ギイと同室だった昨年の春の宵。
「喉が渇いたな」
夕食後、講堂まで一緒に行かないかと誘われて、夜道を散歩したことがあった。
少し離れて歩くふたりの距離は近いようで遠い。
先を歩いていたギイがふいに足を止めてもその背にぶつからずに止まれるくらいが、その頃のぼくたちにとって具合のいい距離だった。
「託生、ほら。北斗七星が綺麗に見れるぞ」
春の夜空を見上げて、ギイが子供のような無邪気な声をあげる。
「知ってるか?
北斗七星の柄杓(ひしゃく)の柄(え)の先からニ番目のミザールは、アルコルって星と二重星なんだ。
昔は兵隊の視力検査に使われてたらしいからな。よく見てごらん。
どうだ? 託生はちゃんとふたつに見えるか?」
首が痛くなるくらい顔を空に向けるギイがすごく楽しそうだった。
「何とか見えるかなぁ、ちょっと怪しいけど」
裸眼で見えるなら優秀だよ、とギイが笑いながら、
「ちなみにミザールは連星らしいぞ」
ぼくにはわけがわからない星の話をまたもや言い出す。
「連星と二重星って違うものなの?」
ギイは天体の基本的なところで躓いてしまったぼくを嘲ることなく、
「重星ってのは偶然同じ方向に見えている星のことだよ。
だから六重星なんてものも星空の中には存在するんだ。
対して、連星ってのは互いに回り合っている星のこと。
つまり、ミザールはそれ自体が連星な上、ミザールより遠くにあるアルコルとは重星なわけだ。
わかったかな、託生くん」
まるで地学の先生みたいにわかりやすく説明してくれた。
「へえ、さすがによく知ってるね」
「星の中では結構知られた話だからな」
それから、ぼくらはしばらくそのまま夜空をじっと見上げていた。
祠堂の春はとても寒い。
だからその時も、しっかり上着を着込んできたぼくではあったが、実はあまりの寒さに早く講堂への道を先に進みたい心境だった。
そんなぼくとは違って、薄手のセーター一枚のギイは何が楽しいのか、いつまでも星空をひたすら見つめている。
とうとう我慢できなくなって、早く行こうよ、とぼくは言おうとした。
けれど、
「連星でも重星でもどっちでもいいから、あんなふうにいつまでも一緒にいられたらいいよな」
囁くそうなギイの声音があまりにも切なく聞こえてきて、ぼくは何も言えなくなってしまった。
ぼくが黙っていると、ギイは星空を見つめたまま、
「なあ、託生」
空に向かって呟くように、ぼくの名を小さく呼んだ。
続く沈黙を破るかのように吐き出された吐息のあとを追って、
「キス、しようか」
かすかに硬いギイの声が、星空にすうっと吸い込まれてゆく。
暗闇で彼の表情が見えなかったから余計、普段なら見えないものが見えたのかもしれない。
ギイが緊張しているのだと、その時ばかりは、鈍感と言われ続けているぼくでさえわかった。
星夜の静寂がふたりが立つ距離の分だけ続くと、
「……冗談だよ。さて、早くあったかい珈琲でも飲みに行くか」
泣きたくなるほどの優しさをこめて、ギイが先を歩き出す。
「ギイ……?」
あの時の声音は決して冗談で言っているようには思えなかった。
「さあ、行こう。こんなところで凍死したくないだろう?」
でも、だからと言って、当時のぼくにはどうすることもできなかった。
最近、あの春の宵のことがなぜかよく思い出される。
ギイの「キスしようか」が、今、とても恋しい──。
廊下の先の集団に気付いて、ふと視線を送る。
あまたの下級生に囲まれながら、頭ひとつ分抜きん出た透けるような薄茶色の髪に、とくん、と胸が高鳴った。
「葉山?」
隣りを歩いていたはずのぼくがいつの間にかいなくなっていたことを不審に思ったのか、章三が数歩先で振り返る。
そうして、ぼくの視線の先におのれの相棒の華やかな容姿を見つけて、
「ああ、なるほどね」
章三は、ふう、と肺から息を吐き出した。
