「あ……」
白い肌にうっすらと浮かぶ桜色の印。
ぼくの心臓が、どくんと跳ねた。
「三洲くん、それ、やばくない?」
移動教室から戻ってきたばかりの教室で、ぼくは見てはいけないものを覗き見してしまった気分を味わっていた。
次の体育の準備の当番である三洲とぼくは、化学の実験の片付けを免除してもらい、早々に教室に戻って来たそのつかの間のことだった。
昨夜、就寝時間後に部屋を抜け出て行った三洲。
その事実を知っている彼の同室者であるぼくにとって、その何とも色っぽい首筋の印は、してはいけない想像を掻き立てるシナモノで、ぼくは目のやり場に困ってしまう。
「ったく、余計なことを……」
教室の片隅の「落し物」箱から小さな鏡を取り出した三洲は、己の首筋を確認すると眉間に皺を寄せながら舌打ちする。
「みんな、そろそろ来ちゃうよ。早く着替えちゃいなよ」
何となく、ぼくのほうがイケナイことをしてしまったような気分になって、つい顔が火照ってしまう。
開いたままの入り口を気にするぼく。
何をどうしたらいいか、あたふたと身体を揺するそんなぼくを、冷静に見つめる三洲。
これでは、どっちが当事者かわからない。
「葉山、じゃんけんをしよう」
「へ?」
突然、三洲が右手を差し出した。
「せぇのっ、じゃんけん……ぽんっ!」
何がなんだかわからないまま、つられてぼくはパーを出す。
勝負は簡単についた。彼の勝ちだ。
だが、三洲は続けて、
「あっちむいて、ホイっ!」
人差し指を横に向けてきた。
またまたつられたぼくは、つい、その指と同じ方向に顔を向けてしまった。
いったいぼくら、何やってんだろう、と思った途端、ぼくの頬に三洲の髪が触れた。
「な、何……?」
見ると、まるでドラキュラが首筋に喰らいついて血を吸っているような場面にぶち当たる。
三洲の唇が触れたところが熱を持ってじんじんと痺れた。
吸われてる、と気づいた時、一瞬、頭の中が真っ白になって、
「うわあああああああぁ〜っ!!!」
力一杯、三洲を突き飛ばして、ぼくは床に転がるように教室の入り口近くに後退(あとずさ)った。
「おまえたち、何やってんだ……」
振り向き仰ぎ見ると、そこには章三をはじめとするクラスメートたちが集まっていた。
「ただのじゃんけんだよ。勝ったほうが負けたほうに嫌がらせをするっていうオマケ付きの」
「はあ〜? イヤがやせ?」
「そう。ほら、葉山だって俺にしてるし」
そう言って、三洲は何と、首筋のキスマークをクラスメートの前に披露してみせた。
「おいおい、危ないゲームだなあ」
いかにも呆れたと言わんばかりの章三に、
「たまにはお遊びも必要さ」
三洲は優雅に髪を掻き揚げ、わざを首筋を強調するような仕草で、観客の好奇心を盛り上げる。
「お遊びはホドホドにしておけよ。な、葉山」
「はあ〜?」
いつの間にか、事態はあらぬ方向へと軌道を変えていたのだった。
一日が無事に終わり、夕食前の寮の部屋でのこと。
「三洲くん、やってくれるよね。ひどいよ。
ぼくはあれから『高嶺の花にキスマークつけたツワモノ』ってからかわれたんだからねっ」
「いいじゃないか、へるもんでもないし」
「ああ、そうですとも。何も減ってはおりませんよ。
少なくともぼくは、『生徒会長に吸われたヤツ』として『果報者』とまで言われましたっ!
お蔭さまで、あらぬ噂の渦中の人だよ」
「じゃ、減るどころか、役得じゃないか」
「どこがっ!」
三洲に憧れるヤカラならともかく、コレはぼくにとってお荷物でしかない。
「滅多に体験できないってこと。まず、この先絶対ありえないコトには違いないな」
「そう願いたいね」
でも。
「葉山、俺は崎に貸しが溜まってるんだが?
