[5] "Collingwood views - C. A. H. as her baby (1855)"
1855年末のカード(ごく一部)
この主題は少し意訳すると「コリングウッドの風景−赤ちゃんの時の末娘コンスタンス・アン」。横長10枚、縦長2枚の何とも見事な田園風景画に囲まれて、コリングウッド邸のベランダで車椅子に乗った父ジョン、乳児コンスタンスを抱いたイサベラ、それにケンブリッジ大学生の制服のアレキサンダー、士官候補生の服装のジョンが描かれています。署名しているのはクリスマス・元旦ともにジョン一家以外の人を含め20名以上。ただし長男ウィリアム・ジェームズだけは見当たりません。彼はインドに出掛けた後なのだと思います。
長男ウィリアム・ジェームズ
次に第3子(長男)、1833年1月9日スラウ生まれのウィリアム・ジェームズについて。彼はまだ満1歳の誕生日を迎える前に2人の姉と一緒に父母に連れられて南アフリカへ出発、4年間滞在しました。1858年8月インド・ベンガル州行政長官のときに、個人を特定する方法として指紋の有用性に着目しました。1864年にアルフレッド・ハードキャッスルの令嬢アン・エマと結婚(この2人の第4子で次男のアーサー・エドワードのお孫さんが現代のジョン・ハーシェル=ショーランド氏、シャーロット・ハーシェル=ダンカーリ夫人らです)。1871年に父ジョンの死去に伴いBaronetcy(準男爵位)を継ぎサーの称号を得ました。1893年にベンガル政府が指紋の利用方法に関心を示すようになり、エドワード・ヘンリー卿が完成した分類方法のおかげもあって、インド国内で警察を始め行政機関が指紋の利用を広めました。やがてイギリスのロンドン警視庁などでも盛んに使われました。ウィリアム・ジェームズは1898年から6年間オックスフォード州の州会議員を務め、1917年バークシャー州のウォーフィールドで死去しました。彼の第3子で長男のジョン・チャールズ・ウィリアム(1901年から王立天文学会会員)が準男爵の称号を継ぎ、1945年に妻と一緒にスラウのオブザヴァトリー・ハウスに移り住みました。しかしJ. C. ウィリアムは弟A. エドワードともども、同称号を継ぐべき男子に恵まれませんでした。
最近、上記のジョン・ハーシェル=ショーランドさんから、ご自分の曾祖父W. J. ハーシェルに関して次のような手紙をいただきました。「全国伝記辞典の編集者から私にウィリアム・ジェームズ・ハーシェル卿についての問い合わせがありました。次の版には載るかもしれません」。
日本ハーシェル協会ニューズレター第40号より転載
[6] "Crimea dream, 4 medallions & M. L. Herschel's engagement (1857)" 「クリミアの夢、4つの円形飾り模様とルイザの婚約」
1857年末のカード(部分)
マーガレット・ルイザは1834年9月10日、ジョン夫妻が幼な子3人を連れて南アフリカに滞在中に生まれました。ケープタウン近くのフェルドハウゼン邸は部屋数が多く快適で、しかも広い庭園があり、年々増える家族にとっては理想的な環境でした。イギリスに帰国後、スラウの狭い(といっても今の東京人の感覚では広大な)オブザヴァトリー・ハウスからケント州のコリングウッドという大邸宅に引っ越した理由の一つは、南アフリカでの風景と環境に少しでも近づけるためだったと言われます。
特に絵画の才能に恵まれたルイザは、結婚するまで毎年クリスマス・カード(寄せ書き)作りを一手に引き受けました。婚約が1857年ですから、1858年-60年に結婚したと思われます。ルイザの署名は上記1857年のカードが最後です。彼女は思いがけず1861年に27歳で悲劇的な死を遂げました(詳しい事情は遺されていないようです)。彼女以外の11人の兄弟姉妹たちの死亡年齢は60歳代1名、70歳代3名、80歳代5名、90歳代2名です(父ジョンは79歳、祖父ウィリアムは84歳、大叔母カロラインはなんと98歳でした)。当時の一般の平均寿命を調べたわけではありませんが、まれに見る長寿の家系であったと思います。
日本ハーシェル協会ニューズレター第42号より転載
[7] ジョンの第5子=次男アレキサンダー・スチュワート
ハーシェル家の三兄弟
アレキサンダー・スチュワート・ハーシェルは1833年に幼な子3人を連れて南アフリカに出掛けたジョン夫妻が、同地に滞在中に生んだ3人の中のひとりで、生年月日は1836年2月5日です。
