恋待ち姫と不機嫌王子



 いつもながら華やかな席というものはすごく苦手だ。
進藤ヒカルはここに来たことを苦々しく思う。

 薄皮一枚貼り付けたような笑顔を向けられて、それに微笑み返すのはとても疲れる。
これも仕事だ、大人の態度で振る舞わなければ、と思えば思うほど、薄い膜が何枚も身体に張り付いてゆくような気がしてくる。
まるで深い海の中に沈んでゆくような、そんな息苦しい感覚。

 天井近くから覚めた目でこの茶番を見ているもうひとりの自分がいて、それなりに愛想良く相手に話を合わせる自分を見下ろしている。
棋院からの依頼で受けた仕事でなかったらわざわざ来てはいないだろうな、と頭の隅で思いながら、ヒカルはそんな感覚を味わっていた。

 ああ、無駄な時間だ。スポンサー主催のパーティじゃなかったらとっとと帰りたい。
とにもかくにも、碁打ちは碁を打たせてこそなんぼの商売である。
好きこのんで広告塔など御免被りたい。

 だが、これもタイトルホルダーとしての義務となれば多少なりとも諦めもつく。
賞金はともかく、こんな茶番なだけの付属品など投げ捨てられるものなら投げ捨てたい。
それが本音だとしても、これでも二十歳をとっくに過ぎた大人なのだから、素顔をうまく隠して振る舞ってやる。
本気になれば自分だって、よそ行きの顔の皮一枚くらい貼り付けることなど造作もないのだ。

 見渡す限りの色とりどりのドレスに身を包んだ女性たち。談笑に興じる各界の著名人。
目の前に繰り広げられる華やかな世界をぼんやりと瞳に映しながら、ヒカルは、「庶民には落ち着かないとこだよなあ」と呟いた。

 どこかで見た顔がちらほらあるが、名前が思い出せないでいるから喉に引っかかった小骨のように気になって気持ちが悪い。

 でも、そこに記憶の糸口を掴んだような気がして。

──そういえば、ナントカっていう女優とかも来てるんだっけ。

 先日、棋院で擦れ違った時、例のパーティに出席するんだってな、と和谷に訊かれたことを思い出した。
ああ、と返事をしたら、その素っ気ないヒカルの態度にムッとしたのか。
「進藤。おまえもいい加減、浮世離れなんぞしてないで楽しんで来いよ。
招待客は偉く豪華だって話じゃないか。俺が代わってほしいくらいだよ」
長年の友人であるがゆえの気安さで、和谷が拗ねたように唇を突き出して愚痴ってきたのだった。

 代わってもらえるなら代わってほしい、とヒカルが文句タラタラ返したら、ますます口を窄めてきて、和谷はあれこれ女の名前を指折り数えると、
「こんな豪勢な顔ぶれ、ヨダレもんだぜ」
今度は男の名前をつらつら並べ出したものだから、何事かと思えば、
「おまえ、マジかよ。この会社のCMも配給のドラマも見てねえのかよ?
ああ、何も言うな。わかった、見てねえんだな。それはいい、それはいいけどよ。
せめて国民的有名人の名前くらい耳にしとけよ。それじゃあまるでおまえ、浦島太郎じゃねえか」
どうやら、名の知れた女優や俳優の名前を連ねたのだとわかって、やっと話が見えたのだった。

「そんなんわかるかよ。オレ最近、テレビなんか見てねえもん。
あ、でもこの間、居間でぼけっとしてたら、気がついたらテレビついててさ。
お母さんがドラマ見てたから、つい一緒になって久しぶりにちょっと見たな。
途中からだったからストーリーなんて全然わからなくて。
ただ、スゲー、今時男がこんな台詞言うかよってくらい臭いこと言ってたからカンドーしたの覚えてる。
女もよく引かねえなーとか、突っ込みどころ満載でそういう意味では面白かったな」
「そりゃそうだろう。どうせドラマなんぞ架空の話。あーいうのはありえっこないとこがまたいいんだよ。
妄想っつーか、こうなったらいいなっていう希望的観測ってヤツ?
っていうか、あー、そんな話はどうでもいいんだって。ほら、伊角さんも何とか言ってくれよ。
こいつ、いい加減このままじゃマジーよ。若い身空で何枯れてんだってガツンと言ってくれなきゃ」

 どっちが勝手なこと言ってるんだ、と和谷に文句のひとつでも言おうとしたところに、
「和谷、枯れてるってのは男に対しての言葉なんじゃないか? 進藤には相応しくないだろう?」
助け舟なのか、そうじゃないのかわからないことを年長の伊角が割って入ってきたので、ヒカルは言葉を返すタイミングが失ってしまったのだが、これがまたまずかったようだ。

「この際何でもいいよ。
とにかく、このままじゃあこいつ、碁三昧の仙人のような生活にどっぷりつかったままじゃん。
いくらなんでもこんなんじゃ完全に嫁(い)き遅れるぜ。
これ以上世間サマから浮いちまねえように今言わなきゃいつ言うってんのさ。
伊角さんも進藤のこと、ずっと心配してたじゃん」
「まあなあ」

 親切なのか、大きなお世話なのか。説教らしきことをされてしまい、ヒカルは空笑いするしかなかった。

「笑いごっちゃねえぞ! 第一、おまえのことだろがっ!」
「まあまあ、和谷、落ち着けって。進藤だって、きっと碁との両立は大変なんだよ」

「両立? 全然両立なんかしてねえよ、こいつは。それどころか、碁一辺倒で偏りすぎ」

 ふたりが自分のことを気に掛けてくれるのはとてもありがたい。が、ヒカルにはヒカルの言い分がある。

「碁打ちが碁三昧で悪いかよ?」
「悪いわけねえだろう。だが、限度ってもんがあるわ。第一、おまえ、もう二十六になるんだろが。
いい加減、おまえが信条としてるそのオトメチックな考え方はやめろって」

「どこがオトメチックなんだよ」
「白馬の王子様を待ってるってのは充分そうじゃねえか。そんなもんが許されるのは十代までなんだよっ。
現実ってのはな、もっと厳しいわけよ。試しに誰かと付き合ってみろって。
そうすりゃ、いずれコイツだって思う奴が見つかるからよぉ」

「なら言うけどな、コイツだっていうそいつの見分け方はどうすりゃわかるんだよ」
「あ? そんなんもん、おまえがいいって思ったらそれでいいんだよ」

「だから、その度合いがわからねえから訊いてるんじゃん。だいたい自分の時はどうだったんだよ、和谷。
今までの彼女とどこがどう違って結婚しようって思ったんだよ」
「だから、そん時になりゃ何となくわかるもんなんだよ。コイツだってのはちゃんと思えるもんだって……。
あー、もういい。つまりおまえは好きっていう感情が未だにわからねえってことなわけだ。
まったく、お子ちゃまと話をするのは疲れるぜ」

「誰がお子ちゃまだ。オレはただ単に、数打ちゃ当たるってのが嫌なだけだよ」
「目指すは百発百中かよ。はあ……、ある意味、理想高すぎだぜ……」





 ここ数年、女流と冠するタイトルを総なめにしているヒカルは、女性初のリーグ入りをして以来、リーグ戦の常連者でもある。
最強の女流棋士として名高いヒカルだったが、彼女には棋院関係者なら誰でも知っているひとつの噂があった。

『進藤ヒカルはただひとつの出会いを求めている──』

 それは、「付き合った相手が結婚相手」という、単純かつ明快な、とても理にかなった考え方に固執しているというものだった。

 ヒカルの知らないところで、「鉄壁の女桑原」とか、「純情可憐な女緒方」という渾名が闊歩しているが、それはこれまでのヒカルの経歴を見事に表わしている。

 ある意味、ひとりの男に絞らない、掴みどころのない進藤ヒカル。
難攻不落の、純情一直線のヒカルに袖にされた男の数が、そのふたつ名の由来を広く浸透させてゆくのだった。

「好きです、付き合ってください」と交際を申し込んできた男に、それはどれだけの『好き』なのか、一生その気持ちのままいられるのかと詰め寄った話は特に有名である。
場所が棋院の近くの喫茶店だったのが原因だろうか。
なぜか翌日には棋院の売店のアルバイト店員にまで広まっていた。

 事実、結婚を前提としているのかどうか、普通の年頃の娘なら訊きづらいことを、ヒカルは最初の段階でしっかり確認を取ることにしている。
それはヒカルにとって、ご飯についてくるお味噌汁のようなもので、挨拶を交わすのと同じくらいの気軽さでしかなかった。

 一方、相手の男にしてみれば、「お付き合い」とは好きという気持ちの延長上であるものでしかなく、いずれ結婚に繋がる可能性はないとは言えないが、まだそこまで気持ちは固まっていないという輩がほとんどだったものだから、この場で今後の人生を決めろと突如最後通告をされた途端、大体の男はその面をペキンッと固めたまま、その時点ですでに身体が半分、気持ちが大部分、逃げ腰になってしまうのだった。

 バッタバッタと男たちの浮いた気持ちを切り裂いてゆくヒカルは、まさに豪傑な剣士のようだ。
ことごとく容赦がない。

 だが、男には無情とも言えるこの十年間のヒカルの華々しい活躍と派手な所業は、日頃、男性棋士から見下され、常々、鬱憤を溜めていた多くの女流棋士たちから多大な支持と喝采を得ていた。

 十代の半ば過ぎから蝶が羽化するように美しく成長していったその外見に反し、進藤ヒカルの内面は、白いスーツをこよなく愛する某十段に、「精神年齢は中坊以下」と烙印を押されるほどとても幼い。
ヒカルの恋愛に対するその初々しさは、女性たちにとって忘れていたものを思い出させてくれる、永遠に抱き続けたい愛しきものだったが、昨今では、一部のチャレンジャーを除き、ヒカルのことを面倒な、もしくは避けて通りたい存在と考える男性陣が徐々に増えてきたというのも実状であった。

「自分たちが幸せだからって、余計なお世話。
おまえ、オレのことなんかより、もうすぐ生まれてくる赤ちゃんの心配でもしてろよなー」
「うるせー」

 昨年、できちゃった結婚をした和谷は照れ隠しなのだろう、乱暴な言い方なのに、その声音に迫力がまったくなかった。
怒った顔はどこか締りがないから余計そう思えてしまうのだろうか。

「他人の世話を焼いてるヒマあるのかよ。まったく人が良すぎるんだから」

 和谷には一応、そう言い返したヒカルだったが、ヒカル自身、自分の主観が世間から大きくずれていることくらいわかっていた。
さすがにこの年齢になると自覚しないわけにはいかない。

 正しいとか間違っているとか、そういうことではなく。
一般的に受け入れられているかという点で、否と応える者や、理想と現実は違うと客観的に判断する者が断然多いのだから致し方ない。
哀しいかな、それが現実なのだ……。





──浦島太郎かあ。本当にオレってば、そう言われてもしょうがないのかもなあ。

 ヒカルはパーティ会場となっている大広間の天井に散らばる煌びやかなシャンデリアを見上げると、その輝きに目を細めた。

 繰り広げられる非現実の世界。
まさにここは龍宮城で、ただびとの人間がずっといるべきところではない。

 そろそろ息が苦しくなっていた。海の中では息が続かない。
ただの人間である自分は、たまに息継ぎをしなければやってられないのだ。

 そして、この龍宮城に長くいられない人間はどうやら自分ひとりではないらしい。
ほら、またひとりやってきた。

「進藤、ここにいたのか。探したぞ」

 その声を聞きとめると、ヒカルは生き別れた兄弟と出会ったような安堵感に包まれた。
どうやら、とりあえず孤独ではなくなったようだ。

「よぉ、ご苦労さん。おまえも相変わらずご盛況だなあ」
「何がご盛況だ。ひとりだけ先に寛ぐな。そういう時は誘ってくれてもいいだろう?
まったくあの匂いときたら、いい加減勘弁してほしいよ。……少しここで休ませてもらうぞ」

「おまえのソレも相変わらずだよなあ」
「ウルサイ。体質なんだ、仕方ないだろう」

 元五冠の父を持つ塔矢アキラは、棋界のサラブレッドと呼ばれている。
だが、アキラの実績を前にして、親の七光りと噂する者は今ではほとんどいない。
二十五歳にして二冠の活躍は華々しく、名実ともにアキラは若手ナンバーワンの実力者として名を馳せていた。

 アキラの碁は、感情をあまり表に出さない平素の彼の態度とは一変して力碁で、強引に勝利をもぎ取る勢いのある手を彼はよく好んだ。

 しかし、激流のように相手を攻めてゆくその打ち筋とは違い、彼の物腰は彼の美しい母親似の秀麗な容姿と相並んで柔らかく、全体的に優雅な貴公子の印象が強い。
またその性格から、謹厳実直な好青年で知られていた。

 長時間、微笑みを浮かべるのに疲れたのだろうか。
今、その整った顔には若干の疲労が見れ隠れしている。

「ホントに勘弁してほしいね。よくあんな中でみんな笑っていられるよ」

 棋界の貴公子の発言にしては相応しくないそれ。
だが、華やかな場の片隅で、アキラがそういう言葉を吐き捨てるように口にするのを、ヒカルはこれまでにも何度も見ていたので特に気にしなかった。

 それよりも、ハンカチを鼻に当てた塔矢アキラに、ヒカルはくくく、と笑みが零れてしまう。

「ほらよ、ティッシュ」
「……ありがとう」

「鼻が弱いのも大変だな」
「香水は苦手なんだ。粘膜が刺激されて仕方がない」

 機嫌が悪いのか、口をムッと引きつらせたアキラは、それでもヒカルの心中など構わずに、「くだらない場所だ」と言い捨てた。
だが、アキラの気持ちもわからないわけでもない。
本来なら、碁の勉強をしていたいところを我慢して、自分と同様、棋院の頼みで来ているのだろう。
碁の普及に貢献するためと思えばこそわざわざやって来たというのに、「ご趣味は?」とか、「お休みの時は何をしてらっしゃいますの?」とか、碁とは関係ないことばかり訊かれて。
極めつけに、おしゃれに身を包んだ娘たちや、年頃の娘を持つ親がアキラの周りを取り囲むと、「塔矢先生もおひとりでは何かと不便でしょう? そろそろ身を固めては?」と来たもんだ。
内心、冗談じゃないと叫びそうになるんとグッと我慢しながら、笑顔の応酬を延々と続けていれば、外面のいいアキラでもさすがに疲れも溜まるだろう。
極めつけに、アキラは香水が大の苦手で、近付くと鼻炎の症状に悩まされる。
ちょっと飲物を取ってきます、とその輪からやっと離れることに成功したアキラが、見知った顔を見つけて早々に逃げ込んできたとしても、ヒカルは咎められなかった。

 平常、どんな相手にも穏やかな態度で応じるアキラであったが、昔からのよしみだからか、ヒカルの前では言葉が辛辣になる傾向がある。

 案の定、口をいくらか潤し、ホッと一息ついた途端、
「今もまだ香水の匂いがする。冗談じゃない。
あっちもこっちもプンプン匂わせて、まるで鰻屋とラーメン屋とハンバーガーショップの匂いを混ぜたようじゃないか。
いや、まだ食べ物屋のほうが余程マシだ。鼻がグジュグジュしないからな」
頬にかかる真っ直ぐな黒髪をかきあげるようにして、アキラは、ちらりと遠くに視線を投げながら口を開いた。

「彼らの鼻は鈍感なのか? ボクにはこの匂いは我慢できないよ。それでなくてもこんなに大勢の客がいるんだ。
この熱気と人の匂いに胃がもたれそうだ」
「確かになあ。立食パーティで香水の匂いをビシバシされちゃあ、興ざめだよなあ」

 その点については、ヒカルはアキラに同意見だったので、ここは一応、ヒカルも頷いておいた。
それでも、「その鰻屋とラーメン屋とハンバーガーショップってのはどうよ?」と突っ込みを入れるのも忘れなかったが。

「だって、キミからポテトの匂いがするから。ハンバーガーショップがまっ先に浮かんだのはそのせいだ」
「あ? そんなに匂うか? 実はさ、ここに来る前、ちょっと食べてきたからさ」

 そう言って、自分の服についた匂いをくんくんと嗅いで確かめようとするヒカルを、アキラは呆れたように見下ろした。

「……食事を済ませたってのにこれだけ食べてるのか? キミは欠食児童か?」
「だって、立食パーティって普通あんまり食えないもんじゃん。
さあ食うぞって気合いを入れたってまたすぐ話しかけられて、の繰り返しでさ。
そうなると飲物しか手にできないし。実際、今、やっとメシにありつけたとこだもん。
オレだって、さっきまでちゃんとマジメにオシゴトしてたんだぜ。ふふん、オレってば偉いだろ〜。
顔出ししなきゃならないとこはもう済ませたし。だからオレはもう用なし。コレ、食べたら帰るよ」

「だったらボクも帰る。ボクだって充分役目は果たしたはずだ」
「え? おまえ帰るの? それはちょっとまずいだろ」

「どうして? キミが帰れて、どうしてボクは駄目なんだ」
「だって、まだおまえを待ってる人たちがいるじゃんか。ほら、あっちにもこっちにも」

 事実、今もちらちらとアキラに視線を向ける女性たちの姿は多い。

「他人の思惑とボクの希望が万事一致するとは限らないだろう?」
「おまえも大概、女には冷たいよなあ」

「ほっといてくれ」

 この棋界のプリンスこと塔矢アキラは、とてもモテた。
高収入の、眉目秀麗な品行方正の若者を、世間の女性たちが放っておくはずがない。

 だが、塔矢アキラという二冠棋士は、特別な感情をぶつけてくる女性に対して、一貫した態度をとることで有名だった。
むやみに愛想を振り撒かない。それに尽きるのである。

 とはいえ、本来、アキラは女性が嫌いなわけではない。
母親のしつけもあって、アキラは基本的には女性に優しい。
ただ、少し苦手なだけだ。

 普段、アキラは、先輩女性棋士に対しては礼節を重んじ、温情を掛けてくれる妙齢の女性たちには心からの笑顔で対応している。

 塔矢アキラが女性を苦手としている理由については、これまた棋界では誰もが知っている話だ。
女性からのその逃げ振りは、モテない同僚たちですら、嫉妬するのも馬鹿らしくなるほどで、憧憬を抱いてしまうくらい徹底していた。
塔矢アキラの名に惹かれてくる女性に対しては、最低限の態度でしか接しない。
アキラの自身の行動に対する矜持は頑固なまでに固く、まさに毅然としたものだった。

 名声に奢ることなく努力を忘れず、碁の精進に心身捧げているかのようなアキラは、自分の容姿に無頓着なところがある。
モテるくせに浮ついたところがないアキラは無駄にモテてていると言ってもいい。

 アキラのモテ振りと棋力の高さを妬んだり羨んだりする輩はとても多いが、女性から逃げたがるアキラに情けをかける者も多いことを知っているヒカルは、「男心っておもしれ〜」と思うのだった。

 あれだけ女性を蔑ろにしていて、同情はされてもほとんど批難されることがないのだから、アキラは最強だ。
だが、それはつまり、アキラがこれまでに受けた被害の大きさを物語っているということで。
だから、ヒカルはこの手の話題でアキラをからかうことはあまりなかった。

