一度目は、暗闇の中、突然に。

 二度目は、甘い告白にのせて、さりげなく。

 三度目は、ふざけ交じりに、確信犯の面持ちで。

「オレ、これでも手加減してるんだぜ」

 ギイの言葉が真実ならば、ぼくらは、まだ本気のキスをしていない──。


Our genuine kiss



 山の中腹に立つ祠堂学院高等学校の春は肌寒い。

『春眠暁を覚えず』と、古人だって「起きるのが辛い」とぼやくほどだ。
今朝、ぼくの瞼が重いのも、きっと今昔に渡って万人に訪れるべき春の日常のはず。

 ましてや、ここ祠堂の四月は、ぼくの生まれ故郷の一月遅れくらいの寒さを誇っている。
寝汚なくなるのも仕方がないだろう。

「託生、いい加減起きないと遅刻するぞ」

 聞きなれない声が、布団の暖かさに包まれて夢心地のぼくを呼ぶ。

──ぼくのことを呼び捨てにする人間は、この祠堂では利久くらい……。

 祠堂学院高等学校の寮は二人部屋が原則だ。
この部屋にぼく以外の人間がいたとしてもそれは当然なことで、おかしいところは何もない。

 だが。

「何なら、モーニングキスで起こしてやろうか?」

 利久では有り得ない耳に残るその声と今まで言われたことがない恥ずかしいその台詞に一気に頭に血が上って、ぼくはバネ仕掛けの人形のように勢い良く上半身を起こした。

「なんだ、残念。せっかく熱烈なキスで起こしてやろうと思ったのに」

 大きな違和感は当然至極。
だって、朝の日の光を浴びて金と紛う薄い茶色の髪をふわりとなびかせたギイの麗しい容貌が、ぼくの目と鼻の先にあったのだから。



 アメリカ育ちのクォーター、崎義一──ギイ。

 今度の部屋割りで昨日からの新しく同室になった、祠堂屈指の有名人。
誰もが溜息をつきたくなるような、その美貌。

 そのギイがぼくの身体を挟むように両手を着き、ぼくを見下ろす体勢で、優しげに目を細めて微笑んでいる。

 彼の人気は伊達じゃなく、いろんなところで影響を及ぼしているのだと、昨夜のことからも容易に伺えた。

 なのに、そんなギイにでさえ、
「崎、くん……。悪いけど、そこどいて」
ぼくは反射的に身を竦ませてしまう。

 ギイの真っ直ぐな視線から逃げるように、ぼくは背中をベッドヘッドに押し付けた。
両腕にびっしりと隙間なく立つ鳥肌──それは、見なくてもわかった。

「ギイ、だよ。託生。昨日約束しただろう」

 拗ねたような口調でわざとらしく唇を尖らしつつも、ギイは楽しそうに笑って言う。

「ギ、イ……。お願いだから」

 ベッドの軋む音が、耳に煩い。

「わかってるさ。託生との距離はひとり分空けるのがコツだってことは。
でも、起こすくらいでそんなに毛を逆立てられると、さすがのオレも傷つくなあ」

 それだったら、ぼくも同じ、だ。
ギイの台詞の最後の「傷つく」には、なぜか切ないくらいに胸が痛くなった。

「……ごめん」

 ぼくがギイを傷つけたのなら、ちゃんと謝るから。

──だから、ぼくから離れて行かないで。

「託生、そんなにマジに受け止めるなよ。
おまえがハリネズミみたいになるのは今に限ったことじゃないだろう?」

 うな垂れたぼくの姿に、今度はギイのほうが慌てて、
「そんなに辛そうな顔をしないでくれよ。オレのほうこそ、ゴメンな」
眉間に皺を寄せながら、真摯な面持ちで頭を下げて来た。

