恋に堕ちるその瞬間を、誰もが気付くわけではない。

 だが、中には、その刹那(せつな)の出逢いを認識する者も確かにいる。

 そして、今、また。

 この一瞬に恋をしたと、はっきりと心に刻む者がここにひとり──。


百年の恋がはじまる



 その一週間は三十七度四分の微熱が下がった時からはじまった。

 託生が二、三日前から痛みや鼻水などの風邪のひきはじめの症状を訴えていたことは、もちろん、ギイは知っていた。
だが、急転落下は今朝、パジャマを着替える恋人のその姿を目にした時に起きた。

「託生、その背中……どうしたんだ?」

 昨日の時点では確かに風邪の症状だけだったはず、と昨夜にはなかった赤い湿疹に気付いて、慌ててギイは託生の着替えを押し止めた。

「ブツブツあるぞ。アレルギーか?」

 託生がアレルギー体質であるという話は今まで聞いたことがない。
だからギイは、その突然の湿疹を訝(いぶか)った。

「言われてみれば確かにちょっと痒いけど……。何だろう」
「食物アレルギーかもしれないぞ。だとしたら、朝食食べる前に診てもらったほうがいい」

 今日中には託生を校医のところに連れて行こうとギイは昨日のうちから考えていた。

 それが朝一番になっただけのことだ、と自分自身に言い聞かせながら、
「アレルギーは怖いぞ、早いうちにちゃんと診て貰って来いよ」
安心を早く得たくて託生を急かす。

 その湿疹の原因がもしも食物アレルギーの場合、特定のアレルゲンは昨夜の夕食に出た食品の何かであることはほぼ確定だった。
その場合、今朝のメニューにその食品が再度出ていないとは言い切れない。

 これ以上の悪化を避けるためにも、食事を摂るのは原因を突き止めてからのほうがいいとギイは即座に判断したのだが。

 当の託生は、大したことないと言わんばかりののんびりとした口調で、
「そうだね。でも、そのうち治るよ」
そう気軽に受け流すのだが、ギイとしてはその赤みの伴う突起物がとても気になる。

 発疹の場所が背中だったこともあって、自分の目でその症状を見ることができないからそんなことが言えるんだとばかりに、
「急に出たのが引っかかるんだよ」
唯一無二の愛しい存在に向けるギイの視線はどうしても真摯なものになってしまう。

 本気で心配する恋人を目にして、それほど言うならと託生が腰を上げるのをホッと安堵の溜息で見守りながら、
「善は急げだ。さあ、行って来いっ」
託生の腰を軽く叩いて口元に笑みを浮かべて送すギイと、
「じゃあ、これから医務室に行ってくるよ。朝食は中山先生に診てもらってから食べることにする。
遅くなるかもしれないから、ギイは先に食堂に行ってていいからね」
行って来ます、と笑顔で部屋をあとにする託生であったのだが……。

 まさかその湿疹がとんでもない一週間の引き金になろうとは、この時点のふたりは夢にも思わず。

 その朝の三○五号室の登校前の騒動は、まだまだ終わりが見えなかった──。





「崎、悪いがちょっと来てくれ」

 突然、校医の中山に呼び止められたのは、ギイが朝食を済ませてちょうど食堂から出てくる時だった。
ふとギイの脳裏に、「行ってきます」と言って部屋を出ていった託生のうしろ姿と今朝のあの赤い湿疹がちらついた。

 中山の手招きに応じて、朝の喧騒から遠ざかるように廊下の端まで行く。

 すると、突如、
「崎はもうスイトウ済ませてるよな?」
校医からそう切り出されて、ギイはその不意打ちの言葉に眉を寄せた。

「は? スイトウ?」

 前置きなしに尋ねられた耳慣れない単語に疑問を感じて思わず聞き返すと、
「ああ、水痘──つまり、水ぼうそうのことだよ。葉山のアレは多分、水ぼうそうだ」
予測外のことを告げられて、ギイはほんの一瞬焦った。

「水ぼうそうって……普通小さいうちに済ませてしまうアレですよね?」

「そうだ。
さっき葉山の実家に確認したら、葉山は予防注射を受けただけで、実際、水ぼうそうにはかかってなかったらしい。
風邪に似た症状、加えて湿疹と聞いた時は、まず溶連菌を疑ったんだがね。
あの湿疹を見せられてはなあ。水ぼうそうにほぼ決まりだよ」