 アキラが女性を苦手にするようになったのはいつからなのか。
誰かにそう訊かれた時は、ヒカルは、「それはたぶん九年前だよ」と答えている。

 初めての参加した北斗杯。
大将を務めたアキラの名は、一気に世間に知られるようになった。今から十年前のことだ。

 アキラの名がテレビや雑誌で取り扱われるようになって囲碁好きな人々は大層喜んだが、「塔矢アキラ」にもっとも熱中したのは年若い、少女と言ってもおかしくない女性たちだった。
若くて将来有望なイケメン棋士に恋焦がれる少女たちの数は、アキラが勝率をあげ、リーグ入りするたびに増えていき、アキラの周りは年々、騒がしくなっていった。

 アキラが棋界で活躍すれば、世間はますます彼に注目した。
取材の数も増え、その分、アキラの顔が露出する機会も更に増えた。
まるでアイドル歌手のように棋院の玄関外にアキラが出てくるのを待つ女の子の姿が見れられるようになり、アキラは裏口を使って逃げるように帰宅することも多くなっていった。

 元来、静かな生活を好むアキラだったので、自分の周囲が騒がしくなることにアキラ自身、難色を示していた。

 トドメが、あのバレンタイン事件である。

──あん時はオレもさすがにびびったもんなあ。

 ヒカルとアキラ、ともに十六歳の二月十四日。
棋院の正面玄関には、大層な数の女の子が集まっていた。

 和谷や伊角などの若手棋士が棋院から出てくるたびに、キャーと一斉に嬌声が上がる。
だがすぐに、アキラではないと気付くやいなや、「なあんだ。人違いじゃん」「ホント紛らわしいわね!」と一気にテンションは下がるのだったが。

「何だよ、こいつら。すっげー、ムカつく」
「確かにこんなところに陣取られると邪魔だね」

 あの日、和谷はアキラの人気に唾を吐き、穏和な伊角は単なる感想を述べていた。
そのふたりのとなりでヒカルは、「これって何事?」と大きな目を見開いて、出待ちをしている女の子たちのその数の多さに素直に驚いていた。

「ああ。きっと塔矢を待ってるんじゃないか? ほら、先週も女性雑誌に掲載されていただろう?
碁に無関心な若年層や女性をターゲットに囲碁ファンを増やそうってことになったらしくて、それで塔矢が担ぎ出されたんだよ。
進藤だって北斗杯に出てからは、よく取材の仕事が入るようになっただろう?」
「ああ、うん。そういや、前に一度、北斗杯のメンバー三人でって取材受けたなあ。
社もわざわざ東京に呼ばれてさ。なのに、雑誌に掲載されたコメントって塔矢のばっかで。
オレたちのなんてちょぴっとだったもんだから、社、大阪くんだりからわざわざ新幹線乗って来たっちゅうのになんやねんって電話で文句言ってた」

「塔矢は棋力もさることながら、存在感に華があるから、宣伝にはもってこいな素材なんだろうね」と伊角はアキラを擁護したが、もともとアキラを小憎らしく思っていた和谷は、伊角がアキラを庇うことすら気に食わないらしく、「写真には性格が写らないからな」と皮肉で返していた。

 そんなふうにヒカルたちが棋院前で立ち往生していると、ちょうど当のアキラがやって来たのか、少女たちの奇声が一斉に轟(とどろ)いて、まるで通勤ラッシュのような押し合いとなった。
ヒカルはあっちこっち押されながら、人の波にもまれ、気がつけば和谷や伊角とも切り離されて、押しに押され、行きたい方向とはまるで逆のほうに流されてしまった。

「キャー、塔矢くーん」
「アキラァー、こっちむいてェー」

 それは棋院前とは思えない盛り上がり振りで、真冬の寒空の下とは無縁の熱気がその周辺一帯に漂っていた。

 そんな黄色い喧騒の中、突然、強い力が横から入って、押されるようになぎ倒されたものだからたまらない。
ジーンズを履いていたからよかったものの、それでも地面に擦れた膝がヒリヒリした。
手を即座に地面から放さなければ、今頃ハイヒールに踏まれて、偉い目に合っていただろう。

──こえぇー、怖すぎる。こんなとこにピンヒールなんか履いてくるんじゃねえよ。
充分、それってば凶器じゃんかよー。

 せめての意趣返しにと、「痛てーぞ、テメエら」と文句を口にしてみたところで、ヒカルの声など誰も聞いてなどいない。

「何するのよーっ!」
「痛いって言ってるでしょっ!」

 喚き叫ぶ女の子たちが互いを牽制しあってののしりあうのを耳にしながら、「勘弁してくれよー」とぼやくのが精一杯だった。

 そんな時、ヒカルが押し倒されたのをたまたま見とめたのか。
「進藤っ、大丈夫か!」
アキラがヒカルを助け出そうと人を掻き分けてきた。

「あ、ここ。ここだよここ! 塔矢っ!」

 どうにかして自分を引き出してもらおうと手を伸ばしたヒカル目掛けて、アキラは前に突き進もうとした。
しかし、そのアキラに向かって、たくさんの女の子たちが手を伸ばしてくるものだから、まるでいばらの中を突き進むような様になる。
思ったようには、アキラの身体は前に進めないようだ。
チョコを差し出す手。花束を握りしめる手。サインを求める手。
無数の手がアキラに伸びて、髪を引っ張ったり、服をひっぱたりしてアキラの歩みを遮ろうとしていた。

 目の前で繰り広げられる女同士の壮絶なアキラの奪い合い。
お蔭で、自分と同じ女である彼女たちのその浅ましき様子を、ヒカルはショックを受けながら、じっと見続ける羽目になった。

 たくさんの手の中にはその鋭い爪で、アキラの身体に引っかき傷をつけるものもあった。
顔に触れる手。首を触る手。腕を引っ張る手。
たくさんの手がアキラを襲う。

 アキラの顔が歪めば歪むほど、女の子たちとアキラの距離は近くなった。
その距離が縮むほど、どんどん女の子たちの行動は大胆になっていく。

 そして、それが起きた。
アキラの身体に体当たりしたひとりの少女が、アキラの首に腕を絡めて唇を重ねてきたのだ。
瞬間、しーんと辺りに静寂が広まった。が、次の瞬間、怒声や喊声が世界を支配した。

「イヤー」
「アキラくーん!」
「あんた! 何すんのよ!」

 押し合う少女たち。泣き喚く少女たち。そして、第二、第三の無頼が出た。

 騒ぎはますます大きくなって、ヒカルの鼓膜が悲鳴をあげた時、
「申し訳ありませんが、これでは通れません。通してくださいませんか」
袖で口を拭いながら、静かにアキラは周りを見渡した。

 一切、感情を切り離したかのような静かな声は、アキラに伸びていた手を退(しりぞ)けた。
アキラの袖を摘んでいた手とスーツの裾を握り締めていた手がわずかに残ったが、アキラがそちらに視線を向けると、彼女たちはパッと手を放した。

 アキラがヒカルの近くまで来ると、彼の唇の端に赤い口紅の拭いた残りがついていたのが見てとれた。

「進藤、立てるか?」

 ヒカルに向かって伸ばされたアキラの手の甲も、赤い口紅で汚れていた。

「進藤?」

 抑揚のないアキラの声は、いつも碁会所で怒鳴りあう時の感情溢れたものとは違っていた。

 だが。
「進藤」と呼ぶ、その静かな声の中に潜む、彼の溢れんばかりの怒気を、ヒカルはひしひしと感じていた。 

──こいつ、怖い。

 アキラに得体の知れない恐怖を感じたのは、あの時が初めてだった。
それは、手合い中の迫力に対する恐れや底知れぬ棋力に感じる畏れとも違う怖さだった。

 あれ以来、あの怖さをヒカルが感じたことはない。
そして、あの事件以来、アキラは女性たちに無意味には近付かなくなった──。





 ヒカルは、少し離れたところに立つアキラの秀麗な横顔を見ながら、昔、目の前で起こった情景をふいに思い出して、一瞬、肌を逆立てた。
あの怖さはいまだに忘れられなかった。

「進藤さんですね? はじめまして。写真で見るよりも実物のほうが断然お綺麗ですね。
どうです? このあと時間があるなら、お茶でも一緒にいかがです?」

 料理を取るのに夢中になって、いつの間にか目の前に見知らぬ男が立っていたことに、ヒカルは気がつかないでいた。

「えっと……」

 突然、声を掛けられても困ってしまう。
どこかで見たことがある顔だが、でもやっぱり思い出せない。
たぶん、この男もテレビに出るような仕事をしているのかもしれない。
その手の職種に就いている人間は、相手が当然、自分の名を知っていると思っているので、自分から名乗らない人が多いことを、ヒカルはメディアに出る仕事にかかわるようになってから知った。

 相手が誰だかわからない時は、相手の自尊心を傷つけない程度にそれなりに話を合わせたのち、ボロが出る前にさっさと逃げるに限る。

「パーティもそろそろお開きになるでしょうし。いいでしょう?」
「あ、でもこれから塔矢と棋院に寄るので。ごめんなさい」

「棋院?」
「ええ。職場です。……あ、塔矢。こっちこっち」

 声を張り上げてヒカルが呼ぶと、アキラはすぐさまやってきた。

「何だ、進藤。料理はもう充分なのか?」

 そう言って、ちらっとヒカルのそばにいる男を視線を向けると、アキラは、「はじめまして、塔矢です」とにこやかに営業用の笑顔を返した。

 顔の良し悪しで言うならば、目の前の男にアキラも負けてはいない。
華やかな雰囲気を身に纏う男に対し、アキラは自分を極力抑えているかのような禁欲的な印象が強いが、全身から滲み出る迫力で言うならば、勝負師であるアキラのほうに軍配が上がる。

「お連れさん?」
「ええ。同じ棋士です。塔矢、そろそろ棋院に戻ろうか? 出版部に寄るなら早く行かないと遅くなっちゃうよ」

 連れがいるとわかって、男の気も削がれたのだろう。

「それは残念。では次は必ず。約束ですよ」

 その言葉に、ヒカルは返事をしないで笑って返し、「では、失礼します」とアキラを伴ってパーティ会場をあとにした。

「進藤、あの話は本当か?」
「ん? あの話?」

 ヒカルと視線を合わせたアキラは、ちょっと逡巡してから、「ボクはこのあと棋院に行かなければならないのか?」と訊いてきた。

「そんなの嘘に決まってるじゃん」
「嘘?」

「そ。だって、あの男、さっきほかの女を口説いてたんだぜ。オレ、耳がいいんだよ。
それなのにオレを誘うなんて。あんな男に引っかかって時間を潰すほどオレはヒマじゃねえよ」
「なるほど」

「男ってホントしゃーねえよなあ。同じ場所でほいほいあっちこっち口説くなっつーの」

 少し前にヒカルの背後で、掠れたような低音の、甘く囁く声が聞こえてきたのは偶然だった。
男が吐いていたのがあまりにも歯が浮くような臭い台詞だったので、おお、ドラマじゃんとヒカルは少しだけ興味を惹かれてしまったのだった。
なのに、あれからそれほど時間が経っていないというのに、今度は自分を誘ってくるとはどういうことだろう。
第一、あの男は今夜、ある女性とホテルの最上階のバーで会うことになっているのだ。
まったく、どれほど図太い神経をしているんだか、こっちが訊きたい。

──時間潰しに誘われて、ホイホイ行くかってーの。特にあーゆー男は、女なんか着せ替え人形としか思ってないから始末に終えない。

 男も男だが、あんな男に誘われて、喜んでついて行く女の気持ちもヒカルには理解できなかった。

「だったら、進藤。これからうちに寄って行かないか? 今日は母が家にいるんだ」

 ここ数年、アキラの両親はほとんど中国にいて、普段、アキラは一人暮らしをしている。
アキラがヒカルを家に誘うのは、決まって両親が帰国している時に限られた。
アキラが言うには、「キミも一応、女性だから」で。
同様に、親の留守中にヒカルが進藤の家に誘っても、アキラは決して首を縦に振らなかった。
そういうところは、アキラは生真面目な紳士だとヒカルは尊敬している。

「え? おばさん、帰国してんの? じゃあ、先生も?」
「いや、父はまだ中国だ。今回は母だけ。同窓会に出るために一足先に帰ってきたんだって言ってた」

「そっか。じゃあ、久しぶりにお邪魔しようかな」
「キミが来ると母も喜ぶよ。昔からはキミは母のお気に入りだから」

「おまえが親不孝してっからだろ。またお見合い写真、つきかえしたそうじゃねえか。
おばさん、ホントはオレなんかより、おまえの嫁さんといろいろおしゃべりしたいんだと思うぜ」

「よく言うよ。その言葉、そっくりそのまま返そうか。
キミ、この間、釣書の山を踏んづけてすっ転んだんだって?」
「げ、誰に聞いた?」

「先日、キミを迎えに行った時。キミ、寝坊してボクを待たせただろう。その時だ。
キミのお母さん、大層嘆いてらしたぞ」

 最近では珍しく、ふたりの出張先が一緒になった時のことだった。
近場でもなく遠出というほどでもない中途半場な距離の地方で行われるイベントに参加することになり、電車の便もあまりよくなかったので、それならとアキラの車で行くことになったのだった。

「あん時はおまえ、ここんとこの血管、浮き出てたよなあ。
ブチ切れるんじゃないかと滅茶苦茶心配したんだぜ」
「いったい誰のせいだ!」

 こめかみを指差しながら笑う今日のヒカルは、薄く化粧をして、淡い水色のスーツを身に纏っていた。
まさに、どこに出ても恥ずかしくない、可憐さをわずかに残した超絶美人に仕上がっている。
しゃべらなければパーティ会場に来ていた女優たちに負けないくらい惹きつけられるものがある。

 外見だけで言えば、あの朝、アキラが目にした姿とは、まさに月とスッポン、雲泥の差だった。

「まるで妖怪だな。もしくは狐か狸の化かし合いだ」
「失礼なヤツだな。さすがのオレでも傷つくぞ」

「元はといえばキミが寝坊したのが悪い」
「あー、そうでした。ははは。ごめんごめん」

 あの朝、アキラが進藤家の玄関のチャイムを鳴らすと、寝巻き代わりのジャージ姿のまま、「ふぁーい」とヒカルが顔を出してきた。
アキラは一瞬我が目を疑った。
歯ブラシを口の中に突っ込んだまま、目を擦りながら、「ほはよぉ、ほーや」とヒカルが朝の挨拶をしてきたのだ。
その時、のどかにも進藤家の手前の通りには、ちゅんちゅんとスズメが楽しく鳴いていた。
気持ちよい朝の光を浴びた進藤家の玄関先で、口から白い筋を垂らしながら、アキラと相対する寝ぼけ顔のヒカル。
寝癖そのままのボサボサの髪を撫でながら、「あー、ひょっとまっへへ」とヒカルがのたまった途端、そのうら若き乙女の無残な姿に呆気に取られていたアキラが、ハッと正気を取り戻した。
すぐさま、「ふざけるな! 何時だと思ってるっ!」と近所中から文句が来そうなほどの怒声が玄関先に響いて、そのアキラの迫力に一気に目が覚めたヒカルは、「うわぁ、じ、時間っ?!」と叫び、途中足を滑らしつつも慌てふためきながら家の奥へと姿を消していった。

 ヒカルの支度が済むまで優に十五分はかかっただろうか。
その間、ヒカルの母、美津子が、「ごめんなさいね、塔矢君。あの子ったらしょうがないんだから。こっちでお茶でも飲んでて」と、アキラを強引に居間に上げ、これ幸いとあれこれ我が娘の不甲斐なさと非道な行いの数々をどうやらアキラに披露したらしい。

──うへー。あん時か……。

 あの日、ヒカルが二階から降りてきた時、アキラと美津子が和やかに世間話に花咲かしている声が漏れ聞こえた。
「お待たせ」と居間に顔を出すと、美津子がアキラの茶碗にお茶のおかわりを注いでいるところだった。
あまりにもそののどかな風景に、「おまえこそ、そんな悠長にしてていいのかよ」と今度はヒカルが呆気にとられたものだ。
まさか、「塔矢君からも何か言ってやって」とアキラ相手に美津子が愚痴を零していたとは知らなかった。

「おまえ、年上にはホント外面いいもんなー」

 アキラは今も昔も年輩者から受けがよかった。
孫のようにかわいがってくれる人もいれば、先生、先生と年端の行かない子供の頃から敬ってくれる人もいて、そんな人生の先達者には、特にアキラは丁寧に接していた。

 アキラがお年寄り相手に耳元で語りかけるように指導碁をしていたのを、以前、ヒカルは目にしたこともある。

 年頃の女性相手だと凛と張り詰めた冬の空気みたいな気を纏うくせに、年配者には春のうららかな優しさを醸し出すアキラ。
そんなアキラの変貌が、ヒカルにはとても興味深かった。

「で? キミはどうするって? これから来るのか来ないのか?」
「あ、もお行くってば。でも、その前にデパ地下寄って行こうぜ。和菓子がいいかな、ケーキがいいかな。
どっちのほうがおばさん喜ぶと思う?」

「何もいらないよ」
「そうもいかねえよ。いいじゃん、オレも甘いもの食べたいし。おまえも食うだろ?
んー、ならさ。今日はケーキにしようか。ハロウィン近いから、カボチャのケーキとか出てそうだし。
うまそうじゃん」

「ハロウィンか。そういや、街中がやけにオレンジと黒に染まっていると思ってたんだが。そうか……」
「おまえに何今更気づいてんのさ。カボチャにお化けに魔法使い。いかにもハロウィンじゃん」

 パーティ会場のホテルのロビーにも、オレンジ色の大きなカボチャが笑っていた。
くりぬいた目や口から、ランプの光が漏れ出ている。

 となりで携帯を耳に当てていたアキラが、「母が夕飯を一緒にって言ってるけど?」と尋ねてきたので、
「わかった。じゃあ、オレも家に電話しとく」
ヒカルもバックから携帯を取り出した。

「あ、お母さん。うん、オレ。今日、塔矢のうちで夕飯御馳走してくれるって。
そう、おばさん帰ってきてるんだって。わかってるって。これからケーキ買いに行くとこ。うん。大丈夫。
帰りは……、ああ、塔矢が送ってくれるってさ。じゃあねー」

 電話をしている間、アキラが「帰り、車で送るって伝えて」と合図してきたのをありがたく思いながら、ヒカルは、「よーし。じゃあ、気張ってケーキを選びに行くとするか」とアキラのスーツの袖を引っ張って歩き出した。

「こっちこっち」と機嫌よく先をゆくヒカルに、アキラが、「こら引っ張るな、進藤」と声を荒げる。
言い合いながら並んで歩くふたりを、行き交う人々が振り返りながら、通り過ぎていく。

 いわし雲が青紫色に染まった東京の空に、上弦の月がぽっかりと浮かんで見えた。





「そういや塔矢ってオレの前では怒った顔ばかりだよな」

 一昨日、アキラの家で明子の手料理をご馳走になった時も、もっと綺麗に魚を食べろだの、好き嫌いはよくないだの、まるで小姑のようにアキラはとても煩かった。

「こっちの酢の物もちゃんと食べろ。酢の物は身体にいいんだ。
キミはジャンクフードを好んで食べてるけど、こういうのも食べないといつか身体を壊すぞ」
「うへー。わかったよ。でも、こっちの食べてからな。うーん、おいしい。さすが塔矢のお母さん。
オレがお嫁にほしいくらいだよ」

