望んだことすべてが思い通りになるとは限らない。
ほしいものすべてを手にすることなどできない。
そんな常識を本当に理解していたかどうか、今になって疑問に思う。
──自分だったら、どうにかすればいつだって何とかなるだろう。
そんな甘えがどこかにあったのかもしれない。
神様は本当によく見ていると思う。
奢った己の精神を、自分にとって最高に手痛いやり方で知らしめてくれた上、志だけではこの世の中そんなに上手くコトは運ばないのだと世間を侮っていた十五の自分を叱咤してきた。
葉山託生というただひとりの存在を利用して──。
桜前線が北上する経過が世間の関心を集める季節、ギイは人里離れた山奥の中腹に建つ祠堂学院高等学校の入学式に臨んだ。
真新しい背服に身を包んだ緊張の面持ちの新入生たちが鎮座する後方では、我が子の晴れ姿を見守る保護者たちの笑顔がある。
毎春繰り返されているその「始まり」の行事の厳粛な雰囲気は、親元から離れる覚悟をすでに決めてこの場に望んだ者に、改めて、高校生活という未知なる場所への不安と期待を抱かせた。
数時間後、列席する賓客たちの堅苦しい祝辞と、新二、三年生の代表の激励を手土産にやっと身柄が解放された時、新一年生たちの誰しもがそれぞれの胸に新しい三年間への入り口に立った自覚を息吹かせて、本当の親離れを始めるのだろう。
そうして席を立った新一年生たちは、力の入った祝いの言葉を頂いた分の延長時間を取り戻すためか、わずかの時間を惜しむように急かされながら、それぞれの教室へと向かって行った。
クラス別に新入生の名を記したに模造紙は、開式前、すでに講堂前に張り出されていた。
ギイはこれから一年間お世話になる教室の入り口を前にすると、咄嗟に足を踏み入れるのを留まって、一度大きく息を吸った。
焦がれ続けた笑顔をもう一度、この目にできるかもしれないと思っただけで
、「図太い神経をお持ちのようで」としばしば父の秘書の島岡から皮肉られるギイの心臓が一際高鳴る。
廊下にいても喧騒絶えない教室内の様子が聞こえた。
ちらりと教室内を覗いたところでは、出席番号順に席が決まっているようだった。
早くも着席しているクラスメイトたちの数人は、近隣の席の級友たちに自己紹介している。
全寮制の高校生活がこれから始まろうとしている緊張に対してなのか、笑顔を引きつらせている生徒や無駄にはしゃぐ生徒もいた。
黒髪ばかりの日本人、それも同い年の少年ばかりが固まって、教室というひとつの場に賑やかな空間を作り上げている。
それは日本の教育機関に初めて身を投じるギイに少しの違和感を与えた。
だが、その違和感はギイにとって当然なものだった。
あらゆる人種の巣窟である祖国において、ひとつの人種だけで作られる風景など滅多にありえないからだ。
ましてや、能力次第では飛び級するのが当然とされるアメリカの教育制度では、今や年齢で区切られる学年という枠などに意味はない。
同じ年齢というだけで構成される日本では当たり前なのであろうこのクラス編成に、年長の友人たちに囲まれ続けた今までとはまったく違う、遥かに刺激的な生活が待っているようなそんな予感が感じられて、早くもギイは今後三年間の生活を思い描いて武者震いした。
そして。
ギイが一歩教室に入ると、一瞬の静寂が訪れた。
ざわりと教室の中の空気が動いて、淡い栗色の髪の、まだわずかに幼さを残した彫りの深い端麗な容姿をした異邦人に多くの視線が釘付けになる。
そんな周辺の乱れた空気をかきまわすように机の間を突き進んだギイは、自分に向けられる好奇心を慣れたように自然に流しながら、それぞれの机の上に貼ってある五十音順の出席番号が記入された小さな紙をいくつか確認すると、大体の目安をつけて真摯な視線をハ行に飛ばした。
最初に視界に飛び込んだのは、とあるひとつの机の上を指で摩る生徒の、真塗りのような漆黒の癖のない髪だった。
彼の黒髪はギイの薄茶の瞳にところどころ銀に光って見え、黒髪が放つ異彩にギイは改めて感嘆した。
次に目を惹きつけたのは彼のその細い指だった。
幼い頃から彼がバイオリン奏者だったことがそんな些細なことから伺えて、ギイはすぐさまその華奢な指に納得しつつ、つい甘酸っぱい思い出に浸りそうになる自分に苦笑するのだった。
身長が低いわけでも高いわけでもない。
周りの同い年のクラスメイトたちとトクベツ違いがあるわけでもない。
けれど、肩で息を吐く彼が着席した瞬間、ふわりと上げたその顔にドキリとする。
記憶の中の幼い顔が、一瞬にして現在のものにすり替えられた。
──落ち着け。落ち着け、ギイ。ここまで来て何を迷う? おまえはチキン(腰抜け)じゃないだろう?
