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「歩き続けるアート1-作間敏宏思考展」(1995/9) 展覧会図録/山内宏泰+作間敏宏


ワークショップシリーズ・「歩き続けるアート」について

「歩き続けるアート」は、作家の作品制作過程を展示する「思考展」と、思考展を参考にしながら作家と共に展開してゆく「公開ゼミナール」の二つの企画から成り立っています。
「思考展」では、まずあらかじめ作家に公開ゼミナールで参加者が体験することと同一の内容(物質から作品へ)で作品制作を行っていただき、その作品ができあがるまでの思考過程を全て展示します。従って展示内容は、完成した作品ではなくマケットやエスキース、思考メモなどが中心となります。これら具体的な作品化の例を参考にしながら、「公開ゼミナール」では一般参加者が自由な発想で作品制作をしてゆきます。一つの物質がどのような思考を経て意味を持った作品になってゆくのでしよう。「歩き続けるアート」ではシリーズとしてのこのテーマを追究してゆきます。

「作間敏宏思考」展について

展覧会で展示するものは、完成した作品であるのが当たり前となっている今日の美術館では、作家の存在は制作現場から切り離された形で一般の観覧者に伝えられ、生きている作家が制作過程で何を考え、どのような思考段階をもって作品を生み出すのか、という具体的なプロセスがなかなか見えてきません。
純粋に作品のみを、全ての情報から切り離され眼前に存在する物体、あるいは現像としてみるならば、作家の存在は、むしろ否定されるべきなのかもしれません。しかし作品を生みだしたのが人間である以上、作者の存在や思考を明確に見える形で提示することも必要ではないでしょうか。作品を作るという行為は、作り手の表現活動であり、作品は具体化された作者の思考です。作品は自然現象のようにわき出てくるものではなく、作者が人問として生きる中からひねり出してくるものです。そのようにして生み出される作品には非常に多くの意味が込められています。
では自分が生きている中から表現をひねり出すにはどうしたらよいのでしょう。 思考とはもともと有形の物体ではありません。そういうものを具体的に造形する行為は、造形表現活動の基本と言えます。しかし単純に何かの物体に置き換えてみても、それはなかなか表現にまではなってゆきません。思考を具体化するためには言語と同様に素材や表現様式を記号として組み合わせ、作品の意味を形成してゆかなけれはならないのです。そのような活動をする上で、優れた参考例として作家の思考過程を見ることは、我々に様々なヒントを与えてくれます。
シリーズ第一回目の思考展では、「治癒」をテーマにインスタレーション作品の発表を続けている作家、作間敏宏氏が、自身のテーマを表現するために、物質をどのように変化させ、思考を具体化していったのかを、「わた」という素材を通して見てゆくことにします。

山内宏泰(リアス・アーク美術館学芸員)

