colony

「スライドレクチャー原稿」(2000/1) 宮城県美術館「アートみやぎ」ギャラリートーク用テクスト/作間敏宏


 きょうは、12年間の僕の美術家としての活動を、はじめからすべてお話しする時間がありませんので、僕が7年前に始めた『治癒』の連作についてと、2年前に始めた『colony』の連作についてだけ、お話ししたいと思います。

『治癒』の連作を始めるまで、僕は、観る人に太古の記憶を呼び起こさせるような有機的で造形的な作品を作ることをめざしていました。それらはきわめて精神的で幻想的な表現でもありました。しかししだいに僕は、そういった作品をめざすことが、それほど大きい成果をあげられないのではないかと疑うようになりました。なぜなら、それらは作品自身のなかで、あるいは僕の内側で、完結し閉じているように思えたからです。僕はもっと、観る人と僕自身の生活に、直接関わって拡がっていくようなものを作りたいと思うようになったのです。その迷いのせいで、その時期に、僕は全く作品が作れなくなりました。
 その頃、僕は、ロックフェラー財団の運営するアジアン・カルチュラル・カウンシルの奨学金を受け、ニューヨークに3ヶ月滞在する機会を得ました。ちょうどホイットニー美術館でのバイエニアルの展覧会に非西欧民族、いわゆるマイノリティの芸術家が大勢出品していて話題になっていた年でした。街の画廊でも美術館でも、僕は、とても過激な政治的メッセージをもった作品をたくさん観ました。性器や排泄物や血液などがモチーフとして溢れていたように思います。1993年のことです。

 僕は、それらの表現に衝撃を受けました。その衝撃の半分は、それらの作品が、広い意味でのマイノリティの視点から、確かに鋭く社会を斬っているという衝撃でした。しかし衝撃のもう半分は、僕がそういった鋭い表現によって、すこしも勇気づけられなかったという衝撃でした。僕は、それらの作品を見れば見るほど、僕の精神が勇気を失っていくのを、自覚しただけでした。
 僕は、当時のニューヨークで、そういった表現が流行するには、理由があったはずだと思います。ただ、美術が社会や生活と関わるということは、こうして鋭く斬ったまま放置することなのだろうか?と、僕はその時に考えました。たとえ作品が観る人にものごとの暗い側面を提出することがあっても、最後には、観る人を少しでも勇気づけるような構造と力が必要なのではないか、比喩的にいえば、切った後には縫うということが必要なのではないか、というふうに考えたのです。
 こういうことを考えているうちに、僕は再び作品が作れるのではないかと感じるようになりました。そのときの僕の頭のなかには、二つの条件がありました。その条件のひとつは、僕がこれから作る作品は人間の生死に関わるものであるべきだということでした。これには、僕の個人的な生活のなかで起こった身内の死を、どうしても取り上げないわけにはいかないという理由がありました。もうひとつの条件は、これから僕が作る作品が、生死をとりあげるにせよ、全体として、決して観る人に絶望を与えないものであるべきだということでした。これは、さきほどお話ししたような、ニューヨークでの体験によるものでした。

 そこでの生活を終えたのが8月でお盆の時期だったので、日本に帰ってきた僕は、そのまま郷里である亘理に戻りました。僕のちょっと前に、やはり僕と同じように東京に住んでいる姉が帰省していました。彼女は、この期間を利用して、彼女の夫の父親に頼まれて我が家の家系図を作っているところでした。もともと亘理の出身である僕の父の実家の作間家の親族と、もともとは岩手の久慈というところの出身で父と結婚して亘理に嫁いだ母の実家である田中家の親族が、父と母のところで重なり、おびただしい数の親戚とつながってゆくさまを示す家系図は、それができあがっていくにつれて、なんとなくで手伝いはじめただけの僕を、とても不思議な感覚でとらえました。言ってみればそれは、直観のようなものだったと思います。僕がニューヨークで決めたふたつの条件が、姉を手伝いながら作っていた家系図のなかに、とてもしなやかに実現されているように思えたのです。僕はさっそく、その家系図を手掛かりに、作品の構想をまとめました。

