ。リンリンの世話もよくしてくれてね、頼もしい園芸部期待の補助部員だ」
白衣のポケットの中にちょこんと納まった黒猫を清恭の腕の中に移してきた。

「園芸部期待の補助部員? ぼくって実はそうだったんですか?」

 呆けた顔で自分を指差すと、温室の住人その二の葉山託生が大橋と清恭とを見比べながら、
「今、初めて知りました」
バイオリンをケースに仕舞いながらおかしそうに頬を緩めた。

「不肖の補助部員ですみませんね、大橋センセ」
「いえいえ、葉山くんにはクラスの副級長としてもお世話になってますからね。
担任としては補助部員として草取りをお願いするのすら本当に申し訳なく思いますよ」

 そうして。

「ちょうどお茶にするところだったんですよ。先に一服してから、そのあと、草取りを頼んでいいかな?」

 大橋のその口調はとても穏やか過ぎて。

 だから、清恭は逃げることもできないまま、断わる言葉を出せなくなった。

 そんな黙ったまま頷いて応えた一年生に、
「よかった。なら、コーヒーと紅茶、どっちがいいかな? どっちもインスタントなんだけどね」
そう尋ねて奥へと消えてゆく大橋の背をくすくす笑って目で追いながら、
「紅茶のインスタントってすごく不思議に思わない?
ぼく、ここで初めて飲んだ時、すごく甘くて驚いたんだ」
そんなふうに気さくに話かけてきた大橋の教え子の三年生。

 ふたりの放つ雰囲気は温室の植物たちに溶け込んで、清恭はまるでここには自分ひとりが緑の中にいるように思えた。

 けれども、決して寂しい孤独の空間なのではなく、誰かに見守られているようにほんのりと温かくて、それでいてのんびりできる──。

 そうして、いつしか温室は清恭にとって、祠堂に来て初めて見つけた居心地のいい空間となっていた。





 山奥の中腹に建つ全寮制の祠堂学院高等学校に入学してこの方、邪魔に思うものは多くても、気構えずに済むものは少なかった。

 植物の緑は邪魔じゃない。警戒しなくてもよかった分、清恭には楽だった。

 つい強い口調になってしまう清恭は誤解されることがとても多い。
乱暴者と呼ばれ、それを覆す口調がまたきつくなるからまた乱暴者と呼ばれる。その繰り返しの毎日だった。

 望んでガチガチの鎧を装備したいわけではない。
けれど、いつの間にか硬い鎧で身を包んでしまっていた。

 誤解が誤解を生んでゆく、そんなすれっからしの日々に身を置いていた清恭は、誰かに自分をわかってもらえるなどと期待すること自体が馬鹿らしいことだと思っていた。

 猫を拾ったのは偶然だった。
猫を飼いたいと思ったのは、自分をわかって慕ってくれる存在がこの祠堂のどこかにほしかったからなのかもしれない。

 そのふたりの温室の住人たちの存在を清恭が知ったのは、母親の言うがまま祠堂に来たことに後悔しながらも諦めた頃だった。
のんびりと草木をいじる教師と楽しそうにバイオリンを弾く上級生のふたり組は、いつものほほんと穏やかな雰囲気を振りまいていて、彼らの周囲だけ時間の流れがゆっくりと過ぎているような気がした。

 清恭は要領のいい同級生たちとはどうしても足並みが揃えられなくて、集団に馴染めない自分自身にいつもムシャクシャしていた。

 どうしてあいつらは塊になっていられるんだろう。どうして自分はひとりぼっちでしかいられないんだろう。
自分自身の協調性のなさはもともと自覚していたが、それでも自分を誤魔化してまで他人と馴れ合うつもりは清恭にはなかった。

 だけど、ときどき、清恭もひとりでいるのが寂しくなる。
そんな時は決まってあの黒猫を抱き締めたくなった。

 温室の住人たちとの何気ない世間話も気を紛らわすのにちょうどよかった。
大橋が淹れてくれた甘い紅茶を口にしたあの日から、温室でならいつもの警戒心も鳴りを潜めてコタツで丸くなる猫のようにほっと安堵の息を吐けた。

 それが不思議と心地よくて、足りない何かを求めるように清恭の足先はついここに向いてしまう。

 いつもピリピリと神経を尖らしていた清恭にとって、そこは夢の空間だったのかもしれない。

 最初、清恭は温室に来ても、ただぼんやりと時間を潰していただけだった。
特に自分からしゃべることもなく、ただ黙って猫をかまっていた。
時折、大橋から頼まれた草取りをして、最後に再び猫の頭を撫でて帰る、その繰り返しだった。

 それがぽつりぽとりと口を開くようになったのは、猫の餌がきっかけだ。

 ある日、留守がちな大橋に代わって食堂から残り物を持ってきた託生が、
「魚の骨って取り除いたほうがいいのかなあ」
生臭い血のりのついた粗(あら)を指先で摘み上げながら首を傾げた。

 その何とも頼りない姿を見ていたら、清恭自身、自分でも驚いたことに、
「子猫なんだから骨はヤバイんじゃないか?」
喉につっかえてしまったらかわいそうだ、といつの間にかぽつりと言葉を漏らしていた。

 清恭も託生もあいにく猫の飼うのは不慣れだったため、それからはああでもないこうでもないとお互い意見を出し合うようになった。

 猫の餌についての語らいは明日の天気の話をするのと同じくらい差しさわりがない会話だった。
ナイショにするような話でも、個人的な悩み相談でもなかったため、気楽に言葉を連ねられた。
結果的に、清恭が「他人に慣れる」のにはちょうどよかった話題だったのかもしれない。

 そうして、猫の話題の合間合間に世間話が挟まれるようになったのも、清恭にとっては自然の成り行きだった。

 中間テストが近くなると、「ぼくの時はこんなのが出たよ」とか、「初めてとった赤点が古典で、追試が終るまで気が抜けなかった」など。
託生の情報で清恭が助かった部分も多々あった。

 同級生の一年たちよりも二学年先輩だけあって、託生は清恭に何かを押し付けたり強く求めたりしなかった。
だからなのか、徐々にだが清恭の話の中に清恭自身のことが含まれるようになっていった。

 託生は清恭がぽつりぽつりと自分のことを話す時、
「もしかしたら、きみのこと一番わかってないのはきみかもしれないね。
自分が優しい人だってこと、きみって実は知らないでしょう?」
からかうようにくすくす笑いながら何度もそう言ってきた。

 相手がそんなふうな託生だったから、清恭も、
「この間も、夜、リンリンを抱きにここに来たんだけど……。もう寮に戻るの面倒になっちゃってさ。
消灯時間だったんだけど、誰も俺のことなんて気にしないんだからもういいやって、ここでしばらく寝てたんだ」
誰にも言えずにいた「すぐに諦めてしまう自分」を曝け出せたのだろう。

 どうせ俺は問題児だし、今更いい子ぶっても仕方ないから、と投げやりな言葉を口にしながら清恭は笑う。
笑えるのはすでに諦めているからだ。

 すると、そんな清恭を、
「そんなことないよ、大丈夫だって」
温室の緑を背景に、時にはポンと背を叩きながら、託生がにっこりと笑って宥める。

「きみは問題児なんかじゃないよ」

 穏やかに笑って正してくれるのがやっぱり嬉しくて、その言葉が何度でもほしくて。
次第に清恭は託生に本音を漏らすようになっていった。

「きみが問題児だなんて甘い甘い。上には上がいるんだって知ってる? 例えば、このぼく。
きみなんてまだかわいいほうだ、ホントだよ。本当のきみは優しいんだから大丈夫。
ほら、リンリンもそう言ってる」

