キスをしましょう



「俺ってキスするのヘタなんでしょうか?」
「げほっ」

 真行寺兼満の突拍子もない言葉が、学生ホールに小さく響いた。

 紙コップのコーヒーを飲んでいたぼくは、突然のこの問いにむせるしかない。

 やっと喉の調子が落ち着いて、隣りの席に座る真行寺に振り向くと、真剣な眼差しをこちらに向ける童話の中の王子様のルックスが息も触れ合うほどに近くにあった。

「ちょ、ちょっと、真行寺くん?」
「あのギイ先輩で慣らした葉山サンですもん。きっと上手なはずですよね……」

 そして、ふっと乾いた笑みを浮かべると、すっと顔を逸らして、途端に、はあ、と大きく息を吐く。

 俺、葉山サンよりヘタなんでしょうか、などと訊かれても、
「そんなこと、ぼくにわかるわけないじゃないか」
もうこうなったら投げやり半分、呆れ半分で言ってやる。

「そりゃそうですよね……。まさか、葉山サンとキスするわけにはいかないし」

 そんなことしてたら俺、今頃生きてません、と真行寺は神妙に頷いた。

 そして、真剣な顔をして、
「その場合、おそらくアラスカの冷たい海か、ナイアガラの滝壺辺りにぽっかり浮いているところです」
もしも行方不明になったらその周辺を重点的に探してください、と付け加えながら、真行寺はぶるりと身体を震わせて、きつく両腕を抱き締めている。

 冗談とはいえ、真行寺が例に挙げた場所がすべてアメリカであるところに、
「ぼくとギイは付き合ってるわけじゃ……」
と言葉を濁しつつも、内心、なるほどそう来るか、と思わず感心してしまったぼくは、不謹慎にも、「座布団一枚っ」と膝をぽんと打ちたくなった。

──まあ、それはともかく。

「考え方によっては、そんな生死をかけることじゃないとは思うけどね……」

 でも、だからと言って、真行寺とキスできるかと訊かれても、する気はないし、する必要もない。

 出来る出来ないの次元で、どこか身体の一部同士が接するというレベルで考えるなら、体育の時間、ふたり組みになって背中同士をくっつけて身体を折り曲げる準備体操のように、背中だろうが手だろうが、それは身体の一部が合わさることには違いないわけだから絶対不可能ってことではないだろう。

 だが、それも場所による。

 唇は恋人のためにとっておくトクベツな場所なのだ。
そう簡単に赤の他人と重ね合わせていい場所じゃない。

 だから。

「あのさ」

 なんでこんな話になったんだ、と火照る頬を隠しながら、
「三洲くんに、『おまえはヘタだ』とでも言われたのかい?」
余りにも真行寺がしょぼくれた顔をしていたので、ぼくもつい突っ込んだことを訊いてしまった。

「いえ、そういうわけじゃないんですけど。
俺じゃない誰かがアラタさんにキスしてたら、あのアラタさんのことだから、きっと逐一比べてるかなーって。
ははは……」

 例えばの話ですケド、と一応おどけて見せるのだが、その引きつった笑いには余裕など見受けられない。
はあ、と何度も深く溜息をつく憂いた姿は、とある国の王子様が敵国の王女を想うファンタジーの一場面にしか見えなかった。

 でも、そこでぼくは、はて?と首を傾げてしまう。

 仮に誰かが三洲新に懸想をしていて、ふいをついてキスをしかけたとする──。

 さて、ここで問題です。

 問一、あの三洲がそんなことを許すでしょうか?

 問二、もしも、そんなことがあったとしたら、三洲は今頃、相手を叩きのめしているはずじゃないでしょうか?

 それも正当防衛を高々に、あの三洲新ならばここぞとばかりに相手をギッチョンギッチョンに、それこそ半殺しの目にあわせているはずである。

──でも、ここ最近、怪我人が出たという話は聞かないし。

 そうなると、やっぱりそんな事実はないことになる。
まあ、ぼくごときでは情報収集も限られるわけで、そうなると正確性に欠けてしまうのだけれど。

 それに何より気になるのは──。

 問三、あの難攻不落な三洲が、そもそもそんな隙を見せるでしょうか?

──この真行寺以外の男に……?

