誰かを好きになる──。

 ただ、それだけのことがとても疲れる。

 ドキドキしたり、ワクワクしたり……。

 でも、それだけじゃなくて。

 ささいなことに一喜一憂する、そんな自分にいつまでも慣れなくて。

 だから、ぼくは不思議に思う。

 どうしてそんな思いまでして、人は誰かを好きになるのだろう──と。


Dear my busy heart



 山の中腹にある祠堂学院高等学校のサラブレッド、崎義一を「ギイ」と呼び止める、その瞬間。
きっと多くの生徒が優越感を感じるんだと思う。

「葉山。あれ、ギイじゃないか?」

 ぼくの恋人であるギイはとにかく目立つ。

 その淡い色彩で彩られた見目麗しい外見はもとより、彼の包容力、人間性、影響力など、数え出したら切りがないほどの魅力を兼ね備えているギイだからこそ、彼の周りには人が集まり、その賑やかさが尚更にまた視線を集める。

 入学当時からギイの周辺には人が溢れ、いつだって人気の的だった。
今だってギイを取り囲む一年生は、その僅かな仕種ひとつひとつにきらきらと目を輝かせてはにこやかに微笑み、そのささやかな言葉ひとつひとつを聞き逃さないように細心の注意を払って耳を傾けているのが見て取れる。

 遠目にも、その下級生たちの幸せそうな姿がよく見えて、ぼくは複雑な気分になった。

 そんなギイにところへまたひとり、花に吸い寄せられる蜂のように近付く生徒が現れる。

 三年の野川勝がギイを取り囲む下級生たちを押しのけて、
「ギイ。ここにいたのか」
唇を読んだカンジでは多分そんな言葉だと思うが──ギイに声を掛けたのだ。

 野川が横目でちらりと一年生たちを垣間見る。
それはいかにも勝ち誇ったかのような自信たっぷりの視線で──でも、すぐさまそれは穏やかなものに変わってギイに向けられた。

 自分を見る嫉妬に満ちた複数の熱視線を綺麗に無視して、晴れやかな笑顔でギイに話しかける野川は、以前からギイのファンだった。

 それも熱心な部類の。

 だから、長いファン暦を持つギイとは同級生の自分が、この春に入学してきたばかりのひよっこなどに負けてたまるか。
そんなふうに、もしかしたら野川の競争心を掻き立てられたとしても、可笑しい話じゃないと思った。

 だって、それはぼくにも通じる気持ちだから……。

 ギイの視線を受け止めた瞬間、満足そうに微笑む野川。
その野川をさっきから恨めしげな目で睨んでいる下級生。

 自分たちを押しのけて当然のように憧れの崎義一を「ギイ」と呼ぶ、突然横から割り込んできたその三年生をつい恨めしげに眺めてしまうのは、いくら実家の実力が誇れるものであったとしても、年功序列の厳しいこの祠堂においては下級生である限り階段長である最上級生に向かって、「ギイ」と馴れ馴れしく呼び止めるのが難しいからなのか。

 不機嫌な表情をあからさまに野川を見るその視線は、たまたま同級生ってだけでいい気になるな、とでも語っているのか。
そんな鋭いものになっていた。

 ぼくと赤池章三は、図書室に向かう途中、廊下の向こうで繰り広げられるそんな日常をたまたま目にしたのだが……。

「何、見てんのさ」

 祠堂一かわいいと評判の高林泉が、ぼくと章三の視線の先にギイを見つけると。

「ヤダねえ。野川のヤツ、あれ絶対ワザとだよ。
一年坊主には通じないような話題をフッてギイとの親密さをアピールしてるの、あの顔見ればバレバレじゃん。
自分のほうがおまえらよりギイと仲がいいんだって、ホント低次元の争いだよね」

 ……やっぱり、ぼくと同じように推測する。

「ちょっくらビシッとわからしてやろう」

 そう言って、泉はすたすたと賑やかな集団に近付くと、
「何やってんだよ、ギイ! こんなとこでつっかえてっ。
今日は英語を教えてくれるって言ったから待ってたのにっ」
その甲高い鶴の一声で、ギイを取り囲む面々を完全に圧倒させた。

 ぼくたちの耳にしっかり届くほどの、あの小さな身体でよくぞここまで出せるものだと感心せずにはいられないほどの大音量であるその声は、祠堂一無敵と言っても過言ではない。

 その証拠に。

「ほら、行くよっ。ギイと言えど、この高林泉様を待たせるなんて許されないんだからねっ!」

 強引にギイの腕を引っ張って、さっさと廊下の向こうへと消えてしまった。

 唖然と取り残されたのは一年生たちと唯一の三年の野川である。
ただただ、高林泉のあの勢いに呑まれてしまって、文句のひとつも言う暇もなく、嫉妬心むき出しの視線を投げかける隙もなく、あっという間につむじ風が通り過ぎてゆくがごとく、ギイを攫われてしまったのである。

 結局、傍観に徹するしかなかったその場に残った全員は、困惑に視線を泳がせては散り散りと去っていくのだった。

「あいつ、ホント最強だよ。
誰にも文句を言わせないまま己の都合を貫き通すところが、さすがに高林泉だな」

 そう感嘆する章三の頬が僅かにピクピクと震えていた。

 とはいえ、細部まで見逃さないところが、さすがにギイの相棒である。

「ギイの奴、おまえに気付いてたの知ってたか」
「──こっちをちらっと見たような気はしたけど……。でも、きっとぼくらに気付いちゃいないよ」

「口元が笑ってたからな。あれは完全にわかってただろ」
「だって、こんなに離れてたんだよ? いくらギイだって怪しいと思う」

「結構、マジにこっち見てたぞ。ちらちら気にしてたの気付かなかったのか?
あいつ、葉山がここにいるって察したから、きっとあそこから離れ難かったんだと思うね」

 取り囲まれる覚悟までしてさ、と呆れたように鼻息荒く吐き出した、その章三の言葉が印象深かった。

「ギイ、そんなにこっちを見てた? ちらっとじゃなく?」
「おいおい。惚けてくれるなよ。ありゃ、眼鏡さまさまってカンジだったぞ」

 伊達眼鏡はその視線の先を隠す小道具だった。

「ギイのヤツ、あんなに上の空で返事をしてたら、バレるのも時間の問題だと思うがね」

 ぼくとギイは、この春ひとつの約束をした。

 将来、経済界にその存在を不動のものにするであろうギイへの顔繋ぎを目的に、この祠堂学院に入学してきた今年の一年生対策のため、ぼくらは一緒にいる時間を減らすことにしたのだ。