「あらあら、進藤さん。私をお嫁に貰ってくれるの? 嬉しいわ」
「マジにオレが男で、おばさんが塔矢先生の奥さんじゃなかったら口説いてたよ。
そしたら塔矢はオレの息子だったかもしれないんだよね」

「息子? ……お母さんも進藤もくだらないこと言ってないで」
「あら、いいじゃないの。進藤さんのお嫁さんなんて素敵だわ。
何を作ってもいつもおいしいって言ってくれし、おばさん張り切って毎日ご飯作っちゃうわよ。
だいたい男の人って黙々と食べるだけで感謝の言葉も感想のひとつも何も言ってくれないのよね。
その点、進藤さんはにこにこしながら食べてくれるし、次はもっとおいしいもの作ってあげようって気になるから、きっと進藤さんのお嫁さんになる人は料理上手になるでしょうねえ」

「すみません、お母さん。いつもおいしいですよ」
「とってつけたように言われてもねえ」

「すみませんね、気が利かなくて。でも、これでも進藤は女性ですよ?
いい加減、ありえない話はやめてくれませんか」
「失礼なヤツだなあ。何だよ。これでもってのは」
「ホントよねえ。でも本当に惜しいわ、進藤さん。いっそ、うちの子にならない?」

「えー?! それって養子縁組ってやつ?」
「そう。同性だと婚姻届だせないでしょ。それに私は結婚してるから重婚になっちゃうのよ。
だから養子縁組で家族になるの。どうかしら?」

「おおっ、それナイス! そしたらおばさんの料理、ずっと食べられるんだよね。いいねーそれ」

 あははは、と箸を転がしたような笑い声が塔矢家の夕食時を飾った。

「よく考えておいてね、進藤さん」の思わせぶりな明子の言葉に、「明子おばさん、ノリノリだねー」とヒカルが笑って応じる。
「悪ふざけが過ぎますよ」とアキラが自分の母に向けて言うと、「だってあなたが不甲斐ないのですもの」と逆に明子に応酬されていた。

 明子が帰国するたびに、いろいろな筋からアキラに見合い話がやってくる。
なのに、アキラは写真を見ようとすらしないらしい。
会うだけでも、と周りがいくら勧めても、毎回頑として首を縦に振らずに袖なくするものだから、最近は明子もいちいち断わるのが面倒になってきているようだ。
アキラに対して厭味のひとつやふたつ言いたくなっても仕方ないだろう。

 そのアキラといえば、ヒカルを視界に見つけた途端、ドシドシといのししのごとくまっすぐやってきて、毎回、何やら喚いてはお小言をヒカルのつむじに向かって降らしてゆく。

 黙っている時はそれはそれで、ムッと口を結んでいて。
まるでいつも何かに怒っているようだ。

──何でいっつも不機嫌な顔してるんだろ。

 ヒカルは、少しは笑えばいいのに、と思ってしまう。
雑誌の取材やイベントとかで見せる営業のそれではなく、心からの笑顔を見てみたいと思うのは、日頃、怒った顔ばかり見ているせいだろうか。

 たまに、珍しいものや感心することに出会った時など、目を見開いて、感情を滲ませるように表情を緩めたアキラを目にすると、うわー、塔矢ってば感動してるよ、なんてヒカルまでわくわくしてしまう。

 検討の時は有り余るほど表情豊かなアキラであるが、それ以外の時となると、プライベートではほとんど感情の起伏を見せない。
笑顔の売り出しは営業の時に限られると言っても過言ではない。

──昔はもっと笑ってたのになあ。

 碁を打っている時はとても表情が豊かで、いい手を思いついたらやっぱり嬉しそうな顔をするし、こっちが思いがけないような手で攻めれば悔しそうな顔をアキラはする。
笑顔もいいけど、本当に口惜しそうに、「キミならではの一手だ。悔しいが見事というしかない」と負けを認めさせた時など最高で、よしよし、そうだろうそうだろう、とヒカルをホクホクしたいい気分にさせてくれる。

 ヒカルをそういう充実した気持ちにさせてくれるのは今のところアキラが一番で、ほかの棋士の誰でもない。

 時間があれば、ヒカルはアキラと待ち合わせて碁盤を挟む。
ギャラリーに見守られながら、碁会所で検討という名の言い合いをする。

 賑やかなそのひとときがとても楽しくて、そんな毎日の繰り返しをヒカルはとても気に入っていた。

 ヒカルにとって、日常とは、それで充分だった。





 店頭のディスプレイが、オレンジと黒の色彩から緑と赤のそれに移りゆく。
窓の外の景色は着実に秋から冬へと変わっていった。

 手のひらに、はあ、と息を吹きかければ、白い靄が生まれては消える。
年の瀬の声も聞こえるようになって、忘年会の誘いがヒカルのスケジュール帳を黒く染めた。

 同年代のメンバーで、集まるのは久しぶりだった。既婚者の参加も思ったよりも多かった。
珍しくアキラも出席して、ゆく年を惜しんでいる。
ヒカルは機嫌よく、場を盛り上げては喉を潤した──。



 十二月十四日には、冬将軍の冷たい北風に身体を凍えさせながら、身を寄せ合ってアキラが出てくるのを待っている女の子たちのコートやマフラーの華やかな彩りが、殺風景な棋院の玄関を飾るのが恒例となっている。
今年のアキラの誕生日も、それらは棋院の玄関先を綺麗に彩ったが、当の本人は風邪で寝込んだ先輩棋士のピンチヒッターで大阪出張に借り出されていたため、その情景を見ることはなかったようだ。

 長時間、寒い最中、じっと立っている彼女たちを心配した事務局の配慮によって、アキラの不在を知らされた女の子たちは、棋院にプレゼントやカードを預けて早々に帰路に着いたに違いない。
事務員がホッと胸を撫で下ろしながら、どうやら今年は怪我人、病人ともに出ずに済みそうだ、の呟きが、年末のスケジュールを確認しに事務局を訪れていたヒカルの耳に偶然入った。

 大阪出張のメンバーは、アキラ、伊角、そして芦原の三人で、伊角はその日、前々からの約束で、日帰りで東京に帰ってきてから、仲間内の忘年会に参加することになっていた。

「え? 今日、忘年会なの? いいなあ。俺も飛び入りしちゃ駄目?」
「構いませんよ。何ならこれから和谷に連絡しますけど? 幹事はあいつだから」

「うんうん、大阪まで行っても、おいしいもん何にも食べられなかったからなあ。
こう寒いと一杯引っ掛けないと身体が温まらないよ」
「そうですよね。塔矢はどうする?」

「いいじゃん、アキラも行こうよ。このあと何もないんだろ?」
「せっかくだからね。塔矢もぜひおいでよ」
「……はい。それじゃお言葉に甘えて」

 伊角が和谷に電話をすると、ちょうどキャンセルがふたり分出て、困っていたらしい。
『ちょうどよかったよ、伊角さん』
アキラたちが参加するなら、予約している店に人数変更を言わないで済むと和谷は言った。
『今日、塔矢の誕生日だったよな。塔矢が来れば割引サービスも受けられるぜ』
そう嬉々としながら、電話先で二つ返事で了解する。

「インフルエンザでキャンセル出てたんだって。助かったって言ってましたよ。
もうそういう季節なんですね。今、流行っているのかな」
「ありゃ長引くからな。節々も痛くなるし。ホント嫌だねえ」

 東京駅に着き、電車を乗り替えて、言われた店に向かう間、世間話をしながらとぼとぼ歩く。
三人が店の暖簾をくぐると、「いらっしゃいませー」と店内からいくつも威勢のいい声が上がった。
伊角が和谷の名前を口にしようとした時、「こっちこっち。早かったじゃん」と当の本人が手を振って合図を送って来た。

「座って座って。もうみんな、始めちゃってるけど。出張ごくろうさん、外寒かったろ。
あ、芦原さんも塔矢も空いてるとこ勝手に座って」

 和谷の顔がほのかに赤い。

「ご機嫌だな、和谷。おまえ、どんだけ飲んでんだよ。ピッチ早すぎじゃないか?」
「へーきへーき。だって、俺、一次会だけしか出れないからさ。今のうちに飲まないと」

 家で待っている人がいるのだと暗に匂わされて、「そういや、俺も二次会は出られないんだった」と伊角もひとりごちた。

 斜め前に座って、「何飲む?」とにこやかにメニューを見せてくれるヒカルに、「一次会だけでごめんな」と伊角が伝えると、
「いいよいいよ、妻帯者を遅くまで引き止めませんって」
ヒカルは「わかってる」を何度も繰り返してから、「おねえさん、とりあえず生を三つ」と店の者に注文を告げた。

──だって、それが普通なんだ。

 伊角が結婚して、翌年には和谷も籍を入れた。そしたらやっぱり付き合いが悪くなった。
でも、それは当たり前のことで、仕方のないことだとヒカルは納得している。
だけど、ひとり置いていかれたような寂しさを感じなかったわけではない。

 ひとりだけ取り残されるのはやっぱり嫌だし、慣れたくない。
だからといって、ひとりが寂しいからと言って結婚を焦りたくもない。

 独身者はヒカルだけではないし、周りを見渡せば、まだまだ決まった相手がいない同志はたくさんいる。

 身近な誰かが離れていって、今までと同じように一緒の時間を持てなくなるのはとても寂しいことだ。
でも、生まれてくる子供を楽しみにしている和谷の鼻の下を伸ばした顔や伊角の天然なノロケを前にして、寂しいなんて素直に口にできるほど、ヒカルは子供でもなかった。

 この寂しさはどうにもならないことで。
それでも、まだとなりを見れば、自分と同じように二本の足で立っているライバルがいるから、まだ大丈夫とヒカルは思えた。

「塔矢、今日誕生日だったよな。おめでとう」
「……ありがとう。よく覚えてたね」

 お疲れさん、とビールのグラスを重ねると、「この年で誕生日も何もないだろう」とつっけんどんに返してくる。

「ははは、和谷がすっげー喜んでたぞ。塔矢が来れば、サワーが半額になるって言ってさ。
でもオレがおまえの誕生日を思い出したのは和谷が騒いでたからじゃないよ。
今日棋院に行ったら、例によって正面口が偉く賑やかだったからさ。何だろーって最初思ってて。
そしたら例の集会じゃん。う、今日だったかって焦ったね。
表回ったのは失敗したって思って、すぐさま裏口から入ったけど。
ちょっと顔出したら事務局も偉い騒ぎで、あー、そういう季節になったんだってつくづく実感したわけ」

「ふうん。で、キミは騒ぎに巻き込まれなかったの?」
「ああ。それは平気。今日はおまえもいなかったから早々に解散してたしさ。帰りはほとんど誰も残ってなかったし。
彼女たち、いつもはおまえの手合いが終わるまで待ってるだろう? ご苦労さんだよなあ。
でも、今年は早く帰れただろうから、今頃はきっとあったかいとこでぬくぬくしてるんじゃないのかな。
そうだとしたら、今日は一段と寒かったし、おまえが急に大阪行くことになってのはかえってよかったのかもね」

 あの様子では、アキラの大阪行きが前々から決まっていたら、プレゼント持参で東京駅に行きかねない勢いだったもんなあ、とヒカルは思った。

「それはどうだろう」
「実際、大変だよな。追いかけるほうも追いかけられるほうも。
おまえだって行き過ぎたファンの熱意ってヤツには迷惑してるんだろ?」

「まあね。ぼくにはぼくの意思があるし、望みもあるからね。他人に振り回されるのは勘弁だね」
「望み……? へえ、おまえの望みって何? 碁の邪魔をするなってこと?」

 ヒカルが問うと、アキラは一瞬、唇を噛んで、別にそれだけじゃない、とぽつりと零した。
碁のほかに何かあるのか、と再度、ヒカルが問おうとしたところに、「なになに? ふたりとも何の話してるの?」と芦原が割り込んできた。

「芦原さん。えっと、塔矢が今日大阪行ってよかったって話だよ。
それと他人に振り回されたくないってこと……でいいんだよな、塔矢?」
「そうだね」
「他人にねえ……。あ、もしかしてアキラ、あの滝沢さんの話か? あれはあれで参っちゃうよなぁ」

「滝沢さん? って誰?」
「ああ、進藤くんは知らないか。アキラの後援会の副会長さんだよ。
何だかねー、自分の娘をアキラに紹介したいって言っててさ」
「芦原さん、それ以上は……」

「いいじゃないか。別に内緒の話ってわけじゃないんだし。
アキラだって知らないうちに周りを固められたら嫌だろう?」
「それはそうですが……」

「ねえ、芦原さん。つまりそれってお見合いってこと……だよね?」
「そうなんだよ、進藤くん。その滝沢さんってのがこれまた結構強引な人でさ。
アキラに付き合っている人がいないんだったらぜひにって先生のところに話を持っていったらしいんだ。
でも、それってすごくやばいんだよねー。だって、そんなことしたら重野さんは面白くないからね。
あ、ちなみに重野さんってのは後援会の会長さんね。あのふたり、先生を挟んでライバルなんだよ」

 アキラの後援会はもともとは父、洋行のそれを引き継いだものだった。
後援会内でも特に熱心な洋行贔屓で知られる重野と滝沢は、現在、アキラの後援会の中心的人物となっていた。

「とにかく先生のことに関してとなると子供じみた人たちでね。始末に終えないんだ」

 重野が持参したお菓子を洋行がおいしそうに摘むと、そちらよりもこちらのほうがいけますよと滝沢が別の菓子を勧める。
今日は洋行が自分相手に指導碁を打ってくれたと自慢すれば、一方もその日のうちに次回の約束を取り付ける。

「塔矢先生、モテモテなんだねー」

 へーとかほーとか感心しながら、ヒカルは芦原の話を聞いていた。
にやけてしまうのは社会的地位がある立派な大人のくせにふたりとも洋行の気を引くのに懸命で、それがとても微笑ましく思えたからだ。

「進藤くーん、おいおい。そんなお気楽な話じゃないんだよ〜。そんなふたりがだよ?
今は均衡したライバル関係にあって何とかうまくいっているのに、これで片方が塔矢家の縁戚になってごらんよ。
まずいだろう」

 自分の娘がアキラの嫁になれば、洋行との距離はぐんと身近なものになる。
そう考えたのは何も滝沢だけではなかった。
重野も実は、常々、塔矢家と縁戚関係になりたいと望んでいたのだ。

「だけど、重野さんの子供って男しかいなくてさ。それで孫に期待したんだけど……」

 重野の息子はみんな晩婚で、やっと生まれた待望の女の子の孫は当年五歳。
到底、アキラとつりあうはずがない。
その点、滝沢には大学卒業を控えた二十二歳の娘と、高校生の十七歳になる娘がいた。

「確かにそれじゃあ、重野さんにしてみりゃ面白くないねー」
「だろう? だから重野さんはアキラに見合いを受けてくれるなって頼んでるんだよ」

 滝沢からにはぜひにと頼まれ、重野からは絶対やめてくれと拝まれ、アキラの日常はいつも以上に忙しいようだ。

「あの滝沢さん相手に断わるのは難しいよなあ。
だっからさ、アキラ。この際だから、進藤くんに協力してもらったら?
付き合ってるかどうかはともかく、要はアキラに好きな人がいて、だから見合いはしたくないってのは正当な理由になるだろう?
進藤くんに片想いしてるんだけど、なかなかうんって言ってくれないって公言するのはいい考えだと思うけど、どう?」

 確かに芦原の提案は三方を丸く治めるいい案だ。
誰もが面子を保てて、アキラもうまく見合いから回避できる。

 だが、アキラは、「それは駄目です」と即座に断言した。

「どうして? アキラは見合いしたくないんだろ?」
「ええ」

「だったら!」
「駄目と言ったら駄目です」

 そのアキラの頑なな態度にヒカルはとても傷ついた。
そのくらいの協力ならしてやってもいいと、どこかで思っている自分がいたことにも驚いた。

 そんなささやかなことくらいで目くじらを立てるアキラに、わずかながらでもアキラと特別な縁があるように思っていた自分が何だがおかしいような気分になって、誤魔化すようにヒカルは店員にビールのおかわりを追加した。
哀れむようにこちらを伺っている芦原の視線から、とにかく今は逃れたかった。

 どうして自分がこんな想いをしなくちゃならないんだ、と割り切れない気持ちに襲われるのが許せない。
アキラの見合い話など今までだっていくらでもあったのに、なぜ今になってこんな悔しさを味あわなければならないのか。

 グラスを傾けるアキラをちらちらと伺いながら、自分を頼ってくれないそのつれない横顔に、拳を一発放りたくなる気持ちをぐっと堪えるのにヒカルは必死になる。
こちらをちらりとも見ないアキラに、ヒカルは一抹の寂しさを感じていた。





 一次会が終わって二次会へと流れる面々は、家庭に縛られることのない一人身がほとんどだった。
唯一の既婚者である芦原の音頭で五人ほどが芦原行きつけのバーへと向かって移動する。

 連れ立って歩く中には、兄弟子の誘いを断わりきれなかったアキラも含まれていた。
無駄に笑顔を振り撒かないアキラだが、普段の素っ気ない態度の割にはこういう場面での付き合いは悪いほうではない。
二十歳を過ぎて堂々と外で飲めるようになってからは、何だかんだと言いつつも最後まで残っている。
ヒカルは飲むよりも雰囲気を楽しむ性質で、だから誘われれば予定がない限り、ほいほいついて行く。
飲んでも乱れないアキラだが、さすがに飲めばそれなりに口が軽くなる。
そんなアキラにしこたま飲ませて、いつもなら聞くことができないアキラの本音を聞きだすのも、飲み会での楽しみのひとつだった。

 足並み揃えてとなりを歩くライバルを見やれば、その黒髪に天使の輪が見える。
黒髪がまるで銀髪のように輝いている。
光が当たっていない部分は濡れたようにしっとりとした黒光りを放っていて、まるでアキラのいる空間だけがスポットライトが当たっているようだった。

 何でこんなふうに見えるんだろう、とほかのメンバーを見渡せば、そちらは別に変わりがなく。
もう一度アキラに視線を向ければ、やっぱりアキラだけがいつもと違う。

 アキラのその秀麗な顔は俯いていて見えない。
だからまだじっと見つめられたのだと思う。
そうじゃなかったらこんなに長い間、穴が開くほどアキラの顔など見られない。
碁を打っている時は睨みつけるように挑んでくるくせに、ほかの時はヒカルと視線が絡むといつもアキラはぷいっと目を逸らすのだ。
見てくれるな、といかにも言っているような避け方をするので、見られるのが苦手なんだろうとずっと思っていた。
そりゃそうだろう。じっと見られて居心地がいいなんてことはない。
ましてや普段、いろんな年層のファンから注目を浴びているのだ。
プライベートくらい、肩の力を抜いていたいとアキラが思っても当然だ。

 だが今、アキラはヒカルの視線に気がついていない。
目を逸らされたわけではないから、ヒカルも気兼ねなく見ていられた。

 とにかく、アキラの真っ直ぐな、いかにもコシのありそうなその黒髪が異彩を放っていて、ヒカルは気になって仕方がなかった。

 誰かがこの異彩の貴重さに気づいてしまったらどうしよう、と胸の奥底でなぜか小さな焦りが生まれてなぜか困った。
ライバルとしてずっとアキラのとなりにいることに今まで疑問を持たずに来たけれど、将来、いつかはアキラだって結婚するだろうし、そうしたらアキラの妻がアキラのとなりに並ぶのだろう。
アキラは女性が苦手だが、女性が嫌いなわけではないから、いつかはそんな日が来るに違いない。

 日がな一日、アキラを穏やかに見守り続ける女性の存在をアキラ自身が許す未来。

 今はアキラにそんな気持ちがないとしても、それはいつか来る未来だ。

 そんなようなことを今までにも何度か考えたことがあった。
なのに、今日に限って、その『いつか』が近付いてくる足音が今にも聞こえそうで、怖い。

『ひとりモンで何が悪い』連合の同志みたいな関係がちょっと安心できて、すごく心地よかったのに。
ヒカルはアキラに手を伸ばしたくても、今夜のアキラは自分を拒絶しそうで近づけない。
ただ、黙々ととなりを並んで歩くことしか、今のヒカルにはできなかった。

──何でオレがこんな気持ちに。塔矢の馬鹿野郎!

