見えないもの、この手に握り締めないもの。
あやふやな存在というものは結構多い。
それら、ひとつひとつを確かめたくても、物理的に残せるものではないから、ますます始末が悪い。
だから、きっと誰もがますます確かめたくなる。
目にしたいと、手にしたいと、望みたくなる──。
『私はこんなだからいけないのかしら。こんな私でも重荷に思わないような男じゃないとやっぱり駄目なのかしら』
『私が男だったら、あんたを絶対嫁に貰うんだけど。上手く行かないもんねえ』
夕食の喧騒も一段落した頃、談話室から、突然、女の人の声が聞こえた。
四角い画面では、薄暗い洒落た店のカウンターにふたりの若い女性が座っている。
ブラウスの襟を立てたショートカットの片方が、色鮮やかなカクテルに指を絡ませながら、
『大丈夫、きっと今度こそあんたにピッタリな男が現れるわよ』
隣りの女の人の肩を軽く叩いた。
『だいたい世話好きな女を鬱陶しく思うほうがどうかしてるのよ。
第一、寂しい独身男の中には甲斐甲斐しく身の回りの世話してくれる存在を求めて、お金を払ってまで出逢いを求めてる人だっているのよ。
しっかりしなさい。あんたが悪いわけじゃないわ。
一緒に住もうだなんて言っておいて、他の女を連れ込むほうがアホなのよ』
オレンジ色の液体の揺らめきに見とれながら、訳知り顔で静かに紡ぐそのアルトに耳を傾けながら、
『あの人、私がいいって言ってくれてたのよ』
栗毛色の長い髪を掻き分けて、もうひとりの連れの女性が喉を上下に動かしてスレンダーなグラスを空にする。
『口先だけの男のためにあんたが泣くことなんかないわよ。
あんな男を想って悩むだけ時間の無駄。今回のはたまたまホンモノの恋じゃなかっただけ。
相手の本性が早くわかっただけラッキーよ。あんなヤツ、あんたが泣く価値もない男だわ。
だから、悔しかったら早く幸せを手にするの。それが一番の復讐よ』
『愛してるって言ってほしかったの』
『そんなの好きなら当然だわ』
『ただ、彼に愛されているんだって知りたかったの』
山奥に建つ祠堂学院高等学校の学生寮では夜な夜な談話室のテレビのチャンネル権争いで騒がしい。
しかし、ほとんどのテレビ局が全国的に行われた選挙の開票結果速報の特番を組んでしまうと、さすがにチャンネル権争いも鳴りを潜め、みんな大人しくサスペンスドラマを見るしかない。
時計の針は九時半を過ぎている。
冒頭の雨の夜の場面──パトカーのサイレンと、警官に取り囲まれた血だらけ若い男の映像が消えると、「一年前」のテロップが現れた。
そうして画面は薄暗い照明の中、カウンターの中でグラスを拭くバーテンダーから見たふたりの女性が映し出された。
事件へと繋がりそうな人間関係が伺えるそのカメラワーク。
視聴者の興味を惹きつけるような化粧の似合う女優たちの迫真の演技。
時間にして十五分も見ていなかったが、怖いもの見たさの気分を充分味わった気がした。
約束の時間にはまだ間があるからと、時間つぶしに談話室に足を運んだのだが、知った顔はほとんどなく、よく見かける程度の顔ぶれに混じって、ついドラマに引き込まれてしまった。
オカルトやホラーが苦手なぼくだが、サスペンスならまだ見れるのだ。
そうこうしているうちに、時間が経ち、
「そろそろいいかな」
先客が帰ったであろう頃合を見計らって、ぼくは三階ゼロ番に忍び込んだ。
「よ。お待たせ。時間ピッタリだな」
笑顔で迎えてくれたぼくの麗しの恋人に、
「もう少し遅かったら事件勃発、目が放せなくなるとこだったよ」
サスペンスドラマのストーリー展開を予想して、ぼくがそう言うと、
「事件って……。託生の周辺で何か起きそうになったのか?」
ギイは緩んでいた口元を引き締めつつ、
「託生、ちゃんと説明してくれなきゃわからん」
真摯な瞳で話の先を急かした。
「違う違う。テレビドラマの話。『これはフィクションです』の世界のことっ。
さっき談話室でちょこっとだけ見ていたんだ。それで、サスペンスやってたからさ、ついついね」
今までの経緯をギイに話して聞かせると、
「脅かしてくれるなよ」
ギイは人差し指でぼくの額をちょこんと押した。
「ギイ、もしかして焦った?」
フザケ半分で尋ねたぼくに、
「いつからそんな小悪魔になったんだか。ホント、先が思いやられるな」
苦笑しながら、ギイはぼくのために珈琲を淹れてくれた。
そんなギイの何気ない動作を目にしていたら、さっき見たドラマのワンシーンが思い出されて、ふいにこんな言葉がぼくの口から出ていた。
