「『日本におけるハーシェル』初出の探索」に対する
 佐藤明達氏のコメントへのお礼とご返事


上 原 貞 治

 佐藤明達様、私の「『日本におけるハーシェル』初出の探索」 をお読み下さり、そして貴重なコメントと詳細な論証をいただき ましてありがとうございます。拙論に対してさらに議論を深めてくださったものと光栄に存じております。

   まず、高橋至時と間重富の世代に天王星がすでに日本人に知られていたという見解に肯定するコメントをいただきました。私は、 そのような状況証拠が確かにあるのに、具体的な「物証」はないことをちょっと意外なことと受け取めています。『厚生新編』や橋本宗吉が翻訳した他の蘭書に天王星の記述があるのかもしれませんが、この種の文献で、間重富らが確実に読んだであろう具体的な記述については私はまだつかんでいません。この点について、 また機会があればご教授いただきたいと存じます。

   1820年頃までの日本では、天王星の記述があるような西洋の書物は、天文学の専門書よりも事典や年鑑のようなもののほう が触れる機会が大きかったのではないかと想像します。しかし、一般にこういう文献は我々からはアタリがつけにくく、また、当時日本に入って来ていたものが判明したとしても、事典や年鑑の性格上、くまなく目を通していたとは必ずしも確信しが たいので今ひとつすっきりしません。

   当時の日本人は、やはり「天王星の発見」というのをあまり重大事件と受け止めていなかったのかもしれません。彼らにとって、今日いうところの太陽、惑星、衛星などの天体の分類は絶対的なものではなく、「相対的」なもの(考えようによって変化してもよい)だったというか、ごく弱い分類感覚しかなかったのかもしれません。天動説と地動説のイメージが同居していて、天球が月天から恒星天、宗動天にいたるまで何層にも重なっているというイメージが残っていて、それに「天王星天」 が加わってもどうということもなかったのかもしれません。

   高野長英と内田五観に関わる手稿について貴重な情報をいただきました。これは、私の勝手なイメージかもしれませんが、 彼らは「新しい時代の学者」といえると思います。帆足万里は、 科学全般にわたって蘭書を研究をしましたが、基本的に「和魂洋才」の立場に立つ儒学者でした。(それでも四十を過ぎてから苦労してオランダ語を習得したわけですから、それに留まらない人ではあると思います。)一方、高野と内田は、西洋の高い科学水準の下には西洋の自然観や学問大系の支えがあるということを見抜き、それをシステム全体として学ぶ必要性に気づく下地を持っていたのではないかと思います(私の浅学のゆえ確信はあり ません)。それが結果にどう響いたのか…帆足はハーシェルの名前を見逃したが、高野は見逃さなかった、とまで言えば、多少短絡的でしょう。

  しかし、江戸時代後期から幕末に向けて日本の学者たちがただの「和魂洋才」から脱却して「西洋の学問基盤」にまで目を向けはじめた、という歴史の流れと、日本でのハーシェルの認識の推移は多少は関係しているのではないか、と感じます。我々がハー シェルを評価するとき、我々は、まずは新惑星の発見者として、そして最後は宇宙全般を探索するスタンダードな方法を切り開いた人であることを認識するからです。幕末〜明治の日本人もこれに徐々に気づいていったのではないでしょうか。これ以上は「メ タ科学史」的な見方になり私の手に余りますので議論を深めるこ とは出来ませんが、以上でお礼兼ご返事ということにさせていただきます。


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