キミ在りし季節



 中学卒業を控えた二月、進藤ヒカルは生まれて初めて本命チョコを用意した。
アキラと碁会所で打つようになって、初めての迎えるバレンタインデー。

 義理チョコと言って渡そうか。
そしたら堅物のアキラでも気兼ねなく受け取ってくれるだろうか……。
チョコを渡したらふたりの関係はどうなるのだろう。

 不安と高揚で胸が張り裂けそうだった。

「こんにちわ〜。あ、塔矢まだなんだ?」

 通いなれた碁会所のドアを、ドキドキしながらヒカルはくぐった。

「進藤くん、いらっしゃい。今日は早いのね。アキラくんなら、少し遅れるって連絡があったわ。
今日はバレンタインデーですもの、アキラくんも大変だわね」
「ははは、まあね〜。あいつの本性知らない人たちが、ホント気の毒で気の毒で」

「あらあら、そんなこと言ってていいのかしら〜? 荷物は?」
「えっと、今日はいいから。ありがと、市河さん」

 察しのいい市河は、「そう。じゃあ、すぐあたたかいものでも用意するわ」とヒカルに笑顔を返した。

 いつもなら碁会所に入ってすぐ、市河に荷物を預けるヒカルだが、この日はいつもの指定席まで大事に抱えて持っていった。
年期の入ったリュックにはこの日のために用意したトクベツなチョコが入っている。

 市河の前でチョコを取り出す勇気などない。
できれば誰も見てないところで、こっそりひっそり渡したい。

「塔矢、早く来ないかなあ」

 男にしておくにはもったいないくらいの無駄に綺麗なアキラの顔立ちを思い浮かべて、ヒカルは頬を緩めるのだった。



 約束の時間から三十分が過ぎた頃、ようやくアキラが息を弾ませながらやってきた。

「遅れて、ごめんっ!」

 ドアを勢いよく開けるのもアキラらしくなければ、顔を赤らめてるのもアキラらしくない。

「走ってきたのか?」
「ああ、まさかこんなに遅れるとは思わなかったっ。ホントにごめんっ。
キミが遅刻してくる時、あれほど遅れるなって言ってたボクがキミ以上に遅刻するわけにいかないし、これでも必死に急いだんだ……」

 息を切らしながらもどこまでも慄然と背筋を伸ばすアキラは、ヒカルに貸しを作るのも弱みを握られるのも良しとしない。

 そんなところもアキラらしくて。

(こいつって意外にかわいいかも……?)

 ついつい笑みが零れてしまう。

「何?」
「別に〜」

 アキラが碁会所に飛び込んで来た瞬間、客の視線が一斉にそちらに流れたが、すぐさまみんな基盤に意識を戻して、それぞれ碁を楽しんでいるので、こちらを気にしている輩はいないようだ。

(もしかしてチャンス? 今だったら、渡せるかも……)

 ヒカルは躊躇しながらも、ごそごそとリュックを漁って、
「あのさ。塔矢、これ……」
『幸せ』の語呂合わせが気に入って買った四粒入りのチョコを箱を取り出そうとした──その時。

「あら、これ……チョコレート? 誰かの落し物かしら?」

 市河の声に即座に振り向いたアキラが、
「それっ、ボクのですっ!」
市河の手からひったくるかのようにチョコを奪い返したものだから、ヒカルはチョコを出しそびれてしまった。

 常連客たちがアキラの慌てようをはやし立てて、
「若先生も隅に置けませんなあ。それ、本命チョコでしょう?」
一目で高級チョコとわかる包装を前に、アキラへと多くの視線が再び集中する。

 誰からもらったのか。告白はされたのか。アキラは相手を気に入ったのか。
「おのれはワイドショーのレポーターか?」と言わんばかりの勢いで、的確にみんなが知りたいところを突いてくるので、ヒカルもアキラが気の毒になって、「棋院でもらって来たんだろ? そんなの塔矢には珍しくないじゃん」とフォローを入れたのだが、正直、みんなが聞きたいことは実のところヒカルも気になることでもあったので、群集に交じるようにしてヒカルも興味津々で、ついアキラの出方を待ってしまった。

「もしかして、若先生……。それがきっかけでお付き合いすることになった、とか? どうなんです?」

 常連客が恐る恐る投げかけたその本題を、どうせ、「ファンの方からいただいただけです」とか何とか返すのだろうと思っていたヒカルは、次に続いたアキラの言葉に自分の身体がカチンコチンに固まるのを知った。

「あ、はあ……。まあ、お茶を飲んだり、どこかに出かけたり……。
そういったことをすることにはなりました……」

 それからヒカルは、その日自分がどんな碁を打ったのか、何をしゃべってどうやって家に帰ってきたのか、まったく覚えていない。

 ただ、アキラが頬を染めて語った言葉──。
チョコをくれた彼女の髪が長かったとか。ふたつ年上だけどカワイイ感じの人だったとか。
これからもヒカルとは打ち続けたいとか。デートも打たない時にするとか。
そんなことだけは一言一句頭の中に刻まれていて……。

『進藤、キミとの対局は絶対、疎(おろそ)かにしないから! 約束する!』

 ライバルを大事にしてくれるアキラの気持ちは嬉しかったけれど。

(そうじゃないんだよ、塔矢……)

 それはライバルの関係で満足しきってるアキラの心情を明確に表していて、ヒカルにはとても喜ばしいこととは思えなかった。

「チョコ、渡せなかったな……」

 この日、誰かに渡すなら、アキラだったら渡してもいい。
そう思って用意したチョコだった。

 男によく間違えられるヒカルだったが、別に男になりたいと思っているわけではない。
ただ、男の服装が自分には似合っていて、動きやすくて気に入っているだけで、今は女らしい格好が似合わないけれど、いつかは自分も大人になったらそれなりに着飾るのだろう、と未来を夢見て現在に甘んじているだけだ。

 いくら男の格好をしても自分は女なのだから、アキラにチョコを渡しても別におかしくなんかない、と。
そう思って、奮起してこの日に挑んだ結果がコレだ。ホントどうしようもない。

 渡す前に感じた胸のドキドキが、今はギュッと萎んでとても痛かった。

「渡さなくてよかったのかも。だってあいつ、オレからもらえるなんて微塵も期待なんてしてなかったし。
あいつに彼女ができようがデートしようが、オレと打つのは続けるって言ってんだからまだ許せるじゃん」

 とはいえ頭では理解していても、気持ちは簡単には整理できない。
案の定、ついつい碁会所から遠ざかって、いつの間にか世間はホワイトデーを通り越して、三月も終わりに近付いていた。

 あれからアキラとは打っていない。
メールが来ても、「ごめん、忙しい」としか返事をしていない。

(きっとホワイトデーは彼女とデートだったんだろうな)

 店先に並ぶ、いかにも売れ残りの「White Day」のシールが貼られたお菓子がすごく哀れで、
「これ、ひとつください」
ついヒカルは手を伸ばしてしまった。

 ホワイトチョコでコーディングされたアーモンドにちょっと苦味を感じて眉を潜める。

「うまいけどまずい……」

 もっともっと甘いお菓子だったらまだ気が晴れたかな、と後悔しかけた時、ヒカルの携帯電話が鳴り出した。

「え……、塔矢?」

 ディスプレイされた登録名に、指先が戸惑う。

「……はい」
『進藤、今どこにいるんだ? 時間があるなら今から打たないか?』

「……今、外だから。何? おまえヒマなの?」
『ああ。だからこうして誘ってる』

「だったらデートでもすればいいじゃん」
『相手がいない』

「だって、バレンタインデーの彼女は?」
『ああ、彼女は留学したよ。イギリスだったかな。二年は帰って来ないんじゃないかな』

 へ? 何だそりゃ、とヒカルは呻いた。

「おまえ、仮にも自分の恋人が留学したんだろっ?!
オレに構ってなんかいないで、そっちに電話でもメールでもすればいいじゃんっ!」
『あー、でも連絡先も聞かなかったし』

 もう、かける言葉は一言もなかった。

『進藤?』
「……うまいもの」

『は?』
「甘くてうまいもの食わせてくれるなら、今日これから打ってもいい」

『それはボクに奢れということか?』
「いやならいいケド……」

『……わかった。今から行く。そこを動くな、待ってろ!』

 ヒカルは近くの公園を指定して、携帯を切った。

「塔矢のヤツ、何買ってきてくれんのかな」

 頬が緩むのが止まらない。

 アキラを待つ間、ヒカルは公園のベンチに座って、綻びはじめた桜の花を数えはじめた……。





 ヒカルが思っていたよりも早い時間にアキラはやって来た。

「約束のものだ。心して受け取れ」

 突き出されたものは趣のある格子模様の包装紙に包まれていた。
開けると、見知った甘いものが片手の数だけ顔をだす。

「お、サンキュー」
「キミは本当に身勝手だ」

「何だよ、怒ってるのか? お菓子買って来いって言ったから?」
「あれからボクは大変だった。甘くてうまいものなんてボクが知るわけないだろう?
母から、今の時期だったらそれがいいと教えてもらえたからよかったものの、いつもこんなわけにはいかないぞ!」

「え? 塔矢のお母さん、今帰ってきてるの?」
「ああ」

「そりゃ悪いことしたな。そうだ、だったらこれ持っておまえんち行こうぜ?
こんなにひとりじゃ食べれないよ」
「まったく、キミは来いと言ったり、うちに来ると言ったり……」

「まあまあ、そう怒るなよ。だったら、コレのお礼にいいもの見せてやるからさ」

 そう言うと、ヒカルは和菓子をアキラに預け、おもむろにリュックから白い扇子を取り出すと、桜の木の下に扇子を胸の前に真っ直ぐ突き出し、形(かた)をとった。

 春の穏やかな風が頬を撫でる。それを合図にヒカルの腰がゆっくりと下がる。
腕を大きくゆっくりと広げ、片足で立つとトンと地面をひとつ蹴った。
腕の動きに合わせた足裁き。風に流れるように真っ直ぐ伸ばした姿勢のまま、回転する。

 パーカーにジーンズ。今時の少年らしい服装なのに、ヒカルのその動きや仕種は現代とは遠く離れた別世界のものだった。

 時間にして一分か五分か。時間の感覚がアキラを迷わせる。

 ヒカルが舞い終わると、「どうだった?」と期待に満ちた笑顔で聞かれ、アキラは思わず、「驚いた」と呟いた。

「キミがこんなふうに踊れるなんて知らなかった」
「あ、でもコレ男舞いなんだ。ははは、実はおまえのほうが似合ってたりして?」

「だったらこれから女舞いも習ったら?」

 アキラは何気に言ったのだが、それを聞いたヒカルは一瞬、口籠った。
が、すぐに、「それは無理」と明るく笑う。

「舞ってみたいなら、教えてやるよ。これはトクベツな舞いなんだ」
「ボクはいいよ。見てるほうがいい」

「そっか〜、結構楽しいぞ?」

 ひらひらと、舞いの余韻を楽しむように、扇子を揺らしてヒカルは遊ぶ。

「満開の桜が散る時、こうして扇子で花びらを掬うんだ。結構難しいんだぜ。
でもやってみると楽しいんだ。おまえもきっと楽しめるよ?」
「見てるだけでも充分楽しいよ」

「だったらいいけど。……じゃ、おまえんちに行こうぜ? 塔矢っ、早く〜」 

 アキラの日常が自分だけのものになった気がして、ヒカルの心はわくわくした。

「桜餅〜桜餅〜っ。すげー楽しみっ」

 だが、ヒカルのその平穏は長くは続かなかった。すぐさま、アキラに新しい彼女ができたからだ。
しかしながら、その彼女も三ヶ月しかもたなくて。

 アキラはまた別の女の子と付き合いはじめた──。





「あいつ、何やってんだよ!」

 「アキラが別れた」と聞けばヒカルは喜び、アキラが「彼女ができた」と言えば急転落下して落ち込んだ。
アキラの一挙手一投足に振り回されてばかりの自分がとても情けなくて嫌になる。