 もしかしたら、ぼくとギイの親密な関係をが知った者が、それを手土産にギイに近付く可能性もある。
もしかしたら、ぼくを踏み台にして、ギイの注意を引く可能性だってある。

 近い将来の経済界へと繋がる営利目的のためにぼく自身が利用されることに対し、ギイは過剰なほどの嫌悪感を示す。
例えそれが針の穴ほどの僅かな糸口でも、とにかく自分のことでぼくが利用されることにギイとしては我慢ならないらしい。

 ギイが提案したこれは、ぼくのことを心配しての「ナイショの関係」だったから、ぼくだって理解できたし協力も惜しまないと約束した。
ギイの気持ちもわかるから、ぼくも納得して共犯者になったのだ。

 けれど。

「ギイ、そんなにこっち見てたんだ……」

 最近、どうにも落ち着かない瞬間がある。

 今日のようにぼくに気付いたとき、ギイはちらりとだが目を向けてくれる。
それは優しい表情で、ぼくが好きなギイの笑顔だった。

 しかし、それはあくまで一瞬の出来事で、ギイがぼくに目を向けるのも一瞬なら、目を離すのも一瞬なのだ。

 ナイショにしているのだから、それは当然のことだ。
いつまでもお互い見詰め合っていたら、せっかくのナイショが公然の秘密になってしまう。

 一瞬でも目が合えるならそれでいい。
ぼくも最初はそう思っていたので、だから滅多にギイと視線が合わなくても案外平気だった。

 けれど、一度や二度ならともかく、それが幾度となく回数が重なると、ぼくの心にも余裕がなくなる。
繰り返されるその数が増えるたび、ぼくの心に掴み所のないもやもやとした気持ちが生まれ、それは急速に大きく育ち、今では自分でもどうにもならないほど、ぼくの心に深く植えつけられてしまっている。

「そっか。ぼくを見ていたのか……」

 ギイの視線がだんだんと怖くなっていく、この感覚。
ギイに見られる、ただそれだけのことにだんだんと落ち着かなくなっていたたまれない。

 近頃は、遠くに小さくギイを見るのがぼくの「安心」であり、近くで見るのも見られるのもそれらすべてが「不安」でしかない。

──まさか、こんな気持ちになるなんて。

 ぼくはただただ、自分自身の身勝手に呆れてしまって何も言えなかった。



 好きなのに。

 ただ好きなだけなのに。

 誰かを好きになると不可解な感情さえ抱くようになるのだと、最近、ぼくは初めて知った──。





 全校生徒が一同に食事をするわけではないが、食事の時間帯というものは多少ズレがあっても何かと集中するものだ。

 食事時に食堂に足を向ければ、毎日教室で顔をつき合わせる友人たち以外にも同級生や見知った下級生など、誰かしらと顔を見合わせれば挨拶のひとつやふたつ投げ合うのも珍しくはない。

「長」と名の付く役職に就いている一目置かれた生徒から、意識しなければそこにいたことすら気付かないような目立たない生徒まで。
会釈程度の交流で終るとしても、食堂という名の公共の場所には他者と接触する機会がごろごろと転がっているものだ。

 同じ釜の飯を食らう寮生である以上、食堂に集うのは必要な行為となる。
そして、寮生活においては、混み合う時間帯を幾分さけて食堂に来るとしてもそのずらす幅にも限度があった。

 日課となりつつあるバイオリンの練習のため、温室で放課後のひとときを過ごすようになったぼくは、近頃、夕食の時間が以前に比べて随分遅くなった。

 以前はどのクラブにも属してなかったこともあって、図書室の当番以外のほとんどの日は早めの時間帯に食堂に行くようにしていたから、今と比べると一時間弱早く食べていたことになる。

 もちろん、これは座る席を探すのに手間をかけたくないのが第一の理由だったが、わざわざ人に混じって何かをしたいと思うよりも、ゆっくり自分のペースを保ちたいと考える性質であるぼくは、もともと人見知りする性格もあって、混まない時間帯に食事を済ませるのは精神的にも一石二鳥のいいこと尽くしだった。

 昨年度、ギイと同室になって何かと行動を共にした時でさえ、特に用事がない時は早めに食堂に出かけていたぼくなのに。
それが近頃では、食堂に行く度に運動部の連中に混じってトレイを受け取るのが日常になっている。

「お〜い、託生。こっち席取っておいたからさぁ。早く来いよ〜」

 本日も弓道部の練習を終えたばかりの片倉利久が、ぼくの隣りに座って箸を手にしていた。

「いやあ、今日は涼しくていい陽気だったなあ。爽やかっていうか、動き易いっていうか。
汗水垂らしてムンムンする道場もきっと今日はまだマシだったろうなあ」

 夏になると湿気と暑さで最悪な環境になる剣道部や柔道部の稽古場に比べ、弓道場はまだ外気に解放されている分、一年を通じて「まだマシ」と言いたいらしい。

「でも、ここは山だから夏でもそれほど暑くないじゃないか。
街中の学校に比べたら、夏の道場でもそれほど蒸し暑いカンジはしないと思うけど?」

「まあなぁ。下界の夏の道場なんて想像するだけでクラッとくるよ。
だけどな、託生。いくら祠堂でも、男の熱気を馬鹿にしちゃならんよ。
あの閉鎖された蒸し風呂状態の中で、剣道部なんて面とか篭手(こて)とかいろんな防具をつけるんだぞ。
俺だったら死ぬわ」

「だから利久は弓道にしたの?
剣道も大変そうだけど、柔道着もあれって結構厚いし重いし。夏場は何かと苦労しそうだもんね。
その点、『道』のつくものの中じゃ、弓道は袴姿で涼しいし?」