だが、この状態もそろそろ三週間ともなると、さすがに章三もぼくの扱いに慣れたもので、
「おい、行くぞ」
慰め言葉など一言も口にすることなく、顎をしゃくっては視聴覚室へと先をうながす。
「そうだね、行こう」
小さくひとつ頷いて小走りで章三の隣りの並ぶと、さっさと足並み揃えたぼくが意外だったのか、
「ヤツの顔を拝んで少しは気が紛れた……ってことは、おまえの場合なさそうだなぁ」
章三が少しだけ歩く速度を落として、
「やっぱり寂しいか?」
ちらりとうしろを振り返りながら、ぼくの心情を突いてきた。
「寂しくないって言ったら嘘になるけど、そういうんじゃないんだ」
「そういうんじゃないって、おまえなあ。顔にはしっかり『寂しいです』って書いてあるぞ?」
「うん。だから、寂しいことは寂しいんだけど。何となく、さっきちょっと寂しいってこと思い出したから……」
「はあ? 寂しいってのは思い出すもんなのか? おまえは今、現在、この時点で寂しいんだろが」
「そりゃ、寂しいよ? でも、さっき、ふいに思い出したんだよ、寂しいって初めて思った瞬間を」
すると、章三は驚いた顔を見せて、
「初めて寂しいって思った瞬間なんぞ、僕は覚えてないぞ」
僕が覚えてないことを葉山ごときが覚えていられるものか、と相変わらずの態度で、ふん、と鼻を鳴らして廊下を進む足を速めた。
だが、ぼくのほうを見ようとしないまま、
「ほんとにおまえはそんなこと覚えてるのか?」
再度、探るように訊いてくるところが章三らしくて、ついぼくの頬が緩んでしまう。
「赤池くんが言っている寂しいって感情は、一緒にいたい誰かと一緒にいられない『寂しい』だろ?
ぼくが言っている『寂しい』はそういうんじゃなくて。
こんな寂しさもあるんだなって改めて気付いた『寂しい』なんだよ」
「葉山はたまに難しいこと言うよな。それで、その『寂しい』ってのは僕にもわかる部類のモンなのかね?」
「さあ、どうだろう」
ともすれば、つたない言葉の羅列に聞こえてしまうのかもしれないけれど、ぼくにしてみれば、それらは友人思いの彼に礼を尽くすつもりで本気で応えたぼくの本音の言葉だった。
なのに、当の章三はといえば、器用に片方の眉を上げながら、
「おまえの日本語はわかりにくい。もっとわかりやすく言え」
そんなふうに先をうながしたかと思うと、次の瞬間にはその同じ口で、
「でも、まあ、葉山だからな。仕方ないか」
どうしてぼくだと仕方ないんだ、と文句のひとつでも言いたくなるなるような言い草をしてくださる。
ぼくは心のまま言葉にしているつもりなのだが、このままではまだまだ言葉が足りないのだという。
日本人のくせに日本語でうまく説明できないぼくがいけないのかもしれないけれど、「心で感じたことを正確に言葉で表現することを世の中のすべての人ができると思う?」などとここで章三に言ったところで、「それなら限りなく正確に伝える努力をしろ」と言われてしまうに決まってる。
「多分ぼくじゃ、赤池くんには伝えきれないかもしれない」
ぼく自身のことなのに、ぼくでは伝えられないのがもどかしくて。
でも、一方で、章三が理解していないことにホッと安堵しているぼくがいる。
矛盾したふたつの心を抱くぼくは、どんな顔を章三に返せばいいのか一瞬わからなくなった。
──困ったなあ。
そうこうしているうちに目的地である視聴覚室に到着してしまい、その話はそこで途切れてしまったのだが……。
ただ、視聴覚室の扉を開ける間際、
「ギイなら葉山の言わんとしていることがわかると思うか?」
言葉の不自由なぼくを、不憫そうに目を細めて章三が見つめてきたので、それには、
「多分ね」
一応、そう応えておいた。
実際、この気持ちをギイに伝えたところで、本当の意味で彼にわかってもらえるとはぼくは思ってなかった。
だから、「多分ね」は「多分、ギイでも無理かもね」の意でもあった。
