「スライドレクチャー原稿」(2000/1) 宮城県美術館「アートみやぎ」ギャラリートーク用テクスト/作間敏宏
きょうは、12年間の僕の美術家としての活動を、はじめからすべてお話しする時間がありませんので、僕が7年前に始めた『治癒』の連作についてと、2年前に始めた『colony』の連作についてだけ、お話ししたいと思います。
『治癒』の連作を始めるまで、僕は、観る人に太古の記憶を呼び起こさせるような有機的で造形的な作品を作ることをめざしていました。それらはきわめて精神的で幻想的な表現でもありました。しかししだいに僕は、そういった作品をめざすことが、それほど大きい成果をあげられないのではないかと疑うようになりました。なぜなら、それらは作品自身のなかで、あるいは僕の内側で、完結し閉じているように思えたからです。僕はもっと、観る人と僕自身の生活に、直接関わって拡がっていくようなものを作りたいと思うようになったのです。その迷いのせいで、その時期に、僕は全く作品が作れなくなりました。
僕は、それらの表現に衝撃を受けました。その衝撃の半分は、それらの作品が、広い意味でのマイノリティの視点から、確かに鋭く社会を斬っているという衝撃でした。しかし衝撃のもう半分は、僕がそういった鋭い表現によって、すこしも勇気づけられなかったという衝撃でした。僕は、それらの作品を見れば見るほど、僕の精神が勇気を失っていくのを、自覚しただけでした。
そこでの生活を終えたのが8月でお盆の時期だったので、日本に帰ってきた僕は、そのまま郷里である亘理に戻りました。僕のちょっと前に、やはり僕と同じように東京に住んでいる姉が帰省していました。彼女は、この期間を利用して、彼女の夫の父親に頼まれて我が家の家系図を作っているところでした。もともと亘理の出身である僕の父の実家の作間家の親族と、もともとは岩手の久慈というところの出身で父と結婚して亘理に嫁いだ母の実家である田中家の親族が、父と母のところで重なり、おびただしい数の親戚とつながってゆくさまを示す家系図は、それができあがっていくにつれて、なんとなくで手伝いはじめただけの僕を、とても不思議な感覚でとらえました。言ってみればそれは、直観のようなものだったと思います。僕がニューヨークで決めたふたつの条件が、姉を手伝いながら作っていた家系図のなかに、とてもしなやかに実現されているように思えたのです。僕はさっそく、その家系図を手掛かりに、作品の構想をまとめました。
この作品がそれです。これはその時姉と作った作間家の家系図をそのまま使っています。生きている血族のところには電球を点し、死んだ人のところには、切れた電球をとりつけてあります。この作品は、日本国内やアメリカで、すでに5回展示をしていますが、そのたびに、親戚の結婚や誕生、死亡などによって電球のON/OFFとコードの形がすこしづつ変わるのです。この作品のなかのコードや電球は、今後、樹木のように、どんどん下に伸びていくでしょうし、上の方はどんどん電球が消えてゆくわけです。次の世代の列ができて、さらには僕の電球が消えてしまうまで、あと何回かこの作品が展示できればと考えています。
次に観ていただく1995年の作品は、農業に使われるビニールハウスを使った作品です。この作品は日本国内で2度展示しています。
......ここでの作間の表現が生と同時に死の側面をも合わせもった両義的なものであることは強調されねばならないと思う。電球、ビニールハウス、藁といった要素を使った結果、これらが象徴する生命は、植物の循環するライフサイクル全体を表現することが可能になっている。藁はいわば生命が抜けたあとの死体=カサブタ的存在だ。そしてビニールハウスが担っている役割は、暖かく安らかな子宮であるとともに棺の象徴でもあるのだ。電球が示すほのかな、かぼそい生命は、ここでまぎれもなく生きていくものと死にゆくものという二つの意味を重ねあわされているのである。