まずは基本の自己紹介から、と自分自身を叱咤しつつ。
──とにかく笑顔だ。第一印象は何をおいても大事だからな。
自分の席の場所がどこにあるかなど、この目の前に存在する幸運な機会に比べれば些細なことだと瞬時に計って、早くその笑顔が見たい、声が聞きたいと気もそぞろになる。
ふと気付くと、緊張で指先が冷たくなっていた。
──信じられるか、おい。このオレが手に汗を握っているぞ……。
この時のギイは、未知なる一歩を踏み出すことにこれほどエネルギーを要したことはない、とあとから振り返るたびに実感するほど極度の緊張に見舞われていた。
いつだって、段取り上手く運んでゆくのが持論だった。
だが、そんなものは初っ端から打ち砕かれた。
この異常な緊張からして予定外だった。
それでも、自分の魅力を極限に高めてくれるであろう最高の笑顔を引き出す努力は忘れない。
「やあ。オレは崎義一。これから三年間、どうぞよろしく」
長年の道程を一気に詰めるかのような勢いで目的の席に近付くと、ギイは彼に向かって話しかけた。
当然、入学式のパンフレットを納めた紙袋の片隅に記入された「葉山託生」という文字は確認済みだ。
右手を差し出して、笑顔で挨拶。
ハグや頬へのキスをするでもないそれは、日本でも充分通じるであろう基本的な好意を示す挨拶になったはずだった。
ギイはいくつかのパターンに迷って、結局一番無難なものを選んで実行したのだ。
笑顔を向けて、笑顔を返される。
手を差し伸べて、手を握り返される。
そんな簡単に予測できそうな相手の反応を、ドキドキしながらギイは彼の次の行動を待った。
ところが。
「きみのこと、さっきから向こうの人たちが呼んでるよ。
それに悪いけど、目立ちすぎるきみにはあんまりこっちに来てほしくない」
瞬間、ギイは生まれて初めて脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた。
──何が悪かったんだろう。どこかで日米間の文化の摩擦があったのか……?
ギイは頭が真っ白になるという体験を味わっていた。
それはギイにとって、これまた初めての知るコトだった。
下界と呼ばれる麓の街では桜が今、満開に咲いている──。
その情報は入学式の折、保護者たちの歓談の端々からギイは知っていた。
祠堂に入学してすでに二週間経とうとしている昨今では、世間話に花を咲かせた下界の桜も終わりを告げ、道端に淡いピンクの花びらをいくつも散らしていることだろう。
そして、薄紅色一色だった桜の木も小さな新芽の若草色に衣替えをして、これまた一味違った春の風情を見せながら、街のあちこちで、もう春も半ば過ぎたことをこっそり教えていることだろう。
黒板にチョークの滑る音が忙しそうに鳴り続ける中、ギイは窓から見える山の春の彩りを目で追っていた。
窓の左手に広がる山の中腹に見える白っぽい色は山桜だろうか。
ギイはその白っぽい色を見つめながら、アレはきっと清楚な白い花びらと明るい緑色の若葉の、二色の彩り美しい葉桜に違いないと考えていた。
その山の花の風景よりやや右手に視線を移動すると、正面入り口に向かって一直線に薄紅色の道が続いているのが見える。
綺麗に二本の線を描いてこんもりと咲いているソメイヨシノの桜並木が山の遅い春を知らせていた。
「桜、まだ咲いてるんだよな……。それも八分咲きかよ……」
標高の高さが物言って、まだまだ祠堂の春はこれかららしいと、ギイはそっと溜息を忍ばせた。
──もうすぐ満開になる桜に比べ、オレの春は遥かに遠いな……。
窓の外に向けていた視線を教室内の特定の人物の斜め横顔に向けると、胸が鷲掴みされたような息苦しさを覚えてしまうのはいつものことだ。
持て余す恋心が原因の不整脈はかれこれもう二週間繰り返され、すでにギイの日常となっていた。
好きな相手に自分の魅力をアピールするのは恋愛成就のセオリーだ。
甘く口説き文句を並べるものいい。
だが、優しさ、誠実さ、謙虚さなど、言葉で伝えきれないものも多い。
好きな相手とふたり一緒にいて初めて醸し出されるそのトクベツな雰囲気に、恍惚と陶酔する瞬間の連続こそ恋の醍醐味であり、それはまた、真髄でもあり特権ですらある。
それなのにギイが直面しているのは口説く以前の問題だった。
寄るな、触るな、話しかけるなと、怒鳴られ、睨まれ、無視され続けて、どう考えても、これはもう恋の発展どころの騒ぎではない。
──このままでは、良くて顔見知りの同級生。へたすりゃ通りすがりのヘンな人で終るな。