幼いアレキサンダーはコリングウッドの自宅で、父ジョンがアフリカで得た膨大な観測記録を整理するのと平行して、しばしばペルセウス座流星群やしし座流星群、さらにオリオン座を横切った1843年の大彗星を観測しているのを見て影響され、天文に興味を抱きました。
彼は他の兄弟と同様に、有名なクラファム・グラマー・スクールで幼児教育を受けたあと、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに学び、1861年ロンドンのロイヤル・スクール・オブ・マインズで気象学を勉強しました。
彼は流星のスペクトル観測の創始者として、その光は熟せられた固体が発するのか、または明るいガス体が出すのかを調べ、さらに流星の構成物質を研究しました。彼は視野が20度もある直視式双眼分光器を発明し、これを用いて流星のスペクトル観測に成功したのは1864年1月18日のことでした。1866年夏の顕著なペルセウス座流星群のときには17個の流星のスペクトルを観測、明るい流星の大部分は頭部が連続スペクトルを示しました。ほぼ半数は頭部と長い尾の両方が明るい橙黄色の線を見せ、単色の黄色い線だけを示すものもありました。アレキサンダーは黄色い線をナトリウムの二重線、フラウンフォーファーのDラインと同定しました。他にも暗い線を観測しましたが、当時は同定を避けました。
1866年にアレキサンダーはグラスゴーのアンダーソニアン大学の器械実験物理学の教授に任命され、同年グラスゴー天文台で3人のスタッフの協力を得てしし座流星群を観測、輻射点の位置決定と活動の極大日時の決定にも力を注いだため、スペクトル観測に充分な時間を割くことができず、彼自身は同流星群の活動が急に停止したとき、分光器を用いて得られた観測数はわずかでした。しかしロンドンでJ. ブラウニングという学者が同種のスペクトル観測を実施し、ハーシェルの仮説は裏付けられました。
1864年と1873年にそれぞれ観測したふたご座流星群の明るい2流星の緑色の輝線は、たぶんふたご座流星群の典型的な特徴で、何かの元素の緑色輻射によるものと彼は考えました。上述した通り、1866年にアレキサンダーは数台の流星分光器を製作し各地の仲間に観測を勧めました。最も熱心な協力者はハンガリーの裕福なアマチェア天文学者ニコラウス・フォン・コンコリでした。コンコリは1873年に流星分光器を入手、同年7月末にみずがめ座デルタ流星群の観測に用い、続く10年間に200個の流星スペクトルを観測しました。彼は緑色の輝線はマグネシウムによるものと発表し、後にアレキサンダーもその意見に同調しました。
アレキサンダーは1871年、ニューキャッスルで物理実験哲学の教授に任命され、同地に滞在中は地域の天文写真協会の会長を勤めたこともあります。またビエラ彗星の軌道を調べ、1872年11月27日にアンドロメダ座に流星雨が見えると予報し、その言葉通りに見事な流星雨を自らも観測することができました。生涯を通じて83編の論文を発表、そのうち約50編は流星関係、10編が大気と気象関係、残りは分光・日食観測・地質学・自動トランジットマイクロメーターなどについてです。1884年には王立学会の会員に推されました。
次男アレキサンダー・スチュワート
彼は1888年、弟ジョン、妹イサベラとフランシスカらとともにスラウのオブザヴァトリー・ハウスに戻りました(2歳のとき南アフリカから帰ってここに住みましたが、その2年後にはケント州に一家揃って引っ越したのでした)。父ジョン・ハーシェルは1839年に解体直前の40フィート大反射望遠鏡の写真をガラス板に写しましたが、半世紀後の1890年にアレキサンダーはその原版を使って25枚の拡大写真を焼き上げました。これが天文書の多くに掲載されている歴史的な写真です。
彼は引き続いて流星の観測と研究に励み、死のちょうど4か月前の1907年2月13日に最後の観測を終えました。生涯を独身で通したアレキサンダー・スチュワート・ハーシェルは、同年6月18日に献身的な妹フランシスカに見看られて亡くなり、遺骨は祖父母たるウィリアム夫妻の眠るアプトン聖ローレンス教会に葬られました。
日本ハーシェル協会ニューズレター第43号より転載
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