 清恭の腕の中の黒猫はヒゲをわずかに揺らしながら、すやすやと安心したように眠っていた。

 笑顔が溢れて切なくなる場所──。

 そこは清恭が祠堂で見つけた最初の楽園だった。





 今年度の祠堂学院高等学校の入学試験は壮絶な倍率だったと、一部の世間では騒がれた。

 それは財政界に流れたひとつの噂がすべての発端となっている。

 その噂とは──『世界有数の大財閥Fグループの御曹司が、何をとちったのやら、日本の、それも辺鄙な山奥の全寮制の私立高校に留学している』というもので、更に付け加えて、『今年、彼は三年生。この一年間が彼と接触する最後のチャンスとなる』とそんな尾ひれがついたため、大人たちは余計慌てふためいたのだった。

 世界の政財界に多大な影響持つ彼のバックグラウンドはとても魅力的だった。
だから、彼と懇意になることは将来絶対に有益になる、と親たちはよくよく我が子に言い含め、「必ずコンタクトを取りなさい」と多大な期待を込めて、競って祠堂学院に息子たちを送り込んだ。

 祠堂きってのサラブレッド、崎義一ことギイは、昨年度後期評議委員長を経て、今年度は三階ゼロ番の階段長に就任している。

 年功序列の厳しい祠堂において、新顔の一年生が最上級生の彼と接触するのはとても難しい。
親の期待を一心に背負った子供たちは、階段長という気軽に相談できる存在に縋って顔を知ってもらおうと画策するのが精一杯で、誰とでも平等に接する彼と懇意になるなど夢のまた夢の話だった。

 そして、津森清恭も無理矢理母親に祠堂に入学させられた生徒のひとりで、
「高い学費を払ってるんですからねっ。
いい? 何としてでも、この一年間のうちに崎家の御曹司とコンタクトを取りなさいっ!」
親の期待の大きさはほかの密旨(みっし)をおびた子供たちと何ら遜色なかった。

 だが、清恭は、砂糖に群れる蟻のごとく、懸命に繋ぎを取ろうとギイを追い回す同級生たちの流れに乗ることなどできなかった。

 かといって、気の強い母親相手に、
「そんなこと、本人を知らないからそんな簡単なこと言えるんだ!
気安く声掛けるなんてできない相手なんだからなっ!」
きっぱり反論することもままならない。

 ただただ清泰は、マネキンのような冷たい美貌の御曹司を遠目に見つめることしかできずにいた。

 勉学よりも優先するように、と母親が電話のたびに何度も口にする。
学生の本分を履き違えている実家からの要求は、清恭が何も言えないのをつけこむようにますますエスカレートしていった。

 電話がかかってくる回数が増えるごとに、清恭は重く圧し掛かる期待に押しつぶされそうになった。
だから、祠堂での高校生活は入学早々から清恭にとって虚しいものとなっていた。

 少しだけでも家族が清恭個人の話に興味を示してくれていたらまた違っていたかもしれない。
けれど、清恭の母親が興味があるのは、かの御曹司との接触がうまくいったかどうかの結果だけだった。

 そんな何度目になるかわからない母親の催促電話に嫌気をさして、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかにように、
「まったく、俺にそんなこと期待するほうがどうかしてるよ」
清恭は母親本人に言えない愚痴をぽとりと託生に零したことが、そもそも心の内を打ち明けるようになった始まりだった。

「そんなに期待されちゃ、きみも大変だねえ。
でも一年生って『ここがわからないんです』とか言って、教科書持参して階段長のところによく行ってるじゃないか。
それ、きみも真似してみたらどうなんだい?」

「葉山先輩、それ、本気で言ってる?
俺のこの性格で、『センパァ〜イ、ここがわからないんですぅ』ってあの崎先輩に言えると思う?」

 眉間に皺を寄せながら、清恭が品を作って怪しい声を出すと、途端に隣りから、くくく、と忍び笑いが漏れてくる。

 託生の返事は聞くまでもない。

「ほら、先輩だってそんなの無理だって思ってるじゃないか。
本人がいくら努力したところで無理難題ってのは存在するんだよ。
そこんところを早くあの母親が理解してくれないかなあって期待するのが関の山なの。
まったく嫌になっちまうよ。
俺、実家から電話がかかって来るたび、絶対次こそは居留守使うぞって思っちまうんだよなぁ」

 徐々に小さくなってゆくその声のように、純粋に母親を慕う清恭の子供らしい心がだんだんと萎縮していく。
その様子が傍目からはっきりとよく見えた。

 そしてそれは、親から見捨てられたくないと足掻いている彼の心そのままのように託生の目に映って、思わず胸がぎゅっと締め付けられて苦しくなった。

「そんなに期待、すごいんだ?」

 託生が何かを探るように尋ねると、清恭は雑草を、えいっ、と抜きながら、
「まあね。……もしかして葉山先輩のとこはそんなこと言わない親? いいよなぁ」
額に浮かんだ汗を拭いつつ、羨ましいぜ、とぽつりと零した。

「まあ、ぼくのところは普通の会社員だからね。立派な実家じゃなくてよかったなあって今は思ってるかな」

 託生の心底同情してくれる声が、清恭にはとてもくすぐったく聞こえる。

「でもさ、会社員には会社員の辛さがきっとあるもんじゃないの? みんな、どっかしらで辛いんだよ、っと」

 つい、清恭は手当たり次第、そこら中の雑草を掴んでしまった。
すでに草取りはヤケクソの域に入っている。

「辛い、ねえ。そうだよね。みんなどっかで辛い想いをしているのかもね……」

 託生は草取りをしていた手を止めて、ふっと近くの野菜の苗に視線を投げたが、それはまるでどこかここではない遠くを見ているかのような、視線の定まらないぼんやりとしたものになった。

 しばらくして。

 聞き逃してしまいそうなほど小さな声で。

「あのさ……。協力、してあげようか?」

 地面に囁くように、ぽつりと託生が言う。

「え?」

 清恭が訊き返すと、
「ギイへの繋ぎ、ぼく、しようか?」
真剣な眼差しを小さな苗に向けて言葉を繋ぐ今度の声は、先ほどとは打って変わって、心を決めたようなはっきりとしたものになった。

「そんなの……無理だよ。いくら葉山先輩が三年だからって、あの崎先輩だぜ?
同じ学年のよしみだからってそんなに簡単に時間を取ってもらえっこないよ」

 俺のクラスのヤツが順番待ちが大変だって言ってた、と噂話に苦笑いしながら、
「先輩のその気持ちだけで嬉しいからさっ」
清恭は最初から諦めるつもり満々で、またひとつ雑草に手を伸ばす。

 季節が暖かくなると雑草の伸びも比例して元気になってゆく。
生えて抜いての繰り返しが無農薬に一役買っているとはわかっていても、追いかけっこにはウンザリする清恭だった。

 そんな汗水垂らす清恭に向かって、
「実はぼくにもツテがあるって言ったら? きみにだったらきっと彼も協力してくれると思うんだ」
託生は珍しく緊張した声でそう言うと、射抜くような視線をじっと清恭に向けた。

「彼?」
「うん、赤池くん」

 同じクラスの前期風紀委員長サマ、とナイショ話をするように素早く言い切ったあと、一息吸って、
「赤池くんだったらきっと大丈夫」
とっておきの秘密を語るように、託生はひっそりと笑った。





 それから、清恭は託生に引き摺られるように学生寮に舞い戻った。

 途中、託生が「ちょっと待ってて」と言って自動販売機で甘い飲物を買うと、「こっちこっち」と自分について来るよう手招きする。

「あれ? 葉山くん、今帰り?」
「あ、野沢くん、ちょうどよかった」

 二階の階段長である野沢政貴が託生に声をかけたのを清恭は一瞬不思議に思いながら、託生が立ち止まったと同時に清恭も託生の背に隠れるように足を止めた。

「野沢くんさ、赤池くんがどこにいるか知ってる?」
「ああ、赤池くんなら今部屋に戻る途中なんじゃないかな? さっきここ通ったばかりだから。
うまくすればこの先で捕まると思うよ」