「ギイって絶対世話好きだよね」
ドラマの中では世話好きの女性が浮気性の男に鬱陶しがられていたが、このギイに限って言えば、ギイの心遣いに感謝する輩はいても鬱陶しく思う者はまずいないんじゃないだろうか。
恋人の欲目を差し引いても、ギイはとても魅了的な存在だと思うから──。
人間性やその秀でた外見に加え、何よりギイの心配りは天下一品だ。
ギイはいつだって先を読んでいて、相手の希望を叶えるのがとにかく上手い。
そんなギイだから、まるで磁石のように当前のように人を惹きつけてしまう。
ぼくもそんなギイの磁力にヤラレタひとりだと思うと、この垂れ流し状態のギイのパワーに関しては心穏やかではいられない、のだが……。
「託生はどっちかっていうと世話するよりされるタイプだよな」
「そうかな?」
自分ではなかなか自身のことがわからないものだが、過去を振り返った限りではギイに手間をかけているような気がしたので、
「お世話になってます」
神妙に畏(かしこ)まって頭を下げると、
「いえいえ」
ギイはクスリと笑って、ぼくからのお礼の言葉を受け止めてくれた。
世話好きか、それを重荷に思うか……。
あの人はどちらかのタイプに当て嵌まるんだろうと想像するだけで、人間関係というものがますます面白く思える。
そしてこんな時、ぱっと脳裏に浮かぶ身近な存在といえば──。
「真行寺くんは世話好きっぽいけど、三洲くんは世話するのもされるのも、あんまりいい顔しないかも?」
「三洲は確かに世話好きってカンジじゃないだろうなあ」
甲斐甲斐しく真行寺の世話を焼く三洲新を想像して、ぼくは思わず、ぶるんぶるんと頭を振ってしまった。
「でも、三洲くん、世話されるのを重荷に思っているわけじゃないよねえ」
そうぼくが確かめるように口にすると、ギイが苦笑いしながら、
「託生くん、世話されたくないのと重荷に思うには別次元の話と考えましょう」
国語の授業の延長をするかのような態度で、解釈の正確性を指摘してきた。
「え? そうなの?」
当然、とばかりに頷くギイ。
この自信たっぷりの態度がなんだが悔しい。
「世話されて鬱陶しいとか煩いとか思うのは、その方法や手段が自分の意向に合わないからさ。
例えばさ、誰かに黒板の文字をノートに写してもらった場合、自分がいつもHBのシャープで書いているノートに、その時に限って2Hの薄いヤツで書かれたらやっぱり釈然としないだろう?
思った通りの結果が得られないのがわかっているから、相手から示される気遣いが『鬱陶しく』て、相手のその好意に対して、それが余計なお世話なんだってわざわざ説明しなきゃならないのが『面倒』なわけで、結局自分のやり方を貫きたいから他人が『煩く』思うんだ」
「ふうん。でも、それってまるで三洲くんだよね」
天邪鬼な三洲は自分に付きまとう真行寺に向かって、いつも「煩い」と言っている。
「だが、アイツの場合、真行寺のことを重荷に思っているわけじゃあない」
確かに三洲は、「煩い」とは言っていても真行寺にことを嫌がっているようには見えない。
「重荷に感じるのは、理不尽な責任を押し付けられるのが嫌だからだ。
まさに、結婚をせがむ恋人から逃げたくなる独身主義の男の心境だな」
ギイの言わんとしていることはわかる。
わかるけれど、でも、それって──。
「だってその場合、そのふたりはちゃんと付き合ってるわけで。
付き合ってれば先々の話、結婚って話題も出て当然じゃないか。
だとすると、やっぱりそれは男のほうがズルイんじゃないの?」
同じ男としてそんなの無責任だと責めるぼくに、そりゃあね、とギイは頷きながら、でも、ひとつの枠に収めることは難しいのだと説いた。
「結婚なんか墓場同然と思っているくせにそれを隠して結婚を匂わせながら付き合いを続けているのなら、託生の言う通り、それは当然その男がズルイんだろう。
けど、人間ってのは最初から自分の心のうちをすべて相手に見せるわけじゃないからなあ。
人の心はいつも揺れているものだから。
最初っからさ、結婚ってカタチはありえないぞってちゃんと男が宣言していて、彼女もそれでもいいからってコトでふたりの関係が始まったとしたら、あとから結婚を意識した彼女のほうがズルイことになっちまう」
それはそうかもしれないけれど、人の心はいつも揺れているものだって言うのなら、気が変わるってこともアリなんじゃないだろうか。
それも、ぼくらと違い、この仮定の話では男と女が当事者になっている。
