日本ハーシェル協会編
先ずは鏡磨きから
ジョンが父の天文助手になる第一歩は、天体観測の実際と合わせて、望遠視の製作という純粋に工作技術の習得でした。反射鏡の素材を削り、これを光学ミラーに磨き上げる仕事は、細心の注意と忍耐、それに人一倍器用さが必要です。ウィリアムが磨いたミラーは二千枚を越えますが、何れも詳細にその過程を記録に残し、4冊の手書き本に仕上げています。ジョンが習得した優れた研磨技術は、父から実地に学んだ知識をもとに、父のこうしたマニュアルを座右の書にした結果といわれます。
ウィリアムが何十年もカを注いだ天文研究の一つは、望遠鏡で全天を系統的に探索し、視野に入った星団、星雲、二重星などを総て記録していくことでした。二重星については数種類のカタログに八百以上をリストアップし、それらのうち、かなりの部分が単に見掛け上、接近して見えるだけでなく、共通重心の回りを回転する一対の星々、つまり連星系を構成していることを発見しています。子ジョンは、父が長年にわたる夜間観測に費やした肉体的精神的努力を、初めて知って、驚嘆したことでしょう。天文助手ジョンは、望遠鏡の操作と視野の天体を記録する技術を習得しながら、父のこうした観測を継続し、父がすでに発見してカクログに乗せた二重星を、繰り返し測定しました。一定の期間を隔てて連星を講成する個々の星の位置を精密に記録し、後に天体力学の理論と計算のカを使って軌道要素を決定するのが最終目的です。こうしたことが、ジョンの天文学との関わり、天文生活の実際的なスタートでした。晴れてしかも月のない夜、野外での天体観測という単調な仕事ないし忍耐を要する労働は、彼の将来にどう結び付いていくでしょうか。幸いなことにこの仕事は、間もなく良き協力者サウスと一緒に進めることになります。
しかし、科学者の雛とでもいうべきジョン・ハーシェルは、一夜にして天文学者になったり、自らの巾広い興味を断念したわけではありません。むしろ、時には他の料学的関心事が優先された様子でした。
百科辞典の数学を執筆
例えばジョンは、数学の研究に相当の時間を割いています。光学実験に関係して知り合いになったダヴィッド・ブルースターは、エディンバラ王立協会の副会長で、光学の分野で優れた業績を上げていました。1808年以来「エディンバラ百科辞典」の編纂に従事していたブルースターは、ジョンに数学の歴史とその周辺の問題について執筆することを依頼したのです。それは1817年の夏のことで、ジョン・ハーシェルは快諾しました。ケンブリッジに滞在していたころ、同時代の要求に沿って、文学と科学の広範囲の領域をカヴァーする百科辞典に執筆したい、と親友バベッジに洩らした事があったのです。しかし、実際に筆を走らせる前に、多くの原典に当たる必要があり、彼はこうした歴史的な調査が得意ではなかったようです。翌年4月27日付けの手紙でジョンは、バペッジに仕事の退屈さを訴えています。晩年には百科辞典をはじめ、科学の普及のための執筆にカを入れたジョン・ハーシェルも当時は、活発に身体を動かす実験と研究活動の方が性格に合っていたのです。
化学試薬の実験
化学の実験が幼少のころから好きだったジョンは、1819年に化学分野でちょっとした発見をしました。当時はその重要性について全く気付かず、20年間だれも認識しなかったのでした。彼は、ヒドロ亜硫酸の化合物に関する二つの論文を、エディンバラ哲学ジャーナルに発表し、チオ硫酸ナトリウムが銀塩を急速にかつ完全に溶かす性質があることを論じました。これらの論文が適切な読み手に届いていたら、写真術の発明が実際より20年ほど早まったかもしれません。銀塩を塗ったガラス板上に、レンズを通して入ってきた光が結ぶ潜像を、チオ硫酸ナトリウムを用いて定着する、これこそ銀塩写真の原理そのものだったのです(写真術については後に詳しく取り上げます)。
化学光学の実験
ロンドンにおけるウォラストンの講義、それとスコットランドの物理学者ダヴィッド・ブルースター(1781−1868)による結晶の実験が、ジョンの関心を強く引き、偏光現象やほかの光学効果の実験に励むことになったのです。ブルースターは、反射偏光の発見と偏光角と屈折率の関係の定式化(プルースターの法則、1815年)で注目され、後年エディンバラ大学学長に選ばれました。光学理論と光学実験は、ジョンの生涯を通して関わることになる科学分野の一つです。彼は、何種類かの結晶の光学特性の研究に取り掛かり、水晶・魚眼石・光洲石等の結晶物質を通過して見せる単色光の特性を調べました。これらの物質は、結晶の細かい配列の分子の格子と透過する光の相互作用で、注目すべき性質の数々があります。例えば、結晶の軸に対して特定の方向から入る光線は、二重屈折という現象を示します。このことは、個々の入射光線毎に、二重屈折を起こす結晶からは二本の光線が生じ、この物質を透過して見える像は、単一でないことを意味します。もちろん同じ形のガラスでは、こうした現象は見られません。