 ありがとう、と笑い返す託生に、野沢政貴が興味津々に、
「ところで、うしろの一年生って誰?」
託生の身長では隠れきれない清恭の顔を覗き込んで来た。

「友達なんだ。津森くんだよ」

 託生がすかさずそう言うと、野沢政貴は、ふうん、と頷き、
「一年生の友達だなんて珍しいね」
にっこりと微笑んで、バイバイと手を振った。

「ぼくたちラッキーかも。津森くん、急ごう。赤池くんをとっとと捕まえなくちゃ」

 そして、足早に歩き出した託生を追って清恭も急ぐと、前方を歩く生徒の中に一際背筋をピンと伸ばして歩く人物が目に留まった。

「赤池くんっ、ちょっと待ってっ!」

 託生が声を掛けた途端、ちらりと振り返った赤池章三は、託生のうしろで小さくなっている清恭に視線を投げて、幾分眉を寄せて足を止める。

「葉山のくせして、何をそんなに急いでいるんだ」

 その口調は馬鹿にしたようでもあり、それでいて親しい仲でしか言えない口調でもあって、清恭にはふたりの関係がまったく読めなかった。

 それでなくても二階ゼロ番の野沢政貴に続いて、現風紀委員長の赤池章三の登場である。
実は寮の玄関先でも、一階階段長の矢倉柾木から、「葉山、おまえ、子分でも作ったのか?」などど揶われたばかりだった。

 こうも大物たちが続けざまに託生と談笑するのを目にしてしまうと、いつもはへらへらと笑っているばかりの託生であるが、
「葉山先輩って、一応三年生してるんだ?」
この託生もやっぱり最上級生なのだと今更ながらの現実を清恭は実感する。

「失礼だなあ。一応ってのはないんじゃない? ぼくは列記とした最上級生ですっ!」

 そんな会話を交わしながら、ふたりは笑いながらここまで廊下を歩いてきたのだった。

 だから、普段へらへらしている託生が、今度は現風紀委員長の赤池章三の手に先ほど買った苺ミルクを押し付けて、
「これ、どうぞっ。そんで、ちょっとぼくの部屋まで付き合ってほしいんだけど」
恐れ多くも風紀の要と噂される人物の制服の裾を皺を作るのも構わずに強引に引っ張って先を急ぐその姿には、さすがに清恭も目を見開いて驚きを隠せなかった。

「おいおい、葉山。そんなに慌てるなよ。夕飯にはまだ時間があるだろう?」
「ご飯の心配は悪いけどあとでしてよ。それより話があるんだってば」

 そうして、ひとつの部屋の前まで行くと、託生はまるで野良猫を隠すようにふたりを中に引き入れる。

「三洲は留守のようだな」
「今日は生徒会のほうで遅くなるって言ってたから」

 三年生ふたりの会話から、清恭は、
「葉山先輩のルームメイトってもしかして生徒会長の三洲新さん、ですか?」
またもや託生の交友の広さを改めなければならない必要に迫われた。

「知らなかったのか?」

 訊いてきたのは赤池章三だった。

 目立つ階段長たちに加え、孤高の現風紀委員長、そしてあのカリスマの生徒会長。

 その品評会を開いたような見事な顔触れに感嘆しつつ、
「葉山先輩って結構意外と派手な人?」
そう清恭が口にすると、
「何なのさ、その派手ってのは。ぼくのこと派手だなんて言ったの、きみが初めてだよ」
あはは、と笑いながら、ふたり分のマグカップを手にしながら託生がそばにやって来た。

「はい、どうぞ。これは津森くんの。そんで、赤池くんはそれ飲んでね」

 託生が章三に勧めたのは、先程押し付けるように手渡した苺ミルクの紙パックだった。

「へいへい、どうも」

 公平無私の風紀委員長として噂に名高い章三が、嬉しそうにその甘い飲物に口をつける。

 すると、その様子をちらりと横目で見た託生がニタリと口が歪めて、「飲んだね?」と彼に似合わない人の悪い笑顔を浮かべて、
「実はさ、頼みたいことがあるんだよ」
そう口火を切った。

「津森くんのこと、ギイに橋渡ししてほしいんだ」

 一気に言葉を吐いて、「この通り、お願いします!」と両手を合わせて、拝むように章三に頭を下げる。
章三のほうも思いも寄らない託生の言葉だったのか、ぐはっと苺ミルクを喉に詰めらせると何度か咳込んで苦しそうに胸を叩いた。

 そうしてやっと落ち着いた章三がまずしたこととは、
「お、おまえ、何考えてるんだっ!」
託生を叱りつけるように頭ごなしに怒鳴りつけることだった。

 怒りが章三のこめかみをピクピク振動させている。

「こいつ、どうせチェック組だろうがっ!
あれだけ僕たちに口酸っぱく言われときながら何利用されてんだっ、おまえはっ!」

 ギロリと清恭を睨みつけると、章三は人差し指でぴしゃりと新一年生の顔面を指しながら、
「おまえっ、葉山に近付いてラッキーなんて思ってるんだろうが、それはお門違いだぞっ」
勘弁してくれよ、と項垂れた。

「違うって、それは誤解だよっ、津森くんはそんいうんじゃないんだって。彼はすごくいい子なんだよ。
本当に優しい子なんだっ」
「葉山、まだそんなこと言って……。おまえは騙されてるんだ。ちっとは頭冷やしてよく考えろっ。
いい子がおまえを利用するか? あん?」

 その熱中した会話にひとり不可解に思った清恭が、
「あのォ、いい子かどうかはともかく、俺、別にこの人に期待なんかしてないです。
第一、この『のほほん』とした葉山先輩を利用して得することなんかあるとは思えないし」
赤池章三の迫力に小さくなりながらも託生を指差すと、
「ほらっ、津森くんは違うだろ。だから違うってぼくがさっきから言ってるじゃないかっ」
託生が拳を握り締めて章三に言い返した──のだが、託生ははっと何かに気がついたような顔して、
「あれ? さっき、何となく釈然としないような言われようだった気が……」
頭を傾げて、ん?と明後日の方向に視線を飛ばす。

 その惚けたような仕種が、ピリリと緊張していたその場の空気を一気にのんびりムードに変えてしまった。

「まったくコイツわッ。付き合いきれん」

 託生の惚けた天然振りには日常茶飯事に振り回されているのだと言わんんばかりに、章三は呆れたように苦笑しながらベッドに腰を下ろす。

 そうして、はあ、とひとつ溜息を吐くと、泣く子も黙る前期風紀委員長サマはぶすっと顔をしかめると口を真一文字に引き締めて、今度はぴたりと黙り込んでしまった。

 沈黙が二七○号室の隅々まで染みわたった頃になって、
「よし、わかった」
託生の言い分にやっと聞く耳を立てるつもりになったのか。
章三がいかにもまずそうに苺ミルクを飲みだした。

「百歩譲ってだな、この一年がホントにイイコだとする。
それで、葉山は僕にこいつをギイのところに連れて行ってほしいって?」

 うん、そうなんだ、と託生が頷くのを、これまた清恭が不思議に思って、
「あのォ、今更訊くのもナンなんですが、赤池先輩って風紀委員長ですよね?
やっぱり上のほうの役職つくと、階段長とかの他のトップの人たちと知り合いになれるもんなんですか?」
三年生の繋がりがいまだによくわからなくて、すみません、と恐縮した態度で尋ねた。

