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「UR」(1990/Vol.1/p.100) [テクノロジーとアニミズム] テクスト/作間敏宏


負のイメージのこと

 中学三年の国語の授業で、教材の井伏鱒二「山淑魚」の、閉じ込められた当の山淑魚についてK先生から急に感想を求められ、不意を突かれたことで殆ど無意識のままにこう答えたことがあった。いのちについて考えるときに、これから生きてゆくものとしてみる見方といつか死んでしまうものとしてみる見方とがあるけれども、この閉じ込められてしまったいのちからは後者の見方が強く読み取れると思う、と。着席した僕は、自分の答えに驚きどうして自分がそういうことを言ったのかをしきりに考えていた。どうしていのちなどと言ったのか、いのちを「いつか死んでしまうもの」と本当に僕は感じているのか、いのちは生きるためにだけあるはずだったのではないか。
その後も時々思い出しては忘れることを繰り返していたこの出来事が、このところずっと気になっている。そして、死ということをも含め、僕の意識が知らず知らずに拒否しているイメージ、無意識の海の底には自然にむしろ強くさえありながら存在している負のイメージ、自覚的に意識するのでなく幻覚と狂気の産物であるようなイメージを、僕はどれだけ捨ててきてしまっているかわからない、という思いにたどり着くのだ。みうちや知人の死を、あるいは飼っていた昆虫やペットの死を、抽象的な記号のレベルで積み上げていただけの、十代半ばの急ピッチで上昇しつつあるいのちとしての僕の意識には、まだ負なる生というか生の裏返しというべきものが本当の意味ではのぼっていなかっただろうし、おそらくその授業中準備していれば、死のイメージに行き着く前に「不自由=かわいそう」という公式どうりの感想を述べていたはずのその山淑魚の、来たるべき具体的な死について想い及ぶこともなかっただろう。だから、偶然にも無意識に放った言葉のうちにいのちの両義性についての指摘をしてしまったことで、僕は自分の深層でかたちづくられつつあるイメージを見つけたのかもしれないし、同時にいつも無意識にそれを圧殺しようとしてきた自分を直観したのかもしれない。結局は間もなく薄れてゆくことになる、そのときの僕の驚きはだから、自分の一部分が自分の意識と無関係に育っていることについての発見と困惑の驚きだったのだろう。それは、僕の感想は少し飛躍であって、山淑魚は成長とともに知らず知らずに自由を失う現代人の暗喩になっているとみるのがよい、というK先生のコメントに一方ではうなづきながらも、自分の答えの裡に何か自分自身を自由にしてくれるものの萌芽を感じ取って、妙な満足感さえ味わっていたと思えるその時の印象に、今になって裏付けられてくるような気がするのだ。
夢というのもそうだ。実際に起きたことをトレースするような夢の場合はともかく、(多くの場合ひどく不快な)夢が、類似することがらについての現実の自分の意識的な対応の形式に思いがけない解釈を投げかけたり、現実においては無意識に圧殺しようとしている考えを突き付けてきたり、もっと抽象的な場合は、何か自分の生の全体についてのイメージ、ポジティヴでなければならないというふうに思い込んでしまっているイメージを、容赦なく突き崩してしまうことがあったりするものだ。そこでは自分が複数に分離して対話しているような手触りがある。数年前からはノートに書きためたりもしているそれらの夢の記憶を解きほぐしていると、おそらくは教育や慣習の産物であるはずのさまざまな呪縛から自分の意識が解き放たれていくような浮遊感を味わうことがある。
その中で子供の頃から繰り返し繰り返しみている夢がいくつかあって、ディティールは省くけれども、無限遠にある無限大の抽象的な存在と無限に自分の存在と重なる近さの無限小のこれも抽象的な存在が、苦しみを伴う予感を経て一瞬にして入れ替わるといったものや、慈悲に溢れた白さに覆われた視野いっぱいの風景が、これもしだいに強まる予感のなかで一瞬にしてしわだらけの邪悪な風景に変わってしまうといったものなど、どれも抽象的で「夢見の悪い」ものばかりだ。これらが僕の生活や思考の形式の、具体的な何についての、どういう解釈を導き出すものなのかは今だにわからないし、おそらくは意識的に意味を付加したとたんに嘘になってしまうような類のものなのだろう。ただ、夢でありながら(夢であるからこそ、か?)現では感じることのない強烈な衝撃の、それら漠然とした畏れや脅えの感触は、この時代や社会といったものに必要以上にニュートラルな対応をしてしまっている僕自身を、根底から揺さぶるに充分なパワーを秘めている。それが何かの暗示であるというのでなく、僕自身の生が生物進化の経路を逆行し、精神が先祖がえりをしてゆくような感覚とでも言えるようなのである。
 表現者がいつもどこかで子供であり続けなければいけないというのがおそらくはこの種のプリミティヴさのことを指すのだろうという思いとともに、そういった畏れや脅えといったような原始的な感覚を遠い太古の暗やみのなかからひきもどす方策として、または現代の生活では直接感じにくくなっている原初的な宗教心といったものを引き止めておく手段として、僕はこれらの夢や意識下の表象を、自分と分かちがたい生の一部として感じていたいと思っている。無意識な言動や夢のなかにこそ、より透明感のあるヴィジョンが横たわっているように思えるから。

