めぐり合わせの予感



「ギイのこと、好きなんだよ」

 もう、何度目になるかわからない告白に。

「悪いけど……。ごめん、オレはその気持ちには応えられない」

 男でも女でも好きな相手以外とは付き合えない、と口にしつつ、内心では、断わるたびに同じ台詞をただ繰り返しているな、とギイはおのれの語彙(ごい)の少なさに呆れていた。

 そんなギイの心中をはかっているのか。
高林泉は、羞恥心に俯くことも、涙の一粒すら零すこともなく、何度振られようが依然とギイの面前に立つ。
そして、ギイが泉を見ていようがいなかろうが関係ないとでも言うように、祠堂一綺麗と評判のその同級生はいつだって挑むように見つめてくるのだ。

 駄々を捏ねる子供のように執拗に「好きなんだ」と告げてくる、真っ直ぐで揺るぎがないその度胸と根性はあっぱれで、ギイですら羨望を抱いてしまうほどだ。

 そんな泉にとって不運だったのは、平行線が永遠に交わらないのと同様に、羨望と恋情はまったく別次元に存在する感情だとギイ自身が確信していたことだろう。

「どうして駄目なの? この僕が好きだと言ってるんだよ?」
「それでも返事は同じだよ、高林。オレはおまえとは付き合えない。……悪いな」

──悪い、なんて本気で思ってなどいないくせに。

 そう自問しながら、ギイは、「ごめんな」と謝った。

 ギイがそんなふうに謝るのは、この泉が初めてではない。
これまでも、「付き合ってほしい」と、ギイは幾度か告白されたことがあった。

 そのたびにギイは「悪いけど」と口にしているが、実は相手の気持ちに応えられないことにギイ自身、それほど深刻に悪いと思っているわけではなかった。

 心から自分のことを想ってくれる相手だろうに、そんなふうにしかその相手のことを考えられない薄情な自分。
つれない人間が抱く感情の起伏は、同情さえもが中途半端な薄っぺらなものでしかない。

 ギイが謝るのは、本気で「悪い」と思うことができない無情な自分のふがいなさに対する詫び入れだ。
それについては心の底から本当に申し訳ないとギイは思っていた。

 だから、今回に限らず、これまでも、ギイは断わるごとに「ごめん」を繰り返してきた。
そして、多分これからも繰り返すのだろう。

 ただひとりの存在があまりにもトクベツすぎて、それ以外の人間に対してそれほど親身になれない。

 そんな不器用さをひたすら隠しながら、
「ごめんな」
ギイは真っ直ぐ見つめてくる相手の目から逃げることなく、同じ台詞をただ繰り返すのだった。

 山の中腹に建つ祠堂学院高等学校の校庭は広い。

 その広い校庭の片隅に呼び出されたギイは、唇をぎゅっと噛んで拳を握り締める高林泉にそれ以上の言葉を紡ぐつもりはなかった。

 本命がいる自分に、ほかの相手を抱き締める余裕などない。

──お互い遊びならともかく、そういうのはおまえだって嫌だろう?

 ギイは長い間、片想いをしていた。
その想いだけが、完璧主義の無情なギイをただの情緒豊かな男にする。

 だから、ギイは誰かを好きになる気持ちも、その想いが受け入れてもらえない苦しさも、我が身に染みて知っていた。

 ギイのそれは絶望的な恋、と自分に言い聞かせ続けながらも捨て切れない恋だった。
高林泉がギイを諦められないように、ギイもその恋をずっと諦められないでいる。

 いつまでも回り続ける回転木馬のように、いくつも季節がめぐり過ぎてもその想いは変わらないままだ。
そして、延々と回り続けながらも、実は上下に動くだけで互いの相対速度はゼロに等しい木馬同士のように、追いかけようとしてもいつまで経っても恋しい人との距離は縮まらない。

