お断り:この物語はフィクションです。私「ゆきお」が加筆編集しておりますm(_ _)m

親子塚(おやこづか)伝説
摂津国の高槻藩士、高木大助の妹の歌が、京都に住む伯母に身をよせ京都見物をしたときのことじゃった。
若い武土と知りあって契りを結んだが、武士はすぐには一緒になれんので後日迎えに来ると約束し、別れに臨んで、また遇うまでの印にと腰の印籠の二重を歌に手渡したそうな。

歌は武士の子を宿し、男子を生
んだが、病気となり、この印籠を証拠に父親に遇えますようにと、伯母に頼んで17歳で死んだんじゃ。まだ若いのに気の毒じゃった。

その後若い武士は歌を尋ねてきたんじゃが、死を聞いてがっかりしたんじゃ。武士には子の養育はままならぬゆえ歌の伯母に全てを託して別れたそうじゃ。

その子が8歳のとき村川兵太夫の養子となって村川兵蔵と名乗ったそうな。

ところで、ある時、養父兵太夫は、若党文治を連れて有馬の湯へ湯治に出かけたそうじゃ。
同じ宿で明石藩士瀬川藤太郎・小野川仙右衛門と、心やすくなったそうな。ところが、刀の目利きのことで兵太夫と仙右衛門がいい争いをしたそうじゃ。

仙右衛門はこれを根にもって兵太夫をなきものにせんと機を窺っていたそうな。ある夜、文治の不在を知った仙右衛門は兵太夫の部屋へしのび込み斬り合いになったんじゃ。

この騒ぎに藤太郎がかけつけたので、兵太夫は、これを曲老(くせもの)と思い、切りつけたが、逆に殺されてしまったそうな。

この藤太郎こそ、若き時代に歌と知り合い契りを結んだ男、すなわち兵蔵の父だったんじゃな

さて、用事で帰ってきた文治は仰天したが、虫の息の主人は、藤太郎に切られたと文治に言って息絶えたんじゃ。

文治は主人の死骸を駕籠(かご)に乗せて高槻に帰り、藤太郎こそ仇であると兵蔵に告げたそうな。そこで兵蔵は文治を連れて仇討ちのため諸国をまわって養父の仇藤太郎を捜しもとめたんじゃ、

慶長18年(1613)6月18日の事じゃった、村川兵蔵と若党文治が、大和郡山は小泉の宝珠院を訪れ、一夜の宿を求めたそうな。

庵主寂念は文治を見て驚いたが全てを悟り快く一夜の宿を許したんじゃ。
兵蔵は通された部屋の、脇壇に置いてある二重の印籠をみて驚いた。母のかたみと大事に持っていた印籠と同じ物であったからじゃ。

庵主寂念に聞いてみると、伯母から聞いていた話と一致するので、実の父に会えた嬉しさで一杯じゃった。寂念も実子と知って嬉しかったが、文治に会った時にすでに覚悟は出来ていたんじゃ。

庵主寂念は本当の仇というのは小野川仙右衛門であるが、例え間違いとは言え、切りつけられて思わず身を守った刀で村川兵太夫を殺(あや)めたのは事実で、親の仇と思われても仕方ないが、今は出家の身となって菩提を弔ってきた事などを兵蔵に話し、実の子に実の父は切れまいと傍らの短刀で腹を突いて死んでしまったそうな。

兵蔵は養父と言えども親である兵太夫を切った寂念は仇であり、親の仇は討たねばならぬが、やっと巡りあえた実の父に目の前で自害されて運命を悲しみ、思いあまって自害した。父39歳、子17歳であったということじゃ。

哀れな話じゃなぁ。2人の遺骸を埋めたところを親子塚と呼んで、今も残っているそうじゃ。

文治はその後、下総国(千葉県)小金村で小野川仙右衛門に出合い、主人の本当の仇を討ったそうな。
(写真は小泉町に残る親子塚です)

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