 ただし、年齢的に高いのでほかの合併症も考えられる、と大学病院勤務経験のある校医は補足した。

 水痘と診断されると、その瞬間から隔離状態になるのが常である。
登校はもちろんのこと、外出さえも制限され、医師から隔離解除が言い渡されるまで社会とはしばらく遮断される。

「水ぼうそうの治療には同室者の協力がどうしても必要になる。
背中とか、さすがに自分で薬が塗れないだろう?
私が毎回寮のほうに足を運ぶのも、日中はともかく就寝前はなあ。
毎日のことだし、やっぱりここは崎に頼むのが一番だと思ってね」

「確かにそうですね」

 世話を掛けるが、と詫びる中山に、
「いえ、こんな時のルームメイトです。気にしないで下さい」
そう即座に返して、ギイは校医から今度の治療方針といくつかの指示を受けると、託生の分の朝食を受け取って三階の自室へと向かった。

「託生、大丈夫か?」

 トレイを片手に部屋に入ると、途方に暮れた顔でベッドに腰掛ける託生と目が合う。

「水ぼうそうだって?」

 わざと明るくギイが笑って言うと、
「笑いこっちゃないよっ。この年齢で水ぼうそうだなんて冗談じゃないっ」
託生は喰らいつく勢いで立ち上がっては顔を赤らめた。

──これだけ元気なら大丈夫だよな。

 伝染病の一種として名の知られる水痘は、誰もが一生に一度はかかると言われているものだ。
だから、心配することはないと自分に言い聞かせつつも、ギイの心中はやっぱり落ち着かなかった。

──風邪でも気が気でないのに、水ぼうそうだなんて。

 託生の机の上には、処方された飲み薬と塗り薬の容器が置いてある。

 その薬の入った紙袋の白さが「健康」と縁遠く感じられて、どうしてもギイの胸に一抹の不安を残した。

 その膨らんだ紙袋を脇に退かして朝食をのせたトレイを机の上に置き、
「とにかく食べたほうがいい。薬を飲むためにもな」
背を押すようにして託生を椅子に座らせたのだが、託生の襟足に何となく視線を向けた途端、ドキリとする。

 三十分ほど前には何もなかったそこに赤い湿疹を見つけて、さすがに第二種学校伝染病の威力は馬鹿にできないと、ギイは改めて思い知るのだった。

「ああ、嫌だなあ、もう。コレ、一週間くらいかかるんだって……」

 完治までの日数に苛立ちを隠せない託生は、鼻の頭に皺を寄せて不機嫌そうに唇を歪ませたが、その定まらない視線に、高校二年にしてかかった伝染病に対する不安が見え隠れしていて、ギイは少し切なくなる。

「先々週の日曜、街に出かけた時にでも拾ってきちゃったのかなあ」

 伝染病といっても、水痘は病気という病気ではない。
そうとわかっていても、時間が経過するごとに増えていく湿疹にやはり不安が募るらしい。

 隔離解除の日を指折り数えながら、ギイを見上げて文句を言いたくなる託生のその気持ちもわからなくもない。

 そして、いつもと違う自分の身体の状態に不快を覚えるその気持ちも……。

 だから、ギイはフォローするつもりで、
「水ぼうそうは出席停止扱いだから欠席にはならないって中山先生から聞いたぞ」
良かったじゃないか、と軽い口調で明るく言ったのだが……。

 出席日数がギリギリの生徒ならともかく、託生の場合、成績はさておき授業態度だけは真面目な生徒だ。
もちろん、出席日数に悩む必要はない。

 案の定、
「全然嬉しくないっ」
そう託生に拗ねた口調で返され、出席停止の事実は少しも気休めにもならなかったかと、ギイは小さなミスを犯したことを悟った。

 三度の食後と就寝前の一日四回飲むように指示された水ぼうそう専用のウィルス感染の治療薬は、最高五日間の飲用が可能らしい。
校医の中山は目一杯処方しておく、と案じてくれた。