 すると、さすがに聡い章三としては何となく事情が見えてきて、
「なるほどね。きみは何も知らないまま、こいつにここに連れて来られたってわけだ」
ふうん、と今度は興味深そうに、章三は清恭を観察するように上から下までジロジロ見た。

「確かにね、僕は風紀委員長だし、階段長たちと顔を合わせる機会も多い。
もちろん、ギイのこともよく知っているよ」

 そして、おいしそうにちゅるり、とストローを啜ると、章三は、改めて話すことじゃないが、と前置きしながら、
「まあ、ギイはトクベツらしいからな、階段長の中でも特に三階ゼロ番は大盛況だ。
ヤツとお話したい一年坊主はあとを絶たないのが現状だよな。ホント、まるで関所を通るような賑わいだ。
お蔭様でギイの予定はぎっしり埋って約束を取り付けるのも一年坊主たちには大変だろう」
そんなふうに、まるで他人事のように話し出した。

 その他人事のような態度が一変したのは、「ところが、だ」と、一息おいて章三が身を乗り出した時だった。

「僕の場合、その関所なんてのは関係ないんだな、これが。実は僕は立派な通行手形を持っててね。
自分で言うのナンだが正真正銘の顔パスってヤツなわけだ。ま、ギイとは寝食ともに過ごした仲だしな。
……ってことで、おたく、津森クンだっけ?
つまり、おまえさんをギイのところに連れて行くのは僕にとっては朝飯前なわけさ。
ちなみにそこの葉山にとってもな」

「え? 葉山先輩も?」

 章三はともかく、託生の名が挙がったことは清恭にとって青天の霹靂だった。
何で?と顔に出てしまった下級生の困惑気味な表情を見止めて、章三はまたひとつ溜息を付く。
だが、清恭の戸惑いを無視してそのまま言葉を続けた。

「そりゃあ何たって俺は一年、葉山は二年の時のギイのルームメイトだからな。
僕たちが持っているのはそこらの三年が持っている通行手形とはちょっと違う、特別仕様ってヤツなのさ。
ギイのことなら、おそらく祠堂の中では俺たち以上に知っている者はいないだろう。
ヤツの裸を見るなんざ日常茶飯事。葉山もそうだったろう?
あいつ、羞恥心って欠けてるからな、すぐに脱ぎたがる」

 苦虫を噛み締めたように本当に嫌そうに顔を歪めた章三に相対して、託生のほうは顔を赤らめている。

「確かにギイは気にしないよねえ。アメリカで育ったら誰でもああなるのかな?」

 託生が今しがたふと気付いたと言わんばかりに尋ねると、
「あいつの冗談には付き合いきれんわ。
僕が同室だった時、あいつは『ここはオレと章三の愛の巣だな』とぬかしおったんだぞっ」
章三は更に嫌そうな表情をして、
「去年なんぞ『オレと託生のスイートホーム、ならぬ、スイートルーム』とほざいた時には、僕はな葉山、思わずヤツの後頭部をド突きたくなった」
けっと鬱憤を飛ばしながら、口を尖らしてこう言い放った。

「あれはもう、アメリカ風土のせいじゃない。本人の資質だっ!」

 すべてのアメリカ人があれと同じだとは考えるな、アメリカ人に失礼だろう、と母親が子供に言い聞かせるように章三が託生にきっちり諭す。

「でも、崎先輩ってそういうふうには見えないけど……?」

 マジ?と清恭が託生に確認すると、託生は、まあね、と笑って頷いた。

「人は見かけじゃわからないもんだ。外見なんて当てになんかならない。
おまえさんだってそうじゃないのか、え、津森クンや」
「それ、どういう意味ですか?」

「一見、葉山とは気が合うようには見えんな、と思ったまでだ。
葉山はこう見えて、なかなかのキャラだからな」
「あのぉ、赤池くん。この場合の『なかなかのキャラ』って褒め言葉? それともけなしてる?」

 さてね、と知らん振りして、苺ミルクを啜る章三はどこか楽しそうだった。

「それで、だ。ギイに津森くんを紹介する件だが、僕は引き受けてもいいと思ってる」
「え? ホント?」

 瞬間、託生の表情は花開いたような笑顔になった。

 そんな託生をちらりを一瞥すると、
「ただし、ひとつだけ条件がある。それをきみが呑むなら、僕は今からでもギイに話をつけてあげよう」
章三は清恭に顔を近付けて、にっこりと笑ってこう言った。

「二度と葉山に話しかけるな、近付くな。それを約束するなら、僕も確かに約束を果たそう」





 清恭は頭の中が白くなって、一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「どうしてそんなこと言うんだよっ」

 託生が理不尽だと喚きながら、章三に食ってかかっている姿が見える。

「そりゃあ、津森クンにはしっかり現状を知っていてもらいたいからさ。さて、どうする?
葉山と縁を切って僕と一緒にギイのところへこれから行くかい?
言っておくけど、葉山が持ってるトクベツ仕様の通行手形は今は全然使えないぜ?
それに比べて僕のはいつだってスルーパスの便利なヤツだ」

「あのね、津森くん。赤池くんの言うことは本当だよ。
多分、ぼくがきみを連れて行ったら、おそらくきみが不利になる。
赤池くんはね、ギイの相棒……つまり唯一無二の親友なんだ。
だから、ギイのところに繋ぎをつけるなら、彼が一番打って付けなんだよ」

 崎義一の親友と言われて、清恭はギクリと緊張した。
章三をちらりと見ると、風紀委員長としての貫禄に混じって、そういえば先ほどから親友ギイへの気安さが伺える言いようだった、と改めて納得する。

「あのな、津森。おまえ、葉山のこと利用して得するようには見えないってさっき言ってただろう?
だけどな、僕たちの間ではギイ狙いの一年が葉山を利用することは充分可能性があると睨んで今までずっと気をつけてきたんだ。
二階ゼロ番の野沢政貴を知ってるだろう?
あいつはあんなふうに見えて、昨年度の後期には評議委員会委員長のギイと並んで副委員長をやったツワモノだ。
僕に劣らずの毛の生えた心臓を持っている。
ギイの周りには僕をはじめ、利用しようと近付いて来る奴を逆手に取って利用するくらいのふてぶてしい奴が揃ってるんだよ。
唯一の落とし穴がこの葉山なんだが……。
コイツは利用されるだけ利用されて、それでも多分許してしまうような奴だからな。
そんな葉山がだ、欲に駆られた奴らに利用されてみろ。葉山を知ってる奴だったら誰だって面白くないだろう?
悔しいかな、この僕でさえも、だ。
そして僕なんかよりも当のギイにしてみれば、元はと言えば原因はギイにあるんだ、自分のせいで葉山が傷ついたとなれば──。
これだけは確実に言える。そんなことした奴はギイの逆鱗に触れるだろうよ」

 おそらく祠堂にはいられなくなる、と続いた章三の台詞が清恭の耳に重かった。

「ぼく、どうやら信用ないみたいなんだよね。人を見る目がないってよく言われるんだ。失礼しちゃうだろ?」

 だから、自分が連れてゆく人間はまず絶対疑われるだろうし、それに多分ギイに疎まれる、と託生は拗ねたように言うが、でもそれは当然かもしれない、と清恭は思った。

 自分のせいで周りの人間が踏み台のように利用されて、使い捨てのカイロのように傷つけられて捨てられていったら、自分だって崎義一の立場であったなら当然、怒りを覚えるだろう。

 そしてこの時こそ清恭が初めて、崎義一というターゲットを彼も「人」だったのだと認識した瞬間だったのかもしれない。

 今までは「存在」だけがただ強烈に意識にあった。
心がある、自分と高校生の同じ生きている人間なのだとは、今まで考えたことなかった。
そんな自分が彼に近付けなかったのは当然であり、逆にそんな自分だったからこそ近付かなくてよかったんじゃないかと今は思う。