そのひとつを返してもらったところでまだまだ清算には程遠いぞ?」
そう言われてしまうと、今までのあれこれでお世話になっている身の上では、これ以上強気には出られないのだった。
だから、せめて。
「二度目はナシだよ」
このくらいは言わせてほしい。
「はいはい。確かに、この手は二度とは使えないだろうしな」
木は森の中に隠せ、とはよく言ったものだ。
──隠そうとするから見つかってしまう。それなら堂々と見れればいい
三洲にとっての苦肉の策だったのだろう。
「当然、アイツにはお仕置きしなくちゃな」
三洲は楽しそうに唇の端を上げて微笑んだ。が、その目は少しも穏やかなソレではない。
今後の真行寺の哀れな姿が目に浮かぶ。
「どうぞ、お手柔らかにね」
その悲惨な姿が容易に想像できてしまう点では、本当に申し訳なかった。
──でも、真行寺くんにも責任はあるんだから。
そう、彼がすべての元凶には違いないのだから……。
「そろそろ行かないと不味いな」
夕食時で賑わう食堂へ三洲と連れ立って足を踏み入れる。
「さすがに混んでるね」
「出遅れたからな」
その出遅れた原因をまた思い出したのか、三洲は再び不機嫌そうに目を吊り上げた。
「葉山、こっちふたり分空いてるぞ」
章三が手を上げてぼくらを呼ぶ。
人の波を掻き分けて席に着いたところで、
「よっ、葉山。嫌がらせの例のブツ、見れてくれよ」
矢倉がぼくの襟を引っ張る。
「うへぇ、しっかりついてんなあ」
「もう止めろよ。食べられないじゃないか」
「これと同じの、三洲にもついてんだろ?」
さすがに三洲の襟に手を伸ばす勇気は矢倉も持ち合わせてはいないらしい。
ぼくに対する態度とは差があるのには癪だが、これ以上三洲の機嫌を損ねると、真行寺への報復がますます過激になりそうな予感が。
彼だって、わざとつけたんじゃないだろうし。……と、願いたい。
だって彼らはトクベツな関係なのだから当然そういうこともあるわけで……。
これ以上、とある想像を追及するのは止めようと、目の前のカレーに意識を戻した時、
「おい、葉山、あれあれ」
肘で突付いてきた矢倉の視線の先には、静まり返った集団があった。
中心には、遠目でもしっかり目立つギイの痩身。
それを囲む一年生らしき生徒たち。
「相変わらず、ご苦労なこって」
矢倉が心底同情しているとわかる、普段の彼らしくない低めの声音が聞こえてくる。
「いやに静かじゃないか? どうやらあちらさんたち、様子がおかしいようだな」
カレーで汚れたスプーンを握り締めたまま、章三が敏感に何かを察していた。
注目の集団のメンバーたちは次々に夕食のカレーを受け取ると、空いた席を探すためにあたりを見回していた。
「おい、ギイ。ここが空くぞっ」
突然、隣りで声を張り上げた矢倉が、
「ま、ヤツの気持ちもわからないでもないからな」
そう言いながら、ぼくの肩を軽くたたいて席を立った。
矢倉のカレーで汚れた皿が消えた途端に置かれた山盛りの手付かずのカレー皿。
いつもなら、ギイひとりだけが抜けて別の席に着くと途端に不満な表情をみせる下級生たちなのに、今日は張り詰めた空気が和らぐように、そそくさとまばらに空いてる席にそれぞれが散っていく。
「お守りも大変だな」
敏感な章三がその場の雰囲気に気づかないはずがないのに、何事もなかったようにいつもどおりにギイに声をかけた。
「何か変わったことがあったのか?」
相棒に尋ねるギイの視線は真摯なものだった。
「別に何も。ああ、でも今日は珍しいもんを見れてもらったかな」
「珍しいもの?」
わずかに寄せる眉間の皺。
こんなに近くにいるぼくだからわかる、眼鏡の奥に隠されたギイの訝しげな表情。
「おまえも見せてもらえばいいよ。三洲の首筋。早く見ておかないと消えちゃうぜ。
なんたって葉山がつけた傑作らしいから」