 ギイは食事を終えた託生が薬を飲むのを確認すると、
「ほら、服脱げよ。薬塗ってやるから」
塗り薬の容器の蓋を開け、まるで白い絵の具のような液状の塗り薬を指で掬った。

 三種類の薬をミックスした白くとろりとした塗り薬は、炎症・かゆみを抑える作用がある。

「え? 自分でやるからいいよ」

 遠慮する託生に、にやりと人の悪い笑顔を向け、
「背中とかどうするんだ? オレは中山先生から直々に託生のお世話を頼まれちゃってるんだぜ。
一日数回。しっかり塗ってやるから安心しろ」
ギイは託生のシャツの裾をぺらりと捲った。

「いいって、そんなの。自分でするからっ」

 ところがだ。己の素肌を見た途端、託生は唖然と口を開けたまま固まっていた。
一瞬、意識が飛んだらしい。

 湿疹が一気に全身に広がっていたのを初めて知って、その急激な身体の変化に託生の意識が追いつかない。

 しばらくして、やっと現実に向き合う覚悟で託生は己の全身を見渡した──が、今度は自分では見えないところにもしっかり湿疹が出ているのは間違いないというシビアな現実を悟って、眉間に皺を寄せつつ情けない顔で口を蕾ませた。

「こんなの、信じらんない……」

 頭痛が今にも起きそうだ、と呟いて、託生はゆらりと頭が揺らした。
どうやら予想を上回る数だったらしい。

「託生、大丈夫だから。一週間の我慢な」

 ギイは、心配することはないと笑顔で返しながら、託生の動揺を思いっきり誘ったその数をものともせず、黙々と薬を塗る作業を進めていった。
修正液、もしくは緩い白い絵の具の表現がぴったり似合うその塗り薬を、ギイは点描画を描くように赤い湿疹の上に丁寧においていく。

 託生のそれは、まるで水玉模様の宣伝マンのような出(い)で立ちになりつつあった。
薄く塗ったところは体温の熱で三分ほどで乾いていく。
腹部、胸部、両腕、両足、背中の湿疹を塗りつぶすように白く染めてゆく作業は、延々と繰り返されるとても単純なもので、普通なら楽しく思うようなものではない。

 しかし、ギイはその存在からして元来「普通」とは無縁だった。

 脇の下に大きめな湿疹を見つけては、
「痛いか?」
託生に優しく声を掛けながら、石膏のような液体を纏った指で恋人の肌に触れる。

 その作業が思いのほか楽しくて、ギイはいつしか心躍っている自分自身に気付いた。

 いつしか託生の腰まわりにギイの視線が集まった。
ギイはふいに悪ふざけが専売特許のガキ大将のような顔を浮かべると、薬で汚れていない指先で託生の下着のゴムを引っ張ってみた。

 案の定、下着に隠された場所にもしっかり湿疹があるのを見つけてほくそ笑む。

「うわッ、何するんだよ、ギイっ!」

 臀部を空気に晒され、抵抗する託生に、
「何って薬を塗るんだよ。おまえ全身って意味わかってんのか?」
医務室で、託生の口の中を診察した中山が「喉にもしっかり湿疹が出ている」と言ったはずだと、当の校医から聞かされた話を例に挙げては自分の正当性を証明すると、
「つまり、そういうわけだから」
託生を裸に剥くのも同室者の仕事のひとつだと言わんばかりに嬉々と手を動かした。

 明るい部屋で全裸で立つ──その羞恥に、
「眩暈がしそうだ……」
俯きながらそう呟く託生は目元を赤らめながら目を潤ませている。

 その己の悲惨な状態に嘆く託生に反して、一方、ギイの心中は……。

──美味しいっ。美味しすぎるっ!

