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「ART NET」(1996/8) [『再生と記憶展』/作間敏宏『治癒』] 展覧会評/室井絵里(美術評論)


(抜粋)
 同潤会代官山アパートは関東大震災後の復興の中1927年に開発された。モダンなつくりで現在の集合住宅の基礎をつくった存在といえるだろう。最近でも、おしゃれなスポットとして店舗などがはいったりしている。
 その同潤会代官山アパートが再開発されることになり、解体が決定した。そのイヴェントとして「再生と記憶展」が8月8日から12日まで開催された。
 再生と記憶とは、まさしくその「同潤会アパート」の記憶と再生という意味であろう。13人のアーティストによる「場」への試みは様々ではあったが、それぞれの作品が過去と未来をつなぐ接点をつくりだしていた。

   特に印象に残ったのは、平林薫の塩によるインスタレーションと作間敏宏の電球によるインスタレーションだった。 両名とも普段のそれぞれの作品を展開したものであり、その場から受ける印象そのものは静謐感と、人間あるいは霊的とでもいえるような不気味さをもった空間と、正反対ではあるが普段それらがニュートラルな画廊空間で展開されている時には見えてこない何ものかがそこに存在していたといえる。
(中略)
 一方作間は、もっと生々しい雰囲気の部屋を選んでいる。「僕が作品を設置する旧北澤邸は、ほとんど人がいた状態のままになっている空間で、人が住んでいる/住んでいた気配を光に置き換える仕事をしたいとずっと考えていた僕にはうってつけの場所です」と彼じしんが語っているように、真っ暗な室内には家具や不用品が残されているというような人の去った後の気配ではなく、ついさっきまで誰かがそこにいたような部屋だ。
 家具や使いかけの食器、寝室に敷かれた布団、壁の書画・・・そっくりそのまま主が蒸発してしまったのか、あるいは主が亡くなった後、遺品を引き取る人がないのか・・・そこが真っ暗にされて彼の電球によるインスタレーションが展開されているのは、じっとそこにいて見ているのも恐いくらいの空間だ。
 たまたま、作間の個展が画廊で展開されているのだがその会場には床に埋め込まれるような形でバケツのようなものが埋め込まれてその中に無数の電球がいれられている。その一つ一つに家紋が添えられているのだが、その電球はこれからその家に生まれてくる命のようでもあり、死んだ魂のようでもある、以前に古い家具に電球をいれるという形で展開されたこともあるが、いずれにせよ先の平林の作品と同じく、そこに何かを持ち込み、ものを言葉で補う形でイメージをうけとらなければならなかったのだと、ここにきて改めて感じた。
 作間のもつ、原風景を表現する力のようなものがこの部屋で充分発揮されていたことは事実だ。
 他に、場をそのまま使った例としては遠藤利克が居室の台所の水道を出しっぱなしにしていたものと、白井美穂が部屋に残された古い日本人形を見せたり、書きかけの原稿と哲学書とエロ本が残され散乱している部屋を作品として提示した例などがあげられる。白井の見せているものの選択は、彼女の選択としてはよく理解できるし、遠藤の場合も変容を単純な形で表現していたといえる。
 ただ、いずれもまだ言葉による補いが必要でほとんど手を加えられていないにもかかわらず、かえって強く作家の意志を感じてしまう。それに比べると、平林、作間についてはそれぞれ作品として作っているのだが、彼らの作品が本来もっていた意味がその「場」によって自然に受け取られるということでの成功を、また作品と「場」のもつ関係を考える上でも面白い提示をみせていたのではないだろうか。

 展覧会が先にあって、場を選んだのではなく先に「同潤会」という「場」が先行していたからこそまた、そこが、人の生活していた場であったから生まれた自然な展開だったのかもしれない。