──それに、コレはあまりいい感情ではないとぼくが思っている以上、誰もわからないほうがかえっていいのかもしれない。
逆に、「わかるよ」と言われてしまったら、そのほうがすごく戸惑いそうだ。
寂しさは、人それぞれの感覚だから。
ましてや、ぼくのこの「寂しい」は一言で言い尽くせるようなものではなく、ギイでさえ真の意味で歓迎することはないだろう。
「ま、そういうことならヤツに言っとくことだ。僕にぶつけられたところで困るのはお互い様のようだしな」
困った顔の章三を見てみたいというイタヅラ心が動かないわけではなかったが、この感情の詳細については章三に話すべきではないと、ぼく自身、よくわかっていたので、
「そうするよ」
この先、ギイにすら話すこともないだろうと思いつつも、視聴覚室に足を踏み入れながらの咄嗟のことに、ぼくはつい無責任な約束をしてしまった。
ぼくの返答に一応の満足を得たのか、それ以後、章三は二度とその話は持ち出すことはなかった。
授業開始のチャイムがスピーカーから鳴り響くと、視聴覚室の照明が薄暗くなった。
正面のスクリーンにスライドが映し出された頃には、ふと、あの時感じた寂しさまでもがどことなく愛しくて。
「とても不思議な感覚……」
ひとりごちた呟きが、スライドの切り替わる音に重なった。
「ほらよ。伝言」
章三が小さく折られたものをぼくの手に握らせたのは、その日の昼休みのことだった。
半分だけ申し訳ない程度に開けた教室の窓から覗ける山間(やまあい)の風景は少し靄(もや)がかかって、春の霞にふさわしい情景が広がっていた。
中腹には桜の咲き残りだろうか。ぽつぽつと白に近い薄紅色が見える。
ぼくらが在籍する祠堂学院高等学校手は山の中腹に建っているせいか、もう四月も終りだというのに日中でもまだ肌寒い。
とはいえ、高校三年生の男子生徒ばかりが机を並べる教室の熱気は馬鹿にしたものではなく、外がいくら寒かろうとこうしてたまに換気をしなければ、その息苦しさに悪酔いしそうなほど空気がこもっていた。
「確かに渡したからな」
どこ吹く風とばかりに、ぼくのところに寄るとすぐに教室を出てゆく泣く子も黙る風紀委員長サマは、昨年度に増す忙しさらしい。
特に年度始めのこの四月の彼のスケジュールは、彼の相棒であるギイと張るほどの多忙さが伺えた。
これも春の人事のせいだろうか。
そんな多忙を極める章三を配達人として扱き使うという荒業を仕向けてくるのは麗しきぼくの恋人だったりするので、ぼくはぼくなりに、
「いつもご苦労様です」
とうの昔に教室から消えてしまった背筋の通ったその背中に向けて、拝むように礼を述べた。
手の中の「伝言」は、ノートの切れ端らしかった。
開いて読むと、急いで書いたのか、とても字が乱れていた。
宛名も差出人も何も書かれていない短い手紙は、運んできた章三の渋柿を口に含んだような表情と、ぼくがひとりでいるところをわざわざ狙って手渡すそのタイミングの計り方で、手紙を開く前から誰からのものかがわかってしまう。
でも、きっとぼくの不注意でこれを落としたところで、拾った生徒には何のことかわからないに違いない。
何かの暗号か?と思うほど、あまりにも素っ気ない内容だからだ。
──まあ、ぼくにはしっかり真意が通じているから、これはこれでいいんだろうけど……。
「何もわざわざ鶴に折らなくてもいいだろうに」
乱れた字で書かれているわりに、そのメモは正確に正方形に切り取られていた。
その上、その鶴たるや、羽根や尾の先まできちんと綺麗に折られている。
その丁寧な折り目と乱雑な文字のチグハグさがおかしくて、
「ヘンなの」
自然と口元が緩んでしまった。
もしかして、祈りたくなるほど、ぼくに会いたいと思ってくれているのだろうか。
「上」「23H」「G」の三つの文字が物語る今宵の約束を考えるだけで、ぼくの耳が火照リ出す。