 思わず拳を握り閉め締め、ガッツポーズをしたいのをぐっと我慢していたのだった。

 病気への不安はどこへ消えたやら。

 ギイはことさら丁寧に薬を塗り続け、すべての湿疹を白く塗り終えた途端、これが一日三度必ず繰り返されるのかと感慨深げに、「神様、ありがとう」とこの降って涌いた幸運をしみじみ噛み締めるのだった。

 こういう場合、人は全世界のあらゆる神に感謝の祈りを捧げたくなるものらしい。

 誰もが羨む出来すぎのギイであろうと例外に漏れず。

 無二の愛しい恋人のあられもない姿を前にしては、ただの健全な男でしかなく。

 どれほど極上の男であろうとも、男である限り、単なるスケベに成り下がるのだった──。





 昼になって、ギイは担任と校医から許可を貰って寮に戻ると、昼食と一緒に午前中の授業をしっかり書き込んだノートを託生に差し出した。

「どうせヒマだろ?」

 三○五号室の床には白いカスが点々と散らばっている。

 湿疹の上に塗った白い絵の具のような薬は乾くとヒビが入り、そのうちポロポロと落ちて剥がれる。
託生が歩き回るたびに床に散らばるそれは、まるでヘンゼルとグレーテルが森の中で迷子になるまいと落としたパンくずのようだった。

 童話では小鳥がパンくずを食べてしまうのだが、この三○五号室では落とした本人が床を綺麗にしていた。
カーペットクリーナーの粘着力に期待しつつ、白いカスを追い求めてせっせとゴロゴロ転がす託生の姿も今では堂に入っている。

「ギイ、わざわざありがとう」

 気分も少し落ち着いたのか、朝に比べて託生の表情は穏やかだった。

 体温も平熱。湿疹以外は病人とは思えない元気さだ。
もちろん、託生は食事を残さずに食べた。

 そして、食事のあとは毎度のごとく、託生には苦痛の時間が待っていた。

 一方、ギイはニヤケ顔で「我は官軍」とばかりに正義をちらつかせては託生を全裸に剥き、白い薬を指に掬って全身を辿う。
ついウキウキ気分で心が躍ってしまうのを止められない。

「ギイ、その鼻歌止めて」

 さすがに鼻歌は不味かったか、とギイがちらりと下から託生の顔を見上げると、託生がギロリと睨んで見返してきた。

「ははは……。いやあ、早く治るといいよな〜」

 ギイの乾いた笑いに、
「ギイってば、絶対この状況を楽しんでる……」
託生は呆れたように言ったあと、
「絶対、こんな姿……。誰にも見せられないよ……」
溜息と共にぽつりと落とした。

 その託生の呟きは一瞬でギイの不埒なウキウキ気分をも吹っ飛ばし、ギイの胸をきゅっと締め付ける。

 託生の小さな苦笑いが、ギイの瞳に痛々しく映った。

「託生……」

 切なくて。

 愛しくて。

「大丈夫。すぐ良くなるからさ」

 ギイは託生の頭を大きな掌で撫でると、その頭部全体を摩って湿疹の場所を確かめ、髪の毛を避けるように最後の仕上げをほどこす。

 前回塗った場所の髪の毛はカチンコチンに白く固まっていた。

 頭皮と耳の裏に新しく三個の湿疹を見つけて早速薬を塗りつける。
途端、幹部の周りの髪の毛も白く染まって、しばらくすると硬く固まった。

 幹部とは関係ない髪に薬がついたところで、水で洗い落とせばすぐ落ちる。
ギイも託生も、最初は安易にそう考えていた。

 だが、そこには落とし穴がしっかりあって。

「お風呂も一週間駄目だなんて、もう最悪っ!」

 黒く瘡蓋(かさぶた)になって赤みが取れるまでは入浴も外出も禁止とされていたので、髪についた白い薬も一週間そのままとなった。

 そんな託生の憂鬱を余所に、全身を白の水玉模様で装った託生に満足しつつ、ギイはこの斑点模様にさえも愛しさを抱く己の恋情の奥深さに感嘆していた。

──何てかわいいんだっ!

 ところどころ白く塗られた十円玉の大きさの斑点は黒い髪にとても目立った。
そして、全身に亘る白い水玉模様。

「マジにお風呂入りたい……」

 託生の一言、一言に、その切実さが耳に伝わって、その度にギイは胸を掴まれたような気分になった。

 でも、この状況は捨てがたい。

「ま、今は我慢な。水分を含んだらせっかく乾いた薬が溶け出してしまう。
そしたら今よりもっと大変な状態になると思うぞ。
一週間経てばきっと治るからさ、それまで我慢しような」