この作品の最初の発表のときに、全部で1500個ある電球の明るさを時間をかけて調整したのですが、それが何度やっても消える寸前ぎりぎりの電圧での明るさを選んでしまうのです。そこがもっともこの作品の意味を拡げてくれる感じがしたからです。僕はその作業と結果を通じて、ONとOFFの境目でかろうじて電球が点っていることを、『治癒』の連作の主題にかかわる要素として強く意識するようになりました。大きいビニールハウスのなかでONとOFFの境界で点りながら寄り添っている電球が、これからどんどんその明るさを増していくのか、それとも残らず消えてしまうのかということを、どう感じ考えるかは、すべて観る人にゆだねられているわけです。僕は、この作品を観た人が、どちらの解釈をしたとしても、決して絶望で観終えるようなことがないように、全体を穏やかな表情で包むようにこころがけました。
次に観て頂くのは、やはり1995年の作品です。この作品は、僕と同年代の優れた小説家である笙野頼子さんが書いた「二百回忌」という小説、これはつまり七回忌とか十三回忌の200年めの法事という意味のタイトルですが、その小説に強い霊感を受けて着想されました。この小説は、簡単に言うと、主人公が郷里に帰って、死んでしまったたくさんの先祖たちといっしょに、お盆の一夜を過ごすというあらすじのものです。この小説の面白さは、その不思議な時間の感覚と、たくさんの先祖の霊が、恐怖をともなわない、ふつうの人間としてドタバタと描かれているところです。先ほどのべたように、僕が家系図の作品を決めたのもお盆に関わっていましたから、そういう意味での重なりもあるかもしれません。
『治癒』の連作を始めたばかりの1994年に、僕は次のような文章を、ある新聞に書きました。
ものを作ることを日々の仕事にしていることで、素材を加工するための工具や刃物を手にすることが多く、使い慣れたはずでもうっかり怪我をしてしまうことが少なくない。
僕は、死というものを、生き物が種として生き延びるために必要なプロセスだと考えたいのです。身体の細胞も、蟻も蜂も、そして人間も、死を含んでくり返される営みのなかで、脈々と生き続けているのだと思うからです。作品のなかでも、僕は生と死とのどちらかだけを特別に扱わないように気をつけてきました。それらは大きい意味で、ひとつのものだと思うのです。少なくとも、生とか死とかというものに固定観念としてまとわりついているいろいろな意味を、一旦とりのぞいて、コンピュータの用語でいえば初期化して、まっさらにして、その状態を入口にして観る人が入ってこれるような作品であれば、僕がちっぽけな何かを主張しなくても、あとは観る人がそのなかで考えたり感じたりしながら、かたちにはならないかもしれませんが、多様な意味づけとしてひろげてくれるはずだと考えるわけです。
この後も僕は、はじめに決めた二つの条件、生き物の生死を扱うことと絶望に傾かないということを常に考えながら、たくさんの作品を発表しました。
これは、旧い家具を会場に乱雑に積み上げ、中に弱く電球を配置した作品です。1996年と1997年に2回展示しています。
次は、取り壊される直前の同潤会代官山アパートの一室をそのまま使い、住んでいた人の記憶を呼び起こすように電球を配置した1997年の作品です。この部屋は、展覧会の企画と運営をしていた東京のヒルサイド・ギャラリーの担当の方に初めて見せてもらった時にも、さっきまで人が住んでいたように、洋服や洗い物や本など、僕とボランティアの人たちが設置した電球以外は、まったくこのままの状態でした。どういう人がどういう理由で何も持たずに引っ越していったのか、いぶかしがりながら設置の作業をしているうちに、ボランティアの人たちが、日記や手紙を見つけて読みはじめました。