 ギイも泉もみんなが木馬に跨(またが)って、いつまでも愛しい人に手を伸ばしながら回り続けている。

 そして、もう何年も想い続けている相手だからこそ。

──あの愛しい姿がこの目に映るだけでも、オレは充分幸せだ。

 この同じ空の下、あいつが元気で暮らしてゆくならそれでいい、と、今ではそんな気持ちさえギイは抱いていた。

 諦めたわけではない、自虐的に思うわけでもない。
ただ愛しさが募ると人は見守り続ける幸せをこの手にするのだと、ギイはこの一年間で知ったまでだ。

 想いを告げる勇気がないわけでもない。
それでも、愛しい人が浮かべるのは雪の結晶のように瞬く間に消えてしまうような微笑みだから、そんな一瞬の表情を偶然見止めるたびにギイは願わずにいられなくなるのだ。

──いつまでも、笑っていてくれ。

 そう叫びそうになる言葉を喉に封じて、ギイはずっと彼を見つめ続けてきた。

──自分がこんな恋に落ちるとは思わなかった。自分にこんな愛し方ができるとも思わなかった。

 愛しい人はたくさんの謙虚さをギイに教え、そして、その深い焦げ茶の瞳にギイを映すことなく、彼はそよ風のようにギイの視界を通り過ぎてゆく。

 全身の感覚を研ぎ澄まして、ギイがその姿を追っていることなど微塵も知らずに、地面を這う蟻に気遣うことなく誰もが道を歩くように、華やかなギイの存在さえ彼はいつだって綺麗に無視して、するりとすり抜けてゆくのだ。

 だから、ギイは祈らずにいられない。

──彼の上に穏やかな日々がめぐりめくられんことを。

 とても愛しいと思えるような存在に一生涯のうちに出会うことができて、こうして同じ空気を吸って吐いて生きてゆける。

──それだけでも、オレは幸せだと思うべきなんだ……。
 
 彼の面影を想うだけで、温かい気持ちがギイの身のうちに灯る。
ほわりと浮かんだ小さな灯火(ともしび)の揺らめきをいつまでも楽しもうと、ギイは精一杯の慈しみをこめて抱き締めた。

 その瞬間──。

 そんなギイのささやかな幸せを、突然の叫声が打ち砕いた。

「託生っ!」

 三月とは思えないほどの肌が切れそうな冷たい風と共に届いたその声が、放課後の部活動の喧騒を掻き分けて、うわん、とギイの耳に突き刺さったのだ。

 ギイは咄嗟に四方を見回すと、ぴくりと肩を震わせて訝しげな表情を作った。
それは校庭の隅々まで視線を走らせたギイが、とある一点に視線を止めたと同時だった。

 それはギイには珍しく落ち着きのないものだった。

 そのギイの焦燥感が伝わったのか、
「ギイ……?」
泉が心もとなくギイを伺い見る。

「悪い、高林」

 途端、ギイは片手を軽く上げると制服を翻して、一度も泉を振り返ることなく一筋にそこを目指して走り出した。
その先にあるモノだけを淡い色素のその瞳に宿して、ギイはひたすら駆けてゆく。

 そのギイの走りようは、悠然たるものとはほど遠かった。

 だから。

 ギイがあまりにも必死に駆けてゆくから、残された泉はだんだんと小さくなるその痩身の身体をただ唖然と見つめることしかできなかった。

 その場に取り残されたのが自分という存在だけではなく、この恋心さえも、と気付くまで。

 全力疾走で駆けてゆくそのギイのうしろ姿を、泉は黙って見つめていた。





「託生っ、おいっ、大丈夫か!」

 そう何度も葉山託生の名を呼び続けていたのはクラスメイトの片倉利久だった。

 この祠堂において唯一、ギイの想い人を「託生」と呼び捨てにする利久は、学生寮でも託生と同室であるがゆえに、利久の知らないところでギイによって「一番の恋敵」の烙印を押されていた。

 ギイがひときわ生徒が集まっている場所に向かって走っていくと、
「託生、しっかりしろよ!」
利久が血相を変えて、地面に横たわる生徒の肩を左右に揺らしているのが見えた。