「剣道も袴じゃん」

 託生、俺に失礼だぞ、と利久は唇を尖らして小さい子どものように拗ねては今夜のコロッケに箸を突き刺した。

「だいたいねえ、弓道は精神を鍛えるためにやっているわけよ。託生くん、わかる?」

 一年時のルームメイトだった時から、利久は朗らかに穏やかに周囲に溶け込む男だった。
棘あるぼくの言葉さえ柔らかな言葉でやんわりと包んで、何かとフォローをしてくれていた。

 だから、利久の精神力が以前と比べてどれほど成長したかと訊かれても、多分ぼくにはわからないだろう。
いつだって柔軟な利久の心は、二年前から優しさでいっぱいだったからだ。

 だから、ぼくは正直に、
「はっきり言ってさ、一年の時から比べてどれくらい利久が大人になったかなんてのは疑問かも」
尊敬を込めてそう言ったのだが、
「託生には男を見る目がないからなあ。ま、仕方ないか」
どうやら利久がほしい言葉とは違っていたようだった。

「そういや、託生さ。最近、ギイと一緒に食堂に来てないんだな。
やっぱり階段長ともなると忙しいもんなのか?」

 ルームメイトだった時に比べると、部屋が離れた分だけどうしても一緒に過ごす時間は減る。

──特にぼくとギイの場合は、一緒に行動をするのを極力避けているから……。

 ぼくと利久も部屋が分かれてから、随分一緒に食事をする機会が減ってしまった。
そんな経歴があるから、三年になってからギイとはほとんど疎遠状態になっているぼくの生活が、どうやら利久は気になったらしい。

「部屋が別々になるとさ、今までずっと一緒にいた分寂しいだろ? 俺も去年そうだったなあ。
託生と離れてさ、突然世話する相手がいなくなっちゃって、ピューってな。
こう風が吹いたようなカンジになったもんさ。ホント寂しかったよなあ。
ま、その分、すごくこまめにギイが託生の世話をしてくれてたから、俺は安心していられたんだけど。
ギイなんて俺より託生にべったりだったから、きっと今頃メチャ寂しいと思うぜぇ。
あ、でも、託生の場合、今年は三洲に世話してもらえるから、ギイも少しは安心かもな」

 利久はいつだってぼくのことを小さい子どものように心配する。

「笹カマさ、今度実家から送ってきたら、今年は三洲にたっぷり賄賂を渡してやるから」

 そんなふうにお兄ちゃんぶって、いつもぼくのことを気に掛けてくれる。

「だから託生は安心してなさいね」

 有り難くて。

「あのね、ぼくは子どもじゃないんだよ。
それこそ利久こそ、人が良すぎていつか誰かに騙されるんじゃないかってそっちのほうが心配だよ」

 滲みそうになる涙を、ツンと痛くなる鼻を、ぼくは精一杯堪えた。

 そして、それを誤魔化すように、利久の皿からひょいっとデザートの苺をひとつ奪って口に入れた途端、
「ああああああ〜っ! 託生、ヒドイっ〜。それ、最後に食べようと楽しみに取っておいたのにぃ〜っ」
突然、利久が声を張り上げたので、これにはさすがに驚いた。

「あ……、ごめん。いらないのかと思ったから」

 ありふれた弁解しかできないのが苦しい。

「俺が苺好きなの、おまえ知ってるだろ〜っ」
「ははは、そうだったっけ?」

 こうなったら笑って誤魔化すしかない。

「コイツ。本気で忘れてやがったな……」
「まあまあ。今度、苺が出たら、ぼくのを利久にあげるからさ」

 すでにぼくの皿にはふたり分の苺の蔕(へた)がちょこんと置かれてしまっている。

 だから、利久も恨めしげにぼくを見て、
「絶対だぞ?」
その蔕とぼくを見比べて、確認するかのように力強く言葉にした。

 そんな利久の子どものような態度が何だかかわいく見えてしまって、
「はいはい、ちゃんと約束は守るからさ」
ついくすりと笑ったのだが。

 もう春も終わり。

 この先、今年度中に苺が食卓に並ぶ機会が果たしてあるのだろうか、の問題はこの際黙っておくことにして、
「苺。また出るといいね」
一応それだけ言っておいた。

「俺の苺ちゃぁ〜ん」

 利久は皿の上の苺の一部に向かって、
「聞いてくれよ〜。託生ってばイジワルなんだよ〜」
そう話し掛けている。

 余りにも恥ずかしいその姿に哀れみさえも抱いた……のだが、よくよく考えてみると自分の非道さに原因があったのだったと思い出して、心の中で手を合わせて、ゴメンねと拝むぼくだった。

 そんな賑やかな食事も終って、利久と揃って席を立つ。

「このあとさ、談話室に行かないか? 今日は見たい映画がやるんだよ」
「いいけど。ホラーだったら付き合わないよ」

 ここで無下に断ったらかわいそうだと苺の反省をこめて応じることにする。

「わかってるって」

 そうしてぼくと利久が揃ってトレイを持って立ち上がった時──。

 ざわりとその場の空気が揺れたのがわかった。
ギイが章三を伴って、ちょうど食堂に入ってきたのだ。

「さっすがギイだよなあ。迫力が違うわ」

 珍しく一年生がギイの周りに纏わりついてないのが見て取れて、ぼくの口からホッと安堵の溜息がつい漏れてしまう。

 ギイの髪がここからだと金に近い茶色に見えた。
短くなった分だけ、髪の色が淡く見えるのだろうか。
それとも、食堂の照明のせいなのだろうか。

 ぼくじゃない誰かにも、親しく声を掛けるにはその金に光る髪が尊く見えてしまうのだろうか。

 ギイはもっぱら章三と肩を小突き合いながら、トレイを手に列に並んだ。



 今まで、ずっと──。

 ギイを見るのが好きだった。
ギイを見ているといつも心が癒された。

 ギイの視線がぼくのそれにそっと絡みつくと、自分が今何処に立っているのかもわからなくなって、ただ目が離せなくなった。

 でも、今は。

──怖い。

 目が合った瞬間にどうしていいかわからなくなって、ただ目を逸らしたくなる。
じっと見つめられたら、じっと見返したいぼくがいるのに、先に目を逸らされるのが嫌で、自分から目を逸らす。