 利益だけで近付かれても、彼には迷惑でしかないだろうから。

「それともうひとつ。葉山の場合、手を出したら睨まれるのは階段長たちだけじゃないぞ。
生徒会長の三洲新。現ルームメイトの奴も葉山のことを結構気に入っててね。
そっち側にも葉山は意外と顔が利くわけだ。ホント、罪作りな男だよ。
本人、のほほんと身の回りを気にしないから、周りの僕らがこうしてヤキモキする羽目になる」

 そうして、章三はまっすぐ清恭を見て、
「どうだい、これで納得してもらえたかな?」
二者択一の判断を清恭に問うのだった。

 今、清恭の耳には、『崎家の御曹司と絶対コンタクトを取るのよ』と受話器の向こう側から声を張り上げる母親の声が聴こえていた。

 そして、それと重なって、
『本当のきみは優しいんだからすぐに友達ができるさ。
きっとそのうち、きみの素敵なところをたくさんみんなに知ってもらえるようになるよ』
大丈夫だから安心して、と一緒に草取りをしながら言ってくれた託生の声が目を閉じた清恭の脳裏に思い出される。

 清恭の心が凍える前に託生や大橋は優しく近付いてくれた。
自分が寂しいのだとは気付かないまま、温室の住人たちに心を温めてもらっていた。

 いつの間にか荒んだ心が癒されていて、胸を弾ませて温室に通うようになった頃、高校生活も捨てたもんじゃないと考えるようになっていた。

 その憩いの時間を捨ててまで、これは縋りつくことなのだろうか?

 将来を考えたら、確かにFグループとの繋がりは魅力的だろう。
けれど今、自分ひとりだけ海底の奥底にひっそりと息づいて、溺れてしまうのも構わずに孤独に泳ぎ続ける自信は清恭にはなかった。

 だから、清恭は自分が生きる道を選ぶことにした。

「赤池先輩、俺、崎先輩のところには行かなくてもいいです」

 未来よりも現在を、今の自分を大切にしようと思って清恭は選んだ。

「崎先輩と知り合いになれなくても、今と別に変わらないわけだし。
俺自身、自分で努力しても知り合いになれるとは思わなかったから、ちょっと期待しちゃった部分もあったけど。
でも、そんなの棚から牡丹餅みたいなうまい話、早々にないよ……。
それに、自分でできなかったことを他人のせいにしたくないし、俺、他人を巻き込んでまで母親に褒められようとは思ってないから」

 だからもういいです、と清恭は重ねて言った。

「でもそれじゃあ、津森くん、諦めちゃうの?」

 清恭の顔を伺うように、託生はいかにも心配そうに、平気なの?と訊いてきた。

「諦めたくないけど、さ。でも、諦めなくちゃならないことだってあると思うんだ。
この話は俺には縁がなかったってことで」

 いつでも優しくしてくれた、のんびり屋で心配性の三年生。

 その託生に清恭は、妙にさっぱりとした、何かを吹っ切れたような笑顔を向けて、
「大丈夫だって。俺、平気だから。祠堂に来てさ、問題児って周りから言われて、もういいやって思ってたけど。
先輩と話すようになって、これでもちょっとは高校生活が楽しく思えるようになったんだ。
だから、葉山先輩と知り合えただけで俺にとっては結構ラッキーなんだよ。
ほら、先輩って俺のこと、昔の自分に似ているって言ってくれたじゃないか。
あれ、同情で言ってくれたんだとしても、ほんのちょっと嬉しかったんだ」
そんなこと言ってくれる人なんて今までいなかったからさ、と言いながら、少し照れたように鼻を掻いた。

「問題児ねえ。
ま、この短時間で僕が見る限りでは、津森の場合、葉山の百分の一ほどのモンじゃないね。
僕ら三年の中じゃ、葉山の『不良じゃない問題児』は有名だったからな。
今の葉山からは想像できないかもしれないが、そりゃもうこの葉山には手を焼いたもんだ。
僕なんぞ、ギイと一緒に振り回されてエライ目に合った」

 今も現在進行形で巻き込まれ続けているがね、と言いながら、章三は過去を懐かしむように託生を見ると、
「葉山の顔を立てて、津森を『十分の一ほどの問題児』にしたところで、葉山の上を行くのはそん所そこらの奴には無理だね」
そう太鼓判を押しながら、くすりと笑う。

 途端に。

「そんなの赤池くんに言われたくないね」

 からかい混じりに言ってきた章三に、ぷいっと託生が横を向いた。

 すると、章三は、
「葉山、おまえ、津森を見ててホントは口惜しかったんだろう?」
託生の不意をついて、するりと本音を引き出そうと仕掛けてくる。

 一瞬、黙り込んだ託生が唇を噛んでいるのが見えて、清恭はいつもへらへらと笑っている託生らしくないその一面に、見てはいけないものを見てしまったような気分になった。

「先輩……?」

 小さく漏れた清恭の声に、
「諦めてほしくなかったんだ、きみに。いつだって、明日は明るいんだって思ってほしかったんだよ」
託生は息を吐くように言葉を紡いだ。

「去年の春まで、諦めるのはぼくの常套手段だった。
だから、津森くんを見てて昔の自分を見ているようでほっとけなかったんだ」

 そして、シンと静まり返った部屋の中に、託生の「すべてを諦めるなんて言ってほしくなかったんだ」だけが響いて聞こえた。

 その静寂を章三が打ち破るまで、それから託生は顔を俯いたまま、黙って床を見つめていた。





「それじゃっと。夕飯でも食べに行くか? 早く行かないと席を取るのも大変だしな。
葉山、しゃっきとしろよ。隙を見せてたらすぐさま背後霊のように欲の塊の誰かさんたちに憑かれちまうぞ」
「わかってるよっ、赤池くんったらもう煩いなー」

 よっこらしょ、と立ち上がった章三はドアに向かって歩き出すと、突然くるりと振り向いて、
「おい、そこの一年坊主。
葉山のそばをうろつくつもりなら、今度はおまえさん自身が利用されないよう気をつけることだ。
芋づる式に葉山から僕のところへ来られても、こっちだって迷惑だしな。
葉山とつるむつもりなら、そのくらいの用心はしておいてほしいものだね」
そうして、にやりと笑うと、
「ふたりとも食堂に行かないのか? 僕は腹が減ってたまらんのだが」
付いて来いよ、と顎をしゃくって先を歩いた。

「赤池くん、待ってよっ。 ね、津森くん、お腹空いてない? 夕飯食べに行こうか?」

 託生は清恭に安心するように笑顔で頷いて、一緒に行こう、と誘いながら廊下に向かう。

 清恭も託生に続いて部屋から出ると、廊下で章三が腕を組んで待っていた。

 清恭が託生のあとを続こうとすると、章三が即座に横に並んで来て、
「くれぐれも肝に銘じておいてくれよ」
ちらりと託生のうしろ姿に視線を投げた。

「……はい」

 応える清恭の声が、小さく震えて緊張する。

 だが、託生の揺れる黒髪が目に入った途端ぐっと拳を握り締め、清恭は言い直すようにもう一度強く「はい」を繰り返したのち、
「脳みそに叩き込んでおきます」
ひとつの決意を含んだような声を放つと、しっかりと章三に頷き返した。