テクノロジーのこと

 作品に他よりも多少複雑な装置や新しい素材を用いることが多いからといって、僕にテクノロジーへの特別な思いいれがあるというわけではない。もし僕の作品にそう感じさせる部分があるのだとしたら、それは作品に込めているメッセージが脆弱であるのか、あるいは装置や新素材をヴィジョンの実現の道具や素材として使いこなしていないのか、どちらにしても残念だが僕の作品が未熟なのだというほかない。「(ハイ)テクノロジーの」という修飾語が僕や僕の作品に付加されるときにはだから、そういう意味での批判としてそれをうけとめようと思っている。
 テクノロジーが芸術表現の領域を拡大し続けてきたことや、すべての表現活動の現実的な基盤が望まずとも時代のテクノロジーに規定されているということに異論をはさむ余地はないにしても、最新のテクノロジーに支えられた表現がいつも高いテンションを獲得してきたなどということはないし、時代のテクノロジーが見せてくれる新しいヴィジョンがただちに芸術家のヴィジョンと重なるわけでもない。愚直なテクノロジー神話をぬぐい去ってしまえば、新旧すべてのテクノロジーが、素材や方法として等価のままそこによこたわっているだけだ。外側の新芽のみが樹木ではないのだから、僕らは成長し続ける樹木の好きなところを選べばよい。何を選択するかではなく問題はむしろどう選択するかということなのだ。ヴィジョンの実現を直観できるテクノロジー、あるいは新たなヴィジョンをインスパイアーし得るテクノロジーであるなら、それが最新であるかどうかなどどうでもいいことだろう。僕はテクノロジー礼賛者でもなければその逆でもない。ハイテクノロジーというのが具体的にどういうことを指すのか何についての呼称なのかもよくわからないし関係もないと思っている。また同様にテクノロジー・アレルギーといえるような一連の症候群にも救いがたい幼さを感じている。
一本の棒きれに始まったテクノロジーは、いつもその時代の人間の自然観にとっては異物でしかありえかったわけだが、その定着においてテクノロジーが時代の自然観に協調していったというよりはむしろ、異物=テクノロジーと旧い自然観との衝突の際に人間の側がその地平からジャンプして、両者を包括し得る地平での新たな自然観を獲得してきたのだと言うほうが正しい。生体における免疫の働きのように、つぎつぎとやってくる異物群に最初は大騒ぎしながらもひとつひとつ慣れ親しんで感情移入しながら、それらを追認することで共存をはかるというやりかたで、人間はずっとここまでやってきたはずだ。新しい自然観に包含されることで異物は異物でなくなり、そこの新たな構成員になる。だからテクノロジーだとかハイテクだとかいう言い方が、まだそれらを異物として認識している人間の自然観を表明するものだとしても、遅かれ早かれそれらは定着するし自然観の一部を構成するようになる。いつまでも免疫ができないまま無益な大騒ぎをするのは、よく引用されるドン・キホーテというより、現代で言えば花粉症のようなものだ。むしろ表現にとって問題となるのは、まだ異物である間にそれを素材や方法として選択していながら、そのことに無自覚である場合だろう。それが「効果」として人間のアレルギーを引き起こすのだというところまでが、この素材や方法の性質なのだから。こういう場合、表現内容がそれを越えるテンションを持てばいいが、さもなくばケレン味だけの怪しげなものに堕してしまうほかない。
最新のテクノロジーに下駄を預けそのことに表現の未来を見いだそうとする楽観的な態度、あるいは逆にテクノロジーが提出している表現の可能性に眼を閉ざそうとする悲観的な態度、どちらもかたちは異なるがテクノロジーに偏執して右往左往する退屈きわまりないやり方だ。テクノロジーが表現における精神的な膠着状態の突破口となり得るという考え、または逆に膠着状態に陥る原因となり得るというような考えは、いくら考えてもちっとも面白くないし何も産み出さないだろう。そうではなく、芸術家のヴィジョンが実現し定着していくときに自然にそこに存在する「素材」としてあり、または作品や制作の方向性やコンセプトをイメージにアイデンティファイしてゆくときに、実感を伴う「方法」としてあるようなもの、ヴィジョンに従属させるがまたヴィジョンを啓発し得るようなもの、僕は僕自身にとってのテクノロジーをそんなふうに眺めている。

