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森ミステリィのなかの図書館―S&MシリーズとVシリーズを中心として―※本文中に作品のストーリィに関わる記述があります。作品を読んでいない場合は、注意してください。 はじめに 森ミステリィにはいろいろな図書館が登場する。S&Mシリーズの犀川創平や西之園萌絵、Vシリーズの小鳥遊練無が通う国立N大学の図書館、瀬在丸紅子の息子、通称へっ君がいつも行く区立図書館。このほかにも、『奥様はネットワーカ』では某国立大学の化学工学科の図書室、『女王の百年密室』ではルナティック・シティの宮殿の図書館などがある。それらの図書館は、作品の重要な舞台となったり、作品をはなれて現実の図書館を考えるきっかけを与えてくれたりする。また、森博嗣氏はウェブ日記でもしばしば図書館について言及している[1]。本稿では、とくに森ミステリィのなかでも、S&MシリーズとVシリーズを中心に、作品のなかに登場する図書館についての記述をたどってみたい[2]。なお、S&MシリーズのほうがVシリーズよりも先に刊行されているが、両シリーズ全体の時間の流れにそって、Vシリーズを先に取り上げることにする。 Vシリーズのなかの図書館 瀬在丸紅子たちが登場する『黒猫の三角』から『赤緑黒白』にいたる10作品は「Vシリーズ」と呼ばれる[3]。このシリーズのなかで登場する図書館は、紅子の息子、へっ君が通っている区立図書館、そして紅子自身がよく行くN大学の図書館である。 『朽ちる散る落ちる』には紅子たちが4人の男たちに襲われた翌日、ひとりで図書館に行ったへっ君を心配して紅子や林、祖父江七夏や香久山紫子たちが探し回る場面がある。結局はいつもと違う、自宅から遠く離れた「千種の図書館」でへっ君は保護されるのだが、その理由が「そこにしかない本がある」からだった(p.219)。七夏が千種の図書館に駆けつけた場面を引用しよう。 近づいていくと、少年は顔を上げて彼女を見た。メガネに前髪がかかっている。 Vシリーズを通して、へっ君が区立図書館へよく行っていることはたびたび言及されているが、具体的な図書館の記述はみられない[4]。そのなかで、『朽ちる散る落ちる』のこの場面は、へっ君が図書館で本を読んでいることが具体的に記述されている点で珍しいと言える。また、へっ君と七夏とが会話を交わしているという点でもVシリーズ中ではあまり見られない場面である。さらに、この場面のあと、図書館からの帰りの車のなかで、どうして千種の図書館へ来たかったのかと尋ねる七夏にへっ君は紅子と林、七夏の「三人で、喧嘩をするんだと思」い、「しばらく、帰らない方が良いと思った」(p.221)と答えているように、『朽ちる散る落ちる』のなかの図書館をめぐるこの事件は、われわれに周囲の大人たちへのへっ君の心の内を垣間見させ、シリーズを通して重要な意味を持っていると言えるだろう。 一方、紅子もまたよく図書館を利用している。彼女が利用している図書館は国立N大学の図書館である。なかでも、Vシリーズの最終作『赤緑黒白』のエピローグでは、瀬在丸紅子とまだ幼い真賀田四季とが大学図書館の地下の資料室で出会う場面がある。この場面は、後で取り上げるS&Mシリーズの第1作『すべてがFになる』の最終章と類似する点が多くみられる。 日曜日の午後、大学の図書館の閲覧室で紅子は論文を読んでいる。その論文に引用されている図書を読もうと彼女は地下の資料室へ行く。受付の職員によれば、その資料室はいつも休日には閉められているのだが、「有名な博士が来館されている」ために特別に開いているという。 地下の資料室の鉄の扉を開ける。 目的の資料を手に取り、また後日読みに来ようと考えていると、一人の少女に声をかけられる。その少女に紅子は以前に大学図書館の前で会ったことがあった。 「こんにちは」後ろで声がした。 この女の子の名前については、『赤緑黒白』のなかではただ「春夏秋冬」に関係しているとだけ書かれている。しかし、そのことだけで読者は「四季」を連想し、『すべてがFになる』に登場する真賀田四季とこの小さな女の子とを同一視することができるだろう[5]。彼女はこのとき8歳である。紅子と四季とが出会うこの場面については、後ほど取り上げるので、ここではその舞台となったのがN大学の図書館だったということを確認しておきたい。 また、N大学の図書館は、短編「ぶるぶる人形にうってつけの夜」(『今夜はパラシュート博物館へ』所収)にも登場する。夏休みにもかかわらず、殺人的な日差しを避け、涼しさを求めて冷房が効いている図書館にやってきた小鳥遊練無が「ぶるぶる人形を追跡する会」という怪しげな会の案内を目にするところからこのストーリィははじまる。図書館の閲覧室に入る手前に置かれたその案内板に見入っている彼に自分のことをフランソワと呼ばせる女性(最後に彼女が「西之園」という名字であることが分かる)が声をかけてきた。練無は彼女に誘われるまま、図書館の会議室で「追跡する会」の会合に参加することになってしまうのである。 