 この作品がそれです。これはその時姉と作った作間家の家系図をそのまま使っています。生きている血族のところには電球を点し、死んだ人のところには、切れた電球をとりつけてあります。この作品は、日本国内やアメリカで、すでに5回展示をしていますが、そのたびに、親戚の結婚や誕生、死亡などによって電球のON/OFFとコードの形がすこしづつ変わるのです。この作品のなかのコードや電球は、今後、樹木のように、どんどん下に伸びていくでしょうし、上の方はどんどん電球が消えてゆくわけです。次の世代の列ができて、さらには僕の電球が消えてしまうまで、あと何回かこの作品が展示できればと考えています。
 電球を重要な素材として用いたのは、理由があります。1993年にニューヨークで僕が住んでいたのはとても古いアパートで、電圧が不安定だったらしく、滞在中何度も電球が切れました。ある晩、僕が遅くまで本を読んでいると、僕の視界のなかでまた玄関の電球が切れました。僕はその時、「あ、また電球が死んだ」と思ったのです。僕はその自分の感情移入がとても不思議で、1ドルそこそこのただの日用品である電球に生と死を喚起する力があることを発見したのでした。子供のようだといわれそうですが、それが僕がこの連作に電球を採用した理由です。
 連作『治癒』の最初の作品であるこの家系図の展示が始まって、それまでの僕の作品とはまったく異なる形式の作品が、どういうふうに受け止められるのか戦々兢々とするなか、一方で僕は、一人の受け手として、自分が作ったこの作品から、次のようなことを教えられました。それは、この家系図全体がひとつの大きな生き物でもあるということです。生物学の考え方のひとつに、蟻や蜂を、その一匹一匹ではなく、その巣の全体で考える考え方があるそうです。つまり一匹一匹の蟻や蜂を独立した生命と考えるよりも、その巣全体がひとつの生き物だと考えるような解釈を優先するということでしょう。それと同じようなことがこの人間の巣についても言えるのではないでしょうか?さらにそれは、個人というものに別の意味を与えるようにも思われます。例えば、僕の電球が点っていて、隣にある僕の弟の電球が消えているとします。父や母など、僕の身近な人間には、どちらが消えてるかは大きい問題です。光が右下から来るか左下から来るか変わるわけですから。しかし、この家系図の全体にとっては、どちらの電球が消えていようと、それは細部にすぎず、点っている電球の全体の数がだいたいあっていれば、部屋全体の明るさは変わらないわけですから、同じ意味なのです。つまり、交換できないと考えられている個人というものは、少し遠くから見ると、交換が可能なものにも見え始めるということです。この時に自分自身の作品に導かれたこういった考えが、そのあとずっと今日までの僕の作品制作のベースになっています。自分自身を作り手としてではなく一人の受け手として作品の前に立たせることも、この時に始まった僕の基本的な構えだと思います。

 次に観ていただく1995年の作品は、農業に使われるビニールハウスを使った作品です。この作品は日本国内で2度展示しています。
 ビニールハウスのなかには、大量の宮城県産の藁が敷かれています。その上に、消える寸前まで弱く調節された無数の電球が置かれています。ビニールハウスも藁も僕が子供の頃に見なれたものですが、外はまだ寒い早春に、もう時効ですからいいと思いますが、苺を盗み食いするために友達と忍び込んだビニールハウスの中の空気の、湿り気のある不思議なあたたかさを、この時期よく思い出して、あれは何だったんだろうと考えていました。写真からはわかりませんが、この作品を最初に展示したのが東京のギャラリー日鉱というところで、温度はもちろん湿度調整もきく会場だったので、冬でしたが暖房を消してもらい、その代わりに湿度を最大に上げてもらいました。そのせいで、湿気を含んだ藁からたちのぼる馬小屋のような臭いが会場に充満していました。
 この作品については、僕が尊敬する美術評論家のひとりである倉林靖さんが、気仙沼にあるリアスアーク美術館での1995年の個展「NOAH2000」の図録に寄せてくれた評論の一部を引用させていただきます。彼がこの作品から受け取った意味は、作者である僕が考えていたよりも深い洞察に満ちていると感じます。

......ここでの作間の表現が生と同時に死の側面をも合わせもった両義的なものであることは強調されねばならないと思う。電球、ビニールハウス、藁といった要素を使った結果、これらが象徴する生命は、植物の循環するライフサイクル全体を表現することが可能になっている。藁はいわば生命が抜けたあとの死体=カサブタ的存在だ。そしてビニールハウスが担っている役割は、暖かく安らかな子宮であるとともに棺の象徴でもあるのだ。電球が示すほのかな、かぼそい生命は、ここでまぎれもなく生きていくものと死にゆくものという二つの意味を重ねあわされているのである。

 この作品の最初の発表のときに、全部で1500個ある電球の明るさを時間をかけて調整したのですが、それが何度やっても消える寸前ぎりぎりの電圧での明るさを選んでしまうのです。そこがもっともこの作品の意味を拡げてくれる感じがしたからです。僕はその作業と結果を通じて、ONとOFFの境目でかろうじて電球が点っていることを、『治癒』の連作の主題にかかわる要素として強く意識するようになりました。大きいビニールハウスのなかでONとOFFの境界で点りながら寄り添っている電球が、これからどんどんその明るさを増していくのか、それとも残らず消えてしまうのかということを、どう感じ考えるかは、すべて観る人にゆだねられているわけです。僕は、この作品を観た人が、どちらの解釈をしたとしても、決して絶望で観終えるようなことがないように、全体を穏やかな表情で包むようにこころがけました。