 その頷きに満足したように、章三が、
「よし、それじゃ食堂に行こうか」
笑って清恭の肩をぽんと叩く。

 その時になって初めて、清恭は晴れやかに笑った章三の顔を見ることができた。

 それが清恭が章三の信用を得た最初の瞬間だった。





 食堂の賑わいはいつもと同じだった。
それでも、人の熱気が肌にしっとりと触れて、清恭にはいつもより少しだけそこが心温かい場所のように思えた。

 ひとりで足を踏み入れる時と違って、その熱気が自分を優しく包んでくれるようで、その喧騒さえもが今夜の清恭にはとても愛しく思えた。

「今夜はカツカレーか」

 隣りの託生に意味ありげな視線を送りながら、章三がほかの生徒たちが手にするトレイをちらりちらりと覗き込む。

「津森クンは好き嫌いあるのかい?」
「特にはないですけど」

 それはよかった、などと談笑しながら三人分の席をやっと確保して、「頂きます」と食べ始めた時のこと、
「葉山、人参残さず食べろよ。カロチンしっかり摂らないと鳥目になるぞ」
スプーンでカレーをほじくるように人参を皿の端に分けている託生に章三が注意をうながす。

「いや、あのね。食べられないわけじゃないんだよ?
ほら、人参って口に入れるのに覚悟がいるじゃないか。
だから、あとからゆっくり覚悟を決めてから食べようと思ってるわけで。
別に残そうとか思ってるわけじゃ……」

 などと苦しい言い訳に四苦八苦する託生。

「おいおい、人参食べるのに一々覚悟なんかいるのか?
カレーの人参なんてな、人参の味なんかほとんどしないだろうがっ。
味わって食べるから余計気になるんだ」
「でも、確かに人参の味してるんだよ?
いくらカレーの味で誤魔化してるって言ったって、人参は人参に違いないんだから仕方ないじゃないか」

「そりゃ人参なんだから人参の味がして当然だろうが。
とにかく、カレーの人参残すなんて僕には許せないんだよ」

 そう言って、章三は託生の皿の上の人参をスプーンで救ってカレーの海の中に戻した。

「ああ〜、ヒドイ……」

 清恭は人参バトルを繰り広げるふたりをただ唖然と見ていた。

「文句言わずに、ちゃんと食えっ」
「せっかく分けたのにィ」

「葉山、わかってるだろうな? 残さず食べるまでデザートはお預けだぞ」

 それらはまるで幼い子供と我が子の偏食を気にする母親の会話のようだった。
誰もが一目おく風紀委員長が世話好きの母親のように甲斐甲斐しく託生の食事に目を光らせている。
それがとても不思議な光景のように思えて目が放せない。

「あ、清恭くん、人参好き?」

 好きならぼくのをあげようか?と無邪気に訊いてくる託生はどうやら後先考えない性格らしい。

「はーやーまーっ」

 隣りで仁王(におう)のように睨む章三の視線がとにかく清恭には痛かった。

 それでも、カレーの香りが食欲を誘う。スプーンを握り締める右手が震えた。
笑いたいのを我慢するのがこんなに大変だったなんて、と、清恭は喉の奥底から湧き出そうな声を我慢するその辛さを久しぶりに思い出したような気がした。



「きよちゃん、ここにいたんだ、よかったァ」

 背中から声を掛けてきたのは、清恭の幼稚舎からの幼馴染、右近緑だった。

「あ、葉山先輩、こんばんは」
「コンバンハ。もうご飯食べ終わったの?」

「ええ、今日は暇だったから早めに済ませちゃったんです。
……って、あ。きよちゃん宛てに伝言を頼まれてたんだった」

 先日、右近緑は葉山託生と真行寺兼満のふたりの上級生たちと一緒に、清恭が拾った猫たちの飼い主を探し回ったことがあった。
飽きっぽい性格が玉に瑕(きず)だが、清恭に声を掛けてくる少ない面々のひとりだった。

「それで伝言って何?」

 清恭が先をうながすと、
「ええと、吉沢先輩がキヨちゃんに八時に四階ゼロ番に来てほしいって。きよちゃん、何かやったの?」
突然の階段長からの呼び出しに、緑は心配げに清恭を見た。

 清恭は、わかった、と頷いたが、緑がかたわらに立ったまま、去ろうとしないので訝(いぶか)しんだ。

 だが、咄嗟に、わざわざ伝言を伝えるために自分を探してくれてたんだよな、と思い直して、「ありがとう」とだけ言おうとしたのだが、
「ありがとう。助かった。先輩のところにはちゃんと行くから。心配するなよ」
ただ一言、礼を言うつもりが、すらすらと自分の口から思いがけない言葉が出てくるものだから、言った本人が自分自身に戸惑ってしまう。

 右近緑のほうは、滅多に「ありがとう」さえ口にしない幼馴染からの優しい言葉に、感激極まりない表情で、「きよちゃ〜ん」と叫んで抱きつきそうになるのを周囲の視線を気にして必死に我慢しつつも、ぱっと太陽に照らされたような笑顔を向けると、
「うん。じゃ、頑張ってね。もし、怒られでもしたら、僕がちゃんと慰めてあげるからさ」
調子に乗って清恭の頭を撫でた。

「おまえに慰められるようになったら俺はおしまいだよ」

 その清恭の台詞を隣りで聞いていた託生が、
「どっかで聞いたような台詞だね」
これまた隣りで食事をしている章三に向かって言うと、
「おまえは黙って人参を食え」
容赦のない言葉が返ってくる。

「赤池くんて好き嫌いないの?」
「突然、何だ、藪から棒に。もしもあったとしても葉山にだけは教えたくないね」

 弱点なんぞおまえごときに教えてたまるか、と章三に冷たくあしらわれつつも、託生はそれでも挫けない。

「あとで奈美ちゃんにでも訊いちゃおうかなぁ〜」

 章三に倍返しで苛められることを逐一考えない短絡的思考の託生は、一言多い口を持っていた。

「ふうん、おまえがそんなこと言える立場だと思っているのか?
さてと、僕もギイに一連の報告でもしておこうかな」

 早速、とばかりに立ち上がった章三の袖に託生は慌てて縋りつくと、
「ごめんなさい、ちゃんと人参食べるから、それで許してくださいっ」
人参をスプーンで救って口に入れると無理矢理水で流し込む。

 いつでも立場は章三のほうが上。

 託生の情けない姿は清恭の目に、いつもと変わらない「のほほんの上級生」として映った。





 その日の午後七時五十五分。津森清恭は四階の階段長である吉沢道雄の部屋の前にいた。

 清恭の部屋は同じ四階にあったため廊下を真っ直ぐ歩くだけで大した時間をかけずにあっという間に四階ゼロ番の前に着いてしまう。

 八時まであと十分って頃を狙って部屋を出てきたのは、少し早いほうが遅れるよりはいいだろう、と考えたのが理由のひとつ。
どうせ叱られるのは一緒なのだから、先になろうがあとになろうが同じだと思って、それなら嫌なことは先に済ませてしまおうと珍しく前向きに考えたのが理由のふたつ目。

 それでも、正味五分ほどの間、清恭は階段長の個室前をうろうろしてしまった。
意を決して早めに訪れたところまでは勢いがあってよかった。
だが、行き交う生徒の視線が痛くて扉をノックをする機会を逃してしまったのである。

 八時まで三分を切った頃、仕方ない、腹を括るか、と最後の逃げ道を自分で封鎖して、二回軽く扉を叩く。

「どうぞ。入って」

 中から四階階段長の吉沢道雄の声がしたので、はぁ、と深く息を吐きながら、「失礼します」と清恭は頭を下げながらドアを開けた。

「あ、適当に座ってくれる? コーヒーでいいかな? インスタントだけどね」

 その物言いが温室で聞き慣れた大橋のものによく似ていて、自然と清恭の肩の力がすうと抜けていった。

 そして。
「はい、どうぞ」
吉沢道雄がテーブルの上にマグカップを三つ並べた。

「え?」

 清恭が訝しんだ瞬間、扉が開いて、
「お、もう来てたのか。早いな」
四階ゼロ番の部屋にノックもなしに入ってくる長身の姿があった。

「崎、先輩……?」

 どうしてここに、の言葉は掠れて声にならなかった。
固まって動けない清恭に、にっこりと笑って話しかけてきたのは四階担当の階段長だ。

「それじゃ、と。津森清恭くん。きみ、この間、消灯時間に部屋にいなかったよね?
一応ね、寮則で決まってることだし。
ここの生徒の安全を考えてのことだから、今度からはちゃんと消灯時間を守ってほしいんだ。
それじゃ、津森くん、今後はよろしくお願いします。僕が言いたいのはそれだけ」

