「懐かしいなあ」
師走の声が巷での賑わいをかもし出し、大通りの外灯も赤と緑で彩られた二等辺三角形の装いでその一役を買って出ていた。
早いもので今年も一月を切り、クリスマス戦線の本格的な売り込みも始まっている。
そんな人ごみを掻き分けて、今日、どうしてもここに来たかった理由がぼくにはあった。
一昨日、いつものようにバイオリンを練習していたぼくはついE弦を切ってしまったのだ。
加えて不注意なことに弦の予備を切らしていたため、涙を呑んで昨日一日練習を休まなくてはならなくなって。
だから、一日でも練習をしたいぼくとしては、どうしても今日下山して、街一番の大きな楽器店に走らねばならなかった。
とはいえ、すでに目的の弦を買うと、かなかな街に出られないこともあって、楽譜に目が行ってしまう。
次はどんな曲を練習しようか、などど考えているだけで、時計の針はあっという間に進んでしまうんだ。
そういうわけで、バイオリン、フルート、クラリネットなどの弦楽器、管楽器などをガラスケースの中に陳列する四階フロアの一角に、さっきからぼくは佇んでいる。
一階にはCDやDVDなどのソフトが所狭しと並んでいるこの店もこの四階に上がるとその様子が一変して、この静けさは感嘆に値する。
一階の客の賑わいが嘘のように、静かに流れるバロックのBGMが耳に心地よく聞こえるほどに閑散としていこのフロアは、ピアノや電子ピアノが並ぶや三階の雰囲気とも違うし、ましてや、二階のギター、ドラムス、ベースといった軽音楽に使われる楽器に群がる派手な外見の客たちの楽しげな会話など聞こえない。
真剣にガラスケースの中を覗いている人や、楽譜を眺めている人がほとんどだった。
そしてぼくも例に漏れずに、壁一面に拡がる本棚から、いくつか楽譜を出しては閉まう動作をずっと繰り返している。
そんな中、ふと目に付いた一冊のバイオリンの教本を手にして、
「確か低学年の時、これ弾いたんだっけ」
パラパラと捲って、ひとつの曲に指を止めた。
ビバルディのコンチェルト、イ短調の「Concert in a moll」──。
テンポのいい華やかな曲だ。
出だしf(フォルテ)の旋律を追っていくと、mf(メゾフォルテ)になり、スタッカートで歯切れを良くした後、p(ピアノ)となって音を萎む。
見慣れた記号が続く中、そのpのそばに書かれた「dolce(ドルチェ)」が目に付いて、ふっとぼくの口元が緩んだ。
この前、下山した時にギイが連れて行ってくれたレストランのメニューにも、この単語が載っていたことを思い出して──。
ギイが選んだその店は、ぼくにはちょっと敷居の高いイタリアンレストランで、イタリア語のメニューはさっぱり読めないから、すべてギイにお任せ状態。
ピザやパスタくらいしか、イタリア料理が想像できないぼくである。
肉料理や魚料理がフレンチレストランのコース料理のように出てきたときにはもう唖然としてしまった。
一番驚いたのはパスタが前菜として出てきたことだ。
あれには参った。
ブラックホールのギイの付き合いも、なかなか大変なのである。
『こういうビバルディの華やかな曲の時のAは開放弦を使ってキンキンキラキラ、金属音で弾くんだよ』
かつてぼくにバイオリンの指導をしてくだっった恩師の言葉が脳裏に蘇った。
この曲の「dolce」も、先生は何度も解釈してくださって、その度に弓の先で弾く努力をしたものだった。
楽譜にイタリア語が出てくることは珍しくない。
作曲家がイタリア語圏で活躍した人だと思えば納得な話である。
だから、音楽表現として出てくるこの手のイタリア語だったら、ぼくにだって読めるのだ。
だが、まさか、ぼくが読める数少ないその単語をレストランで目にするとは……。
それも、料理の項目として。
ただし、料理の項目が読めても、メニューの中身はちんぷんかんぷん。
メニューを前につい笑ってしまったそんなぼくに、「楽しそうだな」と目を細めて微笑んだギイの穏やかな笑顔がとても印象的だった。
確かにイタリア語なんだから、イタリアンレストランで見かけてもおかしくはないんだろうけど。
でも、音楽と食事のミスマッチが何ともぼくには面白かったのだ。
今、その「dolce」を前にして胸が高鳴るのは、あの時のギイが余りにも幸せそうに笑ったから。
薄い茶色の瞳が、ほんのりと金色に輝いて、目尻をほのかに朱色に染めて笑ったギイに、あまりにも見惚れてしまったから。
恋人と過ごす時間こそ、「dolce」の気分なんだと、今のぼくにはよくわかる。
dolce──。
それは、「甘く優しく」……。
おしまい
material * NOION
*** あとがき ***
最後までのお付き合い、ありがとうございました。
「dolce>」はいかがでしたでしょうか?
話のまとまり上、短くなってしまいました。
ホントは違う話のスパイス的に使おうと思っていた 「dolce」ネタ(笑)。
でも、短いわりにはしっくりまとまったので、結構気に入ってます。
バイオリンの弾き方として、弓先(弓の上、三分の一)で弾くと柔らかい音が出ると言われてます。
「dolce」などの優しげな軽い音を出す時は、弓元より弓先を使う方がいいようです。
あと、バイオリンでは、A弦の開放弦のA音はあまり使わないようです。
ビブラートもかからないし、音質的に金属的に響いてしまって曲に合わない……というのが理由らしいです。
作品中に出てきたビバルディはそのキンキンキラキラした音を求めた曲で、故意に開放弦を使う曲です。
確かに音質が違うんですよねえ。
バイオリン、弾ける人ってマジに尊敬しちゃいます♪
では、最後になりましたが──メリー・クリスマス☆
by moro
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