 校庭で練習していた野球部やサッカー部の部員たちもユニフォームの裾で汗を拭きつつ、野次馬根性を忍ばせながらぽつぽつと集まってくる。

「シュートの零れ玉、当たっちまったらしいよ」
「おい、どうするよ、コレ」

 ギイが息を切らせながらたどり着くと、先に傍観していた輩が発した無責任な言葉が人垣の中から漏れ聞こえてきた。

 ギイはその物言いに苛立ちと怒りを覚えながら、周囲の興味津々な視線の中に身を投じ、
「片倉、そんなに揺らすな。葉山、どこが当たったんだ?」
近くに転がるサッカーボールにちらりと視線を投げつつ、瞼を閉じたままピクリとも動かないクラスメートの首筋に、すっと指を這わした。

「脈拍は正常……」

 ギイは緊張で強張らせていた肩の力を幾分抜いた。

 続いて、今度は鼻先に手を近付ける。
すると、空気の流れがかすかに感じられた。

「呼吸もしっかりしてる。良かった……」

 ほっと安堵するギイの落ち着いた対処を目にして、突然、託生が倒れたことに動転していた利久もだんだんと落ち着きを取り戻してきた。

 そして、知っている限りの情報を誰かに伝えることこそが、今の自分の義務だと言わんばかりな勢いで、
「ボールが……ボールが突然飛んできて、託生の頭に当たったんだっ。
ガツンってすごい音がして、そしたら託生が急に倒れてっ……」
やや声を震わせながらそう語った。

 そうして、話の最後の件(くだり)になってやっと気持ちに余裕を生み出すことに成功した利久は、
「ギイ、託生は大丈夫なのかい?」
もどかしそうな面持ちで託生の顔を覗き込んでいるギイにおずおずと尋ねた。

「多分、脳震盪を起こしているだけだと思う。オレも医者じゃないからはっきりとはわからないけど……。
とにかく医務室に運ぼう。善は急げだ。
片倉、おまえ、校医の中山先生のところに先に行って、このことを知らせてくれないか?」
「俺が? ギイはどうするんだい……?」

「オレは葉山を抱いて連れてゆく。片倉よりオレのほうが力がありそうだから、な。
できるだけ揺らさないように運んでゆくつもりだから、もしかしたら時間がかかるかもしれない。
だからオレが行くまでに、片倉からあらかじめ中山先生に事情を説明しておいてほしいんだ。
そのほうが先生は対処しやすいだろ?」
「そ、そうだよな。わかった。なら、俺、先に行ってるからっ。ギイ、託生を頼むな」

 くるりと背中を向けて一目散に校医のもとに走ってゆく利久の背中をちらりとギイは見送ると、極力慎重に託生の頭部の下に自分の左腕を差し入れた。
特に頭部を揺らさないように両の膝裏にも右腕を回し入れて、くっ、と息を止めてゆっくりと立ち上がる。

──この重みすら、何と愛しいことか。

 ギイは今までこんなふうに大切な誰かを抱いて歩いたことがなかった。

 そんなふうにギイが積もり積もった恋心を噛み締めた時、
「ギイ、ひとりで大丈夫か?」
汗で濡れたユニフォームをピタリと肌に貼り付けながら、サッカー部員が心配そうに声を掛けてきた。

 チームメイトが起こした騒ぎに、いくらかの責任を感じているようだ。

「オレが馬鹿力なの知ってるだろ? このくらいひとりでも平気さ。
それより、そっちの散らばった鞄の中身を何とかしておいてくれよ。
あとで医務室に持って来てもらえると助かる」