 いつからだろう、いつまで見つめてていいかわからかくなったのは。

 今までギイを見るのが余りにも自然すぎて、ギイがぼくに笑顔を向けてくれるのがいつも過ぎて、その絡みつく視線からどうやって逃れていたのかすら覚えていない。

 いつ目を逸らしていたのか。

 いつもどのくらい見つめていたのか。

 今、ぼくが見つめていい時間はどのくらいなのか、はっきりとわからなくて不安になる。

 だから、ついギイの視線がこちらに向けられた途端、ぼくはぷいと目を明後日の方向に無理矢理向けるしかなくなるのだ。

「さっさと行こう。これから食事する人たちの邪魔になるから」

 ギイは、ぼくとの関係を隠そうと努力している。
だから、ぼくもギイのためにその努力をしなくてはならない。

──ちゃんとわかっている。だから、じっと見てはいけないんだ……。

 少し前のぼくは、ギイがこっちを向いてなくても、ぼくがちょっと見る分にはいいかと思っていた。
こっちを向いてくれればラッキー、なくらいに思って、じっと見てしまったこともしばしばだ。

 ぼくが想像した通り、ほとんどの場合、ギイはちゃんとぼくに気付いてくれて、こっちをちらりと見てくれる。

 気付いてくれた。見てくれた。

 それだけで嬉しくて。

 でも、次の瞬間、頭で理解はしていても、すぐさま外されるギイの視線に寂しさを覚えてしまって。

──仕方ないんだ。

 だから、ぼくもずっと我慢していた。

 でも、何度も何度もそれを繰り返しすうちに……いつからか、怖くなった。
ギイから視線を外す──それが余りにも自然すぎて、無視されたようで寂しかった。
見つめる先の愛しい人が目を逸らすその瞬間、ぼくの存在を否定されたような気がして怖くなった。

 ギイの隣りに立っている誰かに、自分の姿を重ねては、同室だったあの頃を懐かしく想う。

 いつだってギイはぼくの隣りで微笑んでくれていた。
ギイのそばでぼくは真綿に包まれて、いつもぬくぬくと笑っていられた。
それがいつまでも続くのだと、そう思っていた。

 それは錯覚でしかなかったのに。

 確かにギイはぼくを愛してくれてはいるだろう。
けれど、現実にはギイはとても遠くて、手を伸ばしても簡単には届かないところで笑っている。

 ぼくに向けてしまう視線を隠すために伊達眼鏡を掛けていると言うのなら、時々でいいから、遠目に視界に入るぼくを眼鏡越しでないギイの瞳で見てほしい。
そうしたら、きっとぼくは安心できるはずだから。

 ギイがぼくを、まだ好きだって──。

 この不安はどうしても止まらない。だから、確かめたくなる。
でも、ちゃんとわかってもいるのだ。ギイはぼくのことを想ってくれている、と。

 なのに、怖い。

 先に視線を外されるから見つめるのが怖くなる。
ならば、先に視線を外せばいい。
いつぼくを見なくなるのだろうと不安を抱えて見つめるよりも、自分からその瞬間を作ってしまえば、まだ「不安に待つ」という負担からは逃げられる。

 そう思って、今ではギイが視線を絡めてきたら、ギイがこっちを見てくれたという事実だけに納得して、ぼくはすぐさま目を逸らすことにしていた。

 だから、今、この瞬間も。

 目を逸らすのは、ぼくからになる。

「託生ぃ、ギイ、こっち見てるぜ。何か用事でもあるんじゃないかな?」

 そう利久に言われても、再びギイを視界に入れるのは勇気が要った。

 だけど。

「赤池までこっち向いてるぞ。おまえ、何かやったのか?」

 心配そうな利久の視線を受け止めてしまうと、ギイのほうを向かないわけにはいかなくて、ゆっくりと顔を上げると、何人かの生徒たちの向こう側にギイがじっとこちらを凝視している姿が目に入った。

 ギイの引きつった口元が、僅かに緩んで言葉を放った。
ぼくには遠くて聞こえないその言葉を受けて、章三がぼくのほうにやってくる。
ギイがふたり分のトレイを持ってあとからゆっくり席に着けるように、先に席を確保しに先発隊として章三が動いた……。

 傍目(はため)に見たら、それは日常的に繰り返される食堂の風景だった。
込んでいる時は席を探すのがとにかく難しいから、友人同士協力し合うのは誰でもやっていることだ。

 だが、実際、章三が確保したのは、
「葉山。もう食べ終わったのか? 今夜時間があるなら僕と一緒に例の珈琲飲まないか?
あのバニラの甘ったるい匂いもたまにはいいだろう?」
ぼくの逃げ道とぼくの今夜の予定、そしてぼくの身柄だった。

 その珈琲がギイの部屋でしか飲めないことも、多数の生徒がぼくらの会話を耳をそばだてて聞いていることも承知の上で、章三はぼくを笑顔で誘う。

「ギイのヤツがまた手に入れたんだと。最近、ご無沙汰だったから僕もたまには飲みたくなってね。
食後の珈琲にはお誂(あつら)え向きだろう?」

 章三が堂々と、その張りのある声で、一緒に三階のゼロ番へ遊びに行こうと誘ってきた。

 ぼくは、ここが食堂で人が大勢いるというだけで焦って、どうしてこんな場所でこんなことをを言われなくちゃならないだと動転しつつも、
「ぼく、今夜は利久と映画を見る約束してるから」
やっとそれだけ口にしたのだが。