遠目ですら視線が絡んだ瞬間、すっと目を逸らされてしまう。
正面切って顔を見たら最後、きっときつく睨まれて、今度はこっちが目を逸らしたくなる。
そうして、ただ、盗み見ることだけが許された日々がギイの上に降り積もる。
手を伸ばせば届きそうなほど託生は近くにいるというのに、彼の心はとても遠い。
小さな接点を作る機会さえ掴むことができない八方塞がりのこの過酷な現状が維持される限り、いつ心因反応が現れても可笑しくないな、とギイはふっと乾いた笑みを浮かべた。
以前、映画俳優にのめりこむ過激なファンの様子がテレビのニュース番組の中で映された時のことだった。
『恋焦がれて狂い死ぬような出来すぎのラブストーリーなんて作り話でしかない。
俳優は熱愛する役柄を演じていたに過ぎないのに、彼らは現実と虚構の世界を履き違えている』
ギイはどこか馬鹿にするようなシラケタ感情を抱いたものだった。
『あんな恋など現実には在り得ない──』
長年心のよりどころとして、託生のことを一途に想い続けてきたギイだが、ギイ自身、自分のことを聖人君子だとは思ってなどいなかったし、恋におぼれて零落(おちぶ)れるタイプではないとわきまえていた。
だが、最近、自分がわからなくなる瞬間がある。
──本人を目前にして、ただ見守り続けるだけしかできない片想いがまさかこれほど辛いとは……。
予想以上に困難極まりない葉山託生への接触に、今後どうすればいいのか迷うたび、ギイはできもしないのに、今すぐ両手を挙げてギブアップを態度で示したくなる自分自身を持て余す。
──この恋はほとんど絶望的だ。
それでも諦めるには想い続けた年月が長すぎた。
加えて、孤軍奮闘の日々がギイに少しの寂しさを感じさせて、尚更に人恋しさと切なさを誘う。
──託生の顔を拝めるだけでも幸運だと思えばいい。
そんなふうに懸命に自身を慰めるギイを一体誰が知っていただろう。
学生寮に帰れば帰ったで、ルームメイトである赤池章三の手厳しい批判に合い、教室でしばしの憩いを、と託生の姿を求めて周辺の見知った顔を見回したら見回したで、「この時を待ってました」とばかりにギイとの親睦を深めることに殊更熱心な級友たちに笑顔で周りを囲まれて、ささやかな楽しみである託生鑑賞も、その級友たちの身体が邪魔な壁となってできなくなってしまう。
そのうち、やっと彼らから解放されて、「ラッキー、これで託生が見れるぞ」と思いきや、今度は級長という名の雑用に追われて身を削るような労働を余儀なくされる。
誰もギイの望みなど知り得はしない。
──オレは何のために祠堂に来たんだ?
いつだって、ギイはそう叫びたくなるのをぐっと我慢していた。
「ギイ。
評議委員会の会報誌のことだけど、半期に一度の発行を奇数月の隔月にしようかって話が出てるらしいんだ。
やっぱり二ヶ月ごとじゃ準備するの大変かな?」
同じ一年の級長同士のよしみで相談してきた野川に対しても、
「だったら年に四回の季刊発行にしたらどうだ? 例えば春の号なら、教職員のコメントも載せたりしてさ。
右も左もわからない新入生のオレたちにとってはいい情報入手になるし、先生方の知られざる素顔ってふうに普段とは一風変わった話や体験を紹介したら先輩方にも充分楽しめてもらえるんじゃないか?」
ギイは提案に近い助言を与えたりして、忙しさはクラス内に留まらない。
──オレだって楽しみたいのに。なのにどうしてこう、他人が楽しむ企画の手伝いで一日が終るかね。
廊下の壁に片手を当てて反省のポーズで、はァ、と溜息をつくギイを一体何人の同級生たちが目にしたことか。
そして、その姿に同情したのは同年代の少年たちだけではなかったようだ。
一途な恋に心動かされた天の神様が、ギイの上に、「ほらよ」と恵みの飴玉を、ぽとん、と落としてくださったらしい──。
春の恵みは誰の上にも訪れる。
その恵みを生かすも殺すも、人それぞれの器量次第。
そして、ギイの場合は……。
「桜、今度の雨できっと散っちゃうねえ。今週末は天気が崩れるらしいよ」
何気ないクラスメイトのその一言がギイの企画力に火をつけた。
「花見をしようっ」
ギイを取り巻いていた級友たち数人が、「へ?」「花見?」とギイを振り返る。
「ソメイヨシノは待っちゃくれない。だから桜が散る前に花見をしよう。
それぞれが飲み物と昼飯を用意して持ち寄るんだ。
パンでもおにぎりでも何でもいい。ただの花見じゃつまらないしな。
持ち寄った昼食に番号をつけてさ、くじ引きして自分が用意したヤツじゃない誰かのモノを食べるってのはどうだ?
