colony

「『colony』について」(1997/10) テクスト/作間敏宏


 蟻や蜂の巣を眺めていて不思議だと思うのは、蟻や蜂の一匹一匹が何に衝き動かされてあれほど一途に自分の巣のために働くのかということだ。時にはその労働のために命をおとすこともある蟻や蜂を、次々と生まれる新しい蟻や蜂と「交換」しながら、離散することなくその巣に「接着」している力とは何だろう。
 細胞と組織、あるいは組織と個体についてもそうだ。細胞の一個一個は独立した生命でもあるはずなのに、その死をもって別の細胞を誕生させ「交換」する新陳代謝の営みによって、それらが属する組織や個体を維持させようとするのはどんな力なのだろう。そもそも細胞どうしが分離しないように「接着」し組織を構成させている力とは何だろう。
 怪我をした傷口の出血がかさぶたになりやがて新生児のような輝く肌として再生するしくみ、破壊された細胞を他の細胞と「交換」し「接着」しながらその全体のダメージを最小限におさえようとするしくみを、細胞と組織のレベルでの「治癒」力と呼ぶのだとすれば、蟻や蜂とその巣のレベル、あるいは人間と家族/家のレベル、個人や家と社会のレベルそれぞれの「接着」の力や「交換」の営みもまた、メンバーとクラスに還元される生物群のすべてを貫く原理としての「治癒」力と呼んでいいのかもしれない。
 他者と「接着」されなければ生きられない存在であることや、他者と「交換」可能な存在であることを承認するのは、近代以降の「個人」には屈辱なのかもしれない。ただ、たとえば家族や知人の死を体験したときの僕らのふるまいとその経過のなかに、「接着」され「交換」される存在としての自己の姿が蟻や蜂の姿とパラレルに浮かび上がるのを感じることがあるし、そのことが、「個人」を起点としたパースペクティヴの画面には現われてこない何か、自他や生死の二項対立を無化し重苦しいものから自分を解放してくれる気分をもたらす何かを、僕に味わわせていることに気づくのだ。

 現在も続く連作『治癒』は、家と家族のレベルに現われるそれら「接着」と「交換」の「現場」を主題にしながら、そのありようについて僕自身の個人的な生活に取材するという制作のスタイルをとっている。こういったやりかたは、つねに僕を日常の生活から制作にむかわせるのに有効だが、その作業をより豊かなものにするには、その場所をすこし離れもうひとまわり外側から作業全体を眺めてみる必要があるのかもしれない。
 今回『colony』というタイトルで発表するのは、連作『治癒』での興味と主題はそのままに、僕の個人的な生活から直接取材したのではないモチーフにより制作する3点だ。「名前」をてがかりに、「個人」というものがいくつかのレベルの集合=コロニーのなかでどういった存在として現われるかを、連作『治癒』よりもひとまわり外側から眺め考えることができればと思っている。