 次に観て頂くのは、やはり1995年の作品です。この作品は、僕と同年代の優れた小説家である笙野頼子さんが書いた「二百回忌」という小説、これはつまり七回忌とか十三回忌の200年めの法事という意味のタイトルですが、その小説に強い霊感を受けて着想されました。この小説は、簡単に言うと、主人公が郷里に帰って、死んでしまったたくさんの先祖たちといっしょに、お盆の一夜を過ごすというあらすじのものです。この小説の面白さは、その不思議な時間の感覚と、たくさんの先祖の霊が、恐怖をともなわない、ふつうの人間としてドタバタと描かれているところです。先ほどのべたように、僕が家系図の作品を決めたのもお盆に関わっていましたから、そういう意味での重なりもあるかもしれません。
 床に敷いてあるのは、30枚の布団です。ベッドも同じでしょうが、布団は、普通は一日の疲れを癒す道具です。しかしそれは死を迎えるための道具にもなります。僕はそういった、生と死に関わる二重の意味を持つ素材や日用品について、この時期に、ずっと考えていました。先ほどのビニールハウスや藁もそうです。家具などもそうでしょう。
30枚の布団のちょうど半分の15枚の布団の上では、人が横たわってできたくぼみにあわせて電球が点り、残りの15枚の上では、骨つぼのような瓶に納められた同じ電球が、消えているのではなく、やはり同じように点っています。死者と一緒にこうして眠るのは、いったいどんな気持ちでしょう?僕はこの作品によって、誰でもがもっている身近な人の死の体験の悲しみが、時間が経つことによって、穏やかな記憶に変化するその過程を示したいと思っていました。それは同時に、この一連の作品のタイトルとして選んだ『治癒』という言葉の本質的な意味のひとつを、よく示すことになるだろうと思っていたのです。

『治癒』の連作を始めたばかりの1994年に、僕は次のような文章を、ある新聞に書きました。

 ものを作ることを日々の仕事にしていることで、素材を加工するための工具や刃物を手にすることが多く、使い慣れたはずでもうっかり怪我をしてしまうことが少なくない。
いつのまにかカサブタになった怪我のなごりにそのたびごとに感心するのは、その一部が傷つき失われ痛みに呻き声をあげる僕の身体にもまた、やがて痛みをやわらげ傷を癒し怪我の痕跡さえ消してゆく治癒力が、あらゆる生きものと同様に備わっているということを思うからだ。もっとも以前に較べると、治癒の勢いがいくらか緩慢になりつつあるようにも思えるのだが。
 そういった時にしばしば、もしこの怪我が恢復しないほどに大きく僕の生命を奪ってしまうようなものだとしてという道筋から、例えば蟻や蜂のコロニーになぞらえて個体の生命の意味について想像が及ぶことがある。それら蟻や蜂の一匹一匹には必ずしもそれを観察する人間が感情移入するような個体としての意味があるわけではなく、むしろコロニー全体を個体として形成せしめる単位=細胞ととらえるべきものなのだとすれば、人間のコロニーたる血族全体についてそのひとりひとりを解釈するときにも、個人という意味あいを希釈しながら見わたす視点から、同じように血族のささやかな単位=細胞としての姿が観察し得るのではないか。それは僕自身のことで言うなら、自分を個人として強く位置づけようとする感情移入を解除し、それに代わっていかにも凡庸な一単位として血族に位置するに過ぎない自分を見いだすということだろう。
 家族や親族との死別に出遭い文字どおり呻き声をあげて嘆きつくす近親の心の痛みは、彼ら自身に備わった精神の治癒力に癒されてゆくだろう。しかもまたそのもうひとつ外側から、血族全体を身体としながら生き続けるコロニー自身の治癒力にも大きく全体が癒されてゆくのだと僕には思える。旧い単位=細胞であった故人とその悲しみとに代え、「カサブタ」のあとにあらたな単位=細胞たる輝く肌の新生児とその喜びとを出現させることによって。
 昨年から二度にわたり、このことを主題に「治癒」と題した作品を僕は発表してきた。僕自身の家系図のなかで電球に置き換えられて静かな光を放ちまたは放ち終え消えている血族とその故人たちの、全体として空間を光で満たすありようが、それに包まれる僕を含んだ観る人を静かに癒すように願いながら。僕が自分についての交換可能性の承認を代償にしながらもかかる解釈にとらわれるのは、それが作り手の僕を抗いがたい引力でひきつけ深いところで勇気づけると感じているからだ。

 僕は、死というものを、生き物が種として生き延びるために必要なプロセスだと考えたいのです。身体の細胞も、蟻も蜂も、そして人間も、死を含んでくり返される営みのなかで、脈々と生き続けているのだと思うからです。作品のなかでも、僕は生と死とのどちらかだけを特別に扱わないように気をつけてきました。それらは大きい意味で、ひとつのものだと思うのです。少なくとも、生とか死とかというものに固定観念としてまとわりついているいろいろな意味を、一旦とりのぞいて、コンピュータの用語でいえば初期化して、まっさらにして、その状態を入口にして観る人が入ってこれるような作品であれば、僕がちっぽけな何かを主張しなくても、あとは観る人がそのなかで考えたり感じたりしながら、かたちにはならないかもしれませんが、多様な意味づけとしてひろげてくれるはずだと考えるわけです。

