colony

「作間敏宏『(I was) drawing a face on the moon.』」(1990) 展覧会図録/作間敏宏


月や太陽の絵に顔を描いたり花や森に話しかけたりというのは、小さい子供なら普通にやることで、眼に触れるさまざまなものに感じる生命や意識と通じ合いたいという素直な感情移入(アニミズム)のひとつの現われだろう。成長とともにそれをしなくなるのは、世界を現実と空想とに分ける境界線を自分の手で引かなければならなくなるときに、見えている顔や聞こえていることばも一緒に拭いとるきまりだからなのかもしれない。

現実的で合理的な社会に適応するためには、僕らは似たような境界線をそのあと何本も引かなければならないようだ。ただ、そのいくつもの境界線の交差のすきまで窒息しているイメージ、正と負の、善と悪の、美と醜の、生と死の、区別してその一方だけを見るように引かされた境界線に封じ込められたイメージの、もともとの混沌をそのままで包み容れるような認識のありようを、たぐりよせて提出してゆくことが僕には面白くて意味のあることに思えるのだ。空想や無意識や夢の中に沈められたままの(負なる側の)もう半分を、水面下から引き上げることでもあるらしいこの作業は、ニュートラルな着想や判断から逃れきれない、不自由な僕自身の陰画を見ようとすることでもあるようだし、境界線を一本引き加えるごとに一緒に拭いとられて記憶の影に隠されてきた、プリミティヴな生の実感をとりもどすことでもあるようだからだ。この作業に必要な道具のひとつが、アニミズムのような感情移入のことなのかもしれない。

けれども、月の絵に顔を描き込むような無邪気さへの憧れに反してとうてい素直にはそれができなくなっている僕は、この少々まわりくどいのかもしれない手続きのなかで精神の無垢な状態に自分を連れ戻し、ここからプリミティヴな景色を眺めるてだてをみつけるしかないらしい。それでも、顔のある月の絵を(こっそり)描いてみるよりは、僕にはずっと自然なやりかたのように思えるのだ。