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「光をつかむ-素材としての メ光モの現れ」(1997/11/p.30) [出品作品について] 展覧会図録/作間敏宏


出品作品について

 僕自身の家系図をモチーフにしたインスタレーションにはじまり、その後ビニールハウスや布団・家具・表札などをそのつど援用しながら展開してきて、全体としてなんとかまとまった仕事になりつつある『治癒』の連作は、虚構の色彩の濃い作品群を制作してきたそれまでの作業全体を一度リセットし、僕の個人的な生活を起点とする仕事をはじめたいというもともとの動機が、つねにその基底になってきました。  それまでも強くあった僕の個人的な生活への興味は、この連作から、具体的には、僕自身の家や家族といったものを軸にした視野のひろがりのなかで作品へと凝固しはじめることになったのですが、作り手として僕がそういったところにシフトしようとしたのは、それら家や家族というモチーフ自体の魅力によるというよりはむしろ、制作する態度として、それまで生活の場面と切り離されてきた制作の現場=「アトリエ」を互いに地続きにし、生活のあれこれの場面への興味に仕事のベクトルの軸をそろえてひとつのものとして考えるような作り手のありかたに強く惹きつけられたことによる、と言っていいと思います。
 こうした「転向」が僕にもたらしたことのなかでとりわけ大きい意味をもつのは、作り手がそこへ導こうと意図する意味のようなものが作品という受け皿に載り受け手にわたるという、それまで漠然と信じていた作り手-作品-受け手の三者の関係式をもまたリセットせざるをえなかったということです。作り手である僕の生活と受け手のそれとが個人的なレベルで等価であるいじょう、そのまなざしについて考えようとするこの連作は、僕に与えられるのと同じ大きさの受け皿を、作品の前に立つ人の数だけ供給できる装置でなければならず、そのことはこの連作がすでに単なる意味の受け皿であることをやめて、何か別のものになったことを意味していたように思います。僕はこの連作を、表現というよりは、僕が提出したい主題の「括弧入れ」の形式として、つまりその前に立つ人それぞれがそれと関係し新しい多様な意味を紡ぎ織りあげる紡織機械のようなものとして、定義しなおすべきだと考えました。
 実際にこの連作で僕がやってきたことは、僕が僕の個人的な生活のなかで蒐集した、家や家族などにかかわる社会的な装置や制度が、日常の道具や決まりごととしていきいきと現われている「現場」を選ぶことと、それが戯れ感じ考えるに足る奥行きをもっていることを、視る人に認識せしめる程度にその「現場」を異化することとに尽きるといってよく、それ以上の意味的な工作、特に僕自身の思考の傾向から派生する特権的な意味や普遍の装いを、そこに直接添えたりあるいは添えたように見えたりすることはできるだけ回避してきたといえます。自分で準備したものを提示し、「僕はこれを視ている」ということだけを言おうと思ったわけです。この連作で日常の道具や電球などの素材をほとんど加工していないのも、日常的なレベルでそれらにまとわりついている重層した意味群ごとできるだけそのまま援用する必要があったことに加え、同じことかもしれませんが、加工した結果としての狭義の「造形」が、ここでは不要と思えるそういった特権的な意味を発生させてしまうと考えそれを避けたからでもあります。
 こういった態度変更は、それ以前から強く僕のなかにあった考え、細胞から人間までのさまざまなレベルのコロニーとそのメンバーについての僕なりの解釈を、家や家族を起点にしたパースペクティヴのなかに再配置することを可能にもしてくれたと思います。それまではまなざしの焦点として、唯一の結論めいたかたちをとることでしか作品に載せることができなかったそれら僕自身の解釈は、この連作においては、作品の特権的な意味としてではなく、さきほどの言い方に続ければ、「現場」を異化する道具として解体され、額縁のようにそこをとり囲むはたらきをすることになったはずです。コロニーとそのメンバーのありようを、怪我がかさぶたとして癒え新生児のような皮膚として再生してゆくしくみに重ねて視ようという、おおむね生物学的な興味にもとづいた自動詞としての『治癒』ということばを、そのタイトルにひくことにしたのも、ひとつにはそういう異化作用と連動する額縁としてのはたらきを意図した結果でした。
 この展覧会に出品している、古い家具を使ったインスタレーション「治癒」は、そういった文脈において続けてきた連作の、ちょうど10作めにあたる1996年発表の作品を、この会場にあわせて再制作したものです。それらが使われていた家の気配と使っていた家族の営みとが深く染み込んだ古い家具群を透かして現われるはずの、この方位からの抒情と思索の場=紡織機械として、この空間/時間が視る人に機能することがあればと考えます。

現代における「光」、あるいは「光」の表現について

 以前別のところで述べたことですが、僕は特定の素材や手法を起点とした制作をすることを避けようという考えが強く、この、光を主題にするというニュアンスの「『光』の表現」ということについては、述べるべき何ものももたないように思います。ほぼ同じ理由で、「現代における『光』」ということについても言うべきことがみつかりません。したがってこの設問への回答は差し控えることにします。