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「わた」からインスタレーション作品「治癒」へ

作間敏宏

何かものを作るときの素材について考えてみましょう。
「もの」は全て素材だと言えます。木や石などの自然の「もの」はもちろん、テレビやコンピューターなどの機械も、それを使って何か別のものが作られるなら、全て素材と考えることができます。空気や水など形の定まらないものも、動物や植物も、大きな建物や広い大地も、使われ方によっては全て素材になるわけです。人間が手を加えることで別の姿や新しい意味が生まれてくるようなものは、どんな「もの」でも素材であると言えるのです。
一方、どんな「もの」にも、必ずいくつもの異なった姿と意味があるように思われます。ガラスのコップは、例えば水を飲むために作られたものだとしても、同じように、お酒を飲んだりお茶を飲んだりもできます。きれいに磨いて飾っておいてもいいし、水を入れて花をさしておいてもいいでしょう。ひっくり返せは何かの台に使えるかもしれないし、割れたかけらは刃物にもなります。水が入ったコップからは、例えば渇きをいやすというような意味が読みとれるかもしれないし、割れたコップには、こわれものとしてのはかなさが宿っているかもしれません。もちろん、他にもたくさんの姿と意味があるはずです。
ただ、こういったいくつもの姿や意味は、「もの」を、ふつうの見方で見ていても、なかなか見えてこないものです。コップを、水を飲む道具と決めつけずに、いろいろな見え方や使いみちを、自由に想像することが、「もの」の姿と意味を見いだすために、とても大切になってきます。「もの」は僕たちに発見されて、素材としてたちあがってくるわけです。
さてひとつひとつが、それぞれたくさんの姿と意味をもつ、これらの「もの」が、全て何かを作るときの素材だというのは、考えてみると、とてもおもしろいことです。何かを作るのに使うどんな素材のなかにでも、あらかじめいろいろな姿と意味がふくまれていて、作り方使い方組み合わせ方によって、そのうちのひとつが浮かび上がり、作ったものの上に現れるということだからです。しかも、できあがったものには、また同じようにいくつもの姿と意味とが新しく生まれ、何通りもの読みとり方ができるわけです。
ふだん僕たちがなにかものを作るときには、こういった、素材になる「もの」のさまざまな姿や意味を考えることは、それほど必要ではないかもしれません。頭のなかで生まれたイメージを出発点にして、それを作るためにふさわしい素材を、最後に選んで従わせていくようなふだんのやり方では、自分の頭のなかで生まれたかけがえのないように感じられるイメージを実現することが、最も大切に感じられるからです。この場合には、素材のもつ姿や意味よりも、素材の性質や作りやすさなどの方が重要ですから、どんな素材で作られていてもイメージどおりの形や色であれはいいわけです。
それに対して、素材のなかにあるさまざまな姿と意味とを見つけることから始めるような作り方では、作るもののイメージが、あらかじめ頭のなかにあるというよりは、むしろさまざまな「もの」と関わっていくなかで発見されるのだと言えます。さきほどのコップの例でいうなら、水を飲む道具という、コップのふつうの見方から離れて、たとえは単純に円筒形の透明な素材としての意味を選びとり、それをいくつか組み合わせた透明な立体を作ることもできるし、また、たとえば割れたコップのガラスのかけらを、けがをしそうでこわい感じという意味の素材として、組み合わせて使うこともできるでしょう。
ありふれた「もの」をあらたに発見し、それらの「もの」のもつ力に導かれながら、素材としてうまく使うことによって、あたらしい姿と意味をもったものを作り出してゆくこと。今回の制作は、綿という素材があたえられたことで必然的にそういうやり方になったわけです。
先ほどのコップと同じように、綿にもまたさまざまな姿と意味があるように思えます。天然の綿は、わたの実の毛ですから、植物としての姿がまずあります。綿の花が咲いた綿畑のようすを思い浮かべてもいいし、綿の収穫にまつわる歴史的なことについて考えてみてもいいでしょう。さわって柔らかいという意味では、体に触れるということをすぐ思いつきます。見た感じも充分柔らかそうです。木綿の生地のように、糸にして織れば、体をおおうことができます。何かを包めば暖かそうですから、ふとんやキルティング地のように、暖かく包むというイメージが浮かび上がってきます。こわれやすいものを包めば、クッション材として、大切に包むという意味を感じることもあるでしょう。合成繊維の綿や脱脂綿などはどうでしょうか。わた雲とか綿雪とかという言い方もあります。綿菓子や綿ぼこりを連想することもあるかもしれません。焼くとどういう姿になるでしょう。ろうなどで固めたらどうでしょう。
僕が受けとめた、綿という「もの」の、素材としてのひろがりは、もちろん、僕特有の傾向があると思います。それでは、それがどういうひろがりだったのかということを、この素材をきっかけにして生まれた作品「治癒」の制作の過程で僕が考えたことを示しながら、順を追って述べようと思います。

僕はとりあえず綿をいろいろいじってみることにしました。

僕なりに綿について考え、さまざまにひろがったものをそのままにして、僕はとりあえず綿をいろいろいじってみることにしました。これまでに作った作品のいくつかと綿とを組み合わせたり、いつか使いたいと思っていた包帯という素材で綿を巻いてみたり、時間がちょっとあいたときなどに、身近においてできるだけ綿にさわってみるようにしました。