 けれど、章三も引く気はないらしく、
「映画? 今夜のって確かオカルトだったよな?」
利久に向かってそう確かめる。

 その言葉に対して焦ったのは利久だった。

「え? あれってSFじゃなかった? オカルト?」

 きっとタイトルがとても印象的だったのだろう。
見たいと思った映画の系統をよく調べないまま誘うところなど、いかにも利久らしい失敗だった。

 しかしながら、ぼくがホラーやオカルトの類を苦手としていることだけは利久もしっかり覚えていたようで、
「今夜のヤツ、やっぱり託生は止めておこうな。夜中トイレで起きちゃ、ほらヤバイじゃん。
三洲にも迷惑かけちゃうし」
残念だけどさ、とぼくとの映画鑑賞はあっさり諦めることにしたと言わんばかりの台詞を吐くそばから、どこか名残惜しげに、ぽんとぼくの頭の上に軽く手を置く。

「託生、良かったな。ギイの部屋で珍しい珈琲飲めるなんて羨ましい話じゃん。いいなあ、俺だって飲みたいよ」

 でも映画も捨てがたい、と迷う利久に、突如うしろから現れたギイが、「だったらさ」と、にこやかに解決策を打ち出したのだった。

「映画が終り次第、急いでオレの部屋に来いよ。
十五分くらいしか消灯まで時間ないけど、それでよかったら珈琲淹れて待ってるから」

 託生も章三もそれまで多分俺の部屋にいるだろうし、と続いた時には、すでに利久の顔は満面の笑顔になっていて、
「マジ? 行く行く〜。託生、絶対待っててくれな。見終わったらすぐギイのとこ絶対行くから。
託生が美味しかったって言ってたから、俺、前から飲みたかったんだよ、例のバニラマカダミアっ」
興奮状態で捲し立て、
「じゃ、俺、やること先に終らしてさっさと映画見てくるわ。絶対行くから待っててくれよ〜」
人の波を掻き分けつつ、食堂をあとにしたのだった。

「片倉って子どもみたいなヤツだなあ」

 章三が何に感心しているのかはわからないが、何度も頷いてそう言葉にしてきたので、
「うん。利久って綺麗な心を持ってるよね。今も。そして今までもずっと」
ぼくも感謝の意を込めて、そう小さく呟く。

「託生はラッキーだったな。最初のルームメイトが片倉でさ」
「うん……」

 ギイの声はすぐ横から聞こえた。

 そうして、夕飯のコロッケを乗せたトレイをテーブルに置くと、
「そういうわけだから、今夜予定が特にないならこのまま一緒にオレの部屋に行かないか?
オレも章三もすぐコレ片付けるからさ」
ギイは自分たちの皿の上の食事を指して優しく微笑んだ。

 眼鏡越しでもこれだけ至近距離ならば、その瞳が誰を映しているかははっきりとわかる。

 いや眼鏡越しなど関係なかった。

 ギイの心が誰に向けられているか、はっきりとわかるから……。

 だから。

「うん……。いいよ」

 久しぶりに間近に見るその淡い瞳の色に吸い込まれそうになって、くらりと眩暈がしそうになるのを耐えつつ、ぼくはそう応えた。

 すると、
「待たせる代わりに、ホラ」
ギイがコロッケに添えられた赤い苺をぼくの空の皿の上に転がしてくる。

「マズイよ」
「苺、嫌いなのか?」

 そんなはずないだろう、とギイはすでに蔕のみとなった証拠品ふたつに視線を飛ばす。

「苺じゃなくてっ。だって、ここは食堂で……」
「まあな。食堂だからこそ、こうやってメシ食ってるわけだし。
あ、章三。あとで苺ミルク買ってやるから、その苺オレにくれ」

「あ? 苺? 物々交換だな。いいぞ、持っていけ」

 ギイは周りの視線など気に止めぬまま章三の皿の上から苺を奪うと、その苺さえもぼくの皿に乗せてきた。

「何やってんだよ、ギイ」
「苺をあげただけだ」

「だって、そんなことしたら……」
「片倉の苺だろ。それ。だからそのふたつの苺、オレの部屋で渡せばいいさ」

 そう話しつつも、箸の動きは止まることはない。

 ギイは租借しては飲み込む作業を繰り返して、あっという間に食べ終わってしまった。

 残されたのはふたつの苺。

「渡すって、利久に? これを?」

 ぼくは赤い苺に込められたギイの考えがわからず、ただひたすら好きな人の横顔を見るしかなかった。

 今、ギイの視線は章三に向けられ、「コロッケ、食べるの手伝ってやろうか?」などと、相棒の食事の邪魔をしては、章三と自分の分のお茶の御代わりを取りに行く。

 席を立ったギイが配膳台のほうへ行ってしまうと、
「片倉のヤツ騒いでたからな。苺がどうたら、こっちまで聞こえたのさ。
きっとギイなりの礼のつもりなんだろう」
章三がキャベツの千切りにソースをかけながら、
「葉山が受けた恩はきっちり自分から返したいんだろうよ。ま、受け取っておけ」
そして苺を見て、ささやかな恩返しだがな、と付け加えた。

 そして、珍しいことに、「独占欲の塊みたいな男に惚れられたのが運の尽きと思って諦めろ」などと囁いてくるものだから、ぼくの動揺は激しくなる。

「章三、オレの席に座るんじゃない」

 そんなぼくの困惑など露知らず、ぼくの隣りに身を寄せていた章三に向かって低く割り込んできたギイは、笑顔を浮かべながらも目が笑っていない。

「はいはい、わかってるって。手負いの兎はさっさとコロッケを片付けるので、もう少し我慢してくれよ」

 まるで「早く帰ろう」と駄々を捏ねる子どもを前にした母親のような口調で、章三はギイを宥めるように言い返すと、真面目に夕飯に取り組む姿勢を見せた。

「託生。お茶飲むか?」
「あ……、うん」

「熱いから気をつけろよ」
「うん」

 何もかもが同室だったあの頃のようだった。
手にした湯飲み茶碗の熱さを気遣うギイも、ぼくを構いたがるギイの世話好きも。

 何もかもがそのままで。

──今だったら……。

 今だったら、見てもいいのだろうか。

 少しだけなら、とちらりと横目でその麗しい恋人を盗み見た。

 金色に見える長い睫がぱさりと動く。
熱い番茶を啜るように口をつけている。

 こんなにも近くで動いているギイがすごく不思議で──心が切なさでいっぱいになった。





 ギイと章三の食事が済んで、三階のゼロ番に移動した時も、その特別な部屋に足を踏み入れることに気が引けた。

 一階のゼロ番も、二階のゼロ番も、そして四階のゼロ番も。
ただ訪ねるだけのことに、こんなにも緊張はしないだろう。

 この三階だけがトクベツなのは、ぼくがここに来るだけでギイに負担をかけてしまうと知っているからだ。

 近付いてはいけない。バレてはいけない。

 だから、近付かない。来てはいけない。

 そっと二階の自分の部屋の窓を開けて、そっと上を見上げるだけなら。
三階のゼロ番のカーテンが揺れるさまを目に入るだけなら。
それだけなら、きっと大丈夫だってずっと自分に言い聞かせてきたのだ。