 それじゃよろしくな、とギイに笑顔であと始末を頼まれてはそう簡単には断われない。

「あ、ああ。わかった……」

 数人のサッカー部員たちがしぶしぶと地面に身をかがめようとするのを尻目に、ギイはゆっくりと歩き出した。

 ギイは最初から、この瞬間を誰かと共有するつもりはさらさらなかった。

──誰にも、触らせるものか。

 ましてや、葉山託生を抱いて運ぶという大役を誰かに譲るなど、毛の先ほども考えられなかった。

──この重みさえもオレのものだ。

 例え、腕が圧(へ)し折れたとしても、この腕の中で安らかに目を閉じる愛しい人を自分の目の前で誰かの腕に託すなど、ギイは死んでも許したくなかった。

 今、託生を抱くギイの腕は小刻みに震えていた。
それは人ひとり分の重さを支える痺れによるものではなく、極度の緊張によるものだ。

 花に触れるように優しく愛しい人を包むギイの手のひらに、汗が滲む。

「託生、大丈夫か……? すぐ医務室に連れてってやるからな」

 緊張の面持ちで腕の中の存在に向けて呟いたギイのその口調は、その硬い表情に反して、真綿でふわりと包み込むようなそんな優しさに溢れていた。

 つい、ギイは心の中で呼び慣れた呼び捨てで囁いてしまう。
それほどに、この瞬間が、まどろみの中の幸せな夢の続きのように愛おしかった。

 ギイ自身、幸せな重みをその手にして、それだけで心が満ちてしまって、その口調を抑えることすらできずにいた。

 その時のギイには、そんなギイの一挙一動を見つめ続けた視線の存在に気付く余裕などまったくなかった。

 ただ、腕の中の存在が愛しくて。

──時間がこのまま止まればいい。

 そんなことをギイはずっと考えていた。

 だから、高林泉がギイの気持ちに気付くことなど、ギイは予想だにしなかった。

 ずっとギイだけを追い続けた自分の気持ちに正直な高林泉。
託生、と名を呼ぶ、その甘い瞬間に酔いしれたのはギイだけではなかった。
ギイを諦め切れずに追いかけ続けた泉だからこそ、鉄壁の仮面を剥がし素の顔を晒したギイのその一瞬を見逃さなかった。

 野次馬たちの片隅で、クラスメイトを両腕に抱いて校舎へと消えてゆく幸せそうなギイの背中を、泉は一心に見続けた。

 祠堂一綺麗と評判の自分を差し置いて、ギイがほかの誰かを好きになるなんて考えたことがなかった泉にとって、ましてや、その誰かが「葉山託生」となれば、それはもう青天の霹靂(へきれき)以外の何ものでもない。

 葉山託生は誰が考えても、ギイに限らず、「付き合う」には別格な生徒だった。

 人間嫌いの葉山託生。
その託生と友情を育もうなどと前向きに考えるのは、お人よしの片倉利久くらいだろう、と泉は思っていた。
その利久にしても、学生寮が同室だから、の付加的理由があるからあの葉山託生と仲良くしているのだろうと考えていた。

 ギイの想い人として認めるどころか、ふたりが並ぶ立つことさえ想像するのが難しいほど、葉山託生という存在は、華やかな天上人のようなギイとは雲泥の差の、人間嫌いの問題児にほかならないのだ。

 葉山託生以上に癖のある生徒は滅多にいないだろう。それが泉の、託生に対する印象だった。

 だから、もしかして、と最初疑問を抱いた時、絶対、想い過ごしだと自分の描いた愚かな想像を打ち消すために、実際、泉は何度も目を擦ってみたのだ。
それでも、託生を見つめるギイの優しいあの微笑みは何度瞬いても変わらなかった。

 ただの遊びでもなく、気の迷いでもない。
ギイは心から葉山託生に想いをよせている──。

 勘のいい泉だからこそ、直感でわかってしまったのだった。

 それほどに託生を見つめるギイの視線は温かくて優しかった。

「どうしてくれよう」

 泉に向けられるべき微笑みを、別の人物が享受している。
唇を噛み締めるほど、悔しかった。

  だから、恋心が手のひらを裏返して憎しみへと変わるその瞬間まで、泉はただひたすらふたりを目で追い続けた。

 こうして泉は誰もがあっと驚くギイの想い人の正体を、この日深く胸に刻んだのだった──。





 片倉利久とギイは、医務室のベッドに横たわった託生のかたわらで、口をきつく結んで華奢な丸椅子に座っていた。
校医の中山がギイの予想通り脳震盪と診断したため、ふたりは託生が目を目覚めるのをただじっと待つしかなかった。

