「ほら、早くしないと朝メシ遅れるぞ?」
今にも泣きそうなほどに目を潤ませて、目尻を染めて恥らう姿はとても初々しく。
可愛いな、とギイは心の中で何度も呟いた。
「だって」と「でも」を繰り返して逡巡(しゅんじゅん)しては顔を上げたり俯いたりしている仕種も、恋人の欲目には「好きだぞぅ」とすぐさま抱き締めたくなるほどの可憐な姿にしか見えない。
相棒の章三に「ギイの視力はどこかオカシイ」と言わしめんところのあばたもエクボ的なその欲目は、その字の通り邪な気持ちがいっぱい詰まっているから相棒に反論するギイの舌の滑りも悪くなる。
──カワイイものはカワイイ。それのどこが悪い?
天下無双の出自からして常に天下御免の行動力を振舞うギイは、天下一品の開き直りをも、当然のようにもれなく持ち合わせていた。
薄紅色の頬紅をのせたように熟れてゆくその伏せ気味の託生の視線を上に向けるように、ギイは託生に顎に指をかける。
「託生から、してくれるんだろう? 約束だもんな」
瞬間、託生は猫を察知した鼠のように窓際ギリギリまで一目散に退いて、かあっと顔を赤らめた。
それは、「わずかでも利点多く。これこそが商売取引の基本である」と一般常識を説きつつ、自分有利に「紙面上で取引証憑書を取り交わさずとも、口約束とはいえ約束は約束である」と、ギイが恋人仕様のいかにもな説明を託生に言い含めた直後のこと。
「おまえだって承諾したよな?」
契約破棄にはそれ相応の違約条件が生じるのだと暗に匂わせながら、
「約束は約束だぞ」
ギイはにやりと人の悪い笑みを浮かべて、何度も「約束」と言う言葉を繰り返しては託生を窮地に追い込んだ。
余裕綽々のギイに対して、託生のほうは歯切れが悪い。
「だって、あれは……」
酒に酔ったように耳まで真っ赤に染め上げて、託生はさっと目を逸らしながら、口の中でもぐもぐと言葉を濁す。
「文句は一昨日言うんだな」
今更、何を喚(わめ)いたところで無駄だぞ、とあたふた慌てる託生を面白そうに見つめながら、ギイはわざと素っ気なく言い放つのだが、羞恥に慌てふためく恋人の機械仕掛けの人形のようなぎこちない動きにさえ、知らず知らずのうちに「愛しいぞぉ」と目を細めてしまう逆上(のぼ)せぶりは隠せない。
だから、その目が何かを含んでいるように見えたところで、それは託生の思い過ごしではないはずだった。
「ギイって意地の悪いお代官サマみたい」
他人の迷惑顧みず自分の意思を通すところは悪代官そのものだ、と託生が確信するように勝手に思ってしまったとしても、これもあながち間違いというわけでもない。
それに、いつもならここで、「お代官サマもお人が悪い」と悪代官の相棒、呉服問屋の赤池屋が、これまた人を見下すような悪い笑みを浮かべてさっとギイの隣りに並ぶところなのだが。
次期風紀委員長の肩書きを持つ章三のことである。
さすがに今頃は、食堂の一角で厳しい面持ちを浮かべながら食事を摂る生徒たちを見回しては風紀を乱す不遜な輩がどこぞにいないか、隅々まで目を光らせているのかもしれない。
朝の忙しいこの時間帯、さすがに用もないのにここ、三○五号室にわざわざやって来る章三ではなかった。
その「代官と呉服問屋」繋がりで、託生はふと思いついたことがあったのだが、
「やっぱり江戸時代だったらよかったなぁ。江戸時代なら少しは言葉が通じるかもしれないのに……」
託生のこれは完全なる現実逃避でしかない。
漢詩や短歌に溢れた平安時代より現代に近いというだけの理由でだけで古文の教材として江戸時代に憧れたのだろうが、明治の書物でさえ託生が目には漢字だらけに見えるのは必定。
実際に古文の教科書に明治の書物が引用された途端、「あんなこと願わなければよかった」と、きっと託生は涙を流して後悔するに違いなかった。
数ある授業の中で、託生は特に古文を苦手としていた。
最近、託生は古文の課題に取り組むたびに「教えてほしい」とギイを頼ろうとする。
「託生の祖先はきっと日本人じゃなかったんだろうな。
おそらく外国から日本に流れ着いて、日本語で苦労したに違いないぞ。
託生はそんな祖先の先祖がえりなのかもな」
そしてギイは、そんなふうにふざけて託生をからかいつつも、内心、託生からの「お願い」にはとても嬉しく思っていた。
やっとふたりでいることに慣れてきたこの頃なのだ。
とはいえ、三階にあるふたりの部屋の窓からぽかぽか陽気が差し込むようになった今でも、ギイの純情な恋人兼同居人は、滅多に自分からギイのところに寄って来てはくれない。
それでも課題でわらかないところがあると、根が真面目な託生は課題を終らせたいがために、その時ばかりはギイの制服の裾を掴み、「お願い、ここにいて」と縋るように引きとめて教えを乞うてくるものだから、ギイは思わずクラリとなって理性が思わず弾き千切れそうになる。
