シクハード氏の夢

 

あなたは今、『博物蒐集家の応接間』に身を置いて、あたりをきょろきょろと見回している。
どうです、 違いますか?
…無理もありません。本当に、ここは不思議なものが揃っていますからね。


あれから神戸もずいぶん変わりました。
それでも、こうして不思議なものに囲まれて、この街の匂いをかいでいると、当時のことを ありありと思い出します。


魔術師・シクハード氏が夜空に星を飛ばしてから、もう百年も経つなんて、まったく夢のようです。


あの夜、本当のところ何があったのか、私も正確には知りません。


当時売れっ子だった稲垣足穂氏は、あれを小説のネタにして、ずいぶん評判をとりました。
でも、 あれには足穂氏一流の諧謔がまぶしてありますから、事実があの通りだったと思っては いけませんよ。


     ★


私が初めてシクハード氏を見たのは、波の音が間近に聞こえるオリエンタルホテルの一室 でした。


 

あの夜、海面には月の光がきらきらと踊り、私は 自分の部屋から海を眺めながら、
“こんな晩にはフラッと海に吸い込まれる者が出るぞ”
と、 そのこわいほどの美しさにゾッとしたのを、よく覚えています。


私が人恋しさからバーまで下りて行くと、果たしてそこに彼がいたのです。
室内でもシルクハットをかぶったまま葉巻をくわえる、謎めいた外国紳士、シクハード氏が。


そのとき、バーの一角では、小太りの男が友人らしい男女に取り囲まれていました。
小太りの男は、それが得意芸らしく、達者にコインマジックを演じていました。


シクハード氏はポーカーテーブルの傍らに立ち、男の様子をじっと眺めていました。
そして、次の瞬間
、指をパチンと鳴らしました。
一瞬間を置いて、声にならぬ声が、バーのあちこちから上がりました。




そのわけはじきに分かりました。


何と、ポーカートランプの札が、すべて真っ白になっている!
そればかりではありません。
その場にいた紳士・淑女の夜会服の袖口や裾が、まあどうでしょう。
ハートやらスペードやらの模様が、 みごとな縫取りになって現れているではありませんか!


バーに居合わせた者のうち、シクハード氏の手の動きに気づいたのは、おそらく私だけ でしょう。
そして、それを足穂氏に告げたのも私です。


足穂氏は、その夜、神戸上空に巨大な彗星が出現していたことを私に指摘しました。
ただ、あまりにも月が明るいため、人の眼につかなかったのだ、と言うのです。


「シクハード氏の魔術には、天空の不可思議な力が作用しているに違いない…」


当時、赤色彗星倶楽部なる怪しげな組織に関係していた彼は、 そんなことを真顔で話すのでした。

 



 


その後、シクハード氏が月の光でカクテルを作ってみせたこと。
そして、諏訪山から無数の 星を打ち上げたことは、逆に足穂氏が私に語ってくれました。


ただし、神戸中の大群衆が諏訪山に押し寄せたというのは、足穂氏の純粋な創作です。
実際には、事前に招待された数十人の貴顕の前で、演じられたように私は聞きました。


     ★


シクハード・ハインツェル・フォンナジー氏が帰国後も、私はその舞台を2度見たことがあります。



 


最初はウィーンの劇場でした。
老シクハード氏は、「インドの秘術」と称する、東洋趣味の濃い 演目を披露し、喝采を浴びていました。
しかし、もはや彼の興味の中心は、通り一遍のマジックには ないように見受けられました。


その代り、彼はしきりに人間の運命を見定めることに熱中しだしたのです。
2度目に見た時は、 舞台上で手相をみたり、手製の占星盤の実演に時を費やしていました。


興行としては今ひとつでしたが、その占いは気味の悪いほど当たりました。
「シクハード氏の魔術には、天空の不可思議な力が作用しているに違いない…」
私の耳に、かつての足穂氏の言葉がよみがえりました。

 


     ★


シクハード氏が亡くなってから、もう60年になります。
足穂氏もこの世を去って久しい。


しかし私は、シクハード氏の予言によれば、「当分は」この世にとどまらねば ならない のだそうです。


…それにしても、なぜこの品が今ここにあるのでしょう?
懐かしい神戸の地で、シクハード氏の品に再会するなんて、本当に奇跡を見る思いです。
私の倦み疲れた生も、ようやく終わりが近づいたしるしなのでしょうか?


     ★


嗚呼、だんだん目の前が暗くなってきました。
あなたの顔も、今はこんなにぼやけてしまって……


 


<写真解説>

(冒頭の口絵は、下記の1〜5の品を雑多に並べたところです。)

1.

  

(左上)神戸オリエンタルホテルの絵葉書。石版・手彩色。1910年頃。
(右上)彗星の幻燈スライド。イギリス製。19世紀半ば。画像は3を参照。
(下)シガーボックスラベル。アメリカ製。多色石版。19世紀末。
 ※金星堂から出た、足穂の初期作品集の表紙には、よく似た絵柄が登場します。

      (『一千一秒物語』初版表紙)


2.

  

(上)星模様のカクテルグラス。ドイツ製。プレスガラス。1900年頃か。
(左)コインマジックのネタセット。イギリス製。時代未詳。
(右)トランプ柄のグラスマーカーセット。フランス製。20世紀前半。
 その他、八面体の蛍石や星型に削り出したジェムストーン類。
 


3.

  

彗星の幻燈スライドを光にかざしたところ。イギリス製。19世紀半ば。


4.

  

(左)手相占いのカード。フランス製。19世紀。
(右)ウィーン在住の実在の奇術師、ノーバート・チエチンスキー(Norbert Ciecinski, 18??−c.1958)の舞台写真を貼り込んだボード。おそらくチエチンスキー自身が作成したもの。ボードの裏面に書かれた 宣伝口上によれば、彼は「
インドの幻術と魔術。最新の化学と機械学を応用した新式東洋手品」を売り物にしていた由。


5.

  

ノーバート・チエチンスキーが、晩年使用していた 手製の占星盤2種。