ハーシェル関連史料
カロライン・ハーシェル晩年の肖像(1)


生誕250年記念と七宝制作の周辺

飯沢能布子

「カロライン晩年の七宝肖像」

 2000年3月16日、歴史上最も有名な賞賛すべき女性天文学者といわれるカロライン・ハーシェルの250年目の誕生日を、私は滞在先の仏国リモージュで、カロライン・ツアーの皆さんと土地のワインで祝いました。

 ハーシェル記念行事参加などのためハーシェルゆかりの英国バース、スラウを訪れ、カロラインの絵皿や晩年の肖像、また彼女が発見した彗星と星座を組み合わせた七宝の作品をハーシェル子孫の方々やバース市民にご披露するなど親しく交流をし、さらに5〜6月のスラウ博物館特別展に出品を約したのち、七宝の世界的名品を見学するため次の目的地リモージュ入りをしていたのです。その夜リムザン地方の古都に戴く冠のように星々がきらめくのを見て感嘆することしきり、またとない祝福の記念となりました。私は堂々たるおおぐま座の星を辿りながら、作品“かみのけ座と1896II”の制作前後を思い出し、カロライン第1の彗星発見を重ね合わせました。

 ところでカロライン記念特別展示は1999年12月1-15日、地元の北海道長沼町図書館ギャラリーからスタートしました。内容は、のちに英国に運んだものを含め星座や星にまつわる物語の作品を五十余点、「カロライン晩年の七宝肖像」は初出で、約10年間の制作活動を一同にまとめた私の記念でもありました。

 「カロライン・ハーシェルの七宝絵皿」(Newsletter No 87拙稿を参照)とは対をなす「カロライン晩年の七宝肖像」制作をめぐり、幾つか記してみようと思います。下敷きにしたのはドイツのハノーバー(カロライン・ルクレチア・ハーシェルの出生地)の歴史博物館発行の冊子 ("Stadtgechichliche Abteilung" 1970) に載っている銅版画でゲオルグ・ブッセの作、年代的にカロライン最晩年のもののようです。

 偉大な業績を上げ、ほぼ1世紀を生きた女性天文学者の肖像に取り組むにしては、下調べもまだまだ不十分でしたし、今まで書物に掲載された彼女の姿を見た例も多くはなかったので不安はありましたが、その表情に気高さや威厳をヴェールで包んだようなある柔らかさも加えたいと思いました。繊細な感受性と大胆さを合わせ持つ優れた素質がなければ、これほどの成功者にはなれないでしょう。

 しかし「彼女のすべての愛は彼女の愛する兄に集中していました。彼女は科学の発展を兄の名声を大いに損なうものとみなしました」とアンナ・クニッピング夫人の手紙1)にあるように、ひたすら謙虚でウィリアムに従順に尽くし、彼の名声を高めることだけを我が喜びとし、98歳の天寿を全うしたカロライン、彼女は自分の仕事について「私はよく訓練された子犬がやるようなことを兄のためにやっただけです。私は彼が苦労して磨いた道具にすぎませんでした」(カロラインの日記2))と極端なまでの卑下というのか、低い自己評価に、私は全くやりきれない気持ちにさせられました。彼女は「科学における女性の能力や役割を信頼に値しない補助者にすぎないとしていた社会通念との間にいて、自身の成功を過小評価して考えた」(M. アーリク著「男装の科学者たち」3))が、どうして並外れた努力や忍耐強さをつらぬき、結果的に才能ある女性天文学者として兄の補助役を果たしたばかりでなく、それを遥かに上回る実績を上げました。すなわち兄ウィリアムから贈られた彗星探索用望遠鏡で「1日に100個の星雲を数え、8月2日、今日は150個の星雲を数え」(カロラインの日記4))、また1786年から97年までの間に独立して8個の彗星を見つけたことを認められ、「彗星を発見した最初の女性」という名誉を与えられています。また「彼女の最大の実績の一つは過去の観測にもとづき、2,500の星雲について目録と計算とを表にしたこと」(L. M. オーセン著「数学史のなかの女性たち」5))とあります。

文献:
1) M. Alic著、上平初穂ほか訳「男装の科学者たち」北大図書刊行会 (1999) p. 173
2) 同上 p. 163
3) 同上 p. 163
4) 同上 p. 167
上記1), 2), 3), 4) の原文はMargaret Herschel著 "Memoir and Correspondence of Caroline Herschel" (1879) です。 「カロラインの日記」と略記。全訳はありません。
5) L. M. Osen著、吉村証子ほか訳「数学史のなかの女性たち」法大出版局 (1987) p. 87

日本ハーシェル協会ニューズレター第101号、第102号より転載


カロライン・ハーシェル晩年の肖像(2)
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