「仮にそんな物騒なことがあったとして……。
でも、さすがに三洲くんだって、比べるかどうかなんてのはその時にならないとわからないだろうし。
何よりも、結局そんなの当事者にしかわからないことだと思うけどなあ。
だって、好きな人以外の人とキスするなんて、そんなの滅多にあることじゃないだろう?」

 ……と、ここまで言っておいてハタと気付いた。

 マズイ、ぼくには前科があったんだ、と。

 こんな時、おまえは隠し事が出来ないヤツだ、とギイが言うのももっともだと思う。
ボロを出して困ってる、そんな表情がまたもや顔に出てしまっていたのだろう。

「でも葉山サン、どうして、『滅多にあることじゃない』なんて言うんですかァ?
どうして『絶対ない』って言ってくれないんですかあ〜」

 案の定、するどいところを突かれてしまった。

──好きな人以外とは絶対しないとどうして言い切れないか、などと訊いてくれるな、真行寺。
ぼくにもイロイロとあるのだよ……。

「いや、だから、例えばの話で。ははは……」
「そうですか、例えばの話ですか。ははは……」

 ふたりの乾いた笑いが、夕焼けの空に誘われるようにひとりふたりと欠けてゆく学生ホールにしんみりと響いて聴こえた。



 ぼくが学生ホールを訪れた時、すでに真行寺は先に来ていて、椅子に座って呆けていた。
いつものふざけ交じりの彼とは違って何度も溜息をついて項垂れているものだから、ぼくもつい声を掛けてしまって、こうして現在に至るわけだが──。

 いかにも元気のない真行寺に声を掛けたくなってしまうのは、どうやらぼくだけではなかったようだ。

「どうしたんだ、シケた面して。男前が台無しだぞ」

 ぽん、と気安く真行寺の頭に手をおいた矢倉柾木の肩越しに、ふたり分の紙コップを持ってやってくる八津宏美の姿が見えた。

「葉山とふたりっきりでこんなことに篭っちゃってよ。やーらしーなー。チクっちゃおうかなー」

 その場合、チクる相手は誰ですか、とつい疑問に思ってしまうのはぼくだけだろうか。
ギイはともかく、あの三洲はそんな戯言などまともに取り扱うはずがない。

 それがどうした、勝手に洞穴にでも篭ってろ、の一言でばっさり切り捨ててくれそうだ。

 時代劇に出てくるような武士姿の三洲が刀を振り回している場面をぼくが勝手に想像していると、
「何、話してるの?」
矢倉に、「はい」と紙コップを手渡しながら、八津がぼくに尋ねてくる。

──この面子(メンツ)……。うわっ、もしかして、ヤバイかも?

 頼む、今だけはここに来るなー、来ないでくれー、と思わず叫びそうになるぼく。

 恋人以外の人とのキス──。
ぼくのその前科の相手は、実はこの八津宏美だったりする……のだ。

 そんなぼくの願い虚しく、いつの間にか話題がまたもや真行寺の例の話に戻っていて、
「誰かにキス、ねえ」
恋人以外の人とのキスについての件(くだり)になると、矢倉柾木は軽く笑って、
「そんなの気持ちがこもらなければ、ただの接触だ」
余裕の表情で言い切ってくれた。

 そんな矢倉の懐広い心に、ぼくは多大な感謝の念で満たされた。

──そうだそうだ、その通り〜っ!

 良くぞ言ってくださった、と、思わずぼくは拍手を送りたくなった。

「そうだよね」

 一瞬ぼくを見た八津宏美も、わずかに微笑みながら、恋人の発言に賛同する。

「だってさ、そうじゃなきゃやってられませんよ」

 矢倉のその口調は何やら含んでいるようだったが、ぼくと八津にちらりと視線を送ってきたその苦笑を見る限りでは、あんなの時効だ、と語っているようにも受け取れて、ぼくはそうでしょうとも、と何度も俯きたくなった。

 ところが、ぼくらのそんな微妙な事情を知らないヤツは、この不穏に漂う不安定な空気を綺麗に無視してくれるから困りものだ。

「でも、矢倉先輩。されたほうはともかく、けしかけたほうには絶対意志が感じられますよ?」

 真行寺としては、行動を起こした側にはそれなりに下心があったはずだ、と言いたいらしい。

 ぼくはそんな真行寺にハラハラしながら、それ以上言うな、言わないでくれ、と祈るしかないというのに、そんなぼくのハラハラドキドキなど露知らず、真行寺は声にますます力をこめて。