1820年に彼は、長い論文を王立協会の紀要に発表し、その中では、二枚の電気石板を使って偏光を示す実験方法を詳述しています。優れたスコットランドの物理学者ケルビン卿ウィリアム・トムソン(1824−1907)は、ジョンが発見した透明物質の結晶構造とその光学的特性の関係について、後に(1871年8月)エディンバラで「博物学と自然科学を結ぶ最も注目すべき接点の一つだった…」と激賞しています。
1813年に彼が、ケンブリッジ哲学協会の出版物に発表した論文「魚眼石の変種が示す多色光線の特異屈折の法則における顕著な特殊性について」で、魚眼石の場合は、青色光は強い二重屈折、赤色光は微かな二重屈折、緑色光は単純屈折を示すことを、明らかにしています。また、翌年エディンバラ王立協会の定期刊行物に、ガラス・液体・その他の物質を透過する光の吸収を詳述した論文を、寄稿しました(ジョンはその3年ほど前に同協会のフェローに選ばれています)。この論文で彼は、焔のスペクトルの多種多様性を観察して明るい輝線を注意深く調べ、その結果を報告しています。こうした実験はスペクトル分析の初期の歴史で重要な意味を持つ、とされています。
化学元素はいずれも独自のスペクトル線を有しているので、物質の成分等を調べるのに、スペクトル分析は極めて有用である、といえましょう。一般的には、元素が気化するのに十分な温度まで熱せられると、それが出す光のスペクトルは輝線を見せます。が、背後のさらに高熱の放射源から蒸気が出す光は、逆に吸収線を示すのです。
ジョンは、連続スペクトル中の輝線と吸収線の位置から、光源の化学組織を特定しました。彼の研究で、スペクトル測定による、化学分析の可能性を明らかにしたのです。ドイツの物理学者グスタフ・R・キルヒホフ(1824−1887)が、太陽スペクトル中の暗い吸収線を研究し、同国の化学者ロバート・ブンぜン(1811−1899)と共にスペクトル分析法の基礎を築いたのは、その約40年後でした。1861年キルヒホフは、プロシア王立科学アカデミーの出版物に、光源と分光器の間に存在する低温のガスが、もし高温に熱せられたときには輝線を出す同じ波長のところの光を、逆に吸収する事実を示しました。結果として、太陽スペクトル中の暗い吸収線から、光球の同囲を取り囲む低温ガスの存在を証明したのです。スペクトル分光器は、このように太陽の化学組織だけでなく、原則として、光を出す全ての天体の研究にも、利用されるようになります。
しかし、当時ジョンは、吸収線の原因を正しく受け入れず、父が1801年に発表した、太陽は発光体に包まれた暗体である、という主張から抜けられなかったのです。
物理光学の実験
ジョンの関心は、物理光学にも広がっていました。1820年のエディンバラ哲学ジャーナルに発表した論文で、彼は、真珠層のある貝殻が見せる光の干渉について論じ、この現象は光の波の性質によるもので、波長に近いごく微小で規則的な組織との相互作用で生ずる、と主張しています。当時、光の性質は多くの科学者が熱心に研究していました。フランスの物理学者オーガスチン・J・フレネル(1788−1827)は、イギリスの物理学者トマス・ヤング(1773−1829)とフランスの物理学者ドミニ・F・アラゴ(1786−1853)の考えにヒントを得て、鏡の実験を繰り返し、波動理論の確固とした基礎を固めました。
同じころジョン・ハーシェルは、音波の干渉を示す簡単な装置を発明し、ドイツの物理学者ヨハン・G・C・ネレンブルグ(1787−1862)に因んで命名されました。長さが波長の半分だけ差があり、二本の腕に分かれたガラス製チューブで、音の波が互いに消し合うことで、干渉が起こります。
レンズの収差
光学の実用的な分野でジョンは、例えば、合成レンズの球面収差と色収差に関する論文(1821)など、重要な貢献をいくつも行っています。このレンズは、イギリスの光学研究者ジョン・ドロンド(1706−61)による色消し対物レンズの紹介後に使われるようになったものです。周知のとおり、球面収差はどんな単レンズでも避けられない共通した欠点で、色収基は単レンズでは色の違いによって焦点位置が異なる、という欠点です。色消し合成レンズは、色の影響をほぼ補正し、アプラナット合成レンズは、球面収差と他の収差もできるだけ除いたレンズです。
ジョンは、顕微鏡用対物レンズの計算も、多くの実例と収差理論を元に、実行しています。彼の上記の論文は、理論家を対象にアプラナット合成レンズの数学的理論を論ずるのではなく、光学機器の製作者向けに、レンズ系の実用的な基礎を提供したのです。色消しレンズを計算するための数学的法則の概要は、1813年にエディンバラ哲学ジャーナルに発表されています。この時期にジョンが発表した論文のテーマは、どちらかというと光学関係に重点が通かれています。「光こそ我が最初の愛」−彼の有名な言葉です。ジョンはずっと後に何度も光学実験に取り組み、光学問題を繰り返し論議しています。
日本ハーシェル協会ニューズレター第62、65号より転載