ハーシェル関連史料
カロライン・ハーシェルの彗星捜索望遠鏡(1)


木村陽一

 原文はケンブリッジ大学のマイケル・ホスキン博士とケープタウン大学のブライアン・ウォーナー博士の共著で、A5判12ページの小冊子です。全文を訳しましたが、その中から彗星捜索望遠鏡を主体に書き直し、私流に解釈を加え、掲載させていただくことにしました。

 カロラインが発見した彗星については長谷川一郎先生が詳しく執筆されます(「カロライン・ハーシェルが発見した彗星」)ので、その補足として私の文章をお読みいただければ幸いです。なお、原文の訳が必要であればお申しつけください。

観測者カロライン

 カロラインが彗星を捜索していた期間は1786年から10年ほどの間で、その期間に発見された17個の彗星のうち8個も発見しています。この当時活躍していたメシエやメシェン、オルバースなど著名な観測者を凌駕する素晴らしい活躍です。

 また星雲、星団も9個発見しています。物欲的な私は何か特別な機材によって発見がなされたと考えてしまいますが、観測者の立場からすれば「努力と運」が発見につながるもので、機材は自然にあるべき姿になるのだそうです。これからお話しするのはカロラインが使った彗星捜索専用の望遠境についてですから、望遠鏡の効果を強調する傾向になりますが、カロラインの注意深い捜索の努力を忘れないでください。

 事の発端は、天王星を発見した1781年にウィリアムが親交のあったワトソンJr.から贈られたメシエの最新カタログを見て自分の観測と違うことに気づき、調査しようと考えたことです。しかし天王星の発見によって王室天文学者になり、バースからウィンザー宮殿の近くにあるダチェットに移転しなければなりませんでした。ウィリアムはバースで音楽家をしていたときと同様に多忙で、昼間は来訪者をさばきながら貴族たちに依頼された多数の望遠鏡を作り、夜は来訪者に星を見せ、その合間に自分の観測をしていました。しかも、さらに大きな望遠鏡を作る計画を練っていました。

 引っ越しした直後の1782年8月22日、ウィリアムはカロラインに小型の屈折望遠鏡を与え、メシエのカタログを確認する目的で彗星の捜索を始めさせます。メシエのカタログの目的は彗星捜索の妨げになる彗星状天体をリストアップすることでしたが、カロラインも同様の作業を始めたのです。彼女はこのときの様子を後に書いています。「私は地平に近い空を捜索し、気がついた全ての注目すべき天体を書き留めました。しかし、観測を一人で行ったことがなく、誰もいない露や霜の光る芝生の上で、星月夜を過ごすのは不安です。やる気をなくすかもしれません。」カロラインは当初乗り気ではなかったようですが、従順に観測をしてメシエのリストを確認しています。平行して、メシエが星雲と記載したものの多くが星団であることを、ウィリアムも大きい望遠鏡で確認しています。

 ただ、ウィリアムが観測を行うときには記録などの助手として手伝うため、カロラインの観測は度々中断されています。

彗星捜索用望遠鏡

 1783年7月に一応の星雲、星団が確認されると、ウィリアムは彗星捜索のために設計した望遠鏡を作り、カロラインに与えます。この望遠鏡が彗星捜索望遠鏡1号機です。

スミスの書き込みがあるジョンの図
 図を参照すれば分かるように、接眼部の後ろに回転軸があるため、接眼部の高さが変化しない構造になっています。水平回転は固定された大きな円形の台の上にローラーがついた板があり、心棒に支えられています。望遠鏡はこの板に取りつけてあり、高度調整はロープと滑車で減速し、ハンドルで操作します。

 架台の大きさのわりには小さな反射望遠鏡で、焦点距離686mm、口径107mmです。現代の表現で10.7cm、F6.4の短焦点ニュートン式といったほうが分かりやすいでしょう。市販の反射望遠鏡を使って再現することも可能です。ただ、鏡筒が片持ちでバランスが悪いため、滑車とロープの逆転防止装置に工夫が必要です。数年後にウィリアムが発表した文章には「地上から天頂まで接眼部が静止したままで、倍率は24倍、実視野が2°12′あり、ムーブメントは使いやすく、光学系は2,000培の倍率にも耐えられる完璧な望遠鏡」と書かれています。カロラインは彗星捜索を始めて間もない10月24日に、アンドロメダ銀河の伴星雲 (NGC-205) を発見しています。

日本ハーシェル協会ニューズレター第100号より転載


カロライン・ハーシェルの彗星捜索望遠鏡(2)

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