 半開きの白いカーテンの向こう側では、あとから駆けつけたクラス担任の松本が中山校医とふたり窓際に並んで話をしている。

 託生の目覚めを待つ間、途中、一連の騒ぎの原因であるサッカー部員たちがふたつの鞄を手土産に陳謝しに来た一幕があったが、それ以外はただ待つだけの静かな時間が消毒液の匂いが漂う白い部屋の中をゆっくりと流れていた。

 遠く、部活動に汗水流す生徒たちの歓声が、薄く開けた窓の隙間から届く。
時たま、何に盛り上がっているのか、歓声が大きく上がった。

 そんないつもと変わらない放課後のそれに混じって、「葉山託生」の名が教諭たちの囁き声から漏れ聴こえてくる。
そのたびに、ギイはつい聞き耳を立ててしまうのだった。

 誰かの口から発せられるたびにドキッと胸が高鳴るのは、その名がギイにとって余りにもトクベツすぎるからだ。
それでも、その名を耳にしただけで過剰に反応してしまうそんな自分がふとおかしくて、重傷だな、とギイは苦笑した。

「ふたりとも、葉山が意識が戻ったら知らせるから、先に寮に戻っているかね?」

 じっと待っているのも退屈だろう、と気を効かす校医に、
「大丈夫です。目が覚めるまでここで待ってます」
即座に返したのはギイだった。

 続けて、利久も、
「俺も部屋で待ってても、託生のこと、どうせ気になってしょうがないし。だから、ここにいます」
ギイに習って神妙に応えた。

「託生、大丈夫かなぁ」
「後頭部に大きな瘤ができてたようだったから、あとで痛むかもしれないな。
もし、目覚めてから吐き気や頭痛が酷いようだったら、頭蓋骨のレントゲンを撮りに下界の病院に行くことになるだろうけど。
しばらく瘤が痛むくらいなら、多分、平気だと思う」

 平気だ、と口にするその裏側で、誰よりも心から託生が目覚めるのを待っていたのはギイだった。
そのことは、その場に居合わせた面々も薄々気が付いていた。

 託生を医務室に運んで来てからというもの、ギイは意識の戻らない託生のそばを一瞬たりとも離れようとしなかった。
まるで磁石のように張り付いて、眠り姫の目覚めを待つ王子のように寄り添いながら、ギイはただひたすらその安らかな眠りを見守り続けた。

 そのくせ託生がぴくりと指先を動かしたり、わずかに眉間に皺を作ったり、そんなささいな動きをすると、その都度、ギイは敏感に反応し、腰を浮かして手を伸ばそうとする。

 助け手を得ようと必死にもがくわけでもない託生に向かって何度も手を差し伸べようとするギイのその仕種は、まるで託生を救うためなら惜しみなく自身を差し出そうとする殉教者のようだった。

 とはいえ、しきりに伸ばされたギイのその指先はいつしかきつく握られて拳となるだけで、いつまでたっても託生に届くことはない。
だから、ギイの戸惑うその仕種は、まるで触れてはいけないものに触れようとする、そんな禁忌を破る寸前のそれに似ていた。

「崎の責任感の強さは級長の鏡とも言えるな」

 担任の松本のその一言に、ギイはちらりと視線を投げつつ、
「そんなことありませよ」
そう、とりあえず返答するのだが、そのギイの対応は一見、謙虚さを滲ませているようで実はそうではない。

 その証拠に、まったくと言っていいほどその口調には愛想のかけらもなく、至極当然のように、しん、と白けた空気を一瞬にして部屋中に撒き散らした。

 その上、素っ気なく放ったその言葉に加えて、一瞬担任を振り返り見たギイのその視線こそが、まるでこの期に及んでくだらないことを口にするな、とでも語っているかのようなそんな冷たいものだったから、静まり返った医務室の空気がますますピンと張り詰まり、部屋の温度がこれまたどんどん低くなる。

 一方、そんな視線で射抜かれた松本のほうは十六歳の教え子の鋭い眼差しに押されて、思わず一歩退いてしまう。

 俺がおまえに何か悪いことをしたか、と思わず我が身を振り返りそうになりながら、慌ててギイから目を逸らすと、
「いったい、その迫力は何なんだ……」
かたわらで揺れる白いカーテンに向かって、松本は、ぽつりと小さく愚痴を零した。