こんなとこでそんな話をわざわざふるな、とぼくは叫びそうになったが、「崎も興味あるのか。ほれ、見たいのなら見せてやってもいいぞ」と不遜な態度で首を反らす三洲。
あ……、と声を出す暇などなく、ぼくは小さくなるしかなかった。
「ふうん、なかなか三洲にしちゃ色っぽいものだな、噂以上だ」
その淡い印にほくそ笑んでギイが言う。
「罰ゲームにしちゃおもしろいな。今度、俺もやってみようかな」
ざわり、と動いたのは、周辺の空気である。公衆の面で、爆弾発言もいいとこだった。
ギイはいつでも注目の人だ。
いつだって誰かが見ているし、耳をすましている。
「ゲームはじゃんけんだったって?」
本人たちはいたって談笑中。
「あっちむいてホイ、だ」
「なるほど。それは絶妙のシチュエーションだ」
極上の笑みさえ浮かべている。
「三洲、しばらくソレ、大事にしろよ。滅多にない珍事なんだから」
ギイがにこやかに微笑んで言う。
その笑顔、誤魔化しじゃないよね?
対する三洲も、惚れ惚れするほどの鮮やかな微笑で返しながら、
「そうだな、いい経験したよ。隙を見せたら足元掬われるってな。
たかが罰ゲームだが、それなりに楽しめたかな」
ちょっと(?)張りのある声で応えていた。
「まだお楽しみはこれからなんだろう?」
ギイが笑いかける。
「想像にお任せするよ」
三洲もにっこりと返した。
「葉山」
呼ばれた声に振り向くと、疲れた表情の章三が溜息をついたところだった。
「何?」
「何、じゃない! おまえ、今夜は何が何でも部屋を抜け出してギイのとこに行け」
「でも、今夜は課題が……」
「なら、教科書持参でギイを訪ねろ」
章三のこの緊張した表情。
やっぱり、あのギイの笑顔は──。
「やっぱりあれ、怒ってるんだ?」
「一年どもを蹴散らすくらいには、な」
「笑ってる、けど?」
「あれが笑顔に見えるか? 僕には嵐の前の静けさにしか見えないね。
頼むから、今夜だけは行ってくれ。僕が許す」
章三に許されても、困るんだけど?
「許してくれちゃうんだ?」
「いつものことだろ?」
なかなか直接話せないギイとぼくの橋渡しをしてくれる、心強いギイの相棒。
「そうでした。いつもお世話になってます」
ぼくは、ぺこりとお辞儀をしたのだった。
就寝前のざわめきさえ、部屋の中までは入れない。
三階のゼロ番のギイの部屋には、ぼくと。
いつものように……、いつでも、ぼくを温かく迎えてくれる、この部屋の当の主であるギイ、のふたりだけ。
「でも、まあ。よくぞ付けてくれたな、って心境だよ」
章三が心配することのほどでもなく、ギイの機嫌はそれほど悪くない。
「不意打ち、だったからね。さすがにぼくもびっくりしたよ」
今だったら落ち着いて、ギイにも、あの突発な事態にも立ち向かえた。
「でも、一番慌てたのは、もしかしたら三洲本人なのかもしれないな」
可笑しそうに笑うギイの髪が、さらさらとぼくの頬に触れた。
「そうかも。あの場にいたのがぼくじゃなくても、三洲くん、同じ手を使って誤魔化したのかな」
「どうかな。実際、オレにとっては不運だったけどな」
さりげなく、嫉妬をしているのだと知らされて、ぼくはギイには悪いけど、嬉しくなってしまうのを止められない。
「あの時、ちょうど最初にやって来たは赤池くんだったんだ」
「章三?」
「うん。もし、ぼくじゃなかったとしたら赤池くんだったかも、なんて想像しちゃって」
「おまえ、それに章三に言うなよ? 殺されるぞ」
「そうでした。恩を仇で返すとこでした」
さっきの食堂とは違って、ギイはいつも通りの機嫌良かった。
どうして機嫌が回復したのか、と訪ねると、
「いいことを思いついたんだ」
不機嫌を上機嫌に変えるほどのものなのだと、ギイは笑った。
「託生、動くなよ」
ぼくよりも何倍も頭の回転の早い麗しの恋人は、ぼくの肩に持たれていた頭を動かし、その囁きを埋めるように唇を寄せてきた。
キスをされる──?