正直言えば、綿という素材をテーマにしたワークショップを美術館から依頼されたものの、僕はそれまで、作品に綿を使ったことがなかったし、実際こうしていじりはじめても、何となくよそよそしい感じで、しっくりこないのを我慢しているという感じてした。きっとそのうちに、この綿という素材から、何か僕なりの姿と意味がたちあがってくるだろうという、いくぶん楽観的な気分によりかかっているしかなかったのです。言い訳ですが、ふつう僕が作品を作るときには、素材はなんでもかまわないというやり方は決してとりませんが、逆に素材だけがあらかじめ決まっているということもないので、こういうやり方自体に、戸惑いがあったと思います。いつもの作品作りでは、自分として追いかけているテーマと作品のイメージが、直観的に選びとった素材をなかだちにして、一気に組みたってしまうことが多いのです。その構造をしたじきにして、そこから先の細かい部分を、時間をかけて作っていくわけです。

ともあれ、綿との関わりを続けるなかで、僕は、自分がこの素材を、暖かく包むというあたりの姿と意味とを中心に、ながめていることに気づきました。それなら、僕がずっと続けている、弱々しい光を人間の体温として「気配」のようなものに置き換えてゆく仕事に、つながっていきそうだと考えたのです。最初に使った包帯も、光と一緒になることで、傷ついた弱々しいものが、暖かく守られ包まれるというあたりの意味として、少しなじんでくるはずです。

ここで僕が迷ったのは、綿に光が包まれるときには、綿は弱々しい光を包んで暖かさをうけとめ、守るものという意味づけか強くでるけれども、綿そのものの質感があますぎて、作品としては組み立てにくそうです。逆に、包帯で光と綿とを巻いていく場合には、作品としては成り立ちやすそうですが、綿の意味合いが薄く、光も、僕が続けてきた光の意味合いからずれて、傷口の発熱のように感じられてしまうということです。僕はこのところ、身の回りにあるごくふつうのものを、それ自体としてはふだんの生活と切り離さずに使っていながら、全体の構造として新しい意味がたちあがるような、そういう気持ちで仕事をしているのですが、素材そのままの綿には、特に質感の点で、なにか饒舌すぎる日常的でない感じをもってしまうのです。こうしていったん制作が止まり、再び綿をいじりながら、綿の素材としての姿と意味とを考えなおしてみることになるわけです。

1ケ月ほど過ぎて、結局僕は、綿そのものを作品にするのを断念しました。それは、質感の問題もありますが、何となく手になじまずしっくりこないという最初の印象が、どうしても消えない気がしたからです。考えてみると、僕がこれまでの作品のなかでこの素材を使うことがなかったのも、そういう理由からかもしれないのです。それで、綿を使った日用品のなかから、綿について最初に考えたときに、すぐに思い浮かんだふとんを選んで1/10サイズの模型を作り、光と組み合わせてみました。小さくまとまっているのは子供をあらわそうとしたものです。

そこからさまざまな意味が立ち上がってくるはずだという確信が、僕の中に生まれてきました。

簡単にいえば、綿について僕なりに広がったひろがりを、ぐるりとひと回りして、結局いちはんはじめにもどったわけですが、一見徒労のように見えるこのひと回りは、ちょうどゆるやかならせん階段のように、自分の位置を少し高みに持ち上げてくれる、大切な回り道だったと思います。
ところで、このふとんに横たわる光のイメージから、僕は強い力がたちあがっているのを感じました。昼の疲れを静かに眠ることで癒してゆく、その人間の毎日の繰り返しのようすが、休むための日用品であるふとんと、そこに横たわる弱々しい光から浮き上がってくるのです。弱々しい光は、疲れて横たわる人間の体温や気配をふくんで、静かにともっているようです。
ただ一方では、包帯という素材の力にも、ひきつづき強く引きつけられていたので、綿ということを意識せずに、自分の手や足を光と一緒に包帯で巻いてみたり、綿と光を包帯で巻いてできる形を考えたりということを、並行して試してもいました。これはある意味では、今回の作品のためというよりも、いずれ包帯を使って作品を作るときのための助走といえるかもしれません。
綿という素材をふとんと読み代えることを決めて、またしばらく時間がたつうちに、今回のふとん=綿の作品が、どうやら僕のこれまでの作品の流れの上に、きちんと位置づけられそうなのを感じるようになりました。家や家族というものを、傷が癒えたり回復したりする治癒の「場」になぞらえ、個人の生や死のことを僕なりに作品として考えたいという、この3年ほどの仕事が、ふとんという、綿の二次的な素材によって、また新しいかたちに展開されることを直観したのです。
ただ、この段階ではまだ、ふとんに横たわる光は安らかな表情しかもっていませんでした。決して癒えないもの、快復しないもの、たとえは死をあらわすようなものがなければ、この作品はとても楽観的であまいものになってしまうでしょう。僕はふとんと並べて置くための、棺状の箱の模型を作り、中に綿をつめ、同じように光を横たえてみました。死んだ者の気配が箱の中に残っているようにしたかったからです。どうしても、癒えるものと癒えることのないものの、両方を扱うなかから、生きている者全体が癒され快復してゆくようすを作品にしていくことが必要でした。
このあたりで、作品の大きな構造が決まってきたように思います。この、ふとんに横たわる弱々しい光と、棺状の箱に横たわるやはり弱々しい光とを、数十個並べて暗くした空間に配置すれば、そこからさまざまな意味が立ち上がってくるはずだという確信が、僕の中に生まれてきました。とりあえずふとんの方だけを、ふたたび並べて見てみました。