お互いの好物も知れるし、クラスの親睦を深めるにはいい企画だと思わないか?」
お菓子持ち寄りでもいいしさ、と片目を瞑るギイに心酔するクラスメイトたちが興奮しないわけがなかった。
「いいじゃん、それ。やろうよ」
とはいえ、中にはいくつかの問題を提示してくる生徒たちもいて。
「くじ引きは楽しそうでいいんだけどさ。でも、もしも自分の嫌いなのが当たったらどうするんだい?」
「そういやアレルギーとかの問題もあるよな」
ギイはそんな彼らの思慮深さに温かい気持ちを抱きながら、
「そんときゃ誰かのと交換すればいい。自分の苦手な食材は誰かにとって大好物ってこともよくあることさ」
そんなの大した問題じゃないと明るく微笑った。
そして、花見の席では──。
ギイの言葉通り、
「うへぇ、このおにぎり、梅かつおだ。俺ってば梅ってダメなんだよな〜」
梅干し嫌いのヤツに限って、梅干し好きの級友の隣りに座っているもので、
「なら俺のと取り替えてやるよ。五目おにぎりかカレーパン、どっちがいい?」
「カレーパンっ! カレーは俺の好物なんだよォ」
意外と幸運に転じたりする。
それぞれが持参した昼食を級長のギイに差し出し、くじ引きで級友の昼食を引き当てるクラスメイトたちは、何だかんだと言いながらもそれなりに薄紅色の花を愛(め)でながらの春爛漫の昼休みを楽しんでいるようだった。
苦情を苦笑に変える者もいれば、歓喜の雄叫びを挙げる者、ほっと安堵の吐息をつく者もいる。
満開の桜の下で催された親睦会という名のこの花見はクラス全員参加となったが、それでも、簡単にこの人数が集まったかと言えばそうではない。
少なくともギイにとって、この綺麗に咲き誇る桜を見る以上に、日頃の分までできればゆっくり鑑賞していたいと思う存在をここに引っ張り出すのは、今、思い返しても容易なことではなかった。
「葉山、明日の昼、花見をするからよろしくな」
花見決行日の前日のこと。
本来なら、ぽんと気安く肩を叩きたいところをぐっと我慢してギイが用件を手短に伝えた終った時には、すでに相手は完全なる戦闘体勢に入っていた。
親の敵を目の前にしたかのように、キッとギイを睨みつけ、産毛を逆立てて、唇をきつく閉じている。
──まるで手負いの猫だな。これで尻尾があったら毛を逆立ててピンと立てているところだ。
ひと撫ででもしたら手を振り払われるどころか、叩かれて爪で引っかかれるだろうことは経験上知っていた。
入学式の日、教室で握手を求めた時、固まったままの託生の様子に、
「人見知りなのか? もしくは握手に慣れてない?」
気を回して、ギイが託生の手を握り締めた途端、手の甲に赤い引っかき傷をつけられた。
「なんて酷いことするんだっ」
「ただ握手をしようとしただけじゃないか」
ギイの一挙移動を見守っていた外野の怒鳴り声が蝿の羽音のように教室を埋め尽くした。
そんな喧騒を背後に、唖然としたのはギイだけじゃなかった。
当の託生も何が起こったのかわからないといった驚いた表情で、目を見開いてギイの血の滲んだ手の甲を見ていた。
「ごめん」
最初に動いたのはギイの唇だった。
「握手、苦手だったんだろ? オレの国とこっちのやり方、意外と違いが多くてさ。まだ慣れてないんだ。
ホントごめんな」
頭を下げてギイが謝ると、
「ごめん、なんていらない。だけど、これでわかっただろ? 怪我したくなかったら、ぼくに近寄るな」
ぽつりぽつりと机に向かってしゃべる託生のくぐもった声が、ギイの耳には罪状を述べる検事の声のように聴こえた。
──それは忠告か? オレってそんなに目触りか?
