今日、この日の祝福を



 山の天気は移ろいやすい。
冬の寒さは尋常ではなく、ましてや雨に濡れた肌に研ぎ澄まされた風は、突き刺すような痛みを伴う冷たさだ。

 人里離れた山の中腹に立つ祠堂学院高等学校も、扉を開ければ外気の「冬」がすかさず入り込んでくる。

 寒さが苦手なぼくとしては、昇降口に立った時点で、一刻も早く寮の部屋に戻って温まりたいと思ってしまうのだった。

「やっぱり雨になったか。託生ィ、おまえ傘持ってきた?」

 同じ寮の部屋の片倉利久が、外の天気に眉を寄せつつ、外履きに履き替えるぼくに尋ねた。

「こんな寒い雨、濡れるなんて冗談じゃないからね」

 すかさず、ぼくが鞄の中から折りたたみ傘を取り出すと、
「さっすが託生さま、仏さま。ついでに俺も入れてくれえ」
無邪気な顔をして利久が、両手を合わせて拝んできた。

「長身の利久を入れたらぼくが濡れるじゃないか」

 ぼくが無慈悲にも冷たく追い払うのはいつものこと。

「頼みます、この通り。ちょこっと頭が入るだけでいいからさ。
もちろん俺が傘持つし、託生を濡らしたりしない。それに……絶対、触らないから」

 人間嫌いのぼくに平気で話しかけてくる利久は、ぼくとの付き合い方を理解している奇特な寮の同室者だった。

 どうしようか、と、ぼくには珍しく思案していると、いつの間にか昇降口の人口密度が高まっていた。
ぼくのクラスに割り当てられた靴箱周辺に漂う空気が、ぼくの苦手な華やかなものに変わる。

「ほら、章三。これ使えよ」

 悔しいことに、ぼくにはその声だけで、それが誰だか振り向かなくてもわかってしまった。

 アメリカ育ちの崎義一──ギイ。

 彼が近くにいるだけで周りの生徒の視線が痛いくらいに突き刺さる。
ぼくが見られているわけではないのだと十二分に理解していても、あまりにもあからさまな周囲の態度に落ち着かなくなる。

「僕と相合傘でもしようと言うのか?」
「それもいいが、今日のところは章三に譲るさ。
明日の追試、今度は風邪で受けられませんなんてことになったら目も当てられないからなあ」

「見られる」ことに慣れているギイは、この程度の注目など他人事なのだろうか。
ギイの周辺はいつもたくさんの人で溢れ、とても賑やかで楽しそうだった。

 そして、その友人の筆頭には、ギイと寮の同室者である赤池章三がいた。

「傘はそれ一本なんだろう? 僕に貸してしまったらおまえが濡れるだろうが」
「オレは追試、受けなくていいからな」

「追試、追試と強調するな」
「お気の毒様だな、章三。得意の数学で追試なんてさ」

 次期風紀委員長の章三も、次期評議委員長と噂に高いギイには形無しのようだった。

 理不尽な追試にお世辞にも機嫌がいいとは言えない章三に、
「うわ〜、赤池って明日追試? 珍しいじゃん」
人懐っこい利久が、章三の失態に無謀にも塩を塗るようなことを言う。

「片倉、よく聞け。これは不可抗力による結果の追試なんだ。
断じて僕の実力が至らなかったわけじゃない」
「インフルエンザで寝込んでた時に抜き打ちテストなんて、章三も運がなかったよな」