 しばらくして。

「う……痛っ……」

 身じろぎをした託生が、切れ切れに声を漏らしながら頭をさすった。

 瘤が痛むのだろう。
小さな唸り声を漏らしながら薄く目を開けようとするのだが、うめくばかりで瞼は閉じたままだ。
何度も頭を振る動作から見ても、託生の意識がまだはっきりと戻っていないのは明白だった。

「おい、大丈夫か? どこか痛いのか?」

 身をかがめながら、ギイが努力してゆっくり脅かさないように呼びかける。

 すると、そのうち、
「平、気……」
何度目かの瞬きを繰り返したあと、託生はうつろな表情で目を開けた。

「透ける、茶色の……髪……? あ、れ……、これ、夢……?」

 心配そうに託生の様子を伺うギイの淡い茶色の色彩が、託生の視界いっぱいに広がった。

「綺、麗……」

 光に透けた髪が眩しかった。
でもそれは、現実の世界においてこんなふうに至近距離で目にするものではないはずだから、託生の表情は眉間に皺を寄せた困惑のものになってしまう。

 それでも、幻でも、ただ見れたのが嬉しくて。
託生のそれは、青空にふわりと浮かぶ真っ白い雲を見るような、そんな晴れやかな微笑みにいつしか変わっていった──。

 その瞬間。

「あ……」

 ギイは息を飲み込んだ。

 喉から心臓が飛び出すかと思ったほど驚いて、すぐさま歓喜の雄叫びを思いっきり上げたい気分になる。

 託生が目覚めたことももちろん嬉しかったが、それよりも何よりも、ギイはある確証を得たことに、「やった!」と拳を高く振り上げて世界中の神様に感謝の祈りを捧げたい気持ちでいっぱいになった。

──託生はオレのことを嫌っちゃいないっ!

 それどころか。

──託生はオレのことを好きかもしれない……!

 嫌う男の髪をどうして褒めたりしするだろう。
毛嫌いしていたら、額がつきそうなほど間近から覗き込んだ男を見つめて、夢かもしれない、などとは呟かない。

 それが、儚い一瞬の出来事であろうと、その瞬間は確かに存在したのだ。

 その後、正気に戻った託生が、ギイを押しのけようとして暴れ、
「ぼくに構うな。あっちへ行けっ。こっちに寄るな」
ギイを手厳しく追い払おうと、いくら努力したとしても、
「まだ急に動くなよ。無理するなって」
ギイの頬は緩んだままだ。

「葉山、わかってるのか? おまえは怪我人なんだぞ?」

 本人はいつものように振舞っているつもりだろうが、託生へ掛ける声は思いのほか優しい口調になっていた。

 そして、余りにも、ギイの口調がいつにもまして穏やかで、優しさに満ちていたからだろうか。

「煩いっ。ぼくは大丈夫だ。もう、放っといてくれ。崎くんには関係ないだろっ!」

 この一年、ギイに対して貫き通した冷たい態度の裏側で、優しく自分を気遣うその声に、託生の心は戸惑った。
その優しさに期待しちゃいけないと自分を抑えようとする託生だったから、どうしたらいいのかわからなくて、ますます気持ちが空回りしてしまう。

 そうして結局、託生はギイの淡い色彩を見続けることが辛くなって、俯き、目を伏せるしかなくなるのだ。

 そんな託生を見下ろしながら、ギイは不安と期待で飛び跳ね続けるおのれの心臓を持て余す。

「面倒をかけたことについてはありがとうと礼を言うよ」

──オレのこと好きなのに。どうして抗う?

「だけど、これ以上はぼくに付き合わなくていいから」

──オレが好きなくせに。どうして突き放そうとする?