 ドキドキしても、当然だ。

 ここはギイの部屋なのだ。

 だから。

 友達なら誰だって部屋に呼んだり呼ばれたりするんだ、今夜は章三がいるから大丈夫だ、と自分自身に納得させて、ぼくはそのトクベツな部屋のドアのノブを手にしたのだが、やっぱり気が引けて、つい縋るようにギイを見てしまった。

「託生、先に入ってくれなきゃオレたちが入れん」

 その拗ねたような口調に反してギイが笑顔を浮かべていたので、ぼくはその優しい視線に安堵して、ゆっくりノブを回した。

 ソファに身を沈めると、しばらくして、目の前に牛乳たっぷりの珈琲が入ったマグカップが置かれた。

 バニラの香りがとても甘い。
でも、口にした珈琲は僅かに苦かった。

 真っ黒ではない珈琲の色に、ぼくじゃない誰かが過ぎって落ち着かなかった。

 普段、ギイは珈琲に砂糖もミルクも入れない。
この部屋の小さな冷蔵庫に中に牛乳を常備しているのは、きっと一年生がこの部屋へ頻繁に訪れるからだろう。

 階段長は身近な相談役となる。
ゆっくり話をするのに、飲み物は欠かせないものだ。

「託生」

 ぼくの隣りにギイが座り、ギイに向かい合って章三が席に着いた。

「単刀直入に訊くけど、誰かに何かされたのか?」

 その突然のギイの質問の意味が、ぼくには最初わからなかった。

 頭で理解して、やっと首を横に振る。

「なら、誰かに何か言われた?」

 これも身に覚えがないので、首を左右に振る。

 だから、その質問の裏にギイが気にするほどの何かがあったのだろうか、と心配になって訪ねると、
「いや、今の託生の返事でオレの杞憂は三割減った」
小さな安堵の溜息を吐いて、ギイはマグカップに口をつけた。

「じゃ、残り七割はまだあるんだ?」
「だから、託生に話してほしいんだ。正直に答えてくれ。おまえ、オレのこと避けてる?」

 真摯の視線が真っ直ぐにぼくを射た。

「託生の口から聞きたいんだ」

 そう言ったギイの声が僅かに震えていた。

「僕は席を外そうか? 一時間したら戻ってくるから」

 そう立ち上がった章三に、ギイが「そうしてくれると助かる」と礼を言うのと、ぼくが「それは困るっ」と叫んだのは同時だった。

 ぼくとギイのどちらの言い分に耳を傾ければいいのか、瞬時章三は迷ったようだった。

 浮かした腰が再びソファに沈んだ時、ぼくがホッと肩の力を抜くのをもしかしたらギイに知られたのかもしれない。

 その証拠に、
「章三、頼む。何も言わずにここにいてくれ」
ギイが章三に向かって軽く頭を下げていた。

「わかった。苺ミルク、ひとつ追加で手を打とう」

 そして、静かにマグカップの柄に指を絡ませる章三がそう応じるのを確認すると、ギイは、
「託生、頼むから教えてくれ。おまえが何を見て、何を感じているのかを。
託生の声で、オレはちゃんと知りたいんだ」
ぼくの肩を抱き寄せて、そっと頬を寄せてきた。

 ここには章三がいるのに、と突っぱねるつもりで好きな人の胸に手を寄せる。
その手でギイの服を押し退けて、「第三者がいる前だから止めてくれ」と抗うのは簡単だった。

 でも、実際は、自分の手は愛しい人の体温を感じた途端、柔らかな布地を握り締めていて。
その胸を跳ね除けることもできず。

 声に出して、はっきり拒否の意思を態度に示すこともできなかった。

──だって、こんなに近くにギイがいるなんて。

 夢みたいだって思ったから……

 だから、ぼくの掌はゆっくりとギイの背中に回されてしまったし、ぼくの声は──。

「……嫌、だったんだ──」

 小さく、たどたどしく漏れてしまっていた。

「ずっと……嫌だった。誰かがギイって呼ぶのも、誰かにギイが笑いかけるのも……」

 ぽとりと零れた想いは、たったひとつ落ちた途端、ぽとぽとと続いて零れ落ちる。

 怖かったのだと。
視線を先に外されるのも先に外すのも、とても嫌だったのだと吐いていた。

 ギイが誰かと親しくしている姿を見るのが嫌で、その相手が友人、後輩に関係なく、ギイを独占している瞬間が存在するだけで許せなくて。
そんなふうにしか考えられない自分自身がとても嫌だった。