この後も僕は、はじめに決めた二つの条件、生き物の生死を扱うことと絶望に傾かないということを常に考えながら、たくさんの作品を発表しました。

これは、旧い家具を会場に乱雑に積み上げ、中に弱く電球を配置した作品です。1996年と1997年に2回展示しています。

次は、取り壊される直前の同潤会代官山アパートの一室をそのまま使い、住んでいた人の記憶を呼び起こすように電球を配置した1997年の作品です。この部屋は、展覧会の企画と運営をしていた東京のヒルサイド・ギャラリーの担当の方に初めて見せてもらった時にも、さっきまで人が住んでいたように、洋服や洗い物や本など、僕とボランティアの人たちが設置した電球以外は、まったくこのままの状態でした。どういう人がどういう理由で何も持たずに引っ越していったのか、いぶかしがりながら設置の作業をしているうちに、ボランティアの人たちが、日記や手紙を見つけて読みはじめました。そして、そこに書いてあることから推測していくと、この部屋には、かつておばあさんが一人で住んでいて、そのままここで亡くなったということがわかってきたのです。僕はもともとは、さっきお見せした乱雑に積み上げた家具のインスタレーションのように、生と死の両方の意味をもつはずの家具類にだけ電球を設置してゆくつもりでいたのですが、しばらく考えてボランティアの人たちを集め、おばあさんが触ったであろうところすべてに、布団にもお風呂にも台所にも電球を置いてゆくように指示をしなおしました。家というものもまた、家具とは別のレベルで、生と死とが重なる場所だということを強く感じたからです。生活という生のありかであると同時に死をむかえる場所でもある空間として、僕は、このアパートを異化し提出することをめざしました。短い展示期間が終わって展示の撤去している時に、僕はどうしてもこの部屋の記念の品が欲しくて、いろいろ迷ったあげく表札をもらうことにしました。今回ここに展示した表札の作品は、この時の表札をアトリエに飾ってながめているうちに、僕のなかにゆっくりとたちあがってきた作品なのです。

次は、約1メートルの高さまで部屋いっぱいに積まれた大量の灰の上に、消える寸前の電球を配置した1993年の作品です。写真ではわかりにくいですが、観る人のおなかあたりの高さにこういうふうに電球が配置されたわけです。

これは、壁面にマンダラ状に電球を取り付けた作品で、最初の1993年の発表ではほとんどの電球が点っていていくつかが消えているものでしたが、1995年の発表では同じものを設置した壁面の反対側の壁面の4メートルほどの高さのところに、こういうように、電球のONとOFFを反転させたもうひと組とあわせて設置しました。

 その次が、いくつもの石を墓地のように配置し、電球を取り付けた1995年の作品です。このときには、ここから7〜8メートル手前にガラス瓶を置いて、その中に、灰と電球を入れておいておきました。観る人にその灰の中から電球をひとつ取ってもらい、歩いて石のところに行って、ソケットに電球をねじこんで点灯させてもらったわけです。

 次は、1996年に発表し昨年2度目の展示をしたこの作品です。たくさんの植木鉢に電球を入れ、親族のシンボルである家紋の札をさしています。この作品については、国立近代美術館の若き優れた学芸員である大谷省吾さんが1997年の個展の図録に書いてくれた文章の一部を引用します。この文章もまた、僕が気づかなかった、この作品の構造を巧みに述べた文章です。

 ......細い通路を進むと、両側の暗い床面にかぼそい光の群れが見えます。きれいだな、と思いながら私は奥まで進み、足元に気をつけながらしゃがみ込みました。しばらく目の慣れるのを待つと、光の群れが、いくつかの塊を単位としていることに気付きました。さらに目を凝らすと、その群れの塊は、それぞれ植木鉢の中に入れられていることがわかったのです。電球が人なら植木鉢は家かな?と想像しながら近付いてみると、植木鉢ごとに札が差してあります。よく花屋で鉢植えの名前を記してあるようなものです。けれどそこには、花の名前ではなく家紋が記されていることが、わずかな光のなかでようやくわかりました。私はそのとき、植木鉢が家であることを表すのに、家紋を用いるのは直截的すぎはしまいか、と一瞬だけ考えました。しかし、今どき自分の家の家紋など、普通の人は日頃から意識などしているだろうか、葬式とか結婚式のときだけではないか、と思い直しました。そして、葬式や結婚式という場がまさに死と、新たな生の契機となる場であり、親族の絆についての意識を新たにする場であることが思い出されてきたのです。私はこうして次第に自分自身の家族をめぐる、これまでの生と死の場面の記憶へと、ゆっくり思いを巡らしていったのでした。

