ハーシェル関連史料
内村鑑三が言及したジョン・ハーシェルの言葉を追って

※この一文は、Letters to Webmaster 2008 のページに掲載した、中川浩一氏からのお便り 「内村鑑三の演説に登場するジョン・ハーシェル」への返信−2008年5月31日付け−を抜粋したものです。


 角 田 玉 青

 お便りどうもありがとうございました。

 さて、内村鑑三によるハーシェルへの言及の件。たまたま一昨年、ある人からお問い合わせをいただいたので〔掲示板、2006年11月29日〜12月3日の項〕、この件は鮮明に覚えております。

 「有名なる天文学者のハーシェルが二十歳ばかりのときに彼の友人に語って『わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして往こうではないか』というた。実に美しい青年の希望ではありませんか」云々の箇所ですね。

  昨年いただいたのは、このハーシェルの言葉を原文で何というかというご質問で、それについては別の会員の方から、ギュンター・ブットマンのハーシェルの評伝(英語版1970)に記載があることを教えていただきました。

With youthful and romantic ardor, they [= G. Peacock, C. Babbage and J.F.W. Herschel] sealed their friendship with a resolution "to do their best to leave the world wiser than they found it." (p.11)

 このエピソードを内村鑑三はどこで知ったか?というのは、そのときは考えなかったのですが、確かに気になる点です。内村とハーシェルの組み合わせも一寸不思議な感じがします。内村のこのスピーチが1894年とすると、彼がそれを目にしたのは当然それ以前のことですから、だいぶ古い時代の話になりますね。ここから先は、私の手に余るので、インターネットを通じてその筋(?)の人々に照会してみました。

 その結果わかったのは、たどれる範囲でいちばん古いソースは、アグネス・メアリー・クラークのPopular History of Astronomy during the Nineteenth Century (Edinburgh, 初版1885)で、それも何かの引用らしいが、その引用元は明示されてない…ということでした(ハーシェル当人よりも、どうもピーコックかバベッジの著作が怪しいという推測も添えられていました)。

 内村が天文学にどの程度関心があったかは分りませんが、クラークの本は一般向けの著作ですので、彼が読んだ可能性は大いにあると思います。内村は1885年から87年にかけてマサチューセッツのアマースト・カレッジで学んでおり、同校にはこの本の第2版(1887)が所蔵されているので、入荷したばかりの新刊書を同校の図書館で手にとったのかもしれません。

 なお、内村は続けて「ハーシェルの伝記を読んでごらんなさい。彼はこの世の中を非常によくして逝った人であります。」と述べています。ジョン・ハーシェルの「伝記」として最初にまとめられたのは、同じくクラークがDictionary of National Biography の1891年版に書いたものらしく、内村の言う「伝記」はこれを指す可能性もあります(ただし、そこにこのエピソードが載っているかどうかは未確認です)。その場合でも、彼がこの浩瀚な事典を通読して、たまたまこの事跡に行き当たったとは考えにくいので、あるいはスピーチを準備する段階で、先の本で知ったエピソードを確認するために改めてこの事典に当たったということかもしれません。

 ところで、今回新たに分かったことですが、このハーシェルの言葉(正確には3人の友人の誓いの言葉)は、どうも彼のオリジナルではないようです。

1713年に出た The Spectator 誌(Vol. 2, 2nd edition, 1713, No. 124, p. 153)に

"Had the Philosophers and great Men of Antiquity, who took so much Pains in order to instruct Mankind, and leave the World wiser and better than they found it; had they, I say, been possessed of the Art of Printing, there is no Question but they would have made such an Advantage of it, in dealing out their Lectures to the Publick."

という文章が載っているそうです。他の類例は未見ですが、両者の類似は明らかで、このフレーズは当時の一種の慣用表現だったのだと思います。若き日のジョン・ハーシェルの志と、内村鑑三の感動は疑うべくもありませんが、科白のユニークさという点では、ちょっと留保が必要のようです。

 以上、細部はあやふやですが、たぶんこれまで誰も述べていなかったことだと思いますので、また協会のホームページの方にぜひとも内容を転載させてください。

 なお、日本におけるハーシェルの事跡の本格的な紹介は、幕末頃のようです。以下は協会ニューズレターからの孫引きですが、ジョン・ハーシェルの代表作 Outlines of Astronomy(1851〔初版1849〕)は、1859年(清・咸豊9年)に『談天』として漢訳されており、文久元年(1861)には早くもその和訳(訓正本)が出て、かなり読まれたようです。

 幕末期の情報の流通の速さには驚かされますが、「文明開化」の種は、前代において既にしっかり蒔かれていたということでしょうか。(とはいえ、これはハーシェルの著作の紹介であって、ハーシェルその人の紹介は、極端なことを言うと未だしの感があります。〔…〕)

 どうも長文失礼いたしました。 今後も引き続きよろしくお願いいたします。 


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