東京天文台: 明治前期の歩み
(典拠を挙げてない事項は、東京大学百年史編集委員会(編)、『東京大学百年史 部局史三』、東京大学、昭和62による)
〔背景が薄緑のセルは天文台・機材の整備に関係する事項。機材名は赤字で強調した。〕

月日

大学関係

文部省関係

海軍関係

内務省関係

1869年
(明治2)

 

 

 

315

新政府が東京府に旧幕府の浅草天文台の管理を命ずる。

 

 

 

4月

浅草天文台の撤去が決定。

 

 

 

6

開成学校、昌平学校、医学校を合わせて大学校が誕生。

 

 

 

10月

浅草天文台の残存器械を開成学校に引き渡す。

 

 

 

12

大学校が大学と改称。開成所は大学南校となる。

 

 

 

1870年
(明治3)

 

 

210

天文暦道の大学所属が決定。

 

 

 

8月7日

天文暦道局の本局が、京都から東京・湯島聖堂内に移転。

 

 

 

825

天文暦道局を星学局に改める。

 

 

 

103日

鮫島少務弁使の英国渡航を機に、大学は星学の器械をロンドンで購入することにし、その代金として5,000両を託す。

 

 

 

1871年
(明治4)

 

 

39日

注文した器械類が近く到着することを見込んで、江戸城本丸内に天文台建設の伺いを提出。「兼テ鮫島少弁務使ヘ托シ誂ニ相成候天文器械、追追到著可仕ノ処…」(星学局伺)

 

 

 

4月

天文台設置の場所として、新たに駿河台に3,000坪の土地を希望する。

 

 

 

5月

「既ニ欧羅巴ヘ被仰付候儀器モ不遠来著可仕候間…至急ニ御沙汰被下置候様…」(星学局伺)政府はこれを受け、東京府と交渉に入るが、東京府は赤坂門外を代替地として推薦。交渉不調。

 

 

 

717日

大学が廃止され、文部省が発足。大学南校は南校と改称。

 

 

728

 

 

兵部省海軍部内に水路局創設。

 

1872年
(明治5)

 

 

 

 

2

フランス人レピシェが数学・天文学を担当。

 

 

 

418

天文局(この時までに星学局から改称)の南校所属が決定。

 

 

 

718

 

文部省発足

 

 

83

学制頒布により、南校が第一大学区第一番中学校と改称。

8月、 天文局が文部省直属となる。

 

 

8月

 

鮫島弁務使に依頼した星学器械購入の資金不足が判明し、文部省が追加支出要求の伺書を提出。「右器械一ト通取揃御買入相成候ニハ、猶五千弗程も不足ノ趣、同人〔鮫島〕ヨリ申越候ニ付、星学専門御雇教師仏人「レピシェ」へも申談シ、猶代価取サセ候処、矢張総計一万弗程相掛候趣申出、事実不得止次第ニ付…」
購入予定器械の一覧

 

 

10月7日

 

上記伺いが認可される。星学器械購入費不足分として5千ドル、さらに「窮理併舎密学器械」購入費用として1,011ドル40セントの追加支出が決定。

 

 

11月

 

 

麻布飯倉の戸沢邸と石井邸の一部を買い受け、さしあたりの観測場とする。

 

1873年
(明治6)

 3月

 

天文局、東京師範学校内の元製本課跡に移転。(5月には昌平坂に再移転)

 

 

10月

第一大学区第一番中学校を開成学校に改め、天文教場を設ける。その際、雇教師エミール・レピシェが天文台建設を建議。

 

 

 

1874年
(明治7)

 

24

 

製暦業務が文部省編書課の業務となり、天文局が廃止される。

 

 

7

 

 

〔海軍観象台の建物が麻布飯倉に完成し、諸観測器具も整備される。出典:『東京大学東京天文台の百年1878-1978』〕

 

1876年
(明治9)

 

 

 

224日

 

 

 

編暦事務が文部省より内務省に移管。

3

 

 

 

図書寮に編暦係が設置。

48

 

 

 

内務省が雇外国人ヘンリー・シャボーに天文台建設の必要理由、費用の見積もり、必要人員等を調査させた報告書を提出させる。〔その中で、口径20センチ赤道儀(価格900ポンド)、口径20センチ子午環(価格1,700ポンド)、時計類が必需品として計上されていた。出典:『東京天文台90周年記念誌』〕

 

 

 

内務省の天文台案に対し、競合する海軍水路局長が反対の意を表明。

内務省の杉浦中地理頭が、大久保内務卿宛てに天文台建設年次計画案と地理局量地課の拡張案を提出。

1877年
(明治10)

 

4

東京大学誕生。理学部に「数学・物理学及星学科」が設置。

 

 

 

8月8日

 

 

 

地理局・図書局が連名で内務省に伺書を提出。天文台建設を棚上げし(「新ニ該台を御設立相成候事ハ今暫ク三四年ノ後ニ譲リ」)、内部強化に努める方針を打ち出す(「司天編暦ノ事業ヲ当局量地課ニ合併シ、同課量地用器械ノ融用シ得ヘキモノハ是ヲ需要シ、以テ観天ノ業ニ著手候ハヽ…大ニ実際ノ都合ヲ得可申…」)

8月13日

 

 

 

量地課の整備拡張が決定。約4千円の経常費の増額(設備備品費は含まず)と13名の人員増が実現。

1878年
(明治11)

 

 

28

 

文部省が、東京大学理学部観象台設立のために3,000円を支出する伺書を提出。(2月26日認可)

 

 

6月

 

