ただひとつのすべてのもの  vol.1



 寒さが厳しい季節が再びめぐってくる。
「身を引き締めろ」と喝を入れてくるかのように朝晩の空気がだんだんと冷え込んできた。
まだ冬の序の口でこれからますます寒さが厳しくなるのがまったくもっていただけない。
アスファラールは寒いのも暑いのも苦手だった。

 だが、この冬は特別な冬になりそうな予感がしている。
だから寒くても我慢しようという気になる。
何しろ、予感というよりそれは確定的なもので、だからアスファラールはいつにも増して機嫌が良かった。

 例年、銀河連邦政府環境庁自然保護局環境近衛隊(ELG)派遣本部が所在するガリオ星系第四惑星ショルナの北半球の冬季にあたる時期にELG養成研修は行われているが、そんな毎年ある行事にアスファラールの意識が向いたのは今回で二度目だった。
ちなみに一度目というのはエスターと挑んだ時で、いろいろ問題視されていたようだ。
ただし騒いでいたのは周りだけで、アスファラールは自分たちの特異性についてほとんど気にも留めなかった。

 だから自分の時よりも今回のほうがアスファラールにとっては興味津々で、それは朱里が参加するからという理由に他ならない。

 エステル・ストマー組といえば、新人ふたりで組んだ稀有なペアでELGの間でも名が知られていた。
ふたり一組で活動するELGは、新人を指導する目的で経験者と新人で組むのが通例となっている。
それを覆して、アスファラール・ティア・エステルとエスター・ストマーが新人同士でペアが認可されたのだ。
ましてや、アスファラールは天使とも呼ばれるセリーア人である。
注目を浴びないわけがなかった。
当時、一躍注目を集めたとしても致し方ないのだろうとはアスファラールも諦めたものだった。

 そのエステル・ストマー組も、朱里・レトマンが環境庁より発せられたELG養成研修の参加許可通知を受信したと同時に解散確定となり、エスターは希望通り現場から研究職への転属が決まり、笑顔で新天地に向かって行った。

「重っ! しばらく来れないからって、ちょっとコレは重すぎだってっ!」
「墓参りをしたいと言ったのはおまえだろう。
こんなことで弱音を吐くようじゃ向こうでドロップアウトは確実だな」

 エスターが置き土産のように残していった、「アース、あんまり朱里くんをからかうのはよしたほうがいいよ」という助言を軽く無視してアスファラールが朱里の不安をわざと突っつくようにさらっと零す。

<キャッ、朱里ってば恥ずかし〜っ。やっとこさELGになる切符もらったのによォ。
研修中で落とされるのってすっげぇ恥だよなー>

 朱里のELG養成研修への出発を三日後に控えたその日も朝から綺麗に青空が広がり、乾いた空気が冷たい風となってアスファラールの白い頬を何度もなぶる。
その寒空の中、アスファラール、朱里、ジャックのふたりと一羽は久々にメッシーナ記念公園を訪れていた。

「落とされるなんて言うな! おまえに言われたくないよ、ジャック」
「そりゃそうだ。このままぶくぶく状態が進んだら真っ先に落ちるのは朱里じゃない、おまえだからな。
いいか、ジャック。万が一、見知らぬ人に拾われたら飼い主は朱里だと言っとけよ。
絶対俺の名なんか出すんじゃないぞ。一切伏せとけよ」

──飛び立ってすぐ墜落する鳥というのは見られたものじゃない。
そんな鳥の飼い主だと思われるのなんて屈辱だ。
何なら、ジャックの飼い主は朱里に正式に変更でもするか?
ああ、それがいいかもしれんな。

 サミュエ種のジャックの飼い主の内なる想いはストレートにジャックに伝わったようだった。
感応力を持つサミュエ種は周囲の思考に敏感に反応するという特性を持っているが、特にジャックは万事物事に興味津々で何事にも首を突っ込みたくなる性質をしている。
加えて、世渡り上手な鳥だった。

<あー、何だかファラの肩をもみたくなっちまったなあ。あれはあれで意外といい運動になるんだよなー>

 首を突っ込むのも早いが引っ込めるのも素早い。
周囲の雰囲気を機微に悟って身の保全を確保するのはお手の物で、自分の特技をこれ以上もなくうまく使いこなしていた。

「阿呆。おまえの脚踏み程度で効くか」

 アスファラールの肩の上にとまってせっせと脚踏みするジャック。
そんな飼い主奉公に勤しむ場面を思い浮かべたのか、朱里がぷっと噴出した。

<そこっ! 笑うな!>
「ごめんごめん」
「そうだぞ、どうせならちゃんと揉んでくれ」

 今度は、後方を向いた第一趾と前方を向いた第二趾、第三趾、第四趾で掴むように肩もみするジャックの姿が目に浮かんだのだろう。
朱里はまたプッと笑った。
朱里の考えそうなことは心を読むまでもない。
その表情で簡単に想像できる。

