| 車町にある。従是山と号し浄土宗智恩院末。永正年中(1504-21)開基西念、もと尼ケ辻(現、奈良市)辺にあったのが、文禄(1592-96)のころ現在の地に移ったといわれている。中興開山は念誉上人。本堂は桁行15.04m、梁間15.50m、入母屋造り、向拝、1間、本瓦葺きで寛文9年(1669)の建築と推定される(鬼瓦銘)。本尊の木造阿弥陀如来立像は、江戸時代の修理銘からみると藤原時代の末、嘉応2・3年(1170・1)ごろの造立と思われる優秀な藤原仏である。経蔵には平安・鎌倉時代書写及び元版の一切経が納められている。経蔵にはその他に西岸寺の開山天誉上人の木造坐像がある。胎内に数々の納入品があり、寛文13年(1673)の造立であることがわかる。本堂厨子には天明6年(1786)8月油屋清九郎の寄進銘がある。郡山城主本多忠村が13歳(あるいは11歳)で享保7年(1722)9月晦日江戸で死去したので、、弟の忠烈が跡を継ぐことになるが、このとき、幕府は旧領のうちで新規に5万石の知行高を認め、6万石の知行を減じた。この6万石はいずれも蔵入となり、代官石原清左衛門、増井弥五左衛門の支配となった。そこで南都与力、郡山藩役人などはこの寺に来て 、朱印状の接収と郷中の庄屋、年寄を呼び出し、召上げとなったことを読み聞かせ、さらに同23日、再び郷中の庄屋、年寄を召出し、唐之助旧領のうち5万石の引渡しを行った。享保9年3月11目甲府城主柳澤吉里が郡山城主となるが、城受取りは6月7日で、そのとき幕府方引渡役人の大坂御目付御使番の大森半七郎はこの西方寺を宿舎としていた。(ふるさと歴史事典) | |