そう尋ねそうになった自分を、ギイはやっとのことで押し止める。
このまま何か一言でも口にしそうものなら、きっとそれは掠れ震えた涙声になりそうな気がしたからだ。
ごめん、と咄嗟にしっかりした声を出せたのが奇跡だった。
今も喉がからからに渇いて、引きつるような感覚に襲われているのだ。
その「ごめん」すらも受け取ってはもらえなかったのは残念だが──。
すると、そのうち、
「おまえ、何様のつもりだよっ」
託生の言葉にかっと血が上ったのか、この場では無関係なはずの生徒が託生の腕を掴もうとした。
瞬間、煩い蚊を仕留めるがごとく級友の手を叩き払う託生に、ギイだけではなく周りの生徒が氷のように固まった。
そんな不穏な空気が漂う中、
「ちょっと止めろよっ。そっち、何やってんだ! 託生も落ち着けよっ」
一気に氷点下まで下がったその場の雰囲気をものともせず、ギイと託生の間に割って入った生徒がいた。
「利久……?」
託生の表情がふっとわずかに緩み、一瞬の間に微笑みが浮かんでは消えた。
その微笑みにきゅっと心臓が掴まれた感覚を覚えながらも、ギイは突然現れた背の高い男に割り切れない感情を持て余す。
──誰だ、こいつ……?
すると、まるでギイの頭の中を覗いたかのように、その男は、
「俺、こいつのルームメイトの片倉っていうんだけど。どうやら託生は触られるのダメらしいんだよね」
ほら、この通り、とシャツ巻くって差し出された肘下には、ギイのそれと良く似たミミズ腫れがあった。
長い間──本当に長い間、焦がれ続けた存在に、突然拒絶されたこの日、ギイはその後しばらく、どこかぼんやりと頭の中に霞がかかったような状態になった。
それでも周りの目からすれば、ギイはそれからも一日そつなく行動し、担任に指名されて就任した級長の名に恥じない態度を保って過ごした。
だが、気を抜けば、ふっと魂が抜けたような脱力感に襲われる。
そして、そんな不甲斐ない自分を、もうひとりの自分が第三者の立場で客観的に見ているのだ。
感情的に心を乱す、平常心が保てないギイと、そんな自分を認めようとしないもうひとりの理性の塊の現実主義のギイ。
そして、そのどちらともが半端モノでしかない自分自身。
──オレはただの十五のガキじゃない。こんなオレはオレじゃない。もっとオレは世間慣れした大人のはずなんだ。
突然、自分の弱さをはっきりと知らしめされたギイは、教室での初日、二重の衝撃に絶え続けた。
その端正な容姿に穏やかな微笑みを浮かべつつも、心中はへらへらと安易に笑って過ごすことなどできずにいた。
あの時は知らなかった託生の人間嫌いや人間接触嫌悪症のことも、この二週間、ともに仲間として生活していればギイもそれなりに情報を得ることができた。
そして、知り得た情報はそれだけではない。
「ぼくは欠席するってちゃんと言っておいただろ」
「クラス挙げての親睦会なんだ。そう言わずに参加してくれ」
託生は本来真面目な生徒で、授業態度も良く、花見の出欠席も事前に申告してくる程度には気配りができる人間だった。
その申告が片倉利久を通して告げられたのだとしても、花見当日、クラスの級長のギイが采配を振るのに状況把握しやすいよう、わざわざ「欠席するから」と伝えてくれただけで、ギイは託生の優しさを感じることができた。
だから。
「ひとりくらい抜けたところでわかりゃしないよ」
なぜ、そんな悲しいことを託生が言うのか、ギイは許せなかった。
──誰もが気付かないとしても、オレは知っているっ! それだけで充分な理由だろう!
花見はみんなで楽しむためのもの。
もちろん、自分が楽しみたいというのが一番重要だ。
「ひとり抜けても大丈夫って誰もがそう思ったら、欠席するのは多分葉山ひとりじゃなくなると思う。
すでに落書きが描いてある壁にちょっとくらい描き足してもいいだろうと考える輩はいても、染みひとつない綺麗な壁にはやっぱり汚すの躊躇するだろう?