「とりあえずさ、飛べなくなるまでに何とかするしかないね」

 結論とも言えるそれを吐いたのは朱里だった。
それはまさにアスファラールがいかにも言いそうな言葉であって、育ての親の影響はこういうところにも見えるのかとジャックが複雑そうな顔をして首を傾いでいる。
それとも、ボスと認めた飼い主のアスファラールに頭があがらないのは仕方がないにしても、朱里には言われたくないとでも言いたいのか。

<あー、ぐやぢいっ!!!>
「まあまあ、そう落ち込むなって。俺が研修に行ってる間はいいダイエットになるんじゃない?
適量に食べるのであればキャットフードだって栄養バランスがしっかりしていることだし、いい食事になるんじゃないの」

<へ? キャットフード?>

 キラリン、とジャックの瞳が即座に輝きを取り戻す。
だが、その光は儚い灯(ともしび)となった。
もともと火付け役も朱里ならば火消し役も朱里となるのだろう。

「そうさ。あれは本来、栄養バランスがちゃんと整っている食品なんだよ。
いつもジャックは馬鹿食いするから取り上げるようにしてるけど、一食につき猫缶一個食べる分にはすごく理想的な食品なんだからな」

 朱里の留守中はしこたま食いだめしたやろうなとど考えていたジャックの野望は花火のように一瞬にして跡形もなく散ることになった。

<ゲーッ、一食に一個で済むってか? あんなちょびっとで腹が膨れるんかよ?
こっちの猫はなんて不憫な生活してんだァ。かわいそすぎて涙が出てくるわ!>

 そう言って、出てもいない涙を翼で拭うジャックの姿は、まるで求愛ダンスをしているかのようだ。
朱里はまたもやプッと噴き出した。

「一個ですまないとわかっているなら手を出さないほうが身のためだよ。
じゃないと冗談じゃなくホントに飛べなくなるから。あれって栄養価高いんだからね。
まあ、ジャックが鶏のように飛べなくなってもいいから食べたいって言うんなら話は別だけど」

笑うのを我慢しようとするから、堪えきれなくなった時の反動が大きくなる。
すると今度も、<そこッ! 笑うなッ!>とジャックがすかさず合いの手を入れてくるのだった。

「確かに選ぶのはジャックだな。
だが、これだけは言っておくぞ。飛べなくなったとこで即刻俺は飼い主は降りる。
鶏ってのは遺伝的に飛べないよう生まれてくるから食いすぎとかの問題じゃない。
そういう生体なんだからまだ良しとしよう。
だが、陸に縛られたメタボなサミュエ種を連れ歩くの趣味は俺にはない。
食事管理すらできないなんて、いかにも飼い主の不手際と指摘されても仕方ないだろう。
だからジャックのためにも、俺にはおまえを飼う資格がないということで快く朱里に譲ってやろう」

 ヒッ、としゃくり上げたジャックは羽ばたきひとつするとゴロゴロ喉を鳴らしてアスファラールの首に擦り寄った。

「おまえは猫か」
「ジャック、そんなにビクつくなよぉ。大丈夫だよぉー。
ファラだってジャックがちゃんと猫缶一個で済ますなら飼い主降りないでくれるからさあ」

 ELG養成研修は主に新人ELGのために開かれる強化合宿研修である。
当然、保護者同伴なんてことはあり得ない。ましてやペット同伴などということは考えられない。
しばらく続く貧相な食生活を思って、<おまえが作る栄養バランスばっちしの食事が遠のくのがこんなに辛いとは思わなかったぜぇ>とジャックはガクッと項垂れた。

 三週間の日程で行われる一般講義・基礎実技の前半と、後半の応用実技で構成されている研修は、新人たちにとってELG正式採用への事実上の関門である。
ELGに入隊予定のすべての新人はこのELG養成研修全過程を修了しない限り、正式にELGにはなれない。
任務遂行に必要な多種多彩な知識と技術能力が一定基準を上回りさえすれば、その時点で研修は終了となり環境近衛隊の任命証を受けられる。
ELG養成研修期間はそれぞれのペアに短くもなり、長くもなった。

 そしてそれは一定水準をクリアしない限り、研修は終了しないということだ。
あらかじめ決められた期間内であればどの項目であれ何度でも履修は可能だが、期限までにすべての項目において基準を上回らなければ不採用となる。

