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「作間敏宏個展について」(1992/5) アートフォーラム谷中「dark end of the garden」プレスリリース用テクスト/作間敏宏


 いいとか悪いとか、美しいとか醜いとか、何かについて判断することがとてもつまらなく思えることがある。「いいもの」がそれほどいいと思えない、「悪いもの」がそう悪くない気がする。何かを決めるのがとても億劫で、何かを決めたとたんシラケている。判断というのが価値の境界線を引くことなのだとしたら、僕にはとてもそんなことはできないという気持ちになってしまう。
判断しない・判断できないもののなかに本当に見たいものが隠れているのかもしれないと僕が考えるのはそんなときだ。ところがそう考えるやいなや、その着想がすでにいい悪いの判断を含んでいるという堂々巡りにおちこんでしまう。どこからともなく現われて視界をくもらせる、この判断し解釈するという心の動きは、考えてみれば僕がこれまで誰かにくりかえし教わった規準によってくみたてられているわけだ。僕らの行為のあらゆるものが小さな判断と解釈の積み重ねである限り、僕らはいつでも何かについて誰かに教わったように判断しながら、そういう枠組の中で相変らずあれこれと行為し続ける存在なのだ、と考えるのはとてもつらいことだ。自分の思考がどれも他人からの借りものにすぎないという夢想は、自分の体がバラバラになる夢に似て、自分についての根源的な危機感をひきおこさずにはおかない。
 そういったことをひたすら楽天的に切り捨ててしまったり、あるいは問題が提示された瞬間に答えがみつかるふうの啓示の類に身をまかせたりといった、どちらにしても怪しげな戦術を弄するのでないかぎり、僕はやはりこの堂々巡りに船酔いしながら、僕についてのあれこれを考えるしかないのかもしれない。
 こんどの新しい作品は、そういう「判断」についての、とても個人的な場面でのレポートのようなものになるはずだ。