 託生の憂鬱そうな顔を見ると、ギイはやっぱり切なくなった。
湿疹が出ていない側の頬に手を当て、大丈夫だから、と優しく宥めるように、ギイは軽く唇を掠める。

「ギイ、薬ついちゃうから」

 そう逃げる託生がかすかに微笑んだ。

「平気だって。洗えば落ちるし」

 その言葉が承諾の意となって、再びギイは愛しい恋人に顔を寄せた……。





 託生の水ぼうそうが一番酷かったのは、発疹してから数えて二、三日経った頃だった。

「酷い」という言葉は広い意味を持ち、表現内容は様々である。

 託生の水ぼうそうの場合、「酷い」状態とは、赤みを含む湿疹の数と大きさに当てはまり、だからといって、四日目になって急に良くなったわけではなかった。
相変わらず薬は全身に塗られ、その数もほとんど減ることはない。
ただ四日目を過ぎたあたりからは、小さな湿疹の中には瘡蓋(かさぶた)が作られ早くも黒く色付き、湿疹の周辺の赤みについても目立たないほどまで薄れてきたものが数多く見受けられるようになった。

 あの医務室を訪れた日から、外出のみならず入浴に関しても、託生は校医の言いつけを硬く守っていた。
塗ったそばから乾いていく白い塗り薬は、水をつけた途端、まさに絵の具のように溶けて落ちるのが目に見えて、言いつけを破る勇気は託生にもギイにもなかった。

 一度、ギイが無くなりつつある塗り薬を貰いに医務室を訪れた際、
「せめて硬く絞ったタオルで身体を拭きたいって本人が言っているんですけど?」
託生の弁を校医である中山に伝えたところ、
「瘡蓋がなあ。アレ、ちゃんと治しておかないと水ぼうそうは痕に残るぞ。止めておくのが無難だろう」
敢え無く却下されたこともあり、託生もギイもそれ以来、清潔面に関して現状以上の向上を望むのは諦めたのだった。

 その反動なのか。

 託生の出席停止を心配した同級生たちが見舞いに来ても、
「ぼく、バスルームに行ってるから。適当に追い返して」
そうギイに言い付けて、見舞われるべき当の本人はいつもドアの向こうに隠れてしまう。

 着衣に隠された湿疹はともかく、頭には十円玉くらいの大きさの白い点々。
右頬から鼻に掛けてぽつぽつ描かれたギイの人差し指の指先の大きさの白い水玉模様。

 その白くてややイビツながらも丸い模様には、どれも多少ヒビが入っていて、そのヒビがぽろぽろ剥がれるたびにまたギイが塗り薬を塗りなおすので場所によっては厚塗りになっている。

 そんな姿を知り合いに見せるのは絶えられないらしく、託生はいつも見舞い客がいなくなるまでバスルームから出てこなかった。

スルームに素早く逃げ込むうしろ姿と床に這いつくばって掃除する四肢の姿。
ここ最近の託生の行動はその繰り返しだった。

 床に落ちた白いカスは早めに取らないと踏んでしまって床にこびりつくので、あとに回すとますます掃除が大変になる。
そう言って託生は気付いたそばからカーペットクりーナーを片手に床に這いつくばっては掃除をし、粘着力の落ちたシールを剥がしては新しいシールで自分の落とした白いカケラを追っている。

 誰かが部屋のドアをノックするたび、ビクリと緊張しては身を隠しつつ、人気が去ったのを確認してはまた床を這って掃除する託生。
多分、こんな託生の姿は誰の目にも映ることはないだろう。

 そんなことをふとギイが確信したのは、六日目の晩だった。

「託生。湿疹の赤み、結構取れてきたぞ。もう一息だ」

 にこやかにギイが笑顔を向けると、
「良かった。それじゃ、もうすぐ隔離解除かな……」
託生もほっとしたように微笑み返してきた。

 その儚げな笑顔に、ギイはすかさず心が痛くなる。

 さすがに託生のこの状態を楽しんでばかりはいられないと、この頃のギイは悟っていた。

「多分、明後日か……早ければ明日あたり大丈夫だって言われると思うけどな。
託生の場合さ、水ぼうそうにしちゃ軽いほうだって中山先生が言ってたしな。良かったじゃないか」