それと同じだ。だから葉山もしっかり参加してくれ」
そんなふうにギイがブロークン・ウインドウ理論を持ち出して説得を試みると、
「それは級長命令かい?」
託生は再び好戦的な物言いで訊いてきた。
──そんな顔しないでくれ。オレはおまえの天敵じゃないぞ。
ギイはそう心の中で託生に声をかけながら、そっと溜息を吐くと、
「そう取ってもらっても構わないぜ。だけど、オレはみんなで楽しみたいだけだ」
もちろん、その中には葉山もしっかり入っているぞ、とはっきり口にする。
「ぼく以外の誰かと仲良くすればいいじゃないか……」
「オレは『みんなで』と言ったはずだ」
絡み合うふたりの視線は鋭さを増すばかりで、甘さなど微塵もない。
猫と目を合わせたら、すでに威嚇開始、もしくは戦闘準備発令中。
『一度目を合わせたら、目を逸らしたほうが負けになる』
猫好きの友人の言葉が、ギイの脳裏に繰り返し響いていた。
しばらくして──、先に目を逸らしたのは託生のほうだった。
そうしてギイはやっとのことで、託生から色好い返事をもぎ取ることに成功したのだ──。
葉山託生の他にもうひとり、ギイには気になる存在がいた。
判断力、推測力、行動力、理性と感情の平衡感覚、公平無私な取り扱い。
どれひとつとっても申し分ない。
これほどの逸材が己のルームメイトでありながら、こっちの「彼」も自分に靡(なび)いてくれない。
「オレ、何かバチが当たるようなことしたかな」
花見用に用意したものは、クラス人数分の番号が書かれた赤くじと黒くじの二種類で、赤くじは小さく四つ折にしてビニール袋に入れておき、これをひとり一枚ずつ引き当てる。
黒くじは各自用意した昼食に貼り付けるためのもので、くじ引きの商品である昼食の受け渡し用だ。
事前に、ギイはそのどちらともを作っておいた。
そんなふうに誰も見ていないところで地道に働くギイの願い叶い、花見の当日は春風が爽やかに吹く、真っ青な青空に恵まれた。
おのおの持ち寄ってきた昼食は主に購買部で買ったものがほとんどだったが、中には食堂からどうやって持ってきたのか、トレイごとの月見うどんもあったりして、そんな洒落にならない昼飯にギイは時折破顔しながらもひとつずつ預かっていった。
「昼飯差し出してくれたヤツからくじ引きしてくれ。全員がくじを引き終わってからお目当ての昼飯を配るからな。
みんな、うどんが伸びないうちにさっさと引いてくれよ」
そう言って乾いた笑いを取りながら、ギイは回収した昼食に一番から順に黒くじをぺたりとセロハンテープで貼っていった。
仮に、引き当てた数字が自分が用意した昼食の番号の場合は、その場で再度くじを引き直しすることで、クラス全員が「自分以外の誰かの好み」の昼食を手にするように、誰もが楽しめるように工夫してある。
そうして、クラス全員がくじを引いたのち、山にように集まった食べ物を赤くじの紙と引き換えに手渡してゆくのだ。
それは単純なシステムではあるが、その単純さ分だけとにかく人手を必要とした。
黒と赤のくじを作るのは造作もないことだとしても、飢えた猛獣たちを前にして昼食の受け渡しはギイひとりでは捌ききれない。
手伝いを買って出てくれた級友たちも中にもいたが、そのほとんどがお坊ちゃん育ちなのか要領を得ず、返って能率を悪くする者もいた。
「お〜い、まだかよ〜ん」
早く昼飯くれよ、とハイエナのように喉を鳴らしてギイを囲むクラスメイトたち。
そんな時だった。
「番号を読み上げるから呼ばれたヤツだけ来てくれよっ!