ぼくはもう一度それを丁寧に鶴に折りなおすと、
「紙飛行機だったら試しに飛ばしているところだよ?」
小さな鶴に向かって呟きながら筆箱の中に大切にしまった。
伝言ひとつに、こんなにもわくわくしたりおかしく思ったり。
ギイの意外性にはいつだって驚かされる。
こんなに小さなきっかけだけど、ギイがそばにいるような感覚を、その都度、ぼくに与えてくれる。
だから、ぼくは今、寂しくないわけではないが、寂しいばかりだけでもないのだ。
章三ではないけれど、誰かを想う寂しさをいつ知ったのかなんて、ぼくにもまったく覚えがない。
けれど、あのトクベツな寂しさを知ったのは──。
「春、かぁ……」
窓の外の春の山の景色にいつかの想い出の日を重ねながら、ぼくは名残惜しむかのようにゆっくりと窓を閉めた。
それと同時に、数人のクラスメートたちが教室に戻ってきて席に着く。
「英語の和訳してきたか?」
「誰か辞書貸してくれよ」
ざわめきがぼくの意識を日常へと戻してゆく。
午後の授業がもうすぐ始まろうとしていた。
三階ゼロ番はぼくの二七〇号室の真上にある。
約束どおり、ぼくは午後十一時ちょうどにギイの部屋を訪れた。
「託生」
ふわりと微笑んだ恋人が腕を広げてぼくを誘う。
その安住の地に身体を預けると、ぎゅっときつく抱き締められた。
ひとしきりの抱擁のあと、幾分、腕の力を緩めたギイが、
「こうしていてもまだ寂しいか?」
頭部をぼくの首筋に埋めながら、ひそひそと囁いてくる。
「赤池くんだね?」
筒抜けのふたりの仲に少しの嫉妬と戸惑いを抱きながら、ギイの背中をゴツンと力をこめて拳で叩くと、
「痛いぞ、託生」
くぐもったぼやき声の振動が首筋に伝わってきた。
「何でも知りたがるのはオレの悪い癖だとはわかってるんだが」
「ギイ?」
「それでも、オレ、託生のことならどんなことでも知りたいと思ってしまうんだ」
身体を離したギイがぼくから顔を背けて、どことなく自嘲気味の寂しげな笑いを浮かべた。
「ごめんな、託生。この気持ちだけは止められない」
好きな人のそんな顔を見て、好きだからすべてを知りたくなると告白されて。
それでもなお突き放すような冷たい態度をとることなど、ぼくはできそうにない。
かと言って、あの話は「それでは喜んでお話しましょう」などと大手を振って話せる話でもないから、どうしようかと迷ってしまう。
「あのさ、多分、ギイが聞いて気持ちのいい話じゃないと思うよ?」
ぼくがギイの立場ならあまりいい気持ちはしない、と小さく告げると、ぼくの言葉にギイは咄嗟に反応して、
「それでも託生のことなら聞きたい」
真摯な眼差しを向けてきた。
知りたい、と願うギイは本気だった。
ギイの本気はいつも熱くて、強い。
けれど、その真っ直ぐな強靭な意志はしなやかさをも持ち合わせ、
「託生が言うのが嫌なら言わなくてもいい。オレに対しての我慢や無理はしてほしくないんだ」
ぼくの気持ちを気遣って、ちゃんと逃げ道を用意してくれる。
だが、話す話さないはともかくとして、ギイのその台詞には少し思うところがあったので、
「そう? だったら言わない」
ぼくは焦らすように、にやりと不敵に笑ってみせた。
すると、思惑が外れたのかギイが少しだけ慌てて、
「おいおい、イジメてくれるなよ、託生くん」
拗ねたように唇を突き出しながら、ギイも頬を緩める。
「だってさ、我慢や無理をしない恋愛なんてそんなのないと思うよ?
ぼくが、でも、ぼくらが、でもないんだ。
きっとほかの恋人同士だって、みんなどっかで少しづつ自分を抑えてると思うんだよ。
我がままばっかり言っててもうまくいかないだろうし。でも、我慢しすぎるのもよくないし。
ホント、誰かを好きになるってのは難しいよね」
ぼくたちは三年に進級してから、以前より一緒にいる時間を持てなくなった。
「実際、ぼくはギイと会いたいのを我慢しているよ?
