colony

「『受胎した光たち』によせて」(1989/12) 選抜展の会場パネル用テクスト/作間敏宏


 例えば生命の記憶とか生殖の原風景というようなもの、僕の身体にも精神にも受け継がれている「おもかげ」のようなもの、そういうものについて僕なりに理解した内容を、作品を制作するということのなかでここ何年か僕は提出してきたのだと思う。時には、自分の無意識の海の底にずっと沈んだままでいた(多くは負なる)イメージを引き上げることが少しはできているような気がすることもある。僕自身のものであり、あらゆる生のものでもある「おもかげ」に繋がりながら、生殖の連鎖を遠くまで遡って見渡す風景には、正と負(美と醜、生と死、など)のカオスをそのままで受け入れる大いなる包容が内在しているのを感じるし、それはまた、現在の僕を不自由にしているさまざまな因子をネガで読み取れるしくみの、隠し絵にもなっているようだ。僕はそこで作品を生み、それから現在の自分に立ち戻って、自分のことや次の遡行の方策についてまた思いをめぐらす、ということを繰り返してきたのだろう。
ただ、言ってみればその風景を写していただけの僕のこれまでの作品が、この現実的な今をどう認識するのかということについてこれ以上勇敢に発言することが出来ないでいるのも確かだ。現実について何も解釈したくないというのでなく、現実を僕なりに理解したいという態度であろうとすれば、その意味では逆方向だったのかも知れない僕のここまでの作業のベクトルを、作業全体を貫いて正方向に転化し、現実が持つ文脈のなかでこそますます作品が生き生きと語りだすような、そんな閉じ方をさせていくべきなのかもしれない。まず、ここで作品を生むことだ。
 とりあえずこの継時的な共同制作が、いつもより少しだけ距離をもって自分の提出したものを眺めさせてくれて、それによって僕自身のここでの座標のようなものを確認させてくれればいいと思う。