 

5月の水星日面通過を観測するために発注したメルツ社製16.2センチ赤道儀が観象台に遅れて到着。

 

93

観象台が本郷に建てられる。

 

 

 

911

文部省より口径15センチ赤道儀口径6センチ子午儀が観象台に交付される。

 

 

 

 

アメリカ人教師メンデンホールが来日。「数学・物理学及星学科」学生に重力測定に必要な時刻観測の理論教育や、実地観測の指導にあたる。

 

 

 

1880年
(明治13)

4月

 

 

メルツ・レプソルド製口径14.3センチ子午環が観象台に到着。

 

611日

 

 

 

地理局の測量台を旧江戸城内天守台跡に定め、縮小天文台計画に関する伺書を提出。即日了承。

8月

アメリカ人教師ポールがメンデンホールと交替。星学教育を担当。(〜明治16年8月)

 

 

 

10月6日

 

 

〔香港駐在イギリス陸軍少佐・パーマーの覚書(外交史料館所蔵、佐藤利男著『星慕群像』に訳文引用)に記された1880年時点の主な機材:
6インチ屈折赤道儀
●新着の立派な子午環。目盛環直径3フィート(推定)。最近ヨーロッパから着いたもので、まだ梱包されたまま。
小子午儀。据え付け。
時計クロノメーターハンド・クロノグラフなど。
●外に種類ははっきりしなかったが、イギリスに大きな器械を注文中とのこと。〕

〔同左:
●新着の8インチ屈折赤道儀。まだ据え付けられていない。
●新装の目盛環直径2フィート経緯儀。最優良メーカーのトロートン・シムス製。観測小屋内に据付け。
●新設の天文時計。最優良メーカーのデント製。自動的に電気信号を送るように作られたもの。
携帯用子午儀。小屋内。
天頂儀。小屋内。
クロノメーター各種。普通式のもの及びブレーク・サーキット式のもの。その他雑器械。
●この外大きなバレル式クロノグラフが、イギリスから到着する予定。〕

 

〔『東京大学第三年報』中の「星学教師ポール申報」に以下の記述あり(佐藤利男著『星慕群像』に引用)。「本学年ニ於テ…内務省ヨリ録時筒及ヒ大型ノ赤道儀ヲ送附セラレタレハ…然ルニ余ノ残期ハ已ニ減少シテ…因テ又赤道儀モ尋テ内務省ヘ返還セラレタリ」〕

 

 

 

1881年
(明治14)

 

3月

 

文部省が、雇教師ポールに、「大日本観象台設立ノ建議」(内務・海軍・文部の三省が共同で1つの観象台を新設し、現在三省に所属している諸器械・書籍類を全部ここに移管することを説く内容)を東京大学総理宛て提出させる。

 

 

7月

 

 

レプソルド製13.5センチ大子午儀が観象台に到着。

 

9

数学科、物理学科、星学科がそれぞれ独立。

 

 

 

 

 

 

 

地理局が海軍観象台と同規模の天文台建設計画を表明。

1882年
(明治15)

 1月22日

東京大学より文部省宛てに、従来の観象台から気象測候部門を切り離しこれを気象台と称し、旧観象台は天象台と称したい旨の伺書を提出。(2月13日承認)

 

 

 

5月30日

 

福岡文部卿が、山田内務卿、川村海軍卿に宛ててポール建議書を要約した文書を送付。合同天文台計画に関する委員会の開催を諮るが、海軍の柳水路局長の反対により実現せず。

 

 

1883年(明治16年)

8月

星学教師ポール、任期満了により離任。

 

 

 

1886年
(明治19)

31

帝国大学令公布、帝国大学誕生。天象台は理科大学天象台となる。

 

 

 

1887年(明治20)

 

 

 

海防整備の勅語が下され、海軍が不急事業の整理に着手。

 

1888年
(明治21)

 

4月

 

 

柳水路局長が退職

 

61

閣議決定。「天象観測と編暦事業を統合して文部省管轄とする。そのために海軍観象台の地に東京天文台を設けて、理科大学所属とし、上記業務を行わせる。」

62

寺尾寿が、理科大学教授と兼任で東京天文台初代台長に任命。

 

 

 

6月18日

海軍省水路部所管であった天象観測器械、写真器械、および星学書籍、星表類、天体写真等が、地所、建物とともに東京天文台に移管。

 

 

 

9月19日

内務省地理局で施行されていた天象観測および編暦事業に関する器械や付属品が東京天文台に引き継がれる。

 

 

 

 

開所当初の主要機材
口径20センチ・トロートン赤道儀(内務省地理局より)
口径
16.2センチ・メルツ赤道儀(海軍水路部より)
口径
13.5センチ・レプソルド子午儀(同上)
口径
14.3センチ・レプソルド子午環(同上)

 

 

 

麻布時代における、その後の設備・器械の整備状況

1890年(明治23) 子午儀室太陽写真儀室が完成。
1893年(明治26)7月 赤坂の地理局構内から麻布に20センチ・トロートン赤道儀赤道儀室を移設。
1895年(明治28) 口径12.8センチ・ブラッシャー太陽写真儀を増設。
1896年(明治29) 第二子午儀室完成、20.3センチ・天体写真儀を増設。
1897年(明治30) 天体写真儀室完成。
1901年(明治34) 太陽観測用30センチ・シデロスタットを購入。
1904年(明治37) 20センチ・ゴーチェ子午環を購入。
1909年(明治42) テッファー分光太陽写真儀シュタインハイル太陽写真儀を購入。

 

 

 

 

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