だから。
「いつも一緒にいたいって気持ちがイコール結婚って考えるのは、男女間の恋愛の場合だったら当然じゃないかな」
ぼくは思ったことをそのまま口にしてみた。
「確かにそれはひとつのカタチではあるからなあ。
ま、結局どっちがズルイかなんて、付き合っている当人同士しかわからないし、第三者がはっきり言い切るのは難しいのさ。
ただし、重荷に思うってやつはタチが悪いぞ。それはつまり、本気じゃないってことだからな。
結婚というカタチをとりたくないけどずっと一緒にいたいと思っているなら、男が女を説得すればいい。
当然、その逆も然り。
なのに、その手間を面倒に思うならまだしも、相手の存在を重たく思うってコトは、その時点ですでに自分の気持ちが相手から離れてるってことだ。
鬱陶しくても面倒でも、話し合う席を設ける前に、そいつはその椅子に座ることさえ初めから拒否しているわけだからさ」
そうして、ギイは穏やかな視線をぼくに投げかけながら、ふっと微笑んだ。
「託生はたまに、自分のことをオレの重荷になりたくないって言うけれど、それってオレにとっては侮辱的な言葉なのかもしれないぞ。
オレは託生に本気なんだぜ。
何かとんでもないことが起きたとしても、そのフォローに関して面倒なことになったとは思うかもしれないけど、オレが託生の存在を重荷に思うなんてことはないんだから」
ギイはいつだって多くの選択肢を考えている。
確かにギイの言うことは一理あるのだろう。
けれど。
「でも、その解釈は極端な話だと思うな」
ぼくはあえて反旗を翻した。
すると、
「どこが?」
ぜひ聞かせてもらいたいな、とギイも身を乗り出してくる。
だから、ぼくもはっきり言った。
「だって、好きでも重く思う時だってあると思うんだ」
瞬間、ギイが驚いたような顔をして、ぼくの腕を掴んできた。
「託生はそう思ったことがあるのかっ?」
オレのこと、重荷に感じたことがあるのか、と真剣な面持ちでギイは尋ねてきた。
「そうじゃなくて。自分だって好きなんだけれど、相手のほうがもっと自分を好きでいてくれて。
それと同じくらいの好きをその人に返せないもどかしさでどうしてもいらいらしちゃったりしたら、そういう場合、きっと与えられるばかりの想いに申し訳なく思ってしまうんじゃないかな。
だから、そういう『重荷』っていう意味でさ」
ぼくの感じ方がギイと違うのは仕方がない。
ぼくらは個々の異なる人間なのだから、それぞれの意志や感覚を思っていても当然なのだ。
お互いがすべてを同じように考えられるとはぼくは思わない。
けれど、ぼくの感じ方やギイが何を考えているかは言葉にすればお互い伝え合うことができる。
違う人間だからこそ、その違いから目を逸らさないでいたい。
ぼくはちゃんとギイのことを知りたいし、おそらくギイもぼくのことを知りたいと思ってくれていると思う。
何より、今、ぼくが感じていることをギイに知ってほしいと思っているからこそ、こうして言葉にしているのだ。
例えば──。
ぼくにとっての120%の愛情表現。
それは、死にそうになるくらいの羞恥心を我慢しての、ぼくからのアプローチ。
それは、ギイがぼくに示してくれる愛情表現の半分にも満たないものかもしれない。
日本語がぺらぺらで日本人より日本人らしいギイだけれど、ギイはアメリカ国籍を持つ列記とした外国人だから、一般の日本人に比べたら、やっぱり彼の口説き方はオーバーリアクションだ。
アメリカという愛情表現の豊かな環境で育って、ギイの日常がそういうものだと理解はできても、ぼくはギイみたいには表現できない。
ぼくがギイみたいにはなれないってことをギイ自身がよくわかっていてくれるからこそ、もしかしたら今までぼくは重荷に思わずに済んでいるのかもしれない。
ぼくだってギイのことがすごく好きだし、この想いは120%のつもりだ。
けれど、この胸の内をすべてギイの目の前に晒せと言われてもそれは無理だ。
だから、言葉や態度で示さないと伝わらないものだとしたら、ぼくがどれくらいギイを好きかなんて一生かかってもギイに伝わりきれないことになってしまう。
だからこそ、この胸を切り開いて「見えるモノ」として差し出せない代わりに、大好きな人を抱きしめて互いの熱を感じ合う方法を神様が与えてくれたのだとしたら……。
──ギイがぼくを求めて差し伸べてくれるその手に、ぼくはぼくの気持ちのままに心を込めて手を重ねよう。
「もしもさ。ギイがぼくのこと重荷になったら──」