「ファラはあとからの参加だもんなぁ。いいよなー。俺がいない間、ヒマなんだろ? 何やってるつもりさ?」
「んー、羽根を伸ばして昼寝でもしてるかな」

 新人たちは一般講義で新人用オリエンテーション、過去の事例、特殊対応法などを学び、基礎実技で任務時に使用する所持品や機材、道具の使用法を会得する。
一方、経験者である現役ELGは、前半の一般講義や基礎実技には基本的には参加しない。
理由は簡素だ。すでに身に着けているから参加する必要がないのである。

「ファラが言うと、ほんとに羽根をぐだ〜って伸ばしそうだよなぁ。別にいいんだけどさ」

 早々に新しい配属先に赴いていったエスターに対し、アスファラールのほうはいまだ長期リフレッシュ休暇を満喫中だった。
研修初っ端から新人たちが扱かるのに対し、パートナーの現役ELGが養成研修に参加するのは新人が基本的な知識を身につけた頃になる。
全日程(最短で約四週間)、個人またはペアの能力次第で延長にもなるELG養成研修は、今後、ELGという重要な任務に挑むための心構えと技能を身につけることを目的とした現場で任務に就くELGたちにとって重要な準備期間であり、特に研修最後の課程である応用実技では現役ELGと新人ELGで実際にペアを組み、コンビネーション実習訓練を重ねてる。
その実習訓練では実践に近い行動や判断力が求められるのである。

 そして、研修期間が終了したペアから環境近衛隊の任命証を拝受し実務に就くことになるので、研修参加後、しばらくは自宅に戻れない可能性もあって、朱里が突然「墓参りに行こう」と言い出したのは、今度いつ自宅に戻れるか安易に予測がつかないと判断したからなのだろうとアスファラールは考えていた。

 見えない不安をひとつひとつ追う払うように、朱里はここ数日の間、普段はしないような細かいところまで隅々と掃除をしている。
身体を動かしていなければ落ち着かないほど、ずっと夢だったELG就任が馬の鼻頭にぶら下がった人参のように、朱里の前にゆらゆらと揺れているのだろう。
ねずみ捕りの中のチーズを狙うねずみのように届きそうで届かないところにあるそれに対して朱里は慎重になっているようで、その実、気もそぞろで手持ち無沙汰がどうにも落ち着かないようだった。

 アスファラールにしてみれば、何もそこまで不安にならずともと言いたいところだが、それが朱里なのだからと思えばこれまた忍び笑える。
あれこれ余計なことを考えてぐるぐる悩んだ末に朱里が希望したのが墓参りというのも何だか笑える。

 その墓参り先であるメッシーナ記念公園は市民の憩いの公共施設と墓地として許可された丘で区画が分かれている。
丘と言っても樹木で溢れ、アスファラールの感覚ではほとんど森と呼んでも良さそうなものなのだが、この墓地の名称からして「メッシーナの丘」なのだから丘には違いないのだろう。

 自然葬法の植樹葬の場所として知られるここの墓地には、一本一本の大樹の下に、直径二ミリメートル以下の粉末に砕かれた焼骨がそこかしこに納灰されている。

 遺族が選んだ樹木の下に灰となって眠る人たちがこの丘には溢れている。
つまり自分たちのような来訪者は故人の灰の上を歩いている可能性も高いということだ。

 そういえば…と、通いはじめの頃、朱里が樹木からできるだけ離れて歩くようにしていたのをアスファラールはふいに思い出した。
亡くなった人を踏みつけたくないという考えからの行動なのは明白で、酷い時は泣いてアスファラールに飛んで運んでくれるよう愚図ったものだ。

 土に還るとはよく言ったもので、灰が土壌と合わさることで養分となり、もう一度この世界の構成するための力となる。
そういう話がわかるようになるとさすがに朱里も納得したのか、歩くことを自分に許していた。

 自分のやや後方で、ずかずかずんずん勇ましく歩いている朱里を伺えば過去の愚図る朱里というものが想像もし難く、ああ、そんなこともあったなあなどと今では懐かしい思い出となってしまったことにアスファラールはちょっと残念に思うのだった。

──あの泣き顔は確かにかわいかった。

 今の朱里には絶対言えない言葉である。
自分のそばで育ったせいだとエスターは決めつけているようだが、朱里の美的感覚は少しずれているところがあるのは確かなようだ。
思い返せば、かわいいと言葉にしたところで信じてもらえた記憶はない。
「からかってんの?」とヘタすればじとっと眉間を寄せてねめつけてくるのがオチである。
「気持ち悪い」だの「裏がありそう」だの返された言葉のさまざまある。
一貫して共通しているのは、自分の言葉を素直に受け入れていないということだ。
自分の言葉を信じないというのはそれってどうなんだと釈然としない気持ちに襲われて、アスファラールの目がわずかに細められた。
一言で今のアスファラールの心情を表現するとしたらこうだ。