 ギイは誰にでも──特に彼の相棒には、優しかった。

「そういや、一週間くらい休んでたよなあ。インフルエンザは確かに脅威だわ。
天下の風紀委員の赤池章三が追試でも、それじゃあ仕方ないか」

 利久は一人納得して、「頑張れよ〜」と章三の肩をポンと叩く。

「片倉は葉山に入れてもらうのか?」

 級友の激励を渋い顔で受ける章三に苦笑しつつ、ギイがふいに視線をぼくの傘に向けて利久に尋ねる。

「今さ、頭だけでも入れてくれ〜って託生に交渉中なんだ」

 ぼくに訊いても応えないことを、クラスメートたちは承知している。

──当然、ギイも。

「片倉は図体デカイからなあ。ま、せいぜい傘の持ち主を濡らさないように気をつけろよ」

 それでも、人間嫌いと称されるぼくを、他のクラスメートと同じように扱ってくれるのもギイならでこそ、だった。

「それじゃ、これ」

 そう言って、ギイは自分の折りたたみ傘を章三の手に渡すと、
「評議委員会でやり残したこと思い出したから先に帰ってくれ。
とにかく、おまえは病み上がりなんだから、今日くらいは明日に備えて養生しろよ」
くるりと昇降口に背中を向けた。

「ギイ、おまえだって委員会の引継ぎ書類の整理で、昨日はほとんど寝てないじゃないかっ」

 淡い茶色の髪を揺らし、ギイは振り返らないまま章三に手を上げて何度か振る。
早く行け、とばかりに、しっ、しっ、と犬でも追い払うように。

 その髪や瞳の色彩のように、ギイが存在する場所はとても明るく輝いていた。
優しい眼差しが周りの空気を包み込むように、温かみを与えてくれる。

 そんなギイは誰もが憧れる存在で、祠堂でも指折りの人気者だった。



「託生、帰ろうぜ」

 手の中の傘を奪われつつ、
「仕方ないな」
利久がぼくの傘を開くのを溜息を吐きながらも認めてやる。

 外に出た途端、冷たい雨が傘を叩いた。

 息が白い。

 ふと視線を感じて振り返ると、利久がぼくのほうに傾ける傘の金具の向こう側に、渡り廊下を行くギイが見えた。
傘から滴り落ちる水滴に滲んで、この一年間で幼さが取れてきた彼の美貌が歪んでいる。

──まさか、こっちを見てる……?

 そんなはずはないとわかっていても、それでも期待してしまう。

 ギイに期待などしても無駄なのに……。

 だって、彼は誰にでも優しいのだから。



「託生、濡れてないか?」

 傘の傾きをそっとぼくに近づけて、利久が気遣う。
利久の左肩はすでにしっとりと濡れていた。

「そんなに気にしなくてもいいよ」

 ぼくは傘の柄を指先でつんと押し返した。

「利久が風邪で寝込んだりしたら、それこそ同室のぼくが迷惑するじゃないか」
「そっか、そうだよなあ。じゃ、お互い濡れないようにしてできるだけ早く寮に帰ろうぜ」

 利久は、ぼくがいくら冷たく言い返しても、いつだって馬耳東風だ。

「託生、おまえいい奴だなあ」

 勝手にぼくのことを湾曲して認識するのもいつものことだった。

 利久から再び渡り廊下に視線を向けると、すでにそこにはもう誰もいなかった。

 傘から垂れる水滴は増すばかり。

 悴(かじか)んだ手が痛いくらいに寒かった。





 夕食を済ませたあとの団欒の時間は、誰もがまるで押し競饅頭(おしくらまんじゅう)をするかのように固まり合う。
その様子は、まるで人肌を求めて寄り添っているようにも見えた。

 冬を越す動物は、互いの熱で暖をとり、寒さに耐える。

 寮内は暖かくても、外は冬山である事実が、本能的に彼らを集めるのかもしれない。

 そんな彼らを尻目に、暖かい飲み物を求めて彷徨い、ひとりになりたくて廊下をふらつく。
行き着く先は、玄関ホールの隅に置かれた木製の長椅子。

 こんな寒い夜に、人ごみを避けつつ、建物の中では比較的冷え込む玄関ホールにわざわざ足を向ける物好きは多分、ぼくくらいだろう。

 とはいえ、寒がりのぼくがここに座っていられるのも、手の中にある暖かい珈琲のお陰かもしれない。
紙コップの熱の伝わりように、いつもなら「熱過ぎる!」とぼやくところだが、今はその熱さが心地良かった。