 ぼくの心の中で醜い感情が渦巻いている。

 ギイがぼくをちらりと振り向く時、そんな荒んだ心を見透かされてしまうようで怖かった。

 こんなぼくを見てほしくはなかったのだ。

──そのくせ、こちらを向かないギイに八つ当たりして。

 自分勝手なぼくを止められなかった。

 いつかギイが呆れたようにぼくを見る、その瞬間が来るのが怖かった。

「怖かったんだ……」

 自分を守るために先に逸らした視線。

「どうすればいいか、わからなかった……」

 絡んだ視線の解き方をとうに忘れてしまっていたぼく。

 ギイの肩がとても温かくて、頬が触れる柔らかい薄茶の髪が触れるたびに少しちくちくした。

「託生、オレを見てご覧」

 そううながされて身体を離してギイを正面から見ようとした。

 つい俯いてしまったぼくの顎をギイが指先でゆっくりと上げる。

「オレが見えるか?」

 途端、ギイの優しい色の瞳の中にぼくの姿が映っているのが見えた。
それはすごく綺麗な鏡だった。
澄んだ淡い茶色の鏡に映された己の顔が何だか痛々しい。

「なら、今度は目を閉じて。ゆっくり閉じるんだ」

 ギイが何のためにこんなことをさせるのか、理由もわからないまま、その言葉に副(そ)って目を伏せる。

 ギイの日本人離れした整った顔が暗闇の中に消えてゆく。
先に目を逸らすとは違う方法で、ギイの姿を視界から消す。

 その暗闇の向こう側にちゃんとギイがいるのだと、ぼくの両頬を包み込む大きな掌の体温が教えてくれる。

 ギイがここにいる。

 見なくても、ぼくはギイを感じられた。

「じゃ今度は目を開けて。そしたらまたオレが見えるから」

 暗闇の世界から光の世界を切り開くぼくの視界。
その限られた視界の中で、ギイの微笑む顔がいっぱいに広がっていた。

「ちゃんと託生にはオレが見えたか? この顔が自分の恋人の顔だと認識できた?」

 そして、少しだけ唇を引き締めて、
「オレだって怖かったよ。託生がオレから逃げるように顔を逸らすから……」
ちょっと傷ついた、と拗ねて笑った。

「ちょっとだと?」

 章三がそのささいな台詞をしっかり拾って、ちゃんと修正するよう諭すと、
「あ、いや……、実は結構」
ギイは観念したように事実を正確に言い直した。

「オレだってやっぱり怖いし不安になる。何か不味いことしたかな、とかな」
「嫌われたかも、って考えないとこがギイだよな」

「茶化すな、章三。オレの繊細な純情はそれでなくても託生の一挙一動にビクビクものなんだ」
「よく言うよ。葉山の笑顔で即座に完全回復のくせに。
それに、友情とはこうして刻まれていくものだ。だから有り難く粉々に刻まれろ」

 目と鼻の先で繰り広がれる同級生たちの抱擁にうんざりしながらも、見ない振りをしてくれる。
オレは託生が好きなんだ、と繰り返す親友の甘い声を耳にしながらも、聞かない振りをしてくれる。

 一度も止めるような言動に至らず、ずっと黙ってそっぽを向いてくれている。
それが章三の精一杯の友情なのだろう。

 そして、その友情に甘んじて、またギイが調子に乗って何度も何度も繰り返す……。

 まるで、ぼくの耳に吹き込むように何度も「好きだ」を繰り返しながら優しく抱きしめて、
ギイはぼくを幸せにするのがすごく上手い。

「託生、オレはおまえが好きなんだ。好きなヤツに目を逸らされたら誰だって気になるさ」

 だけどそれでいいんだ、とギイは言った。

「好きだから怖いんだ。好きだから、嫉妬してくれるんだろう?
オレが誰かと仲良くしててそれで託生が拗ねてくれるなんてさ。
不謹慎かもしれないけど、それって恋人冥利に尽きるじゃないか。
だからこの場合、オレは嬉しく思わなくちゃいけないんだ。
託生が困った顔をしてオレのこと無視する時、ああ、またオレのこと好きだって確信したんだなってな。
だから、次にもし託生から先に視線を逸らしたとしても、オレはきっと『コレは幸せなこと』なんだってそう思うよ。
例え、怖くて寂しくても──オレは幸せの中にいるんだって、そう思うんだ」

 ギイの言葉はとても穏やかにぼくの耳に響いた。
春の雨のようにしとしとと静かに降り濡らして、ぼくの小さく萎んだ心にゆっくりと染み入る。

「だってオレはもう知ってるから」

 コレは恋する者しかもらえないトクベツな贈り物なんだ、と幸せそうにギイが笑う。

 その言葉が切なくて。

 ギイを想うこの気持ちは、愛しさ、嬉しさ、ほんのりと温かい優しさ──それらのたくさんの光を与えてくれる。
でも、それだけじゃなく、醜い嫉妬や独占欲、思い通りにならないもどかしさ──それらのたくさんの闇さえも、ぼくの中に生み出してゆく。

 ギイ、と誰かが呼ぶその瞬間──ギイ、と呼ぶことを許されたその優越感にさえ嫉妬して……。

 ぼくは卑しい人間になってしまったようで、ギイに合わす顔がないと思った。
けど、それすらも、恋がもたらす贈り物だとギイは言う。

 そして、そのギイの言葉を補うように、「相棒」が視点を変えて言葉を繋いだ──。

「ギイと仲良くしたいヤツは確かに多いだろう。葉山がヤキモキするのもわからないわけじゃない。
でもな。ギイがいくら親しい者たちをシャットアウトしてみんな平等に扱ったとしても……、
例えば、僕が四六時中ギイに纏わり付いて、時には肩を抱き合いながら馬鹿笑いしても、そんなのむしろ問題ないと思うね。
実際、そんなふうに僕らがべったり連(つる)んだところで僕にはヤマシイことなど何ひとつないからな。
腹を探られたところで痛くも痒くもない。だが、葉山は違うだろう?」

 恋人と親友は同等ではない。

 章三はぼくとは違うし、ぼくも章三とは違う。

 ギイとは、お互いそういう距離にいる。

「葉山は思いっきりヤバイんだよ」
「それって、ぼくが──」

 恋人、だからだ。

「頼むから、僕とギイを疑ってくれるなよ。仮に僕らが抱き合って頬擦りしていてもだ」

 とても嫌そうに、苦虫を潰したような渋い顔をして、章三は極端な冗談を吐いた。

 本当に苦し紛れの冗談だったらしい。

「鳥肌立っちまった」

 章三は眉間に皺を寄せて、ギイのせいだと睨んでいる。

「親友っていいね。ギイと赤池くんを見ていると羨ましいよ」

 ぼくもやっぱりほしくなる──と言いかけて止めた。
人間接触嫌悪症──それに甘んじて人間嫌いの鎧を纏い、去年の春まで他人と馴れ合うことを避けてきたぼくにはそう言う資格がないからだ。

