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「『治癒』について」(1994/11) テクスト/作間敏宏


 ものを作ることを日々の仕事にしていることで、素材を加工するための工具や刃物を手にすることが多く、使い慣れたはずでもうっかり怪我をしてしまうことが少なくない。
いつのまにかカサブタになった怪我のなごりにそのたびごとに感心するのは、その一部が傷つき失われ痛みに呻き声をあげる僕の身体にもまた、やがて痛みをやわらげ傷を癒し怪我の痕跡さえ消してゆく治癒力が、あらゆる生きものと同様に備わっているということを思うからだ。もっとも以前に較べると、治癒の勢いがいくらか緩慢になりつつあるようにも思えるのだが。
 そういった時にしばしば、もしこの怪我が恢復しないほどに大きく僕の生命を奪ってしまうようなものだとしてという道筋から、例えば蟻や蜂のコロニーになぞらえて個体の生命の意味について想像が及ぶことがある。それら蟻や蜂の一匹一匹には必ずしもそれを観察する人間が感情移入するような個体としての意味があるわけではなく、むしろコロニー全体を個体として形成せしめる単位=細胞ととらえるべきものなのだとすれば、人間のコロニーたる血族全体についてそのひとりひとりを解釈するときにも、個人という意味あいを希釈しながら見わたす視点から、同じように血族のささやかな単位=細胞としての姿が観察し得るのではないか。それは僕自身のことで言うなら、自分を個人として強く位置づけようとする感情移入を解除し、それに代わっていかにも凡庸な一単位として血族に位置するに過ぎない自分を見いだすということだろう。
 家族や親族との死別に出遭い文字どおり呻き声をあげて嘆きつくす近親の心の痛みは、彼ら自身に備わった精神の治癒力に癒されてゆくだろう。しかもまたそのもうひとつ外側から、血族全体を身体としながら生き続けるコロニー自身の治癒力にも大きく全体が癒されてゆくのだと僕には思える。旧い単位=細胞であった故人とその悲しみとに代え、「カサブタ」のあとにあらたな単位=細胞たる輝く肌の新生児とその喜びとを出現させることによって。
 昨年から二度にわたり、このことを主題に「治癒」と題した作品を僕は発表してきた。僕自身の家系図のなかで電球に置き換えられて静かな光を放ちまたは放ち終え消えている血族とその故人たちの、全体として空間を光で満たすありようが、それに包まれる僕を含んだ観る人を静かに癒すように願いながら。僕が自分についての交換可能性の承認を代償にしながらもかかる解釈にとらわれるのは、それが作り手の僕を抗いがたい引力でひきつけ深いところで勇気づけると感じているからだ。