 だがさすがに、独断専行が専売特許のギイとはいえ、目尻と額を赤く染めた託生の様子を配慮する余裕は辛うじて残っていた。

「わかった。それじゃ、オレはもう失礼するけど、しばらくは無理はするなよ?
透明な鼻水みたいなのが出たり、吐き気や頭痛がしたら、すぐさま中山先生に言うんだぞ?
脳が腫れているかもしれないんだからな?」

 ギイは何度も念を押しながら、瞬時にその場の状況を判断すると、これ以上、託生を興奮させてはいけないと肝に銘じて、うしろ髪を引かれる思いで椅子から腰を浮かした。

 託生が顔を赤らめた原因。
それは苛立ちと羞恥にあると、察しのいいギイは気付いていた。

──オレがここにいては頭に血が上ってしまって休みたくても休めないだろう。

 今日のギイは、そんなことをずうずうしくも思ってしまう。

 それもこれも、託生が自分のことを憎からず思っている、と察した途端、「想われている」という自信が腹の底から急にむくむくと湧き出てきたせいだ。

 不機嫌そうに赤い顔を歪める託生に対し、くすくす笑いを堪えんばかりの笑顔のギイ。

 そのふたりの教え子たちの素振りは、ハタから見ててとてもチグハグなだけに印象的で、
「どうなってるんだ、こりゃ」
クラス担任の松本の記憶に深く深く刻まれたのだった。

 崎は葉山が苦手じゃないらしい、の松本教諭の見解が、今後のふたりの部屋割りに多大な影響を及ぼすことになろうとは……。
ましてや、翌月、ギイの恋の成就に一役買うことになろうとは、いったい誰が想像できただろうか。

 今、ほのかに、天啓の采配が春の予感を匂わせた。

 もしかしたら両想いかもしれない、という小さな可能性に浸るだけで素晴らしく上機嫌になってしまうギイにとって、「葉山託生のルームメイト」がどれほど値打ちを秘めているか。

 医務室に集う面々の誰一人として、予想することができなかった幸せの未来図。

 いつもの勘の良さはどこに行ったのやら。
察しのいいギイですら、この時、いずれ訪れる春の僥倖(ぎょうこう)の気配を一縷も感じられなかった。

 ギイはにこやかに医務室を去ってゆく。

 消毒液の匂いに満ちた部屋からひとり出て行くギイの、いつにも増して花が咲零れんばかりの鮮やかなその笑顔は、ギイをよく知る年長者たちやクラスメイトの目にことのほか眩しく映り、彼らの脳裏に強烈に焼きついた。

 ただひとり、そんな極上のギイの笑顔をまどろみの中に置き忘れてきた託生だけが、目覚めたばかりのボケた頭の片隅で。

「あれは夢だ……」

 視界いっぱいに広がって見えた零れんばかりの幸せそうな薄茶色の微笑みをもう一度頭の中に描きながら、
「でも、すごくいい夢だった……」
託生はシーツの上にひとりごちた。

 春の風が夢の続きをもうすぐ運んでくるとは知らないまま、
「ホント、ぼくにはもったいない夢だったなぁ……」
ふう、と溜息を吐きながら、託生は再び目を閉じる。

 もう一度、極上の夢を見るために。

 現実ではありえない、幸せな夢のひとときに身を投じるために。

 夢の中で微笑み返してくれる大好きな人に会いたくて。

                                                         おしまい


illustration * えみこ



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
「めぐり合わせの予感」はいかがでしたでしょうか?
今回は一年生三月の、ルームメイトになる直前のお話となりました。

二年生になるとギイと託生はルームメイトとなり、ギイは長年の片想いに終止符を打つことになります。
学生寮の部屋割りに影響を持つ担任のセンセ、松本の「きっかけ」と、
高林泉の「ギイの好きな人発覚」を盛り込んでみたのですが、気に入って頂けましたでしょうか?

イラストがとにかくイメージ以上のかわいい出来で、私は大満足であります♪
一目見て、幼いギイタクのイラストに私は胸キュンでした〜(笑)。
えみこさんに拍手〜♪

最後に、このお話が二年四月の騒動へと続くような、
そんな予感を思わせるお話にちゃんとなっていたら嬉しいです。

by moro



moro*on presents


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