colony

連作『治癒』から連作『colony』へ


蟻や蜂の巣を眺めていて不思議なのは、蟻や蜂の一匹一匹がどんな力に衝き動かされてあれほど一途に自分らの巣のために働くのかということだ。一生をその労働についやし息絶えてゆく蟻や蜂を、次々と生まれる新しい蟻や蜂と「交換」しながら、それでも彼らが離散しないようにその巣に「接着」し続ける力とは何だろう。
 生きものの身体とその細胞についてもそうだ。はたらきの衰えた旧い細胞を新たに誕生する活発な細胞と「交換」しながらその身体全体を維持させようとする新陳代謝とは、いったいどんな力なのだろう。そもそもは独立した生命でもあったはずの細胞どうしを、分離しないように「接着」し身体組織を構成せしめる力とは何だろう。
 怪我をした傷口の出血がカサブタになりやがて新生児のような輝く皮膚として再生するしくみ、破壊された細胞を新しい細胞と「交換」し「接着」しながらその全体のダメージを最小限に抑えようとするしくみを、細胞とその身体のレベルでの「治癒」力と呼ぶのだとすれば、蟻や蜂とその巣のレベル、あるいは家族と家のレベル、個人と社会のレベルのそれぞれで観察しうる「交換」の営みや「接着」の力もまた、個々のメンバーとクラス全体の関係に還元される、生き延びる原理としての「治癒」力と呼んでいいのかもしれない。
 他者と「交換」可能な存在であることや、他者と「接着」されなければ生きられない存在であることを承認するのは、近代以降の「個人」には屈辱であるかもしれない。ただ、たとえば家族や知人の誕生や死を体験したときの僕らのふるまいとその経過のなかに、「交換」され「接着」されうる存在としての自己の姿が、蟻や蜂の姿とパラレルに浮かび上がるのを感じることがあるし、そのことが、「個人」を起点としたパースペクティヴの画面には現われてこない何か、自/他や生/死の二項対立を無化し重苦しいものから自分を解放してくれる気分をもたらす何かを、僕に味わわせていることに気づくのだ。
 家族と家のレベルに現われるそれら「接着」と「交換」の主題を僕自身の個人的な生活に取材するやりかたで続けてきた連作『治癒』は、いくつかの変奏を経て個人と社会のレベルに転調され、連作『colony』として、僕の仕事の新たなひとまとまりになりつつある。「人名」をてがかりに、「個人」というものがいくつかのレベルの集合=colonyのなかでどういった存在として現われるのかを、「接着」と「交換」の主題はそのままに『治癒』のときよりもひとまわり外側から眺め考えることができればと思っている。

1999年11月
作間敏宏