 右の拳に思わず力が入った。

 その時、だった。突然アキラがヒカルの右腕を引っぱって、勢いで肩を抱いてきた。
途端、アキラの体温をまともに感じてしまって、ヒカルは頭が真っ白になった。
気がついた時にはアキラを突き飛ばしてしまっていた。
だが、次の瞬間、ヒカルのすぐ脇を後方から車が通り抜けて行く。

「あ……」
「進藤、もっと端を歩け。危ないだろう」

 ごめんも、ありがとうも、どちらも口にできなくて。
なぜか胸がドキドキして、そんな自分の不自然さが怖くて恥ずかしくてやるせなくて。
こんなにドキドキしているのをアキラに聞かれたらどうしよう、とただただ焦りだけが先走りした。

 いたたまれなかった。アキラの視線を受け止めるのが今は辛かった。

 何もかも見透かされそうで。
いつもと違うヒカルを知られてしまいそうで。

 アキラが本気になったら寄せの計算するように、ヒカルの内面の奥底まで見通すのなんて簡単なのかもしれないと思うと、うすら怖くなった。

──そうだ、こいつはオレの中の佐為に気づいたヤツなんだ……。

 怖い。怖い、怖い……。

「オレ、帰る!」
「進藤……?」

 オレはいったいどうしちゃったんだ、と自問自答を繰り返しながら、ただひたすらに走って帰る。

 ただ逃げるだけがこの恐怖から逃げる有効手段だった。

 アキラに抱き締められたのは初めてではない。
だからこんなに焦る必要などない。
そう思っても、胸の鼓動は高鳴るばかりだ。

 ヒカルは家に帰ると、自分を落ち着けさせよう、とにかく身体を温めようと風呂場へ向かった。

 いつもは鴉の行水なのに、ゆっくり湯船に入ったら、少しのぼせてしまった。

 スポーツドリンクのペットボトルをラッパ飲みして喉を潤す。
身体の中に染みゆくカンジが気持ちよかった。

 ベットにごろりと寝転がれば、瞼が重くなってうつらうつらしてくる。
今までのいろんなことが走馬灯のように、目の奥に浮かんでは消えていった。





 もう、かれこれ七、八年前のことになるだろうか。

 アキラが初めて本因坊の挑戦権を獲得した年、ヒカルは、明日から挑戦手合いの第一戦のため、遠方に出向くというアキラを訪ねるため、塔矢家に出向いた。
そして、「いつか話す」と約束していた話をアキラに語った。

 ずっと佐為のことを話したくなかったのに、その日アキラに話して聞かせるのはすごく自然のことに思われて、ヒカルは気負いなく淡々と話すことができた。
とはいえ、時折、言葉が詰まることも間々あったが、凪いだ海のように静かにアキラが聞いてくれたので、ちゃんと最後まで話すことができた。

 話し終わったヒカルに、アキラは何も声を掛けてくれなくて、ヒカルが不安を感じはじめた頃だった。
しばらく続いただんまりのあと、「話してくれてありがとう」とアキラは深く頭を下げた。

 厳かに頭を下げ続けるアキラの肩を、ヒカルは「よしてくれよ」と揺らして、顔を上がるように促しながら。

「おまえがそんなんじゃオレはどうしたらいいんだよ。よせよ、そんなことするな。悪いのはオレなんだ。
ごめん、オレがバカだったばかりに……。
オレが間違えなかったら、ちゃんと佐為の言葉に耳を傾けていたら、おまえや先生にもっと佐為と打たせてやれたんだ。ホントにごめん」

 ヒカルが頭を下げると、アキラは少し困ったような顔をした。

 それからヒカルへと指先を伸ばしてきて、頬を濡らす涙を掬ってくれた。
磨り減った爪が濡れて、ダイヤのように光を反射する。

 その光を見た時、ヒカルは思った。
ヒカルの中の佐為の思い出を分かち合うことで、アキラ自身の気持ちの上に更に重ねるように、佐為に縁のある本因坊のタイトルに挑む気持ちを奮い立たせたくて今日を選んだ。
そして、アキラはそんなヒカルの気持ちを受け入れてくれた。
だから、やっぱり佐為のことを話すのはこの日でよかったんだ、と──。

 その年の本因坊戦は双方粘り強さが目立った碁で、最終局までもつれた挙げ句、倉田本因坊の防衛となり、挑戦者であるアキラは一目半の差で惜敗した。
アキラが勝てなかったことはとても残念だったが、それでもヒカルはアキラに打ち明けたことを後悔してはいなかった。

 だから、その夜遅く、進藤の家の呼び鈴がなり、ヒカルが出てゆくと、遠方にいるはずのアキラが立っていたので驚いた。

 ヒカルの姿を認めたアキラが無言のまま、こちらに向かって腕を伸ばしてくるのを、ヒカルがじっと見つめていたら、いつの間にか抱きしめられていて。

「ごめん。負けた。あと少しだったのに……。でも負けは負けだ……。キミがやっと話してくれたのに。
ぼくは期待に応えられなかった……」

 背中に回されたアキラの腕は震えていた。
ヒカルの頬にかかるアキラの黒髪もゆらゆらと揺れている。

 そして、クッ、と歯を噛み締めて、ヒカルの肩に埋もれるように、アキラは沈み込んだまま、ただ身体を震わした。

 悔しい。情けない。ヒカルの分まで頑張ったのに。
佐為の思い出が詰まっているあの冠するものがもう少しで手に入るはずだったのに。
アキラの後悔と懺悔は言葉にはならなかった。

 けれど、それはひしひしとヒカルに伝わってきて。

「惜しかったな。でもいい碁だったよ。おまえなら大丈夫。次こそは絶対獲れるさ!
でもまあ、来年はオレだっておまえを破ってのし上がるつもりでいるから、挑戦者はオレかもしれないけどな」

 オレかおまえのどっちかが本因坊になれば佐為だって喜ぶだろうよ、と囁けば、ヒカルを抱き締めるアキラの腕の力はますます強くなった。

 だから、ヒカルもきつく抱き締め返した。

「オレ、いつか本因坊になるんだ。おまえにも負けない。おまえだって誰にも負けたくないだろう?
正直、今はまだ、おまえのほうがオレよりちょっとだけ本因坊に近いとこにいるってわかってる。
でもそれって、すっげー悔しいんだぞ。おまえ、ちゃんとわかってるのか?
でさ、オレ、いつか絶対本因坊になるって決めてるけど。
でも、おまえにはオレより先に本因坊になってほしいんだ。
それでオレはおまえから本因坊を獲ってやるのさ」

 アキラの背を、ヒカルはぽんぽんっとあやすように叩いた。

「約束だ。オレたちはいつか本因坊になるんだ──」

 最初はアキラがヒカルを抱き締めてきたはずなのに、いつの間にか、どちらかというと、ヒカルがアキラに抱きついていたと言ってもおかしくないくらい、ヒカルのほうがぎゅっとアキラの身体に腕を回して力一杯抱き締めていた。

 アキラが涙声で、「うん、うん」と子供のように何度も頷く。
あんな心もとないアキラを見たのは、あの時が最初で最後だった。

 翌年、約束通りと言うべきか。
アキラは再度挑戦者に上り詰め、一年前、ヒカルが訪ねたように、挑戦手合い第一局の開催地に出かける前、ヒカルのところにやってきた。

「勝ってくる」

 睨むように、そう言い切ったアキラを、
「いざという時はまたオレの胸を貸してやる。だから精々頑張れよ」
ニカッと笑いながらヒカルはからかった。

 そのヒカルのふざけた態度に、アキラは眉間の皺を深くして。

「馬鹿な。あんな無様な涙はもう二度と見せないさ」

 その後、アキラは一局も落とすことなく、危なげない碁で倉田を打ち下した。

 十代の若き新本因坊の誕生に、棋界や世間が喜びに沸いた日、
「また塔矢の背中が遠くなっちまったな。でもオレはいつか追いついてみせるぜ」
ヒカルは誓いを新たにしたのだった──。





 何年経っても何も変わらない。

 神の一手を極めるための道程は遠く、碁盤を挟んでアキラと向かい合う日は繰り返されてきた。
これからも長く続く道だとヒカルは思っているし、実際その通りヒカルは突き進むだろう。

 行き着きたい場所は昔から同じ。碁を打つ者ならば誰もが望み、挑む道だ。

 あの佐為も辿り歩んだ道。それを自分もまた歩いている。
このまままっすぐ歩いてゆくのに迷いなどない。

 なのに、今になって、気持ちがざわついて落ち着かない。

 足が地についていない感じがすごく嫌だった。





「進藤さん? 進藤さんじゃないの。こんなところでお会いするなんて偶然ね」
「あ、塔矢のおばさん。こんにちは。買い物ですか?」

 数日後、駅の改札を抜けたところで、ヒカルは明子に声を掛けられた。

「ええ、ちょっとお菓子をね。進藤さんは?」
「えっと、ただの暇つぶしです」

「あらあらそうなの?
こんなに綺麗なお嬢さんをひとりで歩かせるなんて、この頃の殿方はだらしがないわねえ。
ねえ、進藤さん。時間があるのなら、私とお茶でもいかがかしら?
この先のパーラーのケーキがとてもおいしいらしいのよ。
ひとりで入るのもつまらないし、息子も主人も付き合ってくれないんですもの。
進藤さんが一緒に行ってくれると嬉しいわ。ケーキはお好き?」
「はい」

「では決まりね」

 明子が案内した喫茶店はデパートの六階にあった。
そこは新鮮なフルーツが自慢の店で、フルーツをふんだんに使ったケーキが人気のようだった。
隣接したコーナーではケーキ販売もしていた。

 一歩足を踏み入れると、大きなガラスが目にいっぱいに飛び込んだ。
店内に開放感を与えているそのガラス窓の向こう側に街並みが遠くまで広がっている。大都会、東京だ。

 東京の街を見下ろしながら、おいしいお茶とケーキを楽しむそのひととき。
店内の白を基調とした内装が、ガラス窓から漏れ入る冬の日差しを受けて柔らかな色調に色付いていた。
白い壁は洋風なのに、飾り棚には紅白の椿と水引の花が飾られている。
和と洋の組み合わせが上品な、贅沢とも言える空間を醸し出している。
すごく明子の雰囲気に合っている店だなとヒカルは思った。

「進藤さん、あれを見て。かわいらしいわ」

 明子が指差した先には香合があった。
二羽の雁が水辺で羽根を休めている絵が描かれている。
落ち着いた色合の小さな陶器の中には、練香がいくつか入っているのだろうか。

「雁がとまっているのは冬を意味するの。
降下している図は晩秋、飛び立つさまは初春。同じ雁でも図柄によって表す季節は違うのよ」
「あ、もしかして渡り鳥だから?」

「正解。その通りよ」

 椿の花は蕾を使う。
花が落ちる際、椿は首がもげるような散り方をするので、咲き開いた花は避けるものなのだと明子は述べた。
聞けば、茶道の心得が明子にはあるのだと言う。

「香合といい、このお花も茶花を意識して飾られているようね。茶道はもともと武士の間に広まったものなの。
武士にとって、首が落ちるのを連想するものはよくないでしょ?
だから、飾っている間、花が散ることがないように椿は蕾を使うのよ」
「なるほど。戦国時代の武将にしてみれば切実な問題だったのかもしれないもんなあ」

「そうね。でもわびすけって種類の椿だけは咲いた花を使ってもいいの」
「へ? どうしてですか?」

「わびすけはね、咲いても開ききらないの。心持ち、わずかに開いた程度しか開かないのよ。
だからかしら。蕾扱いで使うのよね」
「開ききってない椿は散らないイメージがあるからなのかな。
開いててもまだ落ちないって安心できるから?」

「ふふふ、そうなのかもしれないわね」

 佐為も雅びだったが、明子も雅びだと思う。
こんなふうに誰かと一緒に季節を感じるのは久しぶりだ。
ヒカルは昔からお転婆で外で日暮れまで遊び呆けている子供だったし、今もじっとしているのは苦手で落ち着いているほうではないけれど、昔よく、佐為が話してくれたからだろうか。
風流な話を聞くのが、いつの間にか好きになっていた。

 ゆったりとした時間の楽しみ方を教えてくれたのも佐為だった。

 佐為がいた頃は自然の移り変わりを身近なところで探すのが日常だったけれど、今では風流な話を好んでする友達はヒカルの周囲には残念ながらもういない。
みんな、やるべきことや、やらねばならないことをこなすのに精一杯で、時間に追われて生活をしているから、自分の時間を一旦止めて、周囲の時間を感じようなど思いもつかない。

 だから、明子と一緒にこうして季節を感じながら、ゆったりと過ごしている今、自分はとても贅沢な時間を過ごしているのかもしれないとヒカルはつくづく感じ入った。

 注文したケーキが運ばれてくると、ふたりの口から同時に小さな歓声が漏れた。
ケーキから瑞々しい果物の甘い香りが漂ってくる。
明子は香水をつけないので、甘い香りはヒカルの食欲を純粋に促した。

 その明子がヒカルのフォークを持つ指先を見つめて、ふと思いついたように尋ねてきた。

「進藤さんはマニキュアを塗らないの?」

 若いお嬢さんはよくしてらっしゃるからてっきり進藤さんもそうかとばかり、とケーキをフォークで切りながら明子は微笑んだ。

「あー、一度だけ友達にしてもらったことあるんですけど。
碁を打ってると爪が磨り減るからマニキュアもはげやすくて。そうなるとみっともないし。
透明だったらいいかなって試したこともあったけど、塗るとどうしてもはげるのは一緒だから。
オレみたいなめんどくさがりやにはアレはちょっと合わないですね。
だからやるとしてもたまに磨くだけになっちゃって」
「でも、とても綺麗な形をしているのに、もったいないわ」

「それを言ったらおばさんだって」
「そう? ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。実はね、私も本当はマニキュアって苦手なのよ。
おしゃれするという意味ならいいのだけれど。
お茶を習っていた時分にね、先生から透明なものはともかく色のついたものは避けてって言われたの。
それからかしら、気になってしまって。私の場合は家事もするでしょう?
真っ赤な爪をしてお料理をするのはちょっとね。
ちゃんと手を洗っていても、やっぱり清潔感に欠ける気がして。
先生のお話はこういうことだったのかしらってあとから思ったものよ。
外出する時、必要に応じてたまにする時もあるけれど、家に帰ってきたらすぐ落としちゃうの。
そんなわけで普段が普段だから、色が爪についていると何だか落ち着かなくて」

「そういえば、うちのお母さんも滅多にしないなぁ」
「そうなの? それなら一緒ね。
でも、好みや感覚は人それぞれだから、一概にこうするべきとは私には言えないわ。
若いお嬢さんたちはおしゃれするのも好きでしょうし、綺麗に自分を飾るのは楽しいでしょう?」

「やっぱり楽しい、のかな。よくわからないです」

 ヒカルがマニキュアを苦手に思うようになったのは、これまた佐為の影響が大きかった。
紫や黒の爪を見ては、「ヒカル、ヒカル、あの者は病気でしょうか? 爪が血の気を失ってます」としきりに騒ぐものだから、マニキュアのことを教えてあげると、今度は首をかしげて佐為は眉間に皺を寄せたものだ。
「爪を汚してどこがいいのでしょう?」と自分には不可解だと最後まで難色を示して、ヒカルの爪をじっと見ながら、「桜貝のような可憐さをあの者たちはどこかに置いて来てしまったのですね。残念なことです」と嘆いていたのを思い出す。

 藤原佐為は時代の移り変わりを楽しんで、いつもきらきらと目を輝かせてはいろんなことに興味を示す幽霊だった。
一方で、理不尽に思うことも緩やかに顔に出した。
つまり、笑顔で難色を示すのである。これは怖い。

「十人十色ですものね」と理解を示すようなことを言いながら、「でもヒカルはしませんよね?」と確認してくるのが佐為の常套手段で。
そういうものは子供にもちゃんと伝わるもので、ああ佐為はあれが嫌いなんだとか、気に入らないんだとか、子供心に佐為が好きじゃないんならやめておこうとヒカルは神妙にも思ったものだった。

 佐為が生きた平安時代とはかけ離れたこの現代の様子は、あの幽霊の目には摩訶不思議の世界に映ったことのだろう。
「ヒカル〜、あれは何ですかぁ〜?」とそこかしこ指差してはヒカルによく尋ねてきたものだ。
「すごいですねー」と目を見開いて大げさなほど驚いては頷くその姿は、教える側の虚栄心をくすぐっては充分に満足させてくれるもので、「仕方ないなー」と言い訳を織り交ぜつつ、ヒカルは佐為の問いに逐一馬鹿正直に付き合った。
とは言っても、ヒカルも面倒になって、時折、「あー、もううるさいなー。いい加減にしろよ、佐為」と突き放したものだが、相手もさるもの、「いいじゃないですかぁ、ヒカルのケチ」と拗ねるまねをしては、「あれは? あれは何というものなのですか?」などと何度も繰り返し訊いて来た。
オレの話を聞いちゃいねえなー、とヒカルが思ったところで、「固いこと言わないでくださいよ〜」とさらりと流してしまうのが佐為だった。
おのれの頭は鳥頭かと言いたくなるほどに、佐為は都合の悪いことはすぐ忘れ、とても調子よく、のらりくらりとしながらも自分の良いようにことを進めてゆくのだ。

 いつの間にか、佐為のペースに嵌っていたことに気づいた時にはもう遅くて。
そういう一面を知ってゆくたび、やっぱり佐為は千年を生きながらえた幽霊であり、こういうところは年の功年、うまくやるもんだなあと感心させられた。

 佐為は自然の美しさを見つけるのがとても上手で、時節の移り変わりを優雅に見知る方法をたくさんヒカルに教えてくれた。
それまで気づかなかった発見はとてもささやかで、気づかないと見過ごしてしまうものが多かった。
知っていたことなのにわからないでいたこと。瞳に映っていたはずなのに見ないでいたもの。