──むかつく。

 ここに眠る故人に銀河連邦政府関係者が多いのは、この市街を見下ろせるこの小高い公園から、運輸省の星間航行部、自治省の中央警察本部、ELG派遣本部などの公的機関施設が望めるからだろうか。
生前愛した場所を死んでもなお見つめ、守っていきたいと個人の意向によるものも多いと言う噂をアスファラールは聞いたことがあった。

 朱里の父親である曰く付きの「レトマン」も、このメッシーナ記念公園の一本の植物の下で眠っている。
彼もまた、この地を愛したひとりに違いないのだろう。

──ま、眠っていると言っても正確には彼の遺品の一部だがな。

 彼の樹木は酔芙蓉(すいふよう)。
自然葬なので墓標や名札はない。

 朝、八重咲きの大きな白い花を咲かす酔芙蓉は、午後になるとピンクに、更に夕方から夜にかけて赤く色が変化する一日花だ。
酒飲みの顔に例えた名の花は陽気な酒豪の彼にはピッタリで、これは彼の同僚だったボットナムがわざわざ用意してくれた樹木だった。
一日で萎んでしまうその散りざまがまるで彼のようだと、故人を良く知る現ELG派遣本部の本部長ならではの最良の選択だとアスファラールも思っている。

 アスファラールは、息を弾ませながら腐葉土と培養土を抱え持って上り坂と登ってきた、自分の斜めうしろをついて来る朱里を振り返って小さく呟いた。

「もう、九年か……」

 ひとりごちた向こう側では、額に汗を散りばめながら荷を運ぶ「今」を生きる朱里から、「生」を意識しざるをえない沸き立つ生気が感じられる。
それだけのことに何だかとてもホッとして、アスファラールは手にしたスコップを肩に担ぎ直した。

「チンタラ歩くなよ。サクサク進め。オーウェンのとこまではまだかかるぞ」

 亡きELGの酔芙蓉は、丘の頂に近い、歩道さえ整っていない一画に植えられていた。
人目を忍ぶように植えられた花は、この地では夏の終わりにならないとその酔いざまを見ることができない。

 目的地に到着すると、
「早く来い、朱里」
今の寒い季節では、葉の落ちたあとの枝が寒そうに見える。

 その細い枝先からアスファラールの視線は自然とオーウェン・レトマンの酔芙蓉から少し離れたところに植えられているエゴノキと利休梅に向けられた。
エゴノキも酔芙蓉と同様、落葉樹の悲しさか、枝にはほとんど葉が残っていなかった。
その寒そうな枝ぶりを見て、アスファラールは感慨深く息を吐き出した。

 エゴノキよりも丈の低いバラ科の利休梅は、エゴノキ同様落葉樹だった。
なのに、エゴノキの隣りでそっと寄り添うように、なぜか青々とした葉を四方に伸ばしている。
エゴノキも利休梅も春に白い花をつける樹木であるにも関わらず、この葉のつき具合の違いはどうだろう。

 すずらんの花のように連なってたくさんの清楚な花を咲かすエゴノキは、その果皮には魚毒性のサポニンを含む。
今もいくつか小指の爪よりも小さな乾いた実が残っており、ところどころで枝にしがみつくように揺れている。

 ちなみに春になって花が咲いても、隣りの利休梅は可憐な白い花は匂うように美しいのに、エゴノキの花はまるでその存在を隠すかのように香りがないので、だからアスファラールにはエゴノキがこの利休梅を守るために有毒物質を身にまとっているかのように余計に思えてしまうのかもしれない。

 春、ここに訪れるたびに少し蕾が残った利休梅を目にするとなぜか心が躍るのはなぜだか今もわからないままだ。
利休梅の蕾は真っ白で、雪玉もしくは団子のように丸々とー愛らしく、咲きはじめの花と合わせて楽しむのをアスファラールは随分前から好んでいた。

 地球産の、それも日本州の花木を植樹に選んだ理由は、エゴノキの下に眠る故人の縁によるものらしく、この樹木もオーウェンの酔芙蓉と同じく、ボットナムによる選定だった。

 アスファラールを普通の子供のように扱ってくれたオーウェン。
「仁」とオーウェンが亡き親友の名を舌にのせる時、とても懐かしそうに彼が目を細めていたのをアスファラールはよく覚えている。