「その気がなくちゃ、キスなんて出来ませんよっ」

 そして、極め付けに出た言葉が、
「何にしても、キスしたって事実は消えないモンです」
さすがにこれは、四人中三人の顔触れにとって最悪の台詞となった。

 思わず、あっちゃ〜ッと、ぼくは額に手を当てる。

──それを言っちゃおしまいだよ……。

 案の定、矢倉の視線が一瞬で鋭くなった。
まるで絶対零度のビーム光線発射間近の眼差しで、今にも狙い打ちするかのように愛しい恋人へと標的を定めている。

「さて、と。そろそろ俺たちは失礼するかな」
「え? 今、来たばかりなのに?」

 八津の声が怯えたようにわずかに震えて聞こえたのは気のせいだろうか。

「せっかく来たんだから、俺、もう少しここにいたいよ……」

 それでも、これから自分の上に降りかかるであろう仕打ちを察した八津の逃げのその態度は、矢倉柾木にとって火に油だったようだ。

 矢倉はこめかみにますます剣呑な青筋が浮かべると、
「おまえはそんなに葉山のそばにいたいのか?」
静かな物言いの中に底知れない恐ろしさを忍ばせた、地獄の底から湧き出してきたような低い声を、八津の恋人はその口から放った。

「そういうわけでおふたりさん、悪いが俺たちは先に帰るぞ。ちょっくら大事な用を思い出しちまったからな」

 疎いヤツ、とギイや章三に太鼓判を押されているぼくにもその用事がどういう部類のものかが安易に想像できてしまって、
「どうぞお手柔らかにね……」
八津不憫さに口にしてしまったのだが、これがまた、カチンと矢倉の癇に障ってしまったらしい。

──ああ、口は災いの元。雉も鳴かずば撃たれまいに……。

 ぎろりを矢倉に横目で見られて、ぼくはまるで蛇に睨まれた蛙の心境に陥った。

 そしてついには、怒りの矛先をこちらに向けた矢倉は、
「それとだ、葉山。おまえも早く帰ったほうがいいぞ。
真行寺の悩み相談についてはギイの明晰な頭脳に頼るのもひとつの方法だろう?
俺がしっかり報告しておいてやるから」
そこで一旦言葉を区切ると、すうっとわざわざ近付いて来て、
「おまえもせいぜい今夜は覚悟しておけよ」
耳元で意味深に囁いて、にやりと人の悪い笑顔を浮かべてくださった。

「え? 今夜?」

 そのナイショ話に焦ったのはぼくばかりではなかった。

 かすかに矢倉の声が漏れ聴こえたのだろうか、八津があたふた慌てながら、
「そんな……、葉山くんは関係ないのに」
そう庇ってくれたのだった──が、
「おまえは自分の心配だけしてればいい。その下心ってヤツをこの際たっぷり白状してもらうからな」
一番の受難はどうやら八津が引き当ててしまったようだ。

 でも、そこで簡単に屈しないところが八津宏美である。

 八津の恋人である矢倉柾木は、一見、のらりくらりしたオチャラケ男に思われがちだが、一方では掴みきれない底知れないヤツと噂に高く、その証拠に、階段長の大任をすんなりこなしているような輩だ。

 その矢倉を振り回す八津も、類は友を呼ぶとでも言うのか、意外と、と言っていいのかわからないが、実は毛の生えた心臓を持っているアチラ側の人間らしい。

「白状するのはいいんだけどさ、転んだ先に偶然ばったりってこともあるんだからね。
第一、もともと転んだ原因のひとつは矢倉にあるんだし。
そこで転んだ先で何かあったとしても、そういう場合、俺だけのせいじゃないだろ?」

 そんなふうに、八津は飽くまで切れもしないシラを切ろうと努力をする。

 転んだ先にぼくの唇があっても、それは「偶然」で不可抗力だ。
転んだ原因、つまりは山形との八津の取り合いで腕を引っ張っていた矢倉にも責任があるのだから、そこにたまたま居合わせたぼくに「偶然ばったりぶつかって」も、そんなの自分ばかり責められても困ると、これまた見上げた逃げ口上を語って聞かせてくれたのだった。

「ほお、転んだ先に偶然ばったり、ねえ」

 だが、八津の努力が実を結ぶほど、階段長という人種はそんなに甘い相手ではない。

 それならさ、と矢倉はにやりと笑って、
「今夜は俺が転んだ先で待ってようかな。
『偶然』キスされちゃっても文句言わないし、『転んで』しがみつかれても、俺は喜んで抱きしめ返してあげよう」
などとツラツラと並べ立てた。

 そうして矢倉は墓穴を掘った八津のその手を掴むと、往生際の悪い恋人を強引に自分の胸に抱きこんで、
「じゃあな、葉山」
早々に連れて帰ろうとする。

 彼らの行き先には、シーツの海でも待っているのだろうか。

「矢倉〜っ、俺は待てって言ってる……、俺はここに残るんだからなぁっ」

 嫌がる八津の叫び声が抵抗虚しく学生ホールに響いたが、叫ぶ八津のその頬がほんのり染まって、それはそれでとても幸せそうだから、
「ご愁傷様〜」
ぼくは手を振って、笑って見送ってあげることにした。