 足元をじっと見ることも大切なのだと教えてくれたのも佐為だ。
靴に踏まれそうになっている福寿草をかがんで見ながら早い春を指先でつつく楽しみを教えてくれたあの冬の日が懐かしい。

 綺麗なそれらは今しか見られない一瞬の楽しみのように感じられて、まるで宝探しのようで、見つけた時はとても嬉しかった。

 懐かしい、佐為と過ごした日々。
朝露に濡れる葉の透明な緑の輝きや、夕陽に羽ばたく鳥の陰影が揺れるさまの物悲しさや、土を押し上げる霜柱の一筋一筋の氷の輝きに情緒を重ねて、佐為と共に季節の移り変わりを楽しんだ。

 自然の恵みや人との出会い、舞い込んだ幸運に感謝する。
そのように佐為がヒカルを育てた。

 だから、佐為と始終一緒にいたヒカルが、現代っ子らしい外見と相対して、古風な面持ちを浮かべる少女に育っていったとしても何の不思議はない。

 古いものを好み、自然を慈しむ精神を抱いていた佐為。
佐為はヒカルにたくさんの教えを残していったが、それは碁や風流な趣味だけには留まらなかった。
良くも悪くも佐為は、ヒカルに多大な精神的影響を残していった。

 千年生きながらえた幽霊は、中性的なとても美しい容貌をしていたが、性根はしっかり男性だった。
現代とはまったく慣習も風習も流行も異なる時代に生きていた佐為は、かなりずれている感覚の持ち主だったわけだが、年端も行かないウブな子供だったヒカルは、情緒を育むべき年頃の三年間、佐為と一緒に生活することで、佐為の好みを、とくに異性に対する趣向を諸刃に食らってしまったのだった。

 まず、現代の男と違い、佐為は女性が肌を露出する服装を纏うのが好きではなかった。

「ああ、何て痛ましいのでしょう。あんな破廉恥な着物で異性の気を引くしかない姫はとても哀れです。
あの腹をご覧なさい、ヒカル。自らの身体を痛めつけて、何を求めようというのでしょう」

 ヒカルが目を向ければ、自分よりも四、五歳は上だろう、漸バラ頭の高校生らしき女が臍丸出しで男の腕に枝垂れかかっていた。
その臍には銀色の丸いピアスがいくつもついて、きらきらと光を反射している。

 初めて佐為が臍ピアスを見た時、佐為は愕然とした。
そしてハッと我を取り戻した瞬間、焦りに焦って、「見てはなりません、見てはなりませんよ、ヒカル」と念仏を唱えるような勢いで何度も同じ言葉を繰り返したものだった。
狩衣の袖でヒカルの顔を覆い隠そうとして必死になっていた佐為。

 だが、二度目となると戸惑いつつも見ないように目を背けるようになり、三度目以降ははっきりと嫌悪感を示すようになっていた。

「ああ、はしたない。姫たるもの、もっと気高い自尊心を持つべきなのに。
あの者は姫としての矜持すら持ち合わせていないのですね。なんて嘆かわしいのでしょうねえ。
いたましやいたましや」

 そして、その嫌悪感はだんだんと憤慨に変わり、
「あのようなもの、ヒカルの教育にまったくよろしくありません。
ヒカル、あなたはあのような真似を決してしてはいけませんよ。わかりましたね」
根気よくヒカルを諭した。

 佐為はそういう時、頬を緩ませ、柔らかな笑みを浮かべていたが、ヒカルは佐為の目の奥に炎が燃えているのに気づいていた。
それが怖くて、ヒカルは、「うんうん。わかったって佐為」と赤べこの首振りのように何度も頷く。
そうしてやっと佐為は本来の朗らかな笑みを浮かべてくれるのだった。

 だから、佐為がそばにいた頃は、キャミソールやタンクトップをはじめ、モロに脚を晒すようなミニスカートなど、その手のものを身につけることはなかった。

 ヒカルが母の美津子と服を買いに行けば行ったで、流行のトップスを愛想良く勧める女性の店員の背後から、佐為が突然、ぬっと顔を出して来ることも珍しくなかった。
「女性が肌を晒すのは褒めたことではありません。ヒカル、あちらにしておきなさい」
横から幽霊が口出ししてくる買い物など、おいそれとは経験できないだろう。
だが、それがヒカルにとって日常だったのだ。

 ヒカルが派手な色合いではあるが形はTシャツでしかないそれを手に取って見ていると、美津子が近付いてきて、「あんた、それでいいの?」とホッとしたように訊いてくる。
佐為も、「まあ、色彩はともかく、それ程度で済まされれば致し方ないでしょう」と渋々ながら頷く。

 こういう場合、佐為もだが、美津子の安堵にはいくつか理由があったのをヒカルは知っていたので、「ま、これでもいいか」と買い物を早く終わらせたくて、パッパと決めてしまうのが常だった。

「ほかのは見ないの? 試着もできるのよ?」

 美津子は同じTシャツならもっとかわいい柄を探したら、と提案したが、ヒカルは「これでいいよ」とそっけなく答えた。
ちょっとカワイイなとヒカルが思った服を選んだところで、どうせ、佐為の待ったがかかるのはわかっていた。

 それでも、元来、ファッションセンスがいいヒカルは自分に似合うものもわかっていたので、活動的な自分の日常を思い浮かべて選んだユニセックス系の服はヒカルをヒカルらしく見せ、「とてもお似合いですわ」と店員も笑顔で対応してくれるほどキマッていた。

「男の子みたいな服ばかり選んで……」とぼやきつつも、どこか安堵している母をヒカルは盗み見る。

「いいんだよ、これで。どうせちゃらちゃらした服なんか着ても、邪魔になるだけだもん」
「確かに。そこら辺中、駆け回っているヒカルにはその服は似合っているけど……」

 女の子らしい服はもう少ししてからでもいいかもしれないわね、と美津子は自分で自分を納得させているのを、母のとなりでヒカルは、そうそう、と頷いていた。

 実はそれより少し前に、うちの娘が夜のバイトを始めてからケバイ衣装を切るようになって困っているのだと、知り合いの女性が美津子相手に愚痴っていたのをヒカルはしっかり聞いていたのだった。
運悪く、日をおかずして近所で痴漢騒ぎが起きたのもあって、女の子の一人歩きは危険だと夕食の席でそういう話題が出るくらい、進藤家では特に美津子が露出の多い派手な服装に過敏になっていた。

「ヒカル、あなたも気をつけなさい。今時の中学生は夜遅くまで外を歩いているけど、あれはよくないわ」

 プロの棋士としての仕事は夜までかかることもあるが、当時、まだ十五にもなっていない中学生ということもあって、棋院もヒカルの仕事の調整を極力してくれていた。
しかし、ヒカルの両親にとって棋院の気遣いは当然のことでしかなかった。
塾通いの同級生のことを思い浮かべれば、自分が特に遅いという意識はヒカルにはなかった。
だが、事件は起こってからでは遅い。避けられるものなら避けて通ろうとするのは自己防衛の基本だろう。

 十代のヒカルが好んで身につけていたのは、動きやすいユニセックスな服装だったから、大人たちにしてみれば幸いだった。
佐為や両親は、男を誘うような淫らな服装よりは男の子と間違えられるような服装のほうが安心できたので、ヒカルの趣向に文句はつけなかったのもヒカルを助長させ、女の子っぽい服をますます遠ざける原因となった。

──そういや、化粧にもあいつ、注文つけてたよなあ。

 厚化粧も佐為の嫌うもののひとつだったとヒカルは思い出した。

「おしろいが悪いとは言いません。紅も美しく引いていれば、あの赤はとても扇情的です。
ですが、日の下で誰かかまわなく多数の男の気を惹くようなそんな身支度は好ましくありません」

 佐為にかかっては、アレも駄目コレも駄目と制約がとても多かったな、とヒカルは昔を懐かしく振り返った。

「姫たるもの、想いを交わす者は選ばなくてはなりません。安売りなどもってのほかです。
ヒカル、あなたもでき得る限り最高の背の君を選ぶのですよ」
「まあ、普通そうだよなー。イマイチな奴よりいい男のほうが誰だっていいに決まってるよ、うん」

 子供だったヒカルは純情まっすぐな心そのままに、そんなものかと軽く流していたのだったが、本人流しているようで、根っこにはしっかりその信条は根付いていた。
すべて佐為の努力の賜物だった。

 佐為の言葉には頷けるものが多く、佐為の感覚はヒカルのものを重なることも多かったことも起因している。
当然、「ふうん、なるほどねー。ほー、なるほどなるほど」とヒカルは馬鹿正直に頷くことが多かった。

 だが、佐為の教育については、ヒカルはとても感謝していた。
他人と違う自分であっても、自分らしさを損なわないでいいと自信が持てたからだ。

 だが、ひとつだけ、ヒカルは佐為の主観にそえないことがあった。
それは、「足しげく通う」が結婚の定義であった平安の慣わしにおいて、正式な妻以外にも恋人を持つことが貴族の男にとって日常的だったことだ。

「実家の身分が高い姫のところに通うために、男たちはいろいろと奮闘したものですよ」

 歌を贈ることは常套手段。
その屋敷で催される宴に参加し自分を売り込み、結婚の承諾を親から貰う者。
目当ての女性の屋敷で働く女に手引きを頼み、強引な手口で結婚を迫る者。
とにかく、あの手この手と策を練って、男は女性を得たものだと佐為は昔を懐かしんだ。

「安易に北の方を決めないのが出世の決め手だと言われていましたねえ」

 落とした女の親の身分が低ければ、恋人として付き合いを楽しみ、より身分の高い姫を目指すのが貴族の男の性なのだと言われて、ヒカルははた、と気がついた。

「でも、それって浮気なんじゃあ……」
「ええ、そうですね。ですが、多くの女性とお付き合いするのは決して珍しいことではありませんでしたよ。
それに、身分の高い姫が下賜された場合、いくら愛しい女性がいても、身分の高いその姫を北の方、つまり正妻としなけれなならなかったのですよ」

「えっと。つまり、恋人がちゃんといるってのに別の女の人に乗り換えるのもアリってこと?」
「ええ、当然です」

 だが、佐為のこの『当然です』がヒカルには到底、許せるものではなかった。
だから、ほかのことにおいては、碁はもちろんのこと、碁に関すること以外でも佐為を心の師匠と敬っていたヒカルだったが、とにかくこの考え方だけにはついていけなかった。

「もし誰かと付き合って、その人と結婚したいってくらい好きになって。
なのに、しばらくしてからほかの女に走られたら、オレはどうすりゃいいんだよ……」

 そして、そのヒカルの憂いは、ある日突然、佐為がヒカルのもとから去ることで、確固たるものになった。

 二度と大切な誰かを失いたくない。あんな哀しみは二度とごめんだ。
佐為を好きだったけど、それは恋愛のそれじゃない。
なのに、あれだけ哀しかったのだ。これで、恋をしたらオレはどうなるんだろう。
両想いの間はいい。でも、すごく好きになったそいつがオレから離れてゆくことになったりしたら、あの哀しみ以上の哀しみと寂しさをまた繰り返すことになってしまう。

 恋は一度だけでいい。その恋がずっと続くものならば、あの胸が引き裂けるような苦しみを味合わないで済む。

 もともと堪え性のないヒカルである。
誰かと付き合ってもちょっとした喧嘩で別れる場合だってあり得る。
けれど、結婚となるとそう簡単には別れられないだろう。
だから自分にはちょうどいい。

 恋する人も結婚相手もひとりで充分だ──。

 十年間、ヒカルはずっとそれでいいと思ってきた。

 かつて佐為は、ヒカルに相手は選ぶべきだと言いながら、男はより条件のいい女性を捜し求めるものだと説いた。
それは、ヒカルに素敵な女性になってほしいという願いから出た言葉だったのかもしれないけれど、男の子とよく間違えられた経歴を持つヒカルは、自分に女性の魅力があるとは思えなかった。

 ましてや、身近な男たち、つまり、和谷や伊角を含む同僚たちが、彼女ができては別れ、別れては別の女の子と楽しそうに話しているのをヒカルはずっと見てきた。
知り合いの別れ話を聞くたび、二の舞になるのは嫌だとヒカルは思ったものだった。

 女流棋士の活躍がめまぐるしいと言っても、棋界はまだまだ男性社会である。
十代半ばからそんな世界に飛び込んでしまったヒカルは、男の性分を聞き知る場面も多く、世情の虚しさや侘しさを少しずつ心に深く刻みつけて、今に至ってしまっている。

──もしも恋する相手との出会いがないならそれでもいい。結婚なんてしなくったって別に困らない。
別れに臆病な自分で何が悪い。

 二十六歳となったヒカルは、すでに堂々と開き直っていた。

──オレにはあんなの耐えられない。別れなんて大嫌いだ。

 そう。別に出会いなんて、ないならないで、それでいいじゃないか。

 そう思ってきたはずだったのに……。





 明子とお茶をした数日後、ヒカルは塔矢家に向かって歩いていた。

 あの日、明子と女同士の話に花が咲いて、気がついたら二時間が経っていた。

「ちょっと買い物に出たつもりだったのに楽しくて、ついおしゃべりに夢中になってしまったわ」

 明子はもっとおしゃべりしたいと言い、今度はぜひ家に来るようにとヒカルを誘ってくれたのだった。

 約束の日を決める際、明子はアキラが休みの日にしましょう、と言ってきた。
せっかくだから、夕飯も食べて言って欲しい。料理をしている間、アキラと一局打っていればいい、と言われて、ヒカルは大いにその気になった。

 明子の料理はおいしいし、アキラとゆっくり打つのは久しぶりだ。
こんなヨダレものの一石二鳥の誘いをヒカルが断わらないはずがない。

 そんなわけで、約束の日の昼過ぎ、ヒカルは塔矢家に向かっていた。
風は冷たかったが、太陽は日高く上っているので日差しは温かい。
小春日和の陽気の中、歩いていると身体がポカポカしてきて気持ちがいい。

 ヒカルは鼻歌交じりにいい気持ちで歩いていた。

 だが、途中から時折、お腹の奥底で不可解な感じがしてきて、おかしいなと首を傾げた。
何か悪いもの食べたかなと最初は思ったのだが、きゅっと締め付けられる下腹の痛みに思い当たるものを感じて、駅に引き返そうかと一瞬迷う。

 すでに塔矢家まで半分の距離を切っている。
だが、どうしようかと迷っていたヒカルは、今度はのっぴきならない事態に陥った。
差し込むような、半端じゃない痛みに襲われたのだ。

「痛ってててて……」

 腹部を腕で抱えるようにしてヒカルはその場にしゃがみ込んだ。
まずいと思った。とにかくトイレに行かないと。

 とりあえず電話をしようとヒカルは携帯を取り出した。
塔矢家自宅の電話番号を表示する。その間にも「痛ぇー」とヒカルは喚いていた。

 何回かのコールのあと、電話口に出たのはアキラだった。

「はい、塔矢です」
「あ、オレ。おばさんいる?」

「母だったら近くに買い物行ってる。
進藤が来たら夕食の材料に買い忘れたのがあったから先に打っててくれって言ってたけど?」
「おばさんいないのか。どうすっかな。イテテ……」

 明子が留守なのは予定外だった。
この痛みを抱いたまま、また駅まで戻るのも辛そうだ。
ヒカルは意を決して、腹を抱えたまま足取り重く歩き出した。

「どうしたんだ? 進藤、今どこにいるんだ?」

 携帯からはアキラの声がまだ聴こえてくる。

「ちょっとヤバイことになった」
「ヤバイ? 何がヤバイんだ? とにかく今どこだ?」

「そんなに喚くなよ。今そっち向かって歩いているとこ……。っつ……。とにかくそっち行くから。
すぐだから!」

 ちょっと進藤!と喚く電話を無理矢理切った。
電話をしている気力もない。痛みが酷くて、とにかく座りたい。

「くっそ。この日に限ってこんなのが来るとは……」

 額に汗がじわっと滲んだ。
しばらく歩いたところで塔矢家の門が見えた。
武家屋敷のような立派な門だが、今日はそんなのに圧倒されている余裕はない。

 ピンポンピンポンピンポンピンポン。

 奇襲をかけたような勢いで、呼び鈴を鳴らすと、玄関の扉がガラッと開いた。
案の定、アキラが出てきた。

「進藤、煩いぞっ! いったいあの電話は何なんだっ!」

 その苦情たらたらのアキラの言葉を最後まで聞くことなく、
「お先っ!」
「ちょっと、進藤……っ」
駆け込むようにアキラの脇をすり抜けて玄関に転がりあがる。

 うわっとか、何だっとかアキラの奇声が後ろから聞こえてきたが、この際そんなの丸ごと無視だ。

「進藤、待てっ!」と叫ばれても、待てるわけがない。

「進藤!」
「うるさいっ! 話はあとだっ! とにかくトイレ貸してっ!」

 慣れ親しんだ気安さで廊下を突き進むと、とあるドアをぴしゃりと閉めて、ヒカルはアキラの追跡を振り切った。

 だが、取り残されたアキラがそれで納得するわけがない。

「進藤っ、出て来い。とにかく説明しろ。何も言わないんじゃわからないだろう!」

 ヒカルがうんうん唸っている間にも、ドンドンドンとアキラの拳がトイレのドアを太鼓のように打ち鳴らした。

「下痢か? だったら薬を用意するぞ。意地汚く賞味期限を過ぎたのを食べたんだろう?
それとも調子に乗って食べ過ぎたのか?」

 普段アキラがヒカルをどんなふうに思っているかを明確に表した声かけに、「おまえ、言うのはそれだけか」とヒカルの呟きが低くなる。

 下腹の痛みは間隔を伴って訪れるものだったが、なかなかトイレから出る気力がわかなかった。
一旦治まっても、すぐ腹部の痛みがぶり返すからだ。

 なのに、痛みに耐え忍んでいるヒカルの苦労を知らないで、「さあ出て来い、早く出て来い」とアキラは犯人を追い詰めた警察のようなことを言っている。
ドアがいつ壊されるかビクビクしながらの状態で、落ち着いて痛みに耐えられるわけがなかった。

「塔矢、ちょっと落ち着け……」

 さっき廊下で叫んだだけでも腹部に力が入って痛みが増したのだ。
できれば大声でしゃべるなんてしたくない。
だから囁くような声になってしまった、というのに。

「何だ。何て言ったんだ。聞こえないぞ、進藤」

 ヒカルは、はあ、と大きく息を吐きながら、「……あとで説明するから。ゆっくり籠らしてくれ」と、とりあえずそれだけ伝えた。

「……わかった。最初からそう言えばいいのに」

 この言葉には、さすがにヒカルもムカついた。
話はあとでするって言ったのを聞いていなかったのはどこのどいつだ、とどつきたかった。
下腹が痛くてどつけなかったが。





「年に何度かメッチャ酷いのが来るんだよ。もう殺してくれーって言いたくなるくらいのひっでーヤツが。
とにかく腹は痛いわ、頭は痛いわで、家から出たくない状態になってさ。
お医者さんには頭痛薬と筋肉弛緩剤を処方してもらってるんだけど、今日、まさかこんなことになるなんて思わなかったら持ってこなかったんだ……」