S&Mシリーズのなかの図書館 犀川創平と西之園萌絵が活躍する『すべてがFになる』から『有限と微小のパン』までの10作品は「S&Mシリーズ」と呼ばれる。このシリーズで多く登場する図書館は、創平と萌絵がいる国立N大学の図書館である。 『すべてがFになる』の最終章では、妃真加島で起きた事件から2週間ほどが過ぎた日曜日、犀川創平が文献を探すために大学の図書館へと足を運ぶ。図書館は「最近できたばかりの立派な建物」(p.484)で一般市民にも開放され、日曜日でも開館しているという。 図書館の玄関の階段を上がって、ドアの中に足を踏み入れた。ひんやりとした空気が彼を救ってくれる。まだ新しい建物の匂いがする。ロビィは空いていて、ソファで中年の男性が新聞を読んでいるだけだった。 犀川は目的の論文を探そうと端末が並んでいるコーナーへ向かう。検索の結果、探している資料は「公開されている書棚」にあることがわかった。しかし、「こうやって、検索してその場所に足を運んでも、その本がないことがよくあるので、まだ喜ぶわけにはいかない」(p.487)。 探している論文は50年ほど前の雑誌に掲載されたもので、その雑誌は製本されて図書館の3階にあった。部屋は「少しかび臭い」匂いがしていたが、犀川はその匂いが嫌いではない。そこにある本のなかには書架に並んでまだ一度も手に取って読まれたことがない本もたくさんあるだろう。おそらく、これから先に書かれる本も図書館に納められ、そのなかでいつか読まれる日が来るのを待つことだろう。図書館はそのために空間とエネルギィを消費している。 いったい、今までどれだけの人間がこれを読みにここに来ただろう、と犀川は思う。そんな少数の人間のために、この建物が作られ、この部屋は電気を使って待っている。ずっと、これだけの空間を占有しているのである。なんというエネルギィと資源の無駄遣いだろう。しかし、今日の自分にとっては実にありがたい。 論文を読んでいると近くに人の気配がしたので、犀川が顔を上げると、そこには「キャンパスのどこにでもいる女子学生」(p.489)のような格好をした真賀田四季がいた。 「こんにちは」女は微笑んで言った。 犀川創平と真賀田四季とが出会うこの場面は、S&Mシリーズでは、単なる事件の後日談にすぎない。しかし、Vシリーズも視野に入れるならば、両シリーズを結びつける重要な場面となる。つまり、真賀田四季という一人の人物によってS&MシリーズとVシリーズを一つの時間の流れのなかに位置づけることができる。Vシリーズの第10作『赤緑黒白』で瀬在丸紅子と幼い真賀田四季とがN大学の図書館で出会う場面はすでに見た。『すべてがFになる』では四季は29歳の設定なので(p.472)、S&MシリーズがVシリーズからおよそ20年後を描いているということが分かる。大学図書館は両シリーズにおいて鍵となる舞台なのだ。 ところで、大学には中心となる中央図書館だけではなく、それぞれの学科にも図書室がある。そのような図書室が出てくる作品に『冷たい密室と博士たち』がある。この作品には、極地環境研究センタの図書室が出てくる。犀川創平が極地環境研究センタに研究室がある友人の助教授、喜多北斗を訪ねる場面では、教官が図書室の本を自分の研究室に借りたままにしている様子が描かれる。 「部屋に本を沢山持っているね」犀川は半分皮肉で言う。 『冷たい密室と博士たち』には、極地環境研究センタの図書室の司書も登場する。鈴村春江である。犀川は彼女を初めて見たとき「地味な女性」(p.94)という印象をもつ。また、学内のデータベースで鈴村のプロフィールを見つけ、彼女の年齢が分かったときも、「鈴村の地味な服装、愛想のない表情などから、もう四十近い年齢だと犀川は感じていた。とても三十歳には見えない」(p.148)と思う。また、萌絵が犀川にメールで送った、極地環境研究センタで起きた事件にかかわる人物をまとめた「レポート」では、「図書の本の返却遅延で、たまに学生に文句を言いにくるくらいで、誰ともあまり話さない」(p.208)と紹介されている。鈴村春枝についてのこのような記述は、司書という職業に対するイメージが現れたものとして興味深い[6]。 おわりに 最後に、「図書館」それ自体を問題にしよう。S&Mシリーズの第4作 『詩的私的ジャック』では、萌絵たちに建築設計製図の授業で「区立図書館」という課題が出される。萌絵の友人牧野洋子はすでに課題に取り組み始めている一方で、萌絵はなかなか取りかかれない。そもそも図書館という施設それ自体が必要ないと萌絵は言う。 「あ! 洋子、もう描いているの?」萌絵は立ち上がって牧野洋子の製図板を見る。「ずるーい」 はたして、図書館という施設はマルチメディアの時代にはもはや時代遅れのものだろうか。そうであるならば、図書館にはどんな未来が待っているのだろうか[7]。 図書館について、森博嗣氏は『100人の森博嗣』のなかで次のように書いている。 へっ君が通っている図書館だが、森は子供の頃、図書館に何度行ったことがあるだろう? たぶん、二回か三回しかないはず。読みたいものが、図書館にはなかった。いろいろ探して、これは駄目だ、と思った記憶しかない。本が嫌いだったこともある。読みたいものは、もっと専門的な(たとえば模型などの)分野だった。