「どうしてオレがこんな目に!」

 アキラが悪い。あんな男のどこがいいんだ。

「碁馬鹿のくせに、ヘンな遊びを覚えるんじゃねー」

 けれど、いくらそんなふうに貶(けな)したところで無駄だった。
自然とアキラに向いてしまうこの気持ちは、どうにも消えてくれそうにない。

 この「好き」は誰にも抱いたことがない気持ちで、ヒカルに舞いを教えてくれた佐為への「好き」とは種類が違う。
告白する前に失恋して。期待をしたら、すぐ裏切られて。

 それでもまだ救いなのは、アキラがいくら恋人を作ろうが、ヒカルとの対局をおろそかにしないことだ。
デートしようだろうが、朝帰りしようが、アキラはヒカルとの約束は必ず守った。

 だから文句ひとつ言えやしない。それが悔しい。

「っていうか、文句なんか言う権利、オレにはそもそもないんだよな……」

 誰かと付き合うのも別れるのも、それはアキラの勝手で自由だ。自分が口出しすることじゃない。

(でも、オレは嫌だ。恋人に昇格してもすぐさま別れを切り出されるのなら、そんな関係になれなくてもいい。
それだったら塔矢のライバルとして、いつでも一緒に基盤を挟めるほうがずっといい)

 そうして無理矢理引き出した答えが、ものすごく正しかったのだとヒカルが気づくのは、それからさらに一年経った頃で、結局、あのバレンタインデーの日から、「お付き合い」の経験値を上げまくってるアキラは、何人彼女が入れ替わろうと彼女が途切れたことはなかった。

(碁には誠実に向き合う塔矢なのに、彼女とは長くて半年しか続かないのはどうしてだろう……)

 そんな疑問を何度かヒカルは抱いたこともあったのだが。

 誰と付き合おうが彼女をとっかえひっかえしようが、いつもの碁会所のいつもの席で、以前にも増して熱心にヒカルと相対する時間を確保しようと努力しているアキラを見知っているヒカルは、文句を言おうにも何を言ったらいいのかわからなくなってしまって、そうして何も言えないまま、結局、「じゃ、またな」と次の機会を約束して終わってしまうのだった。

 女の子と付き合うようになって、昔と変わったことといえば、
「進藤、もう遅いから送ってくよ。冬は日が暮れるのが早いからね」
暗くなるまで打った時などに、自発的にヒカルを家まで送ってくれるようになったことだろうか。

 そういう一面を見るたび、こうやってアキラはいつも彼女を送ってくのかなと想像できてしまってヒカルは少し寂しかった。

 だが、アキラの「ヒカルを送り届ける」というこの行為は、ふたりの想像以上に、周囲にとても好意的に歓迎されていたのだった。

 打ち終わった後のふたりの検討の激しさは、ほかの者たちがそばに寄れないくらい非常識なほど熱く、声だけ聞いていても年寄りの心臓にはとても悪かった。
仲良く帰るふたりを見て、心拍値を整えたくなるのも当然だろう。
市河をはじめとする碁会所の人たちは、無二のライバル相手に熱くみなぎった怒りをぶつけるアキラが、中学時代、碁から離れた時ですらもヒカルをぞんざいに男扱いしていたのを知っている。
だから、年頃になって、女性としてヒカルに対して紳士的な態度でアキラが接するようになったことに、ホッと胸を撫で下ろしていた。

 更に、アキラに感謝していたのはヒカルの両親で。
娘を持つ親としては当然、それが一見、少年と見まがう娘であろうとも、やっぱり夜道は心配だったので、ヒカルがひとりで暗い道を歩かないよう気を遣ってくれるアキラにそれこそ感謝しないわけがなかった。

「ああ、もうそんな時間か。うん、じゃあ頼もうかな。お母さん、塔矢が一緒だと安心するし」

 自分の娘のライバルにして、棋士としても人気沸騰中のアキラは、雑誌などでもよく見知った相手で、ふたりの間には恋愛関係がないと察していた父と母は、「これほどの安全牌はない」とアキラがヒカルを送ってくれることに大手を振って喜んでいたのだった。

「あらあら、いつもありがとう、塔矢くん。今日はご両親、おうちにいらっしゃるの?」
「いえ、今は中国です。来週には帰国するって言ってましたが」

「なら、あがってらっしゃいな。これからご飯作るのも大変でしょ?
ねえ、ヒカル。あんたたち、まだ食べてないんでしょ?」
「うん、オレお腹ペコペコだよ。なあ、塔矢。せっかくだから上がってけよ。
うちのご飯ならもうできてるんだろうし。今から帰って作るのメンドイだろ?
作らないにしても外食するんだったら、どうせならうちで食ってけって。
そんで食べたら続き打とうぜ」

「そうよ、そうしなさい。そうと決まればすぐ温めるわ。もうほとんどできてるの」
「すみません。ではご馳走になります。あ、手伝いますので何でも言ってください。
それくらいさせていただかないと……」

「あら、いいのよ。でも……、それなら取り皿を並べるのを手伝ってもらえるかしら。
ヒカル、あんたはご飯をよそってちょうだい。
塔矢くんが手伝って、あんたが手伝わないなんてのは許さないわよ!」
「へいへーい」

 ヒカルはバツが悪そうに生返事を返した。

 そのヒカルの様子を見ていて、隣りからアキラが、「手伝いは当然だろう? この際だから、キミも少しは料理を覚えたら?」と追い討ちをかけるのだが、
「まだ十七だもん。おまえみたいにこの年で料理できるほうが珍しいんだよ」
ヒカルは馬耳東風の姿勢を崩さず、当然のように聞く耳を持たない。

「まったく……、ボクはキミの将来が心配だよ。食事は生活の基本だぞ。
自分で作れなかったらこの先どうするんだ?」
「いいよ、別に。オレ、今のとこ家出る予定ないし。第一、お母さんがいるもん」

「それでもいつまでもこの家にいられるわけがないだろう? キミだっていつかはお嫁に行くのだろうから」
「嫁にいくって……、あのなー、どこに行くってんだよ。
塔矢、今のおまえの彼女がおまえにどんな期待を抱いてるかしらねえが、これだけは言っとく。
オレを同列に見るな!」

「それでもいつかはキミだって、誰かを好きになって結婚するだろう?」
「そんなこと言ったって、おまえみたいな余裕、オレにはねえもん。まだ怠けた分は取り戻せないでいるし。
今は棋戦で勝つことがオレがやるべきことなんだよ。
おまえはさ、自分だけデートとかしてるってこと、オレに気兼ねしてるみたいだけど。
こればっかりはしょうがないよ。ほら、いい加減にご飯にしよう? お母さんも呼んでるし、さ」

 今日もアキラはデートを早めに切り上げ、夕方からヒカルと基盤を挟んでいた。
ヒカルはアキラから漂う石鹸の香りから、彼が朝帰りなのだと何となく気づいていたが、何も聞かなかった。

 昔と違って、碁会所で待たされるのは、最近ではもっぱらヒカルのほうになっていたとしても、アキラは約束通り、自分との対局を疎かにしていないのだから、と碁以外のことにはヒカルは目を瞑っていた。

「進藤……」
「いいって。そんな顔するな。オレはおまえと打つのが好きで打ってるんだから。
だから、オレがおまえを待ってるのは自分のためなんだ。それにおまえはちゃんと約束守ってるじゃん。
待ち合わせの時間にきっちり来てるんだから、おまえは今まで通りでいいんだよ」

「でもキミを待たせてるだろ?」
「それはおまえが早く来たら、その分長く打てるかなって思ってのことだから。
オレが早く行くのは自分のためっ。それに市河さんたちとおしゃべりしてるのも楽しいんだ。
だからおまえは約束の時間さえ守ってくれれば、それでいいんだよ」

 居間からふたりを呼ぶ美津子の声がする。

「とにかくご飯! 食べたらまた一局だ」
「わかった」





 進藤家への家路をふたり肩を並べて歩く。
碁会所で打ち終わってからのいつもの道。

 この道をふたりで歩くようになって三年が経った。
ヒカルとアキラはともに二十歳を迎えていた。

 飲酒ができるようになって変わったこともある。
ヒカルを家まで送って来たアキラを、ヒカルの父が晩酌に誘うようになったのだ。

 アキラの両親が中国と日本と行ったり来たりしているのは数年前と変わらない。

 母の美津子も、「栄養しっかりとらないと! 若いんだからたくさん食べて」とアキラを夕飯に誘うのが楽しいらしく、ふたりで玄関先に顔を出すと嬉々として家の中にアキラを迎え入れるのだった。

「いつもヒカルがすまないね。ささ、さっそく一杯。キミがイケル口なのはもう知ってるんだ。遠慮しないで。
いやあ、ひとりで飲むのはどうも寂しくてね。
こうして家で一緒に飲んでくれる相手がいるってのは嬉しいよ」

 ヒカルの父、正夫のほうも顔見知りのアキラ相手に上機嫌に酒を勧めてくるから、アキラも断わるに断われない。
ヒカルは酒に弱く、正夫の相手にならないため、その分のとばっちりはすべてアキラに向けられた。

 アキラは酒を飲むのが嫌いではない。
大きな声では言えないが、塔矢門下では機会があるたび、未成年のアキラに酌の相手をさせていたので、酒に関しては飲み慣れている。

「いただきます」

 皮肉れ者の兄弟子と飲むのとは違い、ヒカルの父とは穏やかに酒が飲めた。
だから、アキラは進藤家で飲む酒が苦ではなかった。

「酔ったら泊まっていけばいいわ。ふたりは明日、仕事があるの?」
「オレ、朝から棋院。出版部から呼び出されてる」
「ボクは午後から指導碁があります」

「なら、オレ先に出るな。塔矢、おまえはゆっくり寝てろよ。
午後からなら昼食べてからでも間に合うんだろ?」
「そうよ、そうしなさい。ご飯は作ってあげるから」
「はあ……」

「あ、それともデートの予定があったりする? なら無理には引き止めないけどさ」
「いや、明日は午後の仕事だけだ」

「ならいいじゃん。オレは十時にここ出るから。おまえが起きれそうなら出かけ前に打ってもいいし」
「わかった。それならば七時に起きよう。それで早碁で打とう」

 碁の話になると、いつもの硬い表情が崩れて、アキラは嬉しそうに頬を緩める。
そんなアキラを見ていると、ホントにこいつは碁馬鹿だなあとヒカルはつくづく感心するのだった。

 風呂を勧められ、アキラは恐縮しながら入浴して、風呂上りに再び、正夫の晩酌に付き合った。
夜半時になると正夫が酔い潰れ、それから酔い醒ましにと穏やかな碁をヒカル相手に一局打つ。

 小刻みに、碁石を打つ音が客間に響く。
ときたま、ぽつりぽつりと世間話も織り交ぜる。
碁を打ちながら会話をするなど、数年前のふたりでは考えられないことだった。

 最近では、凌ぎを削る夏の暑さのような熱い碁と穏やかな春の陽気のようなあたたかい碁の両方をふたりは打つ。
フザケ半分で打つのとは違う。ただ、碁を楽しむ余裕が生まれたというのか。
お互いの近況を教え合いながら打つのも、楽しみのひとつになっていた。

 ヒカルにとっても、今日、碁会所でアキラと打ったのは久しぶりで、だからとても機嫌よく打てた。
最近はふたりとも人気棋士だけあってイベントやセミナーに引っ張り出され、仕事が忙しく、なかなか都合がつかなくなっている。
今日の対局は、二ヶ月ぶりにやっともぎ取った大切なふたりの時間だった。

 ひさしぶりにふたりゆったりと顔を合わせて、お互いのことを報告し合う。
すると、ヒカルが今のアキラの彼女だと思っていた女性は、いつの間にか前の前の彼女になっていて、これにはさすがに、「はやっ!」とアキラの相変わらずさに驚いた。

 だが、ヒカルもアキラのプライベートのいざこざには慣れたもので、「特に変化があったわけじゃねえんだなあ」と正直に感想を述べるのだった。
聞けば、アキラに彼女が途切れないのも、半年の最高期間記録もそのままで、全然アキラの日常は変わっていなかったからだ。

(だって、ほかに言いようがねえもんなあ)

 ある意味、ヒカルの許容範囲はとても大きいと言えた。

(それにしても、二ヶ月の間にふたりと別れるってどうよ。これって普通なのか?)