 一口飲むと胃に染み込むように身体が温まる。

 寮の外と中は、雲泥の差だ。

 ガラスの扉の向こう側は、まるで嵐だった。
雨には雪も混じっているように見えた。

 いっそ雪になってしまったほうが濡れずに済む分寒くはないと、気温よりも体感温度を主に考える生徒も多い。
彼らの言葉を信じるなら、雪になりそうなギリギリの雨、つまり今日のような天気が最も寒いことになる。

 そんなことをぼんやりと考えていると、玄関ドアのガラス越しに蠢(うごめ)く黒い塊が現れた。
厳冬の嵐から逃げて来たひとりの生徒が、勢いよく玄関ドアを開けて、寮内に飛び込んで来たのだ。

 彼の髪からは雫が滴り落ち、顔に張り付くほど濡れていた。
制服も当然濡れ鼠状態で、肩から袖にかけてに部分と、ズボンの裾が特に酷い。

「うう〜、生き返るぅ〜」

 焦げ茶の髪を振り回す仕草は犬のようで、周囲に水滴が散らばって飛んだ。

「うわっ」

 ぼくの足元まで外の寒さが飛んで来そうになって、思わず声を上げると、
「悪い、まさか人がいるとは思わなくて]
相手の生徒が驚いて、
「かかったか?」
雨に濡れた顔を振り上げた。

「あ……」

 見ているだけで凍えそうなズブ濡れの鼠はギイ、だった。

「ああ、葉山だったのか。ゴメン、雨そっちに飛んだか?」

 ギイの声はまるでビブラートを効かせたバイオリンに音色ように、ぼくには魅力的に響いて聞こえた。
耳に入れて心地良い声は、冷え切ったぼくの心さえ温めようとしてくれる。

「おまえ、こんなとこにいて寒くないのか?
片倉が以前、葉山のことすごい寒がりだって言っていたけれど、もしかしてあれはデマか?」

 身体中、雨で濡れたギイのほうが断然寒いに決まっているのに。

「……これ、飲んでるから」

 ぼくが寒がりだって気にしてくれる。

「いいモン飲んでるなあ。一口くれよ」

 ギイの本来の淡い色の髪が、今は濡れて濃い茶色になっていた。
外から帰って温かみが増したのか、彼の薄茶の瞳が少し潤んでいる。

 ぼくとはずいぶん違うギイの淡い色彩。

 その色彩がちょっと手を伸ばせばすぐ届くほどに、発した声の震えが肌に感じてしまうほどに、こんなにも近くに彼がいるなんて、まるで夢のようだった。

「もらっていいか?」

 ぼくと同じくらいの背の彼が、椅子に座るぼくに視線を合わせるように床に膝を着いて屈む。

 ギイが手を差し伸べた。

 ぼくはまるで魔法にかかったように、その手に紙コップを差し出した。

「あっ……」

 ほんの少し、触れた指。

 誰かに触れたことへの嫌悪よりも何よりも、ただギイの指先の冷たさに驚いて、
「全部あげるよ」
ぼくはとっさにそれだけ言葉にしていた。

「葉山だってまだほとんど口にしてないんだろう。本当にいいのか?」

 一口しか飲んでいない紙コップの中身の量の多さにギイが気付いたけれど、
「いいよ」
今のぼくがギイにしてあげられることと言えば、唯一、これくらいしかないのだから──気にせず受け取ってほしかった。

 いつもなら、ギイに何かをあげるなんて考えられなかった。
ギイに何かをあげられるほどぼくは彼とそれほど親しくないし、ギイがほしいと望めば彼はすべてを手に入れられるのだろうから。

 だから、こんなことはもう二度とないかもしれない──。

「温かいな」

 ギイの喉が上下に動くたび、外の寒さを物語る彼の紫色の唇にだんだんと赤みが増してゆく。

──こんなに身体が冷えてしまって……。それでなくても今は風邪が流行っているのに。

 ぼくの珈琲を最後の一口まで一気に飲み干すと、ギイは微笑んでぼくを見た。

「Thanks」

 その言葉に重なるように、
「ギイ、帰ったのか? 何だ、その格好は! 早く着替えろよ、風邪引くぞ」
相棒の帰りを案じてやって来た章三の怒鳴り声が玄関ホールに反響する。