 叱られるつもりで清恭はここに来たのに、「今後はよろしくお願いします」とお願いされてしまうとは、と吉沢道雄の言葉にすら唖然と口を開いたまま受け止めきれない清恭だったのに、更に今度は憧れ続けたギイから、
「温室、猫に会いに行ってたんだって? 祠堂の夜は冷えるのに。すごく寒かっただろう?」
何もかも見透かされたような視線をこんな間近で向けられた折には、清恭はどんな顔を返したらいいのかわからなくなってしまう。

 だが。

「章三から聞いたぞ」

 ギイのその一言で、清恭の顔の血の気が引いた。

 咄嗟に清恭は席を立ち、すぐさま床に膝を折ると、
「崎先輩っ、すみませんっ! ここで先輩に会ったこと、なかったことにしてくださいっ。
どうかお願いしますっ」
必死に床に擦りつけんばかりに頭を下げた。

 章三がギイとの繋ぎをつける代わりに清恭に求めた大きな代償。

 それが頭の中でぐるぐる回る。

 清恭はとにかく必死に土下座をして、
「お願いですっ! 先輩と俺は会わなかったことにしてほしいんです。
俺、崎先輩と会うわけにはいかないんですっ」
どうかお願いします、と何度も繰り返した。

「津森清恭、だったな。頭を上げて。さあ、椅子に座ってくれ。
その格好じゃ、ちゃんと話ができないだろう?」

 それでも、ギイの言葉に従うことはできなかった。会わない約束の人と話などする必要が清恭にはなかったからだ。

 だが、
「ちゃんと座るんだ。男が土下座なんて簡単にするもんじゃない」
ギイのその声は、清恭に反論など許さないものだった。

 それでも、威圧を含んだその声が、次の瞬間、
「確かに、守りたいもののためにすべての誇りを捨てるのもいいだろう」
何もかも理解しているかのような穏やかなものに変わる。

 ギイは清恭の二の腕を掴んで強引に立ち上がらせると、目尻に笑みを浮かべた。

 目の前に立つ、長身の日本人離れした美貌の迫力に萎縮してしまい、声も出ないまま清恭の身体は固まって動けない。

「さ。座って」

 具合の悪い病人のようにうながされるように椅子に座らせられて、初めて清恭の指は震えだした。

「託生は優しいだろう?」

 その唇から出された名前にドキリとする。

「託生のそばは居心地いいか?」

 責められているように聴こえるのは気のせいだろうか?

「章三が津森のことをいい奴だと言っていた。オレ自身、さっきの土下座には一本ヤラレタと思った。
だから、津森がオレと話をしたいのなら、オレは津森のために時間を作ろう。ただし、オレも暇じゃない」

 だからテーマを与えよう、とギイは言った。

「テーマ? ギイが与えるテーマって怖いな」
「そうか?」

 吉沢道雄が階段長同士の気安さで、ギイの台詞を横から拾う。

「簡単さ。津森がこれから経験する一週間の出来事や感じたことをオレに語って聞かせるだけだ。
ただし、その内容は一年生に関することに限定とする。
一年の教室から見えたもの、一年生として感じたこと、知ったこと、どんなことでもいい。
一年の友人との会話や冗談、ケンカの原因、津森にとって気に入らないこと、ホントに何でもいいんだ。
でもできるなら、津森が何を感じたのか、どう思ったのか、オレはそこを知りたい。
一年生という時間(とき)は今だけのものだ。来年は否応なしに二年になる。
そしたら、今の一年の津森清恭じゃなくなるだろう?
オレはここでもう二年暮らしている。祠堂にいられるのはもう残り一年もない。
一年の時も二年の時も、それぞれかけがえのない思い出がある。
だから、今一年である津森からは、一年生としての津森清恭の話が聞きたい。
どうだ、オレのところに話しに来るか?」

 ギイの誘いは清恭にとって大きな魅力あるものだった。
でも、清恭はそれを受け入れることで失くすものの大きさを知っていたから、素直に手に取ることなどできなかった。

「俺には、赤池先輩との約束が……」

 だが、そんな清恭の心配事を案ずることなど何もないとでも言わんばかりに、ギイはあっさりと取り払ってしまう。

「オレは別に章三に頼まれて津森の話を聞くわけじゃないからな。
オレが聞きたいからオレのところに来いと言っているんだ。
章三との約束とコレとは関係ないぞ。オレが勝手にここに来たんだから」

 そして、ギイは一番威力のある言葉を清恭に聞かせるのだ。

「オレは一年同士の輪を広めてゆく津森の話が聞きたい。
少しずつでも友人の話をしてくれる、そんな津森を楽しみにしているのは多分オレだけじゃないはずだ。
きっと託生だって喜ぶだろう」

 託生だったらそういう話を聞きたいはずだ、の台詞が清恭の心を溶かしてゆく。

「わかりました……。俺、ちゃんとテーマに沿って話せるよう努力します」

 ギイを仰ぎ見るように顔を上げた清恭に、綺麗な中に凄みをこめた笑顔でギイは微笑み返すと、
「では来週木曜日、午後四時半。三階ゼロ番で待っている。しっかりネタ集めてせいぜいオレを楽しませてくれよ」
ギイ本人が約束時間を指定してきた。

 清恭は何度か目を瞬くと、降って涌いた幸運に瞳を生き生きと輝かせて、「はい」と契約を交わす返事を口にする。

「じゃ、オレと吉沢からは以上だから。くれぐれも消灯時間守れよ。約束のほうも時間厳守で頼むな」

 おやすみ、のギイの言葉に、清恭は一礼をしてふたりの階段長に退出の挨拶を述べると、そそくさと四階ゼロ番をあとにした。

 しばらく清恭は呆然としたあと、「イヤッホゥ〜ッ」と拳を振り上げて、一目散に廊下を走ってゆく。
彼が目指すのが電話ボックスなのか、あるいは、とある三年生の部屋なのかは彼のみぞ知ることだ。
だが、もしかしたら、彼はただ前を向いて走りたかっただけなのかもしれない──。





 津森清恭が四階ゼロ番を去ったのち。

「お疲れサン」
「そっちこそ、ご苦労さん」

 吉沢道雄はもうひとつマグカップを新しくテーブルに出した。

 そのコーヒーの香りが漂う部屋に、新たな客である赤池章三の姿があった。

「津森清恭、ね。かわいそうに。何も知らないで」

 章三が本当に気の毒そうに一年生の純情に同情していると、
「おいおい、人聞きの悪い言い方するなよ。
オレはただ、一年の友人の輪を広げるチャンスを与えたに過ぎないぞ」
確信犯のギイが惚けたように自己弁護する。

「よく言うわ。これで、津森は一年同士の交友に勤しむことは決定事項。
うまくすれば温室に通う余裕も気力も暇もなくなるって寸法だ。
誰かさんにとっては最高の結果を得ることになるわけだが、違うかい?」