アニミズムのこと

 石ころや森なんかに生命や魂を感じて感情移入し、怖れたり崇めたりするアニミズムは、子供や原始生活のなかばかりでなく、精神のプリミティヴな状態では誰にでも自然に現われ得ることで、擬人化したり精霊を信じたりする、信仰の原初的な形態のひとつらしい。森や湖の精というのがそうだし、月や太陽に顔を描いたりするのもそうだ。さまざまな神話や物語の原型にも深く関わってきた。僕にとって鮮烈だったのは、映画「ポルターガイスト」で窓から子供をさらっていこうとする大木の描写や、最近だとアニメ映画「となりのトトロ」に出てきたユーモラスなキャラクター達などだ。
アニミズムというのを僕が明確に意識しだしたのは、2年程前に行なった「12/15 r.p.m. のアニミズム」と題した個展の終了後だ。いろいろな動きの小品を15個ほど並べた、今になるといくらか反省もされる印象のその展示の搬出の後で、会場に置いていた芳名帳(というより僕へのメッセージの分量の方が多いようだったが)を眺めていて、随分面白がってくれた人が記した様子の1ページに、ああまさにそうだというような感じの絶妙な名前を、その時の出品作品の幾つかに付けてくれたのを見つけたときだ。題名ではなく名前であったということに、この人の僕の作品への感情移入の強さが表われているように思えた。続く個展で自分でも3点だけ試みてなかなか難しいものだと実感した、この名前を付けるというその人の行為が、僕の頭のなかで、それらの作品にまさにアニミスティックな生命を与えていた。そして名前の付けて貰えなかった4〜5点がなるほど動きが硬い感じだったこと、動きの悪くなった作品をその会場の人が「風邪をひいた」と表現したことなどもあって、僕の気持ちが感情移入という言葉に引きつけられていくのを感じていた。タイトルに使っていながらそれまでは辞書レベルの単純な物活論ぐらいの内容にとどまっていたような気がする僕にとってのアニミズムの意味も、これをきっかけに少なからず幅を持てたような気がするし、作品の第一義的な位置を占めるようにもなったようだ。それまでは主人でもあり得た動きや光は、そのあたりから僕の作品における新しい主人であるこの「アニミズム=感情移入」に仕える従僕となることになったのだ。
僕の作品も今もそう呼ばれることが多いキネティックアートという名称には、光と運動と空間・環境についての芸術の在り方についてのみ、社会や美術史に向けてある宣言をしてゆくというようなニュアンスを感じるし、動きや光が素材としてではなくそういった宣言全体を構成する不可欠なユニットであるような印象を持ってしまう。だが僕の方はといえば、従僕として位置づけることになった動きと光についてのみ焦点を絞ること、つまりキネティックアートが提出するような意味での、光・運動・空間・環境というテーマに、それほど強い興味を感じられなくなってきているらしい。積極的に動きや光を導入したモホリ=ナギの「ザ・ニュー・ヴィジョン」における実験の記録は、確かに僕に作品を作る最初の契機を与えたし、そこで述べられていたさまざまなヴィジョンが僕を大きく啓発しもしたのだが、その延長上で未来への楽観的な気分を蔓延させながら位置するキネティックアートの現在に、光・運動・空間についての自分流の解釈を突き付ける作業があまり実りのあるものだとは思えないし、かかるテーマの下に自分の感情を押さえたまま殉死するつもりもないからだ。この思いが自然に作品に表われれば、僕の作品がそういう呼ばれ方をすることもなくなるのだろう。
ともあれ、それまで意識の上で特権的な位置にあった動きや光を、鉄やプラスティックや塗料などのもろもろの素材と並べてしまったことで、幻想であったかもしれないキネティックアートの担うべき共通課題からエスケープできたような気がしている。それらを自分のやりかたで作品の感情移入のために動員してゆく作業は始まったばかりだし、しばらくはこういった把握の下に慣れないその作業を積み上げていく必要を感じている。途中から始まったこの国の美術史の、宣言主義的なムーヴメントに収斂させていくためではない。自分のヴィジョンを、風通しのよい高さから眺めてみるための「高み」を持ちたいからだ。ただ僕がそれを続けていくためには、今度はその作業全体を包括できるような深い感情移入が必要であるのだろう。