『治癒』の連作の最後にお見せするのは、さきほども少しお話ししましたが、今回ここで再制作することになった表札を使ったインスタレーションです。この作品はこれが4回めの展示ですが、ここでは1997年と1998年の過去3回の展示の写真を見ていただきます。
 表札は、ほとんどの家の門や玄関にかけてあります。先ほどの家紋が儀式の時にだけ使われるのと違って、こちらは毎日のように目にするものです。また表札は、郵便配達人のためにあるだけでなく、一軒一軒の家の象徴として捉えられているはずです。僕が子供の頃、新しい家を建てたばかりの僕の父が、嬉しそうに、彼の名前が書かれた、新しい表札を玄関に掛けていたのを、僕は今でも鮮明に覚えています。僕の父は、あの表札によって、僕たち家族を、何というか、接着したいと願ったのだと思います、最近時間が経って接着力が弱ってはきたようですが。
 この作品の1997年の最初の展示に用いられた表札は、さきほどの同潤会アパートのものを含め、実際に使われている150個を日本全国からいただいたり借りてきたりしたものです。表札によっては、裏に、家族の誕生日や結婚記念日、時には誰かが亡くなった日などが墨書きしてあったり、家が完成した日が彫られてあるものもありました。宗教的な意味の言葉が書いてあるものも集まってきました。つまり、僕の父だけではなく、多くの人々が、表札に重い意味を見い出しているわけです。
 ひとつひとつの表札には数個づつの電球がとりつけられています。消えているものもあります。観る人にとって、それぞれの意味は、おそらくこれまでのどの作品よりも明快でしょう。ただ、この作品を作り終えた僕が、またひとりの受け手としてこの作品に向かってみると、こうして写真をご覧になっているみなさんもそうかもしれませんが、この連作の最初の、家系図の作品の地点にひとまわりして戻ってきたような感触を否定できませんでした。

 作品を作る人間として、別の作品を作ったつもりでいたとしても、受け手のなかに同じものしか喚起できないとしたら、それは意味の上でのマンネリズムでしょう。僕は、作品の意味は、作家が与えるものではなく、受け手の想像力が積み重ねていくものだと考えています。僕のこの作品が、家系図の作品と同じ部分しか受け手の想像力を刺激できないとしたら、それは、意味の上での新作にはなりえないはずです。確かに僕は、それまでの4年間で、同じテーマに基づくたくさんの作品をつくってきたと言えます。それがひとまわりして元のところに戻ったとしても不思議ではないのかもしれません。
まだまだやりたいこともあり具体的な構想もいくつかあったので迷いましたが、僕はこの『治癒』の連作を一時中断することにしました。いくつかのプランを、そのままの状態で保留することにしたのです。その1997年の後半はいくつかの美術館に旧い作品を出品することが決まっていただけでしたから、新作は1年後、1998年初頭の個展まで発表せず、じっくり考えることにしました。

 僕がその1年間に考えたことは、簡単に言うと次のふたつのことでした。  ひとつは、次の連作では、電球をおもな素材としては使わないということです。電球は、生と死についてのメタファーとして、僕にとってはすぐれた素材でした。それは抽象的な生命体でもあり、体温のようなものであり、気配であり、記憶であり、そしてなにより人間そのものでもありました。しかしそれは、僕の考えている生と死の意味のバランス、作品の受け手に向けていつも両方が同じ重さを持つようにというねらいよりも、いつも生の方に傾き易いのでした。それは電球の光がいつもロマンチックな表情をもっているからだと思います。僕は電球の光のかわりに人間の名前を直接使うことにしました。それは表札の作品ではじめて扱うことになった記号としての名前が、考えれば考えるほど面白い素材に思えてきたということが大きいと思います。人間を直接扱いながら、それがあらゆる生命にも拡がってゆくような使い方をしたいと考えたのです。
 僕が考えた2番目のことは、次の連作は、家族や家という枠組みから離れよう、ということです。僕が自分の個人的な生活と自分の作品制作とをつなげるための契機として、家族や家を手掛かりにするのは必然的なことだったと思います。しかし、僕の生活はそれのみで成り立っているわけではありません。僕は次の段階として、いくつもの人間の集団について考えたいと思い始めていたのです。その萌芽がすでに僕のなかにあったことは、先ほど見て頂いた、あるいはここでこうして展示している、たくさんの家を集合させた表札の作品に明らかだったのではないでしょうか?この表札の作品は、ですから、連作『治癒』の最後の作品でもあると同時に、これからお話する、次なる連作の最初の作品でもあったのかもしれません。僕は、これまでの連作のなかで考えてきたことと関わり、同時にこのときの僕の関心をよく表すことばとして、さきほど引用した新聞のなかでも僕がくりかえし使っていた“コロニー”という言葉を選びそのタイトルで新しい連作をスタートさせることを決めました。