 友人たちから奥手と言われるヒカルであるが、一般的な恋愛というものを知らないヒカルでも、さすがにアキラのこの所業は「おかしい」と感じていた。
誰に聞いても、きっと世間一般常識からは果てしなく外れている行為だと語るだろう。
常識の塊のアキラの本質を知っているヒカルとしては、この非常識なアキラの行動がすごく不思議で仕方なかった。

「おまえの色恋沙汰に口出しするつもりはねえけどさ。それでもおまえのソレ、ちょっと酷くないか?」

 ちょっとどころか、すごく酷いと言っても間違いではない。

「おまえ、こんなこと繰り返してたら、いつ道端で刺されてもおかしくないぞ?」

 何しろ相手は勝手知ったるアキラである。今更、手加減も気遣いも不要な相手だ。
言ったもの勝ち。黙って胸の奥底で燻らせるほうが断然落ち着かないというものだ。

「キミはそう言うけどね、全部が全部、ボクのせいじゃないと思うよ?」
「相手に非があるってのか?」

「ボクは普通に付き合ってるつもりだけど、彼女たちにとってはそうじゃないらしいからね。
でもそれも仕方ないと思ってるよ。
学生の身分の彼女たちは仕事というものを理解しろと言っても無理だ。想像と現実は似て非なりだから。
講義をふけるのと手合いを休むのを同列に考えられても困る」
「あー、そりゃそうだよなあ。でも、前の前の前の彼女は社会人だったんじゃ……」

「ああ、二度目のデートで結婚を匂わせてきた女性(ひと)か?
自分が仕事をやめてもボクの収入なら暮らしてゆけるとか何とか言ってたっけ」
「はあ……、二度目のデートでプロポーズか〜。力入ってんなあ。年齢(とし)いくつだったっけ?」

「確か当時で二十五……だったかな」
「焦る年齢じゃないよな」

「だろう? だから、ボクもはっきり言ったよ。今のところ結婚は考えてませんって」
「何だかおまえ、かわいそうだな。いかにもくじ運悪そう〜」

「くじ運って……。キミ、喧嘩売ってる?」
「いや、同情っていうか。意外と不幸なんだなって思っちゃってる……かな。
なあ、おまえ。もしかして見る目ないとか?」

「失礼だな、相手のいないキミには言われたくないよ」
「ま、そりゃそうだ」

 ぱちり、ぱちり、と棋譜が完成してゆく中で、テンポよく交わされる会話は気持ちがよかった。

「でもさ、二十歳になって以来、おまえ、ずっと後援会から早く結婚しろって言われてんだろ?
見合いとか来てるんじゃないの?」
「そうでもないよ。誰かしかと付き合ってるのわかってるようでね。
だから、お付き合いしている方がいるのでって断わると素直に引いてくれるんだ。
第一、嘘ついてるわけじゃないだろ?」

「確かになあ。とっかえひっかえでも彼女がいるってのは本当だもんな。
おまえってそういうとこ頭回るよなあ。ホント、タダでは起きないっつーか」
「ほら、キミの番だよ。長考はなし。……そういやキミ、女流名人戦、もうすぐだったよね?」

「ああ、今年は狙うぜ? そういや先日、棋院でじっちゃんに会ってさ、発破かけられた。
相変わらず元気だったよっと。コレでどうだ!」
「う、キミはまったく。それならボクはこう繋いで……」

「へへへ、残念でした。こっちにツケ、でいただきっと。塔矢、おまえやっぱり酔ってるだろう?
もう寝ようか? 明日早碁するならもう寝よ。お母さんに言ってくるから」
「悔しいな。酔ってるとはいえ、こんな手に気づかないとは……」

「ただし、負けは負けだぞ。約束どおり今度奢れよ?」
「どこでも連れて行ってあげるよ。どこがいい?」

「あ〜、別に連れて行ってくれなくてもいいや。あのさ、駅ビルにできた新しいケーキ屋、わかる?
オレ、あそこのとろけるプリンが食べたい。
ほんのりと洋酒が効いててうまいんだって。奈瀬が言ってたんだ。だからそこのプリン三つ!」
「三つ? ご家族の分か?」

「まさか、オレが食べるんだよ、三つ全部!」

 食い意地の張ったヒカルはまったく親孝行をするつもりはないらしい。
アキラは思わず眉間を押さえながら、「十個ほど買ってあげるから、ご家族みんなで食べるといい」と言って、ヒカルをとても喜ばせた。





 月日は流れ、二十三歳のヒカルは、女流名人、女流本因坊の二冠を保持したタイトルホルダーになっていた。
当然、イベントなどに借り出される機会も倍に増えた。

 とはいえ、営業以外では相変わらず男と見まがうラフな服装を好んで着ているヒカルである。
しばしば棋院から、「女流タイトルホルダーに相応しい服装で」とお願いされるのはご愛嬌だった。

 アキラも二十一歳になってすぐに棋聖を取り、今では多くのリーグ戦で常連となっている。
今期の王座の挑戦手合いにはすで名乗りをあげ、二冠となるのもそう遠くはないと噂されていた。

 若手トップの、それも実力で言えば棋界でも上位に名を轟かせる塔矢アキラ。
だが、アキラの素行は相も変わらずで、表立っては貴公子のそれで通ってはいたが、プライベートでは落ち着かない生活を続けていた。

 そんなアキラの素行が矢面に立たないでいられるのは、別れ話になっても修羅場にならないアキラの人徳(?)のお陰だろうか。

 かつて、ヒカルは、「平手打ちとかされないの?」と興味津々に聞いたことがあるが、「そこまで頭に血が上ってることは少ないからね」と淡々と返されて以来、その手の話を振るのはやめている。

「クソ、平然としやがって……。聞いたオレが馬鹿みたいじゃん」
「キミ、そんなことに興味があるの?」

「うるせー」

 血が上るのは誰なのか。大事なところは聞きそこねてしまって、それがまた悔しい。

 対して、いつも飄々としているアキラにとって別れ話は慣れたもので、今更騒ぐものではない。
それがひしひしとヒカルに伝わってくるものだから、逐一慌てる自分が愚かに思えてしまって、尚のこと悔しかった。

 いつまでも悔しく思うのはヒカルだけ。それがまた、少しだけ情けない。

「別に浮気をしたつもりはないよ。勝手に相手がボクに愛想をつけるんだ」

 仕事優先の姿勢を貫くアキラは、言いようによっては独身棋士の鑑と言える。
色恋沙汰に我を忘れないあたりは、遊んではいても地盤はしっかり固めている男の自尊心の高さを物語っていた。

 確かにアキラは綺麗に遊んでいる。
余裕綽々で彼女の話をするアキラは楽しそうでもあり、恋する男のソレに見えなくはない。
けれど、ヒカルはかねてより、アキラの恋愛歴にどこか納得できないものを感じていた。

「おまえの碁ってさ、熱血で。ここだってとこで引かない強さがあるけど、恋愛と碁って違うのかな。
碁を見る限り、おまえって、誰かこの女性って人にまっしぐらに突き進むようなそんな恋をしそうなのに」
「そう? 自分じゃわからないな。
まあ、別に誰でもいいわけじゃないけど、正直、この人じゃなきゃ嫌だってのもないってとこか」

「何それ、ひでー。そういうのっ、女の敵って言うんじゃないの? オレだったら嫌だな」
「どうして? ボクは恋人には優しいよ?」

「ん〜、でもすぐほかの誰かに目移りされたら、普通は嫌だろ?」
「キミのその言い方だと、ボクがいかにも浮気しているように聞こえるんだけど?」

「違うのか? だって、今日の恋人が明日は他人ってどうよ?
おまえがそんなにすぐ別の人を好きになれるってほうがオレには理解できないよ」
「でも、この世にはたくさんの女性がいるんだよ?
なのに、そのたくさんの中からボクはボクのただひとりの女性(ひと)を探さなくちゃならない。
それはとても難しいよ。
キミはボクのこと、まるで責めるように言うけれど、実際ボクが知ってる女性たちだって、みんなそのつもりなんだと思うね。
だから、ボクがダメだとわかった途端、彼女たちはすぐほかを探しに行くじゃないか」

「……塔矢の言いたいこともわからないわけじゃないけど。
でも、相手のいいところを見つける前に別れちゃった可能性だってあるかもしれないよ?」
「そういうキミは? キミはいつも口だけじゃないか。
キミは何も行動起こさないでどうやってただひとりの人を見つけようっていうの?」

「オレは……、オレはいいんだよ。自分で見つけるのはもう諦めた」
「諦めた?」

「うん。オレ、今度お見合いするかもしれないし」
「は?」

 突然のヒカルの爆弾発言にアキラは目を見開いて、ヒカルを一心に見つめた。

「キミがお見合い? どうして急に!」
「あー、実はさ。最近、うちのお父さん、お見合いに凝っちゃっててさ。今、マイブームなんだ」

 マイブーム──。それは世間の流行にされない個人的流行を示す。

「お見合いがマイブーム?」
「そ」

「キミのお父さんが?」
「そ。ホント困っちゃうよ」

 アキラは返す言葉が思い浮かばなかった。





 話は少し前に遡る。

 進藤ヒカルの父、正夫は商社に勤めるサラリーマンである。

 発端は、正夫が所属する部の親睦会で、直属の部長に酌をした時。その話は持ち上がった。
それは完全な絡み酒だったが、正夫にとって世間にはびこる教訓を知るいい機会となった。