 塗ったばかりの場所は乾かないうちに衣服を着込むと擦れて薬が布地について取れてしまう。
すでに六日目ともなるとギイも託生もそれほど気にせず、薬が半渇きでもそのまま託生はパジャマを身に着けていた。

 この数日、託生はパジャマ姿で一日を過ごしていた。
洗濯物は少ないほうがいい、と判断してのパジャマ生活だった。

 ふう、と託生は大きな溜息をひとつ吐いた。

 そして、託生は改めてギイに向かい合うようにベッドに座り、何か言いたげそうに膝を握り締める。
託生の視線は泳いだまま。言葉が見つからないようだった。

「どうした?」

 言いにくそうなその様子を何とか助けたくて、ギイがそっとうながすと、
「あ……。うん……」
あやふやな返事だけが返ってきた。

 ゆっくりと時間を掛けて、じっと託生からの言葉を待っていると、
「あのさ」
やっと視線を定めて、その濡れたような黒い瞳がギイを射抜く。

「湿疹、すごかったし。お風呂もずっと入れなかったからきっと臭うだろうし。
薬のカスもボロボロだったし、そりゃゴロゴロ綺麗にしてたけど……。
それに、まだ湿疹あるし。頭だって、髪の毛ガチガチのコチンコチンで見られたもんじゃないし……」

 託生の言葉が、そこで止まった。

「うん。それで?」

 この一週間の託生の様子をありのまま表す託生の言葉はどれも真実で──。

「……裸だっていっぱい見られちゃったし」
「そんなのいつもだろ?」

「だって、全身ブツブツの裸なんだよ? 誰だって見たら気持ち悪いと思うに決まってる……」

 託生はキッと唇と引き締めると、決心したかのように続けた。

「みっともないとこも恥ずかしいとこも、たくさんギイに見られて。すごく自分が情けなくて」
「第一、それは病気だからだろ? そんなの誰だって水ぼうそうになったらそんなもんだろう?
託生が気にすることじゃないさ」

「でも」

 託生は、それでも、と言葉に力を込めた。

 けれど、次に続く声は、消え入るほどに小さなものになっていた。

「こんなんじゃ、きっと百年の恋も醒めちゃうよ……」





 託生は知らなかった。

 ふたりの部屋に誰かがやって来て、託生がバスルームに逃げ込むごとに、薬塗(まみ)れのこの託生を知っているには自分だけ、とギイが優越感に浸っていたことなど。



 託生は知らずにいた。

 ヘンゼルとグレーテルのパンくずのような白いカスを床に四つんばいになって掃除する託生のその仕種ひとつひとつが愛しくて、その姿を見守るギイの視線がどれほど温かいものになっていたかを。



 そして──。

 託生は知るだろう。



「託生、百年の恋なんてそんなの関係ない。この恋が醒めるなんて、未来永劫、オレには無縁だよ」



 ギイは諭すように、ひとつひとつ託生に伝えてゆく。

 託生の悴んだ心を優しくゆっくりと解いてゆく……。



 いつだって、託生が愛おしかった。

 いつだって、託生に恋をしていた。

 これからも、何度でも恋をするだろう。


 その度に、百年の恋がはじまる。

 いつだって恋の期限はリセットされて、百年の年月は少しも減ることはない。

 だから、この恋は永遠なのだ、と──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの8888hits記念作品「百年の恋がはじまる」はいかがでしたでしょうか?
今回は二年生のお話となりました。

水ぼうそうってやっぱり予防注射していてもやる人が結構いるそうです。
それでも予防注射している分、軽く(?)すむらしいですが。

大人で水ぼうそうにかかるのはやっぱり大変らしいです。
男の子はオタフクを中学生以上でやると高熱が原因でマズイことになるかも?とよく耳にしますが、
聞いたことろによると水ぼうそうも安全とは言い切れないとか?

ま、託生の場合、ギイとラブラブな限り、もしもマズイことになっても別に支障はないはず(笑)?
でも、今後の科学の進歩次第ではこのふたりに二世誕生もあり(?)だとすると、
その場合は無関係って悠長に構えていられない?(笑)
……なんて。

とにかく、水ぼうそうやオタフクなどは、やっぱり小さいうちのほうが楽にすむと世間では言われているようです。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


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なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
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