 今、ヒカルはまったりとこたつに足を入れながら頬をテーブルにくっつけるようにして寛いでいた。
腰周りには毛布がぐるぐる渦を巻いて、ヒカルの身体を冷やさないように覆っている。

 トイレから出てきたヒカルは這うようにして廊下を進みながらアキラを探そうとした。
腹ばい近い格好で廊下をにじり進むヒカルを見つけたアキラはまたまた血相を変えて、やれ医者だ薬だと慌てたので、ヒカルは、「いい加減に落ち着け!」と一括した。
途端、痛テテと腹を抱えて呻いたヒカルだったが。

「おまえには経験ないからわからねえようだけど、女ってのは毎月毎月こういう苦しみを経験してんだよ。
何かしてくれるってんならこたつ貸してくれ。とにかくお腹を温めたい……」

 話の途中からほんのりと頬を朱に染めたアキラを見て、意外とこいつ純情じゃんと内心突っ込みを入れていたヒカルだったが、極度の収縮が腹に起きてそれどころではなくなった。
うっと呻いたきり動けなくなったのだ。

「進藤……? 歩けるか?」

 アキラも、らしくもなく動揺しているようだ。心持ち不安そうな顔をしてヒカルを伺っている。
さすがに男にとって、こういうのは未知なる世界なのだろう。
ヒカルを抱えるようにして、居間に連れ込むとこたつの電源を入れて、「あとは何をすればいい?」と訊いてきた。

「とりあえず毛布くれ。それと何でもいいからあったかい飲物。それでお腹を温めてみる……」
「わかった。毛布と飲物だな」

 毛布を抱えてきたアキラはヒカルの腹部を覆うようにトグロを組むように毛布を巻きつけ、ホットミルクと一緒に、いただきものらしき高級そうな一粒チョコの箱を持ってきた。

「キミ、チョコ好きだったろ?」

 アキラは薬箱も用意してくれた。
頭痛薬は鎮痛剤だから痛みに効く。でも強い薬だから何かお腹に入れたてから飲んだほうがいいと言い添えて。

「チョコ……。ごめん、これ……オレ的には食べたいけど、今は食べたらまずいかも」
「どうして?」

「お母さんがチョコとかイカとかは血の巡りをよくするから酷い時は食べちゃ駄目だって言ってたんだ。
辛くなるだけだからって」
「そ、そうか。だったら、ほかのを探してくる」

 アタフタと台所に消えたアキラの慌てぶりは普段の冷静なアキラとは別人のようで、ヒカルはちょっとびっくりしながらも微笑ましく見ていた。

「これならどうだ?」

 まるで幼稚園児がうまく絵が描けたから褒めてくれと言わんばかりに、焼き菓子の箱を持ってきたアキラの目はキラキラと輝いている。

「サンキュー、これだったら平気。塔矢ももう何もしなくていいよ。あとはただ待つしかないから」
「待つしかない?」

「こういうのは一時的なものだから。ずっとってわけじゃないんだ。オレの場合は長くて二日。
でもだいたい一日で緩くなるから。もうおまえはいいよ、何もしなくて。ありがとな……」
「一日? これがずっとなのか?」

「うーん。痛くなったり、痛くなくなったり。間隔があるんだよ。
子宮が収縮を繰り返してるってことらしいんだけど、結局陣痛もそういうもんらしいからさ……。
っテテ。う、また来た……」
「だ、大丈夫か?」

「ちょっと黙っててくれ。オレ、今はしゃべるのきつい……」
「わかった。キミも楽な姿勢でいてくれ。無理するな」

 いつも怒ってばかりのアキラなのに、今日のアキラは心もとない感じがして、柔らかい印象が強い。
何だか調子が狂うな、と思ったところで、一時の刺すような痛みが消えた。

「……おまえ、どうしたの? 今日は何だか弱々しいぞ……」

 黙ってろと言った本人がしゃべっていいのか、と言わんばかりの視線をアキラが投げてくる。

「何だその弱々しいってのは。こういうのは初めてなんだから仕方ないだろう。
女性の身体の仕組みくらい学校で習ったし、わかっていたつもりだったんだけど。
でも、こんなに苦しいものだとは思わなかったんだ。母のそういう姿は見たことがなかったから。
女の人ってすごいね。こういうの毎月我慢してるんだから。尊敬するよ」
「おお、精々尊敬してくれ。……うー、また来た。痛ぁー」

「またなのか?」
「うん……、でもこたつあったかかくて気持ちいいよ」

「そうか」
「……なあ。今日、こんなんじゃ打てそうにないし。落ち着いたら、オレ帰るから」

「帰る? その体調でか? どうせ家でもそんな調子なんだろう?
それならしばらくここにいるといいよ。その調子で移動なんてきついだろう。帰る時は車で送ってゆく。
母ももうすぐ帰ってくるから、そしたらキミも安心だろ?」

「ありがと……。今日はごめんな。せっかく打ちに来たのに」
「調子が戻ってからちゃんと相手をしてもらうよ。とにかく今はゆっくりして」

「うん……。わかった。ありがとう」





 身体が温かかった。
下半身が特にぽかぽかとして気持ちがいい。

──オレ、寝てたのか?

 うつらうつらしながら、目を開けると、目の前にはアキラの顔があった。

「うわっ」

 身体を起こした勢いで、肩にかかっていた毛布がぱさりと落ちる。
どうやらこたつのテーブルに突っ伏して寝てしまっていたらしい。

「そういやこいつ……」

 ヒカルが呻いている間、アキラはずっと付き合ってくれていたような気がする。
記憶に靄がかかった感じで、どことなくあやふやだった。

 確か、あれからアキラは自分の分の珈琲を淹れてきて、しばらくふたりでたわいない話をしていたはずだ。
そのうち眠くなって、痛みに鈍感になっていって。
起きたらこたつにうつぶせに寝ているアキラのアップがあって。

「こいつも寝ちゃったのか。そりゃそうだよなあ。久しぶりの休日なんだろうしな」

 まっすぐな黒髪の幾筋かがアキラの頬にさらりと落ちている。
すうすう、と寝息を立てる塔矢アキラというものは、知り合って十年以上も経つのに初めてみるアキラで、すごく新鮮だった。
男にしてはつるんとしている頬が、こたつの温かさで桃のようにピンク色をしている。

「お、こんなとこにヒゲ発見」

 顎に剃り残しを見つけて、こいつも男だったんだな、と今までわかっていたはずなのに改めて知ったような、そんな感覚がすとんとヒカルの中に入ってきて、納得したら溜息が出ていた。

「睫、長っ! ホントにこいつ、女の敵だなあ」

 くるんと曲線を描く睫も頭髪同様真っ黒で、楊枝が何本乗るんだろうって想像してしまいたくなるほど立派だ。

 あの夜、怖いくらい光っていた黒髪は、今も異彩を放って輝いている。
ちょっとだけ、指先だけで触ったら、思ったよりも硬くなかった。

 目を瞑っているアキラからは気迫も気概も感じられなくて。
ただ、頭を撫でたら気持ちいいかな、なんて子供みたいなことが、ヒカルの頭に浮かんでは消えた。

 そして、また頭に浮かぶ。

 かわいい。愛しい。
そんな単語がじわじわっと胸の奥底から湧き出てきて、ついでにじわっと目が潤んだ。

 それでわかってしまった。

──ああ、オレはこいつが好きだったんだ。

 でも、それを認めることは悔しいことだった。
ずっとライバルとして友達以上の繋がりがあった相手だ。
ほんのさっきまで自分と同等の位置にいたはずなのに、「好き」という甘い感情を持ってしまったら、今までのように同等ではいられない。

 好きになったら弱くなる。
検討する時だって、好きな相手に怒られるのは怖いし嫌だし、嫌われたくないから、思いっきり自分の意見を言えなくなりそうな気がする。
そういうのが嫌だったから自分の気持ちを認められなかったのかはわからないけれど。
生涯のライバルなんて好きになるもんじゃない、とヒカルは落ち込んだ。

 だから、ヒカルは気づいたばかりの気持ちに蓋をしようとした。

──だって、こいつはオレのことライバルとしか見ていない。

 それがわかっていたから。
自分が傷つくのがわかっていたから、本能的にこの気持ちから逃げていたのか。

──そうなのかもな。

 一生に一度の恋でいいと思っていた。
裏切りも別れもない恋ならば、哀しみも苦しみも寂しさもないと思っていた。

 だけど、恋すればせつなくて。
相手が自分を好きになってくれたら、とやっぱり望んでしまう。

 ずっととなりで歩いてゆけるなら、好きになってくれなくても、ライバルという特別の関係でいられるだけで嬉しい。
自分をほかの誰よりも特別に扱ってくれるなら、それでいい。

 じっとアキラの寝顔を見ていたら、
「こいつ、全然怖くない」
そんな言葉がぽつりと落ちた。

 男はどこか怖いイメージがあった。
いつからだったろう。アキラも怖かった。

 アキラをじっと見つめる。赤い唇にヒカルの視線が一瞬止まった。

 だけど、今は怖くない。
むしろ、寝ているアキラは守りたくなるような存在で、十年前の幼い頃の面影が残っていて、やっぱり塔矢アキラなんだなと思ってしまう。

 いつもだったら触ることなどできないその漆黒の髪を、今日は手のひらでそっと撫でてみた。
頭が温かい。生きているんだなって実感した。

 身じろぎをしたアキラに、ビクンとヒカルの身体が反応して、ヒカルはその時になって初めて、台所から聞こえるまな板を叩く規則的な音に気がついた。

 まだ燻るような痛みが腹部に残っているが、それでも歩けないほどではない。

 台所に行くと、想像通り、明子が夕飯の支度をしていた。

「おばさん、すみません。オレ、寝ちゃって……」

 割烹着姿の明子にヒカルは頭を下げると、
「あら、起きたの? 身体のほうは大丈夫? もっとゆっくり寝てらしていいのよ?
帰ってきた時、アキラさんが玄関先で静かにしてくださいって小声で話すから何事かと思っちゃったわ。
進藤さんが今寝てるからってアキラさんが一通り説明してくれたんだけど、ホントびっくり」
ヒカルの声に振り向いた明子はそう言って、ころころと笑った。

「でももっとびっくりしたのはアキラさんよ。
しばらく夕飯の下準備をしていたのだけど、お茶でもと思って居間を覗いたら、アキラさんまで居眠りしているんですもの。
あなたたちふたりが仲良くこたつでお昼寝してる姿ってすごくかわいらしかったわよ」

 大げさに驚いたような顔をしてから、明子は朗らかな微笑みを浮かべる。

 ヒカルは、あははは、と笑って誤魔化すしかなくて。
他人様の家でまさか寝てしまうとは。
考えてみれば、自分はアキラに恥ずかしいことまでぺらぺらしゃべってしまったのではないだろうか。

「でも、ホントにすみません。せっかくお茶に誘っていただいたのに……」
「それを言ったら私のほうこそごめんなさいね。せっかく進藤さんがいらしてくださったのに留守にしてて。
ちょっと買い物に出たら、町内会長さんにばったりお会いしてしまって。なかなか放してもらえなかったの」

 明子は居間のほうにちらりと視線を投げてから、「もう少し、寝かせておきましょう。お茶でも入れましょうね」とにっこりとヒカルに向かって微笑んだ。





 そのあと、しばらくしてからアキラが起きてきた。
アキラの頬にシャツの皺の跡がしっかりついていたのを見つけて、ヒカルがそれを指差してからかったら、アキラがムキになって、「キミだって、ヨダレ垂らしてたぞ」とヒカルに言い返してきた。
「嘘つけ」とか、「嘘なものか」とか言い合って、それを明子が、まあまあまあ、と嬉しそうに笑って見ていた。

 結局、遅い夕飯を一緒に食べて、ヒカルはアキラの車で家に帰ってきたため、ふたりは一局も打てなかった。
代わりに、次回、碁会所で打つ約束をして、ふたりは別れた。

 そして、その約束の日、ヒカルは碁会所にやってきた。

「あら、いらっしゃい。進藤くん。アキラくんと約束してるの? だったらまだよ」
「へ、そうなの。じゃあ待たせてもらおうかな」

 市河は今でもヒカルを『進藤くん』と呼ぶ。
昔から男の子とよく間違われていたヒカルだったが、今のヒカルを男と間違える人はそういない。
ユニセックスな服を着ても、ボーイッシュに見られるだけで、ヒカルが女性であることは一目見てわかることだ。
それがヒカルには少し寂しい。
男の子と間違えられた時のほうが気が楽だった、と今では思う時もあるくらいだった。

 だから、市河が昔のように呼んでくれると、すごくホッとする。
変わらない人がいることが嬉しくて、すごく安心できた。

 ヒカルのほうも、結婚して『芦原』姓になっても、昔同様、『市河さん』と呼んでいるのでお互い様だ。

「外寒かったでしょ。お茶でも入れるわ」
「ありがと。じゃいただこうかな」

 アキラがまだ来ていなかったので、ヒカルは市河とおしゃべりに興じて時間を潰すことにした。
塔矢の家が経営しているこの碁会所に来るのも二ヶ月ぶりだったから、市河と会うのもそれだけ久しぶりとなる。

 途中、「イッチャン、珈琲もらっていいかな」と声がして、市河は常連客に呼ばれていくまで、久方ぶりに会った女同士の話は思いのほか盛り上がった。

「ごめんなさいね、進藤くん。ついでにお茶入れなおしてくるわね」
「ごゆっくりー」

──塔矢、遅いな。何してるんだ、あいつは。

 約束の時間をすでに三十分は過ぎていた。
ヒカルが遅刻してくるのは常日頃のことだが、アキラが遅れてくるのはとても珍しい。

 暇つぶしに市河が見ていた女性誌をぺらぺらと捲る。
それはクリスマス特集記事が組んであって、「彼氏からほしいプレゼント」のタイトルがパッと目に入った。
ちょっとだけ興味を持って、緑と赤のリボンで飾られたページに目を通してみる。
財布やバッグ、時計や靴。そして、煌びやかな輝きを放つアクセサリーがたくさん載っていた。

 華やかなそれらをぼけっと見ていると、「あら、やっぱり進藤くんも女の子ね」と弾んだ声が横から入って、ヒカルは慌てた。

「えっ、あ、違うって。ただヒマだったから見てただけだよ」
「いいじゃないの。ねえ、進藤くんだったらどれ選ぶ? 実は私、さっきまでそれ見てて。
これなんかいいなあって思ってたの」

 市河が選んだのは優しそうな淡いピンク色の皮製のパスケースだった。

「へえ、いいんじゃない。芦原さんにねだっちゃえば?」
「でしょう? かわいいと思って、ちょっとチェックしちゃったわ。それで進藤くんは?」

「え? オレ? あー、特に今はほしいものないからなぁ」
「さすがにタイトルホルダーね。欲しいものは何でも買えるわよねえ」

「そういうわけじゃないけど。オレ、そんなに物欲ないし。でも服とかは結構買うかな。
安モンばっかりだけど」
「アクセサリーとかは? 進藤くん、あまりつけないみたいだけど、好きじゃないの?」

「どうしてもつけなきゃまずいかなって時以外はほとんどつけないなぁ」
「ネックレスも?」

「あー、肩こりそうでちょっとパス。それでなくても手合い中、ずっと座ってるから肩こりになりやすくてさ。
集中してる時はいいんんだけど、終局してから実は凝ってたってこと思い出しちゃって。
石のようにガチンガチンになってんの」
「ふうん、そうなの、大変ね。あら、指輪もしてないのね。ファッションリングにも興味ないの?」

「真剣勝負の時に女のオレが指輪していると、いかにもちゃらちゃらしてるみたいじゃん?
本気で打って勝っても、相手の棋士に、気が散ったとか遊びで来るとこじゃないとか言われるの嫌だし。
オレじゃあないけど、ほかの女流棋士でそういう負け惜しみ言われて悔しかったって言ってた人がいてさ。
それならそういう理由なんか相手に与えないで勝ってやるってオレ、思っちゃって。
イベントの時もお客さん相手の仕事だから、やっぱりリングするの抵抗あるんだよ」
「それなら進藤くんがするとしたら本当に婚約指輪とか結婚指輪くらいなのねえ。
もったいないわ、綺麗な指してるのに。それにしても細い指ねえ。サイズいくつなの?」

 市河がヒカルの指を手にとって、しげしげと見つめながら尋ねてきた。

「えー、そんなの知りっこないってば。指輪なんて買ったことないし。サイズも測ったことないもん」
「ねえ、この雑誌、クリスマス用のプレゼントのほかにエンゲージリングも載ってるのよ。見てみない?
クリスマスにプロポーズを狙ってる女の子向けなんでしょうけど。
……ほら、ここ。これなんだけど、綺麗でしょう?」

 市河が指差したのは六個の小粒のガーネットがダイヤモンドの周りを囲んでいる指輪だった。
ガーネットが楕円の形をしているので、まるで花びらのように見える。
ダイヤモンドにはイエローダイヤモンドと説明があった。

「このデザイン、素敵よね」
「そんなに気に入ったんなら、これも芦原さんにねだっちゃえば?」

「よしてよ、無理に決まってるじゃない。見てるだけよ。それで? 進藤くんはこの中ではどれが好き?」
「そうだな。この中じゃオレもこれかな。でも色は別のがいいな」

「ガーネットは一月の誕生石だものね。進藤くんは九月だったわね。
確かサファイア……、そうね。このイエローダイヤにサファイヤの青もなかなか素敵よね。
これだったらファッションリングとして普段使いにもいいし、婚約指輪としてもかわいいし。
いいなあ、私もこういうのにすればよかったかなあ」
「あんだけ大きなダイヤの指輪貰っててよく言うよ」

「あれは……、質より量っていうか。
大きな買い物には違いなかったんだけど、値段は大きさの割にはそうでもないのよ。
気張って買ってくれたのはもちろん嬉しかったわ。
でも、あまり考えないで買ってもらっちゃったから、結婚してからはほとんどつける機会がないのよ。
もったいないでしょ?」
「うん。もったいない。普段からつければいいのに」

「だって、一粒ダイヤってフォーマルっぽいし。気軽につけるにはちょっとね」
「なるほど。その点、これだったら普段でもつけられるってわけか」

「そうなの。まあ、これは私の場合の話で、例えば、なんだけどね。
進藤くんが婚約指輪を選ぶ時は、私としてはぜひ、こういうデザイン系のもいいわよとオススメしたいわね」

 結婚なんて、自分にはほど遠い。もしかしたら一生縁などないかもしれない。

「ねえ、アキラくんにねだってみたら?
たまにはクリスマスプレゼントちょうだいって言ってみてもいいんじゃない?」
「塔矢? 無理無理。あいつがこんな高いモン、くれるもんかよ。
いつもの迷惑料とか何とか言って、逆にこっちがたかられちゃうよ」 