「おっと、煩いのがやって来たな」
「何が煩いの、だ。まったく、僕に傘を貸したりするからこんなズブ濡れになったんだろうっ」

 用意周到な章三らしく、タオルをギイの頭に投げてよこす。

「オレは日本の冬なんかにやられたりしないぞ」

 すっくと立ち上がるとギイは濡れた手をわざと振り、章三に向かって水滴を飛ばした。

「言ってろ!
いくらニューヨークの寒波に慣れてるって言っても、そんな格好じゃ信用なんかできやしないね」

 ギイが章三に引き摺られるようにして階段に向かって行く。

 途中、振り返りざまに紙コップを軽く持ち上げて、
「じゃ、またな、葉山。このお礼はあとで必ず倍返しするから」
声を高めると、ギイは花が綻んだような笑顔を浮かべた。

 そのギイの手元に目を留めた章三が、前髪を滴(したた)らす上機嫌のギイとぼくを見比べると、途端に口元を緩めて、
「葉山も早く部屋に戻れよ。こんなとこにいたら凍え死ぬぞ」
珍しく、ぼくに話しかけて来た。

「ほら、ギイ、おまえは四階に直行だ。見てみろ、完全にビショ濡れじゃないか。そのうち熱出すぞ」

 そして、ふたりの声がだんだんと遠ざかる中……。

 最後に──。
 
「平気さ、オレの心はぽっかぽかだ」

 ギイの弾んだ声が届いた。





 この言葉はぼくに残してくれたのだと、そう感じたのは気のせい──?

 廊下の影ではっきりとは見えなかったけれど、ギイが一瞬振り向いたように見えたのも、見間違い……?

 あの時の、ギイの指先はとても冷たかった。

「お礼なんて──」

 本当に、『ありがとう』と言いたいのは、ぼくのほうだ。
ギイの言葉ひとつひとつに何度救われたことか。

 ギイはぼくを特別無視しない代わりに、特別優しくするでもない。

 他のクラスメートと同じスタンスで親切にしてくれるそのことにぼくがほんの少し寂しさを覚えたとしても、それはぼくの我がままなのだ。

「お礼なんていらないよ」

──その代わり、ぼくを見て。

 こんな身勝手な言葉など、絶対言えないことなんかわかっている。

 望まなければ、ぼく自身、苦しむことがないことも。

 それでも、見つめることだけは、許してほしい。



 もしも、神さまという存在が本当にいるとして、こんなぼくでも生まれて来たことに祝福を与えてくださるとおっしゃるなら。

 今日、ひとつだけ願いを叶えてくださるのなら……。

 今日、この日の祝福を──ぼくではなく、どうか彼に。

 どうか、ギイに──。

「ギイ……が、熱など出して寝込みませんように」

 彼の健やかな日々をどうぞお守りください……。
どうか、ぼくのことなどよりも。

 願わくば……。

 ギイの存在こそが、ぼくの一条の光なのだから──。



                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。
当サイト、moro*onの開設一周年記念作品「今日、この日の祝福を」はいかがでしたでしょうか?

今回は、一年生の時のタクミくんの「片思い」をテーマに書いてみました。
ところどころに何気なく、ギイとタクミくんのお互いの「想い」、
そして、章三、利久を含めた、彼らの今後の力関係(笑)を匂わせたつもりです。

ちなみにこれは、タクミくんの誕生日当日のお話となっております。
誕生日だって気付いていただけましたでしょうか(笑)?

多分、「誕生日らしくない〜」とおっしゃる方も多いと思います。
でも、片想い中の設定なので、お許しを〜。(お辞儀)

そう言えば、ギイからタクミくんへの「倍返し」、いったい何だったのでしょうねえ。
あのギイ、だもんね。知力、財力、きっとフル活用してくれることでしょう。
期待しちゃいますわ(笑)。

たくさんの方々のお陰を持ちまして、moro*onは一周年を迎えます。
この作品は、moro*onを支えてくだる方々へ、心から感謝をこめて贈らせていただきます。

いつもご贔屓にありがとうございます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。

by moro



moro*on presents


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