 なんだかんだと言いながらも、矢倉と八津のふたりはやっと訪れた蜜月を楽しんでいるようなのだ。

 そんな彼らのうしろ姿が学生ホールから消えたあとのこと──。

「あのォ、それで結局、俺ってキスがヘタなんでしょうか……?」

 丸めた背中に哀愁漂う真行寺の暗く寂しい声が、細々と隣りから聴こえてきた。

「あ、まだそんなこと考えてたんだ?」

 ぼくが呆れたようにそう言い返すと、
「冷たいッス。葉山サン」
今度はいじけて、真行寺は椅子に「の」の字を書き出した。

「冷たいと言われても、コレばかりはぼくにもどうしようもないからねえ。
何なら正面からぶつかる覚悟でさ、思い切って三洲くんにでも訊いたらどうだい?
彼ならきみのこと良く知っているだろうし」

 三洲新の名が出た途端、真行寺はパッと嬉しそうな明るい笑みを浮かべた──が、途端、すぐさま沈んだ表情に変えて、また元のように俯いてしまった。

 いつの間にか、指で辿る「の」の字が「み」の字に変わっているのに気付いて、ぼくのほうが溜息をつきたくなってしまう。

「だって、葉山サン。勇気振り絞って訊いてみて、それで、やっぱりヘタだって言われたら、
俺、それこそ立ち直れないくらいショックですよ……」

──う〜ん、それでも、こればかりは三洲くんに押し付けるしかない。

「もう、仕方ないなあ」

 だから、ぼくは取っておきのアドバイスを真行寺に与えてあげることにした。

「だったらさ……──」

 瞬間、彼はすくっと立ち上がり、一目散に学生ホールを飛び出した。

 恋しい人を求めて、ただひたすらに走ってゆく。

「あの調子じゃ、もうちょっとここにいたほうが良さそうかな?」

 真行寺の行き先を思ってほんのりと温かい気持ちになりながら、ぼくは冷えたコーヒーをゆっくりと口に含んだ。

『下手だって言うなら、上手くなるまで練習させてもらえば?』

 何事にも練習第一、の運動部の真行寺である。
上達するためならば、時間と手間は惜しまないだろう。

 それより何より、恋人とのひとときは、極上の絨毯の上にいるようなものなのだ。
居心地良すぎて、時間の感覚など麻痺して当然。

「さて、と。どこに行こうかなぁ」

 今頃、真行寺は三洲に引っぱたかれつつも、上手くすれば夢の世界に逃避して、上手になるまでどうぞご指導お願いします、と天邪鬼の恋人相手に下手(したて)に出ては甘えに甘えて念願のキスの練習に没頭していることだろう。

「温室にでも寄って、時間を潰すしかないかなぁ」

 そうひとりごちりながら、ぼくは紙コップをくしゃりと潰す。

 今日は他人に当てられてばかり。

 よっこらしょ、と重い腰を上げ、学生ホールをあとにすると、いつしか吹いていたひとりぼっちの隙間風が人恋しさを掻き立てた。

 ふたりでいる温かさを知っている分、ひとりでいることが寂しくなる。

 だから、夕暮れの赤らむ空に向かって、つい、小さなボヤキが漏れてしまう。

 誰知れず、きみに届けたいこの想い──。

「ギイ、ぼくもキスしたくなっちゃったよ」

                                                         おしまい


material * 自然いっぱいの素材集



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
「キスをしましょう」はいかがでしたでしょうか?
このお話は、5555hits記念作品「Milk crown」の続編にあたります。

三洲の視点の「Milk crown」に対し、今回の「キスをしましょう」は託生の視点で書いてみました。
少しでも、その後のキス騒動を楽しんでいただけたら嬉しいです♪

今回、なんだか、託生的には(?)思ったよりラブラブにならなくて(笑)。
それに、またもやキスシーンには至らなかった……。
「このタイトルにして、なぜに〜?」と思いつつも、結構お気に入りのタイトルだったりして。
ご期待をしっかり裏切ってしまって、ともさま、すみませ〜ん(笑)。

それと。
寮に戻った託生を待っていたギイとのその後についてはご想像にお任せします(笑)。

この作品は、ともさまのサイト開設二周年記念として贈らせていただきます。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


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なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
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