でも、それはギイとの恋愛にもれなくついてくるおまけみたいなものだから、こればかりは仕方ないじゃないか」
ギイがぼくに我がままを言っても、もしもそれがぼくの困ることだとしても、それは好きな人の望むことだから、ぼくはきっと困るだけではなく、どこかに嬉しさも感じると思う。
こんなにも自分を求めてくれる、そのギイの気持ちがくすぐったくて、困りながらもギイからの「好きだからこそ」という告白を、ぼくはきっと幸せに感じるだろう。
「それに、ぼくがしている我慢や無理はぼくが望んで選んだことだよ。
ぼくがギイを好きになったからこそのものだろう? そのくらい、ぼくだって覚悟してるってば」
ぼくばかりでもなく、ギイばかりでもなく。
誰かがひとりだけ窮屈な想いをしているわけではないのだと、ぼくはギイにはっきりと伝えたかった。
「だから、あとから聞かなきゃよかったなんて言わないとギイが約束するなら、ぼくはちゃんと話すよ」
我慢や無理の具合は人それぞれだから。
聞きたいことを聞けずにいる我慢より、聞いてしまった後悔のほうがまだマシと考える人も中にはいるかもしれない。
それを判断するのはギイで、きっとぼくではないのだ。
ぼくとギイとはどこまでも別の個だから、考え方も感覚も違って当然なのだから。
案の定、
「約束する。絶対、言わない」
ギイの選択は後者だった。
「わかった。なら、話すね」
それに、ぼくが感じた寂しさはよくないものばかりではないと、ぼく自身、気付いていたからこそ、ぼくはギイになら話してもいいと思えた。
それは、話す相手がギイだからこその、ぼくの勇気だったのかもしれないけれど。
「託生、こっちへおいで」
話す決心をしたぼくの手をとって、ギイがソファに座るように勧める。
ぼくはギイの隣りに座った。
そして、少しだけ間をおいて、口を開いた。
「あのさ、ギイは覚えてるかな」
手持ち無沙汰のように両手の指を絡めながら、ぼくは今日、教室から見た春の霞を思い出していた。
「去年の春、ギイ、ぼくに告白してくれたよね?
あの日、音楽堂で初めてキスして、それから部屋に戻ってから、ギイ、またしてきただろ……?」
「ああ。だが、それが『寂しい』ってことに関係があるのか?」
「えっとさ、言いにくいんだけど。ギイとキスしてるのって気持ちいいんだよ……」
「そりゃ光栄の極みだな。お互い気持ちよくてよかったじゃないか」
両思いになってキスした話と、今後の話の展開との関係がうまく結べないからか、ギイがおどけながら困ったように微笑んだ。
「ギイがキスする時って、だいたい一度じゃ終らないじゃない?」
「当然だろう? ソレのどこが悪い?」
「悪くはないけど……。ほら、キスを繰り返すってことは何度も唇がくっついたり離れたりするわけで……」
しどろもどろのぼくの恥ずかしくも細かい説明にギイがわざと呆れたような表情を浮かべて、
「託生くん、何が言いたいんだ? 状況説明はいいからさっさと核心を言いなさい」
途端、緩みっぱなしのギイの頬が、いかにも笑いを堪えているかのようにピクピクと震え出した。
「だからっ! 離れてゆく時、すごく寂しく思うんだよ。
すぐ次のキスになっちゃう時はそう感じるヒマなんてないんだけど……。
でも、一年前のあの頃はキスするのはそう度々じゃなかったから……」
「つまり、去年の春の時点で、託生くんはもっとオレとキスしたかったと思っていたわけか」
「もうっ! そういうことが言いたいんじゃないんだってば!」
こっちは羞恥を我慢して話しているのに、と、嬉しそうに訊いてくるギイが小憎らしく思えてきた。
だが、この話にはまだ続きがある。
そのことを考えると、どうにもこのギイの笑顔に寂しさを覚えてしまうのだった。
「ギイと……キス、するようになって」
ちゃんとこの気持ちが伝わりますように、と精一杯、祈りながら。
「託生?」
ひとつひとつ。一語一語。大切に紡いでゆく。
「口付けを交わすって、こういうこと言うんだなって思ったんだ」
ぼくの言わんとするところが、この察しのいい恋人に伝わるだろうか。
「離れてゆくギイに、寂しさを感じるようになって」
ぼくはちゃんと伝えられるだろうか。
「唇が離れてゆく瞬間が寂しいなんて。そんなことすら、ぼくは知らなかったんだ」
ギイがぼくに初めて「寂しさ」を教えてくれた。
「それまで、そんなこと一度も感じたことなかったんだ……」
そう言った瞬間、ギイが驚いたように目を見開いて、
「託生……、託生。もうわかった」
何度もぼくの名前を読んで、ぼくの言葉を閉ざそうとする。
「もういい。託生、もうわかったから……」
それでも、ぼくは言葉を繋いだ。
ぼくの気持ちを知りたいと望んだギイだから。
きっとちゃんと最後まで受け止めてくれるだろうと信じていたから。
「口付けを……。口付けは交わすものだと知った時、すごく寂しかったんだ……」
