ハーシェル関連史料
J・ハーシェルは色盲だったのか?


中崎 昌雄

 私が John Herschel (1792−1871)が色盲であったという説に最初に出会ったのは、原 光雄「近代化学の父」(岩波新書)(1951)の中である。この52ページに次のようにある。「ドールトンと同様な色盲であつた天文学者ジョン・ハーシェルは1833年ドールトンに手紙を送って、自分の眼も、そして自分と同じような色盲者の眼も、普通人とおなじように、すべての光線を明るくは感ずることを主張した。」 このドールトンは化学的原子論で知られる John Dalton (1766−1844)である。Dalton はギリシャ時代から Newton にまで続く原子論に、各原子は固有の重さをもつという考えを導入して(1803)、現在の化学的原子論に仕上げた科学者である。

 この Dalton と Herschel はほぼ同時代人であるが、その生涯や才能はいろんな意味で対照的である。Herschel は多方面にわたる華麗な才能に恵まれ、豊かな家庭に生まれて最高の教育を受けた。反対にDaltonの家は貧しく、彼はほとんど独学であった。1793年、27歳になつてやっとマンチェスター「New College」の数学、自然科学の教師に採用され、その翌年の10月31日「マンチェスター文芸科学会」で「色覚についての異常な事実と観察」を発表した。Dalton は子供のときから自分の色覚の異常に気が付いていたが、植物採集を始めるようになって(21歳)他人と違うその異常について確信をもつにいたったと言う。ピンク色のゼラニウムの花が青空色と同じに見えるのである。

 この Dalton の色盲論文は、この疾患を始めて科学的に分析、記述したものとして評価されている。この論文の最後の方で彼は自分の色覚が異常であるのは、自分の眼の硝子体液が青に着色しているからだと結論した。Herschel の方は1816年になってから父親の意向にしたがって天文学をやることにしたが、その合間をみつけて化学や光学の研究をして、たちまち素晴らしい成果を挙げた。

 現在まで写真定着剤として使用されている「ハイポ」(チオ硫酸ナトリウム)の発見(1819)、「左右水晶の旋光能」研究(1820)である。

 1822年父 Herschel が死亡したので、John は長い間の懸案であった喜望峰南天観測を決行することにした。しかしこれが実行に移されたのは1833年11月となつた。この年の5月20日に Herschel は Dalton に色盲についての手紙を書いた。本当はこの前に Herschel が Dalton に質間の手紙を書いて、これに Dalton が答えてくれているのである。この Dalton からの答えに対する礼状が5月20日付けの手紙である。これらの手紙はすべて失われているが、5月20日の Herschel 礼状だけが Henry 「ドールトン伝」(1854)25ページに収録されていて、その内容を知ることができる。この手紙の盲頭の部分で、Herschel は次のように書いている。

 「lt is clear to me that you (下線:中崎) and all others so affected perceive as light every ray, which others do.」

 この「you」はもちろん Dalton である。ところが、原 光雄氏が参考にされたと私に告げられたRoscoe 「ドールトン伝」(1895)ではこの箇所が次のようになっている。

 「Herschel, writing to Dalton in 1833, takes the view that he (下線:中崎) and all others so affected perceive as light every ray which those do who possess normal vision.」

 ここで下線した「he」は分詞構文上、あきらかに「Herschel」である。これはアメりカ人英語教師2人に確かめてもそうであった。これでは前後の事情を知らずに「ふつうに読めば」、原 光雄氏のように Herschel も色盲であったと解釈しても責められないであろう。始めから Roscoe が単に「he」としないで、もっと丁寧に「Dalton」と書いておいてくれれば、原氏も間違わずに済んだのである。Dalton が死亡したのはこの手紙の11年あとの1844年7月27日(土)である。次の日は日曜日であったが、Dalton の遺言に従って彼の眼球の解剖が行われた。その結果、Dalton の硝子体液は彼の予言と違って「完全に無色透明」であると判明した。

 このときの眼球2つは乾からびた状態で、150年ものあいだ「マンチェスター文芸科学会」に保管されていた。1995年になってイギリスの医学者たちは、この眼球から小片を切取りその遺伝子DNAを分子遺伝学的に検査して、Dalton は緑に感じる緑視物質のタンパク質含成を支配する遣伝子が欠けた緑色盲(第2色盲)であったことを確かめた。くScience, 267, 984 (1995)〉
 

日本ハーシェル協会ニューズレター第84号より転載


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