colony

「光の記憶'98」(1998/6/1) [記録から記憶へ] 展覧会図録/室井絵里


(抜粋)
……作間は電球を使って、自らの家系図をインスタレーションし「治癒」シリーズとして発表している。まさに家族、一族の記憶を再現した空間としてそれをはじめてみた時から数年経た今も、その空間の空気のようなけはいを記憶の中で強く感じる作品だ。その後幾度かの発表のたびに、そこに亡くなった人や新しく生まれてきた者の記録を加え形を変えている。一族の家系図という記録が、作品として表現された時それは記録から記憶へと変化しているのだ。また、作間は複数の家から表札を借りてそれを使ってインスタレーションを試みたり、代官山の同潤会アパートを取り壊す時に催された展覧会ではある部屋のあるじの息遣いそのままを、いわば人のうごめく意識をあらわした空間として再現していた。

家系図、表札、誰かが住んでいた部屋、作間のインスタレーションには電球など既製品が使われるとともに、ふだん私たちが意識せずに日常に接している家系図や表札や部屋や家具のもつ「物語性」をそこにとりいれることによってそれらに私たちがもつ感覚や潜む意味を表出したものとして、私たちの脳裏や五感に強く刻まれる空間である。
そこに配置された電球は、だから、電球というよりも何か生命をもった生きものの魂の形のようにも思えるし、実際にそれは既製のモノということではなく、作間の言葉をかりれば「電球が切れた時に、あ、死んだなと思ったんですよ」と、それは、動物的な生命ではない別の生命をもったものとして存在する。
作間の空間に対して、私じしんはコワイと感じたことはないが、ある人は彼の空間をコワイと思うらしい。彼の空間にみられる消えてしまった電球などは死んでしまった魂や、まだ生まれていないみえない生命など、そういう実際にはみえないが実は、私たちの日常と隣りあわせに存在しているものを感じさせる空間だからなのだろう。私たちはそういう、日常と隣あわせにある存在を、だが、ふだんあまり意識せずに生きている。
むしろ、人が生まれる空とと隣りあわせにある死ぬことを一般に人は日常生活とは切り離して、意識の外においてしまう。だから、そのことについて表現した作品である作間の作品をコワイと感じる人がいるのかもしれない。

私(たち)はいつかは死ぬということ。そのことについて、ありのままに表現した作品。作間のインスタレーションはそれら私たちが意識の外におきがちな事実を、その空間が醸し出す物語として、私たちに提示している。
今回は、彼は自分じしんの家系図の記録から離れた。複数の人の家系図をもとに構成された空間は、今春、東京のガレリア・キマイラで発表した新たなシリーズ「colony」で見られたような個人の名前が個人固有の物語を越え(これらの名前はインターネット上から収集してきたということだが)集団の記号として位置づけられたとでもいうぺき匿名性の空間をつくるだろう。これは、よりクールでリアルな方向へと作家自らが進んでいったことのあらわれだと思うが、そのことが空間にどのような変化をもたらすのか。
(以下省略)