 ギイがぼくのベッドから手を離すとスプリングが揺れ、つられてぼくの心も揺れ動く。

 ギイに離れてほしいと頼んだくせに、いざ遠ざかる姿を目にしてしまうと、つい手を伸ばしたくなってしまう。

 彼がぼくから一歩退くたびに感じる風。
その空気の流れに、何とも言えない寂しさを感じてしまう──。

「ギイ……は悪くないよ」

 これはぼくの我がままなのだから。

「──ごめん」

 だから今度は頭を下げて、もう一度、ぼくは重ねて口にした。

 ギイに近くにいてほしいと心が叫んでも、全身で彼を拒否しようとする自分自身の本能をどうすることもできない。

 人間接触嫌悪症と名付けたギイは、ぼく自身の感情とその特異体質を分けて考えてくれようとしているけれど、彼の忍耐がいつまで持つか……。

 その、『いつか』を想ってしまうだけで、また哀しくなる。

「なあ、託生。これからオレたちはここで一緒に暮らすんだから、できるだけ我慢はなしにしよう。
オレが託生に近付きすぎて、それで例え殴られたとしてもそれはオレが悪いんだ。
おまえが気にすることないんだぞ」

「でも……」

「今だって、オレはおまえが人間接触嫌悪症だって知った上で近寄っているんだからさ。
どう考えたってそれはオレの身勝手だろう? だから、おまえはいつでも顔を上げてていいんだ。
いつか託生がオレに慣れてくれるまで、オレはいつまでも待つから」



 ぼくとギイは、昨日、初めてキスをした。

 あの時は、ギイがそんなことしてくるなんて思ってなかったから、突然のことに身体も認識するのに追いつかなかったのだろう。

 暗闇の中、初めて触れた彼の唇は温かくて──でも、次の時はぼくの身体が彼を弾いてしまっていた。
続けて重ねた唇に、無意識のうちにぼくの身体はギイの存在を排除しようと咄嗟に動いてしまっていたのだ。

 ギイは諦めずに、また不意を突いて三度目を仕掛けてきたけれど……。

──今朝、ギイの頬にぼくの手形が残っていなくて本当に良かった。

 ぼく自身、自分の身体の自由が利かない。それが時々、もどかしい。

 でも、そう思うようになったのは──。



「いつか、本気のキスをしよう。お互いの想いをありったけ込めた、そんな本物のキスをしよう」

「……いつか?」
「そう、いつか。遠くない未来に」

 Certainly. In the future not far.

 噛み締めるようなギイの呟きが、耳に残る。

 こんふうに、ギイが甘く囁いてくるから、ぼくは──。

 ギイがぼくの気持ちをゆっくり解いていく……。

 ぼくの心は優しさに包まれ、甘酸っぱい熱を含みながら、ギイという夢に具現のような存在を深く深く刻んでいく。

 まわりの景色が、まるで今日初めて朝日を浴びたかのように、いつもより明るく感じるのは春のせい?

 開けた窓から、山の澄んだ空気が舞い込んで、ぼくらの部屋のカーテンを穏やかに揺らした。

 ぼくは、いつか訪れる、そう遠くない未来に心を馳せる。

 ギイと交わす──本気の、本物のキス。

 本当にそんな日が来るのなら、ずっと諦めていた『明日』に心を躍(おど)らせるのも悪くはないのかもしれない。

「いつか、きっと。約束だ」

 いつか、きっと──。

 だから、今は、その日がぼくらに訪れることを心から願おう──。

「ってことで、これは約束手形としてもらっとく」

 時の流れが突然ゆっくりになった。

 花の香りを漂わせながら、ぼくらの上に春風が訪れる。

 気がつくと、ぼくの唇にギイの吐息が重なって──。

 視界が、淡い茶色に包まれた……。





「託生、早く用意して食堂に行かないと席がなくなるぞ」

 ギイがドアを指差して、
「始業式から遅刻したくないだろう?」
新しく始まる日常へと、ぼくを誘(いざな)う。

「すぐ着替えるよ」
「そうしてくれ。オレは餓死する寸前なんだ」

 昨日の夕食を食べ損ねたギイは、有り難い友人たちの差し入れのお陰で昨夜は何とかお腹の音を抑えることに成功したらしいが、今朝の空腹にはどうにも我慢ならないらしい。

 その気持ちはぼくも同じ。
ぼくだって昨日の夕食のカレーライスを一口しか食べていないのだ。

 だから、今朝の朝食を抜くなんて考えられなかった。

 この空腹状態で今日一日無事に過ごせる自信など、ぼくには全然なかったから──。





 ギイと連れ立って食堂に行くと、
「おはよう、ギイ。昨日の今日にしちゃ葉山も元気そうだな」
昨年度のギイの同室者であり自他共に認める相棒である赤池章三が、
「席は取っておくから早く来いよ」
トレイを手に、先を急ごうと前を行く。

