シニファンは客席を、いえ客席にすわる猫たちの頭上の、何も
ないはずの場所にむかってにっこりとわらうと、そっと目を伏せて
三日月型のバイオリンにゆっくりと爪をすべらせました。
るぅん るぅん るぅん るぅん
じつのところ、シニファンの奏でるバイオリンはあまりにふつう
なのです。
その調べには、まるでよぶんがなく、さりとて足りないところもな
く、それなのにどうしようもなくなつかしく、同時にひどく新しいの
です。
まだ猫がいちども足を踏み入れたことのない、高い山の深くに
ある、目のさめるような色の花のむれのように。
青い空に、こくこくとすがたを変える雲のように。
ごくわずかにあまみのある、冷たくすんだせせらぎのように。
流れる調べは、このピカピカに新しい音楽堂のかべのつぎ目
や、客席に打ち込まれたビロードのシートをとめる鋲(びょう)
や、よぶんな毛足をふくむ床のカーペットなどさまざまなところ
に染み入って、建物をまろやかに整えていくのでした。
そしてその瑞々しい音の流れは、ごく当たり前の顔をしなが
ら、ホールいっぱいの猫の心をわしづかみにせずにはおきま
せん。
ルーニャは演奏するシニファンの姿をしっかりと見つめたり、
ときどき目を閉じて調べのゆくえを追ったりしながら、音のつ
くる世界にしばしうっとりとおぼれていました。
(いつだって、シニファンの演奏はぼくをうらぎる。ぼくの想像
をはるかにこえた演奏をする)
つづく