| 矢田町通にあり、光岸山と号す。融通念仏宗、大阪市平野大念仏寺末。寺伝によれぼ、永禄12年(1569)郡山の実感法印が、西の京あたりに真言宗の寺院として創建したのが姶まりと伝えられている。その後現在地に移され、九世国誉上人が、宝永7年(1710)融通念仏宗に転じ、北和における融通念仏宗の中心的寺院となった。本堂は桁行16.75m、梁間13.37m。寄棟造り、向拝1間、本瓦葺き。建立は正保2年(1645)前後と推定される。本堂降棟鬼瓦に(正保二年四月明左衛門宗次)の銘がある。浄土宗寺院の本堂平面をもち、江戸時代初期の浄土教寺院の典型的な建築である。鐘楼は桁行1間、梁間1間、切妻造り、本瓦葺き、万治2年(1659)の建立(鬼瓦銘)、棟木に寛延3年(1750)11月27日奥村住和田喜兵街の棟札があり、その時修理されたことがわかる。鐘は無銘であるが室町後期の鋳造とする説が有力である。表門は一門棟門、切妻造り、本瓦葺き、両袖塀付、17世紀末ごろの造立と思われる遺例の少ない棟門である。本尊木造阿弥陀如来立像は像高3尺8分で鎌倉時代中ごろの作。左右に合わせて十菩薩像侍立(いずれも江戸時代の補作)があり、一仏中立十聖囲続 の教理を具現している。本堂と庫裡の間に8畳の玄関が設けられているが、その式台上に設けられた檜皮葺きの唐破風の構えは、興福寺大乗院から賜ったものと伝えられている。堂々たる構えで、釘隠に「天明元年造之」(1781)の墨書銘記があり、このころの移建であろう。享保8年(1723)11月27日郡山藩主本多忠烈が8歳で死んだため、本多家が断絶L、翌9年甲府城主柳澤吉里が郡山城主となって、6月7日に城を請げ取ることになるが、その時幕府方引渡役人京都二条城在番小垣備中守与力堀彦十郎はこの円融寺を宿舎としていた。嘉永7年(1854)6月の大地震で門が倒壊した。享和版融通念仏縁起2巻を蔵し、墓地には陶工奥田木白の墓がある。(ふるさと大和郡山歴史事典) | |