 相良仁こと、銀河標準名ジン・サガラは優秀なELGで、その昔オーウェン・レトマンとペアを組んでいた男である。
オーウェンの口から、「最後まで妻と息子を守ろうとした、家族を愛する男だった」とアスファラールは聞いているし、実際その記憶もアスファラールの中に確かにある。

 オーウェンがベタ褒めしていた男、相良仁。
だが、アスファラールはかの男のことが気に食わなかった。
おそらくその存在を知ったときから気に障っていたのだと思う。

 それでも、アスファラールはここを訪れるたび、一度も会ったことがないその男にただひとつだけ感謝の念を抱いてやまない。

──今、この瞬間、朱里の生命がここにある。そのことだけには礼を言おう。

 この世に朱里を生み出して、その生命を守って死んでいった若きELG。

「おまえはただ、何も埋っていないその利休梅の可憐な花をこれからもひっそりと守っていればいい」

 憎しみさえ含んだそのアスファラールの囁きをわずかながら聞きとめた朱里が、
「何、くっちゃべってるんだよ! ファラも手伝え! 土を掘り起こして、空気を入れてやるんだから。
ほら、さっさと働く!」
働かざるものは食うべからず、と弁当を人質に言葉の鞭を打ってきて、その場を健康的な光で照らすものだから、アスファラールもこれ以上罵倒するのを諦めるしかなくなる。

「ふん。だったら弁当の中身はそれ相応に過酷な労働にあったもんなんだろうな?」

 今日の昼食が朱里の手の内にある限り、アスファラールも見物人でいるわけにはいかなかった。
スコップを握るしかないのである。

「ふふふ、今日のは俺サマの苦心作だぞー。ジャックも期待しとけよっ。
さあさ、ほれほれ働いた働いた。早くメシにありつきたいだろ?」
<なら、オレは応援に回ったるからしっかり頑張れよー>

 口先だけは得意なジャックである。

 仕方ない。動くしかないか、とふたりと一羽の墓参りはこうして汗水たらすことから始まった。

<ふたりともガンバレー。もっと働けー、早くメシ食わせろー>

 冬の風が突き刺すように肌に痛い。

「おい、ジャック! そんな応援なんかいらんわっ、ただ煩いだけじゃないかよっ」
<だって、オレは働きたくても手が出せない……つーか、手がない!
朱里が弁当は労働報酬だって言うから、オレなりに精一杯応援しようと思ったのによぉー>

「わかぁっーた。なら、おまえは静かに俺たちを見守ってくれよ。見守ることも大事な応援だ。
な、そうだよな、ファラ?」
「仕方ないな。この場合、ジャックの翼は猫の手にもなりゃしないからな。
ああ、猫より劣る鳥ってどうなんだろうな」
<足で土を掘ったろか?>

「いや、いいです。ジャックは綺麗なまま、そこで静かに応援しててください。
汚れたおまえを綺麗に洗うのも俺の仕事になるんだから。
頼むから、これ以上俺の手を煩わせてくれるなよ」
<了解了解。そーいうことなら、ちゃーんとオレがトンビから弁当見守ってやるからさ。
朱里はとっととそっちの土いじりを早く終らしてくれよなー>

 この地に眠るELGたちが守ろうとしたものが今もちゃんと息衝いて、もうすぐふたりの父親と同じ道を歩もうとしている。

 九年前、アスファラールに向かって手を伸ばし縋ってきた朱里が、白い翼を持たなくても今やしっかり前を向いて羽ばたこうとしている。

 アスファラールはふっと面を上げ、酔芙蓉とエゴノキをすがめると、にやりと癖のある笑みを向けた。

──おまえたちの息子は大きく育ったぞ。俺が手放せないくらい、上等にな。

 アスファラールは再びスコップを握る手に力を込めた。
地面に向けて、スコップを力一杯突き刺してゆく。

 隣りには自分と同じように土を掘り返し続ける朱里がいる。
その朱里の息遣いにどこかほっとする自分がいて、こんな些細なことに温かい気持ちになっているのが何とも不思議な気分だった。

──こちら側に来た時には想像もしていなかったこの現実。
何が起きるか、まさに人生ってのはわからないもんだな。

 メッシーナの丘の空気はどこまでも澄んでいた。
日差しはあっても、吐く息は白い。手がかじかむ。

 それでも今、この寒さの中、アスファラールは、朱里の健やかな成長に感謝して落ち葉の絨毯が敷かれた地面に酒でも撒いて祝いたい気分だった。

                                                           つづく


illustration * えみこ



えみこのおまけ




この作品の著作権は、文・moro、イラスト・えみこにあります。
当サイトのあらゆる内容及び画像を無断転載・転用・引用することは固く禁じます。