そんなぼくの言葉を閉ざすように、
「そんなことは絶対ないっ!」
ギイがぴしゃりと言い切った。
「そっか……。じゃあ、もしもぼくがギイのこと重荷に思ったら……」
「そう……思ってるのか?」
一瞬にしてギイの美貌が強張って、不安げに揺れたその薄茶色の瞳がぼくの顔を映し出す。
まるで、ぼくがいじめっ子になったようだ。
「もしも、だよ。ぼくがギイのこと重荷に思ったら、その時はちゃんと言うから」
今にも泣きそうなほどにぐしゃりとその整った容貌を歪めて、
「別れるなんて許さない」
ギイは、絶対許さないとばかりにぼくの肩をきつく掴んで抱き締めた。
「ちゃんと聞いて、ギイ。その時が来たら、ぼくはちゃんとギイに言うから。
ギイの気持ちばっかり押し付けないでって。ぼくの気持ちもちゃんと知ってって。
ぼくだってギイが好きなんだから、ギイばかり好きでいるわけじゃないんだから。
ぼくばっかり嬉しくなるようなことしてもらっちゃうと、お返し考えるのが重荷なんだって」
大きすぎる想いに応えきれないから重荷になる。
「少しずつかもしれないけど、分割払いになるかもしれないけど、ぼくはちゃんと返すから。
だから、ギイもちゃんとぼくのを受け取ってよ……」
一生かかっても必ず返すって約束するから、のぼくの囁きに、
「了承致しました。ですが、可能ならばリボ払い、プラス、ボーナス払いを希望したいのですが?」
ギイは腕の力を緩めて、やっといつものように笑ってくれた。
とりあえず、とぼくに向かって差し出されたギイのその指先が、いかにも熱を孕んでいるように見えて、とても愛しかった。
ギイの目尻が朱色に染まって綺麗な笑顔を艶やかに見せているから、それがぼくをしきりに求めて熱く伸ばされているのだと触る前からわかってしまう。
そのわずかな仕種からギイの気持ちが伝わってくるから、ぼくの胸の音も高鳴ってしまう。
そうして。
「その件に関してはベッドの上で相談いたしましょう」
ギイがぼくを誘う、その極上の愛情に、小さく「うん」と応えながらも、膨らんだ利子分のいくらかでも返さねばとぼくは幸せな気持ちで思案する。
──どうやって、この愛しい恋人にぼくのこの想いを伝えようか。
話し合いの場所は折りしもベッドの上。
ぼくしかできない方法をひとつずつ思い描くたびに、顔が火照って逆上(のぼ)せそうになる。
その陶酔とも恍惚とも何とも言えない、ギイと過ごすこれからの濃密な時間を想像するだけで、ぼくの心臓は跳ね上がる──。
「好き」と言うのは簡単でいて簡単じゃない。
「好きなんだ」と伝えるのも、そのすべてを伝えようとしたら、とても難しい。
ギイ。
お願いだから、ぼくの些細な仕種にその合図を汲み取って。
いつだってギイはぼくに愛されているんだって、ちゃんと気付いて。
ぼくだって頑張って、「愛してる」って全身できみに告げるから……。
ギイの「愛してる」が嬉しくて。ギイの笑顔に安住の地を想う。
そんな真綿の愛情に包(くる)まれるこの喜びを、ぼくもギイに伝えたいんだ──。
おしまい
material * NOION
*** あとがき ***
最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの9999hits記念作品『「好き」のカタチ』はいかがでしたでしょうか?
今回は三年生のギイタクのお話となりました。
登場人物がギイタクふたりだけってのも楽しいっ(笑)。
ほとんどふたりの会話になってしまいましたが、書いていてすごくノリノリでした♪
でも、実はこの『「好き」のカタチ』は恥ずかしい話だったりして☆
ははは、だってこれってふたりはこれからナニするわけで……(笑)。
なのに、私が書くとどうしてキスシーンのひとつも出てこないのでしょう。
なぜだろう、不思議です〜(笑)。
……というわけで、おまけの章三の台詞。
「世話焼きたくなくても、世話焼かなきゃならない羽目になるヤツもいる」
世話好きじゃなくても世話焼きの章三。でも、本質は世話好き(笑)?
結局、今回は章三を出せなかったのでここで出しておこうっと♪
私ってば意外と章三ファンかも?
いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。
by moro
moro*on presents
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