「棚から牡丹餅。一石二鳥と言ってほしいね。津森には今後三年間の長い高校生活が残ってる。
これから頑張って、その丸々残ってる三年間という同じ時間を過ごす友人をたくさん作るほうがヤツのためだろうが。
オレや託生は三年なんだ。卒業後もあいつの世話をしてやるなんてできないんだぜ。
自分の尻くらいしっかり自分で拭いてもらわないとな。
オレだって託生とデートする時間、取られっぱなしじゃイジケたくなる」

 結局、最後はオイシイところをまんまと咥えてゆく計算高い祠堂のサラブレッド。
おまえはそういうヤツだ、と溜息混じりに章三がじろりと睨んだ。
すると、当然の成り行きだ、とギイがにっこりと上機嫌に微笑み返してくるから、さすがの相棒も呆れて一緒に笑うしかなくなる。

 葉山託生を中心に世界が回っている崎義一。

「葉山の通行手形はまったく使えんシナモノだが、威力だけは相変わらずピカイチだな」

 スペシャル級の最優先のトクベツ手形、こんなの世界にふたつとあったら死ぬほど疲れそうだ、と章三はつくづく感じ入った。

「しっかし、ギイもよくあの津森にわざわざ付き合う気になったもんだな」

 興味津々に訊いてきた章三に、ギイはその期待を裏切らないように、
「恋人のお願いはトクベツなのさ」
そう、お惚けながらも、
「託生にまとわり憑かれるより、自分の視界で監視できたほうがずっと気が楽じゃないか」
いかにもこっちが本音とばかりにフッてきた。

 章三は、ふうん、とそのギイの惚けに付き合ったが、本当はギイの考えなど読めていた。

 津森清恭を昔の自分に似ていると語ったギイの恋人。
彼はずっと、諦めることしか知らなかった。
だから、津森清恭にも諦めてほしくなかったのだと言っていた。

 託生自身が「諦めない」ことを知ったように、津森清恭にも「諦めなくてもいい」ことを、託生は知ってほしかったのだ。

「恋人のお願い、ね」

 確かに葉山のトクベツ手形は世界にひとつの特別仕様、その影響力となれば世界とも動かす力があるのだろうか……。
章三は、そう想像して馬鹿らしくなった。

 なぜかというと、
「章三、オレもお願いがあるんだが?」
世界を動かす力を持つような男が、自分に向かって甘えた口調で縋ってきたからだ。

 ギイの魂胆などただひとつ。

「託生との今度のデート。章三、セッティングの件よろしく頼むな。ホント、心強い相棒がいてオレはラッキーだよ」

 案の定のお願いに、はいはい、と嫌そうに応えながらも、章三はしっかり苺ミルク三個を請求するのを忘れなかった。

 そんなふたりの様子を伺っていた吉沢道雄が、
「祠堂の影の実力者って、実は葉山くんだったりして……?」
そっとひとりごちたのだが、その呟きを耳に入れたのは、その確証たるやいかに、の事実を知る者のみ。

 ギイと章三はふたり揃ってにたりと笑って、もう一杯のコーヒーを吉沢道雄に所望したのだった。

 四階ゼロ番の夜が更けてゆく。
消灯時間が祠堂の学生寮にもうすぐ訪れようとしていた。





 青空に恵まれた日の放課後。
託生がバイオリンの練習をしていると、温室の片隅から話し声が聴こえてきた。

 津森清恭と右近緑が黒猫を囲んで何やら小声でこそこそと揉めている。

 託生が聞き耳を立てると、「映画」「下界」「SF」「ミステリー」の単語がだけは聞き取れて、
「大きな猫が温室に居ついてしまったみたいだ」
くすりと笑顔がつい漏れた。

 立派な通行手形を持ちながらも、いつものほほんの葉山託生。

 その託生を横目でちらりと目にしながら、清恭は、
「使えるんだか、使えないんだか、よくわからないよなぁ」
やっぱり掴めない先輩だ、と首を傾げた。

『きっと託生だって喜ぶだろう』

 清恭の耳に、暗示のように残る言葉。
花が綻ぶように微笑む託生の優しい笑顔の向こう側に、清恭は温かい日向が見えた気がした。

「きよちゃんは優しいから、僕が見たいのちゃんと付き合ってくれるよね」
「嫌なこった」

 即座に返される清恭の憎まれ口。

「俺が見たいのを見るのに決まってるだろ」

 それでも、そんな自分の我がままさえも、清恭の耳にはほんのちょっと優しく聴こえてしまって。

 友人という名の誰かと過ごす、そんな幸福な時間。
それを噛み締めている穏やかな自分の声に、清恭は思わず頬を薄く赤らめた──。





 その後、津森清恭の温室に通う回数がだんだんと減っていったことは言うまでもない。

「託生」

 祠堂でふたりきりになれる場所はなかなかないんだから許せよ、とギイは心の中で小さく詫びながら、腕の中に温かく息衝く幸せを噛み締める。

「ここも何だか寂しくなっちゃったね」
「ん? オレがいるのに寂しくなんかないだろう?」

 そうなんだけど、と頬をうっすら赤く染める託生をギイがぎゅっとより強く抱き締めた。

「静かになっていいくらいだ。託生は寂しいのが嫌なのか?」

 ここで託生が「嫌だよ」と一言でも素直になるなら、明日の予定はすべてキャンセルだ、と心の中で今後のスケジュールを確認するギイだったのだが。

「あ、でも、真行寺くんとかも来るし、結構、温室もまだ賑やかかな」

 ギイも忙しい中、来てくれてありがとね、とにっこりと微笑まれては、返す言葉がなくなってしまう。

「心配しないで、ギイ。ぼくは大丈夫だから」

 背中に腕を回されながらそう言われてしまっては、ますます言葉が続かなくなって……。

「次のターゲットは真行寺のヤツだな」

 零れ落ちた独り言は温室の濃厚な緑の匂いに綺麗に消された。

「うん? 何か言った、ギイ?」

 天下無双の崎義一を振り回すのはいつだって自分勝手な恋心。ギイの世界は託生を中心に回っているのは疑う余地もない。

 愛しい恋人を独占するためならば、約束反故だろうが、邪魔者除外だろうが、そんなの構うものか。

 ところが。

 約束なんてクソ食らえだ、のギイの思惑など一縷も知らずに、
「そういや、ギイ。明日、津森くんと約束してるんだって? 赤池くんがそう言ってたけど。
ギイ、いいなあ。きっと津森くん、たくさん話をしてくれるよ?」
今度、津森くんがどんな話をしたのか教えてね、と託生が笑顔で言うものだから、ギイも明日の約束だけはキャンセルできなくなってしまった。

「ギイ、楽しみにしてるから」

 恋人のお願いは強力呪文。

 世界最強のトクベツ手形を握られている限り、世界はギイの思惑通りには回らない。

「……託生がそう言うなら」

 ギイの行動はこうして少しずつ制限されてゆく。

「周囲のことなど二の次」のギイの自分勝手さを、道理にかなったものに正しく軌道修正する機会などというものは、実はそんなところに落ちているのかもしれない──。

                                                         おしまい


illustration * えみこ



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの30000hits記念作品「世界最強のトクベツ手形」はいかがでしたでしょうか?
今回は三年生のギイタクのお話です。
津森清恭くんを中心に託生を第三者的視点からみてみました。

登場人物は結構華やかです。
階段長勢ぞろい(笑)。ちょぴっとだけど全員集合しています。ははは(笑)。
加えて、風紀委員長サマ(笑)。
章三が出てくる場面になるとノリノリになるのはなぜでしょう♪

結局、ギイの手のひらの上で転がることになる津森清恭くん。
でも、ギイには孫悟空のわっかが付いてるので託生のお経の前では頭をたれるしかなくて(笑)。
私は結構、こういうギイのうまくいかない思惑って好きなんですケド♪

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

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