ひとつの机にピタリとお互い身体を摺り寄せて、ふたりして託生の教科書を覗き込んでも、いつもなら過敏に反応してふたりの距離をおく託生なのに、現金なことにそういう時だけギイがすり寄っても逃げようとしない。
──嬉しいっちゃ嬉しいんだが。しかし……こりゃ参ったなあ。
ギイは恥ずかしがりやの恋人を持つ身として、自分が策を練らなければ近付くことさえままならないと当然のように自負していた。
明晰で知られたその頭脳を、託生を自分のそばに置くことに惜しげもなく使うのは日常茶飯事。
あの手この手の想像はとても楽しく、想像を現実にするための策謀は趣と実益を兼ねた恋人としての当然の権利と言って憚らない。
──逃げないでくれるのはありがたいんだが……。
とはいえ、この状況はまずいかもしれない。ギイは、はあ、と溜息を漏らした。
解けない問題に躓(つまず)くごとにすぐさま誰かに頼る癖がつくのはよくないことだ、とギイは固く信じている。
──まずはともあれ「自分で考える」が基本だからな。
わからないことをわからないと尋ねることは悪いことではない。
恥を掻くのを恐れて、うやむやにしてしまうよりはずっといい。
かといって、安易に誰かに頼りすぎるのはよくない。
常に自分で解決する心がけを持ち続けなければ、考える努力を自然としなくなってしまう。
自分で思案するよりも先に「わからないから教えて」が口癖になるような、そんな考えなしの人間などに、託生にはなってほしくなかった。
だから、託生から寄って来るこの幸運に甘んじることなく、ギイは固く手を握り締めて、目の前の甘い汁をじっと我慢しながらほかの方法を見つけなければならなかった。
託生が自身で考える努力をする。
どうしても答えが出ない場合だけ自分が助け舟を出す。
それが守られるような環境を作り出すことこそが今の自分の成すべきことだと、ギイはちゃんとわかっていた……。
そんなギイが一計を思いついたのは一昨日のことだった。
一石二鳥の案が浮かんだ時、「この手があったか!」とぽんと膝を叩いて歓喜したほど、それは取って置きの上策のように思えた。
「教える代わりにキスひとつってのはどうだ?」
それも「託生からすること」のギイにとってはオイシイとこ取りの交換条件付きのこの提案は、咄嗟に思いついたまま口にしてみれば、これほどの最上策はない。
恥ずかしがりやの恋人にしたら、否が応でも自分で問題を解こうとするだろう。
「教えて」でキスしてもらえればメッケモノ。託生は課題が終るし、自分にもオイシイおまけ付き。
こうなると「託生の今後を案じて」と言うよりも、おのれの願望に正直な自分ににやりと忍び笑うギイだった。
託生にこの提案を飲ませるのはそれほど難しくなかった。
「諦め癖がつくのはよくないだろ?」
ギイにそうはっきり言われてしまうと、世間知らずな託生の耳にはそれがとても正論のように聴こえてしまう。
「だから、まずは自分で考えるんだ」
自分のことを心配して諦め癖がつかないように気遣ってくれるギイの心遣いは何度考慮してもまったくもって充分納得できるものだ、と託生はその時確かに思った。
「考えて考えて。それでもどうしようもなく煮詰まって。
それで諦めたり誰かに縋ったりするのは仕方ないんだ。
時にはきっぱり方向転換しないといけないことだってあるさ。
よくよく考えてその判断を下したのなら、後悔さえしなけりゃそれが託生のベストになるかもしれないしな」
情けない人間にはなりたくない。
託生は、ギイに呆れられてしまうような、そんな人間にだけはなりたくないと強く願った。
「まずは、託生。もがけるだけもがいてみよう。
もしかしたら天恵の閃きがふいに落ちてくるかもしれないぞ?」
ギイが言うところの「もがけるだけもがく」が、どれだけの努力が必要とするのか、託生にははっきりと想像できなかったが、諦めたくはなかったのに諦めなくてはならなかった想いだけはもう二度とごめんだと、その辛さだけはわかったから……。
今、ギイのそばで、同じ空気を吸って吐いて、同じ時を過ごしているこの幸せの分だけでも諦めない努力はしてみよう。
そんなふうに一歩踏み出す勇気を奮わせて、託生は「そうだね」と自分に課するようにギイに提案に頷いたのだった──が。
「ほら、約束。男に二言はないよな?」
祠堂一の美男子に、締まらないニヤケ顔で見られるほど居心地の悪いものはない。
ギイが人差し指でつんつんと自身の頬を突ついては「早く早く」と催促するものだから、余計、託生の決心は鈍ってしまう。
今までもギイから幾度となくキスの洗礼を受けてきた託生だった。しかし、自分からするキスとなると話は別である。
「ほっぺのきス」が噛み付くようなキスをされるより恥ずかしいことだったとは……。
今更ながら、託生はしみじみと痛感するのだった。
自分から、というのが本当に照れるのだ。
そばに寄るのも「いかにもこれから致します」と事前に伝えているようで、羞恥で耳まで赤く火照ってしまうのが止まらない。