そんなに大勢で押し迫ってきて、うどんの汁とかかかっても知らないぞっ」
風紀委員の威厳高々に、赤池章三の声が春風にのってギイの真横から吹き流れてゆく。
「いいか、読み上げるぞ。二十五番……ほい、コレだ。十三番、おい、押すなよ──」
そうして、章三は早口で仏頂面も隠さず、
「手出しして悪かったか?」
ギイに小声で一声掛けると、返事も待たずに、
「十番……。八番……」
次々と捌(さば)いてゆく。
手際よく昼食を手渡してゆくそんな章三をちらりと横目で見つつ、ギイは彼の個人評価に、「勤労意欲有り、状況把握ピカイチ」と新たな項目を付け加えた。
「助かった。ありがとな」
ギイが素直に感謝を述べると、
「義を見てせざるは勇無きなり、だ。礼にはおよばん。おーい、どんどん読み上げるぞっ」
章三がますます声に力を入れる。
だが、ギイに投げかけるその鋭い視線とは反して、章三の目尻から頬にかけてが綺麗に朱色に染まっている。
それをしっかり見止めたギイは、章三に対する観察結果に、これまた「褒め言葉に弱し、意外と照れ屋」を付け足した。
──このバランス感覚の良さ、マジにほしいんだけどなあ。
そんなこんなの一幕もすぎて。
「ぎょえ〜、うどんじゃんっ」
当たりくじ(?)を引いたひとりが引きつった笑いを浮かべている反面、周りの級友たちは「ラッキーっ」と自分の幸運に感謝する場面もあるなど、その受け渡し場所はてんやわんやの大騒ぎとなった。
そんな花見に相応しい盛り上がりを楽しむ級友たちから、ギイは再びちらりと章三の横顔を盗み見た。
すると仕事熱心な章三はギイの気配など綺麗に霧散させて、
「こらこら、五番はこっち。間違って持っていくなよ。次は十七番……」
ずっと馬車馬のように働き続けている。
──ここまで綺麗にオレを無視できるのも、ある意味その素晴らしい集中力に、ありがたいやら口惜しいやら、だな。
ギイは苦笑を隠しながら、
「みんな全員、昼食受け取ったかっ?」
すでにそれぞれが適当な場所を探して腰を落ち着けている、用意万端の級友たちの笑顔を見回して、
「それじゃ、我がクラスの花見成功に乾杯っ!」
そして間をおかずに、「頂きますっ」と号令をかけた。
すると級長のあとに続き、誰もが言葉の追いかけっこをするように、
「頂きますっ」
飲み物を掲げて叫び挙げる。
桜の薄紅色の花びらが、ひらりひらりと落ちる。
そんな春のひとときの昼休み。
そうして、春の恵み豊かな花見が賑やかに始まった──。
「あれっ? 託生、缶コーヒー飲まんの?」
意図的に託生の後方に座りこんだギイは、託生の隣りで食事する片倉利久の声に眉をひそめた。
「いいじゃないか、飲むのも飲まないのも勝手だろっ」
相変わらずの手負いの猫状態の託生に、それでも利久は穏やかに、
「もしかして、ブラックだから? 託生ってミルク入りじゃないと飲めないんだっけ?」
大丈夫かい、と心配そうに声を掛ける。
「飲めるに決まってるだろ、子どもじゃあるまいし。ミルクなしでも砂糖入りならぼくだって平気なのっ」
「でも、それって無糖じゃん。ッて言っても、本当なら取り替えてあげたいところなんだけどさ。
誰が選んだやら、俺のってば何と、おしるこ……なんだよなあ」
おしるこでもいいなら、の親切心に、いつにも増して託生は、「絶対いらない!」ときっぱりと断言していた。
「だったらさ、オレのと取り替えないか? オレはブラックのほうが好みなんだ」
背後から突然声を掛けたせいか、ふたりはびくりと肩を揺らして、咄嗟にギイを振り返る。
「ミルクコーヒー。これなら飲めるんだろ?」
断られるのは百も承知。
だから、ギイは託生に向かって、有無も言わさず先手必勝とばかりに、ぽいっと缶を放り投げた。
放物線を綺麗に描いて、缶コーヒーが託生の掌にすとんと納まる。
それに満足して、ギイは軽く頷いて見せた。
そんなギイの花が咲き零れるような鮮やかな微笑みに、すっと視線を外して託生は俯くと、自分の掌の中にあるミルク増量の缶コーヒーと、無造作に地面に置かれた黒い缶を交互に見比べ、
「なら、物々交換っ」
キャッチボールをする仲のいい友人同士のようなそんな気安さを滲ませながら、ギイに缶を投げて寄越した。
ギイは、まさか自分に向かって、一瞬とはいえ、託生が笑うとは思わなかったので、普段は素早く反応する反射神経も鳴りを潜めて、その鮮やかな微笑みに見惚れたまま──。
「あっ……」
重なった叫び声が、薄紅色の花びらが散らばる地面に吸い込まれるように消えてゆく。
ごとん、という硬い音が缶コーヒーと共にギイの足の甲の上に落ちたとしても、それは偶然の事故であり、人間嫌いの託生といえど、決して悪気があって狙ったわけではないようだ。
その証拠に──。
「痛、ってぇ〜っ!」
満開の桜の乱れ咲きの中、思わず涙を滲ませて笑い叫んだギイに向かって、
「痛いくせに何で笑ってるんだっ。もう信じらんないっ」