想って想われて。
温かい気持ちをお互いが与え受け止めるような、そんな口付けを交わしたのはギイが初めてだった。
だから、離れてゆく瞬間が寂しかった。
キスをするのがギイが初めてではないくせに、寂しいと想ったのはギイと交わすようになってからだった。
「すごく……すごく。ぼくはそれまでどうしてたのかわからなくて。
ギイとキスするのが嬉しくて気持ちよくて。
それでいて、とても怖かったんだ……」
一年前の春、ギイは何度もぼくにキスしてきた。
けれど、過去に囚われていたぼくは、ギイが名付けた人間接触嫌悪症がキスするたびに再発してしまい、たやすくキスできる状態ではなかった。
それでも、全身が鳥肌と悪寒に震えだすそんな症状の合間にさえ、唇が離れてゆく寂しさを教えてくれたこの恋に身を焦がしていた。
反面、過去のキスに、そんなふうに焦がれた想いを抱いたことなど一度もなかったと思い出されて、それがとても哀しく感じられて。
「寂しく感じるのが怖くて……」
素敵なキスの思い出ばかりではないことが、こんなにもぼくを大切にしてくれるギイにとても申し訳なくて、また哀しくなる。
「ギイ、ごめん」
ギイがぼくのことを深く想ってくれているのはよく知っている。
ギイがいつも素敵に愛情表現してくれるから、ぼくはいつだって彼を信じられるし、身を持って彼の心を感じることができる。
「ごめんね……」
「寂しい」という気持ちを抱いたのはギイが初めてなのだと、そう語るということは、その背景にあるぼくの過去のあまりにも赤裸々な事実に直接触れなかればならないということだった。
それがわかっていたから……。
だから。
「あまり聞いて気持ちいい話じゃなかっただろ? ぼくがギイの立場なら、耳を塞ぎたくなるところだもの……」
ギイがぼくの話を聞いて後悔するだろうと想像していた。
それを覚悟しての告白だった。
恋人の暗い過去を耳にして、喜ぶ人がこの世にいるとは思えないからだ。
それなのに、ギイは──。
ギイは……。
「そうか? オレは託生が話してくれてよかったと思ってるぞ?」
片目を瞑って微笑みながら、ぼくの恋人はゆっくりとぼくを抱き締めてくれる。
「そんなの嘘だ……」
ぼくの背中をぽんぽんと軽く叩き、そっと右腕を肩に回して抱き寄せて、
「嘘なもんか。痩せ我慢だってしてないぞ。オレは本気で聞いてよかったと思ってるよ」
ぼくが安心するような優しい言葉をいくつも奏でてくれる。
「託生がオレのこと、ずっとキスしていたいと思ってくれるほど好きなんだってよくわかったからな」
何度も啄ばむようにぼくの髪にキスを落として。
「それに、そういう気持ちを初めて抱いてくれたなんて。
オレにしてみればラッキー以外の何だって言うんだ?
恋人から、初めて心をこめてキスをした、なんて言われて、喜ばない男がいるもんか」
こめかみにも。目尻にも。頬にも。
「託生。おまえ、男のくせして男心を少しもわかっちゃいないなぁ」
何度も何度も口付けて。
「そういうのは嬉しいだけなんだって、おまえ、知らなかっただろ」
そして、ギイは少しだけ早口で、
「キスしようか」
まるで初めてキスするみたいに頬をわずかに染めながら、眩しい笑顔でぼくを見た。
「いっぱいキスしよう。託生が寂しくならないように。
これは託生のためなんだから、おまえが嫌だと言ってもオレはキスする義務があるんだ」
どうしてぼくの恋人は、こんなにもぼくの心を震わすのがうまいのだろう。
「まったく、ギイったら」
ぼくは唇の先を無理に上げて見せたけど泣き笑いみたいになってしまって、うまく笑うことができなかった。
「どこにそんな義務があるんだよ……」
零すまいと堪えていた涙が今にも溢れそうなほどで、視界に映るギイの姿が歪んで見えた。
「義務がお気に召さないなら権利でもいい。おまえにキスする権利だけは絶対オレにあるはずだからな」
そうして、ぼくの好きな人は恋人の権利を振り回して、
「この権利はオレだけのものだ。誰にも渡さない」
意地悪く、涙を吸い取るようにわざと音を立てて目尻に口付け、頬へと滑るように触れてゆく。
「託生。おまえもそれくらいはちゃんと認めてくれるんだろう?」
認めないと賞金倍増しにかけるぞ、とギイが笑顔でぼくを脅しながら、唇を軽く重ねてくるから。
「賞金って? 何の?」
口説き上手な恋人を持って、ぼくは困るくらい嬉しくなる。
「オレ以外の誰かがおまえに触れるなんてこと、絶対あってほしくないけれど……。
何事にも万が一ってこともある。
大事な恋人の唇を勝手に奪われて平気な顔をしていられるほど、オレは人間できちゃいないんだよ」
ギイがいつも嬉しいことばかり言ってくれるから。
「託生を誰にも渡したくないと思っているこのオレがだ、そういう極悪党を野放しなんぞしておくと思うか?