 だが、ぼくが生み出した沈黙が甘い珈琲の香りに溶け込んだのは一瞬だった。

「葉山の鈍感はいつものことだな。
おまえ、あの片倉が去年ギイと葉山がルームメイトになった時、ほっとしたような顔してたの、もしかして気付いてないんだろう?」

 章三が、おまえはそういうヤツだ、と吐き捨てながら珈琲を一口飲む。

「知ってるよ。本人がはっきりそう言ってたし」

 一年前、同室者というお守りから解放されてホッとした利久。

 でも、それは当然だと思う。

 本当に迷惑かけ通しの一年間だったろうから。

 そんな考えが顔に出たのか、
「まるで今にも泣きそうな顔だな。葉山は勘違いしているよ」
章三の声がぼくを気遣うように少し柔らかいものとなる。

「片倉は二年になって笑うようになった親友を見て安堵したんだ。
去年のこの時期、よく片倉はホッとしたような、それでいて寂しそうな。そういう微妙な顔をしてたのさ」

 利久がぼくの親友──?

 今までも利久とぼくはお互いふざけて「親友のくせに」と投げかけたことが確かにあった。
でもそれはその場限りの言葉遊びのようなもので、単にノリで言っているんだと思っていた。

「そんな……。ギイと赤池くんじゃあるまいし」

 だから、改まって突然そんなこと言われても、ピンとこなかった……。

 このぼくに親友、だなんて。

「そりゃ、僕らの付き合いと葉山たちの付き合いは違うだろう。
相手が変われば自(おの)ずと付き合い方も変わる。しかしながら、『親しい』には変わりない」

 不動の自信で言い放つ章三の表情はとても厳かだった。
それは何かを悟った僧侶に通じる潔さに見えた。

──こんなに若くしてこんな印象を抱くこと自体、もしかして失礼なのかもしれないけど……。

「僕とギイ。片倉と葉山。そして、葉山と僕。
それぞれ友情という名の同類項で括られる。もちろん、係数はそれぞれ違うが」

 章三のその口元に浮かぶ笑みが、違っていいのだと語っているように見えた。

「そして、ギイと僕。ギイと葉山。ギイは僕らの積集合だな」

 ギイ=葉山託生∩赤池章三──?

「葉山と僕はギイを挟んでお隣りさんなわけだ」

 それぞれの集合域は『恋人』と『親友』……?

「章三、おまえ上手いこと言うなあ」

 ギイが笑って指先をくいくいと曲げ、章三にもっと近くに来るよう誘う。

「それならさ」

 そう言って、ギイは右腕でぼくの肩を抱き寄せ、左腕を章三の肩に回す。

 そして、取って置きのナイショ話を囁くようにぼくらを一括りにして、両手に花だ、なんて言って章三に呆れさせながらも、
「ほら、これで和集合だ」
ギイは嬉しそうにぼくに微笑んだ。

「──ありがとう」

 心が凪いで和む瞬間、この感動の言葉は誰に向かって呟いたものなのか、自分でもわからないまま……。
この穏やかな空気に触れているこの瞬間に感謝したい。

 ぼくを取り巻く世界がゆっくりと鮮やかに、より彩りを増してゆく。 
この世界は誰かとの繋がりが増すたびに、色鮮やかになってゆく。

 こんな世界があることを、ぼくはこの祠堂に来るまで知らなかった。

 それはぼくには余りにも眩しすぎて、いつまでもその眩しさに慣れないかもしれないけれど……。
でも、去年よりもいくらか順応しただろうか。

 例えば、今夜、ギイの部屋で、章三がぼくに話しかけるごとに深く感じ入る友人の有難みのように。

 ゆっくりと、ぼくはこの光に溶けてゆく──。



 ギイ。

 きみが開いてくれた扉の向こう側は、余りにもたくさんの光と闇でとても忙しい。

 でも、それはずっとぼくがほしかった場所……。

 だから──。

「ありがとう」

 ギイをこの目でしっかり見つめたい。

 ギイがいつでも目を逸らしてもいいように、ぼくがいつでも先に視線を外してもいいように。

 誰だって誰かを好きになれば、光に酔い闇に迷うのだとわかったから。

 誰かがそばにいてくれる、この瞬間に感謝をこめて。

「ギイも赤池くんも利久も、大好きだよ」

 今、ぼくはこんなふうに言葉にできる──。





 三階ゼロ番のドアを叩く音が、苺好きの友人の到来を告げた。

 時間を見計らったように、ギイがテーブルの上に珈琲を置く。
その甘いバニラとマカダミアの香りが漂うマグカップの隣りには、この春最後であろう苺がふたつ、ちょこんと小皿の上に置かれていた。

──きっと、この扉が開いたら……。

 喜び勇んで苺を口に入れる友人の、満面の笑顔が目に浮かぶ。

 その想像が現実となる瞬間が、ほら、もうすぐそこに──。





 誰かを好きになる。

 すると、様々な感情が入り乱れては落ち着かなくなって──。

 だから、とても疲れる。

 楽しいことや嬉しいことばかりではない。逃げたくなることも多々ある。

 そんなふうに、「好き」が生み出す世界は余りにも忙しい。

 けれど。

 その忙しさこそが、今、ぼくはとても愛しい……。 

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの8000hits記念作品「Dear my busy heart」はいかがでしたでしょうか?
今回は三年生、春のお話です♪

実はこのお話は、「集合」の台詞を使いたくて書いていた、に尽きます(笑)。
最初に浮かんだ場面がそれだったんです♪

積集合(Intersection)の記号が「∩」で読みはCAP、
和集合(Union) の記号が「U」で読みはCUPとなります。

数学、ホント懐かしいですわ……。
っていうか、もうほとんど忘れてるんですケド(苦笑))。

えむえむさま、「Dear my busy heart」、気に入っていただければ幸いです。
この作品は8000hits記念として、えむえむさまに捧げます。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


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