そう思って目を瞑ったのに、いつになっても唇は落ちてこない。
うっすらと目を開けると、ギイの悪戯を思いついたような無邪気な表情がぼくを見てにやけていた。
「あ……」
すかさず襲い掛かる熱い吐息。
「ちょっと、ギイ。ダメだよ!」
「大丈夫だって」
何と、ギイは、三洲がぼくにつけた印の上に、より色鮮やかに残ると想像させるほどの鬱血の跡をつけたのだった。
「これで、オレがつけた跡になったな」
首をさするぼくは「こんなことして、困るよ」と抗議するのだが、
「絶対、バレやしないさ」
再び、ひとつの場所に向かって濃い跡をつけようと、ギイはぼくの首筋に顔を埋めてきた。
「これはオレがつけた跡だ」
もう一度、同じ台詞を繰り返すギイ。
「だから、安心して、託生は『嫌がらせ』を見せてもいいんだ」
「ギイがつけた印だから、ぼくは胸を張っていればいいってこと?」
ギイがつけたと知られないままに、ギイからの印を纏っていられる──?
「消えかけたら、またつけてやるよ。この場所だけは当分、『公認』だからな」
お互いが、共犯者──。
この秘密は、ぼくたちだけが知っていればいい。
『木を隠すなら森の中──』
ぼくはそっと首筋をさすった。
ぼくには見えないその印。
「オレのものだってよくわかるだろ?」
なかなか会えない日々の中、いつだってギイの想いに包まれているのだと、そう、ぼくがいつでも知ることができるように。
まるで、ぼくのためだけに残したような印。
「そうだね、ギイ……」
きみといるといつだってぼくの心が彩るように。
ぼくには、わかる。見えなくても、わかる。
きっと鮮やかに色付いている、と──。
おしまい
material * MIYUKI PHOTO
*** あとがき ***
最後までのお付き合い、ありがとうございました。
「Kisses on the kiss」はいかがでしたでしょうか?
話のまとまり上、「その後の真行寺の悲惨な数日」が書けなかったのが残念です。
まあ、三洲が「二七○号室への出入り禁止」を真行寺言い渡したことは間違いないでしょう(笑)。
「アラタさぁん、反省してますっ。お願いです、入れて下さいぃ〜」
一方、三洲のキスマークが消えても、しっかりタクミくんの首筋に残るソレはしばらくは消えなくて。
「事情」を知っている友人たちのニヤケ顔にあたふたする託生……。
ギイはもちろん、そ知らぬ顔。
……なぁんてね。
この作品は、当サイト、moro*onの1000hitsを記念して、ともさまに送らせていただきます。
これからも、moro*onをよろしくお願いします。
by moro
moro*on presents
この作品の著作権は、文・moroにあります。
なお、ルビー文庫「タクミくん」シリーズはごとうしのぶ先生の作品です。著作権などは角川書店様にあります。
当サイトのあらゆる内容及び画像を無断転載・転用・引用することは固く禁じます。
|