 が、その足をピタリと止めると、くるりと振り返り、
「ギイ?」
章三は無二の相棒に不信の目をジロリと向けた。

 和食で統一された湯気のたつ温かい朝食を目にして、
「託生、こっちだ」
「ギイ、そんなに焦らなくてもご飯は逃げないよ」
ぼくを急かせながら、配膳の列の最後尾に並ぼうとするそのギイの腕を、章三は咄嗟に掴み、
「その顔はどうした?」
美貌と謳われる容姿が今朝に限って幾分崩れているのを怪訝そうに見止める。

「ああ、これか?」

 ギイは赤く腫れる頬に手をやると、
「りっぱな約束手形だろ?」
軽くおどけてニヤリと笑った。

「その締りのない顔にその痣は似合わないぞ」

 そして、赤池章三は呆れ混じりに、「葉山、おまえか?」とさらりと放ってきた。

 ぼくの返事よりも先に、
「章三もこの幸せを分かち合いたいのか?」
ギイが極上の笑顔で尋ね返して来たので、ますます章三は怪訝な顔をして、
「その顔でそれを言うか。まったく気が知れん」
綺麗ばっさりギイの甘い誘いを切り捨てる。

「そもそも、どうして僕がそんなものをおまえと分かち合わなきゃならないんだ」

 この章三の言葉に、すぐさまギイも頬の緩みを引き締め、
「そりゃそうだ」
至極まじめな面持ちで頷いた。

「章三に分けるなんてもったいない」

 ギイはひとりで納得している。

「だいたい、葉山と同室になったくらいでそんなに浮かれるギイがおかしい」
「章三、オレは悲しいぞ。おまえにこの喜びがわかってもらえないとは」

「そんなのわかってたまるか!」

 なんだかんだと言いながら、逐一、ギイの言葉にちゃんと反応している章三だった。

 そんなふたりを尻目に、ぼくは美味しそうな朝食を目指して、積み重ねられたトレイに手を伸ばす。

「ぼくは先に行くよ」

 そして、ギイと章三から逃げるように列に紛れようとすると、
「託生、待てよ」
ギイがぼくの制服の裾を僅かに掴んで、軽く引いた。

「ちょい待て、ギイ!」

 祠堂きってのハンサムと名高いギイの腫れた頬に気付いた周りの生徒の中には息を呑む者もいて、
「お先に!」
その場の空気に耐えられず、咄嗟にぼくは背を向けた。

──肘鉄はちょっとやりすぎだったかも。

 小さく、「ごめんね」と舌で転がすように呟くと、途端に笑いが込み上げてきて、自然と笑みが零れてしまう。

「託生、笑うな。あ、いや、笑ったほうがいいんだけど……」

 滅多に見られないシドロモドロのギイの落ち着きのない姿に、目を見張る外野たち。

 ギイは困ったように頭を掻いたのち、それから、
「いいな、その顔」
花が綻んだような幸せそうな笑顔を浮かべたのだった。

 途端に、ぼくの笑みも深くなる。

 ギイのその春の陽のような微笑みに、甘い予感を感じて──。



                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの5000hits記念作品「Our genuine kiss」はいかがでしたでしょうか?
これは、二年生の春、入寮日の翌日の朝のお話になります。

両思いになりつつも、まだ託生の人間接触嫌悪症も健在な時期。
これから、よりラブラブになるであろうギイと託生。
彼らの初々しい春を表現できたら……と思いながら書きました。

ふたりの「本気の、本物のキス」って、いったいどんなのでしょうねえ(笑)。
詳細はみなさまのご想像にお任せすることにして……。
書いてて、ちょっと恥ずかしかったです☆

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



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