「そんなことないと思うんだけどなあ」
「それにこういうのは、やっぱり恋人とか、そういうトクベツな間柄だからねだったりねだられたりするのがいいんだろうし……」

「進藤くん……?」
「あ、いや、何でもない」

 市河が、どうかしたの?と伺うようにヒカルの顔を覗き込んできたので。

「……そうだね、もしも奇特な人がいたら、その時はコレをねだってみるよ」

 だから、ヒカルはニカッと笑って、その場凌ぎにそう答えておいた。

 市河と雑誌を間に挟んでそんな話をしていたら、そのうちアキラがやってきた。

「遅いぞ!」
「悪い。明日の打ち合わせが長引いちゃって。あ、市河さん。これ、みなさんで召し上がって。
母からのお土産なんだ」
「あら、嬉しいわ。ご馳走様。奥さまにもよろしくお伝えしてね、アキラくん」

 明子の土産の苺のゴーフルと塩羊羹は、同窓会に出かけた時のものらしい。
包装紙の製造元の住所が日光市になっていた。

「日光で同窓会か。すっげーな。泊まり?」
「そう、一泊」

「ゆっくりできていいわねえ。温泉入って、おいしいもの食べて。
帰らなくていいからたっぷり飲めるし。羨ましいわ」
「母は飲むからね」
「え? おばさん、飲めんの?」

「うちで一番強いのは、何だかんだと言って母だな。
つまみがなくなると作りに行くんだけど、結構飲んでいるのにしゃきっとしてて、包丁さばきなんていつもより冴えきっているところがまた怖いんだ」
「明子さん、底なしだから」
「ひえー」

「父や緒方さんも母には勝てないんだよ」

 飲み比べしたら母が一番だ、と溜息付くように言うアキラの様子がちょっとおかしい。

「何、シケた顔してんのさ。おばさんがお酒強いと何か困ることがあるのか?」
「……いや、別に」

 その時は、ヒカルはまさか本当にアキラが困っていることになっているとは思わなくて、雅で酒豪の明子に憧れさえ感じていた。

 それから一週間ほどして、ヒカルはアキラの困惑の原因を知ることになった。
当のアキラは韓国で行われるイベントに出かけていて、日本を留守にしていた。

 情報は年末の忙しい最中、アキラの兄弟子である緒方からヒカルにもたらされた──。





「進藤、知ってるか。明子さんがとうとうアキラくんに見合い話を突きつけたらしいぞ」
「え?」

「例の滝沢さんとこの上のお嬢さんの件、おまえも聞いてるんだろう?
滝沢さんが明子さんに直談判したようでな。
あの執拗な滝沢さんのことだ。さすがの明子さんも断わりきれなかったんだろうよ」

 アキラが見合いをするかもしれない。そう聞いただけで心はざわめいた。
けれど一方で、あのアキラのことだ。あれこれ文句をつけて逃げようとするに違いない。
そう、どこかで安心しているところがあった。

 だが、緒方の一言でそれも霧散する。
「重野さんもヤバイだろうな。今度ばかりは滝沢さんに分がありすぎる」と意味深なことを言い出したからだ。

「分があるってどういうこと?」
「俺の情報ではな、滝沢さんとこの上の娘さんはエスカレーター式のお嬢さん学校にずっと通ってて、そりゃあ昔から才女と評判だったらしい。
母親に似たのか和風美人で気立てもよく、小学生の頃から茶道、華道、日本舞踊を習っていたのだとか。
アキラの好みが明子さんタイプならいいとこ突いてると思うんだがな」

「茶道、華道、日本舞踊かあ……、そりゃすごいな」

 茶道の心得があると聞いて、ヒカルは明子のことを思い出した。

 マニキュアが苦手というあの話は、きっと滝沢の娘にも当てはまるだろう。

 明子が言っていたではないか。
お茶の先生から色のついた爪を避けるように言われたのだと。

 和室には香が焚かれているはずだ。
まさか、香水の香りを漂わせながら習う生徒はいないだろう。

 つまりは、緒方は滝沢の娘はアキラ好みなのだと言っているのだ。

「アキラくんも抵抗していたが、飲み比べを持ちかけられてはもう決まりだろう。
会ってみて気に入るということもある」

 明子はアキラに言ったらしい。

『あなたが今まで断わってきたお嬢さんたちとは違うようですよ。
理由もなく会うことすらも断わるのはもうおやめになさい。
もしもどうしてもお見合いをしたくない理由があるのなら、その理由を教えてちょうだい。
理由も言いたくない、お見合いもしたくない。
そんな我がままを通すのは私と飲み比べして勝ってからにしなさい』

 ヒカルは言葉が出なかった。
アキラが言っていたのはこのことだと気づいてしまったからだ。

 飲み比べとなると、アキラは明子には叶わないのだと言う。
それに、滝沢の娘が本当にアキラ好みのお嬢さんだとしたら……。

──きっと香水を纏わない、明子さんみたいな落ち着いた人なんだろうな……。

 会ってしまったら、きっとアキラは気に入ってしまうだろう。

 そういうタイプはこれまでアキラの周りにはいなかった。
仮にそういう女性が今までにもいたのだとしても、ほかのファンの勢いに恐れをなして、アキラに近づけなかったに違いない。
ヒカルの知る限り、今までアキラはそういう女性と出会ってなかった……はずだ。

 けれど、今度の彼女には、後援会副会長という父親の後ろ盾がある。
アキラのそばに近付くのなんて雑作もないことだ。

 恋は一度だけでいいと思っていた。
大切な人との別れなんて、もう二度と経験したくない。
ましてや報われない恋の痛みなんて、そんなの我慢できないに決まっている。
それなら、恋なんて知らなくてもかまわない。

 そう思っていたのに。自分の心なのにままならない。

「このままだと重野会長と滝沢さんとで溝ができちまうだろう。ちょっとそれだと困るんだがな。
どうだ、進藤。おまえ、ちょっと俺に協力しないか?」
「塔矢の後援会なんて、オレには関係ないもん。
塔矢が見合いしたいならすればいいし、したくないならあいつのことだ、どんな手を使ってでも逃げ切るだろ。
オレの協力なんて必要ないよ。それに前にも断わられたことあるし」

 アキラにはヒカルの手助けなんて無用だし、邪魔なだけだ。
そんなことは、今までだって充分知っていた。

「なら、試してみるか?
アキラくんが見合いするなら進藤も見合いしてみようかなって言ってたって伝えてみるのはどうだ?」
「オレは関係ないんだから、そんなこと言う必要なんかないし、そんなことしても無駄だよ」

「仮におまえが見合いして誰かいい人に出会って結婚して、子供でもできれば話が違ってくるぞ?
アキラくんはおまえと打てなくなるだろうし、もし打てたとしても頻度は今以上に低くなる。
それをあのアキラくんが許すかな」
「許すも許さないも。オレは見合いなんてする予定もないし、ましてや子供なんて生む予定なんてないもん」

「だったら俺の子でも生んでみるか?」

 びっくりした。今の今まで目の前にいた緒方が急に大人の男の顔になったからだ。
にやり、と笑った顔に陰がかかる。

 本能的に、嫌だと身体が引いた。

「な、なに冗談言ってんのさ。緒方センセ、ふざけるのはその服だけにしときなよ」
「馬鹿野郎。この服のどこがふざけてるって言うんだッ!」

「ふざけた顔してるって言われるよりはまだマシじゃん。あ、でもその服使い道あるかも。
ね、お気に入りだってんならさ、今度は赤いシャツでも着てよ。そしたらこの季節にぴったりじゃんか」
「赤いシャツ?」

「そ。白と赤でサンタ色!」
「……誰がそんなもの着るか。進藤、からかうのもいい加減にしろ」

「センセが先にオレをからかったんだろう。そういう冗談はオレ向きじゃないんだから、ほかでやってよね」
「なるほど。子供には刺激が強すぎたか」

「誰が子供だ。オレは子供じゃねえよ」
「わかってないな。充分、おまえはお子ちゃまだよ。それも稀にみる夢見るちっちゃなお姫様だ。
まったくこれでは王子様も大変だな」

 いつか王子様がやってくるなんて、そんな夢物語を信じているほど子供じゃない。

 自分を選んでくれる。ただそれだけのことで、そこらの男が王子と呼ばれてしまうのなら、王子なんて糞食らえだ。
童話の世界はみんな王子がお姫様を選んでいた。ああいうのはヒカルは嫌だった。

 昔、ヒカルは思ったものだ。
オレだったら、相手の身分など関係ない。自分が選んだ人が王子だったってそういう話が読みたかった、と。

 あかりはその手の童話を喜んで読んでいたけれど、ヒカルは王子の登場でお姫様が幸せになるというパターンが好きになれなかった。
だったら、それまでのお姫様の努力はどうなるんだって言いたくなる。

 王子がいなかったら円満解決にならないというのなら、別に王子が登場してもいい。
でも、王子はお姫様を選べるけれど、お姫さまが王子を選べないのが気に食わない。

『進藤ヒカルは王子が来るのを待っている』

 ヒカルのことをそんなふうにいう人がいるけれど、自分のことをそんなふうに思ったことは一度もない。
今まで自分を好きなってくれた男たちの申し出を断わったのは、ただ単に、ヒカルが彼らを選ばなかっただけに過ぎない。

 知らない相手なら友達関係からはじめて、少しずつ知っていけばいいと知り合いに言われても、ヒカルはそういう付き合いが自分に向いてないことなどわかっていた。

 ……というよりも。

──つまりはオレ、塔矢のこと好きだったから、ほかのヤツに気が向かなかったってことなのかな。

 ヒカルがいつでも待っていたのはひとりだけ。
そのひとりがヒカルのもとへ来ないのなら、それは致し方ないことで。

 だからといって、ヒカルは自分から向かっていこうなどとは考えられなかった。

 たくさんの女の子たちがアキラに無下にされてきたのをずっと見て来たヒカルにしてみれば、立ち向かってゆく勇気など持てるはずがない。

 それでなくても、別れは辛いし、そんな場面に出会ってしまう未来を想像するのすら怖い。
ライバルという立ち位置だけでも確保していたいと保身になってしまう。そんな自分の弱さを情けないとは思わない。

 卑怯でもいい。少しでもこのまま普通に話せて打てて。喧嘩して笑って。
そんな日常が続くのなら、何でもいい。
自分からわざわざ動いて、この『今』を壊したくない。

──今のままで充分だ……。

 ヒカルはそう思っていた。





 クリスマスも年末年始も例年と変わりなく過ぎ、正月の浮かれ気分も落ち着いた頃、街中はチョコレート戦線を拡大していった。

 二月十四日。この日、棋院の周囲はとても騒がしくなる。
塔矢アキラにチョコレートを渡すために、たくさんの女の子たちが集まってくるのは例年のことだから、若い棋士たちも朝から気が気ではない。
普段、女性と知り合いになる機会が少ない世界である。
なのにこの日は、職場に行けば、おしゃれしたかわいい女の子がたくさんいるのである。
少しはおこぼれとか、出会いとかがあるんじゃないかと期待して、そわそわしているのが丸わかりの男性棋士たちも多かった。

「わかってねえな、あいつら。目当ての男を追いかけている女ってのは、ほかの男には非情ってことをさ」

 和谷が缶コーヒーをぐいと飲みながら、ちらりと玄関外を見やって言った。

 そのとなりで、
「外は寒そうだよね。露店商とか来れば、きっと儲かるのにね。おでんとか、焼きそばとか。
こんな日はあったかいものがほしくなるもんだろう?」
伊角がのほほんとそんなことを言っている。

「ちょっと、こんなとこで天然入んないでよ、伊角さん」と和谷は突っ込みを入れていたが、伊角の言に、「露店商か。確かにそうだな」と同意するのをヒカルはしっかり聞いていた。

 そんなふうに外の様子を伺っていた三人に、「進藤さん、ちょっといいかな」と近付いてきた男がいた。

「進藤の知り合い?」
「ううん。誰?」
「さあ?」

 どこかで見覚えのある顔だけど名前がわからない。
おそらく同僚だろうけど、とヒカルは推測したのだが、「少し時間をくれないかな。話があるんだ」と突然声を掛けられて、ホイホイついていくほどヒカルは無防備ではない。

「えっと、話って? ここじゃ駄目?」

 これと似た状況なら過去にも何度か経験しているヒカルは、相手の男が何を言おうとしているか早々に察しがついてしまって、本能的に逃げ道を作るような返事をしてしまっていた。
が、男は男で脇目も振らずヒカルだけ見ている状態だったので、ヒカルの意図に気付くことはなかった。

「ここではちょっと……。できれば喫茶店とかつきあってほしいんだけど」
「でも、オレ、もう少しここにいたいんだけど……」

 食い下がるヒカルに、「なら、せめてあっちに」と観葉植物の陰を指して、
「わかった、そこならいいよ」
男はわずかな距離だが、ヒカルを連れ出すのに成功した。

 和谷が伊角の腕を肘でつんつん小突いているのが目の端に入って、ヒカルはきゅっと唇を噛みながら男のあとに続いて移動する。

「あの……」

 そう言ったきり口をつぐんだ男は、キョロキョロと簡単に周囲を見渡すと、大きく息を吐いてから、意を決したように、キッとヒカルに視線を定めてきた。

「キミが好きなんだ。できれば結婚を前提に、その、俺と付き合ってほしいんだ。
……あ、いや。その、俺のことは徐々に知ってくれればいいから。
キミに比べたら碁の成績はたいしたものじゃないかもしれないけど、キミのことは誰よりも応援するつもりだし協力もするから。
……って、もう俺、何言ってんだろ……。とにかく俺、きみと付き合いたいんだ」

 好きなんだ、と言われて嬉しいと思ったことは今までなかった。
そう言ってほしいのはずっとひとりだけだったのだと気付いてしまったら、尚更ほかの人からの『好き』という言葉は重くて聞くのが辛かった。

「……すみません。ごめんなさい。オレ、ちょっと無理……」

 相手はヒカルがそう言うのを認めたくないのだろう。

「今すぐ返事がほしいってわけじゃないんだ。いや、返事はあとでいいんだ。
とりあえず今日、よかったらこれから食事でもして、ちょっと話をしないか?
俺のこと何も知らないままじゃ返事も何もないだろうし。ね、いいだろう?」

 ヒカルの言葉に被さるように、男は食い下がってくる。

 自分には応えられないからそんなふうに誘うのはやめてほしいとヒカルがいくら頼んでも、相手はどうしても聞き入れてはくれない。
無理なんだ、ごめんなさいと何度も断わっているのに。
挙げ句の果ては、「好きな奴がいるわけじゃないだろ? だったらいいじゃないか」とそんな勝手なことを言ってきて、ますます押しを強くしてくる。

 そんなふうにどうにも聞き入れてくれない男に、本来それほど気が長いほうでないヒカルは、言い切るような男のそのいかにも「好きな奴なんているはずない」身勝手発言にカチンとしてしまって、思わず、「オレいるよ、好きな人」と口に出して言ってしまった。
「え?」と固まった男の隙をついて、「だからごめんなさい。いくら誘ってくれてもそういう意味では付き合えないし、ご飯も食べに行けない」と畳みかけるようにヒカルは続けた。

「そいつじゃなきゃ嫌なんだ。そいつじゃなきゃ、オレ駄目なんだ。誰でもいいわけじゃないんだよ。
未来なんてものはどうなるかわからないけど、でもオレがあいつのこと好きな限りやっぱり駄目だし、オレ、好きなのやめるつもりないし。
一生誰とも結婚しないであいつのこと好きなままかもしれないし。
でも、オレ、あいつのこと好きなのは、それだけはきっと変わらないから。だから、ごめんなさい」

 ヒカルは何度でも、ごめんなさいを繰り返した。でも男は退かなかった。

「でもそれってつまりは、キミの片想いってことだろう?
だったら、キミのその彼が好きな気持ちごと、オレ、好きになるよ!」

 だから……、と言葉を詰まらせて、男はヒカルの手首を掴んでくる。

「頼むよ、俺を選んでくれっ!」

──この人は何を言ってんだろう。オレを無視して自分の気持ちだけを押しつけようとして。

 ヒカルは怒りがふつふつと沸いてきた。

──オレの気持ちを無視すんなっ! オレに触るなっ!

 不愉快でしかない捕まれた手首を思いっきりヒカルは振り払った。
でも、男の握る力が強くて、払い切れない。

「放せよ!」
「放したら、逃げるじゃないか」

「そんなの、あったりめーだろ!」

 こんな理不尽なことをされてまで、この男に付き合う義理などヒカルにはない。

「おい、どうした進藤」
「何、騒いでるんだ、おまえ」

 伊角と和谷がヒカルの張り上げた声に異変を感じたのか。こちらに近付いて来る。
助かった、とヒカルは縋るようにそちらを見た。

 そのふたりの背の先に、今しがた正面玄関のドアを抜けて、恰幅のいい中年の男が二十代前半の髪の長い女性を連れてやって来るのが見える。
ヒカルは何となく違和感を覚えた。

 中年の男は見かけない顔のわりに、棋院の雰囲気に臆することなく、堂々とした態度で奥に入ってくる。
指導碁の常連客だろうか。
うしろからついてくる若い女性は女流棋士ではないらしいし、やっぱり関係者なのだろうかとヒカルは訝しんだ。

 そこに、エレベータの到着を知らせるチンという音が鳴った。
中から出てきたのは芦原とアキラだった。

 芦原が正面玄関に目を向けると、はっと気付いたように目を見開いて、「ええー? 滝沢さん、どうしてここに?」と叫んでいる。

 滝沢、という名が耳に入った途端、ヒカルは、ああ、あの人が例の見合い相手かとショックを受けた。
想像通りの和風美人。アキラを見つけたのか、一瞬でぱっと華やいだ表情になる。

 綺麗で優しそうで。にこやかに微笑むそれはいかにも清純という言葉が似合っていた。
まさに、正真正銘のお嬢様。
自分とはまったく正反対のタイプの女性でいかにもアキラとお似合いだな。
そう思った途端、きゅんと胸が痛くなって、ヒカルは思わず俯いてしまった。

 アキラとアキラの見合い相手がいい感じで出会っているのに、かたや、見知らぬ男に言い寄られて、振り切れないでいる自分。

 急に泣きたくなって、何でもいいから一秒でも早くここから逃げたくなった。

──ここにいたくない。早くここじゃないどこかに行きたい。

 早く。早く。早く。早く。ひとりになりたい。

 気が急いて。気が急いて。

 だがら、進藤、と呼ばれたけれど、誰の声だったのか、聞き取れなかった。

「もう放して……」

 それだけしか言えない自分が情けない。
知らない男から簡単に逃げることもできない。
自分で自分の自由が利かないのがすごく嫌だ。

 喚いて泣き叫んで。そうしたら振り切れるのだろうか。
けど、ロビーという公衆の場で、どこまで騒いでいいのか加減がわからなくて、結局、声が出なくなる。
逃げたいのに逃げられないでいる、そんな自分がとても弱い存在に思えてしまって、ものすごく悔しかった。

 ぽとり、と落ちたのは悔し涙なのか、哀しみの涙なのか。

 大きな一滴が床を濡らして散った。

 そこに。

「その手を放せ」

 地響きするような低い声が耳に響いた。
相手がビクッとおののいたのが、握られた手首から伝わってきた。

「進藤を放せ。ボクの言っていることが聞こえないのか?」

 不機嫌な声はアキラのものだった。
すでに終局を見透かしたような相手を追い詰めるような冷酷さを秘めている。
戦闘態勢に入っているのが丸わかりなほど、挑戦手合いの最後の一戦に挑むような迫力を全身から放っていた。