これが1998年の1月に東京で、同じく9月にニューヨークで発表した『colony』の連作の最初の作品です。

 大きさの異なるボードに掛けられているのは、木の名札です。実際に日本に住む人たちの名前が使ってあります。それらは、学校や会社などの名簿やインターネットで15万人分集められました。もちろんさまざまな国の出身者も含まれていますが、なにしろすべて日本に住んでいる人たちです。
 柔道の道場や、小学校の教室などに、このようなボードが設置されていることがあります。朝、道場や教室に来ると、それぞれが自分の名札をひっくり返して名前の面を表にします。出席しているということです。休んだ人は裏返しのままになるわけです。僕は小学生の頃に、この名札を表にすることだけが目的で学校に行っていたような記憶があります。それは、僕の不在を、明示されることが恐かったのです。まるで僕が死ぬのを意味するように思えたからです。僕は、この作品に、そういう、名札の裏と表の意味を持ち込もうとしました。よく見ると、いくつかの名札が裏返ってるのが分かると思います。
 一番小さいボードには、男性の名札が1枚と、女性の名札が1枚、並んでかけてあります。ふたつというのが人間の関係の始まりで、最小の集合、つまり最小のコロニーだからです。発表した時にはほとんどの人が、これが夫婦かカップルだと解釈したようでした。次が8枚のボード、次が18枚、というふうに大きくなって、最後が約400枚のボードです。受け手の解釈も、ボードが大きくなるにつれて、夫婦から家族、親戚、クラス、学校、会社というふうに変化していったようですが、それにともなって、1個の名札が、全体の1/2、1/8、1/18、そして1/400というように、どんどん小さい部品になっていくわけです。いつか大きい会場で10000枚ぐらいのものを作って展示できたらと思っています。10000枚のなかにもし自分の名札があったらどんな感じでしょう?名札がふたつだけのボードの時とどう違うでしょう?そもそも10000個のなかから自分の名札がみつけられるでしょうか?交換されていたり裏返されていたとしてそれがわかるでしょうか?ひとりの個人というものが、そこではどういうふうに見えるのでしょう?

 次も同じ1998年の平面の作品で5点のシリーズです。葬式の時などに、悲しみの表現として自分の名前を薄墨で書くことがあります。逆に薄い墨で書かれた名前は、葬式を連想させるでしょう。これは、その美しい習慣を前提にして、500人ほどの名前を和紙の上に重ねて描いたものです。蟻や蜂の群れのように見えないでしょうか?

 次はやはり1998年に発表した、ダーツゲームをモチーフにした作品です。ボードのほうには、日本の典型的な名字が描かれています。一方、矢のほうの羽には、今度は典型的な下の名前が描かれています。会場に来た人は、自分の好きな矢を投げて、ゲームを楽しみながら、ひとりの人間をこの世に誕生させることができるわけです。僕にも2人の娘がいますから、残念ながら直接誕生させることはできませんでしたが、そのかわり2人の人間に名前をつけた経験があります。僕の場合は、このダーツのように一瞬ではなく、響と馨という名前に決めるのに、それぞれ何ヶ月も考えました。しかし、何のために僕が苦しむほど真剣だったのか、それが僕と子供のあいだのどんなことを表現する作業だったのかはよくわからないままです。どちらにしても、自分の重たい固有名詞であるはずの名前というものが、何ヶ月も考え抜かれたうえで命名されようが一瞬にして名付けられようが、こういう組み合わせのゲームのようなものだとは言えないでしょうか?

次にお見せするのは、このインスタレーションです。同じ1998年の作品です。会場にはテーブルといすと本棚が暗い照明のなかに置かれています。見る人は本棚から好きな本をとって、テーブルで見ることが出来ます。一冊の本にはこのように、1ページにひとりづつ、300人の名前が印刷してあります。これを500册作ったものが本棚におさめられています。もちろん1冊づつすべて違う本です。このプロジェクトで集めた人間15万人のすべてが、ここに収められました。
 名前の横に傍線がひいてあるのは、これも新聞などで、死者の横に傍線を引く風習を引用したもので、ちょうど半分の7万5000人に傍線が引いてあります。一冊の本をひとつのコロニーの記録として考え、本棚の1列をさらに大きいコロニーの集合と考え、本棚全体をさらに、というふうに考えていくと、いつか、図書館のようなところで、もっとたくさんの本、できれば地球上のすべての人の名前を収録した、もっと言えばその物故者のすべてまでさかのぼって収録した、大量の本でインスタレーションができればと、気が遠くなるようなことまで考えてしまいます。