「うちの娘と来たら、高校時代から付き合っていた同級生と結婚してね。
十六からだから、六年間の付き合いだった。だから私も許したんだよ。
なのに二年ともたずに離婚してしまって……。
アレだね、キミ。子供はいくつになっても子供だね。私たち親からすれば、視野が狭い。
いくら同級生だからよく知ってると言っても、社会に出たら社会人としての顔がある。
娘が知っていたのは学生時代の一面ばかりで社会で揉まれる彼の姿がいかにもふがいなく見えたのだろうが。
娘も娘だ。離婚届の証人になってくれと言ってきた時、あの娘は、『結婚する時、もっと相手をよく見ろって反対してくれたらよかったのに』と言う始末だ。
自分が決めた結婚なのに、何様のつもりだと言いたいね。
これが見合いで知り合った相手なら話は別だ。
それを勧めた親にしろ仲人にしろ、そういう相手に文句を言うのは、それはまあ仕方ないだろう。
年の功だ、年端もいかない娘よりも社会を知ってる分、年配者のほうがいろんな角度で相手を品定めできる。
客観的に判断して、うまくいくかいかないかを想像できる。
キミにも娘がいるのなら、キミのためにも本人のためにも、私は見合いを勧めるぞ。
そうすれば、せめて私たち親が納得した相手を選べるからな」

 当事者の経験談ほど胸に響く話はない。

 この話を聞いた正夫は家に帰って、一から十まで今日のことを逐一、妻に話して聞かせた。
彼としても思うところが多聞にあったからだ。

「ヒカルは昔からいつも好き勝手して、男みたいな格好をして、どうも女らしくない。
色恋の話ひとつあるわけでもなし。
仕事が忙しいとか、特殊な職業に就いているとか、そういうのはこの際関係ない。
第一、同じ棋士である塔矢くんでさえ、どこぞのお嬢さんとお付き合いしているのだから、交際するのに仕事がどうのこうのというのは言い訳にはならない。
実はあれからほかの人にもいろいろと話を聞いてね。とても考えさせられたよ。
そこでだ、私はヒカルに見合いさせることに決めた」
「え? 見合いですか? あの子がそんなものするかしら?」

「しかしだね、ある人のところでは、娘が自分で相手を見つけてくるだろうと高を括っていたら四十を過ぎて、見合いをしようにも相手がいなくて困った、後悔したって言うんだ。
どうせするなら早いほうがいいだろう?」
「それはそうですけど……。確かに二十三ともなれば結婚しててもおかしくない年齢ですけど。
でも、あの子がその気になるかしら?」

「それでも、四十になってからでは遅いだろう? 子供だって生むのが難しくなるし」
「……確かに。そういえば、お隣の奥さんが言ってたわ。
三十過ぎたら体力がガクンと落ちて子育てするのも大変だったって。
生むのも大変だけど育てるほうがもっと大変。
三十までに生み終えるとしたら、ひとりならともかく、ふたり三人ともなれば逆算しても……」

「そうなんだよ。
私たちにはヒカルしか子供が授からなかったけれど、もしヒカルが三人くらい子供をほしいと思っているとしたら?
その現実を教えてあげるのも親の務めじゃないだろうか」

 妊娠したら断乳しなければならないので、年子で生み育てるのは親も子も辛くなる。
せめて二歳違いで生むにしても、三十ちょうどで生み終えるには、仮に三人子供がほしい場合、理論上、二十六歳、二十八歳、三十歳で出産ということになる。

 初産の二十六歳を逆算すると、妊娠するのは二十五歳。
人気の結婚式場は一年先まで予約がいっぱいとのことだから、二十四歳のうちに相手を見つけて式場を押(おさ)える必要があった。

 美津子はざっと計算し終えて、その現実の厳しさに前途が暗くなるのがわかった。

 その打開策が、
「……急がなきゃ」
この第一声である。

「やっぱりそう思うだろう? 悲しいかな、それが現実というものだ」

 生みたいと思ったときにはもう生めず、ではあまりにも我が子が不憫だ。

 ヒカルの父と母は、早速翌日、
「いつまでも若いままではいられないのよ!」と厳しい言い方で我が子を説得することにしたのだった──。





「なあ、塔矢。昔は適齢期のこと、『クリスマス』って言ってたの知ってる?
クリスマスケーキってさ、クリスマス過ぎると売れなくなるじゃん。それと同じ。
二十五過ぎたら結婚するのも厳しくなるって」
「それは昔の話だろう?」

「ん〜、でさ。お母さんが『大晦日なんてとんでもない』って言うんだ。
仕事をする女性が増えて結婚適齢期もあがっても、さっきの話じゃないけど、子供生んで育てるには体力いるから遅くなればその分大変だってさ」

「キミは子供がほしいのか?」
「そりゃ、いつかはって女なら一度は誰だって考えるんじゃないの?
でも、あーいうふうに親から現実突きつけられちゃうとな〜。
だって、相手は一応とはいえ人生の経験者だもん。ちょっと焦るかも?」

 アキラはヒカルの口からお見合いなどという言葉が出るとは、今の今まで想像だにしなかった。

 自分が誰かと付き合ったとしても碁会所に行けばヒカルがいて、ふたりで思う存分打って。
そういう日々がずっと続くのだと思っていた。

 アキラは今までも、ヒカルと碁を打つ約束をしたら、何が何でも用を済ませて約束の時間までに駆けつけてきた。
恋人に、「もっと一緒にいたいの」とねだられても、「約束だから」と突っぱねて、「とにかくライバルを待たせることはできない」と言って、いつもヒカルを優先してきた。
遅刻したのは一度だけ。数年前のあのバレンタインデーの日だけだ。

 彼女たちも、仮にもアキラに恋人と認められた女性たちである。
アキラが棋士である以上、碁を優先するのはわかっていた。
だから、彼女たちはデートの最後にはアキラを腕を手放して、泣く泣く碁会所に笑顔で送り出したのだが……。

 彼女たちの前にはだかった進藤ヒカルという壁はあまりにも大きすぎた。

 ライバルが男なら彼女たちの心はそれほど不安に揺れ動かなかったろう。
だが、アキラが唯一のライバルとして認め、いつでも優先するのは女性棋士である進藤ヒカル。
その事実を知ってしまったら、否応にも自分を優先してほしいと願ってしまうのが女心というものだ。

 進藤ヒカルをアキラの大切なライバルとして純粋に認めたくても、アキラの恋人としての自尊心が邪魔をした。
どこまでもライバルを優先するアキラの態度にも不満が募り、そのアキラの優しさを当然のように受け取るヒカルもまた許せなかった。

「進藤とはそういうんじゃない」とアキラが何度説明しても、疑心暗鬼に陥った彼女たちの気持ちの揺れようはどうにもならない。
結局はアキラを信じ続けることに疲れてしまって、彼女たちはアキラから離れることを選んでしまう、その繰り返しだった。

 アキラの恋人たちにとって、ヒカルの存在は最大の不運であったと言える。

 アキラが言うように、アキラ自身が不誠実だったことは一度としてない。

 たとえ、アキラ自身の言動が、「生涯のライバルを見つけるほうが恋人を作るより難しい」と暗黙のうちに豪語していたのが拍車をかけたのだとしても、最後までアキラを信じ切れなかったのは彼女たちの弱さだった。

 いつも別れを切り出すのは相手。

 いつも取り残されるのは自分。

 アキラはずっとそういう付き合いしか知らない。

 ヒカルだけが、かつてアキラから切り捨てられてもなお、アキラを追ってきてくれたただひとりの存在だった。

 そのヒカルが。

(見合い?)

 世間一般的には、見合いの次は婚約が続く。婚約の次は結婚。それが普通だ。
そもそも見合いは結婚を前提に儲けられた出会いなわけで……。

 アキラは、結婚してもヒカルは今まで通り、碁会所に通ってくれるのだろうか、と訝しんだ。

「そんなことあるわけないじゃない。
デートしてもここに通いつめるのをやめなかったアキラくんのほうが珍しいのよ」

 市河にスパッと言い切られて、アキラは、「そうでしょうか」としか答えられない。

「特に新婚さんじゃあね。普通はダンナさまといつでも一緒にいたいっ思うんものでしょ。
だって人生の春だもの。それにヒカルくん、今だってすごく忙しいじゃない。
仕事の家庭の両立となったら、それこそここに割(さ)く時間なんてなくなるんじゃないかしら。
結婚はまだ先の話だとしても、ヒカルくんだってもうお年頃だしね。
そのうち来なくなっちゃうかと思うと寂しいけど。でもそれも仕方ないのかしらねえ」

 ヒカルは忙しい。その通りだった。

 来なくなる? でも、それでは困る。

 今までにも、棋戦が立て続いた時はお互い打つ時間が持てなくてイラついたのだ。
ヒカルと一日でも早く一秒でも早く一局交えたくて、気持ちが急いたことは数知れない。

 それでも、公式の棋戦は期限期日が定められているから我慢もできる。

 だが、結婚は……。

「冗談じゃないっ!」

 本当に冗談では済まされなかった。





 それから、ふたりはお互い仕事に追われ、アキラがヒカルと打つ時間が持てたのは、「見合いする」発言から一ヶ月後のことだった。

 だが、しばらくヒカルと打てない日々が続いたわりには、その日のアキラの機嫌はとてもよかった。

 理由は。
ヒカルの両親が奮闘して娘のお見合い写真を配り歩いたのだが、梨の礫で、どこからもいい返事が返って来ない──。
これに尽きた。

「進藤くん、お見合いのお話、なかなか進まないんですって?」
「市河さん……。オレってそんなに女として失格なのかなあ」

 ヒカルは雑誌の取材での着物の撮影の機会に乗じて、カメラマンに「親が写真をほしがってる」と頼みこみ、プロが撮った写真を見合い用に用意した。
化粧をして女性らしい服装を身につければ美人棋士としてもてはやされるヒカルである。
さらにプロカメラマンの技術とプロのメイクが加われば、どれほどの「お嬢様」が出来上がることか。
なのに、ひとりとして見合いを承知してくれる相手がいないとはこれはどういうことなのだろうか。

 この見合い写真撮影話を別の日の取材時に耳にしたアキラは、「そこまでして見合いをしたいか!」とヒカルが小憎らしく思ったものだが、いくら写真映りがよかろうとヒカルの釣書では目指す鯛は釣れないらしいと知って、思いっきり安堵した。

 何しろ、ヒカルは中卒。
学歴社会の昨今において、この最終学歴はとても褒められたものではない。

「相手がいないんじゃ見合いは無理だね」

 アキラの一句一音が無性にヒカルをムカつかせた。

(半年すらもたない間隔で彼女を取り替えている塔矢に純愛を期待するなんてアホらしい)

 もう何年も前に諦めた想いのはずだった。なのに、ずるずるいつまでも引き摺って。

 いい加減断ち切ろう。もう諦めよう。
追い討ちをかけるように、ここに来て押しの一手で自分の幸せを今度の見合いで見つけてみようか。
父親もお見合いが趣味になってることだし会うだけ会ってみるか。
そんなふうにヒカルが気持ちをそちらにググッと傾けてみれば、この仕打ちである。

 これでもう最後の最後にしようと奮起して見合いを承諾したヒカルにしてみれば、「見合いの相手がいない」は想像だにしなかった落とし穴と言えた。

「進藤、お見合いなんてやめときなよ」
「うるせー」

「どうせするだけ無駄だよ」
「おまえに言われたかねーよ」

「人間、諦めが肝心だよ。進藤」

 だが、アキラの余裕もそこまでだった。

 翌日、進藤家にひとりの訪問者が訪れたことにより、アキラの思惑は外れ、流れが激変したのだった──。





「いつも息子がお世話になってます。師走のこのお忙しい時期にすみません。
進藤さんのお宅にいつもご馳走になっていると聞いて本当に申し訳ないやら、懇意にしてくださってありがたいやら。
突然で申し訳ありませんが、先日帰国したので、さっそくご挨拶に伺わせていただきました」
「まあまあまあ、ようこそいらっしゃいました。狭いところですがどうぞおあがりください」