 ジロッと相手を威嚇する視線の強さも相当だ。
手合いの時と寸分変わらない眼光の鋭さだ。

「塔矢さん、あなたには関係ないでしょう? これは俺と彼女の問題なんだ」

 男の言葉に、眉間の皺をより深くしたアキラは、「関係ない? ボクが? 冗談だろ。寝言は寝て言えよ」と吐き捨てた。
アキラが人の集まるところで、それも人気の多い棋院の入り口で、ここまで悪態をつくのはとても珍しい。

 ましてや。

「いや、関係ないというならば、確かにキミは無関係だな」

 威嚇どころか相手を挑発している。

 それどころか。

「進藤、ちょうどいい。今度会ったら言おうと思ってたんだ」

 そう言って、口許を少し緩めると、男に向けていた表情を一変してこれ以上もないくらいに優しくヒカルを見つめ、バズーカ砲をロビー全体に向かって撃ちはなった。

「進藤、ボクと結婚してほしい」

 一語一語はっきりとした明瞭なアキラの声が、しーんと静まり返った棋院の一階ロビー中に響き渡る。
この場合、アキラの地声の大きさと、対局に挑む時同様の構えたような迫力こもった態度が加勢して、一層、アキラの存在感は異彩を放って際立った。

 周囲がきょとんと目を丸くしている中、「進藤? 聞こえなかった? もう一度言おうか?」などと、駄目押しの一発を放つアキラは依然として照れる様子もない。
いかにも普段どおりの塔矢アキラで。
ヒカルは、ぽかんと口を開けたまま、その無駄に綺麗なアキラの顔を、思いっきりどんぐり眼で見上げていた。

 だが、アキラのほうは笑顔が長くは続かなかった。
ヒカルの手首に視線を落とすと、再び、口をわずかに引き結んで、ムッとした顔になる。

「勝手に触れないでいただこう」

 そう言い放ったと同時に、ヒカルの手首を掴んでいる男の手を捻りあげ、空き缶を捨てるように放り投げた。

「塔矢……」
「行こう、進藤。みなさん、お騒がせしました」

 アキラが軽く頭を下げると、瞬間、周囲はどわっと沸いた。
その興奮冷めない観衆の間をアキラはヒカルの腕を取って突き進む。
アキラが正面玄関入り口に向かっているのだとわかった途端、ヒカルは反射的に抵抗した。

「よせ、そっちは……」
「いいから。ボクに任せて」

 チョコレートをアキラに渡そうと集まった女の子たちの前には出たくない。
ヒカルを助けるためにアキラがあんな態度を取ったのだとしても、喜んでいいのか落ち込んでいいのかもわからない。

 なのに、アキラはすべてを任せろと一笑する。

 アキラの姿が入り口玄関のガラスドアに透けて見えたのだろう。
たくさんの女の子たちの黄色い声援が季節外れの蝉時雨のようにヒカルの耳に届いた。

 無情に開く自動ドアを、アキラに連行されるように潜り抜ける。

「塔矢さーん。こっち向いてぇー!」
「私のチョコ、受け取ってーっ」

 アキラの四方にどっと寄ってくるファンにもみくちゃにされるのを覚悟した。

 だが。

 アキラが胸元で手のひらを近寄る女の子たちに向けて、『止まれ』の合図を出すと、一定の空間がアキラの周囲にできた。

 視線が集中するのがいたたまれない。
ヒカルは針の筵(むしろ)に座った気分を味わいながら、ただただ小さくなっていた。

 対して、アキラはその異様な雰囲気に怯みもしないで、声高々に馬鹿正直に言い放った。

「さっきボクは進藤に結婚を申し込みました。突然のことに、彼女はとても驚いたと思います。
ですが、ボクは本気です。これからボクは一世一代の大勝負に挑みます。
何としても、ボクは彼女を口説き落とさなければなりません。
なので、みなさんのご好意は受け取れません。
寒い中、いらしてくださって申し訳ありませんがどうぞお引取りください」

 唖然とした雰囲気は、先ほどの棋院のロビーでのものとそっくりだった。

 それはそうだ。
アキラとヒカルの関係は、昔馴染みやライバルがいいところで、結婚とか恋人という恋愛関係とは遠く離れたところにずっとあった。
誰かに聞かれれば、そのように答えてきたし、実際その通りだったから相手も納得してくれていた。

 ところがそのふたりの関係を、アキラは一気に打破してのけた。

 ヒカルの内面に一気に攻め込んできて、究極の手を打ち放ったのだ。

「おい、こんなとこで何言って……」
「もしかして、キミ、ボクが冗談を言ってると思ってる?
だったらキミが信じられるまで何度でも申し込むよ。
ボクはキミと結婚したい。進藤、ボクと結婚してほしい」

 毅然としたアキラの告白に泣き叫ぶ女性もいたが、きゃーと歓声をあげる女性たちのほうが多く、ますます騒然となってしまった。

 ヒカルはアキラに引き摺られるようにしてその場を去ったが、まだアキラの気持ちが信じ切れられずにいた。

──だって、今までオレを好きだなんて、そんな素振りなんか見せなかったじゃん。
本当に信じていいのかわからないよ。

 アキラのすることは突拍子すぎて、ヒカルの理解の範疇を超えていた。

 昔からそうだった。意表をついたことをアキラは突然、しかけて来るのだ。
だが、強引な手口は、力で押すアキラの碁にそっくりで、碁はその人の本質がでるんだなとつくづく感心せざるを得ない。

 ふたりっきりになって、そんなあれこれをアキラに伝えたら。

「キミのことはずっと前から好きだったよ。それこそ十年前からね」
「だったらどうしてもっと早くコクらなかったんだよ」

「それをキミが言うのか?
ボクだって本当は十年前の今日、自分の気持ちをキミに伝えようとしてたんだ。
キミがチョコをくれないなら、ボクから告げようって。でも、邪魔が入った。
正直、何てことしてくれたんだって思ったよ」

 アキラの言う邪魔とは、強引にキスされたことを指しているのだろう。
ヒカルはあの時の情景を思い出して、胸がぎゅっと苦しくなった。

 ヒカルと同調するように、アキラも、告白どころじゃなくなってしまったからあの時は辛かったと口にした。

 だが、アキラの言い分はヒカルとは少し異なった。

「ボクが辛かったのは、あの時からキミは脅えるような、時には責めるような目でボクを見るようになったからだ。
周囲に誰かがいる時はいい。だが、ふたりっきりになった時、キミ、ボクを避けてただろう?
早く帰ろうとしたり、近付かないようにしたり。これでも結構、ボクは傷ついたよ。
最初は自分に何か非があるのかと思ってた。だからぼくは、キミとふたりだけになるまいと決めた。
ボクに対する恐れを取り除くことが第一の目標になって、告白なんてのはその先だって思うことにしたんだ」

 確かに、あの十年前のバレンタイン事件は、ヒカルにアキラを異性として認識させるきっかけになった。
だがそれは、気になる異性としてではなく、男という存在を浮き彫りにしただけだった。

「キミがどうしてそんな目でボクを見るのか、本当の意味でわかるまで二年かかった」
「二年?」

「その頃にはすでにボクは、どれだけ近付いたらキミが警戒するか、だいたいの距離が計れていたからね。
キミの安全圏はだいたい把握していたんだよ。
一定以上に女性として扱われるとキミは引いてしまうから、ボクはキミのライバルとしてそばにいるしかなかった。
でも根本的な理由がわからないと本当の解決には繋がらないだろう。だけど、キミがヒントをくれた。
そう、キミが佐為のことを話してくれて、それでやっとボクは理解できたんだ」

 ヒカルが語る佐為の思い出の端々に、佐為を慕う気持ちと相反して、多数の女性のところに通う男に対する嫌悪が見え隠れしていた。
佐為という最も身近な男性はヒカルにとってずっと『異性』ではなく家族のようなものだった。
なのに、突然男の部分を見せられて、ヒカルは戸惑い、嫌悪したのだ。
アキラの時も同じだ。一番身近にいたライバルが突然目の前でキスされて、異性だと思い知らされた。
だから、ヒカルは恐怖と嫌悪をアキラに覚えた。

「あの頃は時期も悪かった。
キミもだんだん女性らしくなっていって、綺麗になっていくものだから、男たちが注目しはじめていた。
そんなふうに周囲の反応が変わっていゆくのを過敏に感じ取ったキミは、自己防衛なのだろう、女性らしく振る舞うことに抵抗を感じてしまった。
自分のことを『オレ』と言い続けているのがその証拠だ。でも、そんなキミにボクは逆に安堵していたよ。
だって、冗談じゃない。ボクは信用回復するのに精一杯で、キミに近づけないでいるってのに、ほかの男がのこのこキミに近付くのを指をくわえて見てなきゃならないなんて。
ボクが近付いても大丈夫なんだってキミに擦り付けるのに何年要したと思う?
ボクがキミ以外の女性に目もくれない男なのだと認識すれば、博愛主義の男の印象を拭ってくれると思って、ボクはずっとライバルに甘んじてきたってのに、横からトンビに油揚げをさらわれてたまるものか。
ボクは生涯、キミのライバルでいたいし、でも、キミの恋人にもなりたかった。
そしていずれ妻にしたいと思っていたよ。──進藤、キミが好きだ。だから、ボクと結婚してほしい」

 アキラはいつもヒカルの前では、ムッとした不機嫌な顔をしていた。
それなのに、ずっと好きだったなんて言う。

「好きならどうしてオレといる時、楽しそうにしてなかったんだよ」

 だからヒカルは、アキラは自分のことなどそういう対象に見てないんだとずっと思っていた。

「キミに関しては、ボクはとても狭量でね。
キミを狙っている男たちを野放しにするわけにいかなかったんだよ。
キミのそばにいる時は威嚇するのに大変だった。キミだって覚えがあるだろう?
ボクのそばにやってくれば、ほかの男が寄って来ないから気が休まるって前に言っていたじゃないか」
「そりゃ……。でもどうして今になって言い出したんだよ。もっと早く言ってくれたってよかったじゃないか」

「あのね、本命どころか義理チョコだってやるのは嫌だって和谷くんたちにずっと豪語していたのはどこの誰だ?
もしも一年前、キミに告白したら、キミはいい返事をボクにくれたのか?
あの頃はまだ、ボクなんて眼中入ってなかっただろ?
それくらい、これだけ長くキミを見てきたらわかるよ。
ボクは本来、そんなに気が長いほうじゃない。
けど、キミに関しては昔から我慢させられてきたことが多かったから待つのには慣れていた。
ヨセでしくじるなんて御免被りたかったし。ボクは読みを滅多に外さないんだ。
それにこのことだけは計算間違いでは済まされないからね。
けど、キミがボクに興味を持ってくれて嬉しかった。
キミの変化を先に気付かれてしまったのは少し悔しいけど。
でも今は感謝だな。さっき、キミはボクにどうしてもっと早く言ってくれなかったんだと言ってくれた。
嬉しかったよ。それってキミもボクと同じ気持ちになってくれたってことだろうからね」

 よかったよ、とふわりと微笑んだアキラの笑顔が本当にとても嬉しそうだったので、ヒカルは思わず頬を染めた。

「でも、母と市河さんに先を越されたのは一生の不覚だ」

 女性ってのは本当に勘がいい、と溜息交じりに言うアキラのそのわざとらしい仕種が、助言を心から感謝しているくせに素直に喜べないでいる彼の複雑な心境をいかにも物語っていて、ヒカルは何だか楽しくなってきた。

 アキラの読みも完璧ではありえなかったことが知れたからだ。

「でも、緒方先生が言ってたよ。見合いするしないを賭けて、塔矢とおばさん飲み比べするだろうって。
おばさん、ホントはおまえに見合いしてほしかったんじゃないのかな」
「緒方さん、そんなことキミに言ったのか。違うよ、それは。
母はね、ボクがいい加減動かないものだから、もう待ちきれなくなって、自分からキミにうちにお嫁に来て下さいってお願いするって言い出したんだよ。
ボクもまさか、キミの気持ちが急に動き出していたなんて思わなかったから、まだ時期早々ですって母を説得していたんだ。
けど、母と、それに市河さんが、今だったらキミが落ちるかもしれないって言って」

「それって、おまえの気持ち、ふたりとも知ってたってこと……だよな」
「ボクは元から隠してなかったからね。ボクの身近な人ならボクの気持ちなんてみんな知っていたよ。
知らぬはキミばかり」

「でも碁会所で、早く嫁に行けだの、まだ彼氏ができないのかだの、北島さんとかにオレよくからかわれてたぞ?」
「それは、早くボクのところに嫁に行け、ボクの彼女になってしまえの裏返し。
やっぱりキミ、全然気付いてなかったんだな。北島さんたちの気遣いも無駄に終わっていたわけだ」

 アレを気遣いというのだろうか。
喧嘩口調で、やれ男勝りだの色気がないだのとよく言われていたアレが、すべてアキラとの仲を取り持っていたのだと説明されても簡単には納得できない。

 けれど、アキラがずっとヒカルのことを想っていてくれていたのは本当のようだ。

 そこは信じても良さそうな気がした。

「オレのこと、その、す、好きだったっていうのはわかったよ。
でも、モテてたおまえのことだから、ちょっとくらい遊んだりとかしてたんじゃねえの?
緒方先生っていう強力な兄弟子だっているんだし、芦原さんだって、何だかんだと言って結婚するまでは落ちつかなったじゃん。
だから、おまえももしそういうことあったら、今ここで先に言っといて。
あとからどーのこーのって聞かされちゃったら、やっぱりオレ、ショックだろうし。
今だったら、たぶん覚悟ができると思うんだ。だからお願い、言って。正直に」

 過去のことを気にしない、なんて口が裂けても言えない。
けど、知らないままずっと気に病むよりは、知ってしまったほうが楽な気がして。
和谷や伊角をはじめとするヒカルの男友達だって、それほど頻繁じゃないけれど、相手が変わるのをこれまでにも見てきた。

 中には女の子に二股かけられたって落ち込んでいる輩もいて。
本人には「ご愁傷様」と言っておいたが、同時にふたりも好きになれるものだろうか、それとも本命と遊びで割り切っていたのか。
そんなに簡単に自分のそばに誰かがいることをよく許せるもんだなと逆にヒカルはやり手の彼女の心の強さに感心したものだった。

 女流棋士の仲間には、男の甲斐性というヤツに振り回されて、成績を落とした人もいた。
過去の彼女と寄りを戻すからと言われ、突然相手から別れを切り出された人もいる。

 人生、何が突然起こるかわからない。

 アキラは誠実そうだけど、過去の女性が突然やって来たら、自分はどうなるのか想像するのすら怖い。
遊びでも、アキラが一時でも向き合った女性という存在は強敵だ。
そういうのは、やっぱり嫌なものは嫌だ。

 その手のことには潔癖症を自負しているヒカルだったので、はっきりさせておくべきだと判断してのお願いだった。

 だが、このお願いに、アキラは逆に難色を示した。

「本気でそんなこと言っているのか?」

 心底、呆れたような声を出している。

「キミ、ぼくの話をちゃんと聞いてた? その上で訊いているのかい?
キミが何に対して臆病になっていたのか、ボクはずっと知っていたんだよ?
そのボクがキミの信用を落とすようなヘマな手を打つと思うのかい?」

 そう言うと、アキラは顔を寄せてきた。

 触れるか触れまいか。風が吹き抜けたようなキスを落とされて。

「こういうこと、ボクからしたのは初めてだよ」

 目尻を赤らめたアキラが、「進藤、好きだよ。ボクが触れたいと思うのも、一生を共にしたいと思うのもキミだけだ」と囁いた。
そうして、ヒカルを抱き締めて、キミが好きだと繰り返して、結婚してくれと何度も頼み込んできた。

 アキラの早鐘の鼓動が、ヒカルに彼の余裕のなさを教えてくれる。

 ヒカルの胸もドキドキと高鳴って。

「うん。オレも好き」

 このドキドキはアキラになら伝わってもいいな、とヒカルは思った。





 そして、結婚の受諾をヒカルからもぎ取ったアキラは、その日のうちにヒカルをジュエリーショップに連れて行った。
アキラが以前から注文していたという指輪を目の前に出されて、どこかで見覚えのある花を模(かたど)ったそのデザインを、ヒカルは不思議そうに見つめた。

「おまえ、これ……」
「ボクにねだってくれたのだと、そう受け取ってもいいんだろう?」

 イエローダイヤモンドを取り囲むようにサファイヤを散りばめた指輪をアキラがヒカルの左の薬指に嵌める。

 そして、「キミによく似合うよ」と始終笑顔でヒカルを褒めちぎりながら、「サイズがぴったりでよかった。女性の視点はホントに的を射ているね。怖いくらいだ」と種明かししてくれた。





 その後、『塔矢アキラはところ構わずプロポーズをしまくる男』の烙印を押され、アキラは渦中の人となったが、当人はどこ吹く風の姿勢を崩さなかった。

 追って、アキラが押しの一手でヒカルにうんと言わせたのだろう、と噂が流れても、弁解や取り成しなどまったくせず、これまたアキラは意に介さなかった。

 それどころか、「うまいことやりましたね」と下卑た笑顔で訊いてきた者には、「お陰様で」と殊勝な態度で礼をとり、からかい交じりに結婚のことを示唆してきた者には、「幸せになります」と極上の笑顔で返すものだから、相手は顔を引きつらせながら引き下がったという。

 その厚顔なまでの堂々としたアキラの振る舞いに、まったくからかい甲斐のない男だ、とは某十段の台詞である。





 桜が咲く頃になって、両家立会いのもと、結納が取り交わされた。

 結婚の日取りはヒカルの希望で、新緑の綺麗な時期の、鯉のぼりが空を舞う祝日に定められた。



──ねえ、佐為。オレ、塔矢と結婚するんだ。おまえも喜んでくれる?



 五月晴れの真っ青な空の下、新婦の頬を濡らす涙を新郎が優しく拭き取る一幕もあったその良き日。

「おい、いい加減泣きやめよ」
「うるさい。キミにボクの気持ちがわかってたまるか」

 挙式後、貰い泣きした新郎を。

「ほら、チューしてやるからさ。な?」

 あの手この手で新婦が慰めていたという裏話が、まことしめやかに、今も塔矢門下には伝わっている──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。

「恋待ち姫と不機嫌王子」は、いかがでしたでしょうか?
佐為からいろんな影響を受けたヒカルが大人になったらどうなるのか。
これは、その発想から生まれたお話です。

書いていて特に楽しかったのが、純情なヒカルとそれを取り巻く人たちのエピソードでした。
特にアキラが出てくる場面ではノリノリで書けました♪

なお、棋界に関して、いい加減な設定になっている部分もあるかと思いますが、どうぞお許しください。

ひろろんさま、素敵なお話をいつもありがとうございます。
このお話を少しでも気に入ってくださったら嬉しいです♪

このお話はひろろんさまに捧げます。

by moro



moro*on presents


この作品の著作権は、文・moroにあります。
「ヒカルの碁」は原作:ほったゆみ先生、作画:小畑健先生の作品です。著作権などは集英社様にあります。
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