そして、そこに書いてあることから推測していくと、この部屋には、かつておばあさんが一人で住んでいて、そのままここで亡くなったということがわかってきたのです。僕はもともとは、さっきお見せした乱雑に積み上げた家具のインスタレーションのように、生と死の両方の意味をもつはずの家具類にだけ電球を設置してゆくつもりでいたのですが、しばらく考えてボランティアの人たちを集め、おばあさんが触ったであろうところすべてに、布団にもお風呂にも台所にも電球を置いてゆくように指示をしなおしました。家というものもまた、家具とは別のレベルで、生と死とが重なる場所だということを強く感じたからです。生活という生のありかであると同時に死をむかえる場所でもある空間として、僕は、このアパートを異化し提出することをめざしました。短い展示期間が終わって展示の撤去している時に、僕はどうしてもこの部屋の記念の品が欲しくて、いろいろ迷ったあげく表札をもらうことにしました。今回ここに展示した表札の作品は、この時の表札をアトリエに飾ってながめているうちに、僕のなかにゆっくりとたちあがってきた作品なのです。
次は、約1メートルの高さまで部屋いっぱいに積まれた大量の灰の上に、消える寸前の電球を配置した1993年の作品です。写真ではわかりにくいですが、観る人のおなかあたりの高さにこういうふうに電球が配置されたわけです。
これは、壁面にマンダラ状に電球を取り付けた作品で、最初の1993年の発表ではほとんどの電球が点っていていくつかが消えているものでしたが、1995年の発表では同じものを設置した壁面の反対側の壁面の4メートルほどの高さのところに、こういうように、電球のONとOFFを反転させたもうひと組とあわせて設置しました。
その次が、いくつもの石を墓地のように配置し、電球を取り付けた1995年の作品です。このときには、ここから7〜8メートル手前にガラス瓶を置いて、その中に、灰と電球を入れておいておきました。観る人にその灰の中から電球をひとつ取ってもらい、歩いて石のところに行って、ソケットに電球をねじこんで点灯させてもらったわけです。
次は、1996年に発表し昨年2度目の展示をしたこの作品です。たくさんの植木鉢に電球を入れ、親族のシンボルである家紋の札をさしています。この作品については、国立近代美術館の若き優れた学芸員である大谷省吾さんが1997年の個展の図録に書いてくれた文章の一部を引用します。この文章もまた、僕が気づかなかった、この作品の構造を巧みに述べた文章です。
......細い通路を進むと、両側の暗い床面にかぼそい光の群れが見えます。きれいだな、と思いながら私は奥まで進み、足元に気をつけながらしゃがみ込みました。しばらく目の慣れるのを待つと、光の群れが、いくつかの塊を単位としていることに気付きました。さらに目を凝らすと、その群れの塊は、それぞれ植木鉢の中に入れられていることがわかったのです。電球が人なら植木鉢は家かな?と想像しながら近付いてみると、植木鉢ごとに札が差してあります。よく花屋で鉢植えの名前を記してあるようなものです。けれどそこには、花の名前ではなく家紋が記されていることが、わずかな光のなかでようやくわかりました。私はそのとき、植木鉢が家であることを表すのに、家紋を用いるのは直截的すぎはしまいか、と一瞬だけ考えました。しかし、今どき自分の家の家紋など、普通の人は日頃から意識などしているだろうか、葬式とか結婚式のときだけではないか、と思い直しました。そして、葬式や結婚式という場がまさに死と、新たな生の契機となる場であり、親族の絆についての意識を新たにする場であることが思い出されてきたのです。私はこうして次第に自分自身の家族をめぐる、これまでの生と死の場面の記憶へと、ゆっくり思いを巡らしていったのでした。