咄嗟に駆け寄った託生が、腰をかがめてギイの足を摩ろうと手を伸ばした──瞬間、ビクリと身体を震わせて、ぐっと指を握り締めている。
──何なんだ、おまえってヤツは。まったく、人間接触嫌悪症のくせしてさ。
「無理するなよ……」
すると、ギイの優しい言葉に揺れた枝が、その震える手の甲に、ひらりと吸い付くように薄紅色の花びらをいくつか散らす。
花には心を鎮める力があるのだろうか。
臆病な猫のように緊張していた肩の力をふっと抜いて、託生は花びらを大切そうに摘むと俯いた顔をゆっくりと持ち上げ、花咲き匂う桜の枝々を見上げた……。
その姿があまりにも愛しくて。
──やっぱり諦めきれないよなぁ。
そうして、零れそうになる涙をぐっと我慢して。
託生が見ている春の彩りをこのひとときだけでも一緒に楽しみたいとギイは心から思いながら、愛しい人が見上げたように、枝がたわむほどに咲き揃った見事な桜の大木を仰ぎ見た。
淡い薄紅色の樹冠から、雲ひとつない澄んだ青空が覗いて見える。
今まさに、ギイがずっと見たかった託生の笑顔のように、空の青色は薄紅色の桜の花びらの隙間からしか見ることができない。
それでも、花の向こうにしっかりと青い空が存在するように、ギイが焦がれ続けた笑顔は確かにそこに存るのだ──。
級友たちの笑い声に桜の精も感化されたのか、山から吹き流れた風の仕業か。
ギイと託生が座る一角に、春の時雨のように花びらが舞い落ちた。
わずかながらも軽くなる枝。空が幾分、近くに感じる。
頬を撫でるような春の風が、ギイの頬にとても温かい。
いつまでも限りなくひらひらと舞い落ちる花びらの向こう側で、頑張れ、と誰かが囁いたように聴こえたのは気のせいだろうか?
肩に触れたハート型の薄紅色の一枚に目を留めると、ギイは何かを掴んだようにぐっと拳を握り締めた。
誰もが手を伸ばしてほしいものを求めている。
求めずにはいられない、そんな気持ちを知ってしまったら最後、ひたすら足掻くしかないのかもしれない。
望み焦がれる場所に辿りつくには脇見など許されない。
ただ前を見て歩いてゆくしかすべがない。
ならば、「頑張れ」とどんな時でも自分自身を励まして、求めるもの目掛けて一心不乱に突き進むしかないだろう。
その願い叶う幸せな日々を夢見ながら──。
おしまい
material * NOION
*** あとがき ***
最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの11111hits記念作品「花咲き匂う二葉の啓示」はいかがでしたでしょうか?
今回は一年生四月の、恋人も相棒もまだ手に入れてない頃のギイのお話となりました。
本当はお花見場面をもう少し書くつもりでいろいろネタを用意していたのですが、
勝手にキャラが動いてしまって、ご存知の通りのラストとなってしまいました(笑)。
……ということで、もうひとつのお花見・其の一。
「これ、誰んだよ、おにぎり五個にパン四個っ! それも四枚切り食パン一斤なんてふざけるな〜っ!」
「お、それ、オレのオレの」
食欲魔人ギイの驚異的な胃袋には、くじで当てた「おにぎり三個、唐揚げ五個、缶コーヒーひとつ」では物足りないらしく、
今にもうるうると目を潤ませて、ヒモジイよぉ、と訴える。
そして極上の微笑で、
「食べ切れないんならオレに恵んでくれない?」
もうひとつのお花見・其の二。
「託生が用意した昼飯、結局誰が食べたんだろう……ってか、
託生が用意した昼食、オレ受け取った覚えがないんだけどなあ」
自慢の記憶力をフル活動して思い返しても、託生がギイのところに寄ってきた場面など皆無だった。
「オレの代わりに誰かが受け取った、とか?」
いや、そんなことはない、持参した昼食を受け取る役は自分ひとりだったはずだと思い悩むギイ。
するとそこに助け舟が。
「ああ。託生の分なら俺が預かって持ってったよ。忘れたのかい、ギイ。ちゃんと赤くじ二枚くれたじゃないか」
利久の言葉に、がくりと項垂れるギイはささくれた気分を上手く隠しながら、
「片倉はいいよなあ」
妬み半分、羨望半分の面持ちで利久をちらりと見た。
「それで、託生が選んだ昼飯は何だったんだ?」
恋する男は転んでもタダでは起きない。
「負けるもんか」と、ギイは両思いになるその日を夢見て挫けない。
「えっと、確か、笹カマは絶対入っていたはずだけど?
うちの実家から送ってきたんだけどさ、笹カマ、もう食べ切れなくて大変だったんだ〜」
花見サマサマ、いやあ、助かったよ〜、と喜ぶ利久持参の昼食の中にもしっかり笹カマがこんもり入っていたそうな。
……なんてね。
ちなみにタイトルの「咲き匂う」は『鮮やかに咲く』、「二葉」は『始まり』の意です♪
いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。
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