どうせやらなくちゃならないならさっさと済まそう、これくらい大したことじゃないじゃないか。
改めて託生は擦り寄るようにギイに近付こうとするのだが、ギイの柔らかそうな唇につい目が止まってしまい、するとそれだけで身体が羞恥に怯んでしまって足が動かなくなってしまう。
こんなに自分からコトを仕掛けるのが難しいとは、と取引に応じてしまった自分の軽率さを今更悔やんでも悔やみきれない。
そんな進退両難する託生の心中などいざ知らず、
「ほら、早く」
すぐそこで、キレイな悪魔が黒くて尖った尻尾をぶるんぶるんと振りながら、ニタリと笑って「おいでおいで」と手を振って、「ご褒美をくれ」と催促してくる。
「あの時は、充分考えたつもりだったのにィ……」
まさか、こんなに自分の心が渦巻いて、堂々巡りに陥ることになろうとは……。
それも、「たかが、ほっぺにキスひとつ」──。とはいえ、託生にとっては、「されど、ほっぺにキスひとつ」である。
逃げたいけれど逃げられない。
「さあ、託生」
見つめてくるギイの笑顔が本当に嬉しそうだったから、今更、「あの約束、反故にしてもいい?」とは言い出せない。
結局、身から出た錆(さび)なのだ。
やるしかないか、と両の拳をしっかり握り締め、「よしっ」と託生は気合を入れると。
「こうなったら、ぼくも男だ。やってやろうじゃんっ!」
「そうそう、エライな、託生くん。その勢いでしっかり頑張るように」
託生は麗しの恋人に向かって一歩一歩と近付いていった。
託生が少しづつ、ふたりの距離を縮めてゆく。すると、距離が近付くごとにギイの鼓動は鋼を打つように早くなった。
ギイの笑顔が次第に真剣な面持ちに変わってゆく。そのギイの変化に託生の歩みは鈍くなる。
歩数にして五歩もない距離に気が遠くなるほどの時間をかけて、やっと託生はベッドに腰掛けるギイのところまでたどり着いた。
人ひとり分もない至近距離まで近寄ると、次にギイの肩に手を置いて、
「目を閉じて、ギイ……」
そうお願いしたのだが、喉がからからに渇いていたため、囁くお願いは掠れた声になってしまう。
その掠れた声が、ギイにより多くの期待と緊張を抱かせたのだと託生は知らないまま──。
「そんなに見つめられたら逃げ出したくなるじゃないか……」
今でも充分逃げ出したいのに、と続く託生の言葉に、途端、ギイは慌てて、
「了解、目を閉じればいいんだろ?」
恥ずかしがりやの恋人の望みを素直に叶えることにする。
ゆっくりと、ギイが幾度か瞬きを繰り返した。
伏せられたギイの睫が、なぜだか涙に濡れたような濃い茶色に見えた。
その睫のわずかな震えが自分の心臓まで響いてくるのは気のせいだろうか。
緊張しているのは自分だけではないのだと、小さな震えが教えてくれる。
だから。
チュッ──。
託生はわざと音を立てて、ほのかに赤らむギイの頬にキスをした。
瞬間、ギイが薄茶の瞳に託生を映して、あけびの実が弾いたような満面の笑顔をパッと浮かべる。
その笑顔があまりにも眩しくて。
「ギイ」
託生もつられて笑顔になった。
託生が幸せそうにふわりと微笑んでくれるから、ギイはますます嬉しくなって胸いっぱいに熱いものがこみ上げてくる。
どうにも想いが溢れすぎて、ギイは託生に触れずにはいられなくなってしまった。
その熟れた赤い頬を両の手のひらに包み込んで、そのまま軋(きし)むベッドにふたり同時に寝転んだ。
「うわっ、ギイってば何やって……」
窓から差し込む朝日が明るく照らす日溜りは暖かい。
その日溜りの毛布に包まれて、子猫がじゃれるようにふざけ合う。
「託生くん、最高っ!」
くすくす笑いがまつわり合って恋人たちを甘く絡める穏やかな幸福のひととき。
日溜りの暖かな空気は忙しい朝の喧騒の中にゆるゆると溶けていった──。
おしまい
illustration * えみこ
*** あとがき ***
最後までのお付き合い、ありがとうございました。
大家・moroと下宿人・えみこのコラボ作品「まつわりの日溜り」はいかがでしたでしょうか?
今回は三○五号室でのお話となりました。
初々しくも、幸せいっぱいの二年生のギイと託生。
「ほっぺにキス」を題材にふたりの朝の風景を書いてみました。
「ほっぺのキス」のイラストは「もうひとつのまつわりの日溜り」(イラスト部門)にてお楽しみください♪
この「まつわりの日溜り」では、えみこさんがいくつもイラストを描いてくれました。
本当にありがと〜です(お辞儀)。
特に「Here!」のギイのいたずら小僧っぷりがもうたまりませんわ〜☆
おまけのイラストもメチャかわいいっ(笑)。
大家は大満足です♪
by moro
えみこのおまけ
moro*on presents
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