世間が許したってオレが許さないさ。
首に賞金をかけてでも必ず捕まえて、嫌というほどきつく懲らしめてやるに決まってるだろ」
ぼくはギイしか見えなくなる。
「権利を侵害されたオレからの当然の報復だが……。
しかし、まあ、一番の大罪人はオレかもしれないな。何たってオレは託生の心を奪った大泥棒らしいから」
ギイで世界がいっぱいになってしまって、ぼくはどこにも行けなくなる──。
その「寂しさ」を感じた時、奥底に沈む愛しさに触れた。
ギイの言うとおり、こういう気持ちを初めて抱いた相手がギイであることがやっぱり嬉しくて、少しだけ自分が愛しく思えた。
三階ゼロ番の窓を開けると、今夜の春の夜空にも星がたくさん瞬いていた。
──きっとあの春の宵と同じくらいのたくさんの星が、今夜もぼくらを照らしてくれてる……。
あの日、言えなかったぼくからの返事。
一年前のぼくらに贈るように。
星空に埋もれるように散らばるつがい星に、
「ギイ、これからもキスしようね」
そっと囁いて涙を拭う。
「託生、何か言ったか?」
「ううん」
寄り添うように小さく瞬く星たちに憧れたあの時のギイの気持ちが今ならわかる。
──ギイ……。ぼくもきみと同じ気持ちだよ。
「おーい、託生」
部屋の奥で、ふたり分の珈琲を淹れてくれていたギイが、
「寒いから窓閉めてこっち来いよ」
人差し指をくいくいと曲げて、満面の笑顔でぼくを誘(いざな)う。
軋んだ音を立てながら窓を閉め、外界からぼくらを封じて、ふたりだけの春夜を迎え──。
「早く来い、託生」
うん、と応えて近寄れば、きっとその先には……。
「たーくみ、捕まえた」
何度でも新しい「寂しさ」が、これからもぼくを待っていてくれるのかもしれない。
「もう一回、キス、しようか」
「一回だけ?」
くすりと微笑みながらぼくが訊き返すと、
「失礼しました、託生サマ。一回だけでは終われません」
ギイはとろけるように微笑んで、腕を曲げながら恭(うやうや)しく頭を下げる。
「何度でも、しような」
その甘い囁きの先に。
ぼくだけが感じることができる「寂しさ」が、今、またひとつ生まれようとしていた──。
おしまい
material * 10minutes+
*** あとがき ***
最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの22222hits記念作品「つがい星の照らす先に」はいかがでしたでしょうか?
今回は三年生四月のお話となりました。
「つがい星」という言葉は二連星、二重星と意味のつもりで、
私なりの「これからもふたり一緒でガンバ!」という気持ちをこめて使ってみました。
「キス」とか「口付け」とかの単語がすごくたくさん出てくるお話となり、
書き終わった時、思わず、「私にしては珍しいかも〜」と、ひとりもだえてしまいましたわ(笑)。
託生の感じた「寂しさ」にはいろいろな感情がこめられてます。
人の心の複雑な部分を書いてみたいなあと思ったのが、これを書いたきっかけでした。
なので、そういう人間らしさがちょっぴっとでも伝わるようなお話なってくれてたら嬉しいです。
感情や感じ方というものは、単語ひとつで簡単に表せるものではないからこそ、心情を表現するのはとても難しくて。
でも、その反面、複雑だからこそ楽しい〜と、わくわくしながらこれを書いてました。
そうそう、賞金首の件ですが。
その後、八津宏美くんがギイ曰く「極悪人」になってしまうわけですが。
彼が無事な分、そのとばっちりがやっぱり託生に向けられたのでしょうか(笑)。
ギイ、あまり無体はよくないよぉ〜☆
少しでもこのお話を気に入ってくださると嬉しいです♪
いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。
by moro
moro*on presents
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