『治癒』の連作の最後にお見せするのは、さきほども少しお話ししましたが、今回ここで再制作することになった表札を使ったインスタレーションです。この作品はこれが4回めの展示ですが、ここでは1997年と1998年の過去3回の展示の写真を見ていただきます。
作品を作る人間として、別の作品を作ったつもりでいたとしても、受け手のなかに同じものしか喚起できないとしたら、それは意味の上でのマンネリズムでしょう。僕は、作品の意味は、作家が与えるものではなく、受け手の想像力が積み重ねていくものだと考えています。僕のこの作品が、家系図の作品と同じ部分しか受け手の想像力を刺激できないとしたら、それは、意味の上での新作にはなりえないはずです。確かに僕は、それまでの4年間で、同じテーマに基づくたくさんの作品をつくってきたと言えます。それがひとまわりして元のところに戻ったとしても不思議ではないのかもしれません。
僕がその1年間に考えたことは、簡単に言うと次のふたつのことでした。
ひとつは、次の連作では、電球をおもな素材としては使わないということです。電球は、生と死についてのメタファーとして、僕にとってはすぐれた素材でした。それは抽象的な生命体でもあり、体温のようなものであり、気配であり、記憶であり、そしてなにより人間そのものでもありました。しかしそれは、僕の考えている生と死の意味のバランス、作品の受け手に向けていつも両方が同じ重さを持つようにというねらいよりも、いつも生の方に傾き易いのでした。それは電球の光がいつもロマンチックな表情をもっているからだと思います。僕は電球の光のかわりに人間の名前を直接使うことにしました。それは表札の作品ではじめて扱うことになった記号としての名前が、考えれば考えるほど面白い素材に思えてきたということが大きいと思います。人間を直接扱いながら、それがあらゆる生命にも拡がってゆくような使い方をしたいと考えたのです。
これが1998年の1月に東京で、同じく9月にニューヨークで発表した『colony』の連作の最初の作品です。
大きさの異なるボードに掛けられているのは、木の名札です。実際に日本に住む人たちの名前が使ってあります。それらは、学校や会社などの名簿やインターネットで15万人分集められました。もちろんさまざまな国の出身者も含まれていますが、なにしろすべて日本に住んでいる人たちです。
次も同じ1998年の平面の作品で5点のシリーズです。葬式の時などに、悲しみの表現として自分の名前を薄墨で書くことがあります。逆に薄い墨で書かれた名前は、葬式を連想させるでしょう。これは、その美しい習慣を前提にして、500人ほどの名前を和紙の上に重ねて描いたものです。蟻や蜂の群れのように見えないでしょうか?
次はやはり1998年に発表した、ダーツゲームをモチーフにした作品です。ボードのほうには、日本の典型的な名字が描かれています。一方、矢のほうの羽には、今度は典型的な下の名前が描かれています。会場に来た人は、自分の好きな矢を投げて、ゲームを楽しみながら、ひとりの人間をこの世に誕生させることができるわけです。僕にも2人の娘がいますから、残念ながら直接誕生させることはできませんでしたが、そのかわり2人の人間に名前をつけた経験があります。僕の場合は、このダーツのように一瞬ではなく、響と馨という名前に決めるのに、それぞれ何ヶ月も考えました。しかし、何のために僕が苦しむほど真剣だったのか、それが僕と子供のあいだのどんなことを表現する作業だったのかはよくわからないままです。どちらにしても、自分の重たい固有名詞であるはずの名前というものが、何ヶ月も考え抜かれたうえで命名されようが一瞬にして名付けられようが、こういう組み合わせのゲームのようなものだとは言えないでしょうか?
次にお見せするのは、このインスタレーションです。同じ1998年の作品です。会場にはテーブルといすと本棚が暗い照明のなかに置かれています。見る人は本棚から好きな本をとって、テーブルで見ることが出来ます。一冊の本にはこのように、1ページにひとりづつ、300人の名前が印刷してあります。これを500册作ったものが本棚におさめられています。もちろん1冊づつすべて違う本です。このプロジェクトで集めた人間15万人のすべてが、ここに収められました。
次にお見せするのはこのインスタレーションです。この作品は1998年にニューヨークでアーティスト・イン・レジデンスのプログラムに参加したときに構想し制作して、Snug Harbor Cultural Centerという文化施設のなかにあるNewhouse Galleryというところで展示したものです。ここでは、日本人の名前が、800枚の小さいガーゼの名札に印刷されたあと、大きい800枚のガーゼに1枚1枚縫い付けられています。さらにガーゼは、さまざまに汚されたあと、洗濯され、きれいにたたまれて、20基のスチールの棚に納めてあります。並べる順番は単純に五十音順にしたがっていて、同じ名字のガーゼは重ねられています。会場は病院のようにかすかにクレゾール消毒液の臭いがたちこめ、暗い照明が施されています。仮に患者に使用したガーゼを保存している病院があるとして、その架空の保存室で僕たちが何を感じ考えるかということが、この作品の重要なねらいになっています。
日本に戻って最初に制作したのは、ニューヨーク滞在中に構想しながら、機材が調達できずに保留になっていたCDの作品でした。写真ではお見せできませんが、展覧会期間中、映像室でみなさんに聴いていただけるように、この美術館の学芸員の方々が準備してくださったので、ぜひあとでお聴き下さい。これは、先ほど見ていただいた、名前を薄墨で重ねて描いた平面作品を、名前の持ち主本人の声に置き換えたものです。40の個性がひとつのコロニーのなかで没個性化していくようすを、声で聞きたいと考えながら制作しました。自分だけの個人としての名前に他の人の名前がカブってきて、ついには雑音のようになっていくこの作品は、声で協力してもらった40人の人たちにとって、共通して居心地の悪いものだったようです。みなさんはどういうふうにお聴きになるでしょうか?ぜひ声の本人になったつもりで聴いてみてください。
次は昨年9月に発表した、やはり先ほどと同じ仕立てのガーゼと、クレゾール消毒液を使ったインスタレーションです。根本的な考えの成り立ちは先ほどのものと同じですが、ここでは古めかしい名前を多く選んでいます。つまり、ここに保存してあるのが、今生存している人たちのものではなく、すでに亡くなった人たちのガーゼであるという意味あいを、誰でもが感じとれるようになっているわけです。ここは古い大きな建物の地下にある、ワイン貯蔵室を改装した展示室でしたが、もし実際に古い地下室にそういうものが保存してあるとしたら、それはいったいどういうものなのか、いったいどういうことの結果としてそこに保存されることになったのか、この作品は、そういったさまざまなことを観る人がそれぞれに想像し感じ考えて欲しいという考えに基づいています。
最後に見ていただくのは、現在の時点での最新作、先ほどと同じく昨年9月に発表したこの作品です。この作品もまたガーゼが重要な役割を果たしています。一辺3メートルの、全部で100枚のガーゼには、それぞれ平均して50枚、合計で約5000枚の名札が縫い付けられ、汚されたあと洗濯されて、写真のようにステンレスのバーにガーゼの中心でフックに吊るされています。名前も、たくさんの古めかしい名前が選ばれています。今度は会場を樟脳の臭いで充たしました。
さて、少々長い時間をかけて、現在も続いている僕のふたつの連作、『治癒』と『colony』について話してきました。僕のきょうまでの仕事の中心にあるのは、ここまでいろいろな言い方でお話ししてきたことを簡単にまとめれば、生きものの生と死という現象とそのさまざまな解釈について考えたいということ、特に人間の場合にその解釈を強く方向づけてきた問題、つまり個人とは何か、それがその集合とどうかかわるのかという問題について、それぞれ考えたいということでした。あとしばらくは、こういった主題のもとに仕事を続けていきたいとも考えています。ただ、みなさんのなかにもすでにお気づきの方がいらっしゃると思いますが、この1年ほどの僕の作品が、人間の生というよりはむしろ死についての思索をうながすという方向に傾きをもっていたことで、それらを観る人が、たとえば先ほどの場合のように、戦争や戦死者のイメージからむごたらしさやおぞましさといったような意味だけを強く作品から導いてしまうということが実際にあったでしょうし、それが、僕がはじめのほうでお話しした条件、生と死を扱いながらも絶望に傾かないという条件に、背くようになってきているのではないかという疑いが、僕のなかにうまれてきたことも確かです。 |