このときに、綿に包まれる光のイメージを追いかけていたときに作った、電球の入ったびんの模型を思い出し、ひっぱりだしてきて、ふとんの上に置いてみたのですが、そのようすがとても強く印象に残りました。そのときは、それがどういうことなのかよくわからずに過ぎたのですが、次の日にもう一度、こんどはびんだけを並べて見てみると、そのびんが、生を終えた人がおさまる、ちょうど骨壷のようないれものに見えてきたのです。そしてそれは、いったんそう見えはじめると、ふとんで横たわっている方の生きた人たちの安息の姿をいっそう現実的に見せ、しかも、空間的によくなじんでくるようでした。

僕は、棺状の箱と、こちらのびんと、どちらにするか迷ったあげく、最終的にびんのほうを使うことにしました。この作品についていえば、棺状の箱のほうは、作品の構造全体に対しての負の意味合いがわかりやすいけれども、直接的で含みが足りないのです。びんのほうは、すくにそれがわからないものの、見る人の想像力でさまざまに解釈できそうでした。そしていったん癒えないものとしての意味合いを感じはじめると、そこから逃げられない力をもっており、しかも、全体として絶望の方に傾かない雰囲気があるように感じられたのです。

こうして、やっと作品の全体が決まりました。ふとんを30組、2列に並べ、ひとつひとつのふとんに、人間の重みでできたように跡をつけます。そのうち半分の15個には電球を数十個づつ横たえ、弱々しい光をつけます。子供をあらわすような小さいまとまりのものもいくつかあります。残り半分の同じ15個のふとんには、へこみの頭の部分に、やはり数十個の電球がつめられたガラスのびんを置きます。これも同じように弱々しい光をともします。はじめ、このびんの中の電球は、死者として点灯させずに消しておくのがふさわしいと思っていたのですが、生きている人たちの日々の安息を、死者を含めた人間全体の治癒と重ねるという意味で、時間を越えて生きている/生きていた人たちの全体に考えがおよぶような構造が必要ではないかと考えたわけです。この作品は広い空間に展示されるわけですから、本当に細かいところは設置の作業のなかで決めなければいけませんが、できるだけ事前に準備をしておきたいので、この段階でできる最終的な制作として、実際の空間の1/10の大きさの模型を作ってしばらく眺めることにしました。空間の暗さや電球の明るさなどを、この模型を使って確認するわけです。あとは実際の設置まで、半分は楽しみにしながら、半分は心配しながら過ごすわけです。

最後に、僕のこういうやり方は、ものを作るときのさまぎまなやり方のひとつにすぎません。考えのすじみちや、考える内容と制作との関係、素材や手法の位置づけや直観的イメージのあつかい方などを、どういうふうに組み立てるかによって、ひとりひとり異なった作り方になるわけです。作り手がそれぞれある傾向をもつのは、この組み立ての違いに起因しており、そのことに裏付けられて、その作り手なりの作品が生まれてくるのです。