 アキラの母、塔矢明子を笑顔で迎えた美津子は、「うちのヒカルこそ、いつも塔矢くんにお世話になって」と頭を下げた。

 アキラがヒカルを生涯のライバルと認めて十年以上経っている。
親同士も子供たちから、互いの家のことは多少、耳にしていた。

 客間の通された明子は、しばしヒカルの母とおしゃべりに興じた。

 女同士。母同士。積もる話はたくさんあった。

 ふと、明子が床の間の隅に置かれた厚手の台紙に目をとめた。

「あら、こちらはもしかして……」

 そう口にすると、案の定、ヒカルの母が食いついてくる。

「そうなんですの。ヒカルのお見合い写真なんですよ。
誰かいい方がいらしたら、と思って用意したんですけど……。
お恥ずかしい話なんですが、なかなかお見合いしてくださる方が見つからなくて。
あの子は早くに社会に出たものですから、そこがどうも相手様に受けがよろしくないようで……。
ホントに困ったものですわ」
「ヒカルさんならたくさんの方が望みそうなのに。おかしいですわねえ」

「でも、主人の会社の方々にお願いしても無駄でしたし……」
「不躾で申し訳ありませんが、よろしければ、私がこちらをお預かりさせていたくわけにはまいりませんか?
お母様が気落ちする必要などございませんわ。
囲碁の世界を知っている方にとって、ヒカルさんは雲の上のような女性ですもの。
もしかしたら、みなさん、進藤さんの素晴らしさに気づいてないだけだと思うのです。
その点、こう言っては何ですが、引退したとはいえ今も我が家には主人を慕ってくださる棋士の方や後援会の方々がいらっしゃいます。
そういう方々にヒカルさんがお見合いを望んでらっしゃると伝えたら、きっとたくさんの方が我先にと申し込んでくださると思うのですよ。
どうでしょう、お母様。この写真、私に預からせていただけませんか?」

「でも、塔矢さんのお手を煩わすのもどうかと……」
「そんな水臭いことおっしゃらないでくださいな。
うちのアキラさんときたら、小さい頃から囲碁ばかりで同じ年頃のお友達と遊ぶことなく、大人の世界を早くから見知ってしまったせいか、情緒面でそれは心配していたんですよ。
でも、ヒカルさんがうちに遊びに来てくれるようになって、あの子はとても変わりました。
ヒカルさんが来てくださると我が家がとても明るくなるんですよ。
他人に興味を持たなかったアキラさんに、人との接点を教えてくれたのはヒカルさんです。
その大事なヒカルさんのお見合いですもの。素敵な方を見つけなければなりませんわ」

「そんな、ヒカルこそ幸せ者ですわ。アキラくんのようなライバルに恵まれて……。
それではお言葉に甘えて」
「いえいえ、ヒカルさんのお婿さん探しですもの。楽しみですわ」

 それからふたりの母たちは一通り、ヒカルの見合い相手の条件などを話し合った。

 ヒカルがこれからも棋士として仕事を続けられることを第一の条件に置き、夫となる相手方の年齢は三十歳未満とした。
また、条件のひとつに、「東京都内在住」が挙げられた。
これは一人娘を嫁にだすヒカルの両親の、実家近くに住んでほしいという希望である。

 その他、いくつかの条件を確認して、美津子は明子に、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「では、お話がまとまりましたら連絡いたしますわ。
何人かの候補者を用意いたしますから、その中からおひとり、進藤さんのほうでお選びください。
まずはヒカルさんが気に入らなければ話は進みませんもの。
ひとりがダメなら次があります。気長に頑張りましょう。
出会いはいずれ訪れます。いつか必ず素敵なお婿さんが見つかりますとも。
ではさっそく、知り合いに当たってみますわね」

 そうして、明子はヒカルの写真を手に、進藤家を辞したのだった。





 アキラが帰宅すると、明子は電話中だった。

 洗面所に寄ってから居間に行くと、座卓の上に見慣れたものが置いてあった。

 電話を終えた母が居間に入ってくるのを待って、
「また見合いですか? すみませんが、断わってください」
いつもの返事をする。

 だが、アキラの言葉に、「あらあら、違うのよ」と明子はころころと楽しそうに笑った。

「ヒカルさんのなの。さきほど、早速おふた方からぜひにとお話があってね。
最初は五人ほどと思っていたのだけれど、どうやら十人くらいは集まりそうよ」

 何の話なのか、と最初は訝しんでいたアキラだったが、それがヒカルのお見合い相手のことだとわかって愕然とした。

「まさか、お母さんが進藤の世話役をしてるんですかっ?!」
「いつもあなたがあちらにお邪魔してご馳走になってるというから、今日ご挨拶に伺ったの。
その時にそういうお話になって。
棋士としての大変さがわかってる方を紹介したほうがヒカルさんのためでもあるでしょう?
だから引き受けたのよ。アキラさんだって、ヒカルさんが幸せになってくれたらと思うでしょう?
だって、ヒカルさんは昔からあなたにとってトクベツな人だったのですからね。
あなたがヒカルさんのことを生涯のライバルとして大切にしてきたのは私だって知っています。
だからこそ、ヒカルさんにはいい方と結ばれてほしいのよ」

 明子はアキラの父、洋行と連れ添ってからというもの、棋士という職業を具間見てきた。
棋士を支える側としての苦労、気遣いを知り尽くしている明子である。

 その明子がヒカルの見合い相手探しに本腰で取り組むのだとしたら……、アキラには結果が見えていた。

 明子のことだ。近いうちに絶対、進藤家の両親が気に入る、ヒカルに似合いの相手を探し出すに違いない。

「お母さん、進藤だって今すぐ結婚するつもりじゃないと思うんです。
確かに見合いは承諾したかもしれませんが、あの進藤が誰かに恋愛感情を抱いて嫁ぐなど考えられません」
「あら、それはアキラさんおひとりの考えでしょう?
ヒカルさんは周囲に気遣いのできる素敵なお嬢さんですよ。
お嫁に行きたいと思うからこそ、お見合い写真まで用意なさったのではなくて?
このヒカルさんの写真、とっても素敵だわ。モデルさんみたい。
気立てがよくて囲碁が強い上にこんな美人さんならきっと引く手あまたよ」

 アキラはそれ以上明子に何も言えなくなった。

 自室に引きこもって、何か突破口はないか考える。
いくつもの仮定から最上の策を導き出す作業はてとても碁に似ていた。

(そっか、その手があったか)

 ひとつ、浮かんだ。ここは攻め手だとアキラは思った。

 さっそく部屋を出て、明子を探す。

「お母さん、お話があります」
「あら、何かしら」

 包丁を片手に明子がアキラの返事を返した。
だが、リズムにのった包丁裁きの音は途切れない。
明子は台所で食事の支度をしているところだった。

「ボクも進藤の見合い相手に立候補します。
進藤が結婚したら、ボクと打つ時間がなくなるというのなら、ボクが進藤と見合いをして結婚します」

 最上の手だとアキラは思った。
これならどこもかしこも大円満に収まって、いいこと尽くしだと我ながら自信があった。

 だが。

 ぴたっ、と止まった包丁の動きが剣呑な空気を醸し出していた。

「それは駄目よ、アキラさん。あなたをヒカルさんのお相手に推せないわ」
「どうしてですか? 塔矢の家に進藤では不足ですか?」

「何を言ってるの。逆よ。あなたがヒカルさんには相応しくないの。
どうしてもと言うのなら、あなた自身の身辺を綺麗にしてからもう一度申し出なさい。
いくらなんでもほかの女性とお付き合いしている人を大事なヒカルさんのお見合い相手に推薦できるわけがないでしょう?」

 いかにも呆れ果てたと言わんばかりの明子の表情を目にして、アキラはショックが隠せなかった。

「でも……」
「でもも何もないわ。私はあなたに資格がないと言ってるのですよ。少し頭を冷やしなさいっ!」





 自室に戻ったアキラは、しばし呆然としていた。

 自分とヒカルは付き合いも長く、相手のことを知り尽くしている。
一緒に暮らすのだってうまくいくはずだ。
進藤家だって、いつもあれこれ親切にしてくれて、自分に居心地のいい空間を与えてくれた。
ヒカルの両親だって、自分を気に入ってくれてると思う。

 だが、このままでは、いずれアキラがいた場所に、ほかの男が居座ってしまう。

(進藤……)

 思えば、アキラが男女交際というものをはじめた起因はヒカルにあった。

 あれは十五の冬だった。兄弟子である緒方の一言が、アキラの自尊心を打ちのめした。

『女というものを知らなくて、女の進藤を理解できるのか?
進藤という女がいつまでもおまえの下にいると思うな。女は化けるからな。怖いぞ。進藤だって例外じゃない』

 女性の脳と男性の脳は違う、と言われれば信憑性も高くなった。
自尊心の高いアキラはライバルのヒカルに勝つにはどうすればいいかを考え、迷った。

 ただ碁を精進するだけではいずれ限度が訪れると言われ、精神を鍛え、相手を知れと緒方に諭され、アキラはいまだ自分はまだ未熟者だとようやく認めた。

『いつまで、アキラくんは進藤という女より先を歩いて行けるかな? 進藤に勝ちたいなら女を知ることだ。
女ほど理解できない生物はいない。きっと勉強になるだろう』

 ヒカルに勝ちたい。ヒカルに負けたくない。ヒカルにいつまでも自分を追ってきてほしい。
そのためには自分はヒカルより一歩先を歩まねばならない。

 ヒカルの考えていること、しようとしていること。
彼女の手の内をを知るには、女性としてのヒカルを知らなければならない。

 だが、ヒカルは女性というよりも中性的で、ほかの女の子のようにふわふわした印象がない。
それでも、日に日に綺麗になってゆくヒカルを見ていると、このまま女性としての強さを身につけ、男には理解できない手で打たれ出したら、自分はいつか追いつかれると焦った。
何の行動を起こさないまま、ヒカルに追いつかれるわけにはいかない。
アキラは動かなければならなかった。

 そんな時だった。おりしもバレンタインデーの日、ふたつ年上の女性がアキラに告白してきた。
「デートをしてほしい」と言うので、渡りに船とばかりに了承した。

 女という生き物を知るには実際、付き合って、少しずつ自分で知ってゆくしかない。
ヒカルと彼女は違う女性だとは重々わかっていた。
だが、ヒカルを負かすために、ヒカルという女性を掘り下げるように知るのは卑怯なことだと思った。
だから、アキラはほかの女性で知るしかなかった。

 女のものの見方。考え方。視野。趣向。

 十人十色とは言ったもので、女性にもさまざまいて、奥が深かった。

 何人目だったか。アキラは、「夏祭りがあるの」と誘われた。
その夏はヒカルとも碁会所の帰りに近くの神社の祭りに出かけ、屋台制覇を本気で狙ったヒカルに無謀にも付き合って、アキラも屋台を頑張って梯子をした。
さすがに途中でギブアップしたが。
そのあと、ヒカルは、「だらしねーの」と言いながらも、境内の石垣で休むよう勧めてくれた──。

 その思い出が楽しかったら、付き合いはじめたばかりの彼女に誘われた時、「いいよ」と軽い気持ちで了承した。

「塔矢くん、こっちこっち」

 連れて行かれたのはアクセサリーを売っている出店で、そこには金や銀のネックレスや指輪が並んでいた。

「十四金だって。こっちは銀だって」

 嬉しそうに左の薬指にいくつもの銀の指輪をはめて、サイズを計る彼女。

「ほしいなー。未来の約束ってカンジ」

 彼女はアキラよりも五歳年上で、学生だったが、成人はしていた。

「どう、似合う?」

 アキラは、彼女が急に薄ら怖くなった。

 自分たちが付き合いはじめたのは先々週のことで、付き合いは当然浅い。
女性という生き物を知るために男女交際というものをはじめたアキラだったが、その頃には一生を共に歩いてくれる人を真剣に探すようになっていた。

 付き合わなければ相手がどういう人柄なのか、どんな考え方を持っているのかわからない。
だから、相手を知らないという理由だけで、「好きです」と告白してくる女性を追い払うのは出来るだけ避けようとアキラは考えた。
だたし、誰かと交際中に、別の女性から告白されたら、「今、お付き合いしている方がいるので、すみません」とアキラは必ず断わるようにしていたが。

 相手を知ろうと努力するアキラに対し、アキラを知ろうとしないで自分の欲求だけ追及する女性たち。
噛み合わないな、とアキラは諦め半分の溜息を幾度となく漏らすのだった。

 だから、アキラは、出店の安物のアクセサリーとはいえ、彼女が指輪をねだろうとするのが許せなかった。

 彼女が本当に望んでいるのは指輪ではない。アキラ自身でもない。
ただ、「塔矢アキラの妻」という安定した未来がほしいだけだ。
それが明らかにわかるから、アキラはますます口惜しく思う。

(ボクのことを何も知りもしないで、望むだけ望むのか)

 それ以来、アキラは「合わない」と判断したら、すぐ行動に移すようになった。
正直に自分の気持ちを相手に打ち明け、一緒にいてもおそらく長く続かないと説明した。

 彼女たちの中には泣いて悲しむ女性もいたが、泣いても喚いてもアキラの決心は揺るがないと知ると、最終的にはみんな諦めていった。

 棋士のアキラの意志の強さは折り紙付きだ。
アキラを説得できる女性などいるはずがなかった……。



 アキラはヒカルに勝つために、「男女交際」という未知なる世界に飛び込んだというのに、そのヒカルが自分と打たなくなるかもしれないと聞いて、どうして黙ってなどいられるだろうか。

 アキラは、キッと視線を障子に向けると、おもむろに携帯電話を手に取った。

「ボクだ。今から会えないか? 話があるんだ──」





 また今年もバレンタインデーがやってきた。

 碁会所にヒカルが行くと、市河が、「今年こそ誰かにあげたの?」とさっそく聞いてくる。

「これから見合いしようっていうオレが誰にチョコやるっていうのさ。誰もいねーってそんな相手。
いたらそいつと今頃、結婚でも何でもしているよ。
第一、バレンタインってさ。オレ、鬼門なんだよね。
和谷たちにも催促されたりするんだけど、義理チョコ用意しだしたらきりないし。
だからチョコなんて誰にもやらないの」

 市河は、一度だけヒカルがチョコを用意したことがあるのを知っていた。
だが、ヒカルはそのことに触れてほしくはないらしい。

「これは私からのチョコよ」

 市河はホットチョコレートを淹れて、ヒカルに渡した。

 その日、碁会所に来る前、ヒカルはアキラから、「そっちに行けなくなった」と断わりの電話を受け取っていた。
ヒカルは、「わかった」と手短に話を済ませたのだけど、たまたま何も予定がなかったし、この日だけはひとりでいたくなかったのもあって碁会所で時間を潰すつもりでやって来た。

 だから今日は碁会所にいても、アキラとは打てないのは承知の上だ。

 カップの中のとろりと溶けたチョコレートがとてもあたたかい。

「バレンタインデーか……。今頃、塔矢はデートかな。きっと新しい彼女とさ」
「どうかしら。アキラくん、ここのところ仕事が立て込んでるようなのよね。
もしかして今日も急な仕事が入ったんじゃないの?」

 昨年の年の暮れ、アキラは頬に大きな絆創膏をつけて棋院に登院してきた。
誰もが、きっと修羅場があったんだろうな、と容易く想像したものだが、実際、塔矢アキラに突っ込める人間はその場には存在しなかった。
ヒカルは泊まりで地方に出ていて、その週はアキラを見かけてなかったので実物を見ていないが、和谷や伊角の話では、それはそれは目立つ絆創膏だったらしい。

 アキラのことだから恋人と別れたのだとしても、またすぐ新しい恋人を作って楽しい年末年始を過ごしたことだろう。
ついでに今日のバレンタインも、きっと彼女がおいしいチョコを用意しているに違いない。

「ん〜、だって、年に一度のバレンタインなんだぜ?
こんな日にわざわざ仕事を入れちゃったりしたら彼女が怒っちゃうんじゃないの?」
「あら、進藤くんが彼女の立場ならやっぱり怒ったりするの?」

「え? オレ? どうかなあ。残念には思うかもしれないけど、仕事が相手じゃな〜」

 恥ずかしそうに、ぽりぽりと鼻の頭を掻くヒカルに、市河は、「進藤くんはわかってるものね。アキラくんの仕事。アキラくんの立場。アキラくんの性格。わかっているから相手の身になって考えて、進藤くんは言葉を選んでいるのよね」と言った。

「そんなことねーよ。あえて言うなら、長い付き合い……だからかな?」

 それでも、長く付き合えばいいというものではない。
最終的には、付き合いの深さがものを言う。

 市河は、それほど想っているならどうして、とじれったくなった。

「ね、あの日のチョコ、どうしたの?」

 突然、市河に話を振られて、「ぶっ」とホットチョコレートを吹きそうになったヒカルは、
「な、何のこと?」
必死にすっ呆けようとしたのだが。

「私、知ってるのよ。アキラくんに初めて彼女ができたあの年のバレンタインデー。
進藤くん、チョコ持ってきてたでしょ?」
「あ……。もお、市河さんったら勘がいいなあ」

「あのチョコ、どうしたの? 自分で食べちゃったの?」
「……内緒」

 ヒカルはどんな顔をして市河を見ていいのかわからなくて、「チョコのことは誰にも黙っててくれよ」と囁くのが精一杯だった。

 その時、碁会所のドアが突然開いた。

「あれ……、塔矢?」
「アキラくん、今日は来れなくなったんじゃなかったの?」
「指導碁にキャンセルが出たので急いで来たんです。進藤、もしかしたらいるかと思って」

 来てよかった、と笑顔を浮かべたアキラは頬が淡い朱色に色付いていた。

「外、寒かっただろ。市河さんがホットチョコレート淹れてくれるってさ。
バレンタインデーのチョコ代わりだって」
「キミは? もう飲んだの?」

「ああ。おまえも温まるから飲めよ。そしたら打とう?」
「もちろん」

 だが、それからすぐ、ヒカルに自宅から電話があって、急に帰ることになった。

「ごめん、呼び出された。急用だって」

 打つ時間がなくなって、残念そうに自分を見つめるアキラが、いつものように「送るよ」と口にすると、
「おまえ、来たばっかじゃんか。まだ明るいから平気平気。それにまだ身体が冷えてるんだろう?
少しここで温まっていけよ。じゃ、お先に。市河さん、チョコご馳走さま」
ヒカルは勢いよく碁会所を飛び出した。

 遠くから、ヒカルの「さびー」という声が碁会所に残った人々の耳に届く。

「……ねえ、どこから聞いてたの、アキラくん」
「え?」

「しばらく入るの待ってたでしょ。ガラス窓から透けて見えてたわよ」
「進藤が……、進藤がいつかのバレンタイデーの時、チョコを用意してたって」

「しっかり聞いてたんじゃないの。そうよ、進藤くん。一度だけチョコあげようと思ったことあるの。
誰に、とは言わないわよ。でも……、わかるでしょ?」
「だったら! 今までだってバレンタインデーは何度もあったのに!」

「それをアキラくんが言う? あのね、ほかの女性から男を取ろうっていう女はしたたかよ。
誰かのものだからほしくなる。自分が幸せになれるなら他人がどうなろうとは構わない。
そういうのは、本当の恋じゃないわ。打算の恋はいつか必ず冷める。
いずれ一緒にいることが苦痛になるものよ」

 窓の外はどんよりとした曇り空で、今にも雨が降りそうだった。

「あのね、アキラくん。進藤くんはアキラくんがやってくるのをいつだって嬉しそうに待ってたわ。
会えば、ふたりとも時間を忘れて遅くまで打って。
言い合いしたりもしてたけど、羨ましいくらい、ふたりともすごく楽しそうだった。
アキラくんだって、進藤くんと一緒にいる時間、頑張って作ってたじゃない?
進藤くんはきっと嬉しかったと思うの」
「でも、進藤は見合いするって……」

「そうね。でも、できればアキラくんとこれからもずっと一緒に打っていきたいんじゃないかしら。
だから、今までも進藤くん、忙しいのに通って来てくれてたんじゃないのかな」

 客の誰かが、「雪だ……」と呟いて、その声に引かれて、ほかの客も窓を開けた。

「寒いはずね」

 窓に目を向けた市河の声が、アキラにはとても遠くに聞こえる。

(進藤……)





「ただいまー!」

 急いで帰って来なさい、と連絡を受けて、何事かと帰宅すれば、にこにこ顔の美津子が待っていた。

「ヒカルっ。今日、お見合いの写真がたくさん届いたの! さあ、この中からさっそく選んでちょうだい!」
「は?」

「お見合いよ、お見合いっ! 塔矢くんのお母さんが今日、持ってきてくれたのよ。
すごいのよ、十一人もあんたとお見合いしたいって男性がいたのよ。
ホントに塔矢さんには感謝しきれないわ。
実はね、お父さんも会社を早退してきて、もうさっそく見たのよ。今、お風呂に入ってるわ。もうご機嫌よ。
親から見て気にいった順に一応写真を並べといたから。あとはあんたが選びなさい。
決まったら、お互いの都合のいい日を決めるから。さっさと決めてもらわないと話が先に進まないのよ」

 乗り気満々の母の様子に、ヒカルは大きく溜息をついた。

「じゃあ、一番上のヤツにする」
「え? そんな安易に決めちゃっていいの? よく考えたら?」

「ん〜、お母さんたちが一番気に入った人でいいよ。
だって、オレが気に入っても結局親がイマイチって判断したら、どうせ別の人を勧めるんだろ?
まずはふたりが気に入った人と会ってみるよ。その人と気が合いそうだったらモッケモノだし。
駄目だったらまた次、頑張ればいいじゃん」
「そんな、やる気のない態度で! これはあんたの結婚なのよ?」

「だーかーらー。候補者を絞るのは任せるけど、最終決断は自分でするって言ってるの。わかった?」
「あんた、ホントにそれでいいの?」

「うん。あとで休みの日教えるから。今月はもう無理だから、たぶん来月になると思うけど。
ま、仕事の予定次第かな」
「先方の予定もあることだし、いくつか都合のいい日出してちょうだいよ。
余裕持って二か月分くらいあるといいかしら。
それを塔矢さんに伝えて、その中から相手に選んでいただくから」

「オッケー」

 自分のお見合い話だというのに、自分のこととは思えなかった。

 二階の自室に戻ったヒカルは、
「こんなことならそんなに急いで帰らなくてもよかったんじゃ……。せっかく塔矢と打てそうだったのに」
母からの緊急電話を今更だが恨みたくなった。

 バレンタインデーは嫌いだ。五月の端午の節句の日と同じくらい嫌い。
そばにいてほしい人がいなくなってしまう日だから。だから嫌い。
ヒカルにとっては、どちらも鬼門でしかなかった。

「バレンタインデーか……」

 市河に忘れかけていたことを思い出されて。重ね重ね今日はついてない。

(えっ、と。確か……ここに……)

 引き出しの奥を漁ると、小さな箱が現れた。
紺色の包装紙に、細くて黄色いリボンを二重にかけた四角い箱。

(塔矢……)

 いっそ捨てられたらよかった。それとも今すぐ自分で食べてしまおうか。

 どちらの勇気もヒカルにはなくて、そっと引き出しの奥に再び四角い箱を仕舞いこんだ。





 季節は巡る。いつかは誰しもの上にも春が来る。

 四月の良き日、母に付き添われ、ヒカルは振袖姿で築地の料亭の暖簾をくぐった。

(考えてみれば見合い結婚ってホントすげーよなあ。
マジに一度会っただけでこの人だってのがわかるもんなのかな……)

 打ち水された飛び石が目に入った。赤い毛氈の外腰掛が目に鮮やかだ。

 結局、見合い相手は両親が選んだ。

 一度の見合いで相手の良し悪しを決めるのは自分には難しい。
その点、両親はそれなりの人生を歩んで、自分よりは経験も目利きもあるだろう。

 両親が気に入った相手なら、一次試験はまずは合格。
残る二次試験、つまり、ヒカル自身が面接で納得すれば、結婚は決まったようなものだ。

(何か、あっけないな……)

 仲居の、「こちらのお部屋はどのお部屋も中庭に面しています」の案内も耳に遠い。

 ふと、庭先に満開の桜の木を見つけて、ヒカルは目を細めた。

(もう春、なんだな……)

 自分でも悠長だと思う。
もしかしたら、これで自分の一生が決まってしまうかもしれないのに。

 出かけに美津子が、
「一度のお見合いで決めなくてもいいんだからね。今日が駄目なら次。
次が駄目ならその次。わかったわね、ヒカル。
でも、一応今日のお相手はお母さんのイチオシよ。だから頑張って!」
気軽に行け、とでも言いたいのか、プレッシャーをかけたいのか。
その真意を図りきれない言葉をかけられて、ヒカルは、「うん」と頷くことしかできなかった。

「こちらでございます。……お待たせいたしました。お連れさまがお着きになりました」

 襖が開けられ、部屋の一部が見えた。

(塔矢のお母さん? あ、そっか。仲人さんだもんな……)

 この見合い話はすべて明子が用意したものである。
だから、明子がこの場にいるのは当然だった。

「お待たせして申し訳ありません。この度はお日柄もよく。本当に良き日でヒカルも幸せですわ」
「進藤さん、お待ちしてましたわ。まあまあ、ヒカルさん、とてもお似合いよ。綺麗だわ。
さあさ、こちらの席にどうぞ。お座りになって」

 母に続いて、お辞儀をする。俯き加減に部屋に入ると、大きな座卓に席が四つ用意されていた。

「え……?」

 すでに三人が席に着いている。

 母の美津子、その向かいに明子。そして──。

「塔矢……?」

 どうして、の言葉は声にならなかった。

「さあさ、ヒカルさん。お席に着いて。それではさっそく自己紹介させていただきます。塔矢明子です。
こちらはヒカルさんもすでにご存知の、うちの不肖の息子のアキラです。
この度はこのような大切な席にお誘いいただきまして本当に感謝いたします」
「アキラです。進藤、ボクとの見合い、受けてくれてありがとう」

 ヒカルはパニックになっていた。
明子が何を言ってるのかも、アキラが何をしゃべってるのかも聞こえない。
頭の中でわんわん耳鳴りがして、どうしたらいいのか途方に迷った。

「進藤?」
「……おまえ、わけわかんない。どうしてここにいるわけ……? 第一、彼女はいいのか?」

「……この四ヶ月、彼女なんていないよ」
「うそ」

「本当だ」
「だって……」

「そもそもキミが見合いするなんて言い出すから……」

 途中まで言いかけて、珍しくアキラが口どもる。
母親たちの顔色を伺うアキラという、これまた珍しいものを目の前にして、これまたヒカルは唖然とした。

 アキラが何を考えているのかわからない。
その意図を探るように、ヒカルは向かいの席で静かに俯く生涯のライバルの姿をただ黙ってじっと見続けた。

「ねえ、ふたりとも。ここのお庭はとっても素敵よ。少し散歩でもして来たら?」
「そうよ、ヒカル、塔矢くん。ほら、桜が綺麗に咲いているわ。いい季節だもの、いってらっしゃい」

 庭に出た途端、少しだけ冷たい風が一陣、吹き抜けた。

 日差しがあたたかいのでそれほど寒さは感じない。
でも、寒さを感じないのは、互いの存在に気をとられているせいかもしれない。

 料亭の庭は広く、とても静かだった。

「そこ、濡れてるよ」

 先に歩みを進めるアキラが、ひとつの飛び石を指差して言う。

「うん」

 返事を受けて、アキラは、すっ、とヒカルに手を差し伸べた。
何年も一緒にいるのに、こんなふうに手を握るのははじめてだった。

「……なあ、おまえ。ホントに今、誰とも付き合ってないのか?」
「信じられないのか?」

「だって、年末、おまえ修羅場だったって聞いたから。てっきりもう別の彼女作ってるのかと思ってた……」
「修羅場なんてものはなかったよ。誤解だ」

「だってほっぺに絆創膏張ってたって……」
「あれは……。確かに見合いをしたいからもう付き合えないって言ったけど──」

 別れ話を持ち出したら相手が動転してしまって、突然、車道に飛び出したのだとアキラは語った。
向こうからは車が来てるし、すごく焦ったよ、というアキラにヒカルが顔色を一瞬、変える。

「何やってんだよ、おまえ! 危ねえじゃねえか!」
「うん、危なかった。でも、元はと言えばボクが原因だし。とにかく彼女が無事で何よりだったよ」

 咄嗟に彼女を抱えて引き戻したアキラは、勢いでアスファルトに滑り転んだ。
その時、顔に擦り傷を作ってしまったのだと言う。

 ヒカルは、「それで年末の絆創膏か……」と事の成り行きを理解した。

 アキラの前恋人は、血だらけのアキラの顔を見て、自分が犯した間違いに唖然として立ち尽くした。
我に返ると何度も申し訳なかったと平謝りし、アキラの心配をしながら帰っていったようだ。

「それでその元カノ、納得してくれたわけ?」
「何だかね、気が抜けたらしいよ。
もうちょっとで死ぬところだったと思ったら、ボクと別れることなんて何でもないってさ」

「おまえってホントに女の敵だな」
「うん」

「でも、命かけて守ったんだな」
「うん」

「彼女、助かってよかったな」
「……でも、その時、思ったんだ。
キミがもしもそんなことしようものなら、ボクは冷静でいられなかったろうって。
無事を確認したあと、きっと引っぱたいて、どうしてこんなことするんだって怒鳴りつけて、ボクをおいてゆくつもりかって縋(すが)りついて泣いてたと思う」

「泣くって、おまえが……?」
「ボクだって人間だからね。泣く時は泣くよ。
彼女には悪いけど、彼女のためにはボクはそこまで自分を見失えなかった……。
キミだけだよ、進藤。置いていかれるのも置いてゆくのも嫌なのは」

「そんなのおまえだけじゃないよ。オレだって……、嫌だよ?」
「うん、同じだね」

 履きなれない草履がヒカルの歩みを遅らせる。
アキラはヒカルに合わせて歩を進めた。

 薄紅色の花を求めて、ふたりで歩く。
いつまでもこうして歩いていたいと思う道だった。

 それでも、アキラには自分の心がまだ判断しかねていた。
ヒカル相手に嘘偽りを言うわけにはいかない。

 だからアキラは意を決して、
「ボクはキミに謝らなくてはならない。すまない、進藤……」
自分の想いをすべて言葉にしようと心に決めた。

「ここに来てまでこんなこというのは卑怯かもしれないけど、正直言ってよくわからないんだ、キミのこと。
好きかって聞かれれば、好きだって答えるけど、愛してるのかと聞かれたら、よくわからないとしかボクには言えない。
この見合いが成功しないとキミはいずれは他人のものになってしまう。それは嫌だ。
わかるのは、ほかの男に渡したくないということと、これからもずっと一緒に碁を打っていきたいっていうことだけだ」
「塔矢……」

「本当にすまない……。こんな気持ちのまま見合いに臨んだボクを許してほしい。
けど、今はこれくらいしか言えないけど、絶対キミを好きになるからっ!
キミを愛してるって心から言えるよう努力するからっ!
だから、ほかの男と見合いするのはやめてくれ。キミの時間を他人に渡すのはよしてくれ!」

 この通りだ、頼む、とアキラは腰を曲げてヒカルに願った。

「……おまえがオレを好きになるって保障、あるのかよ?」
「そう言われてしまうと返す言葉がないんだが」

「頼りねえの」
「……駄目だろうか。無理な願いだとは自分でも承知してるんだが」

(塔矢がオレに願うってか……?)

 信じられなかった。ずっと願い続けたのはヒカルのほうだった。

 いつも願うのはヒカルばかりだと思っていた。

(オレ、もう一度願ってもいいのかな……。信じてもいいのかな……)

 今までアキラと打ち続けながら、いくつもの年月、いくつもの季節を駆け抜けてきた。

(あ……花びら……?)

 満開の桜がヒカルの視界を覆い尽くす。
陽の光に、薄いピンク色の花びらが透けるような明るさを放って、太い幹の黒さと引き立てる。
まるで影絵のようだった。

「もう春なんだなあ……」

 気がつけば、あの雪の日のバレンタインデーは遠く過ぎ去り、あたたかな季節になっていた。

(そういや、あのチョコどうしようか……。今更だけど渡してみようか……?)

 まわりを見渡せば緑も多い。ここが東京だというのを忘れかける。
小川の流れる音が心地よい。遠くから獅子脅しの音も聞こえた。

「進藤……?」

 心配そうにヒカルの顔を覗き込むアキラは、いかにも頼りなさげで、見合い相手がこんな心もとない男では普通の女なら断わりを入れてしまうところだろう。

 本気で見合いに挑む男なら、見栄を張り、虚勢を張ってでも、自分は最高の男なんだと主張して、相手の気を引く努力をするものなのではなかろうか。

 なのにアキラは、まったくその逆で。
おのれの弱さも情けない姿もかなぐり捨てて、塔矢アキラというひとりの男の真実をヒカルに見せようと必死になっている。

(ホント馬鹿だな、こいつ……)

 だが、その馬鹿を諦めきれずに想い続けた自分はどうだろう?

(でもオレはこの馬鹿がいいんだよなあ……)

 だから、ヒカルは大事なものを今度こそ手に入れるために、思いっきり叫んだ。

「三ヶ月っ!」
「は?」

「オレだって、そんなに待ってられねえもん。だから三ヶ月! 三ヶ月の猶予をおまえにやる!
だからその間に何とかしろ! おまえも男だろう?
オレのこと本気で好きになるって約束したならちゃんと約束守れよ!
塔矢アキラに二言はないだろ? だから三ヶ月だけオレも待ってやる。だけどそれ以上は待てねえよ。
だってオレ、お母さんから言われてるんだもん」

 アキラは美津子がヒカルに話して聞かせた「三十までに子供三人を生むには」の話を思い出した。

「ああ、あれか。キミ、そんなに子供三人ほしいの?」
「そんなのオレにわかるかよ。だってオレ、今はそこまで考えられねえもん。
でも、もしほしいって思った時に覚悟してるのとしてないのだとやっぱ違うだろ?
だから、お母さんの言うことも一理あるかなって思うんだ。
今から三ヶ月後って言ったら七月で……、そんなこんなしてたらオレ、誕生日来ちゃうし。
そしたら二十四になっちまう。
とにかくお母さんたちから二十四のうちに式場予約しろって言われてるんだよ」

「わかった。三ヶ月以内だな、努力する」
「おう、頑張って努力してくれ」

 ヒカルは笑いが止まらなかった。

(こいつ、こんなんでよく女と付き合ってこれたよなあ……)

「努力する」とアキラは言うが、誰かを好きになるのに努力など必要ない。
努力したところで人の気持ちはどうにもならないからだ。

 それなのに、真面目に約束を果たそうとするアキラ。

 そんなアキラがとても間抜けでおかしくて。

 そして、とても愛しかった。

(ホント抜けてるんだから……。こいつ、全然気づいてねえな。
自分でちゃんとコクっておいて、努力するも何もないのに)

『ほかの男に渡したくない』

 そんな気持ちを抱いた瞬間、すでにアキラはヒカルのことを想っている。
明らかに、ヒカルに好きだと言っておきながら、努力して好きになるなんて愚かなことを約束している。

(でも、おもしれーから黙っとこっと……)

 ヒカルは晴れやかな気持ちで、春の鮮やかな色彩をその瞳に映した。

「ねえ、進藤。前に舞ってくれたあれ。もう一度見てみたいんだけど?
あの時、今度は満開の桜の下で舞ってくれると言ってくれただろう?」
「そんな約束、オレしたっけ?」

「した!」
「花びら掬うのは楽しいぞって言った覚えはあるけど……」

 満開の桜の淡い薄紅色も、新緑の若草色も。

 こうしてアキラと一緒に見れば、世界はきらきらと輝いて、とても美しいのだと感じられる。

「いいじゃないか、この際どっちでも。今見たいんだ。頼む、ここで舞って見せてくれ」
「……オレの舞いは貴重品だぜ? そんなに簡単に見せられるかよ」

「前は見せてくれたくせに。一緒に舞おうって誘ったあれは?」
「見せたのはおまえだけ。だから貴重だって言ってんの!」

 思いがけないヒカルからのトクベツな言葉に、アキラは満足そうに微笑んだ。

 満開の桜の下で、舞い戯れる。
振袖の長い袖がふわりと揺れて、ひらひらと舞い落ちてくる花びらがヒカルの動きに流されるかのようにふわりと浮かんだ。
くるりくるりと回るたびにヒカルの微笑みが綻んで。
楽しげに舞うヒカルをじっと見ていたアキラもいつの間にか誘われて、ヒカルの真似をして花びらを追いかけた。

 桜の花と戯れるふたりを、ふたりの母たちが遠目に見やる。

「どうなるかと思いましたけど、どうやら納まるところに納まってくれたようですね」
「本当に」

 家で待つ男たちに素敵な土産話ができそうだと互いに手を叩いて喜びながら、「さて式場はどこがいいかしら」と今後の相談に余念がなかった。

「これからも末永くよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

 こうして、三ヶ月待たずとも、この日より、アキラとヒカルは両家公認の仲になったのだった──。





 そして、約束の三ヵ月後の七月の吉日。

 ヒカルとアキラは、碁会所の近くの夏祭りに足を運んだ。

 人込みの中、われ先に行くのはヒカルで、アキラはもっぱら、ヒカルを追うのに必死だった。

「塔矢! 焼きそば、お好み焼き、焼きとうもろこし、焼きイカは絶対買いだぜ!」
「進藤待てっ! 先に行くなっ、はぐれるぞっ!」

「平気平気。こうすればいいじゃん。あ、デザートは焼きリンゴとカキ氷だからな」

 ヒカルがアキラの腕に腕を絡めて隣りに並ぶと、アキラはやっと安堵して、「ワタアメはいいのかい?」と目の前の屋台を指す。

「ん〜、迷うなあ。あ、じゃあ半分こしよ。そしたら全部イケルかも」
「ほら、あの焼きそばの屋台。今なら出来立てが食べられるみたいだよ」

「じゃ、まずはあれから攻めるとするか」

 嬉々として屋台を巡り歩くヒカルは、始終あちこちキョロキョロしながらも、アキラの隣りでさっそく買ったばかりの焼きそばを大口開けて食べはじめた。
ほかの勝利品も、ものによってはアキラと分け合いながらぺろりと完食するヒカルだった。

 腹ごなししてから、ぶらぶら歩いていると、
「進藤、あそこ」
「何? またうまいもんあったの?」
アキラがヒカルの手をとって、珍しく自分からとある出店の前にヒカルを連れて来た。

「キミ、何色が好き?」
「え? この中から選べってこと? あー、だったらこの青いのなんか透けてて綺麗かなあ」

「じゃ、それでいい? すみません、これください」

 そうしてさっさと支払いを済ませると、アキラは店主から商品を受け取り、それをヒカルの指に嵌め込んだ。

「あははっ、ぶっかぶか〜。でも、綺麗ぇ〜」

 左の薬指に嵌められた青く澄んだプラスチックの指輪をかざして、「似合う?」とヒカルが首を傾げて聞けば、
「うん。すごく似合ってる。ねえ、進藤。これは確約の指輪だからね」
真面目な顔してアキラが言うので、
「おまえ、こんなとこで何言ってんだよ。少し黙ってろっ、恥ずかしいじゃんか〜」
ヒカルはアキラの腕をパンパンと叩いて、耳まで赤くした。

「痛いよ、進藤。……そんなに照れなくてもいいのに」
「うるせー」

 黙れ、と止めなければ、「キミに似合うのはボクがあげた指輪だからだよ」とか何とか、ドラマの中の台詞みたいなことを今にも言い出しそうでとても怖い。
アキラが周囲を気にしないのは昔からだが、こういう公衆の面でのアキラの言動はある意味とてもあからさますぎて、ヒカルは気が休まらなかった。

 腕を組むのも、手を握るのも。ヒカルにとってはどれもドキドキの体験で。

 それだけでも今はいっぱいいっぱいなのに。

「気に入った?」
「うんっ」

「オモチャでもいいの?」
「だって綺麗ぇだから」

「安上がりだね」
「そっか〜? そんなことねえよ。だっておまえがもれなくついてくるんだぜ? すっげー価値あるじゃん」

 アキラが与えてくれるドキドキは、ヒカルをとても幸せにしてくれる。

 だからヒカルも、自分を同じくらいアキラをドキドキにしたくて。

「塔矢、ありがとっ」

 アキラの首に思いっきり飛びついた。





 その数日後、夏の暑い日。アキラが棋院に行くと、いつもよりたくさんの視線を向けられた。

「何だ?」

 わけがわからないままエレベーターに乗り、扉が開いたところによく見知ったうしろ姿を見つけて近付いていく。

 すると。

「綺麗ぇだろ〜。塔矢に買ってもらったんだっ」

 ヒカルが、「いいだろ〜」と自分の友人たちに何かを見せびらかしていた。

 その集団の中の数人がアキラに気づき、
「おう、塔矢じゃん」
挨拶されて、アキラも返すと、
「おまえさ、それだけ稼いでるんだからケチるなよな」
「そうそう、いくら何でも手抜きするのもほどほどにしとけよ」
などと言われて。

「は?」

 アキラはわけがわからなかった。

 見れば、ヒカルが見せびらかしているのは、青く透き通った見知った指輪で。
図らずも、「へへ、婚約指輪だぜっ!」などとほざいてる。

「相手が進藤だからまだアレで喜んでるけど、ほかの女なら呆れて逃げてるぞ。
プレスチックの婚約指輪なんて、幼稚園児じゃないんだから。もっとマシなの買ってやれよ」
「ち、ちがうっ! あれは……っ!」

 あれを婚約指輪などと披露されたら、男としてあまりにも情けない。

 アキラはあまりの恥ずかしさに顔の火照りが治まらなかった。

「しんど〜っっっ!!!」
「げげっ、塔矢っ?!」

 アキラは指輪というものを今まで誰にも贈ったことがなかった。
意味深過ぎて、買う気にもなれなかった。

 だけど、先日の夏祭りで露店を見つけて。
急に、ヒカルにだけは自分からのそれを持ってほしいと切実に思った。

 思い立ったらアキラは早い。

 オモチャの指輪はアキラにしてみればただの前哨戦のつもりだった。

 それなのに、ヒカルは──。

「待てっ!」
「待てるかっ!」

「それのどこが婚約指輪だっ! それをよこせっ!」
「嫌だ!」

「もっとちゃんとしたのを買ってあげるからっ! とにかく返せ!」
「新しいのを買ってくれるってんならそっちも遠慮なくもらうけどっ! でもコレはもうオレのだよ〜だ」

 その後、アキラが青い指輪を取り戻したという話は誰も聞かない。

 そして真新しい青い指輪を贈られた後も、ヒカルはたびたびオモチャの指輪を仕事先にして行って、「コレ、婚約指輪」と楽しい話題を振りまいて場を盛り上げ、「ホントに進藤先生は楽しいねえ」と多くの客を喜ばし、棋院関係者や主催者側にとても感謝され、「大盛況だったね」とお褒めの言葉までいただいて、ヒカルは大層ご満悦だった。

 それが原因か。普段の行いの反動か。
ヒカルとアキラが「婚約しました」と周囲に報告をしても、しばらくの間、「またまた〜、悪ふざけもいい加減にしときなさいよ」と、一部の人たちにまったく信じてもらえなかった。

 それはそれでふたりは苦労することになるのだが。

「キミが馬鹿なことするからだ!」とアキラにこっ酷く叱られたとしても、それはすべてヒカルの自業自得である──。

                                                         おしまい


material * NOION



*** あとがき ***

最後までのお付き合い、ありがとうございました。

この「キミ在りし季節」は、はじめて書いたアキヒカ子のお話です。
まさかまさか、自分で書くとは思わなかったアキヒカ子(笑)。

「書けますよ、書いてみたらどうですか?」
ひろろんさまのその言葉につられて、調子にのって書いちゃいました〜♪
大変だったけど、でも、書いててすごく楽しかったです。

ちなみに棋界のことはよくわからない私なので、いい加減な設定になってます。
どうぞお許しください。

ひろろんさま、素敵なお話をいつもありがとうございます。
このお話を少しでも気に入ってくださったら嬉しいです♪

このお話はひろろんさまに捧げます。

by moro



moro*on presents


この作品の著作権は、文・moroにあります。
「ヒカルの碁」は原作:ほったゆみ先生、作画:小畑健先生の作品です。著作権などは集英社様にあります。
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