今だったら、それらは、どこの図書館にもあるにちがいない。書店にだってある。それ以前に、インターネットがある。本当に良い時代だと思う。しかし、図書館のシステムは明らかに破綻しているだろう。本を一箇所にまとめて置いておくシステムが既に古い。著作権の問題もある。将来、図書館はどうなっていくだろう。そして、本はどうなっていくだろう。図書館も本も、小説を入れている器に過ぎない。中身ではないのだ。さらに小説も、何かを入れている器のような気がする。なんだろう、中身は? [8] 確かに、今日では、あえて図書館へ出向かなくてもインターネットによって欲しい情報を手にすることができる。また、紙ではなく電子化された資料としてはじめから公表される著作が現われ、もはや本という形態にこだわる必要はなくなった。その一方で、図書館にはこれまでに蓄積された膨大な蔵書がある。萌絵が言うような図書館がいらなくなるという時代は当分の間来ないだろう。しかし、少なくとも、いまわれわれは図書館が変わっていく時代にいるということは言える。S&MシリーズやVシリーズのなかで描かれたような図書館はこれからもあり続けるのだろうか。 注 [1]Cf.『すべてがEになる』10月20日、11月12日;『封印サイトは詩的私的手記』9月24日(脚注);『ウェブ日記レプリカの使途』12月12日、12月28日;『森博嗣の浮遊研究室』vol.29('02年6月10日);『森博嗣の浮遊研究室2』vol.60('03年2月3日)、vol.68('03年3月31日)、vol.76('03年5月26日)。 [2]引用に際しては、S&Mシリーズは講談社文庫版、Vシリーズは講談社ノベルス版を用いた。 [3]Vシリーズというのは瀬在丸紅子の名前からくる。紅子とはVenicoとつづるからだ。「瀬在丸紅子。スペルは、C・E・Z・A・I・M・A・R・U、これがファミリーネーム。ファーストネームは、V・E・N・I・C・O」(『朽ちる散る落ちる』p.243)。 [4]Cf.『黒猫の三角』p.34;『人形式モナリザ』p.270;『月は幽咽のデバイス』p.160;『魔剣天翔』p.16 et 230;『朽ちる散る落ちる』p.188 et 192。 [5]現在刊行中の真賀田四季の成長を追った四季シリーズの『春』でこの場面が再び描かれることによって、S&MシリーズとVシリーズとのリンクをはっきりと指摘することができる。(『春』pp.224-230) [6]森ミステリィのなかで司書が登場する作品には、『冷たい密室と博士たち』のほかに『奥様はネットワーカ』がある。某国立大学の化学工学科の図書室に勤める25歳の司書鈴木奈留子が登場人物の一人となっている。作品のなかでは、中央図書館への予算関係の書類を作らなければならないなどの記述が見られる。「鈴木奈留子は夜になって思い出した。明日の午前中が締切という仕事があったことを。予算請求に絡んだ中央図書への大切な書類だ。難しい作業ではないものの、コンピュータのデータを取りまとめなければならない」(『奥様はネットワーカ』メディアファクトリー、2002年、p.36)。 [7]未来の図書館が登場する作品に『女王の百年密室』がある。この物語の時代設定は2113年である。ルナティック・シティでサエバ・ミチルは、ナナヤクに宮殿のなかにある図書館に行ってみてはどうかと勧められる。けれども、ミチルにとって、図書館とは場所を意味するものではなく、「情報を検索するネットワークの総称」であり、まるでタイムスリップしたかのような印象を抱く。その「図書館」と呼ばれる部屋には、いまや高級品となってしまった本が書棚にびっしりと並んでいた。ミチルたちの時代では、本はもはや本来の目的である読むためにあるのではない。ページをめくるという動作も、ミチルには神経を集中させなければできなくなっている。さらに、図書館の2階には、初期型の情報端末が並んでいて、それを使って資料を閲覧できるが、ゴーグルで見ることができないこのシステムがミチルには不便なものに思えた。なぜなら、デスクから離れられないし、それを見る個人の視力や好みに対応しそうにないからだ。このほかにも、図書館には旧式のシステムがバージョンアップされずに残っていた。「ここが造られたとき、それ以前の、つまりさらに過去の情報だけが、この図書館に格納されたのかもしれない。それ以来、ここは過去を懐かしむだけの機能しか果たさなかったのだ」(『女王の百年密室』幻冬舎、2000年、p.108)。 [8]『100人の森博嗣』メディアファクトリー、2003年、p.39。また、『工学部・水柿助教授の日常』では、書物が電子化されつつあることにふれ、「本は単なるメディアであって、メディアが替わっても、そこに書かれている内容(コンテンツ)に本質的な変化はないだろう」とも述べている(『工学部・水柿助教授の日常』幻冬舎(ノベルス版)、2003年、p.220)。 Copyright びぶりおてけ〜る(No.7895) 2003-11-23
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