 次にお見せするのはこのインスタレーションです。この作品は1998年にニューヨークでアーティスト・イン・レジデンスのプログラムに参加したときに構想し制作して、Snug Harbor Cultural Centerという文化施設のなかにあるNewhouse Galleryというところで展示したものです。ここでは、日本人の名前が、800枚の小さいガーゼの名札に印刷されたあと、大きい800枚のガーゼに1枚1枚縫い付けられています。さらにガーゼは、さまざまに汚されたあと、洗濯され、きれいにたたまれて、20基のスチールの棚に納めてあります。並べる順番は単純に五十音順にしたがっていて、同じ名字のガーゼは重ねられています。会場は病院のようにかすかにクレゾール消毒液の臭いがたちこめ、暗い照明が施されています。仮に患者に使用したガーゼを保存している病院があるとして、その架空の保存室で僕たちが何を感じ考えるかということが、この作品の重要なねらいになっています。
 僕は『治癒』の連作を始めて間もなく、ガーゼという素材に強く惹き付けられていました。『治癒』の連作のなかでも、何度となくガーゼを使った作品を構想し、その都度、力量不足からそれを放棄するということを繰り返してきました。ガーゼは、怪我や病気、血液や痛み、死や戦争を連想させる反面、回復や治療、誕生や包容をも同時に喚起する力があります。それらガーゼが喚起する意味の全てを、どれも同じ重さのまま観る人に問いかける方法が、何年ものあいだ見つからなかったのでした。それが、僕がこの時のニューヨーク滞在をスタートさせて間もなく、今では友人でもあるそのギャラリーのスタッフが、僕の作品の設置中につま先に大きい怪我をしたということがあって、彼が巻いていた包帯が日に日に汚れてゆく様子と、それがある日真っ白な包帯に交換されているのを見たりしたこと、あるいは彼の病院での話を聞いたりしたこと、そういうことをぼんやりと考えているうちに、それが名前のイメージに媒介されて一気にかたちになるのを感じたのです。
棚に並べられたガーゼには、その汚れ方や皺のつきかたに差がある以外に、それがどんな患者に使われたものなのかを判断する手がかりはありません。産婦人科の倉庫だとしたら全て新生児に使われたガーゼなのかもしれません。外科の倉庫であれば治った人のものも死んだ人のものもあるはずです。総合病院の倉庫なら新生児のものも退院した人のものも死んだ人のものもあるでしょう。また同じ名字の重ねられたもののなかには、いろいろなものが混じっているのだと想像することもできるでしょう。亡くなったおじいさんのガーゼの上に生まれたばかりの孫のガーゼが重なっているというふうに。僕にはそういうことを想像することがとても重要なことに思えます。ひとつのガーゼの山という『colony』の意味、棚一段という『colony』の意味、ひとつの棚全体という『colony』の意味、そして部屋全体という『colony』の意味。その意味が観る人ひとりひとり異なるということ、そのどのとらえ方も同じ重さであるということ。この作品はまだ日本では発表していないので、早い時期にどこかで展示できればと思っています。

日本に戻って最初に制作したのは、ニューヨーク滞在中に構想しながら、機材が調達できずに保留になっていたCDの作品でした。写真ではお見せできませんが、展覧会期間中、映像室でみなさんに聴いていただけるように、この美術館の学芸員の方々が準備してくださったので、ぜひあとでお聴き下さい。これは、先ほど見ていただいた、名前を薄墨で重ねて描いた平面作品を、名前の持ち主本人の声に置き換えたものです。40の個性がひとつのコロニーのなかで没個性化していくようすを、声で聞きたいと考えながら制作しました。自分だけの個人としての名前に他の人の名前がカブってきて、ついには雑音のようになっていくこの作品は、声で協力してもらった40人の人たちにとって、共通して居心地の悪いものだったようです。みなさんはどういうふうにお聴きになるでしょうか?ぜひ声の本人になったつもりで聴いてみてください。

次は昨年9月に発表した、やはり先ほどと同じ仕立てのガーゼと、クレゾール消毒液を使ったインスタレーションです。根本的な考えの成り立ちは先ほどのものと同じですが、ここでは古めかしい名前を多く選んでいます。つまり、ここに保存してあるのが、今生存している人たちのものではなく、すでに亡くなった人たちのガーゼであるという意味あいを、誰でもが感じとれるようになっているわけです。ここは古い大きな建物の地下にある、ワイン貯蔵室を改装した展示室でしたが、もし実際に古い地下室にそういうものが保存してあるとしたら、それはいったいどういうものなのか、いったいどういうことの結果としてそこに保存されることになったのか、この作品は、そういったさまざまなことを観る人がそれぞれに想像し感じ考えて欲しいという考えに基づいています。

最後に見ていただくのは、現在の時点での最新作、先ほどと同じく昨年9月に発表したこの作品です。この作品もまたガーゼが重要な役割を果たしています。一辺3メートルの、全部で100枚のガーゼには、それぞれ平均して50枚、合計で約5000枚の名札が縫い付けられ、汚されたあと洗濯されて、写真のようにステンレスのバーにガーゼの中心でフックに吊るされています。名前も、たくさんの古めかしい名前が選ばれています。今度は会場を樟脳の臭いで充たしました。
これらの仕立てはどれも、この会場をあるひとつの設定で統一したいという考えに基づくものでした。それは、この空間が、博物館や古い屋敷のように、過去の資料が保存されているような場所だという設定です。長い間そこにしまいこまれてきた、名前の縫いつけられた大量のガーゼが、こうして一時的に虫干しにされているように設置したかったわけです。
先ほどお見せした、たくさんの棚に並べられたガーゼの作品が、怪我が治った人や新生児を想起させることがあったのと較べて、この作品では、そういう読みとりの可能性がほとんどなくなってしまっているだろうと思います。実際に、この作品を観た人が書いたり話したりしてくれたことを総合しても、そのほとんどが、千人針といったあたりの視覚的イメージをひきがねに、戦争や戦死者のイメージ、あるいは、そういうイメージのむごたらしさやおぞましさについての評論や感想でした。年輩の、つまり戦争を体験した人たちのなかには、そのせいで、作品を観ることすら拒否したいと思ったということを、あとで僕に伝えてくれた人もいました。それほどまでに戦争のイメージが強く束ねられることは予想外だったとしても、僕がここで提出したかったのは、まさにそういった、大量の人間の死について考えるということでした。 さきほど紹介した評論家の倉林靖さんが別のところで僕の家系図の作品に触れ、家系図をずっと遡って人間がまだアメーバだった頃までの壮大な系図を想像して書いている文章があります。その系図のなかでは、無限に近いぐらいの数、気が遠くなるほど大量の消えた電球のいちばん下の2列か3列で、細々と僕たちの時代の電球が点っているにすぎないだろうと彼は述べています。ふだんの僕たちの生活はそのあたりのことを忘れることのうえに成り立っているでしょう。ただ、こういうふうに、昔の品物をときどきは虫干しするようにしながら、事実として累々と僕たちの過去に積み重ねられてきた、人間の大量の死ということを、どういう方向づけであるかは人それぞれにさまざまであるとしても、考えざるを得ないだろうということを、僕としては提出したつもりなのです。同時にそれは、家系図の作品のときの言い方で言うなら、僕自身も含まれるこの作品の受け手ひとりひとりが、ある意味ではお互いに交換可能だとしても、交換の許容量を超える程の数の死というものについてどう考えたらいいのかということでもあるはずです。多くの受け手のなかで、これらの作品が戦争や戦死者のイメージと強くむすびついたのも、僕が連作『治癒』からこの連作『colony』に向かっていくなかで、家族という枠組みを離れ、さまざまなレベルの集団について述べようとした結果、社会というレベルの集団の、無視できないほどの大量の死について提出したものが、もっともわかりやすいかたちとして、それら戦争などのイメージと結びついて、受け手のなかで喚起されたということなのだと思います。

さて、少々長い時間をかけて、現在も続いている僕のふたつの連作、『治癒』と『colony』について話してきました。僕のきょうまでの仕事の中心にあるのは、ここまでいろいろな言い方でお話ししてきたことを簡単にまとめれば、生きものの生と死という現象とそのさまざまな解釈について考えたいということ、特に人間の場合にその解釈を強く方向づけてきた問題、つまり個人とは何か、それがその集合とどうかかわるのかという問題について、それぞれ考えたいということでした。あとしばらくは、こういった主題のもとに仕事を続けていきたいとも考えています。ただ、みなさんのなかにもすでにお気づきの方がいらっしゃると思いますが、この1年ほどの僕の作品が、人間の生というよりはむしろ死についての思索をうながすという方向に傾きをもっていたことで、それらを観る人が、たとえば先ほどの場合のように、戦争や戦死者のイメージからむごたらしさやおぞましさといったような意味だけを強く作品から導いてしまうということが実際にあったでしょうし、それが、僕がはじめのほうでお話しした条件、生と死を扱いながらも絶望に傾かないという条件に、背くようになってきているのではないかという疑いが、僕のなかにうまれてきたことも確かです。
 何度もお話したように、僕は、自分の作品が、僕の何らかの意図の容れ物で、観る人がそこからその意図を汲み上げるべきようなものだと定義するよりは、観る人ひとりひとりが、その人なりの意味を紡ぎだしてゆくようなものだと考える方が、何倍も面白いだろうと考えています。ですから、ご覧いただいてきたような僕の作品がどういう意味をもっているかということの総体は、受け手が紡いでくれたさまざまな意味群を、僕がこれからあと回収していくなかで、自然に定まってくるものだと思うのです。これら、多くの人がおぞましくむごたらしいと感じた作品群についての意味の回収作業にも、やはりもう少し時間がかかるように思いますし、それらの意味群や僕自身の疑いを、僕の今後の仕事の文脈に、どういうかたちで束ねていくかについても、もう少しあとになって定まってくるもののように思います。それは、美術作品には、視覚的に一瞬にして「くる」ということだけではなく、何時間か観つづけてじんわりとひきこまれたり、あとで時々思い出して「あれはなんだったんだろう」というふうにして噛み砕かれていくということもあるのだと、僕自身が考えているからです。僕としては、ここまで制作してきた作品群が、あとで時々思い出されることで広がってゆくようなタイプの作品であってほしいと願っていますし、これからもそういうタイプの作品の作り手